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佐藤 経明(さとう つねあき、1925年4月23日 - 20… 佐藤 経明(さとう つねあき、1925年4月23日 - 2014年8月5日)は、日本の経済学者、横浜市立大学名誉教授。比較経済体制論専攻。 日本領朝鮮平壌生まれ。旧制第六高等学校を経て、1952年東京大学経済学部卒、1954年同大学院修了。堤清二は友人。1956年愛知大学専任講師、1957年東京都立商科短期大学講師、助教授、1970年横浜市立大学商学部助教授、1972年教授、1988年定年退官、名誉教授、日本大学経済学部教授、1995年定年退職。 2012年胃癌のため胃を全摘出する。2014年8月5日、89歳で死去。
長井 和雄(ながい かずお、1923年 - 2008年)は、… 長井 和雄(ながい かずお、1923年 - 2008年)は、日本の教育学者、東京学芸大学名誉教授。 奉天生まれ。第六高等学校、1947年広島文理科大学卒業。高校はドイツ語科であったため、英語よりもドイツ語に堪能だった。したがって、ドイツの思想家・教育学者を研究対象にしていた。1964年「エドゥアルト・シュプランガーの教育思想体系」で広島大学教育学博士。神奈川大学助教授、教授、1970年東京学芸大学教授、1987年定年退官、名誉教授、日本女子大学教授。1992年退職。1992年~94年帝京大学文学部教育学科教授。
稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 20… 稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 2006年5月20日)は、日本の法学者(憲法)・弁護士。岡山大学名誉教授。 香川県高松市出身。第六高等学校卒、1947年東京帝国大学法学部政治学科卒、香川大学経済学部助教授、岡山大学法学部助教授、教授を務め、1987年定年退官、名誉教授となり、高岡法科大学法学部教授を務めた。弁護士。
山田 信夫(やまだ のぶお、1920年2月17日 - 198… 山田 信夫(やまだ のぶお、1920年2月17日 - 1987年4月26日)は、日本の東洋史学者。大阪大学名誉教授。アジア遊牧民族、東西交渉史を専攻、中世ウイグル世俗文書を研究。 1920年、山口県山口市で生まれた。第六高等学校(現・岡山大学)を経て、東京帝国大学(現・東京大学)文学部に進学。東洋史学科で学び、1943年9月に卒業。 山田を含む6名が1943年10月海軍予備学生に採用され、江田島の海軍兵学校に入隊、12月末まで兵学校生徒に準じる教育を受けた。翌年には兵学校を去り、内地勤務で少尉、中尉となり、敗戦を迎えた。1945年末に帰郷。 1946年、東京帝国大学大学院へ復学。東洋史学科の先輩にあたる前田直典の提唱により、同年3月に北方史研究会を院生仲間らと組織。
西嶋 定生(にしじま さだお、1919年6月25日 - 19… 西嶋 定生(にしじま さだお、1919年6月25日 - 1998年7月25日)は、日本の中国史学者、東京大学名誉教授。京都大学の宮崎市定、東京大学の堀敏一、一橋大学の増淵龍夫等と共に戦後の中国古代史研究をリードする存在であった。 岡山県阿哲郡本郷村(現・新見市)で生まれた。第六高等学校を経て、1939年に東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。六高・東京帝大共に同級生であった中央アジア史学者の山田信夫とは終生を通じて親友であった。 修了後は、東方文化学院研究員に就いた。東京大学東洋文化研究所研究員を経て、1949年より東京大学文学部東洋史学科助教授。1967年に教授昇格。1961年に学位論文『二十等爵制の研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。
三宅 貞祥(みやけ さだよし : 1908年(明治41年)3… 三宅 貞祥(みやけ さだよし : 1908年(明治41年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月30日)は、昭和・平成期の日本の動物学者。農学博士。十脚目、特に異尾類の分類で功績を残した。九州大学名誉教授、日本甲殻類学会会長。 日本甲殻類学会設立時のメンバーの一人であり会長も務めるなど、甲殻類研究の発展に寄与した。 1908年(明治41年)3月23日、香川県小豆島に生まれ、1920年(大正9年)に岡山県へ移った。1931年(昭和6年)に岡山市の旧制第六高等学校を卒業し、九州帝国大学(現 : 九州大学)農学部に入学した。指導教官の大島広は棘皮動物研究者であったが、三宅の最初の論文はカクレガニの幼生についてのものであった。
小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 19… 小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 1990年7月6日)は、日本の地質学者。東京農業大学教授を務め、1980年定年。地すべりで一度崩れたところは当分は危険がない「地すべり免疫論」の論陣を張る。また、治水については水防林の効用を主張した。 兵庫県出身。実家はもとは出石藩の家老の家柄。第六高等学校から、1934年東京帝国大学農学部林学科卒業。同年から北海道帝国大学農学部に助手として勤務。その後東京帝国大学理学部地質学科に再入学する。 1943年地質調査所に勤務。その後林野庁勤務をへて東京農業大学、また経済安定本部資源調査会に勤めるかたわら、宇都宮大学や秋田大学で非常勤講師を務めた。
