宮地 久衛(みやじ ひさえ、1876年11月6日 - 193… 宮地 久衛(みやじ ひさえ、1876年11月6日 - 1939年2月18日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐。社会事業家、部落解放運動家。 1876年11月6日、高知県幡多郡小筑紫村田ノ浦(現宿毛市)で宮地重政の長男として生まれた。祖父の宮地重勝は、土佐国幡多郡津ノ川の郷士であり、安政3年(1856年)伊賀家に仕え、田ノ浦村や津賀川村(現小筑紫町都賀川)の庄屋や戸長を勤めた。 3歳で母と離別し、祖母に育てられた。1892年7月に中村小学校高等科を卒業した。同年9月に高知海南学校へ入学したが、学資が足らず2年で退学した。1896年に陸軍に入営し、陸軍士官学校や騎兵実施学校などに学んだ。1901年11月22日、陸軍士官学校(13期)を卒業し、1902年6月23日、騎兵少尉となり、日露戦争では騎兵第15聯隊付として出征した。
松木 直亮(まつき なおすけ、1876年11月5日 - 19… 松木 直亮(まつき なおすけ、1876年11月5日 - 1940年5月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
佐竹 義文(さたけ よしふみ / よしぶみ、1876年(明治… 佐竹 義文(さたけ よしふみ / よしぶみ、1876年(明治9年)11月4日 - 1952年(昭和27年)12月28日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 後の東京市四谷区四谷舟町(現新宿区舟町)出身。佐竹万三の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1903年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。逓信省に入省し管船局属となる。1905年、内務省に転じ神奈川県属に就任した。 1906年、福井県事務官となる。以後、岡山県事務官・第二部長、山梨県事務官・警察部長、鹿児島県事務官・警察部長、奈良県事務官・内務部長、滋賀県内務部長、福岡県内務部長などを歴任。
友枝 高彦(ともえだ たかひこ、1876年11月4日 – 1… 友枝 高彦(ともえだ たかひこ、1876年11月4日 – 1957年7月7日)は、日本の倫理学者。 1876年、福岡県上毛郡大村(現豊前市大村)の大庄屋の家に生まれた。豊津中学校、第五高等学校を経て、1901年東京帝国大学文科大学哲学科に進んだ。学部卒業の後、同大学大学院に進んだ。 1908年、京都帝国大学助教授に任ぜられる。研究のため、英国、米国、ドイツで学ぶ。1914年に帰国し、東京高等師範学校教授となった。1916年からは東京帝国大学教授を兼ねた。1929年、東京文理科大学教授となり、日本女子大学教授を兼任した。1949年に退任し、東京教育大学名誉教授となった。 戦後の1955年、山梨県立臨時教員養成所を母体に都留市立都留文科短期大学(都留短期大学)が設立されると、初代学長となった。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1876年(明治9年)11月3… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1876年(明治9年)11月3日 - 1955年(昭和30年)1月26日)は、日本の西洋史学者。立教大学文学部長、初代史学科長、名誉教授。國學院大學名誉教授。専門は、ギリシャ・ローマ史、西洋史学。日本聖公会の信徒。 文芸評論家の小林秀雄と同姓同名であり、間違われたエピソードについては、野々上慶一『高級な友情:小林秀雄と青山二郎』(小沢書店、1989年)に詳しい。(書籍名の小林秀雄は、文芸評論家の小林秀雄) 1876年、旧会津藩士小林軍雄(ときお)・イシの長男として青森市に生まれる。1888年9月長崎県立長崎中学校に入学、1890年9月東京英語学校(私立) (後の日本中学校、現・日本学園中学校・高等学校)に入学、1893年國學院本科に入学し、1896年卒業。
森 勇(もり いさむ、1876年(明治9年)11月3日 - … 森 勇(もり いさむ、1876年(明治9年)11月3日 - 1958年(昭和33年)10月)は、日本の検事。富山市長。 岐阜県羽島郡中屋村(現在の各務原市)出身。1900年(明治33年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。1902年(明治35年)、判事検事登用試験に合格し、司法官試補として金沢地方裁判所に勤務した。1905年(明治38年)に検事となり、高松区裁判所検事、大津区裁判所検事、大阪地方裁判所検事、大津地方裁判所検事、広島区裁判所検事、山口地方裁判所検事、呉区裁判所検事、広島地方裁判所検事、広島控訴院検事を歴任した。1928年(昭和3年)に那覇地方裁判所検事正となり、以後、富山地方裁判所検事正、奈良地方裁判所検事正、金沢地方裁判所検事正を務め、1939年(昭和14年)に退官した。
