飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 19… 飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 1967年12月19日)は、日本の経営者。日動火災海上保険元社長。神奈川県出身。 1928年に東京商科大学を卒業し、同年に日動火災海上保険に入社。 1950年に取締役に就任し、1953年に常務を経て、1954年から1961年までに社長を務めた。 1967年12月19日腹膜炎のために死去。64歳没。
1903年(明治36年)生まれ:684人
飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 19… 飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 1967年12月19日)は、日本の経営者。日動火災海上保険元社長。神奈川県出身。 1928年に東京商科大学を卒業し、同年に日動火災海上保険に入社。 1950年に取締役に就任し、1953年に常務を経て、1954年から1961年までに社長を務めた。 1967年12月19日腹膜炎のために死去。64歳没。
伊豆川 浅吉(いずかわ あさきち、1903年(明治36年)1… 伊豆川 浅吉(いずかわ あさきち、1903年(明治36年)11月3日 - 1968年(昭和43年)8月24日)は、日本の水産学者、歴史学者。元東京水産大学教授。専門は漁業史、水産経済学。 1903年11月3日、神奈川県小田原市に生まれる。1922年4月に横浜高等工業学校応用化学科に入学し、1925年3月に卒業。1927年に旭水産に入社し、1928年に小田原市場に入社する。 1935年、法政大学経済学部を卒業し、1937年に法政大学大学院を修了、小野武夫に師事する。アチック・ミューゼアム研究所員、東京帝国大学助手を経て、1948年に鹿児島水産専門学校教授(後の鹿児島大学水産学部)に就任する。1950年、『日本鯨漁業の経済的研究』で農学博士(九州大学)を取得する。
瀬木 博信(せき ひろのぶ、1903年〈明治36年〉11月3… 瀬木 博信(せき ひろのぶ、1903年〈明治36年〉11月3日- 1971年〈昭和46年〉11月10日)は、日本の実業家。博報堂の元社長。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
清成 迪(きよなり すすむ、1903年(明治36年)11月2… 清成 迪(きよなり すすむ、1903年(明治36年)11月2日 - 1988年(昭和63年)2月7日)は、日本の技術者。日立製作所取締役副社長を経て、動力炉・核燃料開発事業団理事長や、原子力委員会委員長代理を務めた。「もんじゅ」や「ふげん」の名付け親でもある。 熊本県熊本市出身。1928年九州帝国大学工学部卒業。1940年日立製作所取締役副社長。1967年動力炉開発臨時推進本部委員。動力炉・核燃料開発事業団副理事長在任中の1970年、大洗工学センターの発足式で、高速増殖炉もんじゅ、新型転換炉ふげんの命名を行った。1972年動力炉・核燃料開発事業団理事長。1978年原子力委員会委員。同年原子力委員会委員長代理。
岩本 晋一郎(いわもと しんいちろう、1903年11月2日 … 岩本 晋一郎(いわもと しんいちろう、1903年11月2日 - 1981年2月10日)は、日本の商工官僚。岐阜県高山市長(2期)。岩本漆器店代表取締役。 岐阜県出身。中央大学卒業後、1933年高等文官試験に合格し、商工省に入る。山梨、山形各県の商工課長を経て、岩手県社会、商工、経済統制課長を歴任し、福岡県学務、農務各課長を務める。その後、高知県経済部長から岐阜県民生部長、同教育長を務める。1950年の岐阜県知事選挙に立候補するが落選。以降合計3回続けて立候補したが落選した。1959年の高山市長選挙に立候補して初当選した。1期目は市民生活の向上と産業振興などに施策を進め、環境衛生センターの完成、簡易水道の整備、市民会館の開館などがあり、1963年に2回目の当選をした。
平田 小六(ひらた ころく、1903年11月1日 - 197… 平田 小六(ひらた ころく、1903年11月1日 - 1976年5月18日)は、日本の作家。 秋田県生まれ。弘前中学校卒。プロレタリア文学の作家として出発、農民小説を書く。戦後は新日本文学会所属。 英語教師である父・孝次郎の勤務先である秋田県大館町に生まれる。第五十九国立銀行の行員となった父の転勤に伴い、幼い時期は青森県内を転々とする。1923年(大正12年)に弘前中学校を卒業すると、家計を助けるために進学を断念して代用教員に就く。1924年、北津軽郡小泊村下前尋常小学校(後の下前小学校。2010年に小泊小学校に統合され閉校)に訓導として着任する。(下前尋常高等小学校は明治9年に完成しました)この下前での2年弱の体験が、後の『囚はれた大地』の原型となった。
