清水 文雄(しみず ふみお、1903年(明治36年)6月6日… 清水 文雄(しみず ふみお、1903年(明治36年)6月6日 - 1998年(平成10年)2月4日)は、熊本県出身の国文学者。和泉式部など中古文学・中世文学の研究で有名。作家・三島由紀夫の才能を見出したことで知られる。 1932年(昭和7年)、広島文理科大学卒業。1933年(昭和8年)、蓮田善明や栗山理一、池田勉と共に「国文学試論」を発行。1938年(昭和13年)、蓮田たちと共に「文藝文化」創刊。 1938年(昭和13年)、国語教師として旧制成城高校から学習院に赴任。1939年(昭和14年)、当時中等科3年生だった平岡公威(三島由紀夫)に、国文法と作文を教える。1940年(昭和15年)、寄宿舎の星雲寮舎監。
高桑 純夫(たかくわ すみお、1903年6月4日 - 197… 高桑 純夫(たかくわ すみお、1903年6月4日 - 1979年5月21日)は、日本の哲学者、思想評論家。 東京女子医科大学教授、愛知大学教授を歴任。 奈良県出身。上智大学文学部哲学科卒。1940年陸軍士官学校教授。中世スコラ哲学を研究するが、戦後唯物論哲学に転じ主体性論争で活躍。 1965年原水爆禁止国民会議事務局長。
牧 嗣人(まき つぐんど、1903年6月2日 - 1987年… 牧 嗣人(まき つぐんど、1903年6月2日 - 1987年1月13日)は、日本のバス歌手、俳優である。 1903年(明治36年)6月2日、大分県にうまれる。 大阪に出て、関西学院大学神学部に入学するが中退し、外山国彦に師事した。東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)に入学、卒業後、山田耕筰に師事した。 1930年代(昭和初年)、フランスに渡り、俳優に転向、マルセル・レルビエやクリスチャン=ジャック、フランス時代のロバート・シオドマクの作品に出演した。フランス映画『Macao, l'enfer du jeu』やドイツ映画に出演[要出典]している。 1940年(昭和15年)には帰国し、東宝映画に2作出演、いずれも歌う役である。
磯野 勇三(いその ゆうぞう、1903年〈明治36年〉6月2… 磯野 勇三(いその ゆうぞう、1903年〈明治36年〉6月2日 - 1986年〈昭和61年〉11月19日)は、日本の外交官。 東京府(現・東京都)出身。1928年東京帝国大学法学部卒業。外務省入省後、1938年上海領事等をへて太平洋戦争開戦時はラングーン総領事。戦時中、第3部対外報道課長兼同調査課長等を歴任。敗戦時には文書課長。戦後、管理局在外邦人部長兼同経済部長、終戦連絡中央事務局管理部長兼管理局経済部長をへて、1948年特殊財産局長、1949年京都連絡調整事務局長等となる。 一旦退官後、1955年にサンパウロ総領事、57年ポルトガル公使、59年同大使、61年レバノン大使兼ヨルダン公使等に就任し、64年退官。
丸山 邦雄 (まるやま くにお、1903年〈明治36年〉6月… 丸山 邦雄 (まるやま くにお、1903年〈明治36年〉6月2日 - 1981年〈昭和56年〉10月17日)は、日本の経済学者、社会運動家、明治大学教授。 終戦直後、安全の確保や飢餓、流行病に苦しむ旧満洲在留邦人救済のため新甫八朗、武蔵正道らとともに日本国政府や連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)などとの交渉や働きかけに奔走。旧満洲に取り残された旧満洲在留邦人の祖国引揚げ(葫芦島在留日本人大送還)に貢献する。(170万人のうち実際に引き揚げできた者は約105万人とされる )。 長野県下水内郡柳原村(現 飯山市)に生まれる。旧制高校卒業と同時に明治大学法科に入学、法律を学ぶ。 1930年(昭和5年) 明治大学卒業。
大貫 大八(おおぬき だいはち、1903年(明治36年)6月… 大貫 大八(おおぬき だいはち、1903年(明治36年)6月1日 – 1971年(昭和46年)7月22日)は、昭和期の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 栃木県那須郡境村(烏山町境を経て現那須烏山市)で生まれる。弁護士の書生のかたわら下野中学校(現作新学院高等学校)を卒業。中央大学専門部法科に進学し、三輪寿壮弁護士事務所の書生をしながら1927年(昭和2年)に大学を卒業。高等試験司法科試験に合格し、1928年(昭和3年)宇都宮市で弁護士を開業した。 三輪の薫陶を受け日本労農党に入党し、1930年(昭和5年)宇都宮市会議員選挙(初回の普通選挙)で黒沢幸一と共に当選。労農大衆党栃木県連執行委員、栃木農民組合執行委員を務め、小作争議、労働争議を指導した。
林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日… 林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分県大分市出身。本名は後藤 寿夫(ごとう ひさお)。戦後の一時期の筆名は白井 明。戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。 父が酒に溺れたため、家業の雑貨商が破産。このため母が紡績工場の女工として家計を支えた。1916年(大正5年)、旧制大分中学校(現・県立大分上野丘高校)入学後は、銀行家の小野家の住み込み家庭教師として働きながら苦学し、1919年(大正8年)、第五高等学校に入学してからも小野家の援助を受ける。
