スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1… 松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1972年1月31日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。日本におけるスポーツ中継の実況アナウンサーの草分け。大相撲、東京六大学野球、職業野球、競馬などのスポーツ中継の実況アナウンスで人気となった。 松内則定の三男として、東京市本所区(現:東京都墨田区)で生まれる(兵庫県士族の家系であったため、兵庫県出身と書かれた資料もある)。大阪府立北野中学校(旧制)から慶應義塾大学部理財科(現:慶應義塾大学経済学部)を経て日本電燈へ入社するが、1925年にNHKへ入局してアナウンサーに転職。東京放送局に赴任した。 野球中継においては、「ピッチャー振りかぶりました」「打ちも打ったり取りも取ったり」というような、動作を表現する典型を数多く創造した。
山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - … 山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - 1973年7月28日)は、日本の考古学者。文献史料に記載されていたが所在地が不明のままであった難波宮の研究を行い、難波宮の大極殿跡を発掘した。
田村 木国(たむら もっこく 1889年1月1日 - 196… 田村 木国(たむら もっこく 1889年1月1日 - 1964年6月6日)は、和歌山県出身の俳人・新聞記者。本名省三。笠田町(現かつらぎ町)生。大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校) 卒、三高文科を中退。1910年より大阪朝日新聞社で記者として勤め、のち大阪毎日新聞社に移った。 中学時代より句作を始め、大正初期に行友李風らと洗堰吟社を起こす。1917年、高浜虚子に師事。河東碧梧桐にも師事した。1922年、野村泊月、皆吉爽雨らとともに「山茶花」創刊。1934年、「ホトトギス」同人。1946年、休刊していた「山茶花」を復刊し主宰。「狩くらは大月夜なり寝るとせん」など、句に「大」の字を好んで用い、大らかな写生句を詠んだ。
笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - … 笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - 1978年12月19日)は、日本の植物学者。東京帝国大学在学中から桜の研究を始め、特にサトザクラ、ヤマザクラなどの日本古来種の保護育成に尽力し、「桜博士」といわれた。 1887年1月15日、大阪市北区堂島船大工町に生まれる。西天満小学校、盈進高等小学校、堂島中学校(現北野高校)、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。在学中より独学で桜の研究に打ち込む。卒業後は犬養毅の秘書をした後、兵庫県宝塚市切畑長尾山の麓(現在のJR西日本福知山線武田尾駅近辺)に桜の研修を行う演習林「亦楽山荘」を造園。品種保存などを研究した。没後は荒れて雑木林となったが、親族より跡地を寄贈された宝塚市が1999年に里山公園「桜の園」として再整備。
古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)… 古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)10月15日 - 1953年(昭和28年)3月23日)は、日本の実業家で、第七代住友総理事である。第2次大戦の敗戦により、住友財閥が解体され、住友最後の総理事となる。 京都府葛野郡衣笠村字等持院(現・京都市北区等持院北町)の寺侍井上数馬・エンの五男として生まれる。1899年(明治32年)14歳の時、大阪製鎖所を経営する古田敬徳の養子となり、大阪府一中(現・大阪府立北野高等学校)に進んだ。六高を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学を卒業し、住友総本店に入社する。 入社以来、ほとんど住友伸銅所の技術畑を歩き、1935年(昭和10年)の住友金属工業誕生とともに、専務取締役に任ぜられ、翌1936年(昭和11年)には合資理事として住友の大幹部の1人となった。
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28… 八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東北帝国大学、大阪帝国大学教授、内閣技術院総裁を歴任し、東京工業大学、大阪帝国大学、武蔵工業大学で学長を務めた。八木アンテナ株式会社社長として企業家、参議院議員として政治家の経歴も持つ。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。栄典は従二位。 電気工学を専門とし、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。東北帝国大学や大阪帝国大学での研究指導、教育や、東京工業大学、武蔵工業大学などで学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍した。