内田 洋一(うちだ よういち、1903年〈明治36年〉11月… 内田 洋一(うちだ よういち、1903年〈明治36年〉11月 - 1999年〈平成11年〉9月18日)は、日本の応用物理学者。専門は分光学。京都大学名誉教授。 1903年11月に京都市左京区吉田で生まれた。1926年3月に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、同年4月に同大学理学部助手に着任した。木村正路研究室で分光学の研究に従事し、日本で最初にラマンスペクトルを測定、1928年12月に報告した。当時の実験装置は光源強度が弱く、その分ラマン散乱光も微弱なため、最高80時間試料に対し暴露することによって、ラマンスペクトルの測定に成功した。1930年代中葉から、分光学的手法を原子・分子から固体研究に適用することを考え、蛍光および燐光体の研究を開始した。
木村崋邦(きむら かほう、1903年10月31日-1982年… 木村崋邦(きむら かほう、1903年10月31日-1982年12月25日)は、日本の画家。本名は木村敞(きむら たかし)。 茨城県竹原下郷(現・小美玉市)出身。1920年に上京し、関田華亭に師事して崋山系花鳥画を学ぶ。1921年、日本南画会に初出品。1922年、松林桂月の天香画塾の塾生となり、主として山水花鳥などを描く。1923年、第1回茨城美術展に初出品。1948年、日本水墨会創立展に出品。1965年、日本南画院評議員に就任(1967年同理事、1971年同常任委員)。この頃、高松宮から推賞され、志操を一新した[要出典]。1969年、水墨画研究のため、黒曜会を主宰。1970年、第15回日本南画院に「浅春」200号を出品し、その後、東京銀座において、画業50年記念個展を催した[要出典]。
吉谷 久雄(よしたに ひさお、1903年10月30日 - 没… 吉谷 久雄(よしたに ひさお、1903年10月30日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[4][5][6][7][8][9]。本名石井 清一(いしい せいいち)、旧芸名市川 喜有利(いちかわ きうり)。松竹蒲田撮影所が1920年代に推進した「短篇喜劇」の主演俳優として知られる。
渡辺 漸(わたなべ すすむ、1903年10月30日 - 19… 渡辺 漸(わたなべ すすむ、1903年10月30日 - 1984年4月2日)は日本の病理医、医学者。登山家。広島大学病理学第二講座初代教授、第4代医学部長。広島大学原爆放射能医学研究所初代所長。広島大学名誉教授。「雪山讃歌」作詞者の一人。東京都出身。 1921年(大正10年)静岡県立静岡中学校卒業。1922年(大正11年)第三高等学校 (旧制)入学。浪人中に西堀栄三郎と知り合い、揃って合格したところに今西錦司が落ちてきて、三人一緒になり、のちに高橋健治、桑原武夫、四手井綱彦らが加わり三高山岳部(のちの京都大学山岳部)が出発した。 1925年(大正14年)、東京帝国大学医学部進学、東大ではスキー部に所属。
西村 二郎(にしむら じろう、1903年10月28日 - 1… 西村 二郎(にしむら じろう、1903年10月28日 - 1999年12月30日)は、日本の経営者。新潟日報社社長を務めた。 東京都出身。1928年に東京商科大学を卒業。電通、同盟通信社での勤務を経て、1944年に新潟日報社取締役に就任し、1950年に社長に就任。1967年に会長に就任し、1980年9月に相談役を経て、1984年4月には顧問に就任。 1974年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1999年12月30日肺炎のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
玉柳 実(實、たまやなぎ みのる、1903年(明治36年)1… 玉柳 実(實、たまやなぎ みのる、1903年(明治36年)10月27日 - 1960年(昭和35年)3月15日)は、昭和期の内務官僚、厚生官僚、政治家、弁護士。参議院議員。現在の愛媛県松山市生まれ。 愛媛県温泉郡味生村南斎院(現:松山市)で玉柳政吉の長男として生まれる。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1923年(大正12年)に大阪高等商業学校(現大阪市立大学)中退。1929年(昭和4年)10月に高等試験行政科合格。1930年(昭和5年)に高等試験司法科に合格。同年、内務省に入省し岩手県属に任官。1943年(昭和18年)に厚生省保険局船員労災課長、1946年(昭和21年)に愛媛県農地部長、1948年(昭和23年)に愛媛県経済部長。
野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月2… 野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月27日 - 1936年(昭和11年)2月29日)は、日本の陸軍軍人。
