桜井 勝美(さくらい かつみ、1908年2月20日 - 19… 桜井 勝美(さくらい かつみ、1908年2月20日 - 1995年7月24日)は、日本の詩人、文芸評論家。 北海道出身。日本大学文学部卒。北川冬彦の『麺麭』同人となり、ネオリアリズム詩運動に参加。1954年詩集『ボタンについて』で第4回H氏賞受賞。1955年時間賞、1966年詩集『葱の精神性』で北川冬彦賞受賞。1977年には、郷里の士別市から士別市文化賞を受賞した。
川崎 俊雄(かわさき としお、1908年2月19日 - 19… 川崎 俊雄(かわさき としお、1908年2月19日 - 1993年3月11日)はダイワボウ代表取締役相談役。香川県出身。 1934年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。1974年6月21日にダイワボウ代表取締役社長に就任。1979年から1年間、日本紡績協会の会長を務めた。 1993年3月11日に心不全の為、死亡。
石川 孝一(いしかわ こういち、1908年2月18日 - 1… 石川 孝一(いしかわ こういち、1908年2月18日 - 1978年8月24日 )は、日本の実業家。元神鋼商事社長。 香川県三豊郡一ノ谷村(現 観音寺市中田井町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制松山高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 1934年(昭和9年)東京帝国大学卒業後、神戸製鋼所に入社。 1952年(昭和27年)10月、東京支社鉄鋼部次長在任時、鉄鋼市場視察のため、南米西欧に出張。線材製品協会を稲山嘉寛理事長の下で主宰、アルゼンチンに線材販売のため訪問する。 1954年(昭和29年)鉄鋼販売部長に昇進。 1956年(昭和31年)神鋼商事常務に就任。1966年(昭和41年)専務を経て、1970年(昭和45年)社長に昇任。
原島 鮮(はらしま あきら、1908年(明治41年) 2月1… 原島 鮮(はらしま あきら、1908年(明治41年) 2月18日 - 1986年(昭和61年) 12月26日)は、日本の物理学者、教育者。東京帝国大学理学博士、東京工業大学名誉教授。分かりやすい教科書執筆に定評があり、物性論や統計力学、特に表面張力の研究に取り組んだ[3][4]。旧制第一高等学校、九州帝国大学、東京工業大学、国際基督教大学、東京神学大学で教授を歴任し、東京女子大学では学長を務めた。実子に原島文雄がいる[3]。クリスチャンであり、温厚な人柄で知られた[4]。
俵田 寛夫(たわらだ ひろお、1908年〈明治41年〉2月1… 俵田 寛夫(たわらだ ひろお、1908年〈明治41年〉2月18日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の実業家。宇部興産 (現:UBE)元副社長・元専務、宇部サイコン(現:テクノUMG)社長。 衆議院議員、外務大臣(第151代)の林芳正は外孫。 山口県出身。三井鉱山(現・日本コークス工業)取締役の属最吉の次男に生まれ、宇部興産創立者の俵田明の養子となる。1932年(昭和7年)東京帝国大学商科卒業後、大阪高島屋本社を経て、1934年(昭和9年)4月に宇部興産沖ノ山炭鉱に転じる。 その後、1949年(昭和24年)8月取締役となり宇部鉱業所長を兼ね、1955年(昭和30年)12月常務、1960年(昭和35年)専務に就任。
菅田 榮治(すがた えいじ、1908年2月16日 - 198… 菅田 榮治(すがた えいじ、1908年2月16日 - 1988年7月13日)は日本の工学者。工学博士。 国産第一号の電子顕微鏡の組み立てに成功した。 鳥取県米子市米原出身。 福米小学校、米子中学校(現米子東高校)を経て推薦で大阪高等工業学校に入学するが、同校が1929年に大学に昇格したのにともない、彼もまた大学に進学して 1932年に卒業、鉄道省への入省が決まっていたがあまりに成績が優秀ということで、そのまま講師として残った。 1933年大阪帝国大学工学部専任講師に迎えられると、電子顕微鏡の研究一筋に打ち込み、1940年、国産第一号の電子顕微鏡の組み立てに成功した。倍率一万倍、今から見れば幼稚であるが当時としては、驚くべき性能であった。
宗 武志(そう たけゆき、1908年〈明治41年〉2月16日… 宗 武志(そう たけゆき、1908年〈明治41年〉2月16日 - 1985年〈昭和60年〉4月22日)は、日本の英語学者、詩人、華族。爵位は伯爵。旧姓は黒田(くろだ)。麗澤大学名誉教授。李王家徳恵翁主の夫。宗氏第37代当主。 貴族院議員、麗澤大学学監、学校法人廣池学園常務理事などを歴任した。 東京府東京市四谷区伝馬町新一丁目(現在の東京都新宿区四谷二丁目)にて、父・黒田和志(よりゆき、対馬府中藩藩主宗義和六男)、母・鏻子(れいこ、黒田直和の娘)の末子(四男)として生まれる。母の実家である黒田家は上総久留里藩の旧藩主の家柄。父和志は対馬藩の旧藩主宗重正の実弟で貴族院議員を務めていた。1934年にエチオピア帝国皇帝ハイレ・セラシエ1世の甥アラヤ・アベベ皇太子が日本人妻(貴族)を公募した際、妃候補として手を挙げた黒田雅子は武志の姪にあたる。
