中原 鄧州(なかはら とうしゅう、1839年5月15日〈天保… 中原 鄧州(なかはら とうしゅう、1839年5月15日〈天保10年4月3日〉 - 1925年〈大正14年〉2月12日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した臨済宗の僧侶で、諱は全忠(ぜんちゅう)、別号として白崖窟(はっけいくつ)を持つが、広く南天棒(なんてんぼう)の異名で知られる。竹篦(警策)として常に南天の棒を携え、全国の禅道場を巡っては修行者を容赦なく殴打した明治時代屈指の豪僧として知られる。在家者への教導にも力を注ぎ、山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎などが彼の影響を受けた。 天保10年4月3日、肥前国東松浦郡十人町(現在の佐賀県唐津市十人町)にて、唐津藩士塩田壽兵衛惟和と、同藩牧山氏の二女多喜子との子として生まれる。
松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天… 松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天保10年3月2日) - 1913年(大正2年)9月23日)は、明治時代の政治家、実業家。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 越後国刈羽郡柏崎村(現新潟県柏崎市)の町年寄の家に生まれた。原修斎に学び漢学を修めた。町年寄を務め、その後、柏崎県に出仕し学区取締に就任。1879年(明治12年)新潟県会議員に当選し、初代議長となった。ほか自由民権を唱え、北辰自由党に加わった。実業家としては柏崎活版印刷社長などを歴任した。1889年(明治22年)鈴木昌司、西潟為蔵、山際七司らと越佐同盟会を結成し評議員に就任。1890年(明治23年)6月に県会議員を辞職し、同年7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第6区から出馬し当選。
司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839… 司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839年4月11日) - 明治12年(1879年)3月11日)は、医学者・言語学者。愛知医学校校長。佐渡島新町(現:新潟県佐渡市真野新町)生まれ。日本初の独和辞典を刊行した。 諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称。他に、号に「揖軒」「無影樹下」「船楼」があった。本名は「司馬津」。 幼名、島倉伊之助(なお「島倉亥之助」の表記もある。弟に島倉家を譲り、司馬と改姓した。 語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。松本良順、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、特に医学用語の日本語訳を多く作っている。
渡 正元(わたり まさもと、1839年3月8日(天保10年1… 渡 正元(わたり まさもと、1839年3月8日(天保10年1月23日 ) - 1924年(大正13年)1月29日)は、日本の官僚、政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、正三位・勲二等、錦鶏間祗候。旧姓・田中[3]、諱・正範、旧名・六之助、六之介[4]。安芸国(現広島県)出身。
朝田 又七(あさだ またしち、1839年2月11日〈天保9年… 朝田 又七(あさだ またしち、1839年2月11日〈天保9年12月28日〉 - 1914年〈大正3年〉1月4日)は日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・勘解由、旧名・甚吉。横浜市会議長。 三河国渥美郡、のちの愛知県渥美郡七根村(現豊橋市)で、漁農・勘解由甚四郎、りと子夫妻の二男として生まれる。吉田船町(現:豊橋市)の高橋小十郎回漕店に丁稚として奉公し、22歳で独立して下地町に肥料商を開業した。しかし資金繰りが滞り文化元年(1804年)に廃業した。その後、遠江国新居宿(現静岡県湖西市新居町新居)に移り肥料商・尾崎嘉右衛門家で働いた。文久元年(1861年)、肥料買付を主人に勧めて行ったところ多額の損失を蒙り、責任を感じて店を辞し横浜に移った。
武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年… 武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年11月24日) - 1882年(明治15年)1月2日)は、明治期の日本の医師、愛知県議会初代議長、自由民権運動家。民権結社、進取社副社長。明治生命保険(現・明治安田生命保険)創立者の阿部泰蔵は実弟。 1838年(天保9年)三河国八名郡下吉田村(現・愛知県新城市)の医者・豊田鉉剛の次男として生まれたが、18歳の時に、宝飯郡森村(現・豊川市)の武田家の養子となる。 江戸に出て、蘭方医の伊東玄朴が開いた象先堂に入門して医学を学び、1859年(安政6年)に宝飯郡森村に帰り開業する。その後、1869年(明治2年)修道館の教官となり、青少年の教育にも携わった。