小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 194… 小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 1942年3月24日)は、日本の歴史家。旧名は小野均。 岡山県岡山市生まれ。1925年第六高等学校、1928年東京帝国大学文学部国史学科をそれぞれ卒業。卒業論文は「近世城下町の研究」。同年から東京帝国大学史科編纂所に勤務、1937年史料編纂官となる。主に『読史備要』の作成、『大日本史料』の編纂を担当。近世都市と中世商業の研究を進めた。
宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 198… 宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 1986年10月11日)は、日本の天文学者、理学博士。 広島県因島市(現・尾道市)出身。旧制第六高等学校を経て、1925年東京帝国大学理学部天文学科卒業。ジャワ島ボスカ天文台長、東京天文台国際報時所研究主任を経て東京大学教授兼東京天文台技官となり、東京天文台長を務めた。1964年測地学審議会長となり、日本地図センター長も務めた。
梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1… 梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1996年4月14日は、日本の哲学者(経済哲学)。立命館大学名誉教授。 ヘーゲル、マルクスを専門とし、京都学派左派の戦時下抵抗思想と三木哲学批判で知られる。 徳島県出身。1928年京都帝国大学文学部哲学科(社会学)卒。西田幾多郎・田辺元にも師事。唯物論研究会に所属するが、1938年に検挙され転向。戦後は第六高等学校教授を経て、1950年に立命館大学教授。1959年「資本論の学的体系性 マルクス主義経済哲学の基礎づけのために」で立命館大学経済学博士。立命館大学経済学部教授、1963年定年退任、名誉教授。橘女子大学教授。1964年に廃止された立命館大学吉田寮の寮監を務めていた。
西原 寛一(にしはら かんいち、1899年8月2日 - 19… 西原 寛一(にしはら かんいち、1899年8月2日 - 1976年2月29日)は、日本の法学者。専門は商法。関西学院大学教授。 日本を代表する商法学者。第六高等学校時代の恩師であり法哲学者であった三谷隆正の紹介で、田中耕太郎に師事する。その最大の功績は「商法企業法論」の確立である。また大阪市立大学法文学部(現在は法学部と文学部に分離)や神戸学院大学法学部の創設にも関与している。妻はアララギ派の歌人である西原須磨。親族に法学者が多く、民法学者の西原道雄は息子、刑法学者の西原春夫は親戚である。 商法企業法論とは、実質的意義の商法を、企業に特有の生活関係を対象とする私法と考え、体系化する立場である。 京城帝国大学赴任当時、実質的意義の商法をどう定義するかに関しては、師である田中耕太郎博士が提唱した商的色彩論が通説であった。
日野 巌(ひの いわお、1898年9月1日 - 1985年3… 日野 巌(ひの いわお、1898年9月1日 - 1985年3月13日)は、日本の農学者。 北海道生まれ。長州藩藩医・日野宗春の孫。筆名・日野青波。第六高等学校卒、東京帝国大学農学部卒。1930年農学博士。 1926年宮崎高等農林学校教授。日向郷土会を主宰、雑誌『日向(郷土志資料)』を刊行する。1940年には県立上代日向研究所の民俗部主査となる。1942年に陸軍司政官として南方に転出し、戦後は山口大学農学部教授、農学部長、宇部短期大学教授。(中公文庫に1980年死去とあるのはおそらく間違い)
西下 経一(にしした きょういち、1898年5月10日 - … 西下 経一(にしした きょういち、1898年5月10日 - 1964年1月17日)は、日本の国文学者、東京教育大学名誉教授。旧姓は岡村。 岡山県西北条郡津山町(現・津山市)出身。1922年東京高等師範学校国漢科卒業後、佐賀中学校教諭。東京帝国大学国文科選科を経て、1927年に本科卒。東大国文学研究室副手として源氏物語などの書誌研究を行う。 第六高等学校教授を経て、1953年「古今集の伝本の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。戦後は岡山大学教授、東京教育大学教授、上智大学教授。平安朝文学、特に古今集の和歌を専門とする。蔵書は没後に国文学研究資料館に収蔵された。
富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> … 富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> 3月23日 - 1988年 <昭和63年> 12月28日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。位階は従四位。 岡山県生まれ。第六高等学校 (旧制)を経て、1923年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、同大学で助手を務めた。師は喜多源逸。在学中に喜多とともにベークライトの製法特許を取得している。1929年学位論文「ヴィスコースの研究」により京都帝国大学より工学博士号を取得。昭和レーヨン、東洋紡での勤務を経て、1945年8月に東洋ゴム工業社長に就任。1965年5月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役、1975年5月に相談役を経て、1978年6月には名誉顧問に就任。