黒井 明(くろい あきら、1903年(明治36年)5月27日… 黒井 明(くろい あきら、1903年(明治36年)5月27日 - 1933年(昭和8年)3月10日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。水上機機長としての不時着水時の行動で責任感の鑑と称えられた。のちに殉職し最終階級は海軍少佐。
春日部 たすく(かすかべ たすく、本名:春日部 弼、1903… 春日部 たすく(かすかべ たすく、本名:春日部 弼、1903年5月26日 - 1985年9月16日)は、日本の水彩画家。水彩連盟の創始者のひとりである。 福島県北会津郡高野村(現 会津若松市)生まれ。実父の春日部春二(春日部雪後)は裁判所長で俳人。 会津中学校(現・福島県立会津高等学校)を卒業。1924年に上京し、川端画学校洋画部で学ぶ。1928年、水彩画会展に入選。1929年、第10回帝展に水彩画「山湖」が初入選、日本水彩画会会員となる。1940年、小堀進、荒井直之助ら同志7人で「水彩連盟」を設立。これ以降、官展や日本水彩画会への出品を止め、戦後も水彩連盟および個展での発表を行った。 作風は風景画を得意とし、あざやかな色彩と情趣ある画情が特徴だった。
佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 198… 佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 1982年7月4日)は、日本の声楽家・オペラ歌手である。日本国内で初めて『カルメン』を演じ、「カルメンお美」と呼ばれる。 1903年5月25日、神戸税関の職員の佐藤友太郎とフランス人の母・ルイズのもと、5人兄弟の末っ子として生まれた。兄に英夫、勇次、明来がいる。後に妹のミチが生まれた。姉の綾子は鹿児島県出身の弁護士で薬品貿易業を営む大嶺俊介の妻となる。 父の友太郎は長崎県出身の佐藤元狩の長男として文久2年8月に生まれた。元狩は維新後京都府に出仕しフィラデルフィア万国博覧会委員として渡米したが、1876年4月30日にサンフランシスコにおいて病死した。
飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日… 飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日‐1991年(平成3年)8月19日)は昭和期の作曲家、指揮者。妻は女優の夏川静江。娘に女優の夏川かほる。
丸茂 作太郎(まるも さくたろう、1903年〈明治36年〉5… 丸茂 作太郎(まるも さくたろう、1903年〈明治36年〉5月25日 - 1988年〈昭和63年〉)は、昭和期の実業家、政治家。長野県茅野市長。 長野県諏訪郡玉川村(現・茅野市)で、丸茂米作、きち の四男として生まれた。生家は製糸業で、旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、旧制東京高等蚕糸学校(現・東京農工大学)卒業。1927年(昭和2年)丸茂製糸場に入社。1932年(昭和7年)同郡永明村(現・茅野市)に丸茂製糸工場を設立した。 1941年(昭和16年)永明村翼賛壮年団長に就任。1942年(昭和17年)永明村会議員となった。以後、ちの町消防団長、茅野町消防団長、茅野町議会議員などを歴任。
中村 清(なかむら きよし、1903年(明治36年)5月25… 中村 清(なかむら きよし、1903年(明治36年)5月25日 – 1993年(平成5年)11月15日)は、日本の内務官僚、政治家。三重県副知事、衆議院議員(2期)。 三重県志摩郡鵜方村、のちの阿児町鵜方(現志摩市阿児町鵜方)で、中村市太郎の二男として生まれる。専検合格を経て、1929年、東京商科大学本科を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、内務省に入省し警視庁属兼警部に任官し保安部工事課に配属された。 以後、沖縄県警察部特別高等課長、茨城県警察部特別高等課長、警視庁警視、麻布鳥居坂警察署長、岡山県商工水産課長兼知事官房秘書課長、同人事課長、千葉県警察部特別高等課長、京都府警察部特別高等課長、島根県経済部長などを歴任。
清川 玉枝(きよかわ たまえ、1903年5月24日 - 19… 清川 玉枝(きよかわ たまえ、1903年5月24日 - 1969年1月21日)は、日本の女優。 1903年(明治36年)5月24日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区)に生まれる。東洋高等女学校(現在の東洋女子高等学校)卒業後、新劇女優として芽生座、築地座、創作座などに参加して舞台に立つ。この間の1928年(昭和3年)、山田隆弥製作の『肉弾決笑記』で映画に初出演する。 1936年(昭和11年)、P.C.L.映画製作所(後に東宝映画)に入社。成瀬巳喜男監督の『君と行く路』、山本薩夫監督の『お嬢さん』『田園交響楽』、島津保次郎監督の『兄の花嫁』などに出演し、個性的で柔軟な演技の脇役として活躍する。戦後は、数本に東宝作品に出演したのち、東宝争議で新東宝に移る。
