立道 團造(たてみち だんぞう、1922年(大正11年)2月… 立道 團造(たてみち だんぞう、1922年(大正11年)2月24日 - 1978年(昭和53年)12月31日)は日本の政治家。京都府舞鶴市長(1期)。 京都府福知山市出身。1936年(昭和11年)金山尋常高等小学校卒。卒業後は舞鶴要港部工作部造兵部機械工場に入り、見習職工の傍ら教習所見習科に入学。1938年(昭和13年)同所卒業、舞鶴工廠造兵部で働く。1945年(昭和20年)終戦により工廠解体。管業部造船部で働く。 1946年(昭和21年)舞鶴市役所に入所。戸籍係、文書統計課、総務課勤務を経て、庶務課財政係長代理、財務課長、助役となる。1974年(昭和49年)に市功労者として舞鶴市から表彰される。
柴田 隆三(しばた りゅうぞう、1922年2月23日 - 2… 柴田 隆三(しばた りゅうぞう、1922年2月23日 - 2010年11月13日)は、日本の経営者。東京建物社長、会長を務めた。 京都府出身。1944年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、1945年12月に安田銀行(のちの富士銀行)に入行。1970年5月に取締役に就任し、1972年11月に常務を経て、1975年5月に副頭取に就任。1979年3月に東京建物社長に就任し、1989年3月に会長、1993年3月に相談役を経て、1999年3月には特別顧問に就任。 1992年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2010年11月13日、心不全のために死去。88歳没。
今村 武俊(いまむら たけとし、1922年2月22日 - 2… 今村 武俊(いまむら たけとし、1922年2月22日 - 2012年10月10日)は、日本の文部官僚、教育評論家。鹿屋体育大学第3代学長・名誉教授、鹿児島女子大学第2代学長。 鹿児島県姶良郡東国分村(後の国分市、霧島市の一部)出身。父は鹿児島県(男子)師範学校附属小学校教頭や柁城小学校校長を歴任する今村武彦。父が教頭を務める附属小学校を卒業後、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校へ進学して4年次に「高校組」(高等学校進学志望者特別学級)の級長を務め、1939年第七高等学校造士館に首席合格し旧制中学四年修了。1942年第七高等学校造士館文科を卒業。1947年東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年鹿児島県立加治木中学校 (旧制)教諭となる。
松井 賚夫(まつい たまお、1922年2月22日 - 201… 松井 賚夫(まつい たまお、1922年2月22日 - 2016年1月17日)は、日本の心理学者。立教大学名誉教授、駿河台大学名誉教授。専攻は産業・組織心理学。 東京大学文学部心理学科を卒業する。人事院へ勤務し、後に明治大学を経て、立教大学社会学部教授となる。同大学を名誉教授となり退職後、駿河台大学法学部で教鞭を執る。専門の心理学では産業・組織心理学を主に研究し、複数の著書・訳書を発表した。
河野 豊弘(こうの とよひろ、1922年2月22日 - 20… 河野 豊弘(こうの とよひろ、1922年2月22日 - 2014年7月5日)は、日本の経営学者。 1922年2月22日山梨県巨摩郡豊村に生まれる。1943年東京商科大学予科入学、1944年商科大学(現一橋大学経済学部)へ、同年高等文官試験合格、1944年仮卒業のち学徒出陣、陸軍に召集されフィリピンセブ島へ、幹部候補生となり陸軍経理学校で学び経理将校となる。1946年日本国有鉄道勤務。1951年フルブライト第1回留学生として米国ピッツバーグ大学大学院に学ぶ。77年「長期経営計画の探究」で神戸大学経営学博士。1959年神奈川大学経済学部専任講師、助教授、62年教授、1963年学習院大学法経学部教授、64年経済学部教授。
坊城 としあつ(ぼうじょう としあつ、1922年2月21日 … 坊城 としあつ(ぼうじょう としあつ、1922年2月21日 - 2010年4月10日)は、東京府出身の俳人。本名俊厚。 東京市牛込区(現新宿区)生。旧華族坊城家の分家の家柄であり、父は貴族院議員を務めた男爵坊城俊賢。東京帝国大学理学部卒業。地質学を修め、通商産業省地質研究所に入所した。 俳句は20代より父母から指導を受けたが、1950年に高浜中子と結婚してより本格的に俳句を志す。『ホトトギス』同人。3年間のトルコ滞在をはじめ、仕事の関係で各地を旅しているため、国際色豊かな句風である。また野鳥に造詣が深い。2010年4月10日、脳梗塞により死去した。88歳。句集に『坊城としあつ句集』がある。 妻坊城中子、息子の坊城俊樹も俳人である。
