細谷 昭雄(ほそや あきお、1927年1月10日 - 201… 細谷 昭雄(ほそや あきお、1927年1月10日 - 2014年3月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)を歴任した。 秋田県仙北郡神岡町(現大仙市)出身。旧制秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)を経て、秋田大学学芸学部(現在の秋田大学教育文化学部)卒。卒業後は小中学校教員になり、秋田県教職員組合仙北支部書記長、同支部長、大曲仙北郡労事務局長、同議長、日本社会党大曲仙北総支部執行委員長などを経て、1971年秋田県議に当選し2期務めた。1979年の第35回衆議院議員総選挙で秋田2区から日本社会党公認で立候補して当選し、翌1980年の第36回衆議院議員総選挙で落選。
田村 恵(たむら めぐむ、1927年1月10日 - 1986… 田村 恵(たむら めぐむ、1927年1月10日 - 1986年10月8日)は、神奈川県出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。 附属鎌倉小学校出身。旧制湘南中学時代からサッカーを始め、第一早稲田高等学院を経て早稲田大学に入学。ア式蹴球部に所属して大学リーグの優勝に貢献した。大学卒業後は日本油脂に入社。1951年2月11日の全関西戦で日本代表として初出場した。また、1951年アジア競技大会の日本代表にも選出されて3試合全てに出場。国際Aマッチ3試合出場を記録した。 現役引退後は社業に専念する傍ら、地元の鎌倉で少年サッカーのコーチを務めていた。1986年10月8日、国立がんセンターにおいて癌により死去した。
飯島 俊郎(いいじま としろう、1927年1月10日 - 2… 飯島 俊郎(いいじま としろう、1927年1月10日 - 2014年5月9日)は、日本の化学工学者。東京工業大学名誉教授。元実践女子大学学長。元繊維学会会長。 東京出身。1950年東京工業大学有機合成化学コース卒業。1961年東京工業大学工学博士。1967年東京工業大学助教授。1972年教授。1987年名誉教授、実践女子大学家政学部教授。1988年繊維学会会長。1990年繊維学会功績賞受賞。1993年繊維学会名誉会員。1997年実践女子大学学長、実践女子短期大学学長。2002年勲三等旭日中綬章受章。指導学生に濱田州博元信州大学学長、関隆広名古屋大学教授など。 2014年5月9日、肺炎のため死去。
玉田 泰太郎(たまだ やすたろう、1927年1月10日 - … 玉田 泰太郎(たまだ やすたろう、1927年1月10日 - 2002年)は、日本の著作家、小学校理科教師。 愛媛県出身。東京理科大学数学科卒。渋谷区立長谷戸小学校など公立小学校の教員。科学教育研究協議会会員。
宮崎 雅好(みやざき まさよし、1927年(昭和2年)1月1… 宮崎 雅好(みやざき まさよし、1927年(昭和2年)1月10日 - 2021年(令和3年)1月26日)は、昭和から平成時代の政治家。埼玉県坂戸市長。坂戸市名誉市民。 埼玉県入間郡坂戸町(現坂戸市)出身。海軍兵学校卒業。1955年(昭和30年)1月、坂戸町議会議員に当選し、以来坂戸町および坂戸市収入役を経て、1980年(昭和55年)5月、坂戸市長に当選した。2000年(平成12年)5月、政界から引退した。2002年(平成14年)7月、坂戸市名誉市民に推挙された。 2021年1月26日、盲腸がんのため死去。94歳没。死没日をもって従四位に叙される。
中山 研一(なかやま けんいち、本名:乾 研一(いぬい けん… 中山 研一(なかやま けんいち、本名:乾 研一(いぬい けんいち)、1927年1月9日 - 2011年7月31日)は、日本の法学者。専門は刑法。京都大学名誉教授。 滋賀県出身。虎姫中学、旧制静岡高校を経て、1953年京都大学法学部卒業。1955年助手、助教授を経て、1968年同大教授。1982年、京都大学名誉教授、大阪市立大学法学部教授。1990年北陸大学法学部教授。1998年退職。退職後も、執筆意欲は衰えを見せなかった。滝川幸辰と佐伯千仭の弟子。 2011年7月31日、肺癌のため大津市の病院で死去。84歳没。 専門は刑法、ソビエト刑法だが、京都大学教授時代には、「暗黙の教授会申し合わせ」なるものにより、刑法学講座を担任できず、ソビエト法の講義を行っていた。
鹿熊 安正(かくま やすまさ、1927年(昭和2年)1月9日… 鹿熊 安正(かくま やすまさ、1927年(昭和2年)1月9日 - 2019年(令和元年)6月2日)は、日本の政治家。元・富山県議会議員、同議長。元・自由民主党・参議院議員(2期)。安倍派。元・県スキー連盟会長。元・小川温泉社長。 富山県下新川郡山崎村(現・朝日町)出身。鹿熊久安の息子。東京農業大学卒業。 1959年(昭和34年)、県庁職員を経て富山県議会議員当選。以後8期務める(下新川郡選挙区)。自民党県連幹事長、県議会議長を歴任。 1989年(平成元年)、第15回参議院議員通常選挙富山県選挙区初当選。 1992年(平成4年)、宮澤改造内閣で通商産業政務次官に就任。 1994年(平成6年)、村山内閣で郵政政務次官に就任。