森下 弘(もりした ひろむ、1903年10月25日 - 19… 森下 弘(もりした ひろむ、1903年10月25日 - 1990年1月17日)は、日本の実業家。日本新薬社長、会長を務めた。奈良県出身。 1929年に九州帝国大学法文学部を卒業し、1933年に日本新薬に入社した。1946年から社長に就任し、1987年から会長に就任した。 1970年から1983年までに京都商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、1987年までに関西経済連合会副会長も務めた。 1990年1月17日うっ血性心不全のために死去。86歳没。死後に京都府から特別功労表彰を受けた。
中 助松(なか すけまつ、1903年(明治36年)10月25… 中 助松(なか すけまつ、1903年(明治36年)10月25日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の衆議院議員(自由党→分党派自由党→自由党)、内務参与官。 富山県下新川郡浦山村(現在の黒部市)出身。1927年(昭和2年)、明治大学政治経済科を卒業し、農林省大臣官房や山林局に勤務した。1932年(昭和7年)より神奈川県会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙において神奈川1区(当時)から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し、当選。幣原内閣で内務参与官を務めた。その後、公職追放となった。追放中の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
崔 丙柱(チェ・ビョンジュ、朝鮮語: 최병주、1903年10… 崔 丙柱(チェ・ビョンジュ、朝鮮語: 최병주、1903年10月25日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の法曹、政治家。第2代韓国国会議員。 全羅北道扶安郡幸安面出身。京城帝国大学法学部卒、高等文官試験司法科合格。以後は大法官、弁護士を務めた。1950年の第2代総選挙では扶安郡選挙区から無所属で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。 しかし、同年の朝鮮戦争中に拉致された。妻による失郷私民申告書によると、1950年7月中旬ごろに全羅北道で北朝鮮側の関係者に拉致され、拘束中に通訳などをさせられていたということが伝わっている。その後は弟からも同書が提出された。1956年7月、在北平和統一促進協議会中央委員を務める。
平川 虎臣(ひらかわ こしん、1903年10月25日 - 1… 平川 虎臣(ひらかわ こしん、1903年10月25日 - 1969年5月2日)は、日本の小説家。熊本県菊池郡城北村(現・山鹿市菊鹿町)生まれ。満州、京都、東京を放浪したのち上司小剣に師事し、作家となり、戦前活躍。戦後は不遇だった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
久我 通顕(こが みちあき、1903年〈明治36年〉10月2… 久我 通顕(こが みちあき、1903年〈明治36年〉10月23日 - 1982年〈昭和57年〉11月10日)は、日本の華族。旧公卿家。侯爵。貴族院議員。女優久我美子の父。 久我常通の長男として生まれる。1936年(昭和11年)父退隠の後を承け、家督を相続する。國學院大學国文学科卒業。 1943年(昭和18年)内務省委員となり後近代商業美術協会長に就任 戦前、国語の教師をしたこともあったが、ほとんど仕事はしなかった。 華族の娘と一緒になるのはいやで、粋筋に通じた下町娘を好んだという。じっさい遊びでも華族ではアカ抜けていたほうで、下情にも通じていた。父常通も通顕も戦前は決まった職業を持たなかった。妻与志江によれば「遊び人の血筋なんでしょうか。
山田 忍(やまだ しのぶ、1903年(明治36年)10月23… 山田 忍(やまだ しのぶ、1903年(明治36年)10月23日 - 1996年(平成8年)5月18日)は、日本の農学者・地方公務員。学位は、農学博士(北海道大学)・理学博士(北海道大学)。帯広畜産大学名誉教授。また、専修大学北海道短期大学学長を務め、専修大学北海道短期大学の基盤創出に尽力した。山形県出身。 1927年(昭和2年)、北海道帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、北海道庁に入庁。農産部農芸化学科長、北海道農事試験場根室支場長を経て、同中標津拓殖実習場長となる。1947年北海道庁を退官する。帯広農業専門学校教授・農学科長・附属農場長。1949年、学位論文「火山性地土性調査法と北海道に於ける火山性土壤」で北海道大学より農学博士の学位を取得、帯広畜産大学畜産学部教授に就任。