大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年… 大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年11月23日) - 1918年(大正7年)4月15日)は、但馬国養父郡の旗本・大藪領主小出英道の家臣。明治時代の司法官僚。東京地方裁判所長、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長。関西法律学校(のちの関西大学)の創立者の1人で名誉校員。 江戸、のちの東京市神田区錦町(現東京都千代田区神田錦町)に生まれる。但馬国養父郡の旗本・大薮領小出英道(播磨守)の家臣であった父・大島貞薫に従い、小出家の江戸屋敷に勤番し、幕末の混乱期には江戸と大薮領の間を往来した。大村益次郎の江戸在中時代の門下生。 1870年(明治3年)弾正少巡察となり、1871年(明治4年)司法少大解部から司法権少判事となる。
高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1… 高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1839年1月5日) - 明治33年(1900年)4月8日)は、上総国山辺郡(現在の千葉県東金市)出身で明治期の大相撲力士・年寄。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重100kg。本名は山崎 (後に一時今井姓)伊之助(後に浦五郎)。現在まで続く高砂部屋の開祖である。 農家の三男で土地相撲で活躍し、20代半ばで妻子ある身ながら江戸へ出て、3代阿武松庄吉の門下に入った。東海大之助の初名で1863年(文久3年)8月場所に初土俵を踏み、1865年(元治2年)に序ノ口についた。1867年(慶応3年)に三段目に昇進、ここで姫路藩のお抱え力士になり「高見山大五郎」の四股名を名乗るようになった。
岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年 - 1904年)… 岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年 - 1904年)は、徳島県出身の漢学者であり教育者、箱館府権判事。邦人として初めて樺太最北端に到達し一周探検を成し遂げた。蝦夷地防衛の重要性を提言し、そのための拓殖実現に向け尽力。また窮北日誌ほか多くの本を著し、韋庵(いあん)と號した。 阿波国美馬郡三谷村(後の徳島県美馬市穴吹町三島三谷)で農業の傍ら医業に携わる家に生まれる。父は周平、母は須藤氏。幼名は文平で字を子博とし、幼い頃より読書を好んだ。1853年(嘉永6年)15歳の時父に連れられ徳島へ行くと、藩の儒学者・岩本贅庵の門下に入り同門の有井進斎と親しく交わる。讃岐国高松藩の藤川三渓の塾で食客となっていた1855年(安政2年)に薩哈隣(サガレン、樺太)の話を聞き、深く感じる所あって後の遠征の発端となる。
田辺 久蔵(田邊 久藏、たなべ きゅうぞう、1839年(天保… 田辺 久蔵(田邊 久藏、たなべ きゅうぞう、1839年(天保10年9月)- 1909年(明治42年)9月19日)は、幕末の村役人、明治期の政治家、実業家。衆議院議員。号・晴雲。 越後国蒲原郡大野地村(新潟県蒲原郡大野地村、北蒲原郡大野地村、堀越村大野地、水原町を経て現阿賀野市大野地)で、庄屋を務める田辺家に生まれた。大野地村庄屋を務めた。 明治維新後、新潟県地券下掛、第二大区小二区戸長、副大区長、地租改正実地検査顧問などを務めた。 政治活動に熱心で立憲改進党に所属し、1888年(明治21年)新潟県会議員に選出され、同常置委員、同副議長を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(新潟県第2区、立憲改進党)で当選し、その後、進歩党に所属し衆議院議員に1期在任した。
森 清之助(もり せいのすけ、1839年(天保10年) - … 森 清之助(もり せいのすけ、1839年(天保10年) - 1911年(明治44年)12月10日)は、日本の地方政治家。稲城村(現・東京都稲城市)の初代村長である。 当時稲城の森家当主だった森素直の養子になる。1880年代に森家当主になり、東長沼村の村長になる。1889年(明治22年)の市町村制発足に際して、複数の村の合併により稲城村が誕生し、初代村長に就任する。1890年(明治23年)にいったん村長を退き、議員に戻った。1901年(明治34年)に再び村長に就任し、1903年(明治36年)に再び退いた。その後間もなく議員を引退し、1911年(明治44年)12月10日に死去。72歳没。[要出典] この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
楠本 章三郎(くすもと しょうざぶろう、1839年(天保10… 楠本 章三郎(くすもと しょうざぶろう、1839年(天保10年) - 1906年(明治39年)12月30日)は、日本の剣術家(神道無念流)。楠本正隆実弟。 楠本章三郎は大村藩士である父楠本直右衛門と母フジの次男として天保10年(1839年)に生まれ。、実兄の正隆と共に文武の業を修めた。藩命で江戸に遊学。剣術は神道無念流練兵館に14歳で入門する。 練兵館では、若年であった章三郎はたいへん可愛がられた。齋藤篤信齋館長をはじめ、齋藤新太郎、章三郎より6歳年上の齋藤歓之助、そしてすでに塾長であった同郷の荘勇雄から大いに錬られていく。章三郎は、篤信齋館長から稲妻(突技)、軽強の霞返による変化躰数多種を伝授。