桑原 公徳(くわばら ただのり、1927年(昭和2年)1月9… 桑原 公徳(くわばら ただのり、1927年(昭和2年)1月9日 - 2000年(平成12年)8月25日)は、歴史地理学者。専門は歴史地理学、村絵図、地籍図。小字(こあざ)の研究。 島根県安来市に生まれる。1951年(昭和26年)、立命館大学を卒業した。兵庫県立豊岡高等学校に勤務した。1956年(昭和31年)、立命館大学大学院文学研究科(地理学専攻)修士課程を修了した。京都府立桃山高等学校教諭を経て、1961年(昭和36年)に花園大学講師となり、地誌学・人文地理学・歴史地理学を担当した。後に花園大学助教授、教授を歴任した。1982年(昭和57年)から1996年(平成8年)まで佛教大学文学部史学科教授を務めた。
田所 作太郎(たどころ さくたろう、1927年〈昭和2年〉1… 田所 作太郎(たどころ さくたろう、1927年〈昭和2年〉1月7日 - 2011年〈平成23年〉9月25日)は、日本の医学者・薬理学者。医学博士。群馬大学名誉教授。 群馬県前橋市生まれ。旧制前橋中学校を経て、1949年(昭和24年)前橋医学専門学校卒業。1955年(昭和30年)東京慈恵会医科大学医学博士。1959年(昭和34年)群馬大学医学部助教授。1965年(昭和40年)よりアメリカ・ミシガン大学へ留学。1972年(昭和47年)群馬大学医学部教授。1978年(昭和53年)日本アルコール医学会会長。1983年(昭和58年)群馬大学医学部付属動物実験施設長。1991年(平成2年)定年退官、名誉教授、群馬県立医療短期大学学長。
斎藤 謹造(さいとう きんぞう、1927年1月7日 - 20… 斎藤 謹造(さいとう きんぞう、1927年1月7日 - 2003年10月18日)は、日本の経済学者。大阪大学名誉教授。 福島県出身。1952年東京商科大学卒、1952年大同毛織入社、1953年福島大学経済学部助手、1959年助教授、1962年大阪大学教養部助教授、1970年教授となる。1989年定年退官し、名誉教授になる。1983年『比較経済発展論 歴史的動学理論の形成』で大阪大学経済学博士。
板倉 正男(いたくら まさお、1927年1月6日 - 201… 板倉 正男(いたくら まさお、1927年1月6日 - 2011年7月28日)は、千葉県千葉市出身のプロ野球選手(投手、捕手、外野手)。 千葉商業学校から郵便局勤務を経て1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。リーグ崩壊後、1948年に金星スターズへ入団。翌1949年は合併により大映スターズに移籍、捕手に転向。1952年頃から正捕手。1954年にヴィクトル・スタルヒンと共に高橋ユニオンズに移籍、同年引退。引退後は社会人野球、ゴルフ場勤務を経て船橋カントリークラブ支配人に就任。
神谷 不二(かみや ふじ、1927年1月6日- 2009年2… 神谷 不二(かみや ふじ、1927年1月6日- 2009年2月20日)は、日本の国際政治学者。学位は、法学博士(京都大学・1967年)。慶應義塾大学名誉教授。 愛知県名古屋市[要出典]出身。 当初は岡義武の下で近代イギリス外交史を研究したが、後に関心を現代国際政治へと移し、現代アジアの国際政治、日米関係などを研究対象とする。朝鮮戦争研究の草分けで、1966年に発表した著書『朝鮮戦争』で、戦争の発端は北朝鮮による侵略であったと論じ、従来米韓の「北侵」によるとされてきた戦争起源論に反論した。1993年から2002年まで、防衛学会(後に国際安全保障学会)の会長を務めた。 日本政府の外交政策ブレーンを様々な形で務め、沖縄返還時にも学者グループとして政府への提言を行った。
田代 和(たしろ わ、1927年1月6日 - 2013年11… 田代 和(たしろ わ、1927年1月6日 - 2013年11月24日)は、実業家。近畿日本鉄道元社長(大阪電気軌道創業から12代目)・会長。位階は従三位。 独特ではあるが名前の「わ」はれっきとした本名である。 大分県出身。旧制大分中学・旧制五高を経て東京大学工学部卒業後、1949年に近畿日本鉄道入社。1994年に代表取締役社長、1999年に会長就任、2003年に後任に譲り退任した。 2002年から大阪近鉄バファローズのオーナーを、オリックス・ブルーウェーブに吸収合併され球団解散になる2004年まで務めた。 その他、大阪商工会議所副会頭を1996年から、1999年から2004年まで会頭を務めた。大商は2003年4月に大阪工業会を吸収、大阪財界の顔として活躍した。
