正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年… 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
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カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadaki… カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadakichi Hartmann, 旧暦慶応3年10月13日〈新暦1867年11月8日〉 - 1944年11月22日)は、日本出身のアメリカ合衆国の美術家、批評家、詩人。定吉ハートマン、サダキチ・ハルトマンなどの表記もある。写真評論では、シドニー・アラン(Sydney Allan)名を使用することもあった。 ドイツ人の貿易・武器商人カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマンと日本人女性さだの次男として、長崎の出島に出生。幼くして母を亡くしたため父がドイツに連れて行き、兄と共にドイツの親戚に引き取られ、ハンブルクで教育を受けた。裕福な一族だったため、私立校へ通うなど当地の最高の教育を受けたが、ドイツに帰国した父親の再婚に伴って転校し、キール海軍兵学校に通う予定だったが、フランスのパリへ家出。
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島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、18… 島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、1867年10月12日(慶応3年9月15日)- 1945年(昭和20年)2月28日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。 越前国勝山藩士・島田静虎、つるの長男(4男3女)として生まれる。京都で旧制中学校の教育を受けて上京し、大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月15日、農商務省に入省し試補となり参事官室に配属された。 1902年、農商務省参事官に就任。以後、林務官、鉱山監督兼農商務省参事官、臨時葉煙草取扱所建築事務官、林野整理局書記官、林務官兼山林局書記官兼農商務書記官などを歴任し、1907年1月、京都府事務官・第一部長兼第三部長となる。
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森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3… 森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3年9月14日) - 1957年(昭和32年)11月3日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 尾張国前飛保村(現・愛知県江南市)出身。1889年(明治22年)に海軍兵学校を卒業し、翌年に海軍少尉に任官した。軍令部参謀、大本営参謀、陸軍大学校教官、海軍大学校教官、高雄艦長、沖島艦長、三笠艦長、海軍水雷学校校長、海軍技術本部第二部長を歴任した。1918年(大正7年)、海軍中将に昇進し、翌年に予備役に編入された。 その後、愛知時計電機株式会社顧問を務めた。 1944年には地元の前飛保にすずり箱を寄贈。それは現在でも同市内の白山社の蔵に保管されている。
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鉞り 鉄五郎(まさかり てつごろう、1867年10月7日〈慶… 鉞り 鉄五郎(まさかり てつごろう、1867年10月7日〈慶應3年9月10日〉 - 1925年〈大正14年〉12月8日)は、現在の千葉県山武市(旧・上総国武射郡)で浦風部屋及び高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は今関 鉄五郎。身長体重は不明。最高位は東前頭13枚目。色黒で無愛想な容貌から「鬼」と言われた。 1886年1月初土俵(序ノ口)。1893年5月十両昇進。1894年6月新入幕。しかし、翌1895年1月場所前に大日本帝国陸軍に入営し、近衛師団の軍夫になった。台湾に出征するも、マラリアに罹ってあえなく帰国。1895年5月場所で東十両張出筆頭で復帰するも2勝8敗と負け越し、以後再入幕は叶わなかった。
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門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、186… 門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1958年(昭和33年)4月24日)は、明治から昭和時代前期の実業家。実兄に千代田生命保険、日本徴兵保険創立者兼社長で勅撰貴族院議員の門野幾之進がいる。 志摩鳥羽藩の家老・門野亘理の二男として鳥羽(現三重県鳥羽市)に生まれる。1884年(明治17年)慶應義塾大学部理財学および法律学を修了後、1891年(明治24年)帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、アメリカのペンシルバニア鉄道に入る。4年間に渡る鉄道敷設工事に従事したのち退社し、欧米の工業事情を視察後、1896年(明治29年)帰朝した。山陽鉄道で新線工事長として勤務後、大倉喜八郎の知遇を得て、1897年(明治30年)大倉組に入り、ロンドン支店長を長く務めたのち1909年(明治42年)に大倉組副頭取、1914年(大正3年)大倉土木(現大成建設の前身)会長となり、1937年(昭和12年)まで在任した。