梅村 蓉子(うめむら ようこ、1903年10月21日 - 1… 梅村 蓉子(うめむら ようこ、1903年10月21日 - 1944年3月8日)は、日本の女優である。本名は鈴木 花子(すずき はなこ)。 1903年(明治36年)10月21日、東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)の瀬戸物問屋に「鈴木花子」として生まれる。 旧制小学校に上がる1910年(明治43年)には、東京市本郷区(現在の文京区本郷)の本郷座で新派の初舞台を踏む。有楽座のお伽芝居の舞台にも立つ。 1922年(大正11年)、松竹蒲田撮影所に入社し、翌1923年(大正12年)公開、島津保次郎監督の『散りにし花』で映画界にデビューする。同年9月1日の関東大震災によって同撮影所は稼動を停止し、京都の松竹下加茂撮影所に異動になる。
芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 19… 芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 1987年9月5日)は、日本のアマチュア野球選手・プロ野球監督・プロ野球球団経営者、スポーツ記者、野球解説者。兵庫県加東市出身(姫路市野里町とする資料もあり)。旧姓:氷室(ひむろ)。 兵庫県立姫路中学校卒業後、1922年に早稲田大学へ入学。早大野球部では飛田忠順監督の「精神野球」に鍛練され、外野手として活躍。1925年秋季には東京六大学リーグ最初の首位打者を獲得した(当時は「氷室武夫」)。1926年には主将を務めた。大学時代の通算成績は65試合出場、240打数63安打、打率.263、2本塁打(六大学リーグ以前も含む)。卒業後、満洲国へ渡り南満洲鉄道に入社し満洲倶楽部(大連市)の選手として活動。
田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19… 田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19日 - 1934年〈昭和9年〉8月19日、女性)は、昭和初期の日本の社会運動家、治安維持法の下で非合法政党であった時期の日本共産党の党員。 群馬県群馬郡滝川村(後の高崎市の一部)に生まれる。生家は、半農半商の穀屋であったが、1920年の戦後恐慌の際に破産した。 上級学校へは進学しなかったが、養蚕や農業に従事しながら、下田歌子の実践女学校における講義録を読み、独学青年の集まる「詩と歌の会」に参加するなどしていた 1925年1月、姉である田口マチ(後の梶並マチ)とともに、前橋市で開かれた講演会で、東京合同労働組合の活動家であった丹野セツの講演に触れる。
柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18… 柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18日 - 1973年(昭和48年)6月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 青森県で生まれる。1936年、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 日本社会党に所属して、1958年5月、第28回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 全国選挙管理委員会委員、中央選挙管理会委員、東京家庭裁判所調停委員、アジア民族親善協会常任理事、日本ベトナム友好協会常任理事、日本中国国交回復国民会議理事、自由人権協会監事などを務めた。 1973年6月4日死去、69歳。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、正五位に叙される。
池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 … 池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 - 1973年8月3日)は、日本の物理学者。 静岡県出身。1930年東京帝国大学物理学科卒業、1935年同大学院修了。1939年旧制立教中学教諭、1943年旧制松本高等学校教授、1949年信州大学理学部教授、1952年理学部長、1967年教養部長、1968年学長を歴任した。 俳人としては「魚魯」と号した。
清水 喜三郎(しみず きさぶろう、1903年10月18日 -… 清水 喜三郎(しみず きさぶろう、1903年10月18日 - 2000年4月12日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。岡山県出身。 1932年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に新興人絹(のちの三菱レイヨン)に入社。1953年11月に常務に就任し、1959年11月に専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1967年5月には社長に昇格。1973年11月に会長、1978年6月に相談役を経て、1987年6月から顧問を務めた。 1973年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2000年4月12日心不全のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