柴田 藤祐(しばた とうすけ、1927年1月6日 - 201… 柴田 藤祐(しばた とうすけ、1927年1月6日 - 2015年6月27日)は、日本の経営者。淀川製鋼所社長を務めた。 京都府京都市出身。1951年に京都大学工学部冶金学科を卒業し、同年に淀川製鋼所に入社。1981年6月に取締役に就任し、1987年6月に常務、1993年6月に専務を経て、1995年6月に社長に就任。2001年6月に取締役相談役に就任。 2015年6月27日に死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
米田 利昭(よねだ としあき、1927年1月6日 - 200… 米田 利昭(よねだ としあき、1927年1月6日 - 2000年4月13日)は、昭和・平成期の歌人、日本文学研究者。 東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区西ヶ原)生まれ。1948年東京大学文学部国文学科卒業。東京大学時代は、東大アララギ会を中心としたグループ「芽」の中心人物で、岡井隆などと交友を持った。後に未来短歌会に参加。東大大学院を経て、東京都立北園高等学校教諭、宇都宮大学助教授、教授、名誉教授を歴任。1992年定年、駒沢女子大学教授を務めた。闊達な語り口で「リショー氏」と呼ばれた。 斎藤茂吉、土屋文明など主にアララギ系の詩歌を論じた。1968年に発表した『戦争と歌人 渡辺直己の生涯と芸術』では、日中戦争で戦死したアララギ歌人・渡辺直己の戦争詠が、ニュース映画や『西部戦線異状なし』等の戦争映画に影響されたフィクションであったことを実証し、アララギのリアリズムを問い直す問題提起を行った。
中澤 正(中沢 正、なかざわ ただし、1927年1月6日-)… 中澤 正(中沢 正、なかざわ ただし、1927年1月6日-)は、料理史研究家、料理人。 山梨県甲府生まれ。1939年4月上京、東駒形の伯父の家に寄食。その後外地で暮らし、1946年復員、47年関西へ移り、あなごや調理師会幹事高橋辰男に師事し大阪などで働く。1955年上京、日本橋室町一丁目和食信洲などで働く。1963年2月、鉄道弘済会中部支部に入会、とくがわ荘に勤務。この間、進士慶幹に師事して歴史を学んだ。日本料理講師。名古屋在住。
村上 昭夫(むらかみ あきお、1927年1月5日 - 196… 村上 昭夫(むらかみ あきお、1927年1月5日 - 1968年10月11日)は、日本の詩人。 岩手県東磐井郡大東町(現:一関市)出身。生地は現在の陸前高田市。両親は叔父と姪の関係であった。岩手中学校(現:岩手高等学校)を卒業。第二次世界大戦中、日本鋳造鶴見工場に学徒動員。工場の寮に募集斡旋があったことから満州国哈爾濱省官吏となるが、8月に終戦。ソ連のシベリアで二年間の過酷な抑留生活を送る。 1946年に帰国後、1947年に盛岡郵便局に勤務、労働組合機関誌を編集して小説や詩を発表する。しかし1950年に結核が発病し、退職を余儀なくされる。この結核との闘病生活は41歳で亡くなる最期まで続く。村上の創作活動は闘病生活の中、サナトリウムでの俳句から始まり、やがて同じサナトリウムに入院してきた詩人の高橋昭八郎の影響から詩に転じた。
原 昭二(はら しょうじ、昭和2年(1927年)1月 5日 … 原 昭二(はら しょうじ、昭和2年(1927年)1月 5日 - 令和5年(2023年)6月 8日)は薬学者。東京薬科大学名誉教授。世界に先駆けて、光学異性体(対掌体)を高速液体クロマトグラフィー (HPLC)で分割することに成功し、核磁気共鳴(NMR)によって、鏡像体過剰率(混合比率)の高精度な計測法を確立した。さらに二酸化炭素の超臨界流体を用いて、秒単位の光学分割技術を開発したことで知られる。 原 昭二は、昭和25年(1950年)、東京大学医学部薬学科を卒業し、東京大学大学院に進んで、薬化学を専攻した。初期の研究は、分析化学、合成化学の基礎を研鑽することに始まり、業績として液体クロマトグラフィーの技術革新、天然有機化合物の構造研究、合成研究(猛毒成分として知られるアコニット・アルカロイドの構造決定、サラマンダーアルカロイド の全合成 など)、広領域にわたって先導的な成果を得た。
吉田豊(よしだ ゆたか、1927年1月5日- )は、日本の文… 吉田豊(よしだ ゆたか、1927年1月5日- )は、日本の文筆家。 東京生まれ。1947年宇都宮農林専門学校農科卒、農林省農業試験場に入り病害虫防除の研究をする。のち文筆に転じ、麹町企画に属して企業媒体のPR誌の編集執筆に当たる。のちフリーとなり、近世を中心とした日本庶民生活、中国古典の紹介をおこなう。