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平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月… 平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1945年(昭和20年)6月2日)は、日本の天文学者。名前の「信」は「まこと」と読まれることもある。同姓の天文学者・平山清次(天体力学、古暦の研究及び小惑星の族の発見で有名)とともに、月の裏側にあるクレーター「ヒラヤマ」の名前の由来となっている。 幕臣平山詮の子として江戸(現・東京都)に生まれた。兄に海軍教授・海軍大学校教官の平山順。寺尾寿に師事した。1888年7月に東京帝国大学理科大学星学科(現・東京大学理学部天文学科)を卒業、蘆野敬三郎と共に同学科の第1回卒業生となった。1890年、グリニッジへ留学、その数か月後にはポツダムへと移り、ヘルマン・カール・フォーゲルの下で当時勃興しつつあった天体物理学を学んだ。
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関田 嘉七郎(關田、せきた かしちろう、1867年10月6日… 関田 嘉七郎(關田、せきた かしちろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日)- 1943年(昭和18年)7月7日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県会議長、栃木県足利郡北郷村長。 下野国足利郡江川村(栃木県足利郡北郷村大字江川を経て現足利市江川町)で、輸出織物業・関田政七郎の長男として生まれる。1886年(明治19年)明治法律学校(現明治大学)に入学し1889年(明治22年)まで学んで帰郷した。 家業の輸出織物業を継承。足利機業組合評議員、足利織物同業組合長、両毛織物同業組合連合会長、足利瓦斯社長、日本大博覧会評議員などを務めた。 政界では、栃木県会議員、同参事会員、同議長、北郷村長、教育諮問会員、県立工業学校商議員、地方森林会議員などを務めた。
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杉下 太郎右衛門(すぎした たろううえもん、1867年10月… 杉下 太郎右衛門(すぎした たろううえもん、1867年10月5日(慶応3年9月8日) - 1918年(大正7年)5月4日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。大地主。衆議院議員。貴族院多額納税者議員。名は豊、字は士康、号に耕雲または漣園。 先代杉下太郎右衛門の長男として、飛騨国吉城郡宇津江村(岐阜県吉城郡国府村、国府町を経て現高山市)に生まれる。先祖は源氏で渡邊を姓としたが天保年間に杉下と改めた。生家は農業を営む素封家で代々太郎右衛門を称した。 1893年(明治26年)シカゴ万国博覧会を視察し、帰朝後は前田正名などの実業家と交友を持った。また大日本農会特別会員、地方農業団体委員、日本赤十字社特別社員、杉下合名会社代表社員を務めた。
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田島 錦治(たじま きんじ、慶応3年9月7日(1867年10… 田島 錦治(たじま きんじ、慶応3年9月7日(1867年10月4日) - 昭和9年(1934年)6月28日)は、日本の経済学者。号は「赤城」。京都帝国大学初代経済学部学部長。立命館大学第2代学監。同大学第3代学長。財団法人立命館初代協議員。大日本武徳会弓道範士。日本漕艇協会第三代会長。関西漕艇協会初代会長。帝国学士院会員。 江戸・牛込赤城元町(現・東京都新宿区赤城元町)に生まれる。旧制一高から帝国大学法科大学政治学科に進学し、経済学者・社会政策学者で東大七博士の一人に数えられた金井延の指導を受け、欧米留学も経験した。 帰国後は京都帝国大学法科大学にて「経済理論」、「財政学」の講義を担当。京大法科から経済学部が独立したのを機に、1919年(大正8年)京都帝国大学初代経済学部長に就任。
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矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3… 矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3年9月6日) - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の実業家・銀行経営者・慈善家。先祖は嵯峨天皇の第12皇子・源融にまで遡る矢橋家・本家の出身。国会議事堂などの日本の近代建築史に残る建造物・高層ビル・ホテル・豪華列車の床材・海外の航空会社のラウンジから自動運転技術・EV・新幹線などまで関わってきた、矢橋グループの一翼を担う矢橋大理石の創業者。 1867年に美濃赤坂で生まれる。明治維新の廃藩置県の時に、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた矢橋本家・宗太郎の三男。 実父である矢橋本家・宗太郎の二女で姉の勝(後改幾世)の三男である、大蔵省営繕官僚として中心となって国会議事堂の設計をまとめた甥矢橋賢吉(矢橋惣本家)と上京。
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三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月… 三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月2日) - 明治41年(1908年)1月10日)は、明治の劇評家で、医師。本名は森 篤次郎(もり とくじろう)。兄は小説家の森鷗外、妹は翻訳家・歌人・随筆家の小金井喜美子。 大政奉還の直前、石見国津和野に津和野藩医・森静泰(のちに静男と改名)と峰子の間に次男として生まれた。廃藩置県などによって5歳のときに上京する。子供の頃は、鷗外よりも才があったという[要出典]。 12歳の頃、男爵の河田佐久馬(旧鳥取藩士、元老院議官で1887年子爵に叙せられた)に大変気に入られて養子縁組が決まり、本人もその気になっていた。しかし、親戚から横槍が入った河田家が財産譲与額の変更を第三者を介して伝えてくると、金のことを問題にしたことと、それを人の口を介して告げてきた誠意のない態度に若い鷗外が激怒して破談となった。