岩崎 良三(いわさき りょうぞう、1908年2月16日 - … 岩崎 良三(いわさき りょうぞう、1908年2月16日 - 1976年3月4日)は、日本の英文学・西洋古典学研究者、慶應義塾大学名誉教授。東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。慶大教授、1974年定年、名誉教授。戸板女子短期大学教授。妻・さくら子は太田秀穂の次女。
桜井 浜江(さくらい はまえ、1908年(明治41年)2月1… 桜井 浜江(さくらい はまえ、1908年(明治41年)2月15日 - 2007年(平成19年)2月12日)は、山形県山形市出身の洋画家。独立美術協会会員。 1908年(明治41年)山形市宮町に生まれ、1925年に山形県立山形高等女学校卒業後補習科(現・山形県立山形西高等学校)を修了。1926年、結婚を勧める親の反対を拒否して、家出同様の状態で上京し、1928年~1930年まで協会洋画研究所で、日本のフォーヴィスム運動の中心人物である里見勝蔵や岡田三郎助らの指導を受ける。里見が率いる独立美術協会と、後に三岸節子らとともに結成した女流画家協会を主な発表の舞台として、女性洋画家の先駆けとして活躍した。
若林 景光(わかばやし かげみつ、1908年2月15日 - … 若林 景光(わかばやし かげみつ、1908年2月15日 - 1994年9月30日)は画家。佐賀県佐賀市出身。長男は洋画家で国画会会員の若林茂熙。次男に洋画家若林夏生。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
原 四郎(はら しろう、1908年2月15日 - 1989年… 原 四郎(はら しろう、1908年2月15日 - 1989年2月15日)は、日本のジャーナリスト。読売新聞元副社長、日本記者クラブ初代理事長。 岐阜県高山市に生まれる。1932年、法政大学文学部仏文学科を卒業し、新聞学院に学び、1933年に国民新聞入社、社会部に配属される。1936年、読売新聞社社会部に移り、日中戦争の従軍記者として活躍し、戦時中はマニラ支局長などを歴任する。 戦後、文化部長を経て、1949年に社会部長に就任する。新宿暗黒街の粛正、繁華街における第三国人の暗躍を暴露した「東京租界」、東京中央魚市場の明朗化など数々のキャンペーンを実施する。1953年、読売新聞社会部による暗黒面摘発活動の記事により、第一回菊池寛賞を受賞する。
近藤 日出造(こんどう ひでぞう、1908年2月15日 - … 近藤 日出造(こんどう ひでぞう、1908年2月15日 - 1979年3月23日)は、日本の漫画家。本名は近藤 秀蔵。長野県更級郡稲荷山町出身(読みは同じ)。 戦中から昭和後期にかけて政治家の似顔絵を主とする1コマの政治風刺漫画を中心に描いた。似顔絵は、手塚治虫が「似顔絵の名手」と評する腕前だった。 近藤が各所に文章として残した略歴は誇張や創作が加わっているらしく、書いた時期や媒体によって内容がまちまちであり、特に少年期の就職についての詳しい時期や順序は不明であるが、峯島正行の調査などにより、少なくとも以下のことが判明している。 近藤は1908年(明治41年)、長野県更級郡稲荷山町(のちの千曲市稲荷山)で生まれた。
柳井 政雄(やない まさお、1908年2月15日 - 199… 柳井 政雄(やない まさお、1908年2月15日 - 1998年)は日本の部落解放運動家、実業家、政治家、ヤクザ。小郡商事(現、ファーストリテイリング)創業者。同代表、全日本同和会初代会長、同山口県連合会会長、山口県部落対策審議会委員、総理府同和対策協議会ならびに同和対策審議会委員、山口市議会議員、山口県議会議員、田中龍夫後援会会長などを歴任した。 ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長の柳井正の父である柳井等の兄にあたる。また、政雄の叔父の柳井傳一は全国水平社の創立大会の参加者で、みずから創設に尽力した山口県水平社の聯盟本部役員を務めた。 山口県吉敷郡小郡町(現・山口市小郡)で牛馬商の柳井周吉の四男として生まれる。
小松 摂郎(こまつ せつろう、1908年2月14日 - 19… 小松 摂郎(こまつ せつろう、1908年2月14日 - 1975年5月9日)は、日本の哲学者。大阪府出身。東海大学短期大学部元教授。 長野県育ち。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京帝国大学卒。1935年、山形高等学校教授。弁証法的唯物論を研究。戦後、民主主義科学者協会に参加、主体性論争で梅本克己を批判した。 1949年、神戸経済大学予科教授から、新制神戸大学文理学部教授へ切り替わる見込みであった小松は、日本共産党の党員や同調者を強権的に排除するレッドパージの対象となり、小松の新制大学教授への切り替えを認めないことを決し、さらに免官とした大学評議会など上層部と、文科教授会などとの間に対立が起こった。