猪瀬 博(いのせ ひろし、1927年 <昭和2年> 1月5日… 猪瀬 博(いのせ ひろし、1927年 <昭和2年> 1月5日 - 2000年 <平成12年> 10月11日)は、電子工学者。東京大学名誉教授。東京市本郷区根津(現東京都文京区)生まれ。位階は従三位。 主にデジタル通信、画像データベースを研究。他にも大学間コンピューターネットワークの開発をした。 東京大学工学部附属境界領域研究施設(時限7年)から東京大学先端科学技術研究センターを工学部長の立場で形作った。
福本 邦雄(ふくもと くにお、1927年1月5日 - 201… 福本 邦雄(ふくもと くにお、1927年1月5日 - 2010年11月1日)は日本の実業家、画商、政治活動家、元日本共産党員。第2次岸内閣の内閣官房長官秘書官、自由民主党政調会長秘書等を務める。戦前の日本共産党指導者・福本和夫の長男。絵画商人という表の顔から政界や財界や暴力団といった裏社会の深部に入りこんで暗躍した。「政界最後のフィクサー」とも呼ばれた。 神奈川県鎌倉市出身。20代で共産党に入党するが党内対立で除名となる。東京大学経済学部卒業。1951年に産業経済新聞社入社。政治部記者となるはずだったが、前歴を考慮され、調査研究室に配属となり特集ページの編集を担当。またその傍ら、社命で軍事評論家の天川勇のもとに赴き、「天川機関」の収集した国際情報の翻訳作業にもあたる。
向山 光昭(むかいやま てるあき、1927年1月5日 - … 向山 光昭(むかいやま てるあき、1927年1月5日 - 2018年11月17日)は、日本の有機化学者。東京大学名誉教授、東京工業大学名誉教授、東京理科大学名誉教授。社団法人北里研究所基礎研究所有機合成化学研究室名誉所員(前室長)。東京化成工業株式会社基礎研究所技術顧問。長野県伊那市出身。位階は従三位。 シリルエノールエーテルとカルボニル化合物をルイス酸触媒(四塩化チタンなど)下で作用させるとアルドール反応が進行することを発見。この反応は世界的に向山アルドール反応と呼ばれるほどで、今日、有機合成化学者で知らない者はいないほど有名である。それ以外にも脱水縮合反応を中心とした研究を行っている。大環状化合物合成に有用な向山縮合試薬や、フッ化糖類を用いる新規グリコシル化反応なども開発した。
寺田 文行(てらだ ふみゆき(ぶんこう)、1927年1月5日… 寺田 文行(てらだ ふみゆき(ぶんこう)、1927年1月5日 - 2016年3月3日)は、日本の数学者。早稲田大学名誉教授。静岡県出身。 東北帝国大学理学部数学科卒業。28歳で博士号を取得し、東北大学教養部助教授になる。1965年に早稲田大学理工学部数学科の教授に就任。数学科の主任も務めた。1991年、早稲田大学理工学部情報学科の設置に伴い情報学科の教授に就任。その傍ら代々木ゼミナール、C.A.P.特訓予備校(現・C.A.P.予備校 宮城県仙台市)などにも出講した。また、大学受験ラジオ講座講師も務めた。専門の数学書の他にも大学受験生向けの参考書「鉄則シリーズ」や、問題集を著した。 寺田の単項化定理を証明した。
一番ヶ瀬 康子(いちばんがせ やすこ、1927年1月5日 -… 一番ヶ瀬 康子(いちばんがせ やすこ、1927年1月5日 - 2012年9月5日)は、日本の社会福祉学者。日本女子大学名誉教授。 台北第一師範学校附属小学校、台北州立台北第一高等女学校を経て、1945年に日本女子大学校家政学部第三類卒業した。1953年、法政大学法学部労働学科を卒業し、1956年に同大学院社会科学研究科経済学専攻修士課程を修了した。1961年、同博士後期課程単位取得退学した。1966年に法政大学より経済学博士の学位を取得した。博士論文の題は「アメリカ社会福祉発達史」。 日本女子大学教授(1995年3月定年退職)、東洋大学社会学部教授(1997年まで)、長崎純心大学人文学部教授、山野美容芸術短期大学客員教授を歴任した。
佐藤 和夫(さとう かずお、1927年1月5日 - 2004… 佐藤 和夫(さとう かずお、1927年1月5日 - 2004年9月22日)は、経済学者。ラトガーズ大学経済学名誉教授。札幌市生まれ。 1927年に北海道札幌市に生まれる。1953年に北海道大学経済学部を卒業。その後渡米し、1960年にイェール大学より博士号を授与される。1959年に大阪大学社会経済研究所に助教授として着任し、1962年から1970年まで国際連合事務局経済調査官を務める。 1970年からニューヨーク州立大学バッファロー校経済学部で教授を務め、1984年にラトガーズ大学に移籍する。その間、マサチューセッツ工科大学、コロンビア大学、イェール大学で客員教授として勤務した。教員として定年退職したラトガーズ大学の他に、母校の北海道大学にも名誉博士号を授与された。
