石田 美栄(いしだ みえ、1937年〈昭和12年〉8月11日… 石田 美栄(いしだ みえ、1937年〈昭和12年〉8月11日 - )は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。元衆議院議員(1期)。 津田塾大学英文科を卒業、その後中国短期大学教授となった。1993年の第40回衆議院議員総選挙で民社党幹部林保夫の後継として岡山2区から立候補し江田五月社民連代表の支援も有り初当選した(無所属)。 衆議院議員任期途中の1995年、同年7月23日執行の第17回参議院議員通常選挙で岡山県選挙区(当時定数2)より新進党公認で立候補したことで、告示日の同月6日付で公職選挙法の規定により衆議院議員を退職(自動失職)となった。投開票の結果、得票数2位で当選し参議院議員に鞍替えとなった。
金子 宗平(かねこ そうへい、1937年〈昭和12年〉8月1… 金子 宗平(かねこ そうへい、1937年〈昭和12年〉8月10日 - 2006年〈平成18年〉7月31日)は、昭和時代の日本の陸上競技選手。元円盤投日本記録保持者。ローマオリンピック代表・1964年東京オリンピック代表。日本選手権5連覇、日本記録更新7回など、数々の記録を打ち立てた。群馬県沼田市出身。身長175センチメートル、体重78キログラム。 群馬県沼田市硯田町出身。薄根中学校から群馬県立高崎工業高等学校に進学。高校では陸上部に所属し、1954年の関東大会で40m45をマークし優勝。翌1955年の関東大会で47m50の高校新記録を樹立し優勝し、酒田で開催された全国大会でも優勝。 翌1956年日本大学へ進学。
前野 育三(まえの いくぞう、1937年8月10日 - )は… 前野 育三(まえの いくぞう、1937年8月10日 - )は、日本の法学者、弁護士。関西学院大学名誉教授。専門は、刑事法(刑法、刑事政策、少年法)。元民主主義科学者協会法律部会理事。法学修士。兵庫県出身。2016年、春の叙勲で瑞宝中綬章を受章。
秋谷浄恵(あきたに じょうけい、1937年8月10日 - )… 秋谷浄恵(あきたに じょうけい、1937年8月10日 - )は、日本の実業家。日清オイリオグループ代表取締役社長、会長、特別相談役、日本植物油協会会長を歴任。 東京都出身。横浜市立大学商学部卒業、日清製油入社。1996年代表取締役社長。2002年には経営統合を実現し、日清オイリオグループに改組。2011年には特別顧問に就き、日本植物油協会会長なども務めた。2023年食料産業特別貢献大賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小川 薫(おがわ かおる、1937年8月8日 - 2009年… 小川 薫(おがわ かおる、1937年8月8日 - 2009年4月27日)は、日本の実業家。総会屋。「最後の総会屋」と呼ばれた。 広島市の歓楽街・弥生町の入口、下柳町(現中区銀山町)生まれ。当地は証券街で、かつ遊郭もあり、ヤクザの多い街でもあった。1945年、7歳国民学校二年の夏、爆心地から1.1キロの自宅で被爆。薫は釣りに行くため自宅を出る直前だった。幸い家族もみな軽傷で済んだ。1946年、戦場から父親が復員。戦前から経営していた電器店を再開したが、父は博徒岡組(のちの共政会)組長・岡敏夫と親しく野球賭博を始め店を潰し、その後は食堂を営んだ。 小川の兄・義夫と弟・明男の三人は喧嘩が滅法強く「小川三兄弟」と恐れられたが、叔父の田部武雄がプロ野球選手だったこともあり、野球もうまく、みな野球強豪高校でレギュラーとなった。
藤本 勝巳(ふじもと かつみ、1937年8月8日 - )は、… 藤本 勝巳(ふじもと かつみ、1937年8月8日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(内野手)。
西原 正(にしはら まさし、1937年8月4日 - )は、日… 西原 正(にしはら まさし、1937年8月4日 - )は、日本の国際政治学者。財団法人平和・安全保障研究所理事長。国際安全保障学会会長。防衛大学校名誉教授。専門は、国際政治学。大阪府出身。
辻 三太郎(つじ さんたろう、1937年8月4日 - )は、… 辻 三太郎(つじ さんたろう、1937年8月4日 - )は、日本の俳優、声優、お笑いタレント。本名、辻 茂。旧芸名は辻しげる、辻シゲル。東京都出身。
