元田 作之進(もとだ さくのしん、文久2年2月22日(西暦1… 元田 作之進(もとだ さくのしん、文久2年2月22日(西暦1862年3月22日) - 1928年(昭和3年)4月16日)は、聖公会の日本人最初の監督(主教)。日本聖公会東京教区初代主教。立教大学の初代学長、英和学舎塾長。松下正寿は娘婿。 文久2年2月22日、筑後国久留米藩士(郡奉行を務めた)の第6子として出生。1877年(明治10年)、久留米師範学校の第一回卒業生になる。卒業後は小学校や中学校の教師を務めた。 1881年(明治14年)米国聖公会宣教師テオドシウス・ティングの大阪・川口の英和学舎(のちの立教大学)で学ぶ。 1882年(明治15年)に洗礼を受けてキリスト教に入信。同年、英和学舎の教師である河島敬蔵が日本で初めてシェイクスピア劇の翻訳を行う中で筆記を担当。
荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2… 荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2年1月20日) - 1926年(昭和元年)12月25日)は、日本の実業家。三菱合資会社専務理事。族籍は東京府士族。 肥前大村藩士・荘新右衛門の長男。若年にして東京に出て、一ッ橋英語学校に学び、後大学予備門に入る。1885年、東京大学卒業、法学士の称号を得る。1886年、米国に渡航し、エール大学に入り、1887年にマスター・オブ・ローの学位を受く。米国諸州を巡遊する。欧州に渡り実業を視察して帰朝、直に三菱会社に入る。 1892年、大阪に第百十九国立銀行の支店を設置されるとその支配人に挙げられ、1895年、三菱会社の神戸支店設置と共にその支店長に転じ、1900年、同社庶務部長となる。
多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年… 多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年1月20日〉- 1943年〈昭和18年〉7月2日)は、日本の教育者、聖職者。平安女学院院長(校長)、日本聖公会の聖職者・司祭。立教大学が築地から池袋に移転する際には、会計責任者として押川方義(東北学院創設者、前・東北学院院長)とともに校地の購入交渉を行った。 現在の大阪府岸和田市で生まれた。1883年(明治16年)に米国聖公会のテオドシウス・ティングより受洗し、大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)でティングの薫陶を受け、1887年(明治20年)より、関西を中心として伝道師・牧師として働く。 1892年(明治25年)、大阪の川口居留地で米国聖公会が運営する照暗女学校(St.Agnes' School)を京都に移転することが決定し、京都府より「私立照暗女学校」の設立認可を受ける。
岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年… 岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年1月20日)- 1922年(大正11年)2月14日)は、明治から大正期の弁護士、公証人、実業家、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知市会議長。 土佐国土佐郡、のちの高知県土佐郡初月村(現高知市)で、土佐藩士・岡崎賢七の長男として生まれる。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。1885年(明治18年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1887年(明治20年)3月、公証人となる。同年9月、代言人試験に合格し、同年11月、高知市で代言人(弁護士)を開業した。講法館、法学館の講師を務めた。自由民権運動に加わり、三大事件建白運動にも参加。
森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月… 森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉 - 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。 石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。東京大学医学部卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。 帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。
歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月… 歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月18日(1862年2月16日) - 昭和2年(1927年)10月18日)は、新潟県出身の教育者、政治家。 越後国蒲原郡柄目木村(現在の新潟県新潟市秋葉区柄目木)に真柄家の子として生まれた。17歳で教員となった後に上京し漢学などを学んだ。帰郷後は五泉の歌川家に養子に入り、26歳で家を継いだ。 1902年、家塾『猶興社』を開設し、小学校を卒業したのち旧制中学に進めないような貧しい子供達への教育の場となった。1898年よりは当時の五泉町議会の政治家となり、織物業の振興を図り織物同志会を組織したり、五泉銀行の頭取を務めるなどした。1923年には五泉町教育会長となり、図書館を建設した。
