織田 信福(おだ のぶよし/しんぷく、1860年3月1日(安… 織田 信福(おだ のぶよし/しんぷく、1860年3月1日(安政7年2月9日) - 1926年(大正15年)1月13日)は日本の民権運動家。高知県最初の歯科医でもある。 万延元/安政7年(1860年)2月9日、土佐国幡多郡宿毛(現・高知県宿毛市)にて誕生した。父は土佐藩士族の織田大八、母は安。初名は羽田馬三郎。慶応4/明治元年(1868年)には宿毛の伊賀家の家臣として仕えていた。1873年(明治6年)12月28日には、羽田信福が幡多郡宿毛村第208番小学下等小学第七級を卒業していたことが判明している。 1880年(明治13年)に高知に転居し、医師・山崎立生の「鼎立義塾」門下生となったが、翌年12月に立生は死没した。
岩切 門二(いわきり もんじ、万延元年(1860年)3月 -… 岩切 門二(いわきり もんじ、万延元年(1860年)3月 - 明治29年(1896年)11月24日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。川越進らと宮崎県再置運動で活躍した。 日向国宮崎郡柏原村(宮崎県宮崎郡生目村を経て現宮崎市大字柏原)出身。慶應義塾で法制を学ぶ。 1873年(明治6年)1月に誕生した宮崎県は、1876年(明治9年)8月に鹿児島県に合併されてしまう。この鹿児島県から分離しようという分県運動に門二は参加し、1883年(明治16年)5月の宮崎県再置に貢献した。 運動中には弾劾演説で、鹿児島県令渡辺千秋を罵倒して検挙されたこともあるという。分県の議決をした同年2月の鹿児島県通常県会では、議長である川越進のもと書記長となった。
青盛 喜一郎(あおもり きいちろう、1860年2月29日〈万… 青盛 喜一郎(あおもり きいちろう、1860年2月29日〈万延元年2月8日〉 - 没年不明)は、日本の商人(石油和洋紙卸商)、銀行役員、広島県多額納税者、地主・家主、政治家。呉市会議員。族籍は広島県平民。 広島県人・青盛万次の二男。1884年、家督を相続する。石油和洋紙卸商を営み、広島県多額納税者に列する。呉銀行、呉倉庫各専務取締役をつとめる。1939年、退隠する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。呉市に於ける名望家である。 住所は呉市本通、同市岩方通4丁目(現・中央)、同市和庄町。 青盛家は古くより呉市にて商業を営む。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
岩崎 総十郎(いわさき そうじゅうろう、安政7年2月5日(1… 岩崎 総十郎(いわさき そうじゅうろう、安政7年2月5日(1860年2月26日) - 大正9年(1920年)5月2日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 仙台市出身。岡鹿門が開いた私塾「麟経堂」で学んだ後、専修学校(現在の専修大学)で法学・経済学を学んだ。1881年(明治14年)に専修学校を卒業すると、明治法律学校(現在の明治大学)に進み、翌年に卒業した。その後判事補に任ぜられ、大阪地方裁判所に勤務したが、やがて官を辞し、弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他に塩水港精糖拓殖株式会社、七十七銀行、仙台瓦斯株式会社、大崎水電株式会社の監査役を務めた。
井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7… 井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7年2月5日) - 1927年(昭和2年)12月15日)は、日本の農学者、政治家。衆議院議員(大阪府郡部選出、当選2回)。族籍は山口県士族。 長門国阿武郡萩町(現萩市)出身。山口県士族・井原勘兵衛の二男で、先代井原壽の養子となり家督を相続する。 1880年(明治13年)、駒場農学校農学科を卒業し、1883年(明治16年)には同校農芸化学科を卒業した。農商務省御用掛、山口中学校教諭、山口農学校校長、山口高等中学校教諭、宮城農学校校長、宮城県技師を歴任した。1898年(明治31年)より大阪府技師、大阪府立農学校校長を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、幼名・篤太郎、万延元年2月4… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、幼名・篤太郎、万延元年2月4日〈1860年2月25日〉 - 1926年〈大正15年〉3月25日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員(7期)、群馬県会議員、群馬郡会議員、伊香保町会議員。伊香保電気軌道社長。高崎水力電気、伊香保鉱泉場組合、渋川紡績各取締役。族籍は群馬県平民。24代目武太夫。隠居後秀家を名乗る。 政治家として自由民権運動に関心をもち、廃娼運動に率先して取り組み、実業家としても群馬、伊香保の発展に尽力した。伊香保温泉の衛生環境と施設の改善を改良取締所(後の伊香保鉱泉場取締所、現・渋川伊香保温泉観光協会)頭取として推進し、伊香保を東京の代表的避暑地として定着させた。