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上林 敬次郎(かんばやし けいじろう、1867年10月(慶応… 上林 敬次郎(かんばやし けいじろう、1867年10月(慶応3年9月) - 没年不詳)は戦前の日本の大蔵・朝鮮総督府官僚。李王職次官、咸鏡北道知事、忠清南道長官。 京都府に生まれる。上林松寿の二男として生まれ、上林繁の養子となる。1886年(明治19年)に東京法学校(現:法政大学)を卒業し、同校が発行する雑誌の編集人などを務める。1894年(明治27年)、第1回文官高等試験に首席で合格し、法制局に配属され、のち大蔵省に移り大蔵省試補となる。以後、司税官、秋田税務管理局長、松江税務管理局長、松江税務監督局長、金沢税務監督局長、醸造試験所事務官、大蔵省臨時建築部事務官などを歴任した。 1910年(明治43年)に朝鮮総督府専売局長、1916年(大正5年)に忠清南道長官、1918年(大正7年)に咸鏡北道知事を経て、1921年(大正10年)に李王職次官に就任する。
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長野 宇平治(ながの うへいじ、慶応3年9月1日(1867年… 長野 宇平治(ながの うへいじ、慶応3年9月1日(1867年9月28日) - 昭和12年(1937年)12月14日)は、日本の建築家。日本建築士会初代会長。辰野金吾の弟子として知られ、数々の銀行建築を残した。越後国高田(現:新潟県上越市)生まれ。 初期には和洋折衷意匠の奈良県庁舎等を設計し評価を得た。明治30年(1897年)日本銀行技師となり、辰野金吾工事顧問の指導下で、大阪・京都・小樽各支店等の明治期支店建築9件の設計監理に従事した。明治42年(1909年)日本初のコンペとなる台湾総督府庁舎設計競技に当選した後、大正元年日銀を辞し台湾総督府嘱託を一時務めるとともに、大正2年(1913年)自営の設計事務所を開設し、日銀岡山支店や大倉精神文化研究所等の古典主義様式の建築を設計した。
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田付 七太(たつけ しちた、慶應3年9月1日(1867年9月… 田付 七太(たつけ しちた、慶應3年9月1日(1867年9月28日) - 昭和6年(1931年)5月31日)は、日本の外交官。駐ブラジル大使、駐オランダ公使、駐チリ公使。 山口県出身。坪井宗一の三男として生まれ、田付景賢の養子となった。養父の景賢は田付景澄の子孫で幕末の軍事奉行。1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補として元山、漢城に、外交官補としてフランスに勤務。フランス公使館三等書記官、同二等書記官、フランス大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長、ロシア大使館参事官、フランス大使館参事官を歴任した。1917年(大正6年)、駐チリ公使となり、アルゼンチン、ペルー、ボリビア各国の公使も兼任した。
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矢野 荘三郎(やの しょうざぶろう、1867年9月25日(慶… 矢野 荘三郎(やの しょうざぶろう、1867年9月25日(慶応3年8月28日) - 1925年(大正14年)9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 伊予国宇和郡川之石浦(愛媛県西宇和郡川之石村、川之石町、保内町を経て現八幡浜市)で生まれた。1896年大阪府立商業学校(現・大阪市立大学)卒。のちに慶應義塾に学ぶ。鉱業に従事し、伊予製鉱、宇和紡績、第二十九銀行、愛媛鉄道、龍野電気鉄道各(株)取締役、明治製煉(株)専務取締役を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において愛媛県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
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勝田 孫弥(かつだ まごや、1867年9月22日〈慶応3年8… 勝田 孫弥(かつだ まごや、1867年9月22日〈慶応3年8月25日〉 - 1941年〈昭和16年〉8月21日)は、鹿児島県出身の教育家・歴史家である。元士族。 薩摩国給黎郡喜入(現在は鹿児島市に編入)出身。 1885年、鹿児島県師範学校中等師範学科卒業。同年、喜入小学校(現在の鹿児島市立喜入小学校)に四等訓導として就任した。1887年3月、喜入高等小学訓導に任命されたが、4月に依願免職。1887年9月 - 1890年6月、私立明治法律学校(現・明治大学)で法律科・行政科・仏語科を修業。 この頃から明治維新史の研究を行い、三上参次が校閲した伝記「西郷隆盛伝」(全5冊、1895年)や「大久保利通伝」(全3冊、1911年、 同文館)、「甲東逸話」(冨山房、1928年)などを著した。
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松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応… 松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応3年8月24日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本の実業家、土木技術者。大倉土木(現・大成建設)常務取締役を勤めた。 塩飽諸島の讃岐国那珂郡廣島(現・香川県丸亀市)に生まれる。工手学校建築科(現・工学院大学)を首席で卒業後、当時の大倉組に入社する。入社後は設計や工事監督を歴任した。日本最初の地下鉄となった東京地下鉄道上野駅 - 浅草駅間(現・東京メトロ銀座線)の起工式では、東京地下鉄道社長の早川徳次らとともに杭を打ち込んだ。次女は彫刻家の高村光雲の三男高村豊周と結婚している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