平岡 芳江(ひらおか よしえ、 1922年2月20日 - 2… 平岡 芳江(ひらおか よしえ、 1922年2月20日 - 2007年3月11日)は、IA Prep School 平岡(旧称:平岡塾)の創立者・前塾長。 大阪の造り酒屋の家に生まれ、後に芦屋に移住。神戸女学院出身。都内の中高一貫校に通っていた自分の子供に自宅で英語を教え始めたが、その内容が友人たちの間で評判になり、1965年4月、実弟の金谷晴夫(東京大学元教授)を顧問に迎え、東京大学を受験する生徒専用の英語塾として、東京都世田谷区に平岡塾を創設。1976年、平岡塾を東京都渋谷区に移す。 1995年3月、所得税法違反の容疑により東京国税局から告発を受ける。1991年1月から1993年12月までの間に約6億4200万円の所得を隠し、約3億1400万円を脱税した疑い。
本島 等(もとしま ひとし、1922年〈大正11年〉2月20… 本島 等(もとしま ひとし、1922年〈大正11年〉2月20日 - 2014年〈平成26年〉10月31日)は、日本の政治家。1979年(昭和54年)から1995年(平成7年)までの4期にわたり長崎県長崎市長を務めた。 長崎県南松浦郡北魚目村(現在の同郡新上五島町)に生まれる。洗礼名、イグナチオ・ロヨラ。カトリック教徒。 隠れキリシタンの末裔であるカトリック教徒で母は未婚であることから戦時中はスパイ疑惑を掛けられた。旧制高校在学中の21歳の時に徴兵されて見習士官として新兵に大砲の撃ち方を指導した。所属する西部軍管区教育隊・砲兵生徒隊が疎開する熊本市郊外の山奥で終戦を迎えた。1945年8月砲兵少尉に昇進予定だった。
石丸 寛(いしまる ひろし、1922年2月19日 - 199… 石丸 寛(いしまる ひろし、1922年2月19日 - 1998年3月23日)は、日本の指揮者、作曲家である。 中華民国山東省青島に生まれる。六朝文化を愛した父の傍で、幼児期より音楽(ピアノ、ヴァイオリンなど)、美術(油絵)と親しむ。青島旧制中学時代には、ブラスバンド部のほか、中村八大らとバンドも結成する。1938年に帰国、東京・玉川学園中学部に転入する。コーラス部長、彫刻も学ぶ。1944年、文化学院大学部芸術科を卒業する。美術を今泉篤男、脇田和、岡鹿之助に師事した。一方で、管弦楽法と指揮法を山田一雄に師事した。第二次世界大戦のため出征、1945年に終戦で帰国(福岡市に復員)、画家としての活動を再開する。
浪花 博(なにわ ひろし、1922年2月19日 - 1987… 浪花 博(なにわ ひろし、1922年2月19日 - 1987年5月3日)は、日本の心理学者。 大阪府生まれ。立命館大学卒、佛教大学助教授、同心理学研究所教授。65歳で在職中に死去した。
辻村 公一(つじむら こういち、1922年〈大正11年〉2月… 辻村 公一(つじむら こういち、1922年〈大正11年〉2月18日 - 2010年〈平成22年〉5月28日)は、京都大学名誉教授。 1922年、静岡県浜松市で生まれた。京都帝国大学文学部に入学して田辺元の下で学び、1946年に卒業。 卒業後は、1948年に京都大学教養部助教授となった。1967年、同大学文学部哲学科助教授に配置換え。1974年、学位論文『ハイデッガー論攷』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1974年に教授昇格。1982年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。1993年、日本学士院会員に選出された。2010年に死去。 専門は西洋哲学で、ハイデッガーを翻訳・研究した。なおその特徴として、それまで「存在と時間」として訳されていた「Sein und Zeit」に対し、「有と時」としたことが挙げられる。
中島 章夫(なかじま あきお、1922年2月18日 - 19… 中島 章夫(なかじま あきお、1922年2月18日 - 1997年)は、日本の化学者。大阪工業大学工学部応用化学科元教授。工学博士(京都大学)。元京都大学医用高分子材料研究センター(現:京都大学医生物学研究所)長。高分子学会第14期会長。 専門は、高分子材料・機能性高分子・繊維化学。 1943年京都帝国大学工学部繊維化学科(のちの高分子化学科)卒業。1951年工学博士(京都大学)。1961年京都大学工学部高分子化学科教授として、第五講座(高分子分子論)を担当。その後、京都大学医用高分子材料研究センター(のちの生体医療工学研究センター、現京都大学医生物学研究所)長などを歴任し、京都大学退官。1985年大阪工業大学工学部応用化学科に教授として着任、応用化学教室を担当。
鈴木 均(すずき ひとし、1922年2月18日 - 1998… 鈴木 均(すずき ひとし、1922年2月18日 - 1998年10月27日)は、日本の評論家。 東京出身。慶應義塾大学卒。自由社、『世界評論』、『婦人』、『改造』、『女性改造』、平凡社の編集者、『現代の眼』編集長をへて、評論家。