西岡 一雄(にしおか かずお、1886年 - 1964年2月… 西岡 一雄(にしおか かずお、1886年 - 1964年2月6日)は、日本の登山用具店主 登山家。 滋賀県大津市生まれ。大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)卒、第三高等学校中退。貿易語学校でロシア語を学び、大阪税関所に勤務。中国・青島税関勤務を経て、1921年、大阪にマリア運動具店を開店、東京にも進出。1924年には海野治良と東京に好日山荘を開く。同年、藤木九三、水野祥太郎とロック・クライミング・クラブ(RCC)を創設。1961年読売新聞社主催の第一回立山集会で「山の恩人」として表彰された。宮崎県で死去。
清野 謙次(きよの けんじ、1885年8月14日 - 195… 清野 謙次(きよの けんじ、1885年8月14日 - 1955年12月27日)は、日本の医学者、人類学者、考古学者、考古学・民俗学資料の収集家。生体染色法の応用で組織球性細胞系を発見したことで知られる。 1885年、岡山県医学校長兼病院長の清野勇の長男として生まれる。父の勇は東京帝国大学医学部第一期卒業生で、のちに大阪医学校の校長・病院長も務め、臨床医学の大家として知られ財を成した。祖父の清野一学は沼津藩医。謙次は北野中学、第六高等学校 (旧制)を経て、考古学の道を希望したが父親が許さず京大医学部へ進学。 1909年、京都帝国大学医学部を卒業。藤浪鑑の病理学教室へ助手として入り、生体染色の研究を始める。
右近 福次郎(うこん ふくじろう、1883年〈明治16年〉1… 右近 福次郎(うこん ふくじろう、1883年〈明治16年〉10月4日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家。族籍は福井県平民。 福井県・右近権左衛門の男。右近和作の養弟。1901年、大阪府立北野中学校卒業。慶應義塾に学ぶ(1927年に特選)。1918年、分家する。 日本海上保険常務、同専務取締役、朝鮮電気社長、右近商事、元山水力電気、南朝鮮水力電気各取締役、日海興業、大阪酸水素、和歌山紡績各監査役等をつとめる。 実業界に入り日本海上保険、朝鮮電気、元山水力電気等の重役だった。兵庫県在籍で、住所は神戸葺合町、武庫郡住吉村室ノ内(現・神戸市東灘区住吉本町)。
林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 194… 林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 1947年10月26日)は、経済学者であり、教育者でもある。早稲田大学大学部法学科卒業後、古河鉱業に入社し、欧米を視察。帰国後、早稲田大学政治経済学部教授、早稲田大学総長代理を勤めた。岡山県高梁市出身。 明治16年(1883年)、岡山県上房郡高梁町八幡(現・高梁市)にある藤井種次郎の二男として生れ、母の実家・林家を継ぐ。地元の旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)から大阪府立第一中学校(現・大阪府立北野高校)に転校、東京専門学校高等予科を経て、明治38年(1905年)早稲田大学大学部法学科を卒業、古河鉱業に入社、労働問題の調査研究にあたる。 入社後の大正9年(1920年)欧米を視察、翌年帰国し、母校の早稲田大学政治経済学部で、社会政策や工業経済の講義に当たる。
松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12… 松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12日 - 1958年(昭和33年)7月17日)は、明治末から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)、奈良県宇陀郡松山町長(3期)、同郡大宇陀町長(1期)。 奈良県宇陀郡松山上中町(松山町大字上中、大宇陀町を経て現宇陀市大宇陀上中)で、林業・松尾徳三郎の二男として生まれた。1903年(明治36年)大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を卒業し、大和銀行(現南都銀行)に入行した。1909年(明治42年)奈良水力電気の創立に参画した。1911年(明治44年)9月、家督を相続した。奈良県農会議員、宇陀郡農会長、同教育会長に就任。実業界では、大和銀行監査役、大和電気専務取締役、大正水力電気取締役、宇治川電気取締役、三芳索道取締役、信貴生駒電気鉄道(のち信貴生駒電鉄)取締役、奈良県農工銀行取締役、南都銀行取締役、大和貯蓄銀行取締役、吉野銀行監査役、奈良信託監査役、新日本工業取締役、松尾合名会社代表社員などを務めた。