松山 和夫(まつやま かずお、1937年8月4日- )は、… 松山 和夫(まつやま かずお、1937年8月4日- )は、日本の経営者。B-Rサーティーワンアイスクリーム社長、会長を務めた。 青森県出身。1961年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治乳業に入社した。 1984年にハインツジャパン副社長に就任し、1987年にボーデンインターナショナルインク社長、1990年にボーデンジャパン社長を経て、1994年9月にB-Rサーティーワンアイスクリーム顧問に就任し、1995年3月には社長に昇格。2008年1月から2020年3月までに会長を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小倉 桂子(おぐら けいこ、1937年8月4日 - )は、日… 小倉 桂子(おぐら けいこ、1937年8月4日 - )は、日本の被爆体験証言者、通訳。平和のためのヒロシマ通訳者グループ代表。 被爆体験を英語で証言できる数少ない被爆者として年間およそ2,000人に自らの体験を伝え続けている。夫は小倉馨(広島平和記念資料館第3代館長)。 広島市生まれ。 1945年8月6日、8才の時に爆心地より2.4キロの広島市牛田町で被爆。1959年、広島女学院大学英文学部卒業。 1962年、広島市役所勤務の小倉馨(米国生まれで17歳年上)と結婚。 1979年8月、夫の小倉馨が平和宣言を書いている途中で、くも膜下出血で亡くなる(妻・桂子が42歳、長男が12歳、長女が15歳の時)。
石塚 克彦(いしづか かつひこ、1937年8月4日 - 20… 石塚 克彦(いしづか かつひこ、1937年8月4日 - 2015年10月27日)は、日本の舞台演出家。本名同じ。画号は「烏山(うざん)」。武蔵野美術学校洋画科卒。日本劇作家協会会員。 古美術研究で奈良に遊学後、平城京発掘に参加。シナリオライター山形雄策に師事。劇団新制作座、統一劇場を経て、1983年、劇団ふるさときゃらばんを創立。脚本・演出・美術プランナーとして、第1作ミュージカル『親父と嫁さん』を上演、文化庁芸術祭賞を受賞。1987年、第3回日本舞台芸術家組合賞を受賞。 1991年、日米合作ミュージカルのメインライターとして「LABOR OF LOVE」を上演、日米両国ツアー、バルセロナオリンピック芸術祭に招聴される。
宮部 シズエ(宮部 シズヱとも、みやべ しずえ、1937年8… 宮部 シズエ(宮部 シズヱとも、みやべ しずえ、1937年8月3日 - )は、日本の元競泳選手。奈良県出身。ヘルシンキオリンピック・ローマオリンピック日本代表。50m自由形・100mバタフライ・200mバタフライ元日本記録保持者。現姓は辻内。 奈良県宇智郡野原町(現五條市)出身。 野原町立野原中学校在籍時の1952年6月に行われた日本選手権兼ヘルシンキオリンピック最終選考会において50m自由形2位・100m自由形4位に入り、ヘルシンキオリンピック日本代表に選出された。7月から8月にかけてヘルシンキオリンピックが開催されたが、100m自由形予選落ちに終わった。 高校は五條高等学校に進学。1953年、日本選手権の50m自由形で初の日本一になる。
久保田 宏(くぼた ひろし、1937年8月2日 – 2014… 久保田 宏(くぼた ひろし、1937年8月2日 – 2014年9月24日)は、日本の医師。教育者。名寄市立大学初代学長。名寄市立大学短期大学部元学長。北海道中川郡美深町出身。 北海道名寄高等学校卒業。1961年北海道大学理学部卒業。1965年同医学部卒業。同年、北海道大学病院勤務。その後、市立旭川病院胸部外科部長などを経て、1991年名寄市立総合病院副院長。市立名寄短期大学非常勤講師。1993年名寄市立総合病院院長。2003年名寄市立総合病院名誉院長。風連町国民健康保険診療所所長。名寄市文化賞受賞。2006年名寄市立大学初代学長・名寄市立大学短期大学部学長に就任。2010年名寄市立大学・名寄市立大学短期大学部退官。