内田 秀五郎(うちだ ひでごろう、1876年11月1日 - … 内田 秀五郎(うちだ ひでごろう、1876年11月1日 - 1975年7月26日)は、日本の政治家。東京府豊多摩郡井荻村長・井荻町長、東京府議会議員(5期)、東京市会議員(4期)、第17代東京府会副議長、東京都議会議員(1期)、第3代・5代東京都議会議長を歴任した。 1876年11月1日、東京府東多摩郡上井草村(現・東京都杉並区)に生まれる。1907年に井荻村長に就任し1926年の町制後も引き続き町長に在任。関東大震災以降に進行が加速した東京近郊の都市化への対応に力を入れ、省線中央本線に西荻窪駅の設置を実現し新たに開通した西武鉄道にも上井草・井荻・下井草三駅を誘致。加えて町主導で大規模区画整理を手掛けて善福寺一帯を風致地区とした。
中川 良長(なかがわ たかなが、1876年〈明治9年〉10月… 中川 良長(なかがわ たかなが、1876年〈明治9年〉10月27日 - 1948年〈昭和23年〉8月20日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。 華族・中川興長の長男として生まれる。父の死去に伴い、1920年(大正9年)6月10日、男爵を叙爵した。 1905年(明治38年)学習院大学科を卒業。同年、日本銀行に入行。その後、東京電燈監査役などを務めた。 1921年(大正10年)2月12日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、1925年(大正14年)7月10日まで在任。さらに1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1946年(昭和21年)4月13日に辞職するまで通算二期在任した。
四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1… 四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1937年12月12日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。宮城県仙台市出身。
渋沢 元治(澁澤 元治、しぶさわ もとじ、1876年(明治9… 渋沢 元治(澁澤 元治、しぶさわ もとじ、1876年(明治9年)10月25日 - 1975年(昭和50年)2月22日)は、日本の電気工学者。工学博士。東京大学教授、同大学名誉教授。名古屋帝国大学初代総長(1939年 - 1946年)。子爵・渋沢栄一の甥で孫婿にあたる。義父は男爵・穂積陳重。義兄に穂積重遠。 埼玉県榛沢郡血洗島村(のち大里郡八基村血洗島、現深谷市血洗島)の農家(旧名主の家系)に生まれた。渋沢市郎の長男で、母貞子の実兄が渋沢栄一である。高等小学校卒業後、進学を親に反対されるも進学を決意する。ただ、尋常中学は当時の埼玉にはなかったために上京、栄一の娘婿である大蔵省の阪谷芳郎邸で書生をしながら、一旦成立学舎に入学、12月に東京府尋常中学合格が決まり、同校2年次に編入学した。
水内 吉藏(1876年(明治9年)10月21日 – 不明)は… 水内 吉藏(1876年(明治9年)10月21日 – 不明)は、日本の裁判官。
高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19… 高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19日 - 1931年(昭和6年)9月7日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北葛飾郡彦成村長。 埼玉県葛飾郡上口村(のち北葛飾郡彦成村、現:三郷市上口)の農家に生まれる。1894年、慶應義塾大学を卒業して家業を継いだ。 彦成村会議員、埼玉県会議員、同参事会員、同副議長、彦成村長などを務めた。 1915年、北葛飾郡の非政友派を取り纏めて北葛飾倶楽部を組織。同年3月、第12回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲同志会所属で出馬して当選。第13回総選挙では 憲政会所属で出馬して当選したが、1917年10月24日に議員を辞職し、衆議院議員を二期務めた。
田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(ator… 田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(atoru) Tetsu Tamura; 出生名: たむら さとる、「哲」の元の読み; 1876年〔明治9年〕10月18日 – 1909年〔明治42年〕8月19日) は、日米で活躍した明治時代日本の気象学者・海洋学者。2021年ノーベル物理学賞受賞者の眞鍋淑郎が在籍した米国気象庁に日本人として初めて専門官として勤務したのは後述のとおり田村であり、高等数学応用の気象学者であることも共通する。また斯学の教育者にして米国の高等教育事情を調査・紹介した教育学者。 1876年(明治9年)10月18日、山形県置賜郡米澤北寺町(現、米沢市中央3丁目)に没落した米沢藩士田村芳政の三男として出生。
阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日… 阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日 – 没年不明)は、日本の裁判官。
保科 陽治(ほしな ようじ、1876年(明治9年)10月12… 保科 陽治(ほしな ようじ、1876年(明治9年)10月12日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、島根県簸川郡出西村長。 島根県出雲郡阿宮村(簸川郡出西村、斐川村、斐川町を経て現出雲市斐川町阿宮)で、保科昌三郎の長男として生れ、1904年(明治37年)家督を相続。1892年に和仏法律学校(法政大学)を卒業する。1893年(明治26年)4月に上京し、1897年(明治30年)東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科を卒業。農業を営む。 出西村会議員、学務委員、所得税調査委員に在任。1906年(明治39年)島根県会議員に選出され、同参事会員、出西村農会長、島根県農会幹事、簸川郡会議員なども務めた。
小野 義一(おの ぎいち、1876年(明治9年)10月7日 … 小野 義一(おの ぎいち、1876年(明治9年)10月7日 – 1950年(昭和25年)5月25日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員、東京市助役。 高知県幡多郡、のちの宿毛村与市明(宿毛町を経て現宿毛市)出身。小野義為、キミの長男として生まれる。高知一中、東京府立四中を経て、1898年(明治31年)7月、第一高等学校政治科を首席で卒業。1903年(明治36年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を首席の優等で卒業し、銀時計を授与された。東大の同期には小川郷太郎や上杉慎吉、馬場鍈一ら。同年同月、大蔵属に任官し主計局兼参事官付となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に次席合格。この時の首席合格者は馬場鍈一だった。
櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日… 櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日 – 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の裁判官。宮城控訴院長、広島控訴院長。
千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? -… 千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? - 1958年5月7日)は、サハリン出身の日本の臨済宗の僧侶、20世紀初期にアメリカに禅を広めた。義弟に彫刻家の工藤敬三(旧名:千崎敬蔵)がいる。
赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日… 赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日 - 1943年(昭和18年)8月26日)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛媛県北宇和郡高光村長、宇和島市長。 愛媛県宇和郡宇和島御殿町(現在の宇和島市)で士族・告森桑圃の四男として生まれ、北宇和郡高光村の旧庄屋・赤松新古の養嗣子となる。1900年(明治33年)東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業する。 1910年(明治43年)5月より郷里の高光村長を5期務めたのち、1930年(昭和5年)5月に清家吉次郎の補欠で県会議員となり、任期満了まで務めた。1936年(昭和11年)7月、宇和島市長に就任するが、任期途中の1938年(昭和13年)3月、病気を理由に辞任した。
新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日… 新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。