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野中 到(のなか いたる、1867年9月19日(慶応3年8月… 野中 到(のなか いたる、1867年9月19日(慶応3年8月22日) - 1955年(昭和30年)2月28日)は、日本の気象学者、登山家。妻・千代子と共に富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる。 多くの場合、野中至と表記されるが、本名は「到」であり、「至」はペンネームである。墓所は妻・千代子と共に東京都文京区の護国寺にある。 筑前福岡藩士・野中勝良の息子として筑前国(現・福岡県)に生まれる。富士山観測所の設立を思い立ち、1889年に大学予備門(現・東京大学)を中退。この年、富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか2名が、山中湖畔では近藤久治朗が38日間、初めて正式な気象観測を開始している。当時はまだ高地測候所は信州にしかなく、高山での観測は年に数回に限られていたが、野中は富士山での年中観測を目指した。
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持地 六三郎(もちじ ろくさぶろう、1867年9月15日(慶… 持地 六三郎(もちじ ろくさぶろう、1867年9月15日(慶応3年8月18日) - 1923年(大正12年)8月16日)は明治時代から大正時代にかけての日本の統治地域官僚。 福島県出身。1893年(明治26年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業。大蔵属、内務属を経て、1894年(明治27年)に山口高等中学校教授に任じられた。1897年(明治30年)、石川県参事官に転じ、同県書記官、文部省視学官、同省参事官、台南県書記官、台湾総督府参事官を歴任。1909年(明治42年)から台湾総督府通信局長を務めた。その後、朝鮮総督府に転じ、土木局長を務めた後、1917年(大正6年)から逓信局長官、逓信局長を務めた。
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坪田 十郎(つぼた じゅうろう、1867年9月12日〈慶応3… 坪田 十郎(つぼた じゅうろう、1867年9月12日〈慶応3年8月15日〉 - 1925年〈大正14年〉9月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(兵庫県第一区選出、当選3回)。神戸土地、神戸鉄工各社長。族籍は兵庫県士族。 播磨国飾東郡八代村(のち兵庫県飾磨郡城北村、現・姫路市八代)生まれ。坪田重吉の長男。先代坪田十郎の養子となる。 家は豊かではなく、幼児より困苦窮乏、幾多の艱難と戦う。19歳のころ兵庫県巡査となり、高砂警察署に勤める。1892年、明治法律学校(現・明治大学)を卒業する。 兵庫県の伊藤長次郎に聘せられて同家の商業本部取締役となる。さらに神戸地所部差配人となる。神戸市山手通りの開拓に従事した他、徳島瓦斯(現四国ガス)社長、播磨造船所(現IHI)監査役など、多くの企業の経営に参画した。
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筏井 甚吉(いかだい じんきち、1867年9月12日(慶応3… 筏井 甚吉(いかだい じんきち、1867年9月12日(慶応3年8月15日) - 1914年(大正3年)2月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越中国礪波郡福野村(富山県東礪波郡福野町を経て現南砺市)で福冨平一郎の二男として生まれ、18歳で現在の高岡市宮脇町の先代・筏井甚吉の養子となり、翌年、甚吉を襲名した。漢学を学ぶ。高岡市会議員、同議長、同参事会員、富山県会議員、高岡市長となる。また、中越汽船(株)、高岡貯蓄銀行各取締役、高岡電燈(株)、高岡銀行各監査役、高岡市教育会長、富山県工業会副会頭を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において高岡市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。
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大久保 重五郎(おおくぼ じゅうごろう、1867年9月10日… 大久保 重五郎(おおくぼ じゅうごろう、1867年9月10日(慶応3年8月13日) - 1944年(昭和19年)1月15日)は日本の篤農家である。白桃や大久保桃の作出で知られる。 1867年(慶応3年)、赤磐郡可真村弥上字山の池(現在の岡山市東区瀬戸町塩納)に生まれる。1879年(明治12年)に千種小学校を卒業すると、1880年(明治13年)に小山益太の門下生となり1886年(明治19年)より山の池にて桃の品種改良につとめる。1899年(明治32年)に恩師小山益太よりもらい受けた上海桃より白桃を発見、1901年(明治34年)結実する。なお、この発見年に関しては1890年(明治23年)とする資料も存在する。
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斎藤 十一郎(さいとう じゅういちろう、1867年9月7日〈… 斎藤 十一郎(さいとう じゅういちろう、1867年9月7日〈慶應3年8月10日〉 - 1920年〈大正9年〉6月11日)は、明治から大正時代の司法官僚。法学者。 出羽国村山郡(現山形県)出身。斎藤太の次男として生まれ、1876年(明治9年)10月、分家し一家を創立する。1891年(明治24年)帝国大学法科大学を卒業し、1893年(明治26年)検事、同年判事となり、東京地方裁判所、横浜地方裁判所各部長、東京控訴院判事を歴任した。1894年(明治27年)には立教学校(立教大学の前身校の一つ)の教授に就き、法学を講じた。 1899年(明治32年)欧州出張を経て、翌年東京控訴院部長に任じ、1902年(明治35年)司法省参事官兼大審院検事となり、1913年(大正2年)大阪控訴院長となり関西大学長を兼ねた。
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佐藤 国蔵(さとう くにぞう、1867年9月5日(慶応3年8… 佐藤 国蔵(さとう くにぞう、1867年9月5日(慶応3年8月8日) - 1909年(明治42年)6月20日)は、日本の医師。日本で初めて点字楽譜を点訳したことで知られる。小説家の田澤稲舟は従姪。 1867年(慶応3年)、出羽国飽海郡遊佐郷六日町村(現在の山形県飽海郡遊佐町遊佐高砂)に生まれる。父・意泉も医師で、住民から「えしぇさま(意泉様)」と呼ばれ親しまれた。「えしぇさま」は佐藤家の営む病院の通称となっている。 山形県会議員(後に衆議院議員)の鳥海時雨郎に師事し勉学に励み、1884年(明治17年)に東京大学医学部別課医学課程に合格した。しかし、2年生の秋頃から視力に変調をきたし、1887年(明治20年)に卒業こそできたものの、医術開業試験を受けることはできなかった。