小田 亮(おだ りょう、安政7年1月27日(1860年2月1… 小田 亮(おだ りょう、安政7年1月27日(1860年2月18日) - 1932年(昭和7年)9月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。旧姓・津田、号は怡山。 安芸国高田郡本村(広島県高田郡本村、美土里町を経て現安芸高田市)出身。津田家に生まれ、小田家の養子となった。1883年(明治16年)、広島県医学校(のち、広島医学専門学校→広島医科大学、現在の広島大学医学部)を卒業し、翌年に内務省医師試験に合格して開業した。小田家は有間屋という売薬業を営んでおり、その経営にもあたった。山県郡医会会長、同私立衛生会会長、同市立教育会長を歴任。1893年(明治26年)、広島県会議員に選ばれた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日… 家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日 - 1927年(昭和2年)5月12日)は、長崎県長崎市稲佐にあったロシア人向けのホテル・ヴェスナーなどを経営した女性実業家。洋妾・からゆきさん。長崎では稲佐お栄の通称と共に日露親善に尽力した女性として知られ、楠本イネ・大浦慶と共に長崎三女傑に数えられる。以下、本記事ではお栄と表記し、特記のない年齢は数え年とする。 お栄は当時ロシア人の居留地になっていた長崎市稲佐のロシア将校クラブで洋妾として働いたのち、ロシア艦隊旗艦の艦長に気に入られて22歳で渡露。ウラジオストクに滞在したのち、31歳で帰国した。 翌年の1891年にお忍びで長崎に上陸したロシア皇太子ニコライらをもてなし、一説には寝室を共にしたとされる。
有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860… 有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860年2月17日) - 昭和8年(1933年)11月18日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→庚申倶楽部)。実業家。ジャーナリスト。教育者。 岡山藩士有森吉清の長男として岡山に生まれる。岡山藩藩学、温知学校、岡山変則中学校などで学んだ後、1879年(明治12年)に商法講習所(現在の一橋大学)に入学した。1881年(明治14年)、専修学校(現在の専修大学)経済科に転じた。専修学校卒業後の1882年(明治15年)に東京大学に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。その後、ドイツに留学し、イェーナ大学、ベルリン大学、テュービンゲン大学、シュトラスブルク大学で学んで、1891年(明治24年)に法学博士号を得た。
山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政… 山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政7年1月25日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月1日)は、日本のメソジストの牧師、教育者、文筆家。 万延元年(1860年)に弘前藩の江戸藩邸に生まれる。津軽に帰郷し藩学を経て、東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1877年(明治10年)、イングより洗礼を受ける。 弘前教会資産係を経て、勧士になる。1879年、横浜山手の美會神学校開校と同時に入学する。1887年に東京英和学校を卒業すると、母校の教師になる。 1887年、長老の按手礼を受け、名古屋中央教会に赴任し、岐阜・高山の開拓伝道を行う。名古屋清流女学校の創設にも関わる。
田代 正(たしろ ただし、1860年2月16日(安政7年1月… 田代 正(たしろ ただし、1860年2月16日(安政7年1月25日) - 1918年(大正7年)1月30日)は、日本の明治期から大正期における外科医。長崎医学専門学校長、長崎県医師会長も勤め同県の医術発展と医療普及に尽くした。越前国出身。 1860年2月16日(安政7年1月25日)、越前坂井郡棗村(現福井県福井市)に福井藩士の子として生まれる(名前はただし、又はただすと資料により異なる)。1871年(明治4年)福井藩中学校に入学し、1874年(明治7年)第一大区医学校に入学した。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・西郷吉義・佐藤三吉等がいた。 大学卒業後長崎県立長崎医学校(現長崎大学医学部)教諭を命じられ、以降同県検疫官・長崎病院医師等を兼ね、1889年(明治22年)長崎医学校が第五高等中学校医学部となると同校教諭となり長崎病院次長兼外科部長に就任した。
山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延… 山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延元年1月25日)- 1933年(昭和8年)10月1日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府加佐郡新舞鶴町長。幼名・浅吉。 丹波国天田郡細見辻村(京都府天田郡細見村細見辻、三和村、三和町を経て現福知山市)で、農業、酒造業・山口覚兵衛、てい の長男として生まれる。1876年(明治9年)京都に出て、林正躬、横井忠直から漢学を、吉田健吾から数学を学び、京都府中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)にも通った。1879年(明治12年)大阪で牧田修蔵から法律学を学んだ。 1881年(明治14年)に帰郷し、同年11月、細見辻村戸長に就任。
