小坂 樹徳(こさか きのり、1921年(大正10年)9月11… 小坂 樹徳(こさか きのり、1921年(大正10年)9月11日 - 2010年(平成22年)8月3日)は、日本の医学者、医学博士。専門は内科学、糖尿病学。東京大学名誉教授、虎の門病院名誉院長。日本人の糖尿病の原因や病態を明らかにし、診断法や治療法の確立に貢献した。 長野県下伊那郡座光寺村(現飯田市)出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、 松本高等学校理科乙類を経て、1945年 東京帝国大学医学部卒業後、坂口康蔵教授の、東京帝国大学第三内科学教室入局。1966年から東京女子医科大学教授、1972年から82年まで東京大学医学部第三内科第6代教授。後任の教授は高久史麿。東京大学退官後は虎の門病院院長を歴任。
黒木 博司(くろき ひろし、1921年(大正10年)9月11… 黒木 博司(くろき ひろし、1921年(大正10年)9月11日 - 1944年(昭和19年)9月7日)は、日本の海軍軍人。海軍機関学校51期。太平洋戦争の末期、仁科関夫中尉とともに人間魚雷「回天」を創案し、自らも搭乗して訓練中の事故で殉職した。最終階級は海軍少佐。 1921年(大正10年)9月11日に岐阜県益田郡下呂村(現・下呂市)で生まれる。幼少より成績優秀・努力家で、黒木家は尊皇の志が篤く、黒木の父親は町医師として近隣の貧しい農民の医療に大きく貢献していた。母親も「百人の人に笑われても一人の正しい人に誉められるよう、百人の人に誉められても一人の正しい人に笑われないよう」と教えた。旧制岐阜中学校を卒業後、1938年(昭和13年)12月1日に海軍機関学校(51期)へ入学する。
館 龍一郎(たち りゅういちろう、1921年9月11日 - … 館 龍一郎(たち りゅういちろう、1921年9月11日 - 2012年2月11日)は、日本の経済学者(金融論・財政学)。勲等は勲二等。東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。日本学士院会員。 日本銀行での勤務を経て、東京大学経済学部教授、東京大学経済学部学部長、青山学院大学国際政治経済学部教授、財政金融研究所所長などを歴任した。 父は館哲二(内務官僚・参議院議員)。長男は館直彦(医学者・精神科医)。 館哲二(内務官僚・参議院議員)の長男として横浜市で生まれる。1944年、東京帝国大学経済学部卒。戦後すぐ日本銀行勤務経験もあった。1950年、東京大学助教授。1961年、東京大学教授。1984年、東京大学を退官し青山学院大学教授。
末木 剛博(すえき たけひろ、1921年9月10日 - 20… 末木 剛博(すえき たけひろ、1921年9月10日 - 2007年12月1日)は、日本の哲学者、論理学者、比較思想研究者。東京大学教養学部名誉教授。 戦後いち早く現代論理学(記号論理学)を研究した一人。東大の大学院では科学史・科学哲学と比較文化を教えた。中村元を助け比較思想学会の創立に関わり、同学会の理事を務めた。 1921年、山梨県甲府市生まれ。旧制甲府中学、第一高等学校を経て、1945年東京帝国大学哲学科卒業。卒業後は東京帝国大学副手、電気通信大学助教授を経て、1954年より東京大学教養学部助教授となった。後に同大学教授に昇進。在職中には東京大学陵禪会の顧問を務め、学生と共に参禅していた。この陵禪会の繋がりで、野矢茂樹は末木を師の一人として仰ぐ様になる。
東井 正美(とおい まさみ、1921年9月10日 - 201… 東井 正美(とおい まさみ、1921年9月10日 - 2016年8月4日)は、日本の経済学者。関西大学名誉教授。専門は農業経済学。 大阪府生まれ。旧制金鐘中等学校、1947年関西大学経済学部を卒業。京都大学大学院経済学研究科で山岡亮一の下農業経済学を専攻し、1950年より母校の関西大学経済学部で教鞭を執り、1961年教授就任。『日本の農業政策』で経済学博士の学位を取得。1996年勲三等瑞宝章受章。 アメリカ農業問題に関して先駆的業績を残し、日本農業経済学会理事、関西農業経済学会(現:地域農林経済学会)副会長などを歴任。関西大学では経済学部長を務め、学長事務代行を一時兼務するなどして、大学紛争の収拾に奔走した。
芳賀 日出男(はが ひでお、1921年9月10日 - 202… 芳賀 日出男(はが ひでお、1921年9月10日 - 2022年11月12日)は、日本の写真家、民俗研究家。日本・世界の祭り・民族・民俗芸能の写真取材をおこなった。子息は写真家の芳賀日向。 関東州大連(現・中華人民共和国遼寧省内)に生まれる。慶應義塾大学文学部を卒業した[要出典]。大学では折口信夫に教えを受け、それに触発されて卒業後に民俗を撮影する写真家となる。 1973年に全日本郷土芸能協会を設立した(のちに理事長を務める)。1985年に株式会社芳賀ライブラリーを設立して取締役会長となる[要出典]。 複数の賞や顕彰を受けている(詳細後述)。 100歳を超えた2021年にも活動していた。 2022年11月12日、老衰のため死去。