大賀 正行(おおが まさゆき、1937年8月2日 - 202… 大賀 正行(おおが まさゆき、1937年8月2日 - 2024年4月15日)は、日本の部落解放運動家。部落解放・人権研究所名誉理事。 部落解放同盟中央執行委員、部落解放研究所理事を歴任。 大阪市東淀川区西淡路(日之出地区)出身。被差別部落出身ではない父親と被差別部落出身の母親の間に非嫡出子として生まれる。父親は鏡会社の工場長、母親はその工場の工員であった。大阪市立啓発小学校2年の時、父親の正妻のもとに引き取られ、和歌山市で異母姉兄と共に育てられる。和歌山師範附属小学校(現・和歌山大学教育学部附属小学校)に編入学したが、1945年7月9日の和歌山大空襲で被災したため日之出地区に戻り、さらにまた父親のもとに移るなど、被差別部落の内外を往復して育つ。
三輪 定宣(みわ さだのぶ、1937年8月2日 - )は、日… 三輪 定宣(みわ さだのぶ、1937年8月2日 - )は、日本の教育学者、千葉大学名誉教授、帝京短期大学教授。 岐阜県出身。1969年東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学、相模女子大学講師、高知大学助教授、千葉大学教育学部助教授を経て、教授となる。2002年定年退官し、名誉教授となり、帝京平成大学教授も務めた。 2013年千葉県知事選挙に日本共産党推薦で出馬、敗れた。
久保田 成子(くぼた しげこ、1937年8月2日 - 201… 久保田 成子(くぼた しげこ、1937年8月2日 - 2015年7月23日)は、新潟県西蒲原郡巻町(現:新潟市西蒲区)出身でニューヨークを拠点に活動した美術家・映像作家である。映像と彫刻を組み合わせた「ヴィデオ彫刻」の先駆的な存在として国際的に評価された。夫は同じ美術家のナム・ジュン・パイク。 1937年、新潟県西蒲原郡巻町(現:新潟市西蒲区)に生まれる。 母方久保田家の曾祖父・十代右作(久保田右作)は貴族院議員、地元小千谷市の発展に尽力した。母方の祖父・久保田彌太郎は水墨画家(雅号は翁谷)。成子は祖父の影響で芸術的な雰囲気の家庭に育つ。高校から新潟大学教授に絵を習い、在学中「二紀展」に入選。高校の美術教員が彫刻家であったことと、女性の彫刻家が少なかったという理由から、久保田は彫刻の道を志すようになる。
大心 昇(だいしん のぼる、1937年8月2日 - 2012… 大心 昇(だいしん のぼる、1937年8月2日 - 2012年3月20日)は、北海道山越郡長万部町出身で宮城野部屋(入門時は高嶋部屋)に所属した大相撲力士。本名は長田 留雄(ながた とめお)→長田 留男( - とめお)。最高位は東前頭8枚目(1966年9月場所)。得意手は右四つ、寄り、蹴手繰りなど。現役時代の体格は179cm、115kg。 18歳の時上京し、高嶋部屋に入門。1956年9月場所で初土俵を踏んだ。同期の初土俵には、後の横綱・大鵬(当初、納谷)や小結・沢光(同、沢向)などがいる。翌年1月場所にて、「長葉山」の四股名で序ノ口に付いた。同場所では5勝3敗と勝ち越し、上々の「大相撲デビュー」となったが、2勝目は納谷から挙げている(因みに納谷(大鵬)との対戦は、同場所以降、2度と叶わなかった)。
鎌田 敏夫(かまた としお、1937年8月1日 - )は、日… 鎌田 敏夫(かまた としお、1937年8月1日 - )は、日本の脚本家・小説家。日本脚本家連盟理事長。日本統治時代の朝鮮の京城府生まれで、徳島県育ち。徳島県立城東高等学校、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。 大学卒業後、シナリオ作家協会の主催するシナリオ研究所(現在のシナリオ講座)で学び、井手俊郎に弟子入りする。1967年、『でっかい青春』にて脚本家デビュー。以降、『飛び出せ!青春』『俺たちの旅』など一連の“青春ドラマシリーズ”をメインライターとして支えた。『俺たちの旅』の中で、中谷隆夫(オメダ、演:田中健)とその妹の真弓(演:岡田奈々)が母子家庭育ちという設定は、鎌田自身が母子家庭育ち(両親が別居)であったことが反映しているということで、「両親がいる家庭に馴染みが無いので、普通の家族が描けなかったのではと思う」と語っている。