多田 正剛 ( ただ せいごう、1922年2月18日 - 1… 多田 正剛 ( ただ せいごう、1922年2月18日 - 1997年9月18日)は、 日本の空手家であり、日本正剛館空手道士会の創設者。 剛柔流八段位。京都府京都市出身。立命館大学卒業。 1922年大正11年生まれ。中国上海市にて15歳で中国武術を学ぶ。立命館大学空手部にて、宮城長順流祖より直々に剛柔流空手道を伝授される。のち同大学空手部監督を務める。1945年より京都市に日本剛柔流空手道士会を設立。京都市内に数道場を構え、立命館大学空手部直系の本土剛柔流の名門道場として栄える。のち日本正剛館空手道士会と改称。国内支部20数箇所の他に、10大学空手道部(大阪大学・滋賀大学・仏教大学・大阪歯科大学・京都外大・京工繊大・京薬大・山口大学・徳山大学・九州共立大)および海外20支部を指導した。
安藤 精一(あんどう せいいち、1922年2月17日 - 2… 安藤 精一(あんどう せいいち、1922年2月17日 - 2018年2月28日)は、日本の日本史学者。学位は、経済学博士(大阪大学・論文博士・1961年)(学位論文「近世在方商業の研究」)。和歌山大学名誉教授。 アメリカ合衆国シアトル生まれ。1947年九州帝国大学法文学部卒、1949年同大学院特別研究生修士課程修了。1961年「近世在方商業の研究」で大阪大学より経済学博士の学位を取得。和歌山大学経済学部講師、助教授、教授。1986年定年退官、名誉教授、大阪産業大学教授。1993年退職。1996年勲二等瑞宝章受章。和歌山県教育委員長。近世経済史が専門で、宮本又次に師事した。また、『八代将軍吉宗』の時代考証を大石慎三郎らとともに担当している。
原口 清(はらぐち きよし、1922年2月17日 - 201… 原口 清(はらぐち きよし、1922年2月17日 - 2016年11月14日)は、日本の歴史学者。専門は日本近代史。名城大学名誉教授。静岡県榛原郡地頭方村新庄(現牧之原市)出身。
大庭 健三(おおば けんぞう、1922年(大正11年)2月1… 大庭 健三(おおば けんぞう、1922年(大正11年)2月16日 - 2000年(平成12年)11月23日)は、日本の政治家。静岡県御殿場市長(3期)。位階は従五位。 静岡県出身。1942年、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)、1944年、東京商科大学(現・一橋大学)卒。卒業後は地元で有限会社いずみや(呉服商と家具商)を経営する。御殿場市商工会理事、御殿場市議会議員などを経て、1981年、御殿場市長に当選する。市長を2期務め、1989年に退任した。2000年に死去。死没日付をもって従七位から従五位に進階した。
山内 リエ(やまうち リエ、1922年2月15日 - 200… 山内 リエ(やまうち リエ、1922年2月15日 - 2000年10月8日)は、日本の陸上競技選手。女子三段跳、走高跳、走幅跳の三種目の元・日本記録保持者。戦中、戦後に世界的な好記録を連発しながら、戦争によってオリンピック参加の道を閉ざされた悲運の女性アスリートである。広島県呉市出身。 小学校5年の春、陸上競技を始める。呉精華高女に進学するが、当時この学校のグラウンドは狭く、走高跳の助走を取るスペースもなく、近くの小学校で我流で練習を積む。跳躍技についての正式な指導を受けたのは女学校4年の時、郷土の先輩・織田幹雄の講習会に参加したのが最初。 1936年、女学校3年15歳の夏を過ぎると、恵まれたバネで飛躍的に記録が伸び、11月に広島市で行われた大会で、走高跳の当時日本最高記録1m52を楽々と飛び、1m55の日本新記録をマーク。
土田 芳男(つちだ よしお、1922年2月15日 - 199… 土田 芳男(つちだ よしお、1922年2月15日 - 1993年10月25日)は、日本の経営者。 昭和電線電纜社長を務めた。東京都出身。 1946年に東京商科大学を卒業し、1947年に昭和電線電纜に入社。1972年に取締役に就任し、1976年7月に常務、1980年7月に専務を経て、1986年7月には社長に就任。1988年6月には会長に就任。 1988年4月に藍綬褒章を受章。 1993年10月25日急性循環不全のために死去。71歳没。
邦光 史郎(くにみつ しろう、1922年2月14日 - 19… 邦光 史郎(くにみつ しろう、1922年2月14日 - 1996年8月11日)は、日本の作家。本名:田中 美佐雄。父・力之助は時事新報の記者。妻は作家の田中阿里子。娘は作家・エッセイストの久我なつみ。 東京生まれ。高輪学園卒。父親の転勤で大阪に移り、東淀川区役所につとめる。応召し、広島第2総軍司令に在隊、1945年8月6日原爆に遭遇。同年10月に除隊し、京都で五味康祐らと『文学地帯』を創刊。のち放送作家となる。1962年『社外極秘』で直木賞候補。以後企業小説、推理小説、歴史推理小説、伝記小説を多数執筆。 戦前に保高徳蔵主宰の「文芸首都」懸賞に入選。戦時中は「新作家」同人となり、戦後は五味康祐とともに「文学地帯」を主宰し、十五日会に属する。