橋口 收(はしぐち おさむ、1921年(大正10年)9月8日… 橋口 收(はしぐち おさむ、1921年(大正10年)9月8日 - 2005年(平成17年)7月13日)は、日本の大蔵官僚。初代国土事務次官、公正取引委員会委員長、広島銀行頭取・会長、広島商工会議所会頭を歴任した。 学習院初等科、中等科(旧制)を経て、高等科(旧制)を卒業。中等科3年次から高等科卒業までは首席で通していた。模擬試験も上位に進出し、第一高等学校(旧制)在学生にも「学習院のすごい奴」として知られていた。1943年(昭和18年)に東京帝国大学法学部を卒業。当時助教授だった川島武宜ゼミでも抜きん出た存在であり、川島からは大学に残るように勧められていた。しかし、橋口は「象牙の塔にこもるのは性に合わない」と振りきった。
瀧 正男(たき まさお、1921年9月8日 - 2012年4… 瀧 正男(たき まさお、1921年9月8日 - 2012年4月2日)は、日本のアマチュア野球指導者、元アマチュア野球選手、体育学者。長男は野外活動、レクリエーション活動研究を専門とする中京大学スポーツ科学部スポーツ健康科学科教授の瀧克己。 愛知県一宮市出身。1936年に中京商業学校に入学し野球部に入り、5回甲子園大会に出場。1937年夏の第23回全国中等学校優勝野球大会及び1938年春の第15回選抜中等学校野球大会で捕手として優勝を経験している。バッテリーを組んだのは野口二郎であった。 中京商業を卒業後に名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学経済学部)に進学した後、軍隊に入りマレーシアへ出征。終戦後のマレーシアでの捕虜生活を経て1947年に内地復員を果たす。
坂井 光夫(さかい みつお、1921年〈大正10年〉9月7日… 坂井 光夫(さかい みつお、1921年〈大正10年〉9月7日 - 2015年〈平成27年〉12月28日)は、日本の物理学者。理学博士(東京大学・1957年)。第4代東京大学原子核研究所所長。東京大学名誉教授。専門は原子核物理学。 新潟県新潟市西堀通6番町(現 新潟市中央区西堀通6番町)の新潟高等女学校教諭・坂井仲太郎の次男として出生。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を4年で修了、1941年(昭和16年)3月に新潟高等学校を卒業、1943年(昭和18年)9月に東京帝国大学理学部物理学科を半年繰り上げ卒業、10月に海軍技術見習尉官として中国の青島に向かった。 1945年(昭和20年)10月に復員、副手として東京帝国大学理学部の嵯峨根遼吉の研究室で研究、1951年(昭和26年)9月から1954年(昭和29年)12月までフランス、スウェーデン、アメリカに留学。
荒川 法勝(あらかわ のりかつ / ほうしょう、1921年9… 荒川 法勝(あらかわ のりかつ / ほうしょう、1921年9月7日 - 1998年5月6日)は、日本の作家、詩人、文芸評論家。 岩手県下閉伊郡崎山村(現・宮古市)出身。慶応義塾大学文学部哲学科卒。 1951年、千葉県で地方公務員の公立高校教諭となり、千葉県立佐原第一高等学校教諭、1959年千葉県立成東高等学校教諭。 1965年第3次千葉県詩人クラブ初代会長に就任。1977年日本現代詩人会常任理事。1989年多摩美術大学教授。
坂田 民雄(さかた たみお、1921年〈大正10年〉9月6日… 坂田 民雄(さかた たみお、1921年〈大正10年〉9月6日 - 1999年〈平成11年〉12月14日)は、日本の物理学者。元東京理科大学教授。 兄は、湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした坂田昌一。 1921年9月、神戸にて誕生。1941年4月、大阪帝国大学理学部物理学科入学。1943年9月、同大学卒業後、阪大の菊池研究室にてサイクロトロンの研究に従事。 1943年11月、理化学研究所の仁科研究室にて原子爆弾製造研究(通称「二号研究」)に従事。1944年3月-4月、福井県鯖江連隊に入隊。1945年12月-1946年1月、仁科と共に長崎にて原爆被害状況の調査。 1948年、株式会社科学研究所設立(初代社長 仁科芳雄)時に入社、ペニシリンの研究に従事。
宇野 一(うの はじめ、1921年9月6日 - )は、日本の… 宇野 一(うの はじめ、1921年9月6日 - )は、日本の教育者、教育評論家。 東京生まれ。1942年東京帝国大学文学部教育学科入学、1943年学徒出陣で仏印に従軍。敗戦後復学、1948年卒業。葛飾実践女学校、東京都立第九女子高校(定時制)高校、東京都立多摩高等学校、同福生分校教諭、1962年東京都立小松川高等学校定時制主事、1969年東京都立小山台高等学校教頭、東京都立竹早高等学校教頭、1975年東京都立南葛飾高等学校校長、東京都立江北高等学校校長。日本教職員組合、日本戦没学生記念会で活動した。