泉 信也(いずみ しんや、1937年(昭和12年)8月1日 … 泉 信也(いずみ しんや、1937年(昭和12年)8月1日 ‐ )は、日本の運輸官僚、政治家。勲章は旭日大綬章。 参議院議員(3期)、国家公安委員会委員長(第75・76代)、内閣府特命担当大臣(防災担当、食品安全担当)などを歴任した。息子は財務官僚の泉恒有。 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)出身。福岡県立明善高等学校、九州大学工学部土木工学科卒業。 運輸省に入省、本省港湾局開発課長、同建設課長、第四港湾建設局長などを歴任した。また、和歌山県庁に一時出向しており、土木部港湾課にて課長を務めた。1991年4月、大臣官房審議官を最後に退官。 なお、この間には、中国、フィリピン、ペルー、メキシコなどの発展途上国を訪問しており、技術協力等の活動を展開した。
阿部 征司(あべ せいじ、1937年〈昭和12年〉8月1日 … 阿部 征司(あべ せいじ、1937年〈昭和12年〉8月1日 - 2012年〈平成24年〉12月29日)は、日本のテレビプロデューサー・映画プロデューサー・作詞家。秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)出身。早稲田大学教育学部社会学科卒業。東映でテレビ番組制作や映画製作に携わった。 作詞家としてのペンネームは中瀬当一、田中守。脚本家としてのペンネームとしては、東映プロデューサーの平山亨との共同筆名「海堂肇」がある[要出典]。 1937年(昭和12年)8月1日、秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)において、阿部重吉とハツエの二男として生まれた。阿部家は映画館の花輪劇場の経営者だった。実家が映画館だったこともあり、幼い頃から映画業界を志した。
富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 20… 富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 2018年12月20日)は、茨城県出身のプロ野球選手。 土浦第三高校では、エースとして1954年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、水戸一高に惜敗。高校同期に石上滋夫がいる。 1956年に石上とともに南海ホークスへ入団。1年目から一軍で起用され4勝を挙げるが、その後はやや伸び悩む。1960年にはウエスタン・リーグで防御率1位を記録。1961年にも4勝、1962年には自己最多の40試合に登板するが、1964年限りで引退。引退後は日立電線の土浦工場に勤務した。
金子 晃(かねこ あきら、1937年(昭和12年)7月31日… 金子 晃(かねこ あきら、1937年(昭和12年)7月31日 - )は、日本の会計学者、弁護士、法学博士、慶應義塾大学名誉教授、元会計検査院長(2期)、会計検査院検査官。公認会計士・監査審査会(金融庁)会長。瑞宝大綬章受章。 公共調達と競争政策に関する研究会座長、独占禁止法基本問題懇談会座長代理、社会保険庁の在り方に関する有識者会議座長、経済企画庁国民生活審議会委員、公正取引委員会独占禁止懇話会委員、国民生活センター非常勤理事、再販問題検討小委員会座長、建設業適正取引推進機構内官製談合防止法遵守の手引研究委員会座長、日本証券業協会規律委員会委員等を歴任。
森 一夫(もり いちお、1937年7月30日 - )は、教育… 森 一夫(もり いちお、1937年7月30日 - )は、教育学博士(広島大学論文博士)、大阪教育大学名誉教授。 日本理科教育学会会長、日本教科教育学会理事、日本生活科・総合的学習学会常任理事、日本科学教育学会評議員を歴任。 シンガポールの学校理科教育に貢献。 1984年3月、政府派遣教育制度改善専門家(エキスパート)としてシンガポール教育省カリキュラム開発研究所にて、日本で言うところの理科学習指導要領及び国定理科教科書作成指導とその開発研究並びに現職教育や実践研究のありかた等について同国の校長や視学官への指導と講演に従事した。 以下の表彰・受賞歴がある。 主要な研究テーマは「自然認識の発展(達)と形成」である。