本郷 房太郎(ほんごう ふさたろう、万延元年1月24日(18… 本郷 房太郎(ほんごう ふさたろう、万延元年1月24日(1860年2月15日) - 昭和6年(1931年)3月20日)は、日本の陸軍軍人。軍事参議官・青島守備軍司令官や第1・第17師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功三級。軍を退いてからは久邇宮宮務監督や大日本武徳会長を務める。
是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万… 是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万延元年1月24日)- 1920年(大正9年)12月29日)は、明治から大正前期の警察官、農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県西国東郡高田町長。名・直房、通称・歳太郎。 豊後国国東郡、のちの大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)で、副里正の家に生まれる。漢学を修めた。 1877年(明治10年)西南戦争後に警察官となり、大分警察署(現大分中央警察署)勤務、鶴崎葉派出所詰を務めて退職。故郷の高田で書籍・文具商を経営。当時の高田警察署(現豊後高田警察署)長・赤鉾文太郎の勧誘で同署書記を務めた。 1889年(明治22年)町村制施行により高田町が発足し、同年6月、初代町長となり1899年(明治32年)8月まで在任。
湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2… 湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2月14日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月13日)は、明治時代の社会事業家。徳富蘇峰・蘆花の姉で、衆議院議員・湯浅治郎の後妻となった。同志社総長や国際基督教大学初代学長を務めた湯浅八郎は息子。 徳富一敬・久子の四女として、安政7年1月23日(1860年2月14日)肥後国水俣(現・熊本県水俣市)に生まれる。姉が3人いる上、夫妻は姪も養女としており、5人目には男子の誕生を望んでいたが女子であったため、失意の一敬はどういうわけか初と名づけた。その後に生まれた男子が猪一郎(蘇峰)と健次郎(蘆花)である。 12歳の時、熊本に住む叔母・横井つせ子(横井小楠の未亡人)のもとへ預けられることとなり、いとこの時雄・みやと一緒に暮らし始めた。
高岡 直吉(たかおか ただよし、安政7年1月22日(1860… 高岡 直吉(たかおか ただよし、安政7年1月22日(1860年2月13日) - 昭和17年(1942年)9月1日)は、日本の内務省官僚・政治家。鹿児島県知事、島根県知事、宮崎県知事、初代札幌市長、錦鶏間祗候。勲二等瑞宝章。津和野藩出身。 北海道帝国大学総長である高岡熊雄は実弟にあたる。甥に高岡周夫がいる。 1860年、津和野藩士・高岡道敬、英の嫡男として石見国鹿足郡後田村(現・島根県鹿足郡津和野町後田)に生まれる。藩校養老館で学び、後に浜田県立英学所で学んだのち、官立東京英語学校から札幌農学校に進んだ。同校を卒業後の1882年(明治15年)山口県御用掛となり、1885年(明治18年)山口県立農学校の初代校長に就任する。
岡見 彦蔵(おかみ ひこぞう、万延元年(1860年)2月10… 岡見 彦蔵(おかみ ひこぞう、万延元年(1860年)2月10日 - 昭和7年(1932年)3月25日)は、日本の農学者。目黒の自然園開設者。 岡見彦蔵は九州中津藩士・岡見清通の三男として、1860年(万延元年)2月10日に東京築地に生まれ、幼名は秀作であった。 叔父の岡見彦三/清熙(慶應義塾の起源である一小家塾創設者)が1862年に亡くなり、実子が無かったので秀作が3歳で養子に入り、以降彦蔵を名乗るようになった。築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。1876年(明治9年)、農学者津田仙が創立した農学社農学校で学び、翌1877年(明治10年)には横浜のバラ学校に入って英語を学んだ。この学校は宣教師ヘボンが起こしたヘボン塾をジョン・クレイグ・バラが継承したものだった。
小野 芳彦(おの よしひこ、1860年〈万延元年〉2月7日 … 小野 芳彦(おの よしひこ、1860年〈万延元年〉2月7日 - 1932年〈昭和7年〉3月2日)は、和歌山県の教育者・郷土史家。 旧制和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)で長きにわたって教壇に立ち、当地での尊敬の念を集めた。郷土史家としては、熊野新宮の本願庵主梅本家に秘伝であった編年体の記録を発掘し『熊野年代記』としてまとめたほか、没後に刊行された遺稿集『小野翁遺稿熊野史』(以下、『熊野史』)は、熊野の歴史と信仰の近代的研究の方向性を示したものとして評価されている。 小野は、万延元年(1860年)2月7日、和歌山県牟婁郡新宮町に生まれた。1875年(明治8年)5月、16歳で新宮小学校の教授手伝として勤務を始め、同年9月より当時の新宮にあった小学学科伝習所に入所し、小学科教授法を学んだ。