岩崎 長武(いわさき ながたけ、1839年(天保9年12月)… 岩崎 長武(いわさき ながたけ、1839年(天保9年12月)- 1898年(明治31年)12月27日)は、幕末の土佐藩士。明治期の内務官僚、自由民権運動家。高知県権令。位階は正六位。 土佐国土佐郡高知金子橋(現高知県高知市)で土佐藩槍術指南役・岩崎長幸の二男として生まれる。 1872年、浜松県権参事、同参事を務めた。明治5年11月27日(1872年12月27日)、高知県権令に転任。立志社の民権運動に寛容で、1875年6月の第1回地方官会議で、民会の公選制を主張した。立志社系の人物を県庁に登用したことなどで、保守派の反発を受け1876年8月に権令を罷免された。 その後、民権運動家として活躍した。植木枝盛らと共に土佐国州会結成に尽力し、副議長に就任している。
箕輪 鼎(みのわ かなえ、天保10年1月(1839年) - … 箕輪 鼎(みのわ かなえ、天保10年1月(1839年) - 明治27年(1894年)1月2日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名は睦助、通称は勘三郎。 信濃国佐久郡三塚村(現長野県佐久市)に生まれる。生家は代々酒造業を営み、田野口藩の御用達を務めた。長じて寺子屋師匠となり、村の庄屋となる。龍岡城築城の際には普請奉行に任命された。明治維新後は村の戸長、南佐久郡書記などを歴任し、明治14年(1881年)には長野県会議員となる。同19年(1886年)下高井郡長となり、同23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙に当選した。コレラ防疫や、水害罹災者の救助などに活躍した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
小田切 辰之助(おたぎり たつのすけ、天保10年(1839年… 小田切 辰之助(おたぎり たつのすけ、天保10年(1839年) - 明治37年(1904年))は、幕末から明治時代の日本の製糸家。幼名は録三郎。祖父は武兵衛、父は沖兵衛。 須坂の「西糀屋」あるいは「大糀屋」と呼ばれる小田切家の宗家に生まれる。須坂の小田切氏は滋野氏一族海野氏の出で、幕末まで油屋・糸師・呉服商を営み、須坂藩の御用達を勤めた家。辰之助は安政6年(1859年)の横浜開港より生糸、蚕種の貿易に携わる。慶応年間には「蚕種組合」を設立し、自ら検査役となり、のち明治5年(1872年)川東組の蚕種大総代となる。 のち海外の生糸需要の増加を受け遠藤万作、青木甚九郎らと富岡製糸場を視察し、明治7年(1874年)には水車仕掛けの器械製糸を、さらに翌年には弟の武兵衛と協力し、水車動力による器械製糸を創設した。
小野 隆助(おの りゅうすけ、天保10年4月(1839年) … 小野 隆助(おの りゅうすけ、天保10年4月(1839年) - 1923年(大正12年)9月4日)は、日本の幕末から明治にかけての武士・政治家。筑前共愛公衆会会長。旧姓から三木隆助とも。 筑前国御笠郡、のちの福岡県筑紫郡太宰府町(現太宰府市)で、安楽寺天満宮(神仏分離令前の太宰府天満宮の旧名称)の社家のひとつである小野加賀家に生まれる。父親は小野氏伸、伯父は幕末の勤皇家真木保臣であるところから、和漢、尊王思想を修める。三条実美をはじめとする公卿五名が小野加賀家の邸に隣接する延寿王院に3年余滞在し、その間、小野加賀家も三条実美等の警護の士の宿舎となる。この延寿王院には公卿5名が滞在したことを示す碑があり、門前には西郷隆盛、坂本龍馬が訪れたと記す案内看板がある。
青木善平(あおき ぜんぺい、天保10年〈1839年〉 - 明… 青木善平(あおき ぜんぺい、天保10年〈1839年〉 - 明治4年1月6日〈1871年2月24日〉)は、江戸時代末期(幕末)の福岡藩士。英学者。教育者。 福岡藩士藤井宅之進の子として筑前国博多に生まれ、福岡藩の蘭学者安部龍平の養子となる。幼名は菊次郎。 安政2年(1855年)養父龍平の跡目を継ぎ、龍平を名乗り、福岡藩合薬製作所手伝となる。万延元年(1860年)安部家が断絶し、青木善平と改名。 文久2年(1862年)松下直美らと長崎遊学を果たし、さらに慶応3年(1867年)藩の留学生として、同じ福岡藩の平賀義質、本間岩吉、井上良一、船越慶次、松下直美らとともに、アメリカ船コロラド号で渡米し、ハーバード大学に学んだ。
芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 -… 芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 - 1906年〈明治39年〉8月28日)は、置賜県参事、裁判官、大審院判事。 米沢藩に生まれる。藩主上杉斉憲御近習、刑法局、藩庁大属、権小参事などを経て、1871年(明治4年)11月に権参事、1872年(明治5年)11月に参事となる。1873年(明治6年)5月、参事を免官され、1875年(明治8年)、判事に任官されると、1877年(明治10年)、名古屋裁判所判事、1882年(明治15年)、秋田始審裁判所判事長・同所長、1887年(明治20年)、第一期東京重罪裁判長、1888年(明治21年)、東京控訴院評定官、1889年(明治22年)、福井重罪裁判長を歴任し、のちに大審院判事となった。
島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日… 島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日(文政10年11月8日)- 1907年(明治40年)9月2日)は、幕末から明治時代に活躍した僧、仏教学者である。法名は円真。別名に如縄道人等。 役藍泉(島田浄観)の孫として周防の徳山に生まれる。幼年期より徳山藩に仕え、儒教や神道等宗教に関する事を多く学んだ。後に天台宗本山派修験道教学院の住職となる。 後に藩主の命によって上洛し興譲館で教鞭を執り、勤皇説を唱えた。維新後の1872年(明治5年)に廃藩置県に携わるため還俗し同時期に活躍した福田行誡、獅岳快猛らと共に『大蔵経』の編纂に携わった。その後、教部省や内務省内の社寺局等に勤めるなど現代における仏教の興隆に貢献した。