大谷 武雄( おおたに たけお、1937年7月30日[要出典… 大谷 武雄( おおたに たけお、1937年7月30日[要出典] - )は、日本の経営者。品川白煉瓦元社長。 山口県出身である。1960年3月、山口大学文理学部卒業。同年、品川白煉瓦に入社。1999年6月28日、同社専務に就任し、2004年同社相談役となる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年… 橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家、登山家。位階は正二位。勲等は大勲位。学位は法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民。剣道錬士六段。
中山節夫(なかやませつお、1937年7月29日 - )は日本… 中山節夫(なかやませつお、1937年7月29日 - )は日本の映画監督。熊本県菊池郡合志町(現合志市)出身。 1960年、多摩美術大学付属芸術学園映画科を卒業し、日活撮影所に入所。1962年よりフリーの助監督として多数の作品に携わった。その後熊本に帰郷し、1969年に映画デビュー作「あつい壁」を監督した。ハンセン病に対する根強い差別を扱い、話題になった。 2007年『新・あつい壁』を手がける。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2… 義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2010年)は、島根県安来市出身の元プロ野球選手(投手)。 安来中学校(現在の安来市立第一中学校)から米子東高校に進学。高校再編に伴って野球部員が分散を余儀なくされ戦力が手薄となっていたため1年春から先発投手として起用される。1953年秋季中国大会県予選決勝で境高の米田哲也に投げ勝ち本大会に進むが、準決勝でエース横溝桂を擁する岡山東商に敗れ春の選抜出場を逸する。2年時の1954年には阪神軍でプレー経験がある監督の大橋棣の下、夏の甲子園に出場。1回戦は滝川高に延長11回サヨナラ勝ち。2回戦に進出するが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れる。1954年は持病の肋間神経痛のため精彩を欠き、夏の県予選は準決勝で倉吉東高に敗退した。
伊藤 光四郎 (いとう こうしろう、1937年7月28日 -… 伊藤 光四郎 (いとう こうしろう、1937年7月28日 - 2011年11月30日)は、島根県簸川郡大社町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
守随 武雄(しゅずい たけお、1937年7月28日 - )は… 守随 武雄(しゅずい たけお、1937年7月28日 - )は、日本の経営者。日本ビクター社長を務めた。 東京都出身。1961年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に松下電器産業に入社。1993年6月に取締役に就任し、1994年6月には日本ビクター社長に就任。2001年6月に顧問に就任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岩田 順介(いわた じゅんすけ、1937年7月28日 - 2… 岩田 順介(いわた じゅんすけ、1937年7月28日 - 2006年5月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 飯塚商業高等学校(現在廃校)を経て、西日本短期大学法学部を卒業後に福岡県職員となり、飯塚土木事務所に勤務する。その後、自治労福岡県本部委員長や福岡県評副議長などを経て、1990年2月に行われた第39回衆議院議員総選挙で日本社会党の多賀谷真稔(衆議院副議長)の後継として、旧福岡2区から立候補し初当選。 社会党シャドーキャビネットにおいて田辺誠時代は自治政務次官、山花貞夫時代は官房副長官の任に就いた。そして、社会民主党を経て、1996年の旧民主党結党に参画。民主党福岡県連初代代表(松本龍は民主党九州比例代表)に就任。