大塚 清次郎(おおつか せいじろう、1921年9月5日 - … 大塚 清次郎(おおつか せいじろう、1921年9月5日 - 1995年10月3日)は、日本の政治家。位階は従四位勲二等、勲章は瑞宝章。参議院議員(2期、自由民主党)。自由民主党参議院副幹事長。 1921年佐賀県鹿島市生まれ。1939年佐賀県立佐賀商業学校卒業。その後、南満洲鉄道入社。敗戦を満洲で迎える。 1946年引き揚げ、浜町農業協同組合に就職。その後、鹿島市農業協同組合長、佐賀県農業協同組合中央会会長、日本園芸農業協同組合連合会会長、日本果汁農業協同組合連合会会長を歴任。1955年鹿島市議会議員選挙当選。以後4期16年務める。1971年佐賀県議会議員当選、以後4期15年務め、副議長も経験。 1986年、第14回参議院議員通常選挙で佐賀県選挙区から自由民主党公認で立候補し、初当選。
高橋 博(たかはし ひろし、1921年 〈大正10年〉 9月… 高橋 博(たかはし ひろし、1921年 〈大正10年〉 9月4日 - 2018年 〈平成30年〉 5月24日)は、日本の経営者。呉羽化学工業 (現在のクレハ) 社長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1947年に東京大学法学部を卒業し、同年4月に呉羽化学工業(現在のクレハ)に入社した。1968年5月に取締役に就任し、1970年5月に常務、1972年11月に専務を経て、1973年11月に社長に就任。1988年6月に会長を経て、1994年6月には最高顧問に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2018年5月24日老衰のために死去。96歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
鈴木 美嶺(すずき みれい、1921年9月3日 - 1991… 鈴木 美嶺(すずき みれい、1921年9月3日 - 1991年10月11日)は、日本のアマチュア野球選手、東京六大学野球審判員、公式記録員。 兵庫県出身。旧制愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)から旧制第八高等学校へ進学した。その後、東京帝国大学文学部西洋史学科に進み、野球部に入部。内野手として東京六大学野球リーグ戦でプレーした。また、1946年から1949年まで東京六大学野球の審判員を務めたこともある。 1950年、東京帝国大学卒業後に毎日新聞社に入社し、運動部記者として健筆を揮う傍ら、1954年に東京六大学野球連盟規則委員となり、1961年まで務める。 1955年の暮れ、それまでプロ野球とアマチュア野球が別々に発行していた規則書(ルールブック)の一本化が図られることになり、日本野球規則委員会が設置される。
大下 高明(おおしも たかあき、1921年9月3日 - 20… 大下 高明(おおしも たかあき、1921年9月3日 - 2010年7月1日)は、日本の経営者。フマキラー社長を務めた。広島県出身。長男は大下俊明。 1944年に明治大学商学部を卒業し、後に大下回春堂(現在のフマキラー)に入社。 1950年に取締役に就任し、1960年には社長に昇格。世界初の電気蚊取り器「ベープマット」の開発を進め、1963年には販売に漕ぎ着けた。1985年には会長に就任。 1981年4月に藍綬褒章を受章。 2010年7月1日老衰のために死去。88歳没。
近藤 等(こんどう ひとし、1921年9月2日 - 2015… 近藤 等(こんどう ひとし、1921年9月2日 - 2015年11月29日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、登山家。早稲田大学名誉教授。 京都生まれ。暁星中学校在学中よりフランス語と登山に親しむ。早稲田大学仏文科卒。在学中は山岳部に所属し、朝鮮冠帽峰に遠征。卒業後、同部監督、部長もつとめた。。 早稲田高等学院講師、早大商学部助教授をへて、1955年から教授。フランス文学者としてフランスの山岳文献を多数紹介した。1992年に定年退任、名誉教授。 1962年、パリ大学研究員としてフランスに滞在。この機会にフランス国立登山スキー学校の研修会に参加。以後18回の登山シーズンをアルプスで過ごし、150回ほどの山行で120余峰に登る。