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高山 公通(たかやま きみみち、1867年9月5日(慶応3年… 高山 公通(たかやま きみみち、1867年9月5日(慶応3年8月8日) - 1940年(昭和15年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧名・永井源之進。 薩摩国大口郷里村(後の牛山郷里村、鹿児島県北伊佐郡大口村、伊佐郡大口村、大口町を経て、合併で大口市、伊佐市)生まれ。永井藤兵衛の二男として生れ、高山信助の養嗣子となる。1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。1899年(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業した。1900年(明治33年)5月、第12師団参謀となり、清国差遣(貴州駐在)、大本営参謀を経て、1904年(明治37年)6月、第3軍司令部付となり日露戦争に出征。
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高田 富蔵(たかだ とみぞう、慶応3年8月6日(1867年9… 高田 富蔵(たかだ とみぞう、慶応3年8月6日(1867年9月3日) - 没年不詳)は、日本の裁判官、台湾総督府官僚、教育者。 摂津国八部郡山田村(現在の兵庫県神戸市北区)出身。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。台湾総督府法院判官、覆審法院部長、台北地方法院長、高等法院上告部判官・覆審部長を歴任し、1921年(大正10年)から台北州知事を務めた。 1924年(大正13年)に退官した後は、ハルピンの日露協会学校校長に転じた。1932年(昭和7年)に日露協会学校がハルピン学院と改称した後も引き続き院長を務め、1935年(昭和10年)まで在職した。
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飯野 吉三郎(いいの きちさぶろう、1867年8月30日(慶… 飯野 吉三郎(いいの きちさぶろう、1867年8月30日(慶応3年8月2日) - 1944年2月3日)は、美濃国(現岐阜県)の岩村藩士族出身の宗教家。皇室や政界・軍人に取り入り、後に「日本のラスプーチン」と呼ばれた。 岩村藩士・飯野益衛の三男として生まれる。益衛は100石取りの家臣で、御側御用人などの要職を務めた家系であった。しかし、廃藩置県により家職を失い、父も病没し、二人の兄は故郷の岩村に留まって教育者となった。一方、吉三郎は1885年に上京して夜学で学んだ。1886年、築地明石町の私立鈴木小学校の教員となり、算術と英語を教えた。しかし、1年余りで教師を辞めると、飛騨山中での行者修行や易学習得を経て、麹町平河町に居住する。
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大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(18… 大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(1867年8月29日) – 昭和5年(1930年)1月4日)は、衆議院議員(立憲政友会)、医師。 讃岐国綾歌郡富熊村(現在の香川県丸亀市)の松井家に生まれ、大林三斎の養子となった。第三高等中学校医学部を卒業し、医師となった。香川県医師会副会長、香川県医師会会長、綾歌郡医師会会長を歴任した。 また郡会議員、郡参事会員、県会議員、県参事会員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。
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谷ノ音 喜市(たにのおと きいち、1867年8月29日(慶応… 谷ノ音 喜市(たにのおと きいち、1867年8月29日(慶応3年8月1日) - 1921年(大正10年)7月16日)は、出雲国意宇郡揖屋村(のちの島根県意宇郡揖屋村→八束郡揖屋村→同郡揖屋町→同郡東出雲町→島根県松江市)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。本名は深田 久市。最高位は関脇。身長176cm、体重86kg。7代高島。 初めは大阪相撲の朝日山部屋に入門し、序二段まで上がったが、1886年に東京相撲に転じ雷部屋に入る。1887年1月場所に幕下付出で初土俵を踏む。1888年5月場所新十両。1890年1月場所新入幕。内掛け、外掛けなどの掛け技を得意としたが、その一方でもつれる相撲が多く引き分けや預かりが多かった。
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本多 天城(ほんだ てんじょう、慶応3年7月29日(1867… 本多 天城(ほんだ てんじょう、慶応3年7月29日(1867年8月28日) - 昭和21年(1946年)5月11日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 慶応3年(1867年)、深川区山吹町の久世屋敷に生まれる。本名は佑輔。明治13年(1880年)3月から明治18年(1885年)11月までの5年間は近藤勝美に師事して西洋画を学んでおり、明治18年(1885年)3月からは狩野芳崖にも就いて日本画を習得、岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲とともに芳崖門下四天王といわれるまでに研鑽を積んだ。天城はアーネスト・フェノロサ、河瀬秀治らが日本画の発展を考えた鑑画会で学び、特に若年であった秋水、山本松渓とは岡倉天心の住まいに書生として同居、鑑画会グループ一員である剣客榊原鍵吉の道場に通い剣術を学んだりした。