立野 信之(たての のぶゆき、1903年10月17日 -19… 立野 信之(たての のぶゆき、1903年10月17日 -1971年10月25日)は日本の小説家。 千葉県市原郡五井町(現・市原市五井地区)生まれ。旧制関東中学校中退。 4歳で母と生別し、12歳で父を失い、祖父母に養育される。中学時代に短歌を始め、窪田空穂らの「國民文学」に投稿。1921年に山田清三郎・松本昌夫・奧貫信盈・元吉利義らとともに短歌同人雜誌「曠野」を発刊。1922年に親戚の伊藤恣・山田清三郎らとともにプロレタリア文学雑誌『新興文学』を発刊し、同誌に評論「階級の文学」を發表。20歳で市原郡五井町役場に就職するも、2年後に佐倉步兵連隊に入営。除隊後の1925年頃より雑誌『文芸戦線』にエッセイや評論、詩を寄稿。
水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10… 水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10月15日 - 1989年〈平成元年〉6月16日)は、日本の実業家。 山梨県北巨摩郡清哲村字青木(現・韮崎市)に農業水上勘三郎・千鶴夫妻の五男として生まれる。水上家は江戸時代、庄屋を務めた家系という。国文学者の清水泰は実兄。 旧制甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、1928年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学の同期には三井物産副社長や東レ副社長等を務めた町田栄次郎、三菱地所社長を務めた伊藤達二、松下電器理事を務めた乗松健二、第一電工社長等を務めた松原美義がいる。 1928年三井物産入社。高崎派出所駐在員を命ぜられ、以後6年間を同地で過ごす。
木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月1… 木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月14日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者、合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した。 兵庫県城崎郡豊岡町(現: 豊岡市)に三人兄弟の次男として生まれる。父・松吉は特産「柳行李」製造卸業。1920年(大正9年)3月上京。ヴァイオリンを川上淳、声楽を澤崎定之に師事。1922年(大正11年)4月東京音楽学校予科入学。1926年(大正15年)同校本科声楽部を卒業し研究科進級。ペツォード、ネトケ=レーヴェに師事。 ベートーヴェン『第九』は、学生時代に東京音楽学校定期演奏会での公式初演で合唱団メンバーとして参加し、1927年(昭和2年)5月新交響楽団(現「NHK交響楽団」の前身)による初演奏「ベートーヴェン没後百周年演奏会」でソリストとしてデビュー。
姜 昇求(カン・スング、朝鮮語: 강승구、1903年10月1… 姜 昇求(カン・スング、朝鮮語: 강승구、1903年10月14日 - 1986年1月8日)は、大韓民国の政治家。第3・5・6代韓国国会議員。 ソウル市鍾路区または京畿道出身。京城第二高等普通学校(現・景福高等学校(朝鮮語版))、普成高等普通学校(現・普成高等学校(朝鮮語版))卒。東京帝国大学(現・東京大学)中退、東京物理学校(現・東京理科大学)修了。三光精米株式会社支配人、大韓青年団(朝鮮語版)楊州郡団長、自由党楊州郡党委員長を経て、1961年に新民党訓練部長を務めた。その後は民衆党京畿第4地区党委員長・院内対策委員を歴任した。 1954年の第3代総選挙当選時は自由党所属だったが、のちに離党したことが広く知られている。
高木 恭造(たかぎ きょうぞう、1903年(明治36年)10… 高木 恭造(たかぎ きょうぞう、1903年(明治36年)10月12日 - 1987年(昭和62年)10月23日)は、日本の方言詩人(津軽弁)、医師。推理作家の高木彬光は恭造の甥にあたる。 1903年、青森県青森市に三代続いた開業医の末っ子として生まれた。橋本尋常小学校、青森県立青森中学校を卒業後、一本木村袰月へ代用教員として赴任する。袰月での生活は4ヶ月間ではあったが、後の『まるめろ』のモチーフとなる。高木の没後、当時の教え子たちによって袰月集落を見下ろす高野崎に文学碑が建立されているほか、袰月集落内の国道280号沿いにも文学碑が建立されている。 1926年に弘前高等学校を卒業した後、青森日報社へ入る。