大久保 房男(おおくぼ ふさお、1921年9月1日 - 20… 大久保 房男(おおくぼ ふさお、1921年9月1日 - 2014年7月25日)は、日本の編集者、作家。 三重県北牟婁郡紀伊長島町(現紀北町)生まれ。旧制津中学校を経て、慶應義塾大学国文科で折口信夫に師事する。学徒出陣で1943年に出征、海軍予備学生(第4期)を経て、1944年暮れに海軍少尉となる。敗戦により復員し、1945年10月に復学、1946年9月に卒業する。同年11月、講談社に入社する。1955年から1966年まで『群像』の編集長を務めた。石原慎太郎や有吉佐和子の作品を一切掲載しない一方で、吉行淳之介や安岡章太郎など「第三の新人」と呼ばれた作家たちを陰で支えた。その仕事ぶりは「文学の鬼」「純文学の鬼」などと称された。
関田 英里(せきた ひでさと、1921年(大正10年)9月1… 関田 英里(せきた ひでさと、1921年(大正10年)9月1日 - 2002年(平成14年)10月30日)は、日本の経済学者。元高知大学学長、同大学名誉教授。専門は経済史、農業経済学。高知県生まれ。 1921年9月1日、高知県長岡郡大篠村大埇(現南国市)において、海軍武官の父関田繁里と母豊榮の長男として生まれる。幼少期は郷里で祖父母のもとに過ごし、1927年に父母のもとへ上京。1934年3月、東京市世田谷区立八幡尋常小学校を卒業。同年4月、父の赴任先の長崎県立佐世保中学校を受験し入学。1935年秋頃、父の転勤に伴い麻布中学校に転入。1937年夏頃、父の死に伴い帰郷し高知県立高知城東中学校に転入。
嘉納 芳治(かのう よしじ、1921年〈大正10年〉9月1日… 嘉納 芳治(かのう よしじ、1921年〈大正10年〉9月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。菊正宗酒造元取締役、元監査役。 妻は九代目嘉納治郎右衛門(本嘉納家9代目当主)の五女・周子。長男はフジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長、関西テレビ放送代表取締役会長などを務めた嘉納修治。 兵庫県出身。神戸市東灘区在住。灘の酒造家である嘉納家の一門・乾嘉納家出身。本嘉納商店(現:菊正宗酒造)取締役を務めた嘉納治朗の長男として生まれる。父・治朗は本嘉納家の親戚にあたる嘉納治郎平の四男として生まれ、嘉納百蔵の養子となり本嘉納商店に入社後、嘉納治郎右衛門の片腕として活躍した。 1944年(昭和19年)大阪帝国大学工学部醗酵工学科を卒業後、菊正宗酒造に入社。
阪本 龍児(さかもと りゅうじ、1921年8月31日 - 2… 阪本 龍児(さかもと りゅうじ、1921年8月31日 - 2003年10月21日 )は、日本の経営者。南都銀行頭取を務めた。 奈良県出身。1949年に京都大学農学部を卒業し、1950年に南都銀行に入行。1968年に取締役に就任し、1972年11月に常務、1976年1月に専務を経て、1979年2月に頭取に就任。1990年6月に会長に就任し、1997年6月に取締役相談役を経て、1998年6月には相談役に就任。1985年6月から1997年6月までに近畿日本鉄道取締役も務めた 1981年2月に紺綬褒章を受章し、1984年11月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2003年10月21日心筋梗塞のために死去。
高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、19… 高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、1921年(大正10年)8月31日 - 1991年(平成3年)9月5日)は日本の彫刻家。山形県酒田市出身。 バレリーナをモチーフとした彫刻で知られ、昭和30年代(1955年 - 1964年)中頃まで木彫を中心に制作したが後に塑像へ転向した。 1921年(大正10年)8月31日、神社仏閣の木彫を生業とする生家に生まれる。祖父は宮彫師、父は日本美術院所属の仏教彫刻家。父に師事し木彫を始める。 1940年(昭和15年)上京、翌1941年(昭和16年)東京美術学校入学、関野聖雲に師事。1946年(昭和21年)東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。 1947年(昭和22年)、第3回日展に初入選。
矢野 康(やの やすし、1921年〈大正10年〉8月31日 … 矢野 康(やの やすし、1921年〈大正10年〉8月31日 - 1994年〈平成6年〉9月23日)は日本の政治家。函館市長、函館空港ビルデング社長。 茨城県生まれ。1943年(昭和18年)法政大学経済学部を卒業。1945年(昭和20年)に北海道開拓部勤務となる。 北海道総務部次長、渡島支庁長、水産部長を務めた。1967年(昭和42年)3月に退職した。同年、函館市長に立候補し、吉谷一次や社会党の推す候補、共産党公認候補などを破って当選する。同年5月2日に就任した。 社会党、共産党推薦の無所属新人との争いになったが、自民党公認を得て再選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 革新系の新人との争いになったが、これを破って3選を果たした。