梅原 半二(うめはら はんじ、1903年5月24日 - 19… 梅原 半二(うめはら はんじ、1903年5月24日 - 1989年5月23日)は、日本の自動車技術者。元豊田中央研究所代表取締役所長を務めた。 愛知県知多郡内海町(現南知多町)生まれ。味噌醤油醸造業米沢屋を営む名家で兄は町長を務めた。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)第4学年を修了し、第八高等学校卒業後、東北帝国大学工学部機械工学科に進学するが結核患い休学となる。その後東北帝国大学講師を辞し、妻が経営するバーのマスターを務めていたが、1936年に豊田自動織機製作所に入社し、自動車部嘱託技師となる。1945年東北帝国大学工学博士。1950年からトヨタ自動車工業取締役を務め。初代トヨタ・クラウン、初代トヨタ・コロナの開発指揮を行った。
鈴木 俊三(すずき しゅんぞう、1903年5月24日 - 1… 鈴木 俊三(すずき しゅんぞう、1903年5月24日 - 1977年6月17日)は、日本の実業家。旧姓は木村(きむら)。 鐘淵紡績株式会社、鈴木式織機株式会社での勤務を経て、鈴木自動車工業株式会社社長(第2代)、鈴木自動車工業株式会社会長(初代)などを歴任した。 1903年5月24日に生まれ、愛知県の額田郡岡崎町(現:岡崎市)にて育った。浜松高等工業学校に進学し機械科にて学んだ。1927年、浜松高等工業学校を卒業した。その後、鐘淵紡績に技術職として入社した。このころ、実業家の鈴木道雄と出会い、道雄の長女との縁談が持ち上がった。1931年、道雄が経営する鈴木式織機に入社するとともに、道雄の長女と結婚して鈴木家に婿入りし、道雄の養嗣子となった。
サトウ ハチロー(1903年5月23日 - 1973年11月… サトウ ハチロー(1903年5月23日 - 1973年11月13日)は、日本の詩人、作詞家、作家。本名:佐藤 八郎(さとう はちろう)。多くの別名を用いており、陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六、清水士郎、清水洋一郎、並木せんざ、江川真夫、熱田房夫、倉仲佳人、倉仲房雄、などがある。旧制早稲田中学校(現:早稲田中学校・高等学校)中退後、旧制立教中学(現:立教池袋中学校・高等学校)へ転入。作家の佐藤愛子は異母妹にあたる。 「うれしいひなまつり」、「ちいさい秋みつけた」、「リンゴの唄」の作詞者として知られる。 母親への想いなどをうたった叙情的な作風で知られ、2万にもおよぶ詩のうち3千が母に関する詩である。
宋 能云(ソン・ヌンウン、朝鮮語: 송능운、1903年5月2… 宋 能云(ソン・ヌンウン、朝鮮語: 송능운、1903年5月23日 - 1980年12月27日または12月29日)は、日本統治時代の朝鮮の教員、実業家、大韓民国の政治家。全羅北道議会(朝鮮語版)議員、第5代韓国国会議員。本貫は礪山宋氏。 全羅北道沃溝郡出身。群山公立農林学校、全羅北道教員養成所を経て、1928年広島広陵中学校卒。城山公立普通学校教員を経て、慶尚南道農務課で10余年間勤務した。その後、沃溝郡庁産業技手、朝鮮米穀調査委員、新泰仁中央醸造株式会社社長、自由党所属の全羅北道議会議員、大韓国民会井邑郡副会長、井邑郡酒造組合理事長、新泰仁中高等学校財団理事、国会農林委員を務めた。 1980年12月27日、ソウル市江東区岩寺洞の自宅で持病により死去。
石田 和外(いしだ かずと、1903年5月20日 - 197… 石田 和外(いしだ かずと、1903年5月20日 - 1979年5月9日)は、日本の裁判官(第5代最高裁判所長官)、剣道家(第2代全日本剣道連盟会長、一刀正伝無刀流第5代宗家)、「英霊にこたえる会」初代会長、「元号法制化実現国民会議」初代議長。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。 福井県福井市生まれ。父は福井県庁職員。祖父の石田磊は福井商工会議所初代会頭、第九十二国立銀行頭取、福井市議会議長であった。 福井中学校在学中、父が46歳で他界し、一家で上京。錦城中学校を卒業し、1920年(大正9年)、旧制第一高等学校に進学。 東京帝国大学法学部を卒業する。 卒業後は司法省に入省。最高裁判所長官を務め、1973年5月定年退官。
福井 勇(ふくい いさむ、1903年5月20日 - 2006… 福井 勇(ふくい いさむ、1903年5月20日 - 2006年8月14日)は、日本の昭和期の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。現在の経世会の祖先にあたる周山会の一味だった。 愛知県蒲郡市出身。浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)を卒業後、商工省に入省。官僚生活を経て1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧愛知5区から日本自由党公認で出馬したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で出馬し初当選した。保守合同後は自民党に所属し、通算当選6回。文部・運輸政務次官などを歴任した。1973年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。1975年からは参議院議員を1期務めた。