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幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7… 幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん)、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文も随筆家・小説家。高木卓の伯父。
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三崎 省三(みさき せいぞう、1867年8月22日〈慶応3年… 三崎 省三(みさき せいぞう、1867年8月22日〈慶応3年7月23日〉 - 1929年〈昭和4年〉2月23日)は、日本の技術者・経営者。阪神電気鉄道代表取締役を務めた。兵庫県氷上郡黒井村出身。 東洋英和学校、成立学舎を経て、1886年12月に渡米。1891年、サンフランシスコのボーイズハイスクールを卒業し、1891年10月にスタンフォード大学へ一期生として入学。翌年、パデュー大学3年生に編入(飛び級)し、1894年6月卒業した。電気工学を専攻し、学士(BME: the degree of Bachelor of Mechanical Engineering)となった。。帰国後は、1894年11月に三吉電機工場に入社し、京都電気鉄道の電車のモーターを製作した。
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菊池 武徳(きくち たけのり、1867年8月22日(慶応3年… 菊池 武徳(きくち たけのり、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1946年(昭和21年)2月11日)は、ジャーナリスト、政治家。息子はジャズピアニストの菊池滋弥。 1887年(明治20年)4月に慶應義塾別科を卒業。ただちに『時事新報』の記者となり、1892年(明治25年)に『朝野新聞』に移りのちに社長。次いで雑誌『演芸画報』『新世紀』社長に就任し、自然主義派の小説家を排して村井弦斎の小説を掲載。1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙に青森県弘前市から出馬し、1915年(大正4年)まで、第10回総選挙を除き衆議院議員(4期)。 又新会の創立に参加し、代表幹事。のちに立憲政友会に移る。
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白石 元治郎(しらいし もとじろう、1867年8月20日〈慶… 白石 元治郎(しらいし もとじろう、1867年8月20日〈慶応3年7月21日〉- 1945年〈昭和20年〉12月24日)は、日本の実業家。日本鋼管の初代社長。白石同族代表社員。浅野財閥創始者浅野総一郎の娘婿にあたる。 高田藩(榊原家)の下級武士、前山孫九郎の子として、白河に生まれた。16歳の時、白石武兵衛の養子となる。貧しいために、大学では、教員の高橋是清や鈴木校長や掛川銀行頭取の永富謙八に借金をしたり、大学の助手として働きながら学んだ。在学中は、ボート部に所属して体を鍛えた。1892年に帝国大学法科大学を卒業すると、恩師穂積陳重の紹介で浅野商店(浅野財閥)に入社したが、浅野総一郎の秘書として日曜祭日も休まずに働かされた。
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舘 残翁(たち ざんおう、1867年8月20日(慶応3年7月… 舘 残翁(たち ざんおう、1867年8月20日(慶応3年7月21日) - 1947年(昭和22年)9月12日)は、日本の歴史学者。旧加賀藩石川郡野々市村(現石川県野々市市本町)の商家の長男として生まれた。家業は破綻するが、窮状にありながら冨樫氏と、冨樫氏が開山して庇護した大乗寺の研究に生涯を捧げた。大乗寺に保管されていた遺稿が、関係者によって「加賀大乗寺史」、「冨樫氏と加賀一向一揆史料」として出版されている。 舘家は、現在の野々市市本町を南北に走る石川県道179号野々市鶴来線(旧白山大道(はくさんおおみち):大野街道とも呼ばれ、現野々市市を経て、現白山市白山町と現金沢市金石を結んだ道)と、東西に走る旧北陸道とが交わる交差点(現本町交差点)の横(現野々市市本町3丁目)にあった。
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朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年… 朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年7月19日) - 1922年7月1日)は、岡山県小田郡矢掛町出身の実業家、ジャーナリスト。 小田郡矢掛町で生まれる。若い頃は教員をしていた。 1888年、上京し、山縣内閣の機関として設立された時事通信社へ入社する。 1893年、独立して帝国通信社を設立し、常務取締役として経営に携わった。 また、池田寅治郎らと中央生命保険会社を設立した。 1922年7月1日死去。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
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池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日〈1867年… 池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日〈1867年8月15日〉 - 昭和25年〈1950年〉10月9日)は、日本の実業家・政治家。 三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総帥)、第14代日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣、内閣参議(第一次近衛内閣・平沼内閣・第2次近衛内閣)、枢密顧問官(東條内閣)、を歴任。1930年代後半には親英米の穏健派として度々首相候補に擬せられたが、軍部の反対などもあって実現しなかった。 『成彬』は音読みで「せいひん」とも、晩年の質素な生活から「清貧」とも呼ばれた。 出羽国(現在の山形県米沢市)に米沢藩士・池田成章の長男として生まれる。江戸留守居役であった父の影響により、米沢藩の米沢中学(現・米沢興譲館高校)で漢学を学んだ後、1880年頃、すぐに東京に出て有馬学校を振り出しに、小永井小舟の濂西塾に入り儒学と漢学を学ぶ。