内藤 耻叟(ないとう ちそう、文政10年9月25日〈1827… 内藤 耻叟(ないとう ちそう、文政10年9月25日〈1827年11月15日〉 - 1903年〈明治36年〉6月7日)は、明治時代に活躍した歴史家。本名は正直。 文政10年(1827年)、常陸国(現茨城県)水戸南町に美濃部茂政の二男として生まれ、水戸藩士・内藤氏を継ぐ。天保12年(1841年)に藩校弘道館に入り、同校において会沢正志斎、藤田東湖らに師事。のちに幼少期の徳川慶喜の学問の相手もつとめている。安政6年(1859年)に藩内の論争に巻き込まれて謹慎の上、隠居を命ぜられる。後に天狗党鎮圧に加わった功績で慶応元年(1865年)に弘道館教授に任ぜられるが、翌年再び藩内の論争に巻き込まれて入獄、その後幕末期の混乱に乗じて水戸を脱出し、放浪生活を送る。
新 貞老(あたらし さだお、1827年11月7日(文政10年… 新 貞老(あたらし さだお、1827年11月7日(文政10年9月18日) - 1900年(明治33年)3月9日)は、幕末の鳥取藩士。明治時代の官吏。国学者。神職。佐渡県権知事、相川県権令。本姓は衣笠。通称は初め田中良達、新庄恒蔵、五郎。変名に池田謙斎。雅号に真木園。 因幡国高草郡村上村に生まれる。新武男の父。国学を飯田秀雄に、紀州にて医学を、和歌を加納諸平に学ぶ。 1860年(万延元年)国書掛となり、国学局教授に転任。1862年(文久2年10月)国事周旋方となり京都に上った。1863年(文久3年)本圀寺事件に参加し、大坂の獄につながれ、1867年(慶応3年)赦されて出獄した。 1868年(明治元年4月)内国事務局書記、12月には権弁官となり、1869年(明治2年2月)奥羽民政巡察使を兼任し奥羽巡回中、7月に佐渡県権知事となる。
武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、1827年11月4日(文… 武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、1827年11月4日(文政10年9月15日)- 1880年(明治13年)1月28日)は、日本の武士(伊予大洲藩士)、科学者、教育者、陸軍軍人。函館時代までは斐三郎、明治政府時代からは成章(しげあきら)の名を使った。竹塘(ちくとう)と号す。 緒方洪庵や佐久間象山らから洋学などを学び、箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設した。明治7年(1874年)3月、陸軍大佐。陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校長(初代)。 文政10年(1827年)、伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)にて誕生。先祖は甲斐武田氏の出で、大洲藩加藤氏に仕えたが、名をはばかって江戸時代は竹田姓を名乗っていたこともある。
安達 喜幸(あだち きこう、1827年〈文政10年〉11月‐… 安達 喜幸(あだち きこう、1827年〈文政10年〉11月‐1884年〈明治17年〉1月10日)は、明治時代の日本の建築技術者。開拓使の建築に関わり、北海道札幌市に現存する札幌市時計台・豊平館・北大第2農場モデルバーンなどの洋風建築を設計・監督した 1827年(文政10年)、江戸芝札の辻(現・東京都港区芝5丁目)で代々大工棟梁職の家に生まれる。初め久治郎と名乗り、薩摩藩など近隣の武家屋敷の建築を請け負いながら棟梁としての力量を磨いて行った。身長6尺豊かな体躯に恵まれ、大勢の職人たちを束ねる統率力と徳望とを兼ね備えていたと評されている。 幕府崩壊後の1868年(明治元年)、多くの江戸の職人たちが「活路を失ひ途方に暮れて」いるなか、安達は薩摩藩関係者の口利きにより横浜方面の土木建築工事に携わり、短期間で天皇行幸の際の行在所を仕上げる。
佐々木 久四郎(ささき きゅうしろう、文政10年7月13日〈… 佐々木 久四郎(ささき きゅうしろう、文政10年7月13日〈1827年9月3日〉- 1895年〈明治28年〉1月13日)は、明治時代の日本の政治家。宮城県黒川郡富谷村2代村長。宮城県第4大区小5区副戸長・宮城県第3大区小1区副戸長・富谷村初代助役を歴任した。位階は正七位。勲等は勲六等。 文政10年7月13日(1827年9月3日)、陸奥国黒川郡成田村(現在の富谷市西成田)に佐々木亀蔵の次男として生まれた。15歳のとき、成田村の佐々木弥右衛門の家を継ぎ、明治5年4月9日(1872年6月10日)の大区小区制施行時には宮城県第4大区小5区の副戸長を高橋運治と務めることになった。その後、村扱や戸長・土木委員・通信委員・学務係・小学校資産管理人等の役職に就いた。
白野 夏雲(しらの かうん、文政10年閏6月26日〈1827… 白野 夏雲(しらの かうん、文政10年閏6月26日〈1827年8月18日〉 - 明治33年〈1900年〉9月8日)は、明治時代の物産研究家、アイヌ語研究家。本名は今泉 耕作(いまいずみ こうさく)。 甲斐国都留郡白野村(現在の山梨県大月市笹子町)の出身。代官の手代の家に生まれたがあまり教育を受けることができず、岩瀬忠震が徽典館の学頭をしていたときにその学僕となって少し書物を読んだ程度という。幕末には江戸に出て、幕府・歩兵の輜重隊の頭と軍事顧問を命ぜられ小川町に駐屯していた。1864年に天狗党の乱が起き、日光の警備を命じられ任地に赴く。1868年に彰義隊が上野に立てこもった時は浅草の蔵を守っていたが、官軍が江戸に入り徳川の残党を追求するに至って、隊を率いて新宿口から甲州へと逃げることができた。