薄 定吉(すすき さだきち、1862年2月14日(文久2年1… 薄 定吉(すすき さだきち、1862年2月14日(文久2年1月16日) - 1927年(昭和2年)12月16日)は、日本の教育者、内務官僚。官選岐阜県知事、長崎市長。旧名・定右衛門。 備前国岡山城下門田屋敷出身。岡山藩士の家に生まれる。岡山中学校、大阪専門学校予科、築地大学校を経て、1882年7月、東京大学予備門を卒業。さらに1888年7月、帝国大学法科大学を卒業した。 1888年8月、第四高等中学校教諭に就任。さらに同校教授となる。1891年1月、内務省に転じ内務省試補となる。以後、図書局勤務、県治局勤務、鹿児島県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第一課長、長崎県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第五課長、群馬県書記官、山梨県書記官、奈良県書記官、鳥取県書記官、宮城県書記官、同事務官・第一部長、同兼第三部長などを歴任。
有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、18… 有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。号は欽堂。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。世襲親王家の有栖川宮第10代当主にして最後の当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、ただし成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。幼称は稠宮(さわのみや)。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。 最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。
岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1… 岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1月1日) - 1908年(明治41年)6月6日) は、日本の法律家。 1862年1月30日(文久2年1月1日)に伊勢国三重郡水沢村(三重県四日市市)で、豐田久三郎の三男として生まれる。号は冠峰。幼時に両親を亡くし、岩村定高(初代三重県令)の養子となる。普通学を修めた後、1879年(明治12年)三重県医学校に入学。明治天皇の巡行の際に選抜され、勅使の前でドイツのハルトマンの病理学書を講読し、賞品を授かる。この年12月に東京大学医学部に県費で入学を命じられる。大学予備門、第一高等中学校を卒業、県の許可を得て帝国大学法科大学に入学する。 1890年(明治23年)に学士の称号を得て卒業。
川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元… 川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元年12月29日) - 1935年(昭和10年)9月12日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した外交官、実業家である。外交官時代はロシア関連の役職を歴任し、日露戦争では旅順要塞陥落時の水師営の会見で通訳を務め、ハルビン総領事時代には伊藤博文暗殺事件に遭遇した。退官後は日魯漁業社長などを務めた。 村上藩士・川上泉太郎の長男として越後国村上(現在の新潟県村上市)で生まれる。幼名は銀太郎。 新潟師範学校を中退し東京外国語学校ロシア語学科に入学。1884年に卒業後、外務省に入省。1886年在釜山領事館書記生。1889年在ウラジオストック貿易事務館領事館書記生。
3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文… 3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文久元年12月28日) - 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。大地主。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(3期)。 造酒屋「沢成 (さわなり、屋号・沢屋)」の2代・加藤成之助の長男として、陸奥黒石藩領津軽郡黒石上町(青森県南津軽郡黒石町を経て現黒石市)に生まれる。1890年(明治23年)から青森県会議員に5回、1902年(明治35年)から衆議院議員に3回当選する。さらに1906年(明治39年)には青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、翌年1月18日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
加藤 彰廉(かとう あきかど、文久元年12月27日(1862… 加藤 彰廉(かとう あきかど、文久元年12月27日(1862年1月26日) - 昭和8年(1933年)9月18日)は、衆議院議員(無所属団→公友倶楽部→公正会)、教育者。 伊予松山藩士宮城正修の二男として江戸に生まれ、加藤彰の養子となった。1884年(明治17年)、東京大学文学部を卒業。文部省御用掛、主税局御用掛、大蔵属を歴任した。1888年(明治21年)、山口高等中学校教諭となり、1894年(明治27年)に広島中学校の校長に就任した。 1895年(明治28年)に市立大阪商業学校(現在の大阪市立大学)教諭に招かれ、1899年(明治32年)に校長となり、1901年(明治34年)まで務めた(任期中に市立大阪高等商業学校に校名変更)。