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田中 左司馬(たなか さじま、慶応3年7月16日(1867年… 田中 左司馬(たなか さじま、慶応3年7月16日(1867年8月15日) - 大正3年(1914年)10月16日)は、衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 武蔵国足立郡北谷村(埼玉県北足立郡安行村、川口市、草加町を経て現草加市)に、田中平十郎の長男として生まれた。東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、浦和町(現在のさいたま市)に事務所を開いた。 浦和町会議員、埼玉県会議員を経て、1912年(明治44年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
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黒金 泰義(くろがね やすよし、1867年8月12日(慶応3… 黒金 泰義(くろがね やすよし、1867年8月12日(慶応3年7月13日)- 1941年(昭和16年)3月24日)は、日本の内務官僚、政治家。憲政会系官選県知事、衆議院議員、函館区長。 米沢藩士・黒金泰乗の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1896年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り警視庁属となる。1897年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、警視庁警部・第二部第二課長、警視・小石川警察署長、京橋警察署・本所警察署・深川警察署・神田警察署・品川警察署の各署長、山口県警部長、栃木県警部長、警視庁第二部長などを歴任。1907年1月、北海道庁に転じ、事務官・第五部長、拓殖部長、庶務部長などを歴任。
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高根 義人(たかね よしと、慶応3年7月11日〈1867年8… 高根 義人(たかね よしと、慶応3年7月11日〈1867年8月10日〉 - 1930年〈昭和5年〉7月14日)は、日本の法学者。専門は商法。 豊前国英彦山の修験者で攘夷運動家の高根正也の次男として生まれる。平河学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業。平河学校では、学年は違うものの児童文学者の巖谷小波や洋画家の黒田清輝、能書家の宮島詠士らと親しくなり、その交流は終生続いた。1886年(明治19年)東京専門学校(現早稲田大学)卒業、1892年(明治25年)東京帝国大学法科大学卒業、同大学院進学。1901年(明治34年)法学博士。 1892年(明治25年)東京専門学校(現早稲田大学)講師就任。ベルリン大学留学等を経て、1900年(明治33年)京都帝国大学法科大学商法第一講座教授、京都法政学校(現在の立命館大学)講師、1907年(明治40年)京都帝国大学を退官し弁護士登録。
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久保 市三郎(くぼ いちさぶろう、1867年8月9日(慶応3… 久保 市三郎(くぼ いちさぶろう、1867年8月9日(慶応3年7月10日) - 1956年(昭和31年)3月1日)は、明治時代から昭和時代の実業家・政治家。旧姓、小沢。 武蔵国三田ヶ谷村(現・埼玉県羽生市)生まれ。上京後明治義塾(三菱商業学校)、慶應義塾大学部理財科で学ぶ(1893年卒)。 耕余義塾で教員になり、日本銀行を経て森林山野の開発に尽力する。福沢諭吉のすすめで栃木県真岡町の久保家の養子となり、1900年4月2日に久下田銀行(後に足利銀行へ合併)、1912年に真岡銀行(後に常陽銀行へ合併)などを創立する。 1907年(明治40年)10月4日に貴族院多額納税者議員に任命される。その後、栃木県芳賀郡中村の村長、栃木県教育会長、栃木県農工銀行頭取、下野新聞会長を務めた。
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藤本 充安(ふじもと じゅうあん、慶応3年7月9日(1867… 藤本 充安(ふじもと じゅうあん、慶応3年7月9日(1867年8月8日) - 没年不詳)は、日本の内務官僚。高松市長。 熊本県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学を卒業するとともに高等文官試験に合格した。島根県参事官、奈良県参事官、京都府参事官、同事務官、島根県事務官、秋田県事務官、香川県内務部長を歴任した。退官後の1917年(大正6年)に高松市長に就任した。 正確な没年月日は不明だが、1939年発行の『東京帝国大学卒業生氏名録』や、1950年発行の『東京大學卒業生氏名録』に、 氏名とともに物故者であることを意味する「×」が記載されていた一方で、1933年に発行された『東京帝国大学卒業生氏名録』にはそれが無かったことから、1930年代に亡くなったと推測される。
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広岡 宇一郎(ひろおか ういちろう、慶応3年7月8日(186… 広岡 宇一郎(ひろおか ういちろう、慶応3年7月8日(1867年8月7日) - 昭和16年(1941年)4月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)、弁護士。 淡路国三原郡市村(現在の兵庫県南あわじ市)生まれ。藤九郎の長男。 22歳の時、自由党に入り、機関紙の記者となった。新聞紙条例や集会条例違反のかどで弾圧を受け、6回にわたって拘束された。1891年(明治24年)、明石町で官民の対立が起きると、5千人の民衆を率いて6百名の巡査と衝突し、兇徒嘯集罪で1年2ヶ月の間獄中にあった。 その後東京に出て、自由党の活動に従事しつつ、日本法律学校(現在の日本大学)で学んだ。卒業後に弁護士試験に合格し、東京で弁護士を開業した。