森山 諭(もりやま さとし、1908年2月14日 - 199… 森山 諭(もりやま さとし、1908年2月14日 - 1996年7月22日)は、日本の牧師、伝道者、日本イエス・キリスト教団顧問。中田羽後と共に荻窪栄光教会を創設した。 再臨待望同志会東京大会実行委員長、日本ケズィック・コンベンション財務委員、日韓親善宣教協力会会長、ビリー・グラハム国際大会財務委員長などを歴任した。 1908年(明治41年)2月14日 福島県耶麻郡塩川町下遠田(現、喜多方市塩川町遠田)において父幸七、母イチの長男として生まれる。幼い時より「生とは何か、死とは何か」「なぜ男と女とがあるのか」を問う少年だったという。 1926年(大正15年) 福島県立会津農林学校(現、福島県立会津農林高等学校)に入学後、極度のノイローゼにとりつかれ、線路に飛び込みする寸前に、劇的な回心を経験する。
岡本 哲史(おかもと てつし、1908年2月13日 - 19… 岡本 哲史(おかもと てつし、1908年2月13日 - 1996年10月23日)は、日本の航空工学者。専門分野はは流体力学。鳥取県出身。 旧制鳥取県立米子中学校、旧制松江高等学校を経て、1931年東京帝国大学工学部航空工学科卒業。39年東京工業大学助教授となり、44年工学博士、45年東京工大教授。日本のロケット開発のパイオニアの一人で、66年に日本で初めて液体酸素・液体水素を使ったロケットエンジンの実験を行ったことで知られる。
塩 まさる(しお まさる、本名:塩 正吉、1908年〈明治4… 塩 まさる(しお まさる、本名:塩 正吉、1908年〈明治41年〉2月12日 - 2003年〈平成15年〉10月16日)は、昭和時代前期を代表する歌手である。 福島県いわき市出身。上田中学、早稲田大学卒業後、千葉運輸事務所に勤務する。中野忠晴が吹き込んだ『鉄道精神の歌』のその普及のため同曲を歌唱したところ、上司にその美声を認められ、キングレコードに推薦されることとなる。 1937年(昭和12年)、キングレコードから歌手デビュー。同年9月発売の「軍国子守唄」、1939年(昭和14年)4月テイチクレコード発売の「九段の母」が大ヒット。その後は、軍国調の歌を多数吹き込む。 戦後もしばらくは歌手活動を行っていたが「自分の時代は終わった」と昭和20年代後半に歌手を止め、実業家に転進。
西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 199… 西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 1999年2月24日)は日本の装幀家、小説家、詩人。長男は経済学者の西川潤。 福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。1947年、小説「会真記」で第1回夏目漱石賞の佳作に入選。 台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。占星術もやり、天中殺の占いを得意とした。
勝間田 清一(かつまた せいいち、1908年〈明治41年〉2… 勝間田 清一(かつまた せいいち、1908年〈明治41年〉2月11日 - 1989年〈平成元年〉12月14日)は、日本の政治家。日本社会党委員長、政審会長、国対委員長、衆議院副議長を歴任した。企画院事件の左派官僚。正三位勲一等旭日大綬章。 静岡県御殿場市出身。勝間田氏は遠江国榛原郡勝間田庄(現在の牧之原市)の国人(領主)だったが、1476年、今川義忠に反旗を翻して敗れ、一族は四散した。その末裔は細々と農業を行い暮らしを立てており、清一が生まれたときも実家は養蚕などを営む農家だった。御殿場実業学校(現:静岡県立御殿場高等学校)を経て、宇都宮高等農林学校(現:宇都宮大学)に進学し、さらに京都帝国大学(現:京都大学)へと進んだ。
遠藤 元男(えんどう もとお、1908年〈明治41年〉2月1… 遠藤 元男(えんどう もとお、1908年〈明治41年〉2月11日 - 1998年〈平成10年〉7月22日)は、日本の歴史学者。明治大学名誉教授。研究分野は日本史。 東京府東京市生まれ。1931年東京帝国大学文学部国史学科卒業。 高等女学校、高校教諭を経て、1953年金沢大学教授、1958年明治大学教授、1965年「日本職人史の研究・総説」で明治大学より文学博士の学位を取得。1973年定年退任、東京電機大学教授、日本女子大学教授、荒川区文化財保護審議会会長。筆名・福島信夫(ふくしま しのぶ)。