内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1… 内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1990年5月8日)は、日本の東洋史学者。島根県出身。岡山大学名誉教授。次男は島根大学名誉教授の内藤正中。 1896年(明治29年)、島根県浜田市生まれ。1918年(大正7年)、京都帝国大学文学部史学科(支那史専攻)に入学して東洋史学者の内藤湖南(名字は同じ内藤姓だが血縁関係はない)に師事。卒業後、1929年(昭和4年)から岡山大学の前身である旧制第六高等学校教授を務める。戦後、1949年(昭和24年)、新制岡山大学教授に就任。1961年(昭和36年)、岡山大学を定年退官して名誉教授となる。定年退官後、1973年(昭和48年)までノートルダム清心女子大学教授。
渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 -… 渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 - 1983年9月4日)は、日本の法学者。専門は憲法学、行政法。法学博士(京都帝国大学)。帝塚山大学第2代学長。京都大学名誉教授。 愛媛県出身。1922年京都帝国大学法学部卒。佐々木惣一門下。24年同助教授、31年教授。33年には滝川事件に遭遇し辞表を提出するも慰留され大学に残留した。1935年「地方自治の本質」で京都帝国大学法学博士。同年の天皇機関説事件において同説の踏襲者として大学の憲法講義担当から外れることとなる。同様に高等文官試験司法科憲法担当試験委員からも除かれた。1943-45年法学部学部長。 戦後は1949年に新制大学として発足した岡山大学に招かれ法文学部教授、初代学部長、(第六高等学校校長を兼任、1949-50年)。
千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年… 千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年8月13日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 旧制第六高等学校、東京帝国大学文学部哲学科心理学専攻卒業。1926年東京帝大助教授、のち教授、1952年定年退官。1965年 日本心理学会名誉会員。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐々木 順三(ささき じゅんぞう、1890年3月2日 - 1… 佐々木 順三(ささき じゅんぞう、1890年3月2日 - 1976年5月2日)は、日本の教育者、神学者、英文学者。 1890年(明治23年)に東京で三男として生まれる。兄の佐々木邦(慶應義塾大学,明治学院大学教授)は後に作家として業績を残している。東京帝国大学を卒業後、教師となり第六高等学校、第一高等学校などの教授を経て、1943年9月30日に都立高等学校校長となる。同高校校長を1946年6月29日まで務めた後に、立教大学総長に就任した。戦後の再建期において同大学の「建学の精神」を示し、キリスト教一貫教育を進めるべく新制高等学校、中学校、小学校を開設した。1954年にはキリスト教学校教育同盟理事長を務める。
西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月… 西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月6日 - 1951年<昭和26年>9月16日)は、明治時代から昭和時代の科学者。火薬学の権威として知られ、「火薬博士」と呼ばれた。位階は従三位、勲等は勲二等旭日重光章。 1881年5月6日、愛媛県下浮穴郡麻生村(原町村を経て現在は砥部町麻生)で西松和十郎とカツ(愛媛県白形熊治の二女)の長男として生まれる。 1892年、麻生小学校を卒業。1900年、松山中学校を卒業。岡山県の第六高等学校を経て、1907年に東京帝国大学工科大学火薬科を卒業する。 卒業後は東京砲兵工廠火薬試験所に入所したが、間もなく東京帝大に移り、1908年から1942年の35年間、東京帝大火薬学教室に在籍した。
橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1… 橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1956年5月19日)は、日本の東洋史学者。 1880年、長崎県諫早で生まれた。長崎中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。大学では白鳥庫吉、市村瓚次郎の指導を受け、羽田亨、原田淑人らと同学であった。1908年に卒業した。 1909年、早稲田大学文学科講師に就いた(1919年まで)。1910年からは慶應義塾にも出講し、1920年に慶應義塾大学教授となった。1944年に同大学を退任し、名誉教授となった。慶応大学在職中には、1935年から1年間東京文理科大学講師、1939年に東洋大学講師(翌年教授に昇格)を兼任した。1941年4月、学位論文『支那古代暦法史研究』を東京帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。
大渡 忠太郎(おおわたり ちゅうたろう、1870年11月1日… 大渡 忠太郎(おおわたり ちゅうたろう、1870年11月1日〈明治3年10月8日〉- 1953年〈昭和28年〉)は、日本の植物学者。 肥前国佐賀郡、のちの佐賀県佐賀郡与賀町(現佐賀市与賀町)で生まれた。 東京帝国大学植物学科を卒業し、同学で助手を務めるが、1899年に一年志願兵として入隊したため退官した。学位は理学士。その後、1901年に岡山県岡山市の第六高等学校(現・岡山大学)教授に着任し、中世以来途絶えたとされていたキクザクラを発見、校庭に植えた。松本高等学校(現・信州大学)では第2代校長(在任:1921年10月 - 1927年8月)を務め、同校跡のあがたの森公園には、在任中に購入・植栽したヒマラヤスギの大木が残っている。