島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(18… 島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(1862年1月24日) - 1923年(大正12年)3月11日)は戦前日本の精神病学者、神経病学者。京都府立医学専門学校長、同校附属病院長。狐憑きの研究でも知られる。 文久元年12月25日(1862年1月24日)江戸駒込片町に生まれた。本籍は東京市本郷区駒込東片町73番地。 1887年(明治20年)3月16日帝国大学医科大学医学部を卒業し、5月3日大学院に進み、精神病学室榊俶に就いたが、榊は東京府癲狂院の患者の診療を任され、精神病学室も同院に置かれており、8月3日島邨も隔日出頭し、9月2日当直医となり、6日大学院を中退、10日医科大学助手として第一医院勤務を命じられた。
安部 熊之輔(本名:熊之助、あべ くまのすけ、1862年1月… 安部 熊之輔(本名:熊之助、あべ くまのすけ、1862年1月18日(文久元年12月19日)- 1925年(大正14年)8月24日)は、明治から大正期の篤農家、政治家。衆議院議員。旧姓・岩松。 豊前国企救郡長浜浦(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、庄屋岩松助左衛門の孫として生まれ、同郡、のちの西谷村高野(現小倉南区)の安部(阿部)家の養子となる。 1877年(明治10年)に上京して佐藤製缶所で職工として働きながら農書を学んだ。1881年(明治14年)長野県、山梨県の農業を視察して園芸の道に進むことを決意した。1885(明治18年)に帰郷し、遠賀郡戸畑町中原で模範果樹園を開設しようと試みたが園芸に不適な地であったため、1905年(明治38年)足立山南麓の企救郡曽根村大字湯川(現:小倉南区)に転じ果樹園(園芸模範場)を設けた。
田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月… 田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月8日 - 昭和19年(1944年))は、日本の教育者、漢学者。逗子開成中学校、鎌倉女学校を創設した。東京開成中学校の校長も務めた。東京府士族。子に田辺元、孫に野沢協がいる。
早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈… 早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈文久元年12月9日〉 - 1935年〈昭和10年〉10月27日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。埼玉県川越市長。 忍町(現行田市)に生まれる。1876年(明治9年)埼玉県師範学校小学師範科を卒業し、小学校教員となる。ついで入間、南埼玉郡役所に奉職し、1915年(大正4年)から川越町助役を3期、1923年(大正12年)から市助役を3期務め、1932年(昭和7年)3月から川越市長を1期務めた。市長在任中の1933年(昭和8年)には県内初の都市計画法が適用され、大規模な耕地整理、住宅建設や工場誘致、道路の新設などを行った。
筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文… 筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文久元年12月8日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。吉岡ホテル社長。 因幡国高草郡下味野村(のち鳥取県気高郡美穂村下味野、現・鳥取県鳥取市下味野)出身。筧橘五郎の四男。寺子屋式の教育を受ける。吉岡村に分家する。酒小売、質商を営む。 村区長、村評議員、村会議員、信用組合長、気高漁業、山陰倉庫各監査役等をつとめる。酒造会社を経営する。 趣味は骨董、囲碁。住所は鳥取県気高郡吉岡村大字吉岡(現・鳥取市吉岡温泉町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月… 三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)は、明治・大正・昭和時代の植物学者。学位は、理学博士。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人である。特に桜とハナショウブの研究に関しての第一人者として知られ、殊に桜博士とも呼ばれた。また、天然記念物の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。 文久元年(1862年)、美濃国岩村藩士の次子として同藩江戸藩邸に生まれる。出生後は岩村で幼年期を過ごした。11歳の時に父が没したため、越前国坂井郡の浄土宗西光寺の住職の伯父に引き取られてそこで学んだ。明治9年(1876年)にのちの石川県第三師範学校に入学して、明治11年(1878年)に同校を卒業した。