増田 渉(ますだ わたる、1903年10月12日 - 197… 増田 渉(ますだ わたる、1903年10月12日 - 1977年3月10日)は、日本の中国文学者。 1903年、島根県八束郡恵曇村(現:松江市鹿島町)で生まれた。旧制松江高等学校(現:島根大学)を経て、1926年、東京帝国大学文学部を卒業。 1931年、上海で晩年の魯迅に会い師事。魯迅の家に10ヶ月間通い、『史略』などの講義を直接受けた。帰国後も魯迅との書簡の往復は続いた。1935年、『支那小説史略』の日本語完訳版を出版。佐藤春夫と『魯迅選集』を翻訳・刊行し、本格的に作品紹介を行った。 1949年、島根大学文理学部教授。1953年、大阪市立大学教授。1967年関西大学教授。1974年、関西大学を定年退職。
新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12… 新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12日 - 1963年3月23日)は昭和初期から中期に活躍した芸者歌手。鹿児島県の種子島熊毛郡北種子村(現在の西之表市)出身。本名は中山嘉子。旧姓は今村、旧名はタネ。(読み方は同じで「タ子」と書かれた書物もある)。作曲家中山晋平の後妻。享年59。 1903年(明治36年)10月12日、鹿児島県種子島熊毛郡北種子村(現・西之表市)で父今村正義、母チカの元に9人兄妹の長女(第1子)として誕生。出生地の種子島に因んで「タネ」と名付けられた。間もなく両親と鹿児島市に移り住む。 正義は本来畳職人であったが、水商売を好み旅館や料亭など幾多の商売を手がけるもいずれもうまく行かず、鹿児島市内を転々として過ごした。
久保 常明(くぼ つねあき、1903年10月11日 - 没年… 久保 常明(くぼ つねあき、1903年10月11日 - 没年不明)は、日本の経営者。香川県出身。 1929年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に近畿日本ツーリストに入社。1955年9月に近畿日本ツーリスト専務に就任し、1958年10月に社長に就任。1976年1月に取締役に退いた。 1976年4月に勲四等瑞宝章を受章。
広幡 増弥(ひろはた ますや、1903年(明治36年)10月… 広幡 増弥(ひろはた ますや、1903年(明治36年)10月11日 - 1988年(昭和63年)11月11日)は、日本の実業家。海軍技術少将。広幡家の第11代当主。東京都出身。父は伊藤安吉。養父は広幡忠隆。 東京都出身。海軍軍人・伊藤安吉とその妻で宮中顧問官・吉田要作の二女である貴代の次男として生まれる。東京帝国大学造船科を卒業後、海軍に入り海軍技術少将となる。 私生活では広幡忠隆の長女である信子と結婚し、広幡家の養子に入り11代当主となる。信子との間には3男を授かったが、1955年(昭和30年)に信子に先立たれ、後に工藤静と再婚した。 1988年(昭和63年)、死去。 忠幸 - 豊忠 - 長忠 - 前豊 - 前秀 - 経豊 - 基豊 - 忠礼 - 忠朝 - 忠隆 - 増弥 - 忠恒 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
石山 健二郎(いしやま けんじろう、本名;石山 繁一、190… 石山 健二郎(いしやま けんじろう、本名;石山 繁一、1903年10月10日 - 1976年5月10日)は、日本の俳優。広島県広島市生まれ。息子は石山輝夫。旧制私立修道中学校卒業。
巌谷 英一(いわや えいいち 1903年10月10日 - 1… 巌谷 英一(いわや えいいち 1903年10月10日 - 1959年7月8日)は、日本の海軍軍人。 1939年5月、日本郵船照国丸にて欧州へ向かう。ドイツ・ベルリンの駐独日本海軍武官室に勤務、航空機製造技術担当。滞独中、海軍技術中佐に進級。1944年、遣独潜水艦作戦によりドイツからジェットエンジン等の技術を日本に持ち帰った。 東京府出身。1929年(昭和4年) 東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造兵中尉任官、海軍航空本部の戦闘機担当官となる。局地戦闘機「雷電」の開発に関しては、海軍航空本部技術部に三菱重工業の堀越二郎を招き要請した。 遣独潜水艦作戦(第四次遣独艦。1943年12月にシンガポール出航)によりドイツから、ジェットエンジン・ロケットエンジン等の最新の軍事技術情報を日本に齎す。
本領 信治郎(ほんりょう しんじろう、1903年(明治36年… 本領 信治郎(ほんりょう しんじろう、1903年(明治36年)10月8日 - 1971年(昭和46年)7月24日)は、京都府出身の東京府東京市選出の政治家、教育者。衆議院議員、早稲田大学(以下、早大)教授、早大ラグビー部監督 & 選手。 京都市下京区寺町通五条上るの裂地袋物製造卸の本領順三郎の次男として生まれる。弟は正三郎(家業を継ぐ)、千吉郎(早稲田の工業出身)。叔父の善次郎は神戸市古湊通の貴金属時計商。京都市立第一商業学校(現、京都市立西京高等学校)を経て早大に進学。同校のラグビー部で活動し、ポジションはスクラムハーフ(SH)。1927年(昭和2年)のオーストラリア遠征では主将を務めた。卒業後の1928年(昭和3年)に早大監督に就任し、2シーズン同職を歴任。