笹村 草家人(ささむら そうかじん、1908年2月11日 -… 笹村 草家人(ささむら そうかじん、1908年2月11日 - 1975年9月26日)は、日本の彫刻家。碌山美術館の創建に尽力した。東京市芝区神明町(現・港区浜松町)出身。本名は良紀。歌人・絵師笹村銕熊(号は良水)の長男として生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を1932年に卒業。同校助教授(1944年(昭和19年) - 1961年(昭和36年))。1959年までは院展に出品。 杉浦重剛の日本中学に学んでその高風に浴した。高村光太郎著「ロダン」(アルス叢書、1927年)に接して彫刻を志望し、東京美術学校彫刻科本科塑像部に進んだが、在学中は、教授の朝倉文夫・北村西望らの作風にはげしく反発した。
三宅 仁(みやけ まさし 1908年2月9日 - 1969年… 三宅 仁(みやけ まさし 1908年2月9日 - 1969年11月25日)は、日本の病理学者。東京大学医学部名誉教授。父は三宅鉱一、祖父に三宅秀。 東京都出身。1932年に東京帝国大学医学部卒業後、同大学病理学教室に所属して長与又郎、緒方知三郎、三田村篤四郎教授に師事した。1947年から1968年まで医学部教授を務め、教授として活動中に日本病理学会、日本血液学会、日本肝臓学会の会長、役員などを歴任したほか、原爆症の研究では世界初の病理学的業績を残した。1969年11月25日、脳血栓により東京都文京区の自宅にて死去。
木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月… 木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月7日 - 1986年(昭和61年)1月26日)は、昭和時代の競泳選手、スポーツジャーナリスト。選手としては1928年アムステルダムオリンピックに出場。ジャーナリストとしては第二次世界大戦をまたいでオリンピック5大会の取材に当たり、『サンケイスポーツ』の創刊に携わった。 岡山県美作地方(現在の勝田郡勝央町)出身。おじに文学者の木村毅がいる。 京都市の同志社中学(現在の同志社中学校・高等学校)に学ぶ。水泳は大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)で習得したという。 早稲田大学に入学。大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場したが予選落ちに終わった。
中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7… 中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7日 - 1963年(昭和38年)2月26日)は、宮崎県出身の小説家、銀行家。宮崎県立図書館長、宮崎相互銀行(現宮崎太陽銀行)社長。自らが憧れた南方の風土で培われた南方文学を提唱した。筆名であり、本名は中村治兵衛。 1908年(明治41年)、現宮崎市淀川町に中村常三郎の次男として裕福な商家に生まれた。旧制宮崎中学校(現宮崎大宮高校)時代、佐藤春夫の台湾小説を読んで南方に憧れ、1930年(昭和5年)3月、台湾総督府立台北高等学校を卒業。同年4月、東京帝国大学文学部美術史科に入学。入学試験の会場で太宰治と知り合った。学生時代の1932年(昭和7年)「熱帯柳の種子」を文芸誌『作品』に発表。
田中 健之助(たなか けんのすけ、1908年 <明治41年>… 田中 健之助(たなか けんのすけ、1908年 <明治41年> 2月7日- 1993年 <平成5年> 1月9日 )は、日本の経営者。位階は正四位。 三重県四日市市出身。1930年に行文行政科に合格し、1931年に東京帝国大学法学部法科を卒業した後に鉄道省に入省した。1952年には日本国有鉄道理事に就任した。 1954年5月に近畿日本鉄道常務に就任し、1961年11月には専務に就任した。一方で、1955年には近畿日本ツーリスト社長に就任した。 1968年5月から1976年6月までに三重交通社長を務め、1976年6月から1978年6月までに防長交通及び防石鉄道社長を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。
牛島 信義(うしじま のぶよし、1908年2月6日 - 19… 牛島 信義(うしじま のぶよし、1908年2月6日 - 1991年4月14日)は、日本の地質学者。専門は石油鉱床学。 牛島惣太郎の四男として長崎県長崎市に生まれる。教育心理学者の牛島義友は兄。1925年福岡県立中学修猷館、1927年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1930年3月に東京帝国大学理学部地質学科を卒業した。 1930年4月、北樺太石油に入社。1944年に北樺太石油が吸収合併された帝国石油において、1953年1月探鉱部副部長、1954年5月生産部長、1956年3月参事、1957年地質探査部長、1958年11月中央技術研究所所長を最後に、1959年12月に退社し、1960年1月に東北大学理学部教授に就任した。