梶浦 正之(かじわら まさゆき、1903年(明治36年)5月… 梶浦 正之(かじわら まさゆき、1903年(明治36年)5月20日 - 1966年(昭和41年)12月12日)は日本の詩人。 愛知県海部郡佐織町勝幡(現・愛西市)に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学経済学部を卒業する。 早くから雅趣溢れる象徴詩を『明星』、『日本詩人』、『詩聖』などに発表し、1921年(大正10年)に『飢え悩む群れ』を刊行し、1925年(大正14年)に刊行した『鳶色の月』によって詩壇に確固たる地位を得た。その後、1935年(昭和10年)代に入ると新現実派を主唱し、詩誌『詩文学研究』を発行する。
田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉… 田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉5月20日 - 没年不明)は、日本の地主・実業家。神奈川県多額納税者。東土地合名会社代表社員。早稲田大学評議員。 神奈川県横浜市中区中村町、田辺郷左衛門の三男、あるいは四男。1925年、早稲田大学専門部法律科卒業。1936年、家督を相続。貸地業を営む。1938年、蒙疆連合委員会の招聘に応じ渡蒙し、蒙古聯合自治政府嘱託となる。 趣味は自然科学研究、音楽、読書、旅行。宗教は真言宗。住所は神奈川県横浜市中区中村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
大矢崎 信哉(おおやざき しんや / のぶや、1903年5月… 大矢崎 信哉(おおやざき しんや / のぶや、1903年5月20日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。峰崎部屋→片男波部屋→伊勢ノ海部屋→花籠部屋所属。本名は木越 信哉。最高位は十両2枚目。 秋田県北秋田郡田代町(現大館市)出身。1920年5月初土俵を踏む。1925年1月十両に昇進。番付を上げ、1926年1月には西十両2枚目まで進んだが、この場所で負け越してからは番付を下げ、1927年1月に幕下に落ちた。1927年10月再十両、この場所と翌場所も負け越し、再び幕下に落ちた。1928年5月に十両復帰。連続6場所務めた後、1930年1月幕下に落ち、同年10月に廃業した。 甥は伊勢ヶ濱部屋の元十両力士の大矢崎武男。
島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年〈明治36年〉5月1… 島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年〈明治36年〉5月19日 - 1990年〈平成2年〉8月26日)は、日本の華族。玉里島津家第3代当主。位階・勲等・爵位は正三位勲一等公爵。第8代日本赤十字社社長、結核予防会会長などを歴任した。 1903年(明治36年)5月19日、島津忠済の長男として、東京市麹町区三年町に生まれる。学習院女子部幼稚園に入る。学習院初等科、中等科、高等科を卒業。1915年(大正4年)、初等科在学中に父・忠済が58歳で死去して、家督を継ぐ。 1926年(大正15年)、京都大学文学部に入学、のち法学部に移り、在学中に結婚し、1930年(昭和5年)に卒業。同年、日本赤十字社本社に「社会事業調査の嘱託」として入社し、調査部に勤務。
酒井 恒(さかい つね、1903年5月19日 - 1986年… 酒井 恒(さかい つね、1903年5月19日 - 1986年2月22日)は、日本の動物学者。蟹の研究で知られる。 神奈川県足柄上郡大井町金手出身。1924年(大正13年)神奈川師範学校卒。1929年(昭和4年)東京高等師範学校理科三部卒。1932年(昭和7年)東京文理科大学文理学部動物学科卒。1939年(昭和14年)「日本産蟹類の研究」で京都帝国大学理学博士。1932年(昭和7年)東京文理科大学附属下田臨海実験所助手、1938年(昭和13年)岐阜県女子師範学校教諭、1943年(昭和18年)神奈川師範学校教授、1949年(昭和24年)横浜国立大学学芸学部教授。1954年(昭和29年)から翌1955年までと1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)まで学芸学部長を二度務め、1954年(昭和29年)から翌1955年(昭和30年)まで横浜国立大学学芸学部理科教育岩実験所(真鶴理科教育実験所の前身)所長を務め、69年定年退官。
恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36… 恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36年〉5月16日 - 1995年〈平成7年〉3月23日)、のちに賀陽 敏子(かや としこ)は、日本の旧皇族。賀陽宮恒憲王の妃。九条道実公爵令嬢。貞明皇后は叔母、昭和天皇は従兄にあたる。戦後皇籍離脱。