富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 19… 富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 1947年11月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。東京専門学校で学ぶ。酒造業を営む。伊香郡議、同議長、滋賀県議、所得税調査委員、木之本町(現・長浜市)長、伊香相救社理事社長、木之本製糸、滋賀県農工銀行、滋賀県合同貯蓄銀行、江州日日新聞社各(株)取締役、江北銀行取締役頭取、滋賀県酒造組合連合会会長、全国酒造組合連合会評議員、近江信託(株)監査役となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月… 佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月4日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 水沢県栗原郡有馬村有壁(宮城県栗原郡萩野村、金成町を経て現栗原市金成有壁)で、旧有壁宿本陣の佐藤家に生まれた。札幌農学校を卒業し、さらに慶應義塾、養正塾、セントアンドリーチャーチ英語学校で学んだ。農業を営む。 1896年(明治29年)徴兵され陸軍騎兵少尉となり除隊。1903年(明治36年)9月、宮城県会議員に選出された。1904年(明治37年)6月に応召して県議を辞職し、満州軍に属して日露戦争に出征した。陸軍騎兵中尉に昇進して除隊。
秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 … 秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 - 1937年(昭和12年)7月1日)は、日本の教育者。 福岡県出身。中村芳平の四男に生まれ、秋吉格平の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。真宗京都中学校教諭、島根県立第三中学校教諭、福岡県立中学明善校教諭、福岡県立朝倉中学校校長、大阪府立市岡中学校校長、台湾総督府高等女学校校長、鹿児島県立第一中学校校長を歴任し、1921年(大正10年)から福岡高等学校校長を務めた。現職のまま死去。1937年(昭和12年)7月1日、死去。死去に際し、天皇より祭資を下賜された。同年7月7日の葬送には勅使として福岡県知事が邸宅を訪問、幣帛の下賜を受けた。
植田 松蔵(うえだ まつぞう、1876年(明治9年)9月30… 植田 松蔵(うえだ まつぞう、1876年(明治9年)9月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。彦島運輸社長。植田合名会社代表。日本紙製造取締役。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。彦島の素封家・植田惣五郎の長男。弟は彦島町長の植田末蔵。由緒ある家系の血を享けて悠然貴公子のごとく何等の煩悶もなく成育した。 1921年、家督を相続した。天性磊落、名利に恬淡であった。政治に野心なく、社交に趣味がなかったため、比較的世に知られなかった。 『商工資産信用録 第43回』によると植田松蔵(調査年月・1940年2月)は「正身身代・H、年扱高又は年収・不詳、信用程度・Cb、職業・貸地貸家、労力請負」である。
藤井 彦四郎(ふじい ひこしろう、1876年9月29日 - … 藤井 彦四郎(ふじい ひこしろう、1876年9月29日 - 1956年12月13日)は、日本の実業家。日本の化学繊維市場の礎を築いたパイオニアの1人と言われる。 1876年、三代目藤井善助の次男・磯松として滋賀県神崎郡北五個荘村大字宮庄に生まれる。9歳で先代彦四郎の養子となり、家督を相続し襲名。 滋賀県商業学校(後の滋賀県立八幡商業高等学校)に入学するも中退。朝鮮元山の近江商人宮原商店に奉公し修業を積む。その後、京都に戻り、長兄と共に父・善助の家業を手伝う。 父・善助の死後、分家し、1907年に糸商「藤井彦四郎商店」(現・藤井株式会社)を創業する。 藤井は、フランスにおいて人工絹糸(レーヨン)が発明されたことを知ると、フランス、ドイツから見本品を輸入し「人造絹糸」と名付けて宣伝活動を行った。
松井 鉄夫(まつい てつお、1876年9月26日 - 194… 松井 鉄夫(まつい てつお、1876年9月26日 - 1941年10月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。京都帝国大学法律科で学ぶ。台湾日日新聞記者となり、台湾旧慣調査会の事務に従事する。関東州民政署商工事務嘱託、南満州鉄道(株)社員を経て、大豆撒粕工場と満州耐火煉瓦工場を創立する。ほか、中華電気工業、旅順銀行、東亜証券商品信託各(株)重役、大阪帝国通信社、大日本興農各(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において群馬2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙に立候補したが落選した。1941年に死去した。