小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12… 小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12月5日)- 1941年(昭和16年)12月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国玖珂郡柳井村(のち山口県玖珂郡柳井町を経て現柳井市)で、小田超祐の長男として生まれ、1880年(明治13年)1月、家督を相続した。柳井町長、周防銀行取締役となる。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙において山口5区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めたが、1895年(明治28年)8月27日に議員を辞職した。1941年に死去した。
八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元… 八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元年12月3日〉 - 1926年〈大正15年〉10月17日)は、日本の商人(呉服商)、地主、会社役員、政治家。鳥取県会議員。鳥取市会副議長(15代)。鳥取勧業取締役。 鳥取市元魚町1丁目、八村八次郎の長男。森本晩盛塾に、漢学を学ぶ。家業の呉服商に従事したが、1887年頃に廃業した。1892年に鳥取市会議員となり、1911年1月に副議長に就任した。 1911年6月に鳥取県会議員補欠選挙に当選した。帝国党、憲政会に所属。1915年10月に県参事会員となり、1916年11月に辞職した。 趣味は茶の湯、生花、書画、骨董。住所は鳥取市元魚町1丁目。
門田 正経(かどた まさつね、1862年(文久2年)1月 -… 門田 正経(かどた まさつね、1862年(文久2年)1月 - 1924年(大正13年)12月8日)は、日本のジャーナリスト、東洋協会幹事長、拓殖大学学友会初代会長。 伊予国松山生まれ。松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)から慶應義塾に入り、朝野新聞、馬場辰猪の國友会に入り、山陰新聞、海南新聞、大阪毎日新聞創立に参加。台湾協会専門学校の幹事となり、毎日新聞の特派員として台湾に渡り、台湾統治の一翼を担う。墓所は多磨霊園。
高柳 豊三郎(たかやなぎ とよさぶろう、文久2年(1862年… 高柳 豊三郎(たかやなぎ とよさぶろう、文久2年(1862年) - 明治45年(1912年)2月22日)は、日本の実業家。読売新聞社社長などを務めた。 肥前国佐賀生まれ。佐賀藩士で、1885年に商法講習所(現一橋大学)を卒業し、三井物産入社。同期に藤瀬政次郎がいた。 1890年三井物産を退社。1892年兵庫県立神戸商業学校校長。同年愛知県名古屋商業学校校長。1897年依願退官。 日本郵船入社後、春日丸事務長などを経て、1909年日就社社長。1910年読売新聞社社長。1912年死去。社葬が行われた。 読売新聞社創業者の本野盛亨の甥にあたる。
佐藤 恒久(さとう つねひさ、1862年(文久2年7月) -… 佐藤 恒久(さとう つねひさ、1862年(文久2年7月) - 1907年(明治40年)2月26日)は、日本の明治期における外科医。順天堂副医院長。武蔵国江戸(後の東京府東京市、現・東京都区部)出身。 1862年(文久2年)旧暦7月、安房国花房藩士松下信久の四男として江戸に生まれる。1873年(明治6年)に父と死別し、兄松下道久の下で育つ。1876年(明治9年)に東京外国語学校に入り、翌1877年(明治10年)に東京大学医学部予科に入学した。1886年(明治19年)、学制変更により東京帝国大学医科大学となった年に卒業する。東京帝国大学医科大学卒業前に陸軍軍医総監佐藤進の養子佐藤梅尾と結婚し、婿養子となる。
豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - … 豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - 1920年〈大正9年〉9月29日)は、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)出身の医師・実業家・政治家。高遠電灯社長、高遠電気軌道創立者。立憲政友会所属。長野県会議員(2期)。 文久2年(1862年)、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)に生まれた。父親は高遠藩士の亀井則義であり、恕平は九男だった。親戚の豊島篤次は長崎県で官吏(裁判所刑事部)を勤めており、亀井恕平は豊島家に養子に入った。1878年(明治11年)4月には長崎中学校を卒業して長崎医学校に入学した。 1884年(明治17年)には医術開業試験に合格して医師開業免許を受け、三菱会社の高島炭鉱病院に勤務した。
田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年… 田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年4月) - 1918年(大正7年)9月9日)は、三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・文筆家。号は竹香。豊橋市長の田部井勝蔵は弟。 文久2年(1862年)4月、江戸・赤坂にある刈谷藩の江戸藩邸に生まれた。父は刈谷藩士の田部井清蔵であり、鉚太郎は長男だった。田部井家は三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)にある。 明治維新後には愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、21年間にわたって愛知県内の学校の訓導や校長を務めた。また、南画家の牧野敏太郎(挙母藩藩士の子であり牧野義雄の兄)の南画の師だった。1901年(明治34年)には富山県視学となった。