太田 耐造(おおた たいぞう、1903年(明治36年)5月1… 太田 耐造(おおた たいぞう、1903年(明治36年)5月16日 - 1956年(昭和31年)3月21日)は、日本の検察官、司法官僚、弁護士。 東京出身。東京帝国大学法学部卒業。 東京地方裁判所検事、司法省刑事局第六課長、司法省会計課長、甲府地方裁判所検事正、満州国司法部刑事司長を歴任し、1944年、大審院検事となった。 この間、司法省刑事局第六課長時代の1941年、治安維持法改正に関わり、長年の懸案事項であった予防拘禁制を立案し盛り込んだ。さらに国防保安法の立案立法化も手がけた。また、ゾルゲ事件捜査に関わった。 塩野季彦を頂点とする思想検事の主流「塩野閥」において、佐藤祥樹、岸本義広、佐野茂樹らとともに「塩野閥四天王」の一人に数えられ、戦後も岸本派はその実、太田派とされた。
守屋 善輝(もりや よしてる、1903年5月15日 - 19… 守屋 善輝(もりや よしてる、1903年5月15日 - 1993年3月11日)は、日本の法学者(英米法)。法学博士(中央大学・論文博士・1962年)。中央大学名誉教授。元中央大学学長代理。勲三等旭日中綬章受章。高柳賢三門下。 東京出身1929年東京帝国大学法学部卒業。1933年同大学院(旧制)法学研究科修了。1935年中央大学法学部教授。1936年イギリス・ケンブリッジ大学、アメリカ・ハーバード大学に留学。1948年中央大学予科長。1951年中央大学評議員(~1972年)。1952年中央大学学生部長。1954年中央大学通信教育部長。1966年日本比較法研究所所長(~1972年)。1968年中央大学学長事務取扱。
市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 … 市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 - 1972年12月4日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。 長野県長野市出身。明治大学を卒業し、1922年に信濃毎日新聞社に入社。 1934年に読売新聞社に転じ、1950年に北海タイムス主筆を経て、1958年1月から1961年4月までに長崎新聞社社長を務めた。 1972年12月4日、肺炎で死去した。69歳没。
叡南 祖賢(えなみ そけん、1903年(明治36年)5月15… 叡南 祖賢(えなみ そけん、1903年(明治36年)5月15日 - 1971年(昭和46年)1月4日)は、天台宗の僧侶。千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。無動寺谷明王堂輪番、比叡山延暦寺執行として弟子育成と比叡山の復興に尽力、叡山の傑僧と言われた。 愛知県丹羽郡豊富村(現、一宮市千秋町)の伊藤家の二男として生まれる。1910年(明治43年)、7歳で愛知県西春日井郡賢林寺において密蔵院中村勝契大僧正について得度。同年、愛知県龍光寺住職稲田祖珪の養子となり、名を賢一から祖賢と改名する。 1918年(大正7年)、愛知県の中学校から、比叡山中学校に転校する。1922年(大正11年)、天台宗西部大学に入学。
早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5… 早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5月14日 - 1990年〈平成2年〉6月16日)は、日本の実業家。昭和石油第3代社長。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)の石油精製業・早山与三郎の長男として出生、新潟県新潟市白山浦2丁目(現 新潟市中央区白山浦2丁目)に転居。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に新潟高等学校を卒業、1926年(大正15年)3月に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 父の早山与三郎が新潟市関屋大川前で営む早山製油所で石油精製業に従事、日米礦油新潟製油工場や早山製油所川崎工場を経て、1932年(昭和7年)6月に日米礦油取締役に就任、1933年(昭和8年)2月から不二商事監査役を兼任。
草野 心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月1… 草野 心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日)は、日本の詩人。福島県石城郡上小川村(現・いわき市小川町)出身。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 慶應義塾普通部を中退、中国広東の嶺南大学芸術科に学んだ。1928年に『第百階級』を刊行。1935年に逸見猶吉創刊の詩誌「歴程」に参加。その後、日本の傀儡政権である南京の汪兆銘政府の宣伝部顧問となった。南京でできた『富士山』(1943年)に体制的思想の影響を指摘する評もある。戦後、「歴程」を復刊して多くの詩人を育て、蛙を愛した。 1903年(明治36年)5月12日、福島県石城郡上小川村に、父・草野馨、母・トメヨの次男として生まれる。
栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 199… 栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 1998年6月12日)は、日本の中国哲学研究者、中国学者。早稲田大学名誉教授。 1903年、茨城県水戸市で生まれた。第一早稲田高等学院を卒業し、早稲田大学文学部西洋哲学専攻に進学。戸川行男と共に津田左右吉の講義を受講したことを機に、以後、津田に師事。 1933年に早稲田大学文学部助手となった。1937年から2年間北京に留学。1939年に帰国し、早稲田大学文学部専任講師に昇格。1948年に早稲田大学文学部教授となった。1974年に早稲田大学を退職し、名誉教授となった。1998年に死去。 近代的な中国思想研究を日本に導入した先駆者として知られ、特に中国古代思想の分野で優れた業績を上げた。
荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)… 荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)5月9日 - 1983年11月2日)は、日本の英文学者、関西学院大学教授、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)教諭。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー研究の第一人者。 滋賀県彦根市生まれ。1928年、関西学院大学文学部英文学科卒業。青森県弘前市・東奥義塾を経て1930年、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)の英語教諭となる。1946年、関西学院専門部教授、1969年、同商学部教授を退職し神戸海星女子学院大学英文学科教授となる。1981年同大を退職。 1928年に太田晃子と結婚後、1男5女をもうける。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリーのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などの研究で知られる。
相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986… 相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986年11月7日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。栄典は、正四位・勲三等旭日中綬章。 山形県鶴岡市に相良守一の次男として生まれる[要出典]。荘内中学校を経て[要出典]、1925年水戸高等学校理科甲類卒業。1929年東京帝国大学文学部心理学科卒業、同文学部副手。1936年成城高等学校教授、1943年東京帝国大学文学部心理学科助教授、1952年同教授。1952年『逆向抑制の心理学的研究』で文学博士。1964年定年退官、名誉教授。1964年東京女子大学文理学部教授、1969年同大学退職。このほか、湘南工科大学、文教大学の各教授を務めた。 1961年から1964年まで日本心理学会会長を務める。
松本 喜太郎(まつもと きたろう、1903年(明治36年)5… 松本 喜太郎(まつもと きたろう、1903年(明治36年)5月8日 - 1983年(昭和58年)5月2日)は、大日本帝国海軍の技術大佐。勲四等瑞宝章受章。
江守 栄作(えもり えいさく、1903年5月7日 - 198… 江守 栄作(えもり えいさく、1903年5月7日 - 1987年4月2日)は、北海道札幌市生まれの実業家、スケート選手。 明治36年(1903年)札幌生まれで豊水小学校卒。大正7年(1918年)にスケートを始め、大正13年(1924年)ロシアのフィギュアスケートの極東大会で優勝。その後アイスホッケーを始める。 1928年ウラジオストックロシア語学校高等科を卒業した後、貿易会社の清水貿易に就職、ウラジオストック支社長を務めた。 昭和14年(1939年)にトレーニング中のアクシデントから敗血症にかかり左足切断。その後は後進の育成に力を注ぎ、昭和58年(1983年)東京都アイスホッケー連盟会長に就任。
丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 199… 丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 1990年5月25日)は、日本の社会評論家。婦人問題評論家。 生年については、1904年説があるが、没後の集いで井出孫六が「1903年に生まれ」と言っている。 長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)出身。生まれ。本名・石井ひで。政治家の井出一太郎、医学者の井出源四郎、作家の井出孫六、共同通信社論説委員長の井出武三郎は異母弟。生母が幼くして死去したため養女に出され、のち生母の実家で祖父母に育てられた。 長野高等女学校を経て、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業、教師として2年勤めたあと、1929年から産業組合中央会調査部に勤務、組織拡充のため全国の農村を回り、1937年、『日本農村婦人問題』を刊行。