横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月2… 横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月25日 - 1933年(昭和8年)12月19日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。従三位勲四等。加賀八家横山家第14代当主。 石川県石川郡金沢で加賀八家横山家当主・横山隆平の長男として生まれる。父の死去に伴い、1903年(明治36年)8月14日に男爵を襲爵した。 第四高等学校補充科で学び、その後、東京に出て専修学校に入学し、田尻稲次郎、阪谷芳郎などから理財学を学び、1897年(明治30年)に卒業し帰郷した。父が経営していた尾小屋鉱山に入り事業の拡大を図った。また親族横山隆興が経営していた平金鉱山(岐阜県)と合併して横山鉱業部を設立し、さらに大蔵鉱山(山形県)、宮田又鉱山(秋田県)などを買収して経営を拡大した。
安藤 正純(あんどう まさずみ、1876年(明治9年)9月2… 安藤 正純(あんどう まさずみ、1876年(明治9年)9月25日 - 1955年(昭和30年)10月14日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。文部大臣(第71代)、国務大臣、衆議院議員(11期)。 東京府東京市浅草区浅草松葉町(現在の東京都台東区松が谷)にある、真宗大谷派真龍寺の住職、安藤了戒の子として生まれ、僧籍を有する。青年時代は宗門改革運動に情熱を燃やしていた。1895年に哲学館(現東洋大学)、1899年に東京専門学校(現早稲田大学)哲学科をそれぞれ卒業。陸羯南主宰の新聞『日本』記者を経て、東京朝日新聞に入社し、1920年には取締役編集局長となる。同年の衆議院議員総選挙に旧東京7区から無所属で立候補し当選を果たす。
慶松 勝左衛門(けいまつ しょうざえもん、前名・勝太郎、18… 慶松 勝左衛門(けいまつ しょうざえもん、前名・勝太郎、1876年(明治9年)9月21日 - 1954年(昭和29年)1月28日)は、日本の薬学者、政治家。貴族院議員。参議院議員(1期)。薬学博士。 京都府出身で、都二条烏丸の薬種街の慶松衛生堂にて生まれる。先代勝左衛門の長男。1901年、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。同年同大学の助手となる。 その後東京衛生試験所技師、関東都督府中央試験所長、南満洲鉄道中央試験所長を経て、1915年10月1日第一製薬の前身であるアーセミン商会を創業。梅毒の治療薬である駆梅剤アーセミン®を発売した。その後1922年東京帝国大学薬学科教授に就任した。この他京都帝国大学講師も務めた。
中野 種一郎(なかの たねいちろう、1876年 <明治9年>… 中野 種一郎(なかの たねいちろう、1876年 <明治9年> 9月20日 - 1974年 <昭和49年> 1月24日)は、日本の政治家、実業家。伏見町長、伏見市長を経て、衆議院議員や、京都放送会長、京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、関西経済連合会副会長などを歴任した。 京都府乙訓郡調子村(現・長岡京市)生まれ。佛教専門学校(現佛教大学)卒業。家業の酒造業に従事する。1908年に紀伊郡会議員となり、以後4期務めた。また、1909年3月からは伏見町会議員となって、3期務めた。1914年からは郡会議長も務めた。1923年の郡制廃止まで郡会議長と議員を務めた。1926年8月3日に伏見町長に就任した。
胎中 楠右衛門(たいなか くすえもん、1876年(明治9年)… 胎中 楠右衛門(たいなか くすえもん、1876年(明治9年)9月20日 - 1947年(昭和22年)3月22日)は、日本の大正・昭和期の政治家、実業家、自由民権運動家。農林審議会議員、米穀統制調査会委員、大日本国粋会幹事長、藤原製材会社社長。 明治9年(1876年)9月20日、旅館業を営む胎中弥平の次男として、高知県安芸郡安芸町(現安芸市)に生れる。母は芳子。 この明治9年(1876年)9月は、折しも明治天皇が国憲草案起創の詔勅を元老院へ御下賜された時にあたり、楠右衛門はことあるごとにそれを深く認識するようになり、晩年「憲政碑」の建立へもその思いがつながっている。 明治23年(1890年)、上京し、神奈川県愛甲郡厚木町(現・厚木市)に居を定めた。
吉田 博(よしだ ひろし、1876年(明治9年)9月19日 … 吉田 博(よしだ ひろし、1876年(明治9年)9月19日 - 1950年(昭和25年)4月5日)は、日本の洋画家、版画家。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した。
藤谷 功彦(ふじたに いさひこ、1876年(明治9年)9月1… 藤谷 功彦(ふじたに いさひこ、1876年(明治9年)9月19日 - 1914年(大正3年)2月28日)は、日本の薬理学者である。 藤谷家の子爵であった藤谷為寛の甥(為寛の弟の子)として京都の上京に生まれる。1900年(明治33年)に京都府立医学専門学校(現在の京都府立医科大学)卒業後、京都帝国大学(現在の京都大学)の助教授として教鞭を執った。 1902年(明治35年)には母校の京都府立医専に教授として回帰し、薬学および医化学を専門に教鞭を執る。1911年(明治44年)には医学博士を取得した。 この項目は、薬学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:薬学/Portal:医学と医療/Portal:化学)。