坂上 昭一(さかがみ しょういち、1927年1月4日 - 1… 坂上 昭一(さかがみ しょういち、1927年1月4日 - 1996年11月4日)は、日本の生物学者。 1927年に千葉県で生まれ、1948年、北海道帝国大学農学部農業生物学科卒業、1954年、北海道大学大学院理学研究科博士課程修了。 1954年、北大理学部講師。1955年、「ミツバチに於ける視覚学習の知覚心理学的研究」で北海道大学理学博士。1955年、助教授。1961年-1963年ブラジル、パラナ大学研究員、リオクラーロ大学客員教授。1971-72年ブラジル、リベラン・プレト大学客員教授。1976年、ブラジル科学アカデミー(ポルトガル語版、英語版)会員。1978年北海道大学低温科学研究所教授。 ハナバチ類の比較社会学的研究をし、その進化を論じた。
葉室 賴昭(はむろ よりあき、1927年〈昭和2年〉1月3日… 葉室 賴昭(はむろ よりあき、1927年〈昭和2年〉1月3日 - 2009年〈平成21年〉1月3日)は、日本の医師、神職。葉室家37代当主。 葉室家36代当主葉室直躬の長男として東京府に生まれた。葉室家は公家の藤原藤原北家勧修寺流(藤原為房の次男藤原顕隆が家祖)の流れを汲む伯爵家。学習院に初等科から高等科まで通った。大阪大学医学部を卒業後、勤務医を経て、形成外科医院を開業した。診療を続けながら通信教育で神職資格を勉強し、神職の最高階位である明階を取得した。神社庁の推薦を受けて平成4年(1992年)に東大阪市の枚岡神社の宮司に就任。平成6年(1994年)8月、春日大社の宮司に就任した。平成20年(2008年)3月、春日大社宮司を退任。
桜井 修(さくらい おさむ、1927年1月3日 - 2020… 桜井 修(さくらい おさむ、1927年1月3日 - 2020年3月30日)は、日本の経営者。元住友信託銀行社長。東京都出身。 1952年に東京大学法学部政治学科を卒業、同年に住友信託銀行に入行。1976年6月に取締役に就任、1978年6月に常務、1981年6月に専務、1983年6月に副社長を経て、1984年6月には社長に就任。1989年6月に会長に就任し、1993年6月に取締役相談役を経て、1996年6月には相談役に就任。 2020年3月30日に不整脈のために死去。93歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
中山 公男(なかやま きみお、1927年1月3日 - 200… 中山 公男(なかやま きみお、1927年1月3日 - 2008年2月21日)は、日本の西洋美術史家、美術評論家。 大阪府大阪市船場に生まれる。旧制新潟高等学校では丸谷才一の友人だった。1950年東京大学文学部美学美術史学科卒業、1953年まで大学院特別研究生。 女子美術大学講師、多摩美術大学講師、日本大学助教授を経て1959年国立西洋美術館主任研究官。1963年より文部省在外研修員としてヨーロッパに滞在し、1968年万国博覧会参事、西洋美術館学芸課長を務め、1971年退官。1986年より群馬県立近代美術館館長(2005年まで)、1987年筑波大学教授、1990年に退任し、1991年明治学院大学教授、1997年退職。
三宅 和夫(みやけ かずお、1927年1月3日 - 2014… 三宅 和夫(みやけ かずお、1927年1月3日 - 2014年10月13日)は、日本の心理学者。北海道大学名誉教授。幼児心理学・発達心理学専攻。 東京府生まれ。1952年東京大学文学部心理学科卒業。1953年北海道大学教育学部助手、1955年講師、1962年助教授、1970年教授、1990年定年退官、名誉教授、川村学園女子大学教授。1992年放送大学教授。1996年北海道医療大学教授。1999年日本教育心理学会名誉会員。
山本 満(やまもと みつる、1927年(昭和2年)1月3日 … 山本 満(やまもと みつる、1927年(昭和2年)1月3日 - 2013年(平成25年)1月10日)は、日本の政治学者。専門は国際政治学、国際政治経済学。一橋大学名誉教授。吉野作造賞受賞。 千葉県千葉市生まれ。父・山本猛之助は、革新派弁護士の団体である自由法曹団に所属する弁護士。 旧制水戸高等学校文科乙類を経て、1950年(昭和25年)東京大学経済学部を卒業。 2013年1月10日、急性心不全のため死去。
吉岡 昭彦(よしおか あきひこ、1927年1月3日 - 20… 吉岡 昭彦(よしおか あきひこ、1927年1月3日 - 2001年11月12日)は、日本の西洋史学者。東北大学名誉教授。 広島県出身。1951年東京大学経済学部卒。福島大学助教授をへて東北大学文学部助教授、1968年教授。90年定年退官し、名誉教授となり、二松学舎大学教授を務めた。岡田与好とともに、大塚久雄の愛弟子。マルクス主義史学の立場からイギリス近代経済史を専攻した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