上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月… 上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月28日 - 1970年(昭和45年)4月19日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社主。 1882年、朝日新聞社社主・上野理一の長男として大阪市東区平野町に生まれる。北野中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒。大学院在籍のまま日本勧業銀行に入行するが、1910年に朝日新聞社に入社。営業部長、副社長を歴任。妻は九鬼隆義の娘の梅子(琴の奏者として知られる。戒名は慈徳院殿仁讓琴室梅箏大姉) 村山龍平社長のもとに専務取締役、取締役会長を経て1933年に社長就任。廃止されていた主筆制を復活させる。1946年、全国中等学校野球連盟(現日本高等学校野球連盟(高野連))設立、初代会長に就任。
片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月… 片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月26日 - 1949年(昭和24年)3月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。 東京府神田駿河台(現:東京都千代田区)で海軍主計官・片岡直輝の長男として生まれる。1893年(明治26年)父の大阪府書記官就任に伴い大阪に移住。大阪府第一中学校、第七高等学校造士館を卒業。東京帝国大学法科大学に入学したが、京都帝国大学法科大学に転じ、1910年(明治43年)7月、同大学を卒業した。 卒業後、父が役員を務めていた阪堺電気軌道に入社し、一社員として現場での働きを経験して庶務課長に昇進。3年ほど務め、今後の経営者としての働きのため金融の経験が不可欠と考え、近江銀行に転じた。
杉江 秀(すぎえ ひいづ、1881年2月10日 - 1943… 杉江 秀(すぎえ ひいづ、1881年2月10日 - 1943年2月21日)は、20世紀前半に活動した日本の作曲家。名前は「しゅう」と音読みされることが多い。石川県金沢市出身。 1881年(明治14年)、金沢市の名家に生まれる。尋常小学校を卒業後に大阪へ移り、大阪府第一中学校(現在の大阪府立北野高等学校)13期卒業の後、東京音楽学校へ入学し甲種師範科で同じ旧制中学の先輩に当たる多梅稚に師事する。 1904年(明治37年)に東京音楽学校を卒業し、富山県師範学校の教諭となる。1907年(明治40年)に『越中唱歌』を作曲、清明堂から刊行した。1922年(大正11年)に大阪府立市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)音楽教諭となり、1928年(昭和3年)に「祝日大祭日唱歌」として作詞・作曲が公募された「明治節」の作曲部門で入選する。
清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1… 清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1月7日 - 1935年(昭和10年)3月1日)は、日本の海軍軍人。海兵26期、海大甲種5期首席。最終階級は海軍中将。 清河公廉の長男として大阪・堺に生まれる。本籍鹿児島県。北野中学校7期生。1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「浅間」分隊長として出征する。黄海海戦後、第1艦隊参謀に抜擢され日本海海戦を経て連合艦隊参謀となる。1907年12月、海軍大学校(甲種5期)を首席で卒業した。 伏見宮博恭王付武官、「音羽」副長、横須賀予備艦隊参謀、軍令部参謀、兼東伏見宮依仁親王付武官、海大教官、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第1課長)、兼参謀本部員、欧米出張、国際連盟海軍代表随員、ワシントン軍縮会議随員などを歴任し、1922年12月、海軍少将に進級。
亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日… 亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の国語学者、書誌学者。 兵庫県印南郡曽根村(現・高砂市曽根町)に生まれる。父・猪之介、母・チヨ。母方の祖父は亀田五一郎といい、幕末に塩田開拓などで成功し、南画家の田能村直入などの文人と交流のあった素封家であった。 大阪尋常中学校から熊本の第五高等学校を経て東京帝国大学文学部に進学。友人に新村出がいる。大学を卒業後は恩師・上田萬年が主事を務めていた国語調査委員会嘱託として実務にあたった。1908年に七高へ赴任(同僚に山田準・武藤長平・伊波普猷らがいた)。その後、大阪外国語学校・大谷大学に教授として勤務した。