永積 安明(ながづみ やすあき、1908年2月6日 - 19… 永積 安明(ながづみ やすあき、1908年2月6日 - 1995年1月1日)は、国文学者。神戸大学名誉教授。中世文学専攻。 1908年、山口県下関市で生まれた。東京帝国大学文学部国文学科に進学し、1932年に卒業。 卒業後は、横浜市立商業専門学校講師、法政大学講師を務めた。1954年、神戸大学教授に就任。1961年、学位論文『日本中世文学の成立』を東京大学に提出して文学博士号を取得。 1964年、琉球大学の招聘教授として中世日本文学を講義する予定であったが、4月に「基地安全保障のため」との理由をもとに琉球列島米国民政府によって拒否された。4月18日に国語国文学科総会で「永積教授への渡航拒否に関する対策委員会」が設置され(決起集会前後に名称を「永積教授渡航実現対策委員会」と変更)、USCAR民政官のジェラルド・ワーナーと面会し、6月15日開催の「永積教授渡航実現学内総決起大会」で抗議決議文・要請決議文を採択するなど、学生を中心とする活動が展開され、9月1日に渡航拒否が取り消され、10月23日から11月18日までの集中講義が実現した。
中野 猿人(なかの ましと、1908年2月6日 - 2005… 中野 猿人(なかの ましと、1908年2月6日 - 2005年3月26日)は、日本の海洋学者。元気象庁職員。潮汐や風浪の研究を行う。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 19… おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉6月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。 群馬県利根郡白沢村(現・沼田市)出身。本名・小野 忠孝(おの ただよし)。 旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)から群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)に進み卒業。5ヶ月間高崎連隊へ入営。 はじめは『少年倶楽部』などへ作文や詩を投稿していた。小学校教員として勤務するも辞職して文筆の道へ身を投じた。草野心平とは友人として交流を持った。河井酔茗に師事。 日本児童文芸家協会顧問、日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会員、日本詩人クラブ会員。100冊を超える著作を残した。酒を愛したことから酒にまつわるエピソードも多い。
暉峻 康隆(てるおか やすたか、1908年〈明治41年〉2月… 暉峻 康隆(てるおか やすたか、1908年〈明治41年〉2月1日 - 2001年〈平成13年〉4月2日)は、日本の国文学者(近世文学)。俳号は桐雨。早稲田大学名誉教授。 鹿児島県囎唹郡東志布志村(後の曽於郡志布志町、現在の志布志市志布志町)生まれ。金剛寺の長男。旧制鹿児島県立志布志中学校(現在の鹿児島県立志布志高等学校)、早稲田第一高等学院、旧制早稲田大学文学部国文科卒業。1932年から1939年にかけて、真山青果の下で西鶴研究の助手を務める。1951年「西鶴 評論と研究」で早稲田大学より博士号を取得。のち早稲田大学教授、1978年、定年退職、名誉教授。1996年、第8回現代俳句大賞受賞。 井原西鶴研究の権威の一人で、自然主義文学やプロレタリア文学の影響を受けた西鶴作品の批評を発展させ、「作家は書きながら現実認識を深める」という文芸観に基づき、多くの西鶴作品の新たな鑑賞を示した。
赤川 孝一(あかがわ こういち、1908年2月 - 没年不詳… 赤川 孝一(あかがわ こういち、1908年2月 - 没年不詳)は、日本の映画プロデューサー。 岩手県西磐井郡涌津村(現・一関市)生まれ。旧制盛岡中学校、旧制弘前高等学校、東京帝国大学文学部哲学科卒業。京都帝国大学法学部中退。満洲国文教部社会教育課や満映製作課を経て、戦後に帰国。東横映画九州支社に合流し、1951年の東映発足で東京本社へ転じた後、教育映画自主製作配給委員会事務局長や教育映画部企画製作課長として、満州時代にも関与していた農村部への巡回映写事業や『白蛇伝』などの教育映画、アニメーション映画製作を行った。1961年、テレビ朝日に東映が出資した経緯から朝日テレビニュース社に移り、1965年頃に退社した。
篠崎 護(しのざき まもる、1908年2月 - 1991年)… 篠崎 護(しのざき まもる、1908年2月 - 1991年)は、戦前日本の報道記者・スパイ、日本軍占領下シンガポールの軍政幹部、戦後日本の実業家、著作家。 「抗日活動に関わっていない」とする証明書を大量に発行することにより、日本軍の憲兵隊による監視を逃れ命を救われた人々が多数存在することから、「日本のシンドラー」と呼ばれる。 篠崎は、1947年に行われたシンガポール華僑粛清事件の裁判に検察側証人として出廷した際に、日本軍のシンガポール占領直後に昭南警備隊によって行われた同事件に際し、日本軍による住民の大量虐殺があったことを認める一方で、自身が同警備隊の河村参郎司令官から良民保護の依頼を受け、これに従って保護証数万枚を不特定多数の市民に配り、また警備隊の分隊長と交渉して、同警備隊に殺害されそうになった華僑数千人の人名を救った、と証言して河村に対する情状酌量を求め、自著の中でも同趣旨の叙述をしている。