小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827… 小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。 通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗っていた。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。 安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
加納 宗七(かのう そうしち、1827年7月16日(文政10… 加納 宗七(かのう そうしち、1827年7月16日(文政10年6月23日) - 1887年(明治20年)5月5日)は、江戸・明治期に活動した日本の商人。 文政10年6月23日(1827年7月16日)、和歌山城城下町の北ノ新地分銅町(現在の和歌山市北ノ新地分銅町)に生まれる。生家は紀州藩の御用商人宮本家で、酒造業や廻船業を営んでいた。結婚後、宗七は姓を加納と改めた。宗七は倒幕運動に参加し、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬が暗殺されると、三浦休太郎が坂本龍馬殺害に関与したとの情報を海援隊にもたらし、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、陸奥宗光らとともに三浦を襲撃(天満屋事件)。
千本 久信(せんもと ひさのぶ、1827年7月13日(文政1… 千本 久信(せんもと ひさのぶ、1827年7月13日(文政10年6月20日) - 1885年(明治18年)10月15日)は、幕末の福井藩士、明治期の官僚・実業家。広島県権参事(未赴任)。初名・弥三郎。 越前国足羽郡福井下江戸町(現:福井県福井市)で、福井藩士・千本久備の長男として生まれる。天保2年4月5日(1831年5月16日)実父・久備の危篤に伴い、千本家は養父として小林久達(藤左衛門、東岫)を迎える。嘉永6年7月20日(1853年8月24日)江戸での砲術調練修行を命ぜられ、その後、兵科懸り、兵科局詰、兵科取調方などを務める。文久2年3月29日(1862年4月27日)書院番格として江戸詰となり、以後、松平春嶽の側近として活躍。
川上 冬崖(かわかみ とうがい、文政10年6月11日〈182… 川上 冬崖(かわかみ とうがい、文政10年6月11日〈1827年7月4日〉 - 明治14年〈1881年〉5月3日)は、幕末から明治前期にかけて活躍した南画家、洋風画家、図画教育者である。諱は寛(ひろし)、幼名は斧松、字は子栗、通称は万之丞。 文政10年(1827年、文政11年〈1828年〉生まれとも言われる)、信濃国高井郡松代藩領福島新田村(現長野県長野市)に山岸瀬左衛門の末子として生まれる。母の実家である墨坂神社宮司方から須坂藩藩校立政館に学ぶ。弘化元年(1844年)江戸に出て上野寛永寺東叡院の小従となり、同院に出入れしていた円山四条派の絵師大西椿年に写生画を学んだ。嘉永4年(1851年)に幕府御家人株を購入、川上仙之助の養子となり、以後川上姓を名乗る。
木内 喜八(きうち きはち、1827年6月5日(文政10年5… 木内 喜八(きうち きはち、1827年6月5日(文政10年5月11日) - 1902年(明治35年)8月19日)は、幕末から明治時代に活躍した日本の木工芸家である。 号は梅里道人、幼名は友吉。 江戸の深川(現在の東京都江東区)に船大工の棟梁の設計に携わった家系の子として生まれる。初めは山田流の琴職人であった重元平八の門人となり、指物象嵌について学ぶ。その後は家業であった船大工や鞘、西洋の鉄砲等多くの制作に携わった。 後に木細工の製作に専念し、同時期に加賀藩の前田家に仕える。1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会に喜八の作品が出品され、次回の1881年(明治12年)に開催された第2回内国勧業博覧会に2回連続で出品された。
荒川 亀斎(あらかわ きさい、文政10年4月25日(1827… 荒川 亀斎(あらかわ きさい、文政10年4月25日(1827年5月20日) - 明治39年(1906年)10月14日)は、島根県松江市横浜町出身の彫刻家である。名は明生、通称は重之輔。木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある。 幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった。彫刻だけでなく、日本画、国学、書道、金工などを幅広く身につけた。1893年シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した。1890年小泉八雲と出会い、その後も交流が長く続いた。1906年死去。洞光寺に葬られた。 明治期に西洋から導入された「美術」という概念のもと成立した近代木彫の分野では、高村光雲がその最初の人物とされることが多い。