溜池 良夫(ためいけ よしお、1921年8月30日 - 20… 溜池 良夫(ためいけ よしお、1921年8月30日 - 2014年10月16日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1987年)(学位論文「国際婚姻法の基礎的研究」)。京都大学名誉教授。 滋賀県大津市出身。1942年、第三高等学校 (旧制)卒業。1946年、京都帝国大学法学部卒業。1946年、京都帝国大学法学部助手(指導教授:齋藤武夫)。1952年、京都大学法学部助教授。1961年、京都大学法学部教授。1966年、京都大学評議員。1987年、法学博士(京都大学)(学位論文「国際婚姻法の基礎的研究」)。1985年、京都大学停年退官、同名誉教授。1985年龍谷大学法学部教授を歴任。
関 行男(せき ゆきお、1921年(大正10年)8月29日 … 関 行男(せき ゆきお、1921年(大正10年)8月29日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。最終階級は海軍中佐。 レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」(爆装零戦5機)を指揮して、アメリカ海軍の護衛空母「セント・ロー」を撃沈し、さらに護衛空母3隻を撃破した武功で知られる。 1921年8月29日に、愛媛県新居郡大町村(現:西条市)で、父・勝太郎(骨董商)と母・サカエの一人息子として生まれた。 大町尋常小学校(現:西条市立大町小学校)、愛媛県立西条中学校(現:愛媛県立西条高等学校)を経て、1938年12月に海軍兵学校(70期)へ入校。
矢口 陽子(やぐち ようこ、1921年8月27日 - 198… 矢口 陽子(やぐち ようこ、1921年8月27日 - 1985年2月1日)は、日本の女優。戸籍上の本名は黒澤喜代(旧姓:加藤)だが、実生活では「喜代子」と名乗っていた。夫は映画監督の黒澤明。 香港生まれ。昭和高等女学校(現・昭和女子大学附属昭和高等学校)中退。1937年に若園照美の芸名で松竹少女歌劇団入団。 1940年に東宝映画に移籍。島津保次郎監督の『嫁ぐ日まで』でデビュー。1944年に黒澤の2本目の監督作品『一番美しく』に主演する。1945年に黒澤と結婚(挙式は明治神宮、媒酌人は山本嘉次郎夫妻)して女優を引退した。 引退後は家庭に入り、黒澤が気持ちよく映画を撮れるように、内助の功を発揮した。
荒木 正(あらき ただし、1921年8月27日 -没年不明 … 荒木 正(あらき ただし、1921年8月27日 -没年不明 )は、佐賀県出身のプロ野球選手。 唐津商業学校から門司鉄道管理局を経て、1941年に南海軍へ入団。1944年に退団。
今野 耿介(こんの こうすけ、1921年8月27日 - 没年… 今野 耿介(こんの こうすけ、1921年8月27日 - 没年不詳)は日本の内務・警察官僚。和歌山県警察本部長、新潟県警察本部長、四国管区警察局長などを務めた。 旧制浪速高等学校、東京帝国大学法学部卒業。1944年 内務省に入省。熊本県に配属され、内務部農務課、内務部地方課兼農務課、内務部庶務課で勤務。その後は宮城県、栃木県警察部、国家地方警察栃木県本部、札幌警察管区本部、保安庁保安局、防衛庁防衛局などで勤務。1954年6月からサザンメソジスト大学へ留学。青木正国家公安委員会委員長秘書官(事務担当)、警務局付兼内閣調査室内閣調査官、大平・黒金両内閣官房長官秘書官(事務担当)。 1964年7月 長官官房能率管理課長。
安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年〈大正10年〉8… 安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年〈大正10年〉8月26日 - 1967年〈昭和42年〉7月29日)は、昭和時代に沖縄県で活躍した洋画家。 東京府北豊島郡滝野川町田端(現・東京都北区田端)に生まれる。1929年(昭和4年)に沖縄県に転居し、沖縄県立第二中学校で比嘉景常の指導を受け、西洋画を志す。1940年(昭和15年)、東京美術学校図案科に入学し、在学時に出征するが、1945年(昭和20年)の敗戦で除隊する。その後、大分県日田市の日田漆器に入社するが、米軍占領下の沖縄に戻り、1948年、首里市儀保町(現・那覇市首里儀保町)のニシムイ美術村に住宅兼アトリエを建てて住む。 1949年、第1回沖縄美術展覧会(沖展)が開かれると、名渡山愛順・大嶺政寛ら戦後第一世代の審査内容に反発し、1950年に安次嶺金正・玉那覇正吉らと「五人会」(1954年に「グループとしての活動の意義が終わった」という理由で解散)を結成した。