前田 實(まえた みのる、1903年(明治36年)5月4日 … 前田 實(まえた みのる、1903年(明治36年)5月4日 - 1983年(昭和58年)11月15日)は、日本の銀行家。秋田銀行頭取・会長および相談役を務めた。 商法学者前田庸(学習院大学名誉教授)の父。 福島県大沼郡高田町(現在の会津美里町)に、前田寅三郎の長男として生まれた。 1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。同年、旧・秋田銀行に入行する。秋田・福島各支店支配人を歴任し、1946年(昭和21年)10月、常務に選任された。 1959年(昭和34年)には、鈴木直吉の後を受け頭取に昇格した。 頭取在任時は、店舗の県内外への新設や再編に取り組んだほか、現本店ビルの竣工や事務センタービルの建設、オンラインシステムの稼働、さらには東証2部上場の実現など経営の近代化を推進した。
矢島 祐利(やじま すけとし、1903年〈明治36年〉5月2… 矢島 祐利(やじま すけとし、1903年〈明治36年〉5月2日 - 1995年〈平成7年〉8月12日)は、日本の科学史家。 1903年、栃木県安蘇郡界村(現:佐野市)に生まれる。中学卒業後、一高(旧制)を経て、東京帝国大学に入学。中村清二、寺田寅彦、田丸卓郎の指導を受ける。1926年、東京帝国大学理学部物理学科を卒業。同大学工学部講師を経て、1941年から1945年まで京城帝国大学教授。日本に引き揚げ後はGHQに勤務。1949年より東京物理学校講師、のち校名変更で1950年より東京理科大学教授。1969年「電磁理論の発展史」で東京理科大学より理学博士の学位を取得。1973年、定年退職。東京理科大学名誉教授、国際科学史アカデミー会員。
大道 安次郎(だいどう やすじろう、1903年5月1日 - … 大道 安次郎(だいどう やすじろう、1903年5月1日 - 1987年1月11日)は、日本の経済学者、社会学者。専攻はマルクス主義及びアダム・スミス研究。関西学院大学教授。初代社会学部長、図書館長。 福井県敦賀市出身。旧制敦賀商業学校(現福井県立敦賀高等学校)首席を経て、1927年関西学院高等商業学部(現関西学院大学)卒。同時に九州帝国大学へ進学し、1930年高等商業学部講師に就任。以後、助教授、教授となり、19944年、旧制大学法文学部教授に移籍。新制大学後、文学部教授となり、1960年の社会学部設立に際して中心的役割を果たし、初代社会学部長に就任。1972年定年退職。だが、おもにマルクス主義とアダム・スミスを研究した。
三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月… 三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月1日 - 1964年 <昭和39年> 9月21日)は、日本の医師、政治家。岡山県知事。位階は正三位。勲二等瑞宝章。水島臨海工業地帯の誘致など岡山県の発展に貢献したことが認められ、日本人で初めてマグサイサイ賞を受賞した。 マグサイサイ賞の受賞金は郷土の発展に役立てたいとの考えから副賞1万米ドル全額が県に寄付され、この受賞金と県民からの寄附金を中心に岡山県三木記念事業基金が1965年に設置された。 また岡山県下にアイバンクを設置して自ら第1号の登録者となったことから、二人の女性に三木の角膜が移植された。 亡くなった時、私財は着ていた服と眼鏡だけだったといわれる。
鹿地 亘(かじ わたる、本名:瀬口貢(せぐち みつぎ)、19… 鹿地 亘(かじ わたる、本名:瀬口貢(せぐち みつぎ)、1903年5月1日 - 1982年7月26日)は、日本の小説家。大分県西国東郡岬村(現・豊後高田市)出身。東京帝国大学国文科卒業、東京帝国大学大学院博士課程修了。妻は池田辛子。 東京帝国大学在学中から文学と社会運動に関心をもち、林房雄や中野重治たちと社会文芸研究会(のち、マルクス主義芸術研究会に改名)を運営した。大学の外でも、プロレタリア文学運動に参加し、1930年に『労働日記と靴』で注目を浴びる。ただ、当時は文学をプロパガンダに使うことを重視していた傾向があった。1932年に日本共産党に入党。 1934年に治安維持法違反で検挙された後、獄中で転向して出獄。
国松 久弥(國松 久彌、くにまつ きゅうや、1903年5月1… 国松 久弥(國松 久彌、くにまつ きゅうや、1903年5月1日 - 1986年4月14日)は、日本の経済地理学者。茨城大学名誉教授。 弟は独文学者の国松孝二。 千葉県船橋町(現船橋市)生まれ。1926年東京帝国大学経済学部卒。1931年上智大学講師、38年大東文化学院講師、1941年明治学院講師、1946年巣鴨経済専門学校教授、1949年千葉工業大学教授、1950年大東文化大学教授兼任、1952年茨城大学教授、69年定年退官、名誉教授、専修大学教授、金沢経済大学教授。