八杉 貞利(やすぎ さだとし、1876年9月16日 - 19… 八杉 貞利(やすぎ さだとし、1876年9月16日 - 1966年2月26日)は、日本のロシア語学者。 1876年、東京府で生まれた。1888年8月、高等師範学校附属小学校高等科(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1894年に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業し、第一高等学校を経て、東京帝国大学言語学科に進学、卒業した。卒業後はロシアに留学し、比較言語学、スラブ比較文法を学んだ。 帰国後の1903年に東京外国語学校教授となり、母校である東京帝国大学、早稲田大学でも講師を務めた。言語学の研究者として研究を進めると同時に、米川正夫、中村白葉、昇曙夢、木村彰一などのロシア文学者を育成した。
相馬 黒光(そうま こっこう、1876年(明治9年)9月12… 相馬 黒光(そうま こっこう、1876年(明治9年)9月12日 - 1955年(昭和30年)3月2日)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。旧姓は星、本名は良(りょう)。 旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として仙台に生まれた。星家の婿養子だった父は仕事のため別居していた。8歳のときに一家の柱であった漢学者の祖父が死去、十代前半には姉の発狂、父親の癌発病、弟の病気による右足切断が立て続けて一家を襲い、笑わない子となる。少女期より横浜バンド出身である押川方義の教会「仙台日本基督教会」へ通い、14歳で洗礼を受けた。 小学校初等科卒業後、裁縫学校に進むが、進学を強く希望し、1891年に、学費の安かったミッションスクール宮城女学校(現・宮城学院中学校・高等学校)に入学が叶った。
亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日… 亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の国語学者、書誌学者。 兵庫県印南郡曽根村(現・高砂市曽根町)に生まれる。父・猪之介、母・チヨ。母方の祖父は亀田五一郎といい、幕末に塩田開拓などで成功し、南画家の田能村直入などの文人と交流のあった素封家であった。 大阪尋常中学校から熊本の第五高等学校を経て東京帝国大学文学部に進学。友人に新村出がいる。大学を卒業後は恩師・上田萬年が主事を務めていた国語調査委員会嘱託として実務にあたった。1908年に七高へ赴任(同僚に山田準・武藤長平・伊波普猷らがいた)。その後、大阪外国語学校・大谷大学に教授として勤務した。
奥山 亀蔵(旧字体: 奧山 龜藏、おくやま かめぞう、187… 奥山 亀蔵(旧字体: 奧山 龜藏、おくやま かめぞう、1876年(明治9年)9月10日 - 1941年(昭和16年)5月17日)は、日本の土木技術者、内務技官、実業家、政治家。衆議院議員。 1876年(明治9年)9月10日、山形県田川郡古関村(東田川郡大和村、余目町を経て現庄内町)において、豪農・奥山重右衛門の三男として生まれた。 22歳の時に荘内中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し、翌年に石川県金沢市の第四高等学校大学予科二部に入学した。1年間の旧額なども経て、1902年(明治35年)7月に第四高等学校を卒業した。その後は東京府土木課の雇員として、多摩川工区や墨田川工区の現場監督を務めた。
伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月1… 伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月10日 - 1963年(昭和38年)1月14日)は、日本の仏教思想家、社会運動家。青年期には出家した僧であった。 三重県員弁郡久米村坂井(後の桑名市坂井)の農家に生まれ、幼名を清九郎といった。 13歳で出家して真宗大谷派円授寺で得度し、僧となって、名を証信とした。岐阜県大垣の美濃教校、京都市の真宗中学校を経て、真宗大学(大谷大学の前身)に学ぶ。在学中から清沢満之に師事し、大学の東京への移転を機に上京する。大学卒業後は、清沢が唱えた「精神主義」の運動に加わった。 1904年、父の看病のために久米村へ帰郷した際、霊感体験をし「無我の愛」を悟ったという。