香木 正雄(こうき まさお、1921年8月26日 - 200… 香木 正雄(こうき まさお、1921年8月26日 - 2002年4月28日)は日本の実業家。日本製粉代表取締役社長や、同社取締役会長を務めた。 北海道小樽市出身。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業後、日本製粉入社。日本製粉専務取締役を経て、1985年から日本製粉代表取締役社長を務め、男女満60歳への定年延長や、国立市での食品部冷凍食品管埋センター開設などにあたった。1987年にはワタミフードサービス創業者渡邉美樹と面会するなどし、ワタミフードサービスへの出資を行った。 1992年、勲三等旭日中綬章を受章。2002年4月28日、心不全のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
中村 渓男(なかむら たにお、1921年8月26日 - 20… 中村 渓男(なかむら たにお、1921年8月26日 - 2001年5月19日)は、日本の美術評論家。日本画家・中村岳陵の長男。息子の中村宗弘も日本画家。 神奈川県生まれ。本名は秀男。慶應義塾大学文学部史学科卒。美術史学会・美術評論家連盟所属。宇都宮文星短期大学教授、成田山書道美術館副館長。 2001年5月19日、心不全のため死去。
中 義勝(なか よしかつ、1921年8月25日 - 1993… 中 義勝(なか よしかつ、1921年8月25日 - 1993年10月28日)は大阪府出身の法学者。専門は刑法。1946年(昭和21年)、関西大学法文学部卒業後、同大学法学部教授、学長。恩師は植田重正。 出世作は『輓近錯誤理論の問題点』。『間接正犯』では、安易に間接正犯を認める通説を厳しく批判した。『誤想防衛論』では、団藤説を厳しく批判した。 主観的違法要素と間接正犯を巡る中=中山論争は有名。『刑法上の諸問題』は重要な論文集。教科書として『講述犯罪総論』がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山川 京子(やまかわ きょうこ、1921年8月25日 - 2… 山川 京子(やまかわ きょうこ、1921年8月25日 - 2014年3月20日)は、歌人。 東京府出身。旧姓:田中。松本清張の父・峯太郎の弟・田中嘉三郎の娘で、つまり清張の従妹にあたる。國學院大學文学部国文科卒。中河幹子、折口信夫に師事した。同じく折口門下の詩人・山川弘至と結婚するが、45年夫が戦死。「をだまき」をへて1954年「桃」を創刊。伝統性を尊重しロマン主義をめざす。 大本の信者で、教団の教育機関・梅松塾の第三代塾長を務めた。
伊地知 重威(いじち しげたけ、1921年8月24日 - 2… 伊地知 重威(いじち しげたけ、1921年8月24日 - 2007年3月16日)は、日本の銀行家。埼玉銀行頭取を務めた。 埼玉県出身。1944年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、1945年に埼玉銀行に入行。 1973年5月に取締役に就任し、1975年10月に常務、1978年6月に専務を経て、1981年6月に副頭取に就任し、1976年4月には頭取に昇格。1987年6月に会長に就任し、1989年3月から1990年6月まで社長も兼任した。1991年4月に取締役相談役、同年6月に相談役、1998年4月に特別顧問を経て、同年12月には名誉顧問に就任。 1986年11月に藍綬褒章を受章。 2007年3月16日肺炎のために死去。
佐藤吉男(さとう よしお、1921年8月24日 - 1972… 佐藤吉男(さとう よしお、1921年8月24日 - 1972年10月7日)は、日本の大蔵官僚。 大蔵省主税局総務課長、主計局総務課長、大阪国税局長、総理府人事局次長、主計局次長(末席)、主計局次長(次席)、大臣官房審議官(大臣官房担当)兼財務研修所長などを務めた。 広島県出身。東京商科大学(現在の一橋大学)商学部在学中の1943年7月に高等試験行政科を合格。1944年9月 東京商科大学商学部卒業。1945年8月 陸軍主計少尉となり、同年9月 召集解除。 同年10月 大蔵省入省。外資局属。1946年2月 理財局。1948年10月 倉敷税務署長。 1949年8月31日 主計局主計官補佐(大蔵係主査)。
土田 晃透(つちだ てるみち、1921年(大正10年)8月2… 土田 晃透(つちだ てるみち、1921年(大正10年)8月22日 - 2008年(平成20年)10月20日)は、日本の経営者。元明治生命保険社長・会長。元生命保険協会会長。大分県出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