實川 清之(じつかわ きよし、1903年10月6日 - 19… 實川 清之(じつかわ きよし、1903年10月6日 - 1980年9月11日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(4期)。 1903年、千葉県山武郡千代田村(現:芝山町)で農家の子として生まれる。父伊三郎は、村の信用組合理事のほか、村会議員や村役場助役などの公職を勤めたが、實川がまだ幼い頃に肺結核により他界した。本業の農業を人任せにしていた、大酒飲みの伊三郎は、實川家の資産を半減させてしまっていた。 千代田尋常高等小学校ののち旧制成田中学校で学ぶが、3年生のときに生徒によるストライキに関わり、退学。その後上京して日本大学中学校に転入し、ここでも身体検査に反対して停学処分を受けている。 1922年に中学を卒業して日本大学法文学部社会学科に入るが、社会主義運動に参加して千葉県での農民組合結成や日本学生社会科学連合会の活動家として軍事教練反対などの活動を行い、1926年に治安維持法違反で逮捕・収監され、授業料を納められず大学中退となる。
北畠 八穂(きたばたけ やお 1903年(明治36年)10月… 北畠 八穂(きたばたけ やお 1903年(明治36年)10月5日 - 1982年(昭和57年)3月18日)は日本の作家、児童文学者、詩人。本名、北畠美代。 10人きょうだいの6番目の次女として青森市に生まれる。父は青森大林区署の役人。 1920年、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)在学中、『主婦の友』『婦人倶楽部』に投稿して入選を果たす。1922年、高等女学校卒業後に上京し、実践女学校高等女学部国文専攻科に入学したが、脊椎カリエスを病んだため1年半で中退し、青森に帰郷。 恢復後、1924年から青森県内の複数の尋常小学校に代用教員として勤務。しかし脊椎カリエスが再発したため、1926年に退職。
藤井 松太郎(ふじい まつたろう、1903年(明治36年)1… 藤井 松太郎(ふじい まつたろう、1903年(明治36年)10月5日 - 1988年(昭和63年)2月4日)は、日本の鉄道技術者。第7代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1973年 - 1976年)。太っ腹の親分肌といわれ、トンネルや橋梁の技術に精通していたことから“トンネル松”と呼ばれていた。 北海道雨竜郡一已(いちゃん)村(現在の深川市)の農家藤井豊吉・チエの長男として生まれる。農家の次男であった父豊吉と母チエは1900年5月に香川県大川郡福栄村から、当時開拓が始まったばかりの一已村に親戚を頼って娘2人を連れて移住している。移住してしばらくは極貧の生活であったが、1914年から始まった第一次世界大戦による豆需要により生活が安定。
矢口 孝次郎(やぐち たかじろう、1903年10月4日 - … 矢口 孝次郎(やぐち たかじろう、1903年10月4日 - 1978年11月12日)は、日本の経済学者。関西大学教授、第22代関西大学学長、第4期・6期・7期・8期日本学術会議会員、文部省の学術奨励審議会専門委員等を歴任。 長野県松本市出身。旧制松本商業学校を経て、1927年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。1928年関西大学専任講師、助教授を経て1934年関西大学教授となった。1959年に関西大学第22代学長、1974年より大阪商業大学教授。神戸商業大学の宮下孝吉、大阪商科大学の五島茂とともに関西におけるイギリス経済史研究をリードした。学外においては、1937年社会経済史学会の評議員に選ばれ、 理事、 常務理事を歴任。 戦後、1950年には日本西洋史学会評議員を務めるなど学会の発展に尽くした。
池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990… 池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990年3月14日)は、日本のイギリス文学者、評論家、随筆家である。
呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903… 呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903年10月4日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の教員、大韓民国の政治家。甕津郡郡守、加平郡郡守、長湍郡郡守、第3代韓国国会議員を歴任した。 平安北道宣川郡出身。定州五山中学校、南京東明学院、日本大学法科卒。中学校教員を10数年間務め、新義州電気会社でも勤務した。宣川警察署保安係長を務めた時に越南し、加平郡で勤務した後、甕津郡守、加平郡守、長湍郡守を務めた。1954年の第3代総選挙では洪翼杓を抑えて当選し、自由党所属の国会議員を1期務めた。
庵原 貢(いはら みつぐ、1903年(明治36年)10月3日… 庵原 貢(いはら みつぐ、1903年(明治36年)10月3日 - 1979年(昭和54年)3月31日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵52期・海大35期。第3代海上幕僚長。 兵庫県出身。豊岡中学校(現・兵庫県立豊岡高等学校)を経て海軍兵学校に入校。太平洋戦争中は第三艦隊参謀としてスラバヤ沖海戦などに従軍。1945年(昭和20年)4月、鈴木貫太郎首相秘書官に出向し「日本のいちばん長い日」を体験した。戦後は保安庁警備隊を経て海上自衛隊に入隊。第3代自衛艦隊司令を務めたのち、第3代海上幕僚長に就任。
村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3… 村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3日 - 1937年8月19日)は、日本の陸軍軍人で皇道派、国家社会主義者。
佐藤 昌(さとう あきら、1903年10月2日 - 2003… 佐藤 昌(さとう あきら、1903年10月2日 - 2003年7月19日)は、日本の造園家。都市計画家。官庁造園技師として日本国内や戦前の満州で多くの公園緑地計画と都市の計画設計に携わる。ほか都市計画研究所主宰、音楽評論の分野でも活躍。
長谷川 才次(はせがわ さいじ、1903年(明治36年)10… 長谷川 才次(はせがわ さいじ、1903年(明治36年)10月1日 - 1978年(昭和53年)3月10日)は、時事通信社の初代代表取締役。時事画報社、内外ニュースの創業者。善本社会長。勲一等瑞宝章受章。 同盟通信社在職中から記者として活動し、戦後は保守系言論人としても活動した。1945年の時事通信社創業以来、四半世紀余りにわたって同社を率いたが、労使対立を招いた責任を取って1971年に辞任した。 青森県青森市の質屋業を営む家に、男3人、女4人のきょうだいの3男として生まれた。父は三井銀行(のち第五十九銀行に転職)に務める銀行員であったが、男子のいない長谷川家に婿養子として入り、質屋業を継いだ。
大谷 光暢(おおたに こうちょう、1903年10月1日 - … 大谷 光暢(おおたに こうちょう、1903年10月1日 - 1993年4月13日)は、明治時代から昭和時代にかけての浄土真宗の僧。法名は「闡如」(せんにょ)。東本願寺第二十四代法主。(のちに門首)真宗大谷派管長。伯爵。 1903年(明治36年)10月1日 、東本願寺第二十三代 彰如の長男として誕生。 1924年(大正13年)5月3日、大谷大学在学中に久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹にあたる智子女王と婚姻。 1925年(大正14年)9月、財政問題の責を負って退任した、父・彰如の後を受けて第二十四代法主に就任。 1947年(昭和22年)、妻・智子裏方とともに合唱団「大谷楽苑」を結成する。仏教音楽を用いた教化を推進するなど活躍する。
岡田 真吉(おかだ しんきち、1903年10月1日 - 19… 岡田 真吉(おかだ しんきち、1903年10月1日 - 1964年11月17日)は、日本の映画評論家、翻訳家。 東京・日本橋出身。1934年、東京帝国大学仏文科卒業。 高校時代から『キネマ旬報』に投稿。映画評論家、翻訳家として活躍し、フランス映画をはじめとする外国映画および理論を紹介。 また、『女の一生』などフランス文学の翻訳を多く行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10… 錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10月1日 - 1969年(昭和44年)6月17日)は日本の金属工学者。 島根県出雲市出身。1928年(昭和3年)、東北帝国大学工学部金属工学科を卒業する。1934年(昭和9年)に東北帝大工学部助教授に就任。 1935年(昭和10年)に大同製鋼に入社する。その間に、特殊水処理薬剤による鉄鋼防食、均質鋳造法(HOC法)、取鍋レンガの侵蝕、熔鋼に及ぼす耐火物の影響、高アルミナ質電気炉炉蓋煉瓦、低ニッケル高マンガンステンレス鋼、熱処理用連続炉、バルブ鋼、不消化石灰の実用試験などについての研究に従事する。 大同製鋼取締役、研究所長などを経て、1962年には大同工業短期大学、1964年(昭和39年)には大同工業大学(現・大同大学)の初代学長に就任した。