11代目 濱口 儀兵衛(はまぐち ぎへえ、1903年5月1日… 11代目 濱口 儀兵衛(はまぐち ぎへえ、1903年5月1日 - 1987年2月23日)は、日本の経営者。ヤマサ醤油株式会社社長を務めた。 1903年(昭和36年)5月1日、和歌山県に濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の長男として生まれた。出生名は濱口勉太。濱口儀兵衛家は代々濱口儀兵衛商店を経営する旧家であり、濱口梧洞の代にはヤマサ醤油株式会社が設立された。弟には版画家の浜口陽三、ヤマサ醤油会長の浜口義郎、菊正宗酒造当主の嘉納毅六などがいる。 和歌山県出身。1927年(昭和2年)に東京帝国大学経済学部を卒業。日清製粉での勤務を経て、1928年(昭和3年)10月に生家のヤマサ醤油株式会社に転じ、1931年にはアメリカ合衆国を視察した。
内多 蔵人(うちた くらうと、1903年5月1日 - 198… 内多 蔵人(うちた くらうと、1903年5月1日 - 1980年10月6日)は、日本の経営者。富山県高岡市出身。 1927年に東京商科大学を卒業し、同年に大日本麦酒に入社。1949年に日本麦酒(のちのサッポロビール)に移り、東京支店長、理事、取締役を経て、1961年に常務に就任し、1967年2月に副社長に就任した。1971年2月に社長に昇格し、1973年2月には会長に就任した。 1980年10月6日台湾台北市で旅行中に脳溢血のために死去。77歳没。
山辺 六郎(山邊 六郎、やまべ ろくろう、1903年5月1日… 山辺 六郎(山邊 六郎、やまべ ろくろう、1903年5月1日 - 1983年1月18日)は、日本の会計学者。 東京市浅草区生まれ。1931年東京商科大学(現一橋大学)卒、1961年「原価計算論 管理会計としての原価計算」で一橋大学より商学博士の学位を取得。1931年横浜専門学校教授、1935年長崎高等商業学校教授、1949年学制改革により長崎大学経済学部教授となり、1950年横浜国立大学経済学部教授兼横浜経済專門学校教授兼九州大学講師兼長崎経済專門学校講師、1951年企業会計基準審議会臨時委員、1953年公認会計士審査会(第二次)試験委員、1963年学部長、1966年定年退官し名誉教授、1969年青山学院大学教授、1972年亜細亜大学教授となる。
石原須磨男(いしはら すまお、1903年5月1日 - ?)は… 石原須磨男(いしはら すまお、1903年5月1日 - ?)は、日本の俳優。兵庫県神戸市出身。 当初は、「石原須磨夫」名義で活動しており、中学を中退した後の1921年(大正10年)に新声劇に入団。後に、女優・栗島すみ子の父にあたる栗島狭衣に師事して栗島プロに参加。1930年(昭和5年)、松竹下加茂撮影所に入社、1932年12月の『忠臣蔵 前篇〜赤穂京の巻〜』にて初出演。 1947年大映に移籍。以後、『お遊さま』(1951年)『近松物語』(1954年)『山椒大夫』(同)などの溝口健二監督作品や時代劇で高齢者役を演じ、大映倒産後は『木枯らし紋次郎』(1972年)などテレビにも多数出演。 記録上最後の出演作は『丹下左膳 剣風!百万両の壺』(フジテレビ、1982年10月22日放送)だったとされている。
橋本 五郎(はしもと ごろう、1903年5月1日 - 194… 橋本 五郎(はしもと ごろう、1903年5月1日 - 1948年5月29日)は日本の探偵小説家。代表作に「疑問の三」など。荒木 十三郎(あらき じゅうざぶろう)、女銭 外二(めぜに そとじ)などの名義でも小説を発表した。本名は荒木稔。 岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)出身。 1926年(大正15年)、『新青年』の懸賞小説に、橋本五郎名義で「レテーロ・エン・ラ・カーヴォ」が、荒木十三郎名義で「赤鱏のはらわた」が入選。これが森下雨村に評価され、博文館に入社する。『朝日』『新青年』『文芸倶楽部』などの編集を務めるかたわらで小説を発表していたが、1932年(昭和7年)、父親が死去したため博文館を退社して帰郷。
川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4… 川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4月30日 - 1981年(昭和56年)5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。 妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母」かしこ、娘の和子(伊丹十三の最初の妻、のちにフランス映画社社長の柴田駿と結婚)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。 名の長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政から付けたとされる。今日も川喜多一族の名は財団法人『川喜多記念映画文化財団』として映画界に燦然と輝いている。同法人は、日本映画の芸術文化の発展に甚大なる功績を残した映画人等に対して毎年「川喜多賞」を贈り表彰していることで有名である。