小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年… 小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年)- 1902年(明治35年)11月12日)は、日本の実業家。岡山県倉敷市出身。諱は、義直。 雄弁家として知られた。 小松原芳太郎の長男として倉敷村に生まれる。1866年(慶応2年)、倉敷浅尾騒動で父を失う。早くから両親を失い祖父小松原義平(善右衛門義忠、1817-1904)に養育された。終生祖父の恩を忘れず八十過ぎて足の不自由な祖父を背負って浴室に入れていた。1883年(明治16年)、21歳のときに村会議員、1888年(明治21年)、倉敷紡績所株式会社を設立。1891年(明治24年)、倉敷銀行(現中国銀行)を設立。 大日本紡績協会副会長。
伊奈 初之烝(いな はつのじょう、1862年〈文久2年〉 -… 伊奈 初之烝(いな はつのじょう、1862年〈文久2年〉 - 1926年〈大正15年〉6月11日)は、尾張国知多郡常滑(現在の愛知県常滑市)出身の実業家。伊奈製陶所(伊奈製陶株式会社、INAXを経て、現在のLIXIL)を経営した。 初代伊奈長三郎(号は長三)は、常滑焼で知られる尾張国知多郡常滑(現在の愛知県常滑市)の陶芸界で名を残し、4代まで伊奈長三郎を襲名した。文久2年(1862年)に生まれた伊奈初之烝は、それまでの伊奈家の家業だった陶芸には興味を向けず、近代的な窯業工場の経営を志向した。5代目伊奈長三郎は伊奈初之烝ではなく弟の伊奈伍助が襲名している。 設立年は定かでないが、伊奈初之烝は個人経営の伊奈製陶所を設立し、商号を「マルハ」として陶管の製造を開始した。
板倉 松太郎(いたくら しょうたろう、1862年(文久2年)… 板倉 松太郎(いたくら しょうたろう、1862年(文久2年) - 1924年(大正13年))は、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身の教育者。第八学区北大浜学校(現・碧南市立新川小学校)校長(1887年-1900年、1906年-1921年)。板倉は当時の碧海郡の教育界の中心的な存在であった。1919年(大正8年)に勲八等瑞宝章受章。 文久2年(1862年)、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身。1880年(明治13年)7月19日に愛知県師範学校を卒業し、第五十五番小学棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)の教員となった。1886年(明治20年)に新川に架かる無名橋が現在地に移設された際には、板倉や岡本八右衛門らが元禄橋と命名している。
小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年… 小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年11月28日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月16日)は、明治期の製薬実業家、政治家。 豊後国海部郡、のちの大分県南海部郡佐伯村(佐伯町を経て現佐伯市)生まれ。佐伯藩士矢野光儀の子で、矢野龍渓の弟。1870年(明治3年)、父にしたがい上京し慶應義塾に学び、東洋議政会に参加し、大学予備門を中退。立憲改進党の弁士として活躍した。その後、三田英学校講師となり、1886年(明治19年)報知新聞の経営再建のために報知新聞社に入社し、ジャーナリストとして健筆を振るう。 1886年(明治19年)12月、大隈重信や矢野龍渓の強い勧めにより、幕臣小栗忠順の娘国子と結婚し、婿養子として小栗の姓を継ぐ。
浅岡 満俊(あさおか みつとし、1861年12月28日(文久… 浅岡 満俊(あさおか みつとし、1861年12月28日(文久元年11月27日) - 1936年(昭和11年)8月26日)は、日本の海軍軍人。海軍造船中将正五位勲二等。 伊予松山藩士、豊島節之進の二男。浅岡氏の養子となり姓を改める。1879年(明治12年)に慶應義塾に入学し、1880年(明治13年)まで在学。 慶應義塾を中退して、造船職工となり、1882年(明治15年)に海軍省主船局御用掛となった。翌年から8年間にわたって渡英し、その間グリニッジ海軍大学校で学んだ。1891年に帰国後は、横須賀造船所の監督官となった。日清戦争の際に米国に派遣。海軍工廠に転じる。日露戦争の際に英国に派遣。1907年に造船大監・舞鶴海軍工廠造船部長となり、翌年に佐世保海軍工廠造船部長に転じ、さらに1913年(大正2年)には横須賀海軍工廠造船部長、海軍造船総監に就任した。
日置 益(ひおき えき、1861年12月21日〈文久元年11… 日置 益(ひおき えき、1861年12月21日〈文久元年11月20日〉- 1926年〈大正15年〉10月22日)は、日本の外交官。位階および勲等は正三位・勲一等。伊勢国(現在の三重県)出身。 伊勢国で日置伊右衛門の五男として生まれる。1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、外務省に入る。 1905年(明治38年)、代理公使としてサンフランシスコに渡航したのち、仏僧釈宗演とともにワシントンでルーズベルト大統領と会見。 1914年(大正3年)に中国公使に就任。同年12月3日、加藤高明外相は日置に対華要求を訓令する。翌1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣は袁世凱に対華21カ条要求を行い、日置はその交渉担当となった。