望月 太郎(もちづき たろう、1908年(明治41年)2月 … 望月 太郎(もちづき たろう、1908年(明治41年)2月 - 1941年(昭和16年)3月18日)は、日本の実業家。東邦採鉱常務取締役。九曜社取締役。 東京府・望月軍四郎の長男。望月玉三の兄。1930年、慶應義塾大学経済学部卒業。横浜正金銀行員として神戸支店に勤務し、また欧米各国を視察歴遊した。 趣味は読書、スポーツ。宗教は仏教。住所は東京市渋谷区常磐松町、赤坂区青山南町。東京府在籍。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石田 寿老(いしだ じゅろう、1908年(明治41年)2月 … 石田 寿老(いしだ じゅろう、1908年(明治41年)2月 - 1994年(平成6年)7月22日)は、日本の生物学者。 島根県出身。1932年東京帝国大学理学部動物学科卒、1945年「淡水魚(メダカ)の孵化酵素に関する研究」で理学博士。三井海洋生物学研究所、東京帝国大学理学部動物学科助教授、名古屋帝国大学理学部助教授、東京大学教養学部・理学部生物学教授。1969年定年退官、名誉教授、埼玉大学教授、1972年東邦大学教授。1994年7月22日、多臓器不全のため死去。 弟子に毛利秀雄(東大名誉教授)がいる。
佐藤 信之助(さとう しんのすけ、1908年(明治43年)1… 佐藤 信之助(さとう しんのすけ、1908年(明治43年)1月30日 - 1981年(昭和56年)12月22日)は、日本の実業家。サンジルシ醸造の社長、会長と中京テレビ放送社長を務めた。 1908年(明治43年)1月30日に三重県桑名市船場町316で父・初代佐藤信之助、母・ゑきの長男として生まれ、佐藤義一と名付けられた。旧制富田中学校を経て、1930年(昭和5年)3月に慶應義塾高等部卒業し、大蔵省醸造試験所で1年間醸造学を学んだ後、家業の佐藤信之助商店に入って味噌・醬油製造業に従事した。 早くから若手実業家として桑名財界で活躍し、桑名電軌と桑名土地建物の取締役に就任し、1936年(昭和11年)6月22日に桑名瓦斯の監査役にも就任した。
小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月… 小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月27日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡松里村上井尻(塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山上井尻)出身。日川中学校(現山梨県立日川高等学校)を経て、1926年(大正15年)山梨県師範学校第2部を卒業した。 南都留郡盛里小学校訓導、旭尋常高等小学校訓導、山梨国民学校教頭、峡東青年学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)松里中学校長に就任。1948年(昭和23年)山梨県教職員組合執行委員長となり、山梨県連合教育会副会長も務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から無所属で出馬して当選。
中野 藤吾(なかの とうご、1908年1月27日 - 199… 中野 藤吾(なかの とうご、1908年1月27日 - 1990年7月9日)は、日本の経済思想史学者、歌人。立川短期大学学長、明星大学経済学部教授などを歴任した。地元の立川市では、著名な文化人として知られていた。 中野藤吾は、当時の東京府砂川町の素封家・中野家の当主であった中野田郎吉の長男として生まれた。 東京商科大学に学んで教職に進み、巣鴨経済専門学校(千葉商科大学の前身)、日本経済専門学校(亜細亜大学の前身)の教員を歴任した。 1947年に、義兄・中野喜介が理事長となった学校法人立川学園によって、(旧制)立川専門学校が開校した際には、初代校長となった。同校は1950年に短期大学に昇格し、さらに1950年には都立へ移管されたが、その間、中野は学長であり続け、初代の東京都立立川短期大学学長となった 歌人としては、1950年代から1960年代にかけて多くの短歌を発表した。