下村 善太郎(しもむら ぜんたろう、文政10年4月28日〈1… 下村 善太郎(しもむら ぜんたろう、文政10年4月28日〈1827年5月19日〉- 1893年〈明治26年〉6月4日)は、明治時代の生糸貿易商。初代前橋市長。 文政10年(1827年)4月28日、上野国群馬郡前橋本町(現前橋市)で小間物屋、三好屋を営む下村重右衛門の子として生まれる。幼名定之丞。17歳の時に家業を継いで善右衛門と称した。しかし賭博や米相場に手を出して失敗、大きな損失を出す。この頃、大前田栄五郎から博奕にのめりこむのを戒められたとの逸話がある。 嘉永3年(1850年)9月に妻子を連れて武蔵国八王子に転居し再起を図る。その後は横浜開港で八王子が生糸取引中継地となった影響も受けて、生糸商として成功した。
中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(182… 中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(1827年5月14日) - 大正2年(1913年)8月4日)は、日本の書家。明治の三筆の一人。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。号は梧竹、別号に剣閣主人など。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。 肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。幼い時に草場佩川に師事する。19歳の時に藩命により江戸に留学し、山内香雪、市河米庵の門に入って書を学んだ。 1877年(明治10年)清国の余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)から中国の碑版法帖の提供を受け、梧竹の六朝書の研究が始まった。1882年(明治15年)梧竹は帰国する余元眉とともに清国に渡り、余元眉の師潘存のもとで古碑、拓本の蒐集・研究に没頭する。
岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月… 岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月15日(1827年4月10日) - 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。 文政10年(1827年)、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となる。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾気吹舎の門人となった。 安政5年より始まる安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩する。安政6年(1859年)11月、精忠組に参加。文久2年(1862年)、伏見において銕胤嫡男平田延胤と面会し、島津久光挙兵上京の目的や寺田屋騒動の顛末について延胤に報告した。
成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 … 成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 - 明治35年(1902年)2月5日)は、書家である。字は子直。通称は久太郎。大域、賜硯堂主人と号する。本名は温(ゆたか)。 遠江国佐野郡日坂(現・静岡県掛川市日坂)出身。書を母方の祖母巣甫に学ぶ。明治初年、東京に出て、漢学を安井息軒・芳野金陵・川田甕江に学ぶ。安井の塾にいたとき、安井の作詩を代書した。明治8年(1875年)、宮中に出仕し、明治12年(1879年)、勅命によって王羲之の『集字聖教序』を模して献じ、明治天皇はこれを嘉して楠木正成の遺物である尚方の硯を賜り、その居に賜硯と扁した。ついで諸葛孔明の「出師表」の真草2幅、明治14年(1881年)、十体書幅を献じた。
岩倉 槇子(いわくら まきこ、旧姓:野口槇子、文政10年(1… 岩倉 槇子(いわくら まきこ、旧姓:野口槇子、文政10年(1827年) - 明治36年(1903年)2月23日)は、岩倉具視の継室。 膳所藩の勘定組・野口為五郎賀代の次女として膳所(現滋賀県大津市)に生まれる。兄の賀柔が岩倉具視に仕えていたことから、兄は身辺警護を、自身は身の回りの世話をするようになる。岩倉が志士に追われていた時は膳所の実家に匿うなど、不遇の時代を通じて仕える。明治7年(1874年)、具視の正室が逝去したのち継室となり、二男三女をもうける。長男の岩倉具定の直系の孫が小桜葉子(岩倉具子)で、その息子で俳優の加山雄三は玄孫にあたる。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
副島 義高(そえじま よしたか、文政10年(1827年) -… 副島 義高(そえじま よしたか、文政10年(1827年) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士。佐賀の乱の首謀者の一人。佐賀の七賢人の一人島義勇の弟。副島謙助とも。副島種臣は母方の従兄弟に当たる。 文政10年(1827年)、佐賀城下の精小路に島義勇、重松基吉の弟として生まれる。兄たちとともに藩校弘道館で学び、長じて副島家の養子となる。 川副三郷(現在の佐賀市川副町)、与賀二郷(同佐賀市東与賀町など)を治める代官を務めたが、明治維新後進められた政策により士族の権利が縮小されるにつれ、不平を募らせた佐賀士族のリーダー的な存在となる。明治6年(1873年)4月には山岡鉄舟に対し建白書を提出するなどしたが効果はなく、明治7年(1874年)2月佐賀の宝林院にて不平士族を結集し、天皇と鍋島家の安全を守ることを掲げた「憂国党」を結成する。