三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日… 三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日 - 1923年〈大正12年〉9月1日?)は、日本の詩人。本名は三木 猶松、他の筆名に天友、未奇庵、雪衣、楽天遊などがある。 1875年3月12日、兵庫県赤穂市加里屋に、省六・恒子夫妻の次男として生まれる。 1879年に大阪へ移り、大阪府立北野中学校を経て、1894年に東京専門学校に入学。在学中に『早稲田文学』をはじめとした各新聞・雑誌で詩を発表する。後に病気のために退学。 1897年、浪華青年文学会の客員として、機関誌『よしあし草』に寄稿された詩の選者となる。1900年3月、須藤南翠、水谷不倒、菊池幽芳などと関西文学同好会を結成する。
植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日… 植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日 - 1962年〈昭和37年〉9月11日)は、日本の陸軍軍人。陸士10期、陸大21期。陸軍大将正三位勲一等功三級。 大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。陸軍軍吏、植田謙八の二男として生れる。北野中学校、東京高等商業学校(現:一橋大学)を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、騎兵少尉任官。陸士生徒隊附、騎兵監部員などを経て、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業。第18師団参謀、第16師団参謀、陸軍省軍務局課員、参謀本部附(欧州出張)などを歴任。シベリア出兵に際しては、浦塩派遣軍参謀として出征した。
繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16… 繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16日 - 1933年〈昭和8年〉3月2日)は、日本の詩人、英文学者。早稲田大学で4人目となる博士号授与者。本名は繁野 政瑠(しげの まさる)、他の筆名に繁野 狂美がある。 1874年2月16日、現在の徳島市下助任町に、徳島藩士の繁野傑()・イサ夫妻の長男として生まれる。 徳島市立助任尋常小学校、川島尋常小学校、公立寺島小学校、徳島市立徳島高等小学校を経て、1889年に徳島県立徳島尋常中学校に入学。祖母の死を機に大阪に移り、1891年に大阪市立尋常中学校に転学。在学中に熊本謙二郎から英語を教わる。1893年9月に第三高等学校に入学するも、後に病気退学。
長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治… 長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治3年10月26日)- 1937年(昭和12年)1月22日)は、日本の経営者。鐘淵紡績社長を務めた。 兵庫県出身。1885年に府立大阪中学校(現大阪府立北野高等学校)初等中等科を卒業。1891年に高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業。県立神戸商業学校教諭を経て、1895年に同校長事務取扱となる。 内外綿神戸出張所長、孟買出張所主任/副支配人を経て、1900年に鐘淵紡績に入社。1916年取締役。1922年には平生釟三郎の甲南高等学校(現甲南大学)設立を支援。1925年常務取締役。1928年副社長。1930年に社長に就任。 1933年川崎造船所取締役、本山村会議員。
仲小路 廉(なかしょうじ れん、1866年8月12日〈慶応2… 仲小路 廉(なかしょうじ れん、1866年8月12日〈慶応2年7月3日〉- 1924年〈大正13年〉1月17日)は、日本の検察官、司法・逓信・内務官僚、貴族院勅選議員、枢密顧問官。旧名・喜久三。号は靄軒。 周防国徳山藩下士・仲小路休量の二男として生まれる。大阪府立中学を経て、府立開成学校卒業後、1887年(明治20年)に高等文官試験司法科の前身である判事検事登用試験に合格。そののち東京控訴院検事兼司法省参事官などを経て、行政裁判所評定官を務めた。こののち逓信省に転じて大臣官房長を務め、内務省に出向して土木局長、警保局長を歴任した後、1910年(明治43年)には逓信次官となり官僚としての頂点を極めた。
中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1… 中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1866年3月13日) - 昭和5年(1930年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→無所属)、弁護士。 京都に中西新左衛門の長男として生まれる。大阪府立中学校(現大阪府立北野高等学校)、ついで神戸法律学校を卒業。裁判所書記を経て、1887年(明治20年)に判検事登用試験に合格。判事試補として福井始審裁判所に配属された後、1889年(明治22年)に判事となって、敦賀治安裁判所、増毛治安裁判所、札幌地方裁判所で勤務した。1891年(明治24年)、官を辞して札幌で弁護士を開業し、1894年(明治27年)には札幌弁護士会長に選出された。