富本 壮吉(とみもと そうきち、1927年1月2日 - 19… 富本 壮吉(とみもと そうきち、1927年1月2日 - 1989年5月27日)は、日本の映画監督、テレビドラマ演出家。 東京市生まれ。陶芸家の富本憲吉と「青鞜」同人の尾竹紅吉(富本一枝)の間に生まれる。都立第十中学校、旧制成城高校を経て、1952年、東京大学文学部仏文学科を卒業後、大映東京撮影所に入社。当初は企画部に所属していたが、翌年には助監督部に転属。溝口健二、伊藤大輔、豊田四郎、成瀬巳喜男、島耕二らの作品の助監督につく。1960年、『暁の翼』で監督に昇格。しかし、折からの邦画の斜陽化のあおりを受け、1968年、大映を退職しフリーに。以降はテレビ映画の演出に専念した。特に1983年、テレビ朝日の『土曜ワイド劇場』の一篇『松本清張の熱い空気』(サブタイトル「家政婦は見た!夫婦の秘密 “焦げた”」)は高い反響を得たため、翌年から『家政婦は見た!』に改題してオリジナルのシリーズとなった。
野村 昭子(のむら あきこ、1927年〈昭和2年〉1月2日 … 野村 昭子(のむら あきこ、1927年〈昭和2年〉1月2日 - 2022年〈令和4年〉6月29日)は、日本の女優。本名:増見 昭子(ますみ あきこ)。 身長157cm、体重64kg。血液型はA型。夫は、演出家の増見利清(2001年死去)。特技は、常磐津。薬剤師免許所持者。 東京市神田区(現:東京都千代田区)生まれ。「昭子(あきこ)」の名は神田明神に付けてもらったという。実家は医療器具の卸業を営み、裕福な家庭であった。 桜蔭高等女学校(現:桜蔭中学校・高等学校)、1946年に東京薬学専門学校(現:東京薬科大学)卒業。薬剤師として東京大学医学部附属病院に勤務していたが、演劇に魅せられる。父からは「鏡に自分の顔を10分間映すように」と諭されるも、10分間眺めたのちに「女優になります」と答え、1949年に劇団俳優座養成所の第1期生となる(同期は岩崎加根子)。
浅野 拡(あさの ひろむ、1927年1月2日 - 1981年… 浅野 拡(あさの ひろむ、1927年1月2日 - 1981年5月15日)は、日本の政治家。位階は正五位、勲等は勲三等。参議院議員(1期、自由民主党)。 岐阜県安八郡輪之内町生まれ。岐阜県立大垣中学校、名古屋工業専門学校を経て、1951年(昭和26年)、早稲田大学商学部卒業。大学在学中は、雄弁会に所属し、幹事長(会全体の責任者)を務める。学卒業後は、平野力三衆議院議員の秘書を務める。1954年、三野工業株式会社を設立。 1962年、輪之内町長選に当選。1963年に岐阜県議会議員に当選し、以後4期連続当選する。1973年に県議会副議長、1976年に県議会議長に就任する。 1977年、第11回参議院議員通常選挙で岐阜県選挙区から自民党公認で立候補し、初当選。
置塩 信雄(おきしお のぶお、1927年1月2日 - 200… 置塩 信雄(おきしお のぶお、1927年1月2日 - 2003年11月8日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。専門はマルクス経済学、理論経済学。神戸大学経済学博士。神戸市兵庫区出身。 神戸経済大学では、数理経済学の水谷一雄に師事。学部時代には、マルクス経済学の講義を受けた事はなく、『資本論』を一人で読む程度であった。1950年に卒業と同時に新制神戸大学の助手として迎えられる。卒業直後から1年間、サナトリウム(近江八幡市の近江兄弟社が経営する結核療養所)で療養中にジョン・ヒックス『価値と資本』を研究するが、同時期に近代経済学の研究を続ける事に疑問を感じ、マルクス経済学への関心を深める。 置塩の処女作は『再生産の理論』(1957年)である。
田中 和夫(たなか かずお、1927年〈昭和2年〉1月2日 … 田中 和夫(たなか かずお、1927年〈昭和2年〉1月2日 - 1989年〈平成元年〉8月21日)は、日本の政治家、自治官僚。大阪府堺市長(第15代)。助役の時に、堺市の政令指定都市移行を目指す我堂武夫市政を実務面で支え、後継として就任後、我堂とともに「名市長」と呼ばれた。位階は正五位、勲三等瑞宝章受章。 現在の山口県柳井市出身。1949年(昭和24年)東京大学法学部を卒業。自治省に入省し、地方公務員災害補償基金事務局長、自治大学校副校長などを歴任。 堺市の助役として、第15代市長の我堂武夫による行財政の見直し、行政改革・財政再建・都市再開発を支えた。1984年(昭和59年)2月、我堂市長退任に伴う選挙に出馬し、第16代の市長に初当選した。
坂上 富男(坂上 冨男、さかがみ とみお、1927年1月2日… 坂上 富男(坂上 冨男、さかがみ とみお、1927年1月2日 - 2018年4月9日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員を通算3期務めた。 新潟県三条市出身。1949年、日本大学法文学部政経学科卒業。新潟県内の小学校教員となる。 1952年、弁護士税理士事務所を開設。燕三条税理士法人の代表社員になる。三条市議会議員、新潟県弁護士会会長を務める。 1982年4月25日に行われた新潟県知事選挙に社会党・共産党の推薦を得て立候補。現職の君健男との一騎打ちに敗れ落選。 1986年の第38回衆議院議員総選挙に旧新潟3区から、社会党の統一候補として立候補し初当選。 1990年の第39回衆議院議員総選挙で社会党は坂上と前県議の目黒吉之助の二人に公認を出す。
