前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、… 前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、日本の教育者、教育学者。 長野県飯田市出身。1944年旧制第一高等学校卒。戦後中学校教師を務めた。1977年退職後、長野県下伊那郡上郷町(現飯田市)に転居。1961年より全国生活指導研究協議会(全生研)中央常任委員を務める。
旧制第一高等学校:21人
前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、… 前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、日本の教育者、教育学者。 長野県飯田市出身。1944年旧制第一高等学校卒。戦後中学校教師を務めた。1977年退職後、長野県下伊那郡上郷町(現飯田市)に転居。1961年より全国生活指導研究協議会(全生研)中央常任委員を務める。
丸尾 文治(まるお ぶんじ、1917年 - 2015年1月5… 丸尾 文治(まるお ぶんじ、1917年 - 2015年1月5日)は、日本の生物学者(生化学・分子生物学・農芸化学)、教育者。勲等は勲三等。学位は農学博士(東京大学・1954年)。東京大学名誉教授、社団法人日本生化学会名誉会員。 片倉製糸紡績株式会社での勤務を経て、東京帝国大学農学部助手、東京大学農学部助教授、東京大学応用微生物研究所教授、社団法人日本生化学会会長(第26代)、東京大学応用微生物研究所所長、東京大学評議員、日本大学農獣医学部教授、日本大学農獣医学部次長、埼玉第一高等学校校長(第3代)などを歴任した。 生化学、分子生物学、農芸化学などを専攻する静岡県出身の生物学者である。枯草菌の酵素に関する研究が知られており、α-アミラーゼの生成を制御する7つの遺伝子を特定し、それらを組み合わせることで生産性を従来の数千倍にまで向上させた。
川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 … 川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 - 1976年〈昭和51年〉1月3日)は、日本の教育者。学校法人高岡第一学園及び高岡第一高等学校の創設者、同初代理事長兼初代校長。 富山県西礪波郡福光町(現・南砺市)才川七にて、教育者であった父・川原忠孝の次男として生まれる。父の影響で教育者を目指し、福光高等小学校卒業後に富山師範学校(後の富山大学旧教育学部、現人間発達学部)を受験するも、人見知り・小心な性格の上、田舎育ちで富山の街中に慣れず、緊張して試験に失敗する。農業を手伝いながら、翌春に再挑戦するも再び不合格となる。富山師範学校にしか進学を許さないとの父の方針から、代用教員をしながら勉学に励み、三度目の受験にして、競争率5倍という狭き門を突破し、富山師範学校に入学する。
田辺 忠男(たなべ ただお、1891年8月11日 - 196… 田辺 忠男(たなべ ただお、1891年8月11日 - 1967年3月20日)は、大正から昭和時代の日本の経済学者、教育者。東京帝国大学経済学部教授、立教大学教授・経済学部長を務めたほか、高崎経済大学初代学長を始め、大分大学、東京農業大学、青山学院大学、国士舘大学で教授を歴任した。 1891年(明治24年)、田辺男外鉄(海軍軍人、神奈川県横須賀市長)の長男として生まれる。 暁星中学校 (旧制)、第一高等学校 (旧制)英法科をへて1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学経済学科卒業後、三井合名会社、横浜護謨をへて1920年(大正9年)に専修大学講師(のち教授)。その後、立教大学教授に就任。 1927年(昭和2年)東京帝国大学経済学部助教授を兼務する。
斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月… 斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月23日 - 1930年(昭和5年)11月6日)は、日本の歴史学者・教育者。 静岡県沼津市出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学を卒業。維新史料編纂事務局に勤務の後、島津公爵家史料編輯所に勤務した。1922年(大正11年)、山形高等学校教授に就任し、1927年(昭和2年)に東京女子高等師範学校教授・附属高等女学校主事となり、第六臨時教員養成所講師も兼ねた。
乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月17日 - 1934年9月19日)は、日本の作詞家・音楽教育者。 1881年、旧幕臣、英学者で沼津兵学校教授の父太郎乙と母つきの間に東京府牛込区牛込横寺町(現・東京都新宿区横寺町)で生まれた。太郎乙には5男5女(うち長男と四男は幼い頃に亡くなっている)がおり、三郎はその三男であった。 開成中学卒業後、1898年、第一高等学校一部文科に入学、ピアノやオルガンに親しんだ。卒業後の1901年には東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、カール・フローレンツ、ラファエル・フォン・ケーベルらの薫陶を受ける一方、日本の音楽レベルを向上させるべく、歌劇研究を行う「ワグネル会」を結成。
野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月2… 野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月20日 - 1948年(昭和23年)7月26日)は、日本の英文学者、方言学研究者、民俗学者、教育者。 1880年(明治13年)、鹿児島県肝属郡高山町(現・肝付町)で生まれた。父伝之助は漢学者で槍の名人、文武両道に秀でていたというが、伝四が五歳の時、西南戦争の被弾がもとで没した。1900年(明治33年)、鹿児島県中学造士館卒業、一級上に橋口五葉がいた。1903年(明治36年)7月に第一高等学校卒業し同年9月、東京帝国大学英文学科に入学、1906年(明治39年)7月卒業。同級に中川芳太郎、森田草平、栗原古城らがいた。3年先輩に皆川正禧と野間真綱がおり、野間の熊本五高時代の1年先輩に寺田寅彦がいた。