名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政… 名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政7年1月14日) - 1930年6月20日もしくは6月22日)は日本の植物研究家である。三河地方の植物調査を行った。 三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に福島藩(のち重原藩)の貝吹陣屋代官家に生まれた。はじめは医者を志して東京の慶應義塾や京都で学ぶが兄をなくし家を継ぐために西尾に戻った。愛知県水産試験場の嘱託となり、岡村金太郎の指導を受けて、「尾三沿海植物調査」などを発表した。牧野富太郎の指導も受け、愛知県の陸上植物の研究を行い、『愛知県植物志料』を発表した。 ミカワタヌキモなどを発見し、ミカワタヌキモは、牧野によってUtricularia nagurai Makino(Utricularia gibba L. = イトタヌキモのシノニム)と命名された。
石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延… 石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延元年1月8日) - 1935年(昭和10年)1月17日)は、日本の動物学者。進化論を日本に紹介したことで知られる。 1909年には、琵琶湖岸の滋賀県水産試験場の池でコアユの飼育に成功し [リンク切れ]、全国の河川に放流する道を開いた。 遡って、ドイツ留学から帰国した1889年(明治22年)秋、帝国博物館学芸委員を兼務し、1900年からは天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。1907年頃、石川はハーゲンベックから上野動物園にじらふ(きりん)を求め、日本で初めて見られるようにした。後に、列車での輸送許可を得てなかったとされ、解雇された。
横地 石太郎(よこち / よこじ いしたろう、1860年1月… 横地 石太郎(よこち / よこじ いしたろう、1860年1月28日(万延元年1月6日) - 1944年(昭和19年)5月27日)は、日本の教育者、考古学研究家。山口高等商業学校名誉教授。族籍は石川県士族。 夏目漱石の小説『坊つちやん』に登場する「赤シャツ」のモデルとされることがあるが、異論もある(後述)。 加賀国石川郡金沢(現・石川県金沢市)の与力町にて加賀藩士横地大十郎の長男として生まれる。金沢小学校を経て1874年(明治7年)より金沢英学校、1875年(明治8年)9月より東京の旧藩主前田邸学問所にて学ぶ。1876年(明治9年)9月に東京英語学校に入学し、大学予備門を経て、1881年(明治14年)に東京大学理学部入学。
加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1… 加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣(第16・19・26・28代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。
八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1… 八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1月25日)- 昭和5年(1930年)6月30日)は明治~大正期の日本海軍軍人。政治家。海軍大将。男爵。愛知県犬山市出身。兄は衆議院議員の松山義根。
河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日… 河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日(安政7年1月2日)- 1925年(大正14年)10月3日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県苫田郡芳野村長。有弘(ゆうこう)に改名した。 美作国西西条郡吉原村(岡山県西西条郡芳野村、苫田郡芳野村を経て現鏡野町吉原)で、河田竹治の長男として生まれる。 1879年(明治12年)吉原村戸長に就任。以後、西西条郡書記、円宗寺村外5カ村戸長を歴任。1886年(明治19年)岡山県会議員に選出され通算6期、1919年(大正8年)まで在任。この間、同常置委員、同議長(1896年-1898年)も務めた。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岡山県第6区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。
二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(186… 二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(1860年1月24日) - 大正15年(1926年)9月7日)は明治・大正期の日本の牧師、教育者。 備中松山藩士の片貝正倫・ヨシの子として生まれ、藩医二宮英庵の養子となる。 1876年(明治9年)4月に岡山師範学校を卒業し、小学校教員をしながら自由民権運動の演説会などで活動していたが、新島襄や金森通倫の岡山伝道に接したことがきっかけで1880年(明治13年)に岡山教会で新島から洗礼を受け、さらに同志社の速成邦語神学科で学んだ。 1882年(明治15年)には高梁教会の設立に尽力したあと、美作落合教会の2代目牧師に就任する。さらに愛媛県の今治教会に転じ、横井時雄牧師を助けて松山伝道にも加わり、1885年(明治18年)に松山第一基督教会(現・日本基督教団松山教会)を設立した。
渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日… 渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日(安政7年1月1日) - 1940年(昭和15年)3月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 越前福井藩領南条郡府中町(福井県南条郡武生町、武生市を経て現越前市)出身。渡辺等の三男、渡辺洪基の弟としてのちの福井県に生まれる。1874年(明治7年)陸軍幼年学校に入ったのち、1877年(明治10年)陸軍士官学校に入学し(旧3期)、1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官する。日清戦争では大総督府兵站総監部附として従軍した。 1901年(明治34年)5月、駐米公使館附を経て、同年11月、大佐に進み、陸軍砲工学校教官に転じるが、日露戦争の勃発を受け1904年(明治37年)2月、大本営幕僚部勤務を拝命する。
広瀬 満正(ひろせ みつまさ、1860年1月10日(安政6年… 広瀬 満正(ひろせ みつまさ、1860年1月10日(安政6年12月18日)- 1928年(昭和3年)12月5日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 広瀬宰平の長男として伊予国新居郡金子村久保田(現愛媛県新居浜市久保田町)に生まれる。東京外国語学校を卒業後、郷里に帰り中萩、金子両村で数千ヘクタールに及ぶ開墾を行う。ほか、川崎汽船や朝鮮殖産銀行などの重役も務めた。 1911年(明治44年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日(1860年… 釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日(1860年1月10日) - 大正8年(1919年)11月1日)は、明治・大正期の臨済宗の僧。若狭国(現・福井県)大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。出家前は一瀬常次郎。号は洪嶽、楞伽窟、不可往。 日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として、よく知られている。 1860年1月10日(旧暦 安政6年12月18日)、現在の福井県大飯郡高浜町の農家に生まれた。一瀬吾右衛門の二男で、幼名は常次郎。幼児から峻烈豪放で、人に下るということを好まなかった。 1870年、10歳(数え年で12歳)の時、一瀬家の親戚筋に当たり福井県出身である京都妙心寺天授院の越渓守謙が帰郷し、越渓の母の92歳の祝いを終えて京都に帰る際、兄の勧めにより、常次郎は僧侶になるべく越渓に預けられた。
下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860… 下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860年1月8日〉 - 明治44年〈1911年〉9月6日)は、日本の海軍技師(海軍高等文官、高等官二等〈少将相当〉)。従四位勲二等工学博士。下瀬火薬の発明による日露戦争への貢献で知られる。帝国学士院会員。帝国学士院賞受賞。広島県出身。 1859年(安政6年)12月16日、広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男として広島市鉄砲町(現中区鉄砲町)に生まれる。 1884年(明治17年)、広島英語学校(広島一中の前身、現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、帝国大学工科大学(現・東大工学部)応用化学科卒業。内閣印刷局に就職。鎬青(こうせい、光の青染料)及び版面洗浄液の改良、紙幣の真贋識別に有効な黒色インキ他を発明。
尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年1… 尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年12月26日)- 1927年(昭和2年)6月21日)は、明治期の検察官。錦鶏間祗候。 豊前国宇佐郡津房村(現在の大分県宇佐市)出身。中津の白石照山塾で学んだ。広島師範学校、二松學舍を経て、1883年(明治16年)に司法省法学校を卒業。東京地方裁判所判事補、大阪地方裁判所検事、東京地方裁判所検事、宮崎地方裁判所検事正、宇都宮地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正を歴任。1899年(明治32年)に台湾総督府法院覆審法院検察官長に転じた。1910年(明治43年)に退官し、1912年(大正元年)11月18日に錦鶏間祗候となった。 退官後は二松學舍理事を務めた。
三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860… 三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860年1月8日) - 昭和17年(1942年)11月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、土木技術者、陸軍軍人(工兵中尉)。 香川県丸亀市出身。1878年(明治11年)、大阪府師範学校を卒業し、小学校訓導となった。その後、陸軍士官学校(旧5期)に入学し、1884年(明治17年)に卒業。工兵中尉として熊本鎮台工兵大隊副官を務めた。免官後、藤田伝三郎・大倉喜八郎が共同出資する日本土木会社(のち大倉組)社員となり、東京湾砲台建設、紀淡海峡砲台建設、東京湾の浚渫と月島埋め立てなどを手掛けた。1897年(明治30年)、内務省官吏となり、岡山県技師に任じられた。
岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年1… 岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年12月10日) - 大正年間没)は、日本の実業家。政治家、衆議院議員(2期)。 岡田治右衛門の長男として、長門国美祢郡伊佐村(現美祢市)に生まれる。漢学を学ぶ。村会議員、同議長、山口県会議員、共栄汽船社長、大日本製薬(株)専務取締役、総武鉄道(株)顧問、真宗信徒生命保険会社社長、徴兵保険、武蔵電気鉄道各(株)社長となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選。1903年の第8回衆議院議員総選挙において無所属で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙ではトップで再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補したが落選した。
沢野 忠基(さわの ただもと、1860年1月(安政7年1月)… 沢野 忠基(さわの ただもと、1860年1月(安政7年1月) - 1884年(明治17年)3月20日)は、理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 外国語学校でフランス語を学んだ後、1880年(明治13年)東京大学理学部仏語物理学科を卒業。1881年(明治14年)、東京大学物理学科の同窓生たちとともに東京物理学講習所の創立者の一人となる。東京物理学校開校の翌1884年(明治17年)3月20日に死去。
江川 三郎八(えがわ さぶろうはち、1860年 – 1939… 江川 三郎八(えがわ さぶろうはち、1860年 – 1939年)は、日本の建築技師。岡山県庁在勤当時に国重要文化財の旧遷喬尋常小学校校舎(真庭市)や閑谷学校資料館(備前市)などを手がけた。“江川式建築”とされる木造大型施設は高く評価され、国重要文化財として保管されている建物が多い。 福島県会津若松の出身、会津藩士江川宗之進廣伴の三男。宮大工の修行をしたのちに、1887年(明治20年)福島県の建築技師となり、橋梁工事を担当。その後1887年に山口半六、1898年に妻木頼黄の指導を受ける。1901(明治34)年には久留正道から学校建築の指導を受けた。福島県で15年勤務したのちに1902年より岡山県に転任した。
松下 賢之進(まつした けんのしん、1860年(万延元年) … 松下 賢之進(まつした けんのしん、1860年(万延元年) - 1930年(昭和5年))は日本の政治家。青森県弘前市長。 陸奥国津軽郡弘前に工藤秀三郎の次男に生まれる。後に松下長右衛門家を再興するため松下姓となる。青森県巡査から警部に進み、青森警察署長、警察部保安、衛生、警察の各課長を歴任。1899年、静岡県に移り警察に勤務し、間もなく山梨県の警察に勤務する。その後、山梨県北巨摩郡長となり、後に帰郷し、中津軽、三戸、南津軽の各郡長を務める。1921年、北海道に渡り、網走町長となった。1926年、憲政会から推されて弘前市長に就任した。市長は1930年まで務めた。
高橋 芝山(たかはし しざん、万延元年(1860年) - 大… 高橋 芝山(たかはし しざん、万延元年(1860年) - 大正6年(1917年))は、明治時代の洋画家。本名は高橋勝蔵(たかはし かつぞう)。芝山と号した。 陸奥国亘理郡(現・宮城県亘理郡亘理町)出身。明治4年(1871年)、亘理伊達氏の開拓団と共に北海道に移住。明治8年(1875年)から明治10年(1877年)にかけて、電信技術修業のため上京。日本画家を志したが、その後、明治18年(1885年)に渡米し、アメリカのサンフランシスコ美術学校で西洋画を学び、明治24年(1891年)に首席で卒業。明治26年(1893年)にシカゴ万国博覧会で一等賞を獲得し、帰国。芝に芝山研究所を設立して徒に教えた。 明治30年(1897年)頃、小林清親に入門した。
保多 駒吉(やすだ こまきち、1860年(万延元年) - 1… 保多 駒吉(やすだ こまきち、1860年(万延元年) - 1886年(明治19年)10月5日)は自由民権運動家。常陸国下館(現・筑西市下館地区)出身。苗字は「保田」とも記される。 元下館藩士。1881年(明治14年)に隣県・栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)にある栃木県立栃木中学校に入学。当時の栃木町は田中正造など自由民権運動家の活動拠点として知られており、保多も栃木町にて開かれていた自由党の政談演説会に参加し薫陶を受ける。 その後、保多は栃木中学校を中退し政治家になるために上京。そこで大井憲太郎を通じて同郷の富松正安と知り合う。1884年(明治17年)、自由党員として活動していた保多は加波山事件に参加し逃亡。