和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年1… 和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年11月18日) - 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。 従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。 豊前国(現・大分県)生まれ。中津藩士・和田薫六の長男。 はじめ川端楊坪の塾で書を学び、次いで大久保逕造の塾で四書五経を修める。藩校・進脩館の後身校「中津市学校」に入学し、村上家に寄食して医者を目指す。上京し、小幡篤次郎の推薦で1882年(明治15年)に慶應義塾へ入学。
石井 信(いしい しん、1861年12月17日(文久元年11… 石井 信(いしい しん、1861年12月17日(文久元年11月16日)- 1923年(大正12年)4月9日)は、明治から大正期の政治家、神職。衆議院議員。旧姓・天神林。幼名・信吉。 出羽国雄勝郡湯沢町(秋田県雄勝郡湯沢町を経て現湯沢市)で、久保田藩士・天神林久平(儀敬)の二男として生まれ、同藩士、叔父・石井忠良の養子となる。養父の私塾・立志堂で学び、藩儒・西宮藤長に師事して漢学を修めた。1877年(明治10年)2月、養父の死去に伴い家督を相続した。 自由民権運動に加わり、武石敬治、添田飛雄太郎らと自ら学ぶ私塾・麗沢舎を設立して英語など新時代の知識を伝えた。1886年(明治19年)10月、秋田県会議員に選出され5期在任。
有馬 良橘(ありま りょうきつ、1861年12月16日〈文久… 有馬 良橘(ありま りょうきつ、1861年12月16日〈文久元年11月15日〉 - 1944年〈昭和19年〉5月1日)は、日本の海軍軍人、神職。最終階級は海軍大将。和歌山県和歌山市出身。養子に海軍中将・有馬寛がいる。 文久元年11月15日(1861年12月16日)、紀州藩の藩医(奥医師)・有馬元函の長男として生まれる。父の元函は紀州徳川家家臣として幕府軍側に参戦転戦したために、良橘が幼少の頃は朝敵扱いされ、良橘の尋常小学校入学が12歳まで遅延する結果を招く。旧制三田英学校より海軍兵学校第12期入校。入校時成績順位は44名中第16位、卒業時成績順位は19名中16位。 有馬の職歴の特徴として明治天皇と東郷平八郎との関わりが深く、日清戦争でも東郷が艦長を務める防護巡洋艦「浪速」の航海長として東郷の指揮下で従軍している。
落合 直文(おちあい なおぶみ、1861年12月16日(文久… 落合 直文(おちあい なおぶみ、1861年12月16日(文久元年11月15日) - 1903年(明治36年)12月16日)は、日本の歌人、国文学者。元の名は鮎貝盛光。俳号は萩之家。短歌結社浅香社を結成、多くの門人を育成して、新派和歌革新運動を推進した。長編叙事詩「孝女白菊の歌」のほか、没後『萩之家遺稿』(1904年)などが刊行された。 1861年(文久元年)、陸奥国本吉郡松崎村字片浜(現・宮城県気仙沼市字松崎片浜 : 煙雲館)にて鮎貝太郎平盛房の二男として生まれた。幼名亀次郎。生家は仙台藩伊達家一家筆頭の家柄であった。11歳から13歳にかけて仙台の私塾、神道中教院で漢学などを学んだ。 1874年(明治7年)、神道中教院主宰であった国学者・落合直亮に才能を見込まれ、長女・松野の許嫁として養子となった。
佐治 幸平(さじ こうへい、文久元年11月12日(1861年… 佐治 幸平(さじ こうへい、文久元年11月12日(1861年12月13日) - 大正6年(1917年)8月13日)は、日本の政治家、会津地域を代表する自由民権運動家の一人である。第3代若松市長、衆議院議員、実業家。 陸奥国大沼郡高田村(現福島県大沼郡会津美里町)出身。佐治一族は高田の旧家で、蒲生氏の分家、儀俄氏(甲賀五十三家)の子孫で、蒲生秀行の家臣として仕えていたが、蒲生家のお家断絶により仕官に失敗し、後に若松城下より高田村に移り住んだと伝わる。醸造業を営むほか、会津銀行高田派出所や会津高田郵便局が設置され、大地主として高田地域を代表する家の一つとして知られた。父は西佐治家(屋号は油屋)の五代目幸左衛門金麗。
笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(… 笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(文久1年11月10日) - 1929年(昭和4年)7月21日)は、日本の警察官、実業家。愛知郡長退官後に名古屋市東郊耕地整理組合長ほか複数の土地整理組合で幹部を務め、名古屋における土地整理事業の先駆者に位置づけられる人物である。石川電気鉄道社長。 会津藩藩士笹原八百吉の長男として若松栄町に生まれる。福島師範学校の前身校に学んで教職に就いたのち埼玉県で巡査となり、山梨県警察部警務課長を経て、静岡県警察署長まで昇進した。1904年(明治37年)に辞職後、賀茂郡、南設楽郡で郡長を務める。1913年(大正2年)3月に愛知郡郡長を辞任し、名古屋市東郊耕地整理組合長、八事耕地整理組合、港東土地区画整理事業組合及び音聞山土地区画整理事業組合の各副長として当時の名古屋市近郊の土地整理事業を推進した。