豊留 アサ(とよとめ あさ、1880年(明治13年)4月25… 豊留 アサ(とよとめ あさ、1880年(明治13年)4月25日 - 1938年(昭和13年)3月4日)は、日本の女性教育家。私立新庄女学校(現在の広島新庄学園)第二代校長。 1880年(明治13年)4月25日、豊留半兵衛・ヨシ子夫妻の長女として鹿児島県姶良郡加治木町塩入(現在の姶良市加治木町)に生まれる。生来、聡明利発で周りから神童だと評判になり、遊びも男性的な遊びを好んでいたと言われている。 1887年(明治20年)4月、柁城尋常高等小学校入学(現在の姶良市立柁城小学校)幼少期から読み書きに優れ、学校では首席を通し、後に東京第一高等学校生徒監になった教育者・谷山初七郎にその才を見出され、この頃から晩年までずっと指導を仰いだ。
田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 197… 田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 1972年9月3日)は、日本の薬剤師、陸軍軍人、教育者。階級は陸軍薬剤中将。 東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任した。 日本の陸軍で活躍した薬剤師である。陸軍衛生材料廠のトップを経て、陸軍薬剤総監に就任した。静岡女子薬学専門学校で校長を務めるなど、後進の育成にも尽力した。 1878年(明治11年)2月24日に生まれた。誠之小学校を経て、東京府尋常中学校で学んだ。第一高等学校を卒業し、さらに東京帝国大学に進学した。当時の東京帝国大学は分科大学制を採っており、東京帝国大学の下に設置された医科大学の薬学科にて学んだ。
葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)1… 葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)12月3日 - 1960年(昭和35年)10月7日)は、日本の教育者。 長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)出身。私立尋常中学猶興館中退、私立日本中学校、旧制一高を経て1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学独逸文学科を卒業。1909年(明治42年)、第一高等学校教授に就任した。1922年(大正11年)、文部省督学官に転じ、翌年から学校制度研究のためドイツ・イギリス・アメリカ合衆国に出張した。帰国後、山形高等学校校長となり、1930年(昭和5年)に第七高等学校造士館館長に転じた。1933年(昭和8年)に大阪外国語学校校長に就任し、1940年(昭和15年)に退官した。
新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 … 新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 - 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。 1874年、新保正與の次男として新潟県蒲原郡、のちの西蒲原郡曽根村(曽根町、西川町を経て現新潟市西蒲区)で生まれ、新保宇源太の養子となった。第一高等学校を経て、1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、大学院に進んだ。 卒業後は、高田中学校教諭、福岡県立中学伝習館教諭、真岡中学校校長、宇都宮中学校校長、鹿児島県立第二鹿児島中学校校長、山口高等学校校長、松本高等学校校長を歴任し、1932年(昭和7年)から広島高等学校校長を務めた。
杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日(明治5年5月2… 杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日(明治5年5月26日) - 1960年7月2日)は、日本の教育者。第一高等学校、国文教授 - 校長。通称は"びんすけ"。夏目漱石『吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。歌人としても知られ、号は烏山。
鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1… 鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月6日)は、日本の機械工学者・教育者・実業家。官立大阪高等工業学校の教授を務め、退官後に家庭用ガス湯沸器メーカーの陽栄製作所を創業した。 1872年〈明治5年〉1月24日に栃木県で生まれた。1896年〈明治29年〉7月に旧制第一高等学校を卒業し、1899年〈明治32年〉7月に東京帝国大学工科大学(のちの東京大学工学部)機械工学科を卒業した。同年10月に東京帝国大学大学院に進んだ後、1900年〈明治33年〉に官立大阪高等工業学校(当時の名称は大阪工業学校、のちの大阪大学工学部)の教授に着任した。1901年〈明治34年〉から1907年〈明治40年〉までは大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学、大阪市立大学の前身)の教授嘱託も務めた。
瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12… 瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12月16日)- 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の教育者。第一高等学校長。 土佐国土佐郡高知街鷹匠町(現:高知市鷹匠町)にて、土佐藩士瀬戸直道の長男として生まれる。第一高等中学校英予科、同校本科二部(理科)で学び、1896年帝国大学理科大学物理学科を卒業。 岩手県立盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)教諭、東京高等師範学校(現:筑波大学)教授、第六高等学校(現:岡山大学)教授、長崎高等商業学校(現:長崎大学)教授、文部省視学兼第一高等学校教授、文部省視学官、臨時教育会議委員などを歴任。1913年4月、前任者新渡戸稲造の退任に伴い、日本最難関と言われた第一高等学校の校長に就任する。