木原 孝一(きはらこういち、1922年2月13日-1979年… 木原 孝一(きはらこういち、1922年2月13日-1979年9月7日)は、日本の詩人。 東京出身。本名・太田忠。東京府立実科工業学校(現・東京都立墨田工業高等学校)卒。北園克衛の詩誌『VOU(バウ)』に参加し、戦後は『荒地』に参加。詩学社の雑誌『詩学』の編集者も務める。音楽詩劇「御者バエトーン」で1965イタリア賞グランプリ。
服部 達(はっとり たつ、1922年(大正11年)2月13日… 服部 達(はっとり たつ、1922年(大正11年)2月13日 - 1956年(昭和31年)1月1日)は日本の文芸評論家、翻訳家。 第一高等学校理科を経て京都大学文学部独文科中退(学徒兵として応召)。1954年(昭和29年)、奥野健男、日野啓三、清岡卓行、村松剛、島尾敏雄、遠藤周作、吉本隆明たちと「現代評論」を創刊。同年「新世代の作家たち」を発表。1955年(昭和30年)、評論「われらにとって美は存在するか」を「群像」3月号から9月号まで連載。マルクス主義を背景にしたイデオロギー的批評の全盛期にあって、それとは全く異質な審美的批評の確立を図り、新進批評家として注目を集める。 しかし出版社への借金が嵩み、このことを苦にして、1956年(昭和31年)1月1日、八ヶ岳山麓の清里村キリスト教団清里センター清泉寮から失踪。
穴澤 利夫(あなざわ としお、1922年〈大正11年〉2月1… 穴澤 利夫(あなざわ としお、1922年〈大正11年〉2月13日 - 1945年〈昭和20年〉4月12日)は、大日本帝国陸軍軍人、特別攻撃隊、振武隊隊員。婚約者は孫田智恵子。穴沢利夫とも記される。 1922年2月13日、現在の福島県喜多方市に生まれる。生家は農家であったが、穴澤の祖父が他人の債務の保証人となり財産を失ったこともあって、経済的には恵まれなかった。駒形小学校から喜多方中学校に進学したが、通学に汽車は使えず、毎朝5時に起床して片道2時間かけて徒歩で通学していた。穴澤は子供の頃から読書が好きであり、将来の夢は図書館を設立することであった。読書好きが高じて、喜多方中学校卒業後、大学進学前に1年間文部省図書館講習所に進学している。
畑中 良輔(はたなか りょうすけ、1922年(大正11年)2… 畑中 良輔(はたなか りょうすけ、1922年(大正11年)2月12日 - 2012年(平成24年)5月24日)は、日本の声楽家(バリトン)、音楽教育者、合唱指揮者、音楽評論家、作曲家、詩人、翻訳家(訳詞家)、エッセイスト。日本芸術院会員。日本の洋楽の発展に多大な功績を残した。 福岡県門司市(現:北九州市門司区)に浅野セメントに勤める父・勝次郎と、琴および三絃の師匠をしていた母・筆の長男として生まれる。四人家族で、二つ上の姉がいる。旧制門司中学校に入学、ラッパ鼓隊に所属し小太鼓を担当する。進学先として受験科目に苦手の数学が無い東京音楽学校を選び、人前で歌ったことはなかったが消去法で「声楽科」と書いたという。
狩久(かり きゅう、1922年2月10日 - 1977年10… 狩久(かり きゅう、1922年2月10日 - 1977年10月12日)は日本の小説家。貝弓子の別名でも執筆した。 本名は市橋久智。1922年 (大正11年) 2月10日東京都東京市芝区(現港区高輪)出身。1946年 (昭和21年) に慶應義塾大学工学部電気学科を卒業したが、その年に結核を発病し1953年 (昭和28年) まで療養所で闘病生活を送った。 療養所生活中の1951年 (昭和26年)、推理小説雑誌『別冊宝石』の短編懸賞部門に『落石』と『氷山』を投稿、そのうちの『落石』が優秀5作の1つに残った。 両作品は同年12月に『別冊宝石』で発表された。1953年 (昭和28年) からは自宅療養に変わり、以後本格推理ものや官能サスペンスなど多数の作品を執筆した。
角替 武(つのがえ たけし、1922年(大正11年)2月9日… 角替 武(つのがえ たけし、1922年(大正11年)2月9日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の元陸軍軍人および実業家。陸士55期次席。日本航空常務取締役、日本アジア航空代表取締役社長および名誉顧問。 静岡県掛川市出身。1936年(昭和11年)4月、掛川中学校(現:静岡県立掛川西高等学校)より東京陸軍幼年学校に転学。1941年(昭和16年)に陸軍士官学校卒業後、満州・東安駐屯の歩兵第22連隊に配属される。大戦末期、内地の陸軍士官学校区隊長(58期・60期担当)に発令され、陸軍大尉で終戦を迎える。 戦後は公職追放を受ける。1952年9月、東京大学法学部卒。1953年に日本航空に入社、経理課長、ロンドン支店長、運送本部管理部長、経営管理室長を経て1979年6月より常務取締役。