安里 安恒(あさと あんこう、1827年 - 1903年、1… 安里 安恒(あさと あんこう、1827年 - 1903年、1828年 - 1906年の説もあり)は、琉球王国時代から明治にかけての沖縄の唐手(現・空手)家。首里手の大家の一人として知られる。 安里安恒は、1827年、琉球王国の首都・首里に生まれた。号は麟角斎、称号は親雲上(ペークミー、上級士族)。王国時代の正式名称は安里親雲上安恒である。毛氏安里家の元祖は、尚清王の三司官を務めた池城親方安基(? - 1567年)であり、安里家はその直系である池城家の支流(分家)にあたる。安里家は、代々、首里と那覇の中間にある真和志間切安里村(現・那覇市安里)を治める脇地頭(小領主)であり、その家格は御殿(ウドゥン)に次ぐ、殿内(トゥンチ)という名家であった。
後藤 五郎治(ごとう ごろうじ、1827年(文政10年1月)… 後藤 五郎治(ごとう ごろうじ、1827年(文政10年1月)- 1897年(明治30年)10月9日)は、明治期の政治家。衆議院議員。名・畯、字・士喜、号・稼亭。五郎次の表記有り。 佐渡国加茂郡、のちの新潟県加茂郡新穂村(佐渡郡新穂村舟下を経て現佐渡市)で生まれた。北君養、圓山溟北に師事し漢学を修めた。 戸長、学区取締兼衛生取締、村長、新潟県会議員、佐渡中学校(現新潟県立佐渡高等学校)監事などを務めた。教育振興、相川鉱山開発などに尽力した。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(新潟県第9区、大手倶楽部)で当選し、その後、進歩党に所属して、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1897年10月に死去した。
小谷田 勝五郎(こやた かつごろう、文化12年10月10日〈… 小谷田 勝五郎(こやた かつごろう、文化12年10月10日〈1815年11月10日〉- 明治2年12月4日〈1870年1月5日〉)は、幕末、明治時代の農家。平田篤胤の著書『勝五郎再生記聞』の題材となった人物として知られる。 人が生まれ変わるという伝承は世界各地にあるが、小谷田勝五郎の話は、当事者が実在し、生没年や住んでいた場所、墓所などを明確に確認できるという点で、他の生まれ変わり伝承とは一線を画する。 武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)の農家、小谷田源蔵の息子として生まれる。 1822年(文政5年)のある夜、突然家族に「自分はもとは程久保村(現・日野市程久保)の須崎藤蔵という子どもで、6歳の時に疱瘡で亡くなった」と言い、あの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語った。
水毛生 伊余門(みもう いよもん、文化12年(1815年)9… 水毛生 伊余門(みもう いよもん、文化12年(1815年)9月25日 - 明治23年(1890年)6月)は、幕末から明治時代にかけての農事指導者。石川県石川郡野々市村(現・野々市市)出身。荒地の開墾や養蚕の普及、寺子屋による教育活動などに尽力し、明治11年(1878年)に藍綬褒章を受章した 。 水毛生家は江戸時代から村役人を務めた家柄で、代々の当主は伊右衛門(伊余門)を名乗り、地域の指導者であると同時に文化人でもあった。屋敷は切妻妻入の農家形式に町家の要素を備える独特の構造であり、茶室「可夕亭」をはじめ京風の数寄屋造りが施されている。大正期には茶室の増築も行われ、庭園には加賀藩主前田利常が馬をつないだと伝わる大杉があった。
白石 照山(しらいし しょうざん、文化12年8月10日(18… 白石 照山(しらいし しょうざん、文化12年8月10日(1815年9月12日) - 1883年10月3日)は、江戸時代後期の儒学者、漢学者。初名は牧太郎、通称は五郎右衛門、のちに常人。雅号は照山、または素山。名は牧。字は伯羊。 中津藩の下士で祐筆の久保田武右衛門(号は勇閑)の長男として生まれるが、白石団右衛門の養子となる。藩校・進脩館は上士の子弟でなければ入学できない風潮となっていたため、進脩館の教授野本白巌の私塾で学び、その優秀さから藩校に推薦された。同校では若くして督学に任命された。 1838年(天保9年)督学の職を辞して江戸に上り、はじめは古賀侗庵に師事し、翌年に昌平黌に入学する。その優秀さから、書生を牽引する役職である斎長詩文掛に任じられた。
美泉 定山(みいずみ じょうざん、文化12年1月7日(181… 美泉 定山(みいずみ じょうざん、文化12年1月7日(1815年2月15日) - 明治10年(1877年)11月4日)は、備前国周匝村(現在の岡山県赤磐市)出身の僧侶である。のちに北海道に渡って広く布教活動を行った。札幌市南区の定山渓は、彼の名に由来する。「美泉」という苗字は明治初期の法律に従うため、定山があえて作った姓である。 文化12年(1815年)、備前国曹洞宗の名刹妙音寺の二男として生まれる。17歳の時に実家を出て、高野山の道場で修行を積んだ後に、北上して仙台、出羽三山、秋田の太平山三吉神社などに滞在し、布教活動を行う。 1853年(嘉永6年)に蝦夷地に渡り、1866年(慶応2年)に張碓(はりうす)から2人のアイヌ人の先導のもと内陸に入り温泉を発見した。
一力 長五郎(いちりき ちょうごろう、1815年(文化12年… 一力 長五郎(いちりき ちょうごろう、1815年(文化12年) - 1859年9月21日(旧暦8月25日))は、常陸国河内郡若柴村(現在の茨城県龍ケ崎市若柴)出身で木瀬部屋に所属した大相撲力士。本名は山崎 安好(やまざき やすよし)。 常陸国河内郡若柴村で生まれる。1837年10月場所において序ノ口から初土俵を踏み、1849年11月場所で新入幕を果たした。結果的に三役昇進は果たせなかったものの、劔山谷右エ門、小柳常吉に強く、両者には無敗だったことから江戸相撲の中では「大物食い」として名を馳せた。1859年に奥州・一ノ関で行われた巡業に参加中、急逝した。44歳没。死因は病死または斬殺と伝わる。 出身地である龍ケ崎市若柴の星宮神社には、一力が奉納したと伝わる灯篭2基が残っている。