三宅 喜二郎(みやけ きじろう、1908年1月27日 - 2… 三宅 喜二郎(みやけ きじろう、1908年1月27日 - 2001年8月27日)は、日本の外交官。駐チェコスロヴァキア特命全権大使や、外務省研修所長、駐スウェーデン特命全権大使などを務めた。 京都市出身。1930年高等試験行政科合格。1931年に東京商科大学(現一橋大学)本科卒業後、研究科で経済学及び法学を研究した。1934年高等試験外交科合格。同年外務省入省、在英国外務書記生。1935年在英国外交官補。1937年在シドニー領事館補。1939年外務省欧亜局第三課外務事務官。1940年外務省南洋局第一課外務事務官。 1946年外務省調査局第一課長。1949年外務大臣官房文書課長、国立国会図書館支部外務省図書館長、司法試験考査委員。
佐々木 康(ささき やすし、1908年1月25日 - 199… 佐々木 康(ささき やすし、1908年1月25日 - 1993年9月13日)は、日本の映画監督。法政大学本科国文科中退後、松竹、東映、東映テレビプロダクションに属した。早撮りの名人として知られ、松竹時代は歌謡映画、東映時代は時代劇映画、東映テレビ時代はテレビ時代劇のヒット作を連発する。映画作品168本、テレビ作品500本弱を撮った、典型的なプログラムピクチャーの監督である。 1908年、秋田県平鹿郡沼館村(のち雄物川町、現・横手市)沼館の大地主の家に生まれる。山形県立新荘中学校時代に映画に興味を持ち、1929年法政大学在学中に清水宏の助監督として松竹に入社。清水の盟友の小津安二郎組に移り、1931年助監督の身分のまま『受難の青春』で監督デビュー。
中田 淳一(なかた じゅんいち、1908年(明治41年)1月… 中田 淳一(なかた じゅんいち、1908年(明治41年)1月25日 - 1970年(昭和45年)2月10日)は、日本の法学者。専門は民事手続法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1954年)。元日本民事訴訟法学会理事長。山田正三門下。弟子に鈴木正裕、谷口安平、中務俊昌、井上正三など。
鷲尾三郎(わしお さぶろう、1908年1月25日 - 198… 鷲尾三郎(わしお さぶろう、1908年1月25日 - 1989年12月2日)は、日本の推理作家。本名は岡本道夫。 本格ものや幻想もの、ユーモア探偵小説に加え、ハードボイルドふうの作品も書いた。 大阪市生まれ。大阪府立生野中学校(現・大阪府立生野高等学校)卒。同志社大学中退後、永く商業に携わっていた。 1949年、江戸川乱歩の推薦で『探偵実話』4月号に「魚臭」が掲載される。同年、同じく江戸川乱歩の推薦で『宝石』臨時増刊「文芸探偵小説号」に「疑問の指輪」が掲載され、関西探偵作家クラブに所属した。 1951年、上京して専業作家となる。1954年、『宝石』12月号に掲載された「雪崩」が第7回探偵作家クラブ賞の新人奨励賞を受賞。
芳賀 幸四郎(はが こうしろう、1908年1月25日 - 1… 芳賀 幸四郎(はが こうしろう、1908年1月25日 - 1996年8月6日)は、日本史学者。東京教育大学名誉教授。東山文化研究の第一人者。また、禅を極め、臨済宗妙心寺派系の法を嗣ぐ老師でもあった。庵号を「如々庵」(にょにょあん)、道号を「洞然」(とうねん)。 1908年、山形県寒河江に生まれた。1926年、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に合格したが、翌1927年に山形の連隊に入隊。除隊後に小学校の訓導となり、山形県女子師範を卒業したばかりの藤田洋子と知り合い、キリスト教会に通った。 1928年、東京高等師範学校に入学。1930年、藤田洋子と結婚するが、マルクス主義に染まり、1931年2月、検挙される。
河原崎 しづ江(かわらざき しづえ、1908年1月25日 -… 河原崎 しづ江(かわらざき しづえ、1908年1月25日 - 2002年1月1日)は、日本の女優。旧姓は山岸。初期の芸名は山岸 静江(後に山岸 しづ江)など。しづ江をしず江と表記することもある。 東京市日本橋区(現在の東京都中央区)生まれ。石川県出身。1923年、帝国劇場附属技芸学校(帝国女優養成所)の7期生として卒業。同期に飯島綾子らがいる。子爵家の長男大河内信威と結婚し、男児・信具を儲ける。1931年、前進座の創設に参加し、山岸しづ江の芸名で舞台に立った他、1933年以降は前進座がユニット出演した映画に出演した。1932年に夫の信威が共産党事件で逮捕される。 信威とは離婚し、1936年、前進座座員の河原崎長十郎と結婚。
槙 哲夫(まき てつお、1908年1月23日 -2006年1… 槙 哲夫(まき てつお、1908年1月23日 -2006年12月23日)は、日本の外科医。専門は、消化器外科,胆石症の研究。医学博士。 青森県七戸町生まれ。 第二高等学校 (旧制)から、東北帝国大学医学部卒業。1933年、同医学部第一外科学教室(教授)に入局。1939年、同医学部助教授。1942-44年、中華民国無錫普仁医院へ出張。1945年、秋田県立女子医学専門学校教授。1949年、弘前医科大学(のち、弘前大学医学部)教授。1961年、東北大学医学部第一外科教授。1965年、東北大学医学部付属病院長。1967-70年、東北大学医学部長。1971年、東北大学名誉教授、東北労災病院長。平成18年死去、享年98。