宮島 将郎(みやじま まさろう、1937年〈昭和12年〉7月… 宮島 将郎(みやじま まさろう、1937年〈昭和12年〉7月27日 - 2025年〈令和7年〉5月23日)は、日本のテレビプロデューサー・実業家、元ラジオパーソナリティー、社会運動家、音楽家。 東京都新宿区出身。東京教育大学附属高等学校(現:筑波大学附属高等学校)卒、1962年(昭和37年)慶應義塾大学商学部卒。在学中は慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団に所属し副指揮者を務める。2025年(令和7年)現在埼玉県入間市に在住していた。 1962年(昭和37年)日本テレビ放送網株式会社入社、芸能局音楽班配属。教育・音楽番組を制作。宮島が最も気に入っている番組は幼児教育番組『カリキュラマシーン』だという。
香西 隆男(こうざい たかお、1937年7月26日 - 2… 香西 隆男(こうざい たかお、1937年7月26日 - 2024年4月29日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー。香川県出身。東京芸術大学卒。 漆職人を目指して、高松工芸高等学校へ。しかし漆にかぶれる体質から、東京芸術大学彫刻科へ進学する。卒業後は、東映動画(現:東映アニメーション)に入社。アニメのことを全く知らずに、東映で実写映画のスタッフになろうと入社試験を受けての入社だったという。アニメ映画『西遊記』を経て、アニメーターとなる。入社4年後の1964年に、永樹凡人、我妻宏、小泉謙三らと共に退社し、ハテナプロの設立に参加。同プロでは東映動画作品の『魔法使いサリー』などの作画を担当した。
新谷 琇紀(しんたに ゆうき、1937年7月26日 - 20… 新谷 琇紀(しんたに ゆうき、1937年7月26日 - 2006年8月31日)は、日本の具象彫刻家。
田中 喜八郎(たなか きはちろう、1937年7月26日 - … 田中 喜八郎(たなか きはちろう、1937年7月26日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
美濃口武雄(みのぐち たけお、1937年7月26日 - 20… 美濃口武雄(みのぐち たけお、1937年7月26日 - 2021年8月28日)は、日本の経済学史学者。一橋大学名誉教授。 東京市中野区で美濃口時次郎の長男として生まれる。成蹊中学校・高等学校を経て、1962年一橋大学経済学部卒(中山伊知郎ゼミ)、1967年同大学院博士課程単位取得退学(師は荒憲治郎)、一橋大学経済学部専任講師、1969年オックスフォード大学留学(ブリティッシュ・カウンシル・スカラー)、1971年助教授、1978年教授。2001年定年退任、名誉教授となり、関東学院大学教授、富士大学大学院初代研究科長を務めた。 指導学生に蜂谷豊彦一橋大学教授、池尾愛子早稲田大学教授、小峯敦法政大学教授、大熊英司元テレビ朝日アナウンサーなど。
宗方 勝巳(むなかた かつみ、1937年〈昭和12年〉7月2… 宗方 勝巳(むなかた かつみ、1937年〈昭和12年〉7月25日 - 、本名同じ)は、日本の俳優。一般財団法人グリーンクロスジャパン評議員。大阪府堺市出身。現在は神奈川県鎌倉市在住。妻は女優の長内美那子。旧芸名は宗方 勝己(読みは同じ)及び谷川 勝巳(たにがわ かつみ)。 明治大学付属中野高等学校定時制を経て明治大学文学部仏文科卒業。 1958年にテレビドラマ『バス通り裏』に出演して知名度を上げ人気に。 長内美那子とは、テレビドラマ『古都』での共演がきっかけで1967年に結婚。 2006年に脳梗塞を患い、2007年には大腸癌を併発し闘病生活を送っていたが現在は克服している。 また妻と共にワイドショーの司会も務めるなど多岐に渡り活躍。
谷川 英夫(たにがわ ひでお、1937年7月24日 - )は… 谷川 英夫(たにがわ ひでお、1937年7月24日 - )は日本の大蔵官僚。国税庁長官官房人事課長、税務大学校長、青森県副知事、関東財務局長などを歴任。岩手県盛岡市若園町10丁目在住。瑞宝中綬章受章。 北海道函館市出身。東京大学法学部卒業。1961年 大蔵省入省(大臣官房文書課)。1966年7月 府中税務署長。1984年6月 国税庁長官官房人事課長。1986年6月 税務大学校長。1987年6月 青森県副知事。1989年7月1日 関東財務局長。1990年6月29日 退官。同年7月 中小企業信用保険公庫理事。1992年10月 岩手銀行顧問。1993年6月 同行専務。2008年春の叙勲で瑞宝中綬章を受章。