前川 嘉一(まえかわ かいち、1922年2月9日 - 199… 前川 嘉一(まえかわ かいち、1922年2月9日 - 1990年1月29日)は、日本の経済学者。 京都市生まれ。第三高等学校、兵役をへて1947年京都帝国大学経済学部卒。1968年「イギリス労働組合主義の発展」で京都大学より経済学博士の学位を取得。1949年京都大学経済学部助手、1950年講師、1954年助教授、1969年教授、1976-1977年経済学部長、1985年定年退官、名誉教授。
池田 善治(いけだ ぜんじ、1922年2月9日 - 2019… 池田 善治(いけだ ぜんじ、1922年2月9日 - 2019年12月24日)は、日本の政治家。 福島県議会議長を2期務めた後、福島県伊達郡梁川町(現・伊達市)の町長を7期務めた。 叙勲は旭日中綬章。没後、正五位を授かる。 公式サイト:一般財団法人 池田福祉財団HP
時永 淑(ときなが ふかし、1922年2月9日 - 1990… 時永 淑(ときなが ふかし、1922年2月9日 - 1990年4月26日)は、日本の経済学者。元法政大学教授。古典派経済学、マルクス経済学を研究。 岡山県赤磐郡赤坂町(現・赤磐市)出身。1951年東京大学経済学部卒業。1952年法政大学経済学部助手、1955年助教授、1963年教授、1975年経済学部長となる。1990年、急性腎不全のため逝去。
四ツ谷 巖(よつや いわお、1922年〈大正11年〉2月9日… 四ツ谷 巖(よつや いわお、1922年〈大正11年〉2月9日 - 1993年〈平成5年〉6月27日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。位階は正三位。 岐阜県出身。1945年(昭和20年)東京帝国大学を卒業。1945年(昭和20年)11月に司法官試補、1947年(昭和22年)5月に司法修習生になり、1949年(昭和24年)6月に富山地裁を振り出しに裁判官生活を始める。1954年(昭和29年)に最高裁総務局付。この後、札幌・東京の各地裁判事、東京高裁判事、福島地裁所長、東京高裁総括判事を歴任。1984年(昭和54年)12月に広島高裁長官に就任し、1985年(昭和60年)11月に東京高裁長官に就任した。
大塚俊二(おおつか しゅんじ、1922年2月9日 - )は日… 大塚俊二(おおつか しゅんじ、1922年2月9日 - )は日本の大蔵官僚。大臣官房日本専売公社監理官、国税不服審判所次長、大光相互銀行社長、日本専売公社監事、プロミス副社長、同社長、同会長などを務めた。 新潟県出身。1947年4月 高等試験行政科を合格。同年9月 東京商科大学(現一橋大学)商学部卒業。同年12月 大蔵省入省。主税局属。1950年5月 海南税務署長。1955年4月 造幣局東京支局総務課長。1956年2月 造幣局東京支局総務課長兼造幣局東京支局長心得。同年7月 造幣局東京支局総務課長。1963年10月 関東財務局東京証券取引所監理官。1964年7月 東京国税局調査第一部長。1966年8月 国税庁直税部審理課長。
伊藤 喜美(いとう よしみ、1922年2月9日 - 2015… 伊藤 喜美(いとう よしみ、1922年2月9日 - 2015年7月7日)は、日本の実業家。株式会社バロー(現:バローホールディングス)の創業者で、同社相談役名誉会長を務めた。恵那商工会議所設立の発起人でもある。岐阜県出身、男性。 恵那市名誉市民にも選ばれた。 公益財団法人伊藤青少年育成奨学会の理事長を務め、伊藤の個人資産の一部を基本財産として財団が奨学金給付事業などを行っている。 趣味はゴルフで、中部シニアゴルフ選手権1984年大会から1986年大会を3連覇している。 中部流通 | 上海巴栄貿易 | VALOR VIETNAM | フェイス | 中部興産 | メンテックス | バローエージェンシー | ジャパンクリーンサービス | アクセル | アグリトレード | 昭和フイルム | ユニードパック | 鷺富運送 ユース(→バロー) | オカノ(→バロー) | Vマート(→バローHD) | ビックポンドストアー(→バローHD) | ヒルトップ(→牧歌コーポレーション) | 飛騨小坂ぶなしめじ(→中部アグリ) | 石巻フーズ(→本田水産) | ひだ薬局(→中部薬品) | なぎさ薬局(→中部薬品) | 福井中央漬物(→バロー) | V Flower(→清算) | NSAK(→HCバロー) | ホームセンター・アント(→HCバロー) | 大和ストアー(→バロー) | セイソー(→メンテックス) | ジョーカー(→アミーゴ) | アグリル(→中部流通) | 滋賀中央パック(→中部興産) この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