木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9… 木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9日 - 1956年〈昭和31年〉12月10日)は、明治末から昭和期の内務官僚、実業家。官選富山県知事。 千葉県出身。従五位勲五等の官吏木間瀬柔三の五男として生まれる。富山中学校で中学1年に在学。第一高等学校を卒業。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し宗教局属となる。 以後、三重県事務官、愛知県事務官、千葉県事務官・第二部長、茨城県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、同県事務官・内務部長、新潟県内務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1915年(大正4年)8月12日、富山県知事に就任。
門田 新松(もんでん しんまつ、1876年(明治9年)9月7… 門田 新松(もんでん しんまつ、1876年(明治9年)9月7日 - 1959年(昭和34年)4月11日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 広島県沼隈郡水呑村(水呑町を経て現福山市)で、門田伝吉の三男として生まれる。1892年(明治25年)鞆高等小学校(廃校)を卒業。1894年(明治27年)水呑小学校雇教師となり、1896年(明治29年)准訓導に進み、1898年(明治31年)呉高等小学校に異動した。1903年、東洋協会専門学校を卒業。 日露戦争に海軍嘱託として従軍。その後、大連市で日清興信所を設立。その他、関東州経済調査委員、大連株式商品取引所理事長、大連郊外土地監査役、大連株式信託ハルピン取引所監査役、教育貯蓄銀行監査役、大連商品信託取締役、満州不動貯金取締役、第一無尽社長、日清印刷所社長などを務めた。
鈴木 周三郎(すずき しゅうざぶろう / しゅうさぶろう、1… 鈴木 周三郎(すずき しゅうざぶろう / しゅうさぶろう、1876年(明治9年)9月2日 - 1940年(昭和15年)12月16日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員、福島県信夫郡杉妻村長。 福島県信夫郡伏拝村(杉妻村を経て現福島市伏拝)で、地主・鈴木清次郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)家督を相続した。 福島商業会議所議員、福島県農会副会長、鈴木実業銀行頭取、福島紡績社長、福島商業銀行頭取、川俣銀行取締役、福島電灯取締役、福島瓦斯取締役、磐城水電取締役、霊山電気取締役、福島羽二重取締役、鈴木商事取締役などを務めた。 政界では、杉妻村長、同村会議員を務めた。
佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9… 佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9年〉9月1日 - 1959年〈昭和34年〉11月29日)は、日本の栄養学者、医師。医学博士。「栄養学の創始者」、「栄養学の父」と称される。世界に先駆けて医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。 栄養は保健・経済・道徳の基本をなすと「栄養三輪」を唱えた。著書『栄養』では、栄養学だけでなく食糧政策にも言及し、魚類を重んじ畜産は小動物にすべきとしている。自分で料理をすることはほとんどなかった。 佐伯が少年時代に育った愛媛県郡中町(現・伊予市)の栄養寺には、佐伯の筆による「栄養」の書と「栄養」顕彰碑が建立されている。 1876年9月1日、愛媛県新居郡氷見村(現・西条市)の医師の家に生まれる。
中村 藤一(なかむら とういち、1876年(明治9年)9月 … 中村 藤一(なかむら とういち、1876年(明治9年)9月 - 1945年(昭和20年)12月7日)は、日本の実業家。元日本製粉代表取締役会長。 長崎県出身。長崎県立長崎中学校を経て、1899年高等商業学校(現一橋大学)保険科専攻部卒業、三井物産入社。三井物産では本店金物掛主任、大阪支店次席、神戸支店長、本店営業部長等を歴任した。 1928年には経営不振が続いていた日本製粉の鈴木商店所有株式が三井に渡り、それに伴い同年から日本製粉代表取締役・専務取締役に就き経営にあたった。後任の三井物産営業部長には向井忠晴が就いた。 安川雄之助が三井財閥から退くと、1936年に日本製粉取締役会長兼代表取締役専務取締役に就任した。
天沼 俊一(あまぬま しゅんいち、1876年8月31日 - … 天沼 俊一(あまぬま しゅんいち、1876年8月31日 - 1947年9月1日)は、日本の建築史家。京都大学名誉教授。古建築の調査に従事した。東京出身。 奈良県技師時代に始めた装飾文様などの細部にわたる古建築研究は、初の日本建築史の概説書『日本建築史要』に実り、身近なものとして古建築の存在を広く知らせた。 東京生まれ。河東節名跡の6代目十寸見蘭洲(本名:天沼熊作)の長男。弟は慶応義塾大学教授の天沼貴彦、妹は画家の天沼青蒲。 1893年東京府尋常中学校(現:東京都立日比谷高等学校)卒。1902年東京帝国大学工科大学建築学科卒、大学院に進む。1905年陸軍歩兵少尉。1906年、奈良古社寺修理技師。1918年、京都府古社寺修理監督技師。