小田 文行(おだ ぶんこう、1861年12月9日(文久元年1… 小田 文行(おだ ぶんこう、1861年12月9日(文久元年11月8日) - 1921年(大正10年)4月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 陸奥国九戸郡宇部村(岩手県南九戸郡宇部村、九戸郡宇部村を経て現久慈市)出身。宇部村会議員、同村長、九戸郡会議員、岩手県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員、九戸馬産会員となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政本党公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙には不出馬。1921年死去。
若湊 祐三郎(わかみなと すけさぶろう、1861年12月6日… 若湊 祐三郎(わかみなと すけさぶろう、1861年12月6日(文久元年11月5日) - 1920年9月21日)は、石川県能美郡(現小松市)出身で始め富士ヶ根部屋、伊勢ノ海部屋を経て高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は村田 竹松(むらた たけまつ)一時期岡島姓を名乗ったことがある。最高位は関脇。現役時代の体格は169cm、90kg。得意手は突っ張り。 1888年に入幕。関脇を4場所、小結を6場所務めるなど、17年もの長きにわたり幕内上位を維持。小錦とは大相撲を展開して相撲場を札止めにする人気だった。1893年1月からは東方に回り、小錦、朝汐などと大戸平、大砲、鳳凰、荒岩などの強豪と対決した。1902年(明治35年)5月には40歳ながら当時大関であった2代目梅ヶ谷を倒す殊勲を挙げた。
松本 金太郎(まつもと きんたろう、1861年11月27日(… 松本 金太郎(まつもと きんたろう、1861年11月27日(文久元年10月25日)- 1938年(昭和13年)12月11日)は、日本の農業関係者、政治家。衆議院議員、埼玉県秩父郡影森村長。 武蔵国秩父郡上影森村(のち埼玉県秩父郡影森村、現:秩父市)で生まれる。漢学を修めた。 影森村会議員、同助役、同収入役、同村長、秩父郡会議員、同参事会員、同議長、埼玉県会議員、同参事会員、小作調停委員などを歴任。 1924年5月に第15回衆議院議員総選挙で埼玉県第六区から選出された加藤政之助が、貴族院勅選議員に任じられたことに伴い、1927年6月の補欠選挙に出馬して当選し、立憲民政党に所属して衆議院議員を一期務めた。
辻 寛(つじ ゆたか、文久元年10月24日(1861年11月… 辻 寛(つじ ゆたか、文久元年10月24日(1861年11月26日) - 昭和4年(1929年)9月24日)は、衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 伊勢国三重郡水沢村(現在の三重県四日市市)に辻武平治の長男として生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、三重県山田郡立中学校の教諭に任じられた。その後、三重新聞社の社長として経営にあたり、また雑誌「三重県人」の主幹となった。 三重県会議員を経て、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第11回・第12回でも再選された。 その他、三重県農工銀行の監査役も務めた。
牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日〈文久元… 牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日〈文久元年10月22日〉- 1949年〈昭和24年〉1月25日)は、日本の官僚、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名は「シンケン」と音読みされることもある。幼名は伸熊(のぶくま)。以前の諱は是利(これとし)。 大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。 1861年11月24日(文久元年10月22日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士で維新の三傑の一人・大久保一蔵(のちの利通)と妻・満寿子の次男として生まれた。生後間もなく父・利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、1868年(慶応4年)に吉之丞が戊辰戦争における北越戦争で戦死したため、名字が牧野のまま大久保家で育った[要出典]。
酒井 佐保(さかい すけやす、文久元年10月21日(1861… 酒井 佐保(さかい すけやす、文久元年10月21日(1861年11月23日) - 大正7年(1918年)12月28日)は、日本の教育者。位階および勲等は従三位・勲二等。 高知県出身。1883年(明治16年)、東京大学理学部物理科を卒業した。茨城県第一中学校校長、海軍教授、第三高等学校教授を歴任。1899年(明治32年)、第六高等学校校長に就任し、1910年(明治43年)に第三高等学校校長に転任した。
佐藤 富十郎(さとう とみじゅうろう、1861年11月21日… 佐藤 富十郎(さとう とみじゅうろう、1861年11月21日(文久元年10月19日)- 1943年(昭和18年)8月16日)は、明治から昭和前期の養蚕家、林業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国伊達郡、のちの福島県伊達郡小手川村(月舘町を経て現伊達市)で、佐藤長十郎の長男として生まれ、1882年(明治15年)11月に家督を相続した。漢学を修め、のち早稲田大学校外生として政治経済学を学ぶ。 養蚕について研鑽し、養蚕実修学舎を設立して指導に当たり、また各県に養蚕教師として出張した。長年、森林業に従事し、東洋木材を設立して社長に就任した。 政界では相馬郡中村町会議員に在任。相馬地方の開発に貢献した。1924年(大正13年)5月、 第15回衆議院議員総選挙(福島県第10区、憲政会公認)では、前2回落選の同情票で有力候補松本孫右衛門を破って当選し、その後、立憲民政党に所属して衆議院議員に1期在任した。