石井 登(いしい のぼる、1937年7月23日 - )は、岡… 石井 登(いしい のぼる、1937年7月23日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手。
島田 良夫(しまだ よしお、1937年7月23日 - )は、… 島田 良夫(しまだ よしお、1937年7月23日 - )は、日本の男性アナウンサー。東京都新宿区出身。東京教育大学卒業。中部日本放送を退社後、テレビ東京に入社。その後、同社を定年退職。 テレビ東京時代、2003年3月まで31年間続いた「早指し将棋選手権」・「早指し新鋭戦」(プロ将棋の公式棋戦)の司会を、初年度から最終年度まで務め上げた。最後の6年間は、定年退職後での司会である。番組冒頭での定番の台詞は、「テレビ将棋対局の時間でございます。朝のひとときを早指し将棋でお楽しみください。」である。 将棋大賞の選考委員も務め、選考会議におけるやりとりの様子は「将棋世界」誌に掲載された。 2008年、70歳のときに、第15回「大山康晴賞」を日本将棋連盟から授与された。
ヒロ・マツダ(Hiro Matsuda、1937年7月22日… ヒロ・マツダ(Hiro Matsuda、1937年7月22日 - 1999年11月27日)は、日本のプロレスラー。本名:小島 泰弘(こじま やすひろ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。 日本プロレスを経てフリーランサーとなり、アメリカ合衆国で大きな成功を収めた日本人レスラーの一人である。正統派レスリングのスタイルを押し通し、主にベビーフェイスのポジションで活躍、アメリカにおける「日本人レスラー=ヒール」というイメージを塗り替えた人物とされる。ブッカーやトレーナーとしても活動し、ハルク・ホーガンをはじめ数々のトップレスラーを指導した。 荏原高等学校野球部でエースとして活躍し、卒業後の1957年に日本プロレスに入団するが、1960年に退団。
一色 俊作(いっしき しゅんさく、1937年7月22日 - … 一色 俊作(いっしき しゅんさく、1937年7月22日 - 2013年4月24日)は、日本の高校野球指導者。元愛媛県立松山商業高等学校野球部員で、後に監督として愛媛の高校野球の基礎を作った。
松井 正俊(まつい まさとし、1937年7月22日 - )は… 松井 正俊(まつい まさとし、1937年7月22日 - )は、日本の実業家、第3代松井証券社長。
山中 静哉(やまなか しずや、1937年7月22日 - 20… 山中 静哉(やまなか しずや、1937年7月22日 - 2017年4月18日)は、日本の経営者。アキレス社長を務めた。東京都出身。 1954年に学習院大学政経学部を卒業し、同年に興国化学工業(のちのアキレス)に入社。1986年1月に取締役に就任し、1995年11月に常務、1999年5月に専務、2000年6月に副社長を経て、2002年6月には社長に就任。2005年6月に会長に就任。 2017年4月18日、死去。79歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田邊 光政(たなべ みつまさ、1937年7月22日- )は、… 田邊 光政(たなべ みつまさ、1937年7月22日- )は、日本の法学者。専門は商事法。学位は、法学博士(神戸大学・論文博士・1973年)。名古屋大学名誉教授。大阪学院大学教授。徳島県生まれ。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
奈良原 武士(ならはら たけし、旧姓:鈴木、1937年7月2… 奈良原 武士(ならはら たけし、旧姓:鈴木、1937年7月22日 - 2007年5月12日)は、日本のスポーツジャーナリスト。 東京府東京市京橋区で7人兄弟の第3子として生まれる。早稲田大学高等学院卒業後の1956年に早稲田大学第一文学部露文科に入学し、在学時には体育会山岳部に所属。 大学卒業後の1961年に共同通信社に入社し運動部に配属。FIFAワールドカップの存在が日本では一般的に関心が持たれていなかった時代に、同社の記者として朝日新聞の大谷四郎や読売新聞の牛木素吉郎らと共にメキシコで開催された1970 FIFAワールドカップを取材し、同大会から4大会連続でFIFAワールドカップを取材することになった。