依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひ かねこ、1876年〈明… 依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひ かねこ、1876年〈明治9年〉8月29日 - 1955年〈昭和30年〉3月4日)は、日本の旧皇族。東伏見宮依仁親王の妃。岩倉具定公爵令嬢。母は澤為量子爵令嬢・久子。旧名は、岩倉 周子(いわくら かねこ)。皇籍離脱前の身位は親王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、「東伏見 周子(ひがしふしみ かねこ)」。 1876年(明治9年)8月29日、岩倉具定公爵の長女として誕生。はじめ華族女学校に学ぶが、東京女学館に転校して卒業。安井春子(広瀬武夫夫人)に漢学を、西川清子(西川虎之助の長女、ヴィッカース慶大教授夫人)に英語とピアノを、中島歌子に和歌を、野口小蘋に絵画を、それぞれ師事した。
坪井 九八郎(つぼい くはちろう、1876年(明治9年)8月… 坪井 九八郎(つぼい くはちろう、1876年(明治9年)8月27日)- 1928年(昭和3年)10月7日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・坪井航三の長男として生まれる。父の死去に伴い、1898年(明治31年)2月15日、男爵を襲爵した。 1919年(大正8年)7月、京都帝国大学法科大学を卒業。その後、月島機械取締役、台東製糖取締役、愛国貯金銀行取締役、天津取引所監査役、天津信託監査役などを務めた。 1911年(明治44年)3月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、死去するまで4期在任した。その他、第2次大隈内閣・農商務副参政官、米価調節調査会委員などを務めた。
埴原 正直(はにはら まさなお、1876年〈明治9年〉8月2… 埴原 正直(はにはら まさなお、1876年〈明治9年〉8月25日 - 1934年〈昭和9年〉12月20日)は、日本の外交官。外務次官、駐アメリカ大使、ワシントン会議全権委員。位階および勲等は正三位・勲一等。洋画家の埴原久和代は妹。 山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)生まれ。1897年(明治30年)に東京専門学校卒業後は東洋経済新報社に勤務し、日本最初の外交専門誌『外交時報』を刊行する。 翌1898年(明治31年)に第7回外交官及領事官試験に合格し外務省に入省。同期に田中都吉、本多熊太郎らがいる。清国(現・中国)アモイ領事館補を皮切りに、以降順調に昇進を果たす。外務次官時代には当時の海軍大臣・加藤友三郎や駐アメリカ大使・幣原喜重郎とともにワシントン会議の全権委員に選任された。
奥村 安太郎(おくむら やすたろう、1876年(明治9年)8… 奥村 安太郎(おくむら やすたろう、1876年(明治9年)8月24日 - 1946年(昭和21年)12月11日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・木島。 京都府京都市で、旧淀藩士・木島行吉の息子として生まれ、1901年(明治34年)8月、奥村つる の養子となり、その後家督を相続した。1903年(明治36年)京都法政大学(現立命館大学)法律科を卒業した。 1906年(明治39年)奥村合名会社を設立し代表社員に就任。清国、朝鮮に支店を設けた。1909年(明治42年)4月、三等郵便局長に任じられ1911年(明治44年)6月まで在任。その後、京都電気取締役、日本陶料取締役、朝鮮無煙炭礦取締役、阪東土地取締役、摂丹鉄道社長、台湾農林社長、京都火災保険社長、国民銀行頭取、西宮土地監査役、台湾総督府嘱託、樺太庁嘱託などを務めた。
吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1… 吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1954年11月5日)は、日本の国語学者、国文学者、歌人。
大崎 清作(おおさき せいさく、1876年(明治9年)8月2… 大崎 清作(おおさき せいさく、1876年(明治9年)8月22日 - 1957年(昭和32年)11月23日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・村松。 山梨県巨摩郡南湖村(中巨摩郡南湖村、甲西町東南湖を経て現南アルプス市東南湖)で、村松泰造の二男として生まれる。上京して1899年(明治32年)陸軍砲兵工科学校(のち陸軍兵器学校)を卒業。日露戦争に従軍し、陸軍砲兵上等工長に進んで除隊した。 小石川白山で貸家業などを営む大崎家に奉公してその才幹を認められ、1907年(明治40年)4月、先代・大崎としの入夫となり家督を相続した。小石川貯蓄銀行取締役、春日銀行取締役、江戸川青果社長、共済商工社長、大正製材社長、東洋製氷社長などを務めた。