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高山 長幸(たかやま ながゆき/ながよし、1867年8月7日… 高山 長幸(たかやま ながゆき/ながよし、1867年8月7日(慶応3年7月8日) - 1937年(昭和12年)1月19日)は、明治から昭和にかけての衆議院議員(6期)、銀行家、帝国商業銀行取締役会長、東洋拓殖総裁等を歴任。号は孤竹。勲四等瑞宝章。 伊予国喜多郡大洲城下中村(喜多村、大洲村、大洲町を経て現大洲市)出身。大洲藩士・高山文兵衛の長男。上京して慶應義塾に入り一時東京英語学校に遊学し、明治23年(1890年)に慶應義塾大学部を卒業。 1893年(明治26年)三井銀行に入り、大阪支店を経て函館・長崎などの要所の支店長を歴任し、三井銀行本店副支配人に就任する。また、明治石油、大日本製糖、朝鮮産業鉄道、蓬莱相互生命保険、東邦炭鉱、三井物産、雨龍炭鉱、第一火災海上保険、名古屋製糖などで重役を歴任。
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鈴木 天眼(すずき てんがん、慶応3年7月8日(1867年8… 鈴木 天眼(すずき てんがん、慶応3年7月8日(1867年8月7日) - 大正15年(1926年)12月10日)は、福島県二本松出身で、明治後期から大正時代にかけて活動したジャーナリスト。東京で『二六新報』主筆を務めた後、長崎で『東洋日の出新聞』を創刊、社長兼主筆として活躍した。衆議院議員1期。天眼は号、本名は力(ちから)。生涯にわたって軍国主義反対、人権・平和尊重の論陣を貫いた。中国の辛亥革命を熱烈に応援し、革命成就後に来日した孫文から長崎の自宅に感謝の訪問を受けた。従来、黒龍会『東亜先覚志士記伝』の記述などから天眼も国家主義者、大陸進出論者であると誤解されてきたが、東洋日の出新聞の論説を調査した結果、実際はそれとは正反対の思想の持ち主で、国家主義を否定し、個人の自由と権利を尊重する、当時としては稀に見るリベラルな主張を展開していたことが判明した。
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武藤 虎太(むとう とらた、慶応3年7月7日(1867年8月… 武藤 虎太(むとう とらた、慶応3年7月7日(1867年8月6日) - 昭和9年(1934年)3月29日)は、日本の教育者。 肥後国菊池郡今村(熊本県菊池郡戸崎村、菊池町を経て現菊池市)に熊本藩士武藤一忠の長男として生まれた。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学国史科を卒業。第五高等学校教授、第二高等学校教授、同校長を務め、1920年(大正9年)より2年間欧米を視察した。1921年(大正10年)、第四高等学校校長となり、のち第五高等学校校長に転じた。 退官後は、第五高等学校名誉教授の称号を受けた。その他、維新史料編纂会委員を務めた。
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堀 卯三郎(ほり うさぶろう、1867年8月5日(慶應3年7… 堀 卯三郎(ほり うさぶろう、1867年8月5日(慶應3年7月6日)- 1923年(大正12年)12月20日)は、日本の実業家・聖職者。 日本鉄工株式会社取締役、三光合資会社代表社員。日本メソヂスト下谷教会日曜学校長。族籍は山形県平民。 長男は工学者の堀義路。孫は社会学者の杉山明子。曽孫はグロービス経営大学院大学学長の堀義人。 医師・堀東順の三男として山形県鶴岡町に生まれ、後に令兄・義水の養嗣子となる。16歳のときに父・東順が亡くなったため上京し、東京専修学校(現・専修大学)に学び理財科を卒業する。 日本メソヂスト下谷教会に通い始め、1886年(明治19年)に同教会で洗礼を受ける。 1893年(明治26年)頃、ミッションより派遣されて教会日曜学校のために働いていた潮田宇多婦人伝道師(婦人運動家・潮田千勢子の娘)と結婚。
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岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日(1867年8月3… 岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日(1867年8月3日) - 1933年(昭和8年)10月29日)は、日本の弁護士、政治家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。日本の体育・スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。法学博士。 慶応3年7月4日(1867年8月3日)、松江雑賀町(現在の島根県松江市雑賀町)に松江藩の下級武士・岸伴平の次男として生まれる。小学校時代の同級生に若槻禮次郎(第25代・第28代内閣総理大臣)がいる。岸と若槻は血のつながりはないが、近い親類だった。 松江雑賀小学校、島根県第一中学校(現在の島根県立松江北高等学校)、大学予備門を経て東京帝国大学法科大学英法科に進学。
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石川 角次郎(いしかわ かくじろう、1867年8月2日(慶応… 石川 角次郎(いしかわ かくじろう、1867年8月2日(慶応3年7月3日) - 1930年12月29日)は、日本の宣教師、基督教会(ディサイプルス)の指導者。日本の牧師、日本の教育者である。 英語学者の石川林四郎は、実弟にあたる。 1867年(慶応3年)下野国足利(現・栃木県足利市)に生まれる。 1883年(明治15年)植村正久に洗礼を受ける。1884年大学予備門に入学する。1887年にアメリカに留学する。サンフランシスコ私大、オハイオ州立大学を卒業して、英文学の修士号(M.A.)を取得する。 サンフランシスコでW・K・アズビルから洗礼を受けてディサイプルス派になる。 1902年(明治35年)ディサイプルス派から援助を受けない、独立宣教師として帰国する。
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