渡辺 誠太郎(わたなべ せいたろう、1922年(大正11年)… 渡辺 誠太郎(わたなべ せいたろう、1922年(大正11年)2月8日 - 2013年(平成25年)6月22日)は、秋田県秋田市出身の元プロ野球選手。 秋田市立土崎商業学校(現:秋田市立秋田商業高等学校)卒業後、1941年に阪神軍に入団。その後、1944年(昭和19年)に応召。 1946年から大阪タイガースに復帰。同年は開幕投手を勤め、10勝を挙げる(12敗)。同年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間が僅か55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合ではパシフィック先発の湯浅芳彰と投げ合い、被安打5・88球で完封勝ちした。
黒木 三郎(くろき さぶろう、1922年2月8日 - 201… 黒木 三郎(くろき さぶろう、1922年2月8日 - 2010年2月20日)は、日本の法学者、弁護士、早稲田大学名誉教授。愛知大学教授や日本法社会学会理事長を務めた。日本学術会議会員。専門は民法、法社会学。 九州大学在学中、福岡市内で開かれた学徒出陣式で学生代表として答辞を述べる際の原稿に「戦火がおさまったときには銃をペンにかえて学園に戻る」と書いたことが検閲に引っかかった。のちに「言論を封じ込め、学生から学問を奪い取り、死まで強要する体制に疑問を感じた。」と述べ、この体験から護憲を掲げて、青島幸男が当選を果たした1995年の東京都知事選挙に無所属で出馬した。選挙では社会党の政策立案にも携わった東京大学名誉教授の大内力が応援に駆け付けたものの、結果は284,387票(得票率6.12%)しか得られず落選した。
谷 資信(たに すけのぶ、1922年2月8日 - 1999年… 谷 資信(たに すけのぶ、1922年2月8日 - 1999年5月10日)は、日本の建築構造学者、構造家。早稲田大学名誉教授。 1922年、東京に生まれる。1945年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、早稲田大学専門部工科専任講師。1949年早稲田大学理工学部専任講師に転任。1953年同大学助教授就任。1960年工学博士。1963年同教授就任。1981年、早稲田大学専門学校校長兼務。1992年退職。1979年「耐震要素の配置と復元力特性に関する研究」にて日本建築学会賞受賞。1987年から1988年まで日本建築学会会長。1995年日本建築学会賞大賞受賞。1997年、勲三等瑞宝章受章。 構造設計にスカイハウス(1958年建設,東京都文京区大塚)、古川市民会館(1966 年建設,宮城県古川市)、鎌倉商工会議所会館など多数。
呉 元善(オ・ウォンソン、朝鮮語: 오원선/吳元善、1922… 呉 元善(オ・ウォンソン、朝鮮語: 오원선/吳元善、1922年2月7日または1923年 - 1978年5月31日)は、大韓民国の軍医、海軍軍人(海軍准将)、海兵隊員、政治家。原子力院院長、保健社会部長官、第7代韓国国会議員を歴任した。本貫は海州呉氏。 日本統治時代の忠清北道陰城郡出身。1943年または1944年セブランス医学専門学校(現・延世大学校)卒。1961年または1962年岐阜医科大学で医学博士取得。1949年にセブランス医科大学講師を務めたが、1950年の朝鮮戦争中に大韓民国軍に入隊した。1955年から仁川陸軍病院長、大韓民国海軍医務参謀、海軍本部医務次監、海軍軍医学校校長を経て、5・16軍事クーデターの後の1961年6月から現役の海軍大領として第3代原子力院(現・原子力安全委員会)院長を約2年間務めた。
風間 力三(かざま りきぞう、1922年2月7日 - )は、… 風間 力三(かざま りきぞう、1922年2月7日 - )は、日本の国語学者、甲南大学名誉教授。 岡山県津山市生まれ。1947年東北帝国大学法文学部文学科国語専攻卒、甲南大学助教授、教授、1986年定年退任、名誉教授、大手前女子大学文学部教授。
宮川 哲夫(みやかわ てつお、1922年2月7日 - 197… 宮川 哲夫(みやかわ てつお、1922年2月7日 - 1974年9月30日)は、昭和期の歌謡曲作詞家。伊豆大島、大島町波浮港出身。 1922年(大正11年)、東京府大島町波浮港4番地、父・宮沢源之助と母・登代の間に生まれる。自宅以外に別荘を2軒持つ程の大きな網元「宮鉄」の長男であった。当時の波浮港は、沖に日本有数の漁場「大室出し」を抱え、全国から漁船が集まり、「銚子か、波浮か?」と歌われるほど、漁港町として繁栄していた。祖父が演劇が好きで、伊豆の踊り子一座に、別宅を貸し与えていた。 1927年(昭和2年)、5歳のとき、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「波浮の港」がビクターから発売され、全国を風靡した。