武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈… 武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈慶応3年4月24日〉- 1932年〈昭和7年〉5月26日)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者、運動中の水分補給を禁止する風潮を創り上げた人物として知られる。 柳河藩士・武田道夫の二男として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、東京帝國大學法科大学法律学科(英法)を卒業。 1889年8月、法制局雇となる。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる。
赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(… 赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(慶応元年5月30日) - 1900年(明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人。死去時の地位は第一高等学校講師・陸軍歩兵中尉・従七位勲六等・文学士。 信濃国諏訪藩に生まれ、地元長野県諏訪郡で小学校教師を勤めた後、上京して第一高等中学校で語学、哲学を学び、寄宿寮で学生自治を主導した。日清戦争に参戦した後、東京帝国大学を卒業し、比較倫理学研究に着手したが、志半ばで死去した。 1865年(慶応元年)、信濃国諏訪郡高島城下において諏訪藩士赤沼豊亭と母の山田氏との間に生まれた。赤沼氏は代々諏訪藩に仕え、曽祖父豊綢、祖父豊肄と学問に通じたが、父豊亭中甫は幼少の内に両親を失い困窮し、田畑や家財を売り払ったが、代々伝わる蔵書は家に残され、読書の必要性を教えられた。
菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年… 菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年11月19日) - 昭和17年(1942年)9月30日)は、日本の教育者。 岩手県紫波郡紫波町出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1896年(明治29年)、陸軍教授となり、1898年(明治31年)に第一高等学校教授に転じた。1919年(大正8年)、第一高 等学校校長に就任し、1924年(大正13年)に退官した。 退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、1931年(昭和6年)に第一高等学校名誉教授の称号を受けた。
古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治… 古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治元年8月28日) - 1912年(大正元年)10月25日)は、日本の薬学者、教育家。薬学博士。千葉医学専門学校教授。正五位勲五等。 石川県士族・古屋安左衛門の二男。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。医科大学助手となった。京都府医学校教諭に任じ1897年12月、第一高等学校教授に任じ正七位に叙せられた。1912年9月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市本郷区駒込西片町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(186… 粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(1864年6月21日) - 昭和11年(1936年)8月23日)は、日本の教育者。 陸奥国一関(現在の岩手県一関市)出身。新潟英語学校、新潟中学校を経て、文検に合格し1886年(明治19年)に中学師範各学校英語科教員免許状を受け、東京府中学校一等助教諭となった。翌年から第一高等中学校英語教員嘱託、1889年(明治22年)から第一高等学校教諭、1890年(明治23年)から第一高等学校教授を歴任した。東京時代の教え子に、夏目漱石、若槻禮次郎、本多光太郎らがいる。1892年(明治25年)、仙台の第二高等学校教授に転じ、土井晩翠、作家高山樗牛らを教導。
小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6… 小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1918年〈大正7年〉8月15日)は栃木県出身の建築家であり教育者。アメリカのコーネル大学建築学部を卒業、日本人で初めて建築の学士号を取得したとされる。旧制第一高等学校などで図学や英語を教え、多くの後進を育てた。東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)は小島の作品である。 下野国河内郡雀宮(後の栃木県宇都宮市)で幕臣・小島信民の家に生まれる。旧名は作次郎、兄は信之。 明治維新後、横浜で外国人に英語を学び、1870年(明治3年)、大学南校に入学、アメリカ人教師ハリスに認められる。1873年(明治6年)学校を中退、ハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡り、ハートフォード中学に入学。
加藤 政司郎(かとう せいしろう / まさしろう、生没年不詳… 加藤 政司郎(かとう せいしろう / まさしろう、生没年不詳)は、大正から昭和期の教育者、翻訳家、編集者、軍事史学者。東京高等師範学校(現・筑波大学)で教え、アメリカの教科書を纂訳し出版したほか、軍事史学の翻訳書なども著した。 千葉県平郡、後の安房郡平群村(現南房総市)で生まれた。東京・築地の立教学校(現・立教大学)に入学し、英文学を修学する。第一高等学校大学予科を経て 1903年(明治36年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。その後、大学院に進み1914年(大正3年)4月、東京高等師範学校(現・筑波大学)教諭を務めた。 その後、翻訳家になり、大正期には、松宮春一郎(世界文庫刊行会主宰者、後の中央大学事務部長)と活動をともにして、水野葉舟とアメリカの教科書を纂訳し刊行したほか、複数の軍事史学の翻訳書を著す。