池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年… 池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年10月3日) - 1923年(大正12年)3月6日)は、明治・大正時代の国文学者、歌人。号は「藤園」、「知旦」。 1861年、肥後国(現・熊本県)で熊本藩士・池辺軍次の次男として生まれた。1879年(明治12年)に19歳で伊勢の神宮教院(現・皇學館大学)に入学し、神道・国史・国学を学んだ。神宮教院時代からの同期には落合直文がいた。同教院が閉鎖となると上京し、1882年に東京帝国大学文科大学古典講習科に第一期生として入学。同級生には、落合直文や関根正直がいた。1886年に卒業。東京大学の恩師であった国文学者・小中村清矩の養子となり、小中村義象を名乗る。
稲垣 満次郎(いながき まんじろう、1861年10月29日(… 稲垣 満次郎(いながき まんじろう、1861年10月29日(文久元年9月26日) - 1908年(明治41年)11月25日)は、明治時代の日本の外交官。著書で南進論を唱えたことで知られる。 肥前国松浦郡平戸(現在の長崎県平戸市)出身。父親は平戸藩士で同藩勘定奉行を務めた天野勇衛。藩立学校維新館、鹿児島私学校等を経て、1882年(明治15年)、東京大学文学部に入学。翌年東京大学明治十六年事件に巻き込まれて、英国ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに留学、ジョン・ロバート・シーリーに師事する。大学では日本人クラブを設立し、英国紳士のマナーを研究した。また、大学の理事会を説得し、日本人の入学試験からギリシャ語を免除させた。
沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年… 沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年9月23日) - 1931年3月12日)は、日本の数学者、日本の数字・数学史学者。 美濃国厚見郡一色村(現・岐阜市)出身。明治15年(1881年)陸軍省御用掛となり、参謀本部測量課に勤務。1886年第一高等中学校(現・東京都立日比谷高等学校)数学授業嘱託、1887年同教師。1891年帝国大学理科大学物理学科卒。菊池大麓に師事。1896年大学院中退。1892年第四高等学校教授、96年陸軍中央幼年学校教授、97年東京高等商業学校(現・一橋大学)教授。1917年定年退官。東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1923年、63歳で卒業。1927年大著「奈良朝時代民政経済の数的研究」を刊行した。
米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(186… 米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(1861年10月19日) - 1919年(大正8年)7月20日)は、日本の実業家。麒麟麦酒の創設に携わり、明治屋の2代目社長を務めた。米井商店(現・ヨネイ)、明治護謨製造所(現・明治ゴム化成)の創業者。 文久元年9月16日(1861年10月19日)、美作国苫田郡高倉村(現・岡山県津山市)で平民米井仲平、ツルマツの次男として生まれる。上京して慶應義塾で学び、3歳年上のまたいとこである磯野計が創業した明治屋を在学中から手伝った。1887年大学卒業とともに同社に入社し、1897年(明治30年)1月には匿名組合磯野商会(創始者:磯野計、共同事業者:米井源治郎)を創立し、機械や鉱物、雑貨の輸入業を始める。
西村 謙三(にしむら けんぞう、文久元年9月13日(1861… 西村 謙三(にしむら けんぞう、文久元年9月13日(1861年10月16日) - 1937年7月10日)は、日本の教育者、郷土史家。 初代佐賀藩主鍋島勝茂に仕えた書家である洪浩然の子孫、洪安襲の三男として肥前国(現・佐賀県佐賀市西田代町)に生まれ、西村家を継いだ。東京帝国大学文学部哲学科卒業。 東大卒業後、佐賀県尋常中学校を振り出しに、岐阜県第一中学校、大分県立大分中学校、福岡県立豊津中学校の教諭を経て、福井県立武生中学校、滋賀県立第一中学校、福岡県立中学修猷館、長崎県立長崎中学校の校長を歴任する。郷里に帰り、成美高等女学校校長を最後に教職生活を終える。 1914年、鍋島家が創立した佐賀図書館の館長に就任。
小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年… 小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年9月12日)- 1924年(大正13年)7月1日)は、日本の園芸家である。号は楽山園。 備前の赤磐郡稗田村に生まれる。幼少時に漢学を学び、後に廃藩置県により赤磐郡議会の書記を務めた。その後園芸栽培の活動を始め、同地で生産されるモモやナシ、ブドウ等多くの果実の品種改良に携わる。 またその果実の袋掛け法の改善や害虫駆除のために、殺虫剤の研究開発にも携わった。この開発は後に石油浸出法による石油乳剤を用いたものであり、「六液」の名で知られ普遍的に多くの農家で使用された。その後も果実の販売向上のために市場の開業や、大原奨農会(現在の岡山大学資源植物化学研究所)からの招聘よって果樹園の経営にも携わった。