安島 友義(安嶋友義、あじま ともよし、1922年(大正11… 安島 友義(安嶋友義、あじま ともよし、1922年(大正11年)2月7日 - 1999年(平成11年)6月9日)は日本の政治家。衆議院議員(1期、日本社会党)。 茨城県日立市生まれ。日立製作所に入社後、同社労働組合では中央執行部の幹部として活動する。茨城県労働会館を建設する際には実行委員会の副委員長を務め、組合桔成十五周年の記念事業として行った『組合史』の編纂では小委員会の委員を務め、安島が戦後編における各章の概説の執筆を担当した。 日本社会党の衆議院議員石川次夫の死去を受け、日立労組顧問だった安島が後継となり、1976年(昭和51年)、第34回衆議院議員総選挙に茨城2区から立候補。日立労祖の組織票を受け、同選挙で1位の塚原俊平に次ぐ70,600票を得票し当選した。
清崎 敏郎(きよさき としお、1922年2月5日 - 199… 清崎 敏郎(きよさき としお、1922年2月5日 - 1999年5月12日)は、日本の俳人・国文学者。本名は星野敏郎。 東京市赤坂区(現・港区赤坂)に生まれる。東京府立第一中学校(現・日比谷高等学校)在学中[要出典]に結核性股関節炎にかかり、療養生活を送る中で句作を始めた。1940年、富安風生が選者をしていた読売俳壇の選に入り、これをきっかけに風生の主宰誌「若葉」に投句、風生に師事する。1942年、慶應義塾大学文学部に入学、折口信夫、池田弥三郎のもとで民俗学を学ぶ。 1943年、父の知人であった高浜年尾に俳句の指導を受け、年尾を介して高浜虚子に会う。同年「ホトトギス」に投句し初入選。1946年、楠本憲吉、大島民郎らとともに慶大俳句研究会設立、会誌として「慶大俳句」を発刊。
古賀 愛人(こが あいと、1922年(大正11年)2月5日 … 古賀 愛人(こが あいと、1922年(大正11年)2月5日 - 2009年(平成21年)12月10日)は、元テレビ西日本(TNC)社長、日本民間放送連盟副会長・顧問。 福岡県出身。明治大学政治経済学部に入学後、柔道部に所属し、大学には柔道界の名人・三船久蔵の自宅から通学した。学徒動員で南方戦線に従軍し、九死に一生を得て帰還し、復学。占領軍の指示で柔剣道が禁止されていた中、柔道部の復活に中心的な役割を果し、明柔クラブ監督なども務めた。 1949年に明大を卒業し、西日本新聞社に入社。東京政治部で活躍し、内閣記者会の幹事などを務め、大平正芳、佐藤栄作など、多くの大物政治家と交流をもち、一時期は政界進出が検討された。
水原 春郎(みずはら はるお、1922年2月4日 - 201… 水原 春郎(みずはら はるお、1922年2月4日 - 2016年9月25日)は、日本の小児科医、俳人。 水原秋桜子の長男として東京に生まれる。1946年慶應義塾大学医学部卒。1947年同小児科助手、1956年医学博士の学位を取得。1957年講師。川崎市立川崎病院小児科勤務、1975年聖マリアンナ医科大学教授、1984年同医科大学病院長、1986年医学部長、1987年名誉教授。1984年父の俳誌「馬酔木」主宰を継承、2011年主宰を長女・徳田千鶴子(1949- )に譲り名誉主宰。俳人協会顧問。
池田 勤也(いけだ きんや、1922年(大正11年)2月4日… 池田 勤也(いけだ きんや、1922年(大正11年)2月4日 - 2007年(平成19年)10月27日)は、昭和時代の政治家。福井県勝山市長。 勝山市出身。1944年(昭和19年)東京外国語大学独語部卒業。 外務省を経て、1955年(昭和30年)勝山市役所に入る。1972年(昭和47年)助役を経て、1976年(昭和51年)以来、勝山市長に3選。1988年(昭和63年)引退した。
橘 正忠(たちばな まさただ、1922年2月2日 - 200… 橘 正忠(たちばな まさただ、1922年2月2日 - 2004年4月1日)は、日本の外交官。 1944年東京大学法学部卒、1945年外務省に入省後、1950年米国留学、カナダ在勤、シドニー領事、報道課長、香港領事、1969年在オーストリア日本大使館参事官、1970年アメリカ局参事官などを歴任。 1972年アメリカ局長心得、1975年-1977年欧亜局長、1977年-1980年駐デンマーク大使、1980年10月から在ビルマ日本大使館特命全権大使、1983年10月から1986年まで在タイ日本国大使館特命全権大使となる。 後に国立京都国際会館館長、京都市国際交流協会理事や上場企業役員を歴任した。 1980年11月にヤンゴン日本人学校名誉校長に就任する。
頼 惟勤(らい つとむ、1922年〈大正11年〉2月2日 -… 頼 惟勤(らい つとむ、1922年〈大正11年〉2月2日 - 1999年〈平成11年〉7月15日)は、日本の中国学者。お茶の水女子大学名誉教授。頼聿庵の末裔。 東京府生まれ。父は東京高等学校教授の頼成一で、惟勤は頼山陽の6代目の子孫(山陽の子・聿庵の末裔)。1939年(昭和14年)(旧制)私立武蔵高等学校卒業後、1943年(昭和18年)学徒出陣で、東京帝国大学文学部支那哲学支那文学科を繰り上げ卒業し出征。1944年(昭和19年)、海軍少尉。1945年(昭和20年)、中尉。 復員後は、倉石武四郎の世話で京都帝国大学教務嘱託。1949年(昭和24年)、東京大学文学部副手。1952年(昭和27年)、お茶の水女子大学専任講師、のち1959年(昭和34年)に助教授、1964年(昭和39年)に教授。