有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年1… 有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年11月13日) - 大正10年(1921年)5月17日)は、日本の法学者、社会学者。法学博士。文学博士。姓はあるがとも。
林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月… 林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月23日) - 昭和14年(1939年)6月27日)は、明治・大正期の外交官・男爵。会津藩出身。林又三郎の子。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。位階・勲等は従一位勲一等。
熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(18… 熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(1829年1月19日) - 大正2年(1913年)3月8日)は、日本の江戸時代末期から大正時代にかけての日本画家、芸州藩士。父は賀茂[要曖昧さ回避]の神職・山本季金。幼名を藤太郎と言った。
SoCo(ソーコー、6月12日 - )は、日本のラジオパーソ… SoCo(ソーコー、6月12日 - )は、日本のラジオパーソナリティ、司会者。大阪府大阪市北区出身。株式会社セイ所属。オイルショックの頃に生まれた第二次ベビーブーム世代。 中学時代に『MBSヤングタウン』などにハマり、投稿する日々をおくる。当時のラジオネームは「ガッツチョロ松」だった。大阪府立北野高等学校に合格するも、高校1年生で退学。その後東京都東久留米市へ移住し、アルバイトをしながら大学入学資格検定を取得。20歳のときに大阪へ戻る。 その後、ABCラジオ『ガチ・キン』など関西各地のテレビ・ラジオ番組に出演。2013年には、ワールド記念ホールにて行われたcomin.kobeにリスナーを招待したり、本人も人生初というABCテレビの代表番組『おはよう朝日です』のスタジオへリスナーと共に見学した。
秦 萌(はた めぐみ、6月3日 - )は、テレビ宮崎の報道記… 秦 萌(はた めぐみ、6月3日 - )は、テレビ宮崎の報道記者で、同局の元アナウンサー。 大阪府吹田市出身。大阪府立北野高等学校、神戸大学国際文化学部卒業。 大学を卒業後、2020年にテレビ宮崎に入社。アナウンサーになり、同年6月に初鳴きを果たした。
大石 晃子 は、日本の政治家。
岡崎 俊雄(おかざき としお、 - )は、日本の官僚。元科学… 岡崎 俊雄(おかざき としお、 - )は、日本の官僚。元科学技術事務次官。
阿部 純子 は、日本の女優、ファッションモデル。本名同じ。旧… 阿部 純子 は、日本の女優、ファッションモデル。本名同じ。旧芸名は吉永 淳。
井口 岳洋(いぐち たけひろ)は、日本のテレビプロデューサー… 井口 岳洋(いぐち たけひろ)は、日本のテレビプロデューサー。毎日放送スポーツ局長。 大阪府立北野高等学校、京都大学工学部石油学科卒業後、1992年に毎日放送に入社。同期にアナウンサーの上泉雄一と武川智美、テレビプロデューサーの新堂裕彦がいる。入社数年間はラジオ番組制作に就き、その後は数々のテレビ番組の制作に携わり、東京支社へ異動。支社で東京制作室、東京支社テレビ編成部長を経て、現在に至る。 ラジオ番組ディレクター時代、北野高校の後輩であり大阪で弁護士として活動していた橋下徹(元大阪市長、元大阪府知事)を初めて出演させたことで、後に橋下のテレビ出演が増えるようになったというエピソードがある。
乾 勲(いぬい いさお)は、日本の実業家。大阪府出身。ガンバ… 乾 勲(いぬい いさお)は、日本の実業家。大阪府出身。ガンバ大阪元代表取締役社長。 大阪府出身。一時期京都で過ごした後、大阪に戻る。大阪市立瑞光中学校、大阪府立北野高等学校、神戸大学経営学部を卒業。高校までは運動をほとんどしていなかったが、大学時代はフィールドホッケー部に所属していた。 1963年、松下電器産業株式会社に入社。営業や企画部門を中心に様々なポストを歴任し、1999年ガンバ大阪代表取締役社長に就任した。 就任当時、累積赤字を抱えていたガンバの体質改善に着手。人員整理、グッズ在庫の一掃などを進め、赤字からの脱却を果たす。Jリーグバブルの崩壊によって観客動員が最も低迷した時期であったにもかかわらず、黒字をキープさせた乾の経営手腕が、その後のガンバ躍進の基礎となった。
有働 由美子 は、日本の女性フリーアナウンサー、ジャーナリス… 有働 由美子 は、日本の女性フリーアナウンサー、ジャーナリスト。元NHKエグゼクティブアナウンサー。チャッターボックス所属。