於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22… 於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22日 - 1996年(平成8年)1月14日)は、日本の法学者。専門は民法。京都大学名誉教授。学位は、法学博士(京都大学・1955年)。山口県下関市出身。弟子に奥田昌道など。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
本部 均(ほんぶ ひとし、1908年1月22日 - 2005… 本部 均(ほんぶ ひとし、1908年1月22日 - 2005年5月9日)は、日本の数学者。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。専攻は微分幾何学。多数の学習参考書、受験参考書の執筆、編著でも知られる。 石川県出身。第四高等学校を経て、1930年東北帝国大学数学科卒業。北海道帝国大学助手、九州帝国大学助教授、同教授を歴任。1952年旧・東京都立大学教授となる。1971年の定年後、東海大学教授に転ずる。 東京出版の月刊誌『大学への数学』で、創刊号から長年執筆を続けていた。 2005年5月9日、肺気腫のため死去。
藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 199… 藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 1991年6月11日)は、鹿児島県出身の俳人、医師(医学博士)。本名惣兵衛。 東志布志村(現志布志町)生。志布志尋常高等小学校尋常科、旧制鹿児島県立志布志中学校(現鹿児島県立志布志高等学校)、旧制第七高等学校造士館理科を経て、1928年京都帝国大学医学部に入学し、京大三高俳句会に入会。『ホトトギス』に投句を始め、高浜虚子に師事。在学中の1930年に『ホトトギス』巻頭。1931年、「噴火口近くて霧が霧雨が」により『日本新名勝俳句』の帝国風景院賞(高浜虚子選)を獲得。1932年京大医学部卒業。1933年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊。 大学卒業後は松尾内科を経て京都市立病院に勤務。
今川 憲次 (いまがわ けんじ IMAGAWA Kenji、… 今川 憲次 (いまがわ けんじ IMAGAWA Kenji、1908年1月20日 - 1984年4月17日)は、北海道・根室市出身の英文学者、南山大学名誉教授。 第八高等学校教授等を経て、南山大学で教鞭をとる。 中世英文学とカトリック系文学の解明をライフワークとした。 言語時評を中心とした軽妙洒脱なエッセイの書き手として活躍。 妻・蕁子(かずこ)は文化学院女学部の教師時代に、与謝野晶子の助手として師事。 同僚に、西村伊作、戸川秋骨、与謝野鉄幹、西脇マジョリーがいた。 今川の文学研究のありように関して、遠藤周作は他の欧米文学研究者と基本的にちがう点をあげ、「文学研究をとおして御自分の基督教を練磨」したことにあると、最高の賛辞をもって評した。
奥田 豊三(おくだ とよぞう、1908年(明治41年)1月2… 奥田 豊三(おくだ とよぞう、1908年(明治41年)1月20日 - 1983年(昭和58年)10月7日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。第2代国土地理院長を務めた。 富山県富山市出身。第四高等学校理科甲類から1933年(昭和8年)3月31日東京帝国大学理学部天文学科学士試験合格後、東京天文台を経て、1942年(昭和17年)11月10日陸軍技師(高等官六等)に任官し陸地測量部付となる。 終戦を受け陸地測量部解体後、地理調査所を経て、1952年(昭和27年)理学博士(東京大学)、1961年(昭和36年)4月1日国土地理院長に就任。1962年(昭和37年)10月1日に国土地理院長を退官後は緯度観測所長、日本天文学会理事長、日本地図調製業協会会長を務めた。
吉識 雅夫(よしき まさお、1908年1月20日 - 199… 吉識 雅夫(よしき まさお、1908年1月20日 - 1993年6月27日)は、日本の船舶工学者、東京大学名誉教授。兵庫県福崎町名誉町民。理学博士(1945年・東京帝国大学、論文タイトルは『圧縮ヲ受ケル船体構造部分ノ挫屈並ニ圧壊強度ノ研究』) 長崎県対馬生まれ、兵庫県福崎町出身。旧制一高、東京帝国大学工学部卒業。東京理科大学学長、学士会理事長(第5代、1988年から没時まで)などを務めた。 船体構造の強度や振動に対する研究で功績を上げる。東京大学在住中は、船舶の構造力学に関する研究並びに教鞭に従事した。特に船の大型化および溶接に関する研究に専念し、日本造船業を当時「世界一の造船王国」に導くことに大きく寄与する。