大塚 明彦(おおつか あきひこ、1937年(昭和12年)7月… 大塚 明彦(おおつか あきひこ、1937年(昭和12年)7月21日 - 2014年(平成26年)11月28日)は、日本の実業家。大塚製薬元代表取締役社長、大塚ホールディングス初代会長。 1937年(昭和12年)、徳島県鳴門市に生まれる。父は大塚製薬初代社長で実質的な創業者の大塚正士。長男は大塚ホールディングス会長の大塚一郎。二男は大塚二郎。長女は大塚知子。 1960年(昭和35年)、中央大学工学部を卒業。大塚製薬に入社して、取締役、常務、副社長を経て、1976年(昭和51年)に社長に就任。1977年(昭和52年)に大塚食品社長、1982年(昭和57年)に日本抗体研究所会長。大鵬薬品工業、アース製薬の会長をそれぞれ兼務。
大野咲 慎祐(おおのさき しんすけ、1937年7月21日 -… 大野咲 慎祐(おおのさき しんすけ、1937年7月21日 - 没年不明)は、伊勢ヶ濱部屋、荒磯部屋、伊勢ヶ濱部屋に所属した元大相撲力士。本名は鈴木 晋。現在の秋田県北秋田市出身。174cm、92kg。最高位は西十両4枚目。得意技は左四つ、寄り。 1951年9月場所に初土俵。当初は序ノ口、序二段で勝ち越せずに苦戦したが、1954年9月場所で入門して初めての勝ち越しを決めると、そこから勝ち越しを続けていき、1961年5月場所に十両昇進。1961年11月場所には自己最高位となる十両4枚目まで番付を上げるも入幕は果たせなかった。1962年9月場所で幕下陥落すると、以降十両へ復帰できずに幕下下位で3勝4敗と負け越した1963年9月場所限りで廃業した。
愛知 和男(あいち かずお、1937年〈昭和12年〉7月20… 愛知 和男(あいち かずお、1937年〈昭和12年〉7月20日 - 2024年〈令和6年〉5月3日)は、日本の政治家。旧姓は中田。位階は従三位、勲章は旭日大綬章。 衆議院議員(9期)、防衛庁長官(第54代)、環境庁長官(第25代)、新進党政策審議会長(第2代)等を歴任した。 富山県知事を務めた中田幸吉はおじ。義父・愛知揆一は、自民党衆議院議員で大蔵大臣や外務大臣、内閣官房長官などを歴任した。次男・愛知治郎は元・参議院議員。 東京府(現東京都)出身。東京都立日比谷高等学校卒業を経て、1961年、東京大学法学部を卒業し、日本鋼管(現・JFEスチール、JFEエンジニアリング)に入社。1968年から1972年までニューヨーク事務所に駐在。
緒形 拳(おがた けん、1937年〈昭和12年〉7月20日 … 緒形 拳(おがた けん、1937年〈昭和12年〉7月20日 - 2008年〈平成20年〉10月5日)は、日本の俳優。旧芸名および本名は緒形 明伸(おがた あきのぶ)。趣味は絵手紙と水墨画。 東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)出身、千葉県千葉市育ち。長男は緒形幹太、次男は緒形直人で共に俳優。義理の娘(直人の妻)に女優の仙道敦子、孫に緒形敦(直人の息子)がいる。 なお、後述の通り、芸名の読みは元来「おがた"こぶし"」であるとされるが、一般には「おがた"けん"」として知られる。 1937年7月20日(火曜日)、東京府東京市牛込区で生まれる。男5人兄弟の四男として誕生。太平洋戦争中、空襲で牛込の家が焼かれたため、小学校2年生の時に千葉県千葉市登戸町(現・中央区登戸)に一家で疎開したという。
杉田 亮毅(すぎた りょうき、1937年7月19日 - )は… 杉田 亮毅(すぎた りょうき、1937年7月19日 - )は、日本のジャーナリスト、実業家。公益社団法人日本経済研究センター代表理事参与、株式会社日本経済新聞社参与。 株式会社日本経済新聞社代表取締役社長、株式会社日本経済新聞社代表取締役会長、日本記者クラブ理事長、公益社団法人日本経済研究センター会長などを歴任。2006年に株式会社日本経済新聞東京本社編集局にデジタル編集本部を設立し、2010年に発足した日経電子版のプロジェクトを開始させた立役者となった。