沼波 万里子(ぬなみ まりこ、1921年8月21日 - 20… 沼波 万里子(ぬなみ まりこ、1921年8月21日 - 2013年4月27日)は、日本の女性の歌人である。中国残留孤児帰国運動にも携わった。 父は国文学者の沼波瓊音(本名 : 沼波 武夫)。母は神戸女子薬学専門学校(現神戸薬科大学)元理事の沼波たき。妹は女優で声優でもあった沼波輝枝。また、名付け親は、安井てつ(元東京女子大学学長)。
市倉 宏祐(いちくら ひろすけ、1921年8月21日 - 2… 市倉 宏祐(いちくら ひろすけ、1921年8月21日 - 2012年7月19日)は、日本の哲学者。現代フランス哲学の研究者。専修大学名誉教授。
和泉 照雄(いずみ てるお、1921年(大正10年)8月20… 和泉 照雄(いずみ てるお、1921年(大正10年)8月20日 - 1986年(昭和61年)4月28日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、鹿児島県議会議員(3期)。公明党に所属した。位階は正五位。 鹿児島県垂水市出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)から1937年に士官学校へ進み、1940年に陸軍士官学校本科(54期)を卒業。陸軍大尉で復員。その後、公職追放となる。 1963年、鹿児島県議会議員に当選し、3期務める(鹿児島市区選出)。3期目の1972年11月に県議会議員を辞職し、第33回衆議院議員総選挙(旧鹿児島県第1区)、第10回参議院議員通常選挙(鹿児島県選挙区)、第34回衆議院議員総選挙(旧鹿児島県第1区)に立候補するが落選。
上原 淳道(うえはら ただみち、1921年8月20日 - 1… 上原 淳道(うえはら ただみち、1921年8月20日 - 1999年11月27日)は、日本の中国史学者。中国古代史専攻。東京大学教授、関東学院大学教授などを歴任。 上原専禄の長男として東京府北豊島郡滝野川(現・北区滝野川)に生まれる。1942年第一高等学校卒業、東京帝国大学文学部東洋史学科入学。しかし、太平洋戦争の戦局悪化により、1943~1945年学徒兵として従軍。 戦後、1948年に東京大学卒業、同大学院に入学。1953年より母校の東京大学教養学部専任講師となり、1955年助教授、1967年教授。1982年に定年退官。名誉教授の称号を辞退し、その後は関東学院大学教授として教鞭をとった。1987年に関東学院大学も退職。
明田 鉄男(あけた てつお、1921年8月18日 - )は、… 明田 鉄男(あけた てつお、1921年8月18日 - )は、日本の歴史家、文筆家。 愛媛県出身。京都大学法学部卒。読売新聞大阪本社記者、論説委員。1964年小説「月明に飛ぶ」でオール読物新人賞受賞。のち、霊山歴史館主任研究員、滋賀女子短期大学教授。 1993年、著書『日本花街史』で、島原の揚屋として寛永以来使われ、国の重文にも指定されている「角屋(すみや)」の中川徳右衛門・十三代当主と、財団法人「角屋保存会」が、明田と雄山閣出版を相手に「内部の写真を無断で掲載、角屋が女性の自由を奪ったような表現で名誉を傷つけられた」などとして全国紙への謝罪広告と保存会、中川当主に各250万円の損害賠償を求める訴えを京都地裁に起こした。
佐藤 久子(さとう ひさこ、1921年8月17日 - 201… 佐藤 久子(さとう ひさこ、1921年8月17日 - 2014年2月27日)は、日本の教育学者。四国大学生活科学部教授。同大学などを運営する学校法人四国大学元理事長。徳島県女子師範学校本科第二部、文化服装学院裁断科及び高等裁断科卒業。 所属学会は日本生活文化史学会。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
増田 卓(ますだ たかし、1921年8月16日 - 1986… 増田 卓(ますだ たかし、1921年8月16日 - 1986年3月25日)は、徳島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 徳島中学校を卒業し、京都薬学専門学校や社会人野球でプレー後、1950年に大映スターズへ入団。1年目から外野のレギュラーを獲得し、下位打者として93試合に出場した。1952年は控えとして、代打や守備交代などでの途中出場が多かったが、翌年からはレギュラーに戻った。1956年は再び控えの外野手になり、この年限りで引退した。 1955年5月24日の毎日×大映戦(後楽園球場)、大映は毎日の荒巻淳投手にノーヒットノーランに押さえられるも、毎日も点が入らず0-0のまま延長戦、そして延長11回1死に増田がヒットを打ってノーヒットは途絶え、その後抑えられてた大映打線が息を吹き返して4-0で勝利した(「延長でノーヒットが途絶えた」で「最終的に4点差」は最多得点差)。