大西 結依(おおにし ゆい)は、NHK山口放送局の契約キャス… 大西 結依(おおにし ゆい)は、NHK山口放送局の契約キャスター。 大阪府高槻市出身。高槻市立松原小学校、高槻市立第六中学校、大阪府立北野高等学校、関西外国語大学卒。
梶井 基次郎 は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融… 梶井 基次郎 は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。
嶋田 幸久(しまだ ゆきひさ)は、大阪市出身の生物学者、植物… 嶋田 幸久(しまだ ゆきひさ)は、大阪市出身の生物学者、植物生理学者。理学博士。横浜市立大学教授。横浜市立大学木原生物学研究所所長。国際研究プロジェクトAtGenExpressプロジェクトにおいて、高等植物で初めての大規模なトランスクリプトームデータの収集と公開に貢献した。また、植物の成長制御にとって重要な植物ホルモンであるオーキシンの生合成阻害剤を世界で初めて発見し、その後も特性の高い生合成阻害剤の開発を進めた。オーキシン生合成には酵素レベルでの制御機構が存在することを解明した。 横浜市立大学 木原生物学研究所(横浜市戸塚区舞岡町641-12) 植物応用ゲノム科学部門 教授
中村 智子 は、朝日放送所属の元アナウンサー、報道記者。20… 中村 智子 は、朝日放送所属の元アナウンサー、報道記者。2012年頃から編成局番組宣伝部に在籍。
西村 純平(にしむら じゅんぺい)は、日本の実業家。日本貿易… 西村 純平(にしむら じゅんぺい)は、日本の実業家。日本貿易振興会理事長や、日新電機代表取締役社長、関西経済同友会代表幹事などを歴任した。 大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を経て、東京商科大学(現一橋大学)卒業。1925年住友銀行入行。1947年住友銀行常務取締役。1950年関西経済同友会代表幹事。同年日本金融学会理事。1952年住友銀行専務取締役。1953年にはライオンズクラブ大阪支部結成式に参会。1966年山口県同郷会会長。1973年勲二等瑞宝章受章。住友銀行副頭取、日新電機代表取締役社長を経て、1974年日本貿易振興会理事長、対外経済協力審議会委員。
平原 憲道(ひらはら のりみち)は立命館アジア太平洋大学国際… 平原 憲道(ひらはら のりみち)は立命館アジア太平洋大学国際経営学部准教授、国立マラヤ大学医学部客員教授、有限会社RDシステムズジャパン代表取締役会長。大阪府生まれ。 学者としての現在の専門は、企業イノベーション促進やグローバル人材育成を含む組織開発。加えて、認知科学、データサイエンス、医療ビッグデータ、デジタルヘルス、ポジティブ心理学、マインドフルネス瞑想、仏教心理学など、専門性の守備範囲が広いことで知られる。「『イノベーションとウェルビーイング』を両立させる組織開発」を、経営学だけでなく心理科学の専門性でグローバルに説明できる研究者・実践者である。 その広範囲に渡る専門性を活かした社会活動も多く、代表的なものには、2017年春に当時の自宅を開放して始めたコミュニティ活動「おとなの寺子屋」や、同じく2017年秋から続く大谷愚烟(旧名 大谷光輪)門主との「仏教と科学のサロン」などがある。
山本 香苗 は、日本の政治家。中道改革連合所属の衆議院議員(… 山本 香苗 は、日本の政治家。中道改革連合所属の衆議院議員(1期)。中道改革連合代表代行。日本福祉大学客員教授。大阪府堺市堺区在住。
竹田 潔(たけだ きよし)は、大阪府出身の日本の生命科学者。… 竹田 潔(たけだ きよし)は、大阪府出身の日本の生命科学者。大阪大学大学院医学系研究科教授、大阪大学免疫学フロンティア研究センター (Immunology Frontier Research Center; IFReC) 拠点長。専門は免疫学・細胞生物学 。 大阪府立北野高等学校を卒業後、大阪大学医学部医学科に進学し、1992年に卒業した(医師免許取得)。大阪大学医学部附属病院第三内科研修医を経て、1993年より公立学校共済組合近畿中央病院内科に勤務した。1994年に大阪大学大学院医学研究科(第三内科)に入学し、サイトカイン研究の第一人者である岸本忠三とそのスタッフであった審良静男のもとで研鑽を積んだ。
小林 広英(こばやし ひろひで)は、日本の地球科学者。専門は… 小林 広英(こばやし ひろひで)は、日本の地球科学者。専門は地球環境学。学位は、地球環境学博士(京都大学・論文博士)。 京都大学教授。特定非営利活動法人Fundament Design Organization(FuDO)理事長、大阪府立北野高校学校運営協議会委員、NPO法人ソーシャルデザインセンター淡路顧問、京都精華大学非常勤講師、八尾市景観アドバイザー委員、近江八幡市庁舎整備技術審査委員会委員長。 大阪市出身。1992年京都大学修士課程修了(川崎清研究室),英国留学の後,1993年より設計事務所勤務。2002年の京都大学大学院地球環境学堂設立とともに京都大学で実践的研究活動を開始。小林正美教授に師事。