飯田 新七(いいだ しんしち、享和3年(1803年) - 明… 飯田 新七(いいだ しんしち、享和3年(1803年) - 明治7年(1874年)7月29日)は、江戸時代後期の商人。近江商人飯田家の婿養子となり、髙島屋・高島飯田の礎を築いた。 新七は、享和3年(1803年)越前国敦賀(現福井県敦賀市)中野宗兵衛の子として生まれ、幼名を鉄次郎と言い、文化11年(1814年)京に出呉服商角田呉服店に丁稚奉公するにおいて、名を新七とした。又、諱を宏遠と言う。 近江国高島郡南新保村(現滋賀県高島市今津町南新保)の出身の飯田儀兵衛は、京都烏丸松原上ル(現京都市下京区)において米穀商『高島屋』を営んでいた。子供は娘「秀」一人であった儀兵衛は、京三条大橋東入ル(現京都市東山区)の角田呉服店の奉公人新七の仕事振りに感心し、角田呉服店が倒産したのを契機に文政11年(1828年)新七を娘婿として迎え入れた。
柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、寛政3年(1791年)/… 柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、寛政3年(1791年)/ 寛政5年(1793年) - 天保13年11月17日(1842年12月18日))は、下野国(現在の栃木県)出身の元大相撲力士。 現在の栃木県小山市鏡出身。本名は木村宗五郎。 文化7年(1810年)、4代伊勢ノ海(大関・柏戸宗五郎)の伊勢ノ海部屋に入門。入門時は鏡嶋の四股名を名乗り、文政8年(1825年)10月場所では外ヶ濱の四股名で入幕。文政13年(1830年)、師匠の5代伊勢ノ海(大関・柏戸利助)の死没に伴い、同年3月場所より四股名を部屋伝来の柏戸に改めるとともに、二枚鑑札で部屋の師匠を兼ねる。 最高位は天保3年(1832年)の前頭2枚目。
鳥井崎 与助(とりいざき よすけ、1791年〈寛政3年〉 -… 鳥井崎 与助(とりいざき よすけ、1791年〈寛政3年〉 - 1830年〈文政13年〉)は、柏戸部屋及び伊勢ノ海部屋に所属した力士。 本名は高橋 伝吉。身長・体重とも不明。陸奥国津軽郡(現在の青森県五所川原市)藻川出身。正確には津軽鉄道線毘沙門駅付近に当たる。 最高位は西前頭6枚目。 同郷の伊勢ノ海利助(後の柏戸利助。大関。5代伊勢ノ海)の誘いを受け、1812年11月場所で初土俵(東二段目5枚目だったため、十枚目付出扱いだった)を踏んだ。十両時代は5割にやや満たない勝率で推移したが、1817年1月場所では8戦全勝の優勝相当成績を残した。初土俵・新十両から12年後の1824年10月場所で漸く新入幕を果たした。
戸田川 鷲之助(とだがわ わしのすけ、1791年(寛政3年)… 戸田川 鷲之助(とだがわ わしのすけ、1791年(寛政3年)/1792年(寛政4年) - 1819年(文政2年)5月3日(旧暦4月10日))/1824年(文政7年)7月21日(旧暦6月25日)は、上総国埴生郡(現在の千葉県茂原市綱島)出身の元大相撲力士。本名は井桁 秀五郎(いけた しゅうごろう)。 出生地は上総国埴生郡。1808年(文化5年)10月場所において戸田川 鷲之助の名で松江藩の抱え力士として初土俵を踏むと、いきなり西小結に付け出される。数え年17歳(満16歳)での三役となり、記録に残る三役昇進年齢としては史上最年少記録である。しかしこれには、義父だった相撲会所頭取・錣山喜平治の強い意向があったと伝わる。
井田 磐山(いだ ばんざん、明和4年〈1767年〉 - 文久… 井田 磐山(いだ ばんざん、明和4年〈1767年〉 - 文久3年3月18日〈1863年5月5日〉)は日本の書家。名は直、号は磐山、俗称は要人。 書をもって僧位の最高位である「法印」に補任された。 大篠津村(現鳥取県米子市大篠津町)の本池家に生まれ、養われて佐斐神村(現境港市佐斐神町)の井田家に入った。 幼いときから書に親しみ、若くして郷里を出て、京都で苦学し書法の奥義を体得した。書をもって諸方に遊び、東海、北陸、奥州に足跡を残す。中でも宮城県志田郡古川の地では数年もとどまり、多くの子弟に書を教えている。 80歳を過ぎてからふたたび京都へ至り比叡山延暦寺に身をよせた。 1848年5月14日書をもって法橋に叙せられ同年7月1日比叡山曼陀羅院の額を書しその功によって法眼に任ぜられた。
柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、1767年(明和4年) … 柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、1767年(明和4年) - 1818年2月18日(文化15年1月14日))は、江戸時代の大関。武蔵国足立郡(現・草加市)出身。本名は大久保 清五郎。身長184cm、体重116kg。雷電爲右エ門の好敵手として名があるが、自身も強豪大関の一人だった。享保2年2月関脇昇進。 同郷の縁で3代伊勢ノ海の弟子となった。当時の力士としては珍しく序ノ口で初土俵(天明6年(1786年)11月)。若名乗りは滝ノ音。新入幕は寛政7年(1795年)11月。新入幕の場所、雷電不在場所ではあったが、8勝1敗1休で優勝相当成績を残す。寛政10年(1798年)3月場所4日目、師匠の急死によって二枚鑑札で4代伊勢ノ海を襲名。