谷口 是巨(たにぐち よしのり、1922年(大正11年)2月… 谷口 是巨(たにぐち よしのり、1922年(大正11年)2月2日 - 2010年(平成22年)12月25日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。 長崎県出身。1942年(昭和17年)長崎医大附属薬学専門部(現長崎大学薬学部)卒。薬剤師免許を取得。同年、徴兵され陸軍西部第47部隊に入隊し、1946年(昭和21年)に復員。 1947年(昭和22年)から長崎市立西浦上中学校教員を務めた。1963年(昭和38年)長崎県議会議員に当選し3期在任。1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から公明党公認で立候補して落選。1976年の第34回衆議院議員総選挙で長崎1区から公明党公認で立候補して初当選し、連続2期務めた。
福永 安祥(ふくなが やすよし、1922年2月2日 - 20… 福永 安祥(ふくなが やすよし、1922年2月2日 - 2014年9月28日)は、日本を代表する教育社会学、東南アジアの地域研究者。 明治から昭和期の詩人・小説家・翻訳家の福永挽歌は伯父。長男は南アジア研究者の福永正明。 学校法人明星学苑明星大学、いわき明星大学において研究指導を続け、日本社会学会、日本教育社会学会など学会活動でも役職を歴任した。 教育社会学の分野において、「都市化の進展する社会状況をふまえた新しい研究の地平を開く研究であると位置づけることができる」とされる 戦時下の早稲田大学の学生時代に東南アジア諸国からの留学生と親しく付き合い、また海軍従軍期にも東南アジア諸国を訪問した。1960年代以降、かつての留学生たち交流を続けた。
松澤 宥(まつざわ ゆたか、1922年〈大正11年〉2月2日… 松澤 宥(まつざわ ゆたか、1922年〈大正11年〉2月2日 - 2006年〈平成18年〉10月15日)は、日本のコンセプチュアル・アーティスト(概念芸術家)。 長野県諏訪郡下諏訪町に生まれる。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1946年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業。1952年第4回読売アンデパンダン展、第12回美術文化協会展に出品。その後1955年、ウィスコンシン州立大学よりフルブライト交換教授として招かれ渡米、翌年コロンビア大学で現代美術、宗教哲学を修めて1957年帰国。 1964年6月1日深夜、「オブジェを消せ」という啓示を受け、概念芸術家としての活動を始める。 松澤の活動は瀧口修造、中原佑介、針生一郎等の美術評論家達に注目され1970年の第10回日本国際美術展「人間と物質」展に参加し、他のコンセプチュアルアーティストの堀川紀夫(英語版)(「新潟現代美術家集団GUN」所属)、河原温、高松次郎、ダニエル・ビュラン、ハンス・ハーケ、 ソル・ルウィット、マリオ・メルツ(英語版)らと共に美術業界(英語版)に紹介される。
市川 重幸 (いちかわ しげゆき、1922年2月1日- 19… 市川 重幸 (いちかわ しげゆき、1922年2月1日- 1987年12月22日)は、日本の実業家、象印マホービン代表取締役社長、全国魔法瓶工業組合第3代理事長。大阪府出身。学位は法学士(関西大学・1944年)。栄典は藍綬褒章、従5位勲四等旭日小綬章。 1922年(大正11年)2月1日、象印マホービン創業者の市川銀三郎の子として大阪府に生まれた。 1944年(昭和19年)関西大学法学部政治学科を卒業後、同年12月に歩兵第22連隊入営。甲種幹部候補生試験合格後、浜松陸軍飛行学校入校。1945年(昭和20年)10月、陸軍少尉で除隊。 1951年(昭和26年)に取締役を経て、1961年(昭和36年)社長就任後、「象印」のブランド名を冠し、社名を象印マホービン株式会社に変更。
飯塚 信雄(いいづか のぶお、1922年2月1日 - 200… 飯塚 信雄(いいづか のぶお、1922年2月1日 - 2004年10月15日)は、日本のドイツ文学者、明治大学名誉教授。 神奈川県横浜市生まれ。上智大学文学部卒業。國學院大學助教授、明治大学教授、1991年定年退任、名誉教授。 はじめドイツ文学を専攻したが、のち西洋生活文化史専攻。服飾史、手工芸史、インテリアデザイン史に造詣が深く、特にロココ文化の研究で名高い。 2004年10月15日、心不全のため死去。