南波 三五郎(なんば さんごろう、1860年〈万延元年2月〉… 南波 三五郎(なんば さんごろう、1860年〈万延元年2月〉 - 1941年〈昭和16年〉4月28日)は日本の政治家、公証人。衆議院議員(立憲自由党)。旧姓は田辺。 1860年(万延元年2月)、安芸国豊田郡船木村(現在の広島県三原市)に生まれる。大阪北区にあった太田北山の成章館に入り、儒学を研究し、塾頭となる。1886年(明治19年)に東京法学校(現・法政大学)を卒業し、家業の酒造業に従事、のち、公証人となり公証業務に従事する。また、経世詩社を創立し、経営する。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に広島6区から出馬し、当選する。 その後、第2回から第4回総選挙にも立候補したが、いずれも落選している。
上崎 辰次郎(こうざき たつじろう、1860年(万延元年) … 上崎 辰次郎(こうざき たつじろう、1860年(万延元年) - 1895年 (明治28年)3月14日)は、日本の海軍軍人。日清戦争においてその責任感から自決した上等兵曹(当時は准士官)である。 陸奥国北会津郡若松町(現在の福島県会津若松市)出身。上崎家は会津藩士で、禄百石。幕末の当主で父の上崎且馬は番頭組外様士を勤め、桑名藩部隊の軍目付として戊辰戦争で討死した。兄の辰太郎は台湾守備砲兵第三大隊長で死去した陸軍砲兵少佐、甥に野澤北地がいる。1873年(明治6年)、二等若水夫として海軍に採用され、台湾出兵、西南戦争に従軍し、上等兵曹へ進んだ。横須賀水雷隊攻撃部、対馬水雷隊攻撃部を経て、第三水雷艇隊附として日清戦争に参戦し、機雷群突破、防材破壊などに軍功があった。
植田 重太郎(うえだ じゅうたろう、1860年(万延元年10… 植田 重太郎(うえだ じゅうたろう、1860年(万延元年10月) - 1897年(明治30年)1月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 摂津国島下郡、のちの大阪府三島郡味舌村(味舌町、三島町を経て現摂津市)生まれ。農業を営んだ。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において大阪6区から自由党所属で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選した。衆議院議員は1期務め、1897年に死去した。
藤井 帰一郎(ふじい きいちろう、1860年(万延元年11月… 藤井 帰一郎(ふじい きいちろう、1860年(万延元年11月) - 1942年(昭和17年)9月18日)は、日本の教育者。現在の秋田県大仙市内小友出身。 内小友村宮林新田村出身で、小松清兵衛の次男。1878年(明治11年)、秋田師範学校の第一期生。郡内(現在の秋田県の市町村)の小学校訓導を歴任し、六郷町本道町の町医者・藤井玄瑞(げんずい)の養子となり、1883年(明治16年)12月、長女タケと結婚。1887年(明治20年)に六郷町上町(かみまち)に分家。 1884年(明治17年)、独立新校舎が建った六郷小学校へ着任し、1889年には校長となった。以来、1922年(大正11年)までの約43年間に県の視学官なども歴任しながら、3度に渡り、六郷小学校の校長を務めた。
大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年)… 大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年) - 1889年(明治22年)10月30日)は、実業家。岡山県高梁市出身。諱は義質、号は達堂。1888年、倉敷紡績を設立。 大橋澤三郎は万延元年(1860年)11月12日、川上郡吹屋村(現:高梁市成羽町吹屋)の中山実富の四男に生まれた。 井原興譲館(現:備中興譲館)、坂田警軒の門に入り、経史を修め、頭角をあらわした(倉敷文庫「倉敷人物百選」より)。 澤三郎は倉敷村(現:倉敷市)大橋重質(和泉大橋家)の長女・竹の婿養子となり分家した(通称:向大橋家)。 かって東京に遊学して英語を学び 、また経済に明るく、新知識を身につけていた澤三郎(当時26歳)は、小松原慶太郎(当時24歳)、木村利太郎(当時26歳)と相携えて、「知識交換会」を結成。
秋山 源兵衛(あきやま げんべえ、1860年(万延元年5月)… 秋山 源兵衛(あきやま げんべえ、1860年(万延元年5月) - 1917年(大正6年)12月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 安房国安房郡北条村(のち千葉県安房郡北条町→館山北条町、現・館山市)出身。和漢学を修め、酒屋を営み、村会議員、北条町会議員、学務委員、安房郡会議員、所得税調査委員などを歴任する。また、安房銀行監査役となり、日本赤十字社の終身社員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において千葉8区から進歩党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補して再選する。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年に死去した。
小田 清兵衛(おだ せいべえ、1860年(万延元年3月) -… 小田 清兵衛(おだ せいべえ、1860年(万延元年3月) - 1892年(明治25年)10月3日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 日向国臼杵郡、のちの宮崎県延岡市で、素封家・小田家の9代(正規)として生まれた。公共事業の推進に尽力し、将来を嘱望されていた。 1890年(明治23年)には宮崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任したが、在任中に死去した。