有馬 徹(1927年1月2日 - 1993年6月3日)は、日… 有馬 徹(1927年1月2日 - 1993年6月3日)は、日本の音楽家。 早稲田大学在学時より学生バンドに参加し、卒業と同時にミュージシャンとして活動を開始した。昭和29年春、文化放送の番組としてノーチェ・クバーナを結成し次第に発展し、昭和32年3月にはフルバンドの編成になった。 1959年日本ビクターより10インチレコード『クバーナ・ファンタジー、演奏、有馬徹とノーチェ・クバーナ(B面)ブライト・リズム・ボーイズ参加』を発売。なお、同レコードの編曲はメンバーの一ノ瀬義孝(ピアノ担当)と池田孝(トロンボーン担当)が担当した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。
土屋 武則(つちや たけのり、1927年(昭和2年)1月2日… 土屋 武則(つちや たけのり、1927年(昭和2年)1月2日 - 2003年(平成15年)4月19日)は、昭和後期から平成初期の地方公務員、政治家。長野県中野市長。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 長野県下高井郡中野町(現中野市)生まれ。1943年(昭和18年)12月、中野農商学校(現長野県中野立志館高等学校)農業科を卒業。1955年(昭和30年)4月、中野市役所に入庁し、1960年(同35年)農政課長、1968年(昭和43年)市民課長、1969年(昭和44年)総務課長などを歴任し、1977年(昭和52年)11月、助役に就任した。 1984年(昭和59年)2月、中野市長選挙で当選し、1996年(平成8年)2月まで3期務めた。
橋本 一明(はしもと いちめい、1927年〈昭和2年〉1月1… 橋本 一明(はしもと いちめい、1927年〈昭和2年〉1月1日 - 1969年〈昭和44年〉1月29日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。國學院大學教授。 群馬県碓氷郡原市町(現・安中市)に生まれる。旧制群馬県立高崎中学校、旧制第一高等学校を経て、東京大学文学部仏文科を卒業。一高在学時代には原口統三の影響を受け、フランス象徴派の詩人、特にアルチュール・ランボーを研究した。1965年(昭和40年)國學院大学教授。 42歳で肺癌により死去した。墓所は高崎市八幡霊園。 小説家の丸谷才一は國學院大学で同僚だった橋本について次のように語っている。 「わたしの二十代の末から十数年間の国学院時代――と名づけてゐるのですが、その国学院時代のわたしの生活にいちばん縁の深いのはこの三人(注・橋本一明、菊池武一、佐藤謙三)でした。
出光 裕治(いでみつ ゆうじ、1927年1月1日 - )は、… 出光 裕治(いでみつ ゆうじ、1927年1月1日 - )は、日本の実業家。第6代出光興産代表取締役社長。第6代日本プラントメンテナンス協会会長。第16代石油連盟会長。 出光興産創業者出光佐三の兄雄平の次男。1943年東京府立第一中学校4年修了。旧制浦和高等学校を経て、九州大学法文学部経済科卒業、マルクス経済学の高橋正雄ゼミ出身。1993年から出光興産社長を務めた。1994年日本プラントメンテナンス協会会長。 1995年には出光興産からは出光計助、石田正実に続き3人目となる石油連盟会長に就任。1998年出光興産相談役に退いた。 2012年旭日重光章受章。
式 正英(しき まさひで、1927年1月1日 - 2024年… 式 正英(しき まさひで、1927年1月1日 - 2024年9月28日)は、日本の地理学者、お茶の水女子大学名誉教授。 東京府荏原郡入新井町(現東京都大田区)生まれ。1948年第一高等学校理科甲類卒業、1951年東京大学理学部地理学科卒業、1953年同大学院前期課程修了、建設省地図調査部地理部勤務、1959年お茶の水女子大学文教育学部講師となり、1961年助教授、1973年教授。1978年文教育学部長、1992年定年退官、名誉教授となる。2024年9月28日、肺炎のため東京都内の病院で死去。97歳没。 2005年11月瑞宝中綬章受章。
沖浦 和光(おきうら かずてる、1927年1月1日 - 20… 沖浦 和光(おきうら かずてる、1927年1月1日 - 2015年7月8日)は、日本の社会学者、民俗学者。桃山学院大学名誉教授、同大学長。専攻は芸術論、社会思想史、比較文化論。もっぱら被差別民、被差別部落、マルクス主義的民族論などの研究を行う。 大阪府豊能郡箕面村半丁(現・箕面市)の生まれ。小学校2年生のころに大阪市内の紀州街道沿いにある下町の長屋に引っ越す。 箕面村牧落小学校、大阪市阿倍野区晴明丘小学校、住吉区田辺小学校と転校を繰り返したのち、私立桃山中学校、旧制浪速高等学校文科甲類を経て、1953年東京大学英文科でアメリカ文学を研究。東大卒業後、大学院に進学するかたわら、大田区立大森第八中学校で英語を教える。