別所直樹(べっしょ なおき、1921年8月16日 -1992… 別所直樹(べっしょ なおき、1921年8月16日 -1992年)は、詩人、評論家。シンガポールにて生まれる。原籍地は宮城県。 母の築地藤子は、アララギの歌人であり、斎藤茂吉、島木赤彦などと親交があり同時代に活動していた。 上智大学経済学科卒業後、新聞、雑誌記者を経て文筆生活に入る。1938年頃から「アララギ」に短歌を寄せ、土屋文明の門にあったが、同時に現代詩にも手を染め、次第に短歌から遠ざかる。「日本詩壇」「若草」に投稿。1943年太宰治の知遇を得、その死までの5年間を師事する。「鱒」「詩行動」「新日本詩人」「文学者」にも寄稿。「灰」主宰。 太宰治との親交にかかわる逸話として、戦時中の物資不足の折、酒が手に入ったとの報に仲間達と共に太宰のもとに集まりささやかな宴の最中、直樹は、誤って酒をこぼしてしまい、ひたすら恐縮する別所に対し太宰は次のように語ったという。
小野 協一(おの きょういち、1921年8月16日 - 20… 小野 協一(おの きょういち、1921年8月16日 - 2002年10月18日)は、日本の英文学者。 和歌山県新宮市出身。1944年東京帝国大学文学部英文科卒。1951年東京外国語大学講師、助教授、教授、1984年定年退官、名誉教授、和光大学教授、鶴見大学教授。1992年退職。ジョージ・オーウェルが専門。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
幾瀬 勝彬(いくせ かつあき、1921年8月15日 - 19… 幾瀬 勝彬(いくせ かつあき、1921年8月15日 - 1995年4月21日)は、日本の小説家、推理作家。旧姓は長島。 北海道出身。札幌第二中学(現北海道札幌西高等学校)を経て、早稲田大学文学部国文科に入学。大東亜戦争の戦況拡大により繰り上げ卒業して、海軍飛行科予備学生となる。ラバウルで終戦を迎えて1946年に復員後はNHK、ニッポン放送に勤務。 1970年、長編「ベネトナーシュの矢」が第16回江戸川乱歩賞の最終候補となる(受賞作は大谷羊太郎の『殺意の演奏』)。これを改題した『死を呼ぶクイズ』を翌1971年に刊行。以後も、A・E・W・メースン、エラリー・クイーンなどの影響を受けた本格志向の作品を発表。
野辺地 正之(野邊地正之、のべち まさゆき、1921年8月1… 野辺地 正之(野邊地正之、のべち まさゆき、1921年8月15日-2005年2月2日)は、日本の心理学者。東京府(現中野区)出身。同志社大学卒業。1966年「自我の変容に関する心理学的研究」で京都大学教育学博士。同志社大学文学部助教授、教授。1992年定年退任、名誉教授。1998年勲三等瑞宝章受勲。
増井 敬二(ますい けいじ、1921年8月14日 - 200… 増井 敬二(ますい けいじ、1921年8月14日 - 2007年9月21日)は、オペラ評論家、音楽ディレクター。 東京出身。慶應義塾大学経済学部卒。1946年、NHKに入社し音楽ディレクターを務める。またラジオのステレオ音楽番組を創始した。1958年、第10回イタリア賞を受賞。NHKを定年退職後は音楽評論の他、神奈川大、横浜国大、武蔵大、東京声專音楽学校で講師を務めた。
小平 芳平(こだいら よしへい 1921年(大正10年)8月… 小平 芳平(こだいら よしへい 1921年(大正10年)8月13日 - 2001年(平成13年)6月18日)は、日本の政治家、宗教家。参議院議員(4期)。 長野県生まれ。1936年、高等科2年を卒業、造り酒屋に奉公、1937年愛知県名古屋市で水道局に勤める傍ら、夜学に通い、中学卒業検定試験に合格。1941年(昭和16年)春、上京し、中央大学に通う。 同年秋、時習学館の新聞の講師求人広告に応募し、創価教育学会の牧口常三郎に出会い、入会する。その後、学徒出陣で、徴兵検査を受け、入隊、終戦を迎える。 戦後、復員すると、創価教育学会から名前を改めた創価学会で、教学部長、機関誌『大白蓮華』編集長などを歴任。
若林 實(わかばやし みのる、1921年8月13日 - 20… 若林 實(わかばやし みのる、1921年8月13日 - 2009年1月17日)は、日本の建築構造学者。京都大学名誉教授、専門は脆性構造耐震、鉄骨鉄筋コンクリート構造。 東京都出身。東京大学生産技術研究所本所第5部助手(1951年~1957年まで)京都大学防災研究所教授、財団法人日本建築総合試験所所長などを歴任した。 著書に、『鉄骨の設計』(大学講座建築学構造編)『新建築学大系 42 合成構造の設計』『耐震建築の設計』『鉄骨構造学詳論』など。 1992年、日本建築学会賞大賞受賞。1995年、勲二等瑞宝章を受章。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。