有本 国蔵(ありもと くにぞう、有本 國蔵とも。1860年 … 有本 国蔵(ありもと くにぞう、有本 國蔵とも。1860年 - 1944年1月10日)は、丹後国加佐郡舞鶴(現・京都府舞鶴市)出身の実業家・篤志家・政治家。1908年(明治41年)から1912年(大正元年)まで衆議院議員を1期務めた。1927年(昭和2年)に紺綬褒章を受章し、1929年(昭和4年)に緑綬褒章を受章。 生家は丹後国加佐郡舞鶴(現・京都府舞鶴市)にあった平野屋。1860年(万延元年)に四男として生まれた。父親は嘉助、母親は京子。12歳だった1871年(明治4年)には丹後田辺藩の元藩主である牧野弼成が経営する審致舎に丁稚奉公したが、審致舎が解散すると1877年(明治10年)に大阪に出て、長兄の賀三が経営する洋酒店兼洋服店に勤めた。
永井 頴雄(ながい ひずお、1860年(万延元年3月) - … 永井 頴雄(ながい ひずお、1860年(万延元年3月) - 1908年(明治41年)5月29日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 備後国甲奴郡本郷村(のち広島県双三郡甲奴村を経て甲奴町、現・三次市)生まれ。広島県会議員となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において広島9区から自由党公認で立候補したが落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙に再び立候補したが次点で落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で当選した。衆議院議員を1期務め、1898年の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年に死去した。
山蔭 静夫(やまかげ しずお、1860年(万延元年3月) -… 山蔭 静夫(やまかげ しずお、1860年(万延元年3月) - 1948年(昭和23年)2月22日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 備後国三谿郡矢井村(のち広島県双三郡吉舎村→吉舎町、現・三次市)の米田家に生まれる。のち、安芸国豊田郡竹仁村の山蔭家を継ぐ。農業を営み、竹仁村長、豊田郡農会長、広島県会議員となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において広島6区から立憲改進党公認で立候補したが落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙で立候補したが落選。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では進歩党から立候補して当選した。衆議院議員を3期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補したが落選した。
樋渡 ヨシ(ひわたり ヨシ、1860年(万延元年)- 193… 樋渡 ヨシ(ひわたり ヨシ、1860年(万延元年)- 1933年(昭和8年)5月12日)は、日本の人形作家である。 出羽国平鹿郡(後の同平鹿町、現在の横手市)に生まれる。後にかつて鍋島藩付の陶工であり天保期に秋田に移住した野田宇吉の長男、樋渡金太郎と結婚し夫と共に義父からもらった粘土を用いた土人形の制作に携わった。その後は夫は病死し、1874年(明治7年)頃に上吉田村中山に移住し土人形で生計を立てる。 その後は地方回りの歌舞伎を着想した事によって、『熊谷と敦盛』や『常磐御前』、『お軽』等約200の演目を土人形で再現した。後にこれらの人形は「中山人形」と呼ばれ名を馳せ、二代目の子や三代目の孫樋渡義一に継いだ。
後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安… 後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安政6年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の実業家、資産家。財団法人後藤安報恩会(公益財団法人後藤報恩会の前身)初代理事長。族籍は岐阜県平民。 美濃国今尾村(のち岐阜県海津郡今尾町、現・海津市)の百姓、安太郎の長男。1880年、家督を相続し、襲名する。郷里で油雑穀営業に従事する。不動産、米、株と青年時代から利殖に心を砕く。株式仲買業を営む。 会社の重役であり、後藤商事社長、名古屋米穀取引所理事長・同相談役、愛知電気鉄道、名古屋電力各取締役などをつとめる。名古屋商業会議所議員に推される。 趣味は書画。画幅も多く、珍品を蒐集する。
斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月2… 斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月28日(安政6年12月5日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、日本の植物学者である。 信濃松代藩士の斎田虎尾の長男として生まれる。10代前の斎田仁右衛門が真田信幸に仕えてからの家柄であった。儒学者竹内錫鳴や藩校の文武学校で漢籍や和算を学ぶ。その傍らで家計のために樵夫と共に田野の耕しに携わり、木版彫刻も習得した。明治維新後の1874年(明治7年)に上京し、訓蒙学舎で学んだ後に同人社に入る。その後は東京大学予備門の前身である官立東京英語学校に入学し、1881年(明治14年)に卒業した後に旧制東京大学(後の東京帝国大学)地質学科に入学した。