伊藤 玲子(いとう れいこ、1927年1月1日 - )は、日… 伊藤 玲子(いとう れいこ、1927年1月1日 - )は、日本の政治家。「体罰の会」発起人。美しい日本をつくる会代表、「建て直そう日本 女性塾」幹事長、元鎌倉市議会議員、新しい歴史教科書をつくる会顧問。美しい日本をつくる会の代表を務めた。
黒田 吉益(くろだ よします、1927年1月1日 - 202… 黒田 吉益(くろだ よします、1927年1月1日 - 2021年1月4日)は、日本の地球科学者。専門は岩石学・地球化学。学位は、理学博士(東京教育大学)。信州大学名誉教授。元日本地質学会会長。元日本学術会議会員。 九州大学理学部地質学科卒業。東京教育大学理学部助手、信州大学理学部教授を経て、信州大学名誉教授。日本地質学会会長や、日本学術会議会員(第4部)を務めた。1960年東京教育大学より理学博士学位を取得。 国際協力事業団の技術援助プロジェクトとして、中国科学院地質与地球物理研究所に多数の日本人研究者を送り込み、技術協力・共同研究を促進した。これにより2002年、中華人民共和国「国際科学技術協力賞」を受賞。
吉成 儀(よしなり ただし、1927年 <昭和2年> 1月1… 吉成 儀(よしなり ただし、1927年 <昭和2年> 1月1日 - 2012年 <平成24年> 10月1日)は、日本の経営者。京葉銀行頭取を務めた。位階は従五位。長女の夫はノーベル生理学・医学賞受賞者の利根川進。 千葉県出身。1953年に拓殖大学商学部経営学科を卒業し、同年5月に千葉相互銀行(現在の京葉銀行)に入行した。1968年4月に取締役に就任し、1969年10月に常務、1972年5月に専務を経て、1978年6月に副社長に就任し、1980年6月には社長に昇格。1990年6月に会長に就任し、1998年10月から2000年4月までに頭取も兼任した。 2000年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2012年10月1日、急性心不全のために死去。
高橋 和平(たかはし まさひら、1927年(昭和2年)1月1… 高橋 和平(たかはし まさひら、1927年(昭和2年)1月1日 - 2014年(平成26年)1月15日)は日本の実業家、元日本フエルト社長・会長、元日本フエルト商事専務。 東京都出身。趣味は音楽・ゴルフ。 1948年(昭和23年)、東京大学第一工学部建築学科卒業。1952年(昭和27年)東京工業大学研究科繊維コース卒業、日本フエルト入社。1974年(昭和49年)同社取締役、1979年(昭和54年)常務取締役、1983年(昭和58年)専務取締役、1989年(平成元年)代表取締役社長、1995年(平成7年)代表取締役会長。 2014年1月15日、肺癌のため死去、87歳。 交詢社 第69版 『日本紳士録』 1986年 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
塩路 一郎(しおじ いちろう、1927年〈昭和2年〉1月1日… 塩路 一郎(しおじ いちろう、1927年〈昭和2年〉1月1日 - 2013年〈平成25年〉2月1日)は、日本の労働運動家。東京出身で明治大学法学部夜間部卒。1953年(昭和28年)の日産争議における活動で日産自動車社内で権力を得て、日産自動車労働組合書記長として、1986年(昭和61年)の失脚まで経営陣よりも日産の経営や人事を牛耳る絶対的権力者・独裁者であった 。自動車労連(日本自動車産業労働組合連合会)会長(1962年〈昭和37年〉就任)、ILO(国際労働機関)理事(1969年〈昭和44年〉就任)、自動車総連会長(1972年〈昭和47年〉の結成時に就任)も務めた。 東京市神田(現・東京都千代田区北東部)生まれ。
宮下 久夫(みやした ひさお、1927年〈昭和2年〉 - 1… 宮下 久夫(みやした ひさお、1927年〈昭和2年〉 - 1997年〈平成9年〉1月)は日本の教育者(国語教師)。太郎次郎社のロングセラー『漢字がたのしくなる本』シリーズの共著者の一人として知られる。群馬県生まれ。 利根郡沼田町(現在の沼田市)坊新田に生まれる。旧制沼田中学校を卒業後、東京第三師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業。1949年(昭和24年)より群馬県内で小学校教諭としての道を歩み始める。のち、子どもの間違いからヒントを得た文部省の指導要領にはない独自の「漢字教科書」を使った授業が、次第に注目を集めるようになる。 宮下は子どもたちの「修学旅行のときの生き生きとした顔が、教室ではどうして死んでしまうのだろう。