菊島 生宜(きくしま せいぎ、1857年11月18日(安政4… 菊島 生宜(きくしま せいぎ、1857年11月18日(安政4年10月2日)- 1923年(大正12年)1月15日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・朝次郎、号・東山。 甲斐国山梨郡下萩原村(山梨県山梨郡七里村、東山梨郡七里村、塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山下萩原)で、農業・菊島定右衛門、イセの長男として生まれる。下瀬久寿、藤田習斎から漢学を学んだ。 1877年(明治10年)東山梨郡於曽学校事務掛に就任。以後、東山梨郡役所傭、同郡書記を務め、1883年(明治16年)8月に退官。1884年(明治17年)山梨県会議員に当選し2期7年在任した。その他、山梨県学事会員、同蚕糸業取締所議員、東山梨郡蚕糸業組合委員長、所得税調査委員などを務めた。
中隈 敬蔵(なかくま けいぞう、安政4年9月29日(1857… 中隈 敬蔵(なかくま けいぞう、安政4年9月29日(1857年11月15日) – 大正13年(1924年)3月21日)は、日本の日本の官僚。会計検査院長。位階および勲等は従二位・勲一等。 安政4年9月29日、佐賀藩士中隈武雅と母乕子の二男として生まれた。1871年に藩の推薦で東京に出た。大学南校を経て、1880年、東京大学理財政治学科を卒業した。 会計検査院に出仕したが、まもなく大蔵省御用掛に転じ、さらに農商務省御用掛、東京山林学校(のち東京農林学校)教授を務めた。1886年、大蔵権少書記官となり、1889年には第一高等学校教授を兼任し、理財学を担当した。その他、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)講師・専修学校(現在の専修大学)講師を務めた。
丸山 名政(まるやま なまさ、1857年11月11日(安政4… 丸山 名政(まるやま なまさ、1857年11月11日(安政4年9月25日) - 1922年(大正11年)11月21日)は、日本の政治家(衆議院議員)、実業家。族籍は東京府士族。 信州須坂藩士・丸山本政の長男。1874年(明治7年)に上京。講法学舎を経て、明治法律学校(現・明治大学)に入学。内務省地理局勤務を経て、自由民権運動に入り、嚶鳴社員として立憲改進党結成に参画。東京横浜毎日新聞記者、下野新聞主筆などを務めた後、1885年(明治18年)に代言人となる。 国会開設後は、第2回、第8回衆議院議員総選挙に当選。その他、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員も務め、1899年(明治32年)に明治法律学校校友となる。
長沼 守敬(ながぬま もりよし、1857年11月9日〈安政4… 長沼 守敬(ながぬま もりよし、1857年11月9日〈安政4年9月23日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月18日)は、明治時代から大正時代に活躍した日本の彫刻家である。 陸奥の一関(現在の岩手県一関市)に士族の家系を持つ子として生まれる。維新後の1875年(明治8年)に上京しイタリア公使館に勤務し、これにより1881年(明治14年)留学のためイタリアに渡った。ヴェネツィアに居住しヴェネツィア王立美術アカデミー(現在のヴェネツィア美術アカデミー)でルイジ・フェラーリ(イタリア語版)及びアントニオ・ダル・ツォット(英語版)から彫刻学を学んだ。後に同地の王立高等商業学校で日本語の教鞭を執った。1885年(明治19年)に優秀な成績を収めた事で卒業が認められ、1887年(明治21年)に帰国する。
佐藤 政吉(さとう まさきち、安政4年(1857年)11月7… 佐藤 政吉(さとう まさきち、安政4年(1857年)11月7日 - 昭和9年(1934年)11月17日)は、神奈川県中郡秦野町の実業家、政治家、クリスチャン。 1857年(安政4年)、曽屋村の製油業「大安(だいやす)」を経営する商家に生まれ、1874年(明治7年)に17歳で父が亡くなったことで家業を継ぐ。明治20年頃から醤油醸造業にも進出し、成功を収める。さらに、地方銀行業の草分けとなる相模銀行の前身「共伸社」の設立に関わり、その後、相模銀行取締役、秦野銀行頭取を務める。 曽屋村からコレラ蔓延による死者を出したことを憂えて、町内他の篤志家と協力して、国内初の民間による上水道、曽屋水道の設置に貢献する。
村上 太三郎(むらかみ たさぶろう、1857年11月4日〈安… 村上 太三郎(むらかみ たさぶろう、1857年11月4日〈安政4年9月18日〉 - 1915年〈大正4年〉4月25日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 遠江国長上郡川袋村(掛塚村、磐田郡掛塚村、掛塚町、竜洋町を経て現磐田市)に生まれる。7歳の時に父と死別し、12歳の時に母の勧めで商人を志し横浜に出て回米問屋を開業する。1892年(明治25年)東海屋鉄工場の設立および経営に関与し、以後、日本精製糖、日本石油精製、日本製粉、小樽木材など数々の会社を立ち上げ重役を歴任した。さらに、株式仲買業にも携わり、東京株式取引所仲裁委員、東京商業会議所議員、横浜四品取引所理事などを務めたほか、日本重石、九州炭鉱汽船、日本醤油醸造、宝石油、日本活動写真、東京澱粉各取締役、営口水道電気、旭薬各監査役などを歴任し、鉱山業の経営にも従事した。
賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴ… 賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴリオ暦 1857年11月2日 - 1922年7月4日)は、日本の実業家である。日本統治時代の台湾における実業界の大物。相場師「賀田金」としても知られる。 1857年11月2日(安政4年9月16日)、長門国萩(現在の山口県萩市)の札差商家に生まれる。漢学を学び、やがて家業を継ぐ。 1885年(明治18年)、東京に移り、藤田伝三郎の藤田組(藤田財閥)に入社する。その後、大倉喜八郎の大倉組(大倉財閥)に移り、同社広島支店長を経て、1895年(明治28年)に日清戦争が終結すると、同社台湾総支配人に就任する。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年(明治30年)には、台湾で大倉喜八郎・山下秀実らと駅伝社設立し、台湾での郵便や国庫金の逓送、苦力供給などを業務とする交通業を手がける。
山下 千代雄(やました ちよお、1857年10月27日〈安政… 山下 千代雄(やました ちよお、1857年10月27日〈安政4年9月10日〉 - 1929年〈昭和4年〉2月4日)は、衆議院議員(自由党→立憲政友会)、弁護士。 出羽国米沢出身。藩校興譲館で学んだ後、司法省法学校(現・東京大学法学部)を卒業。明道館を創立し、自由民権を主張した。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙は大同倶楽部から、1892年(明治25年)の第2回総選挙は立憲自由党から山形県第2区で立候補したが、いずれも落選している。 1894年(明治27年)、第3回総選挙に出馬し、当選。同年9月の第4回総選挙でも再選された。1898年(明治31年)、第1次大隈内閣が成立すると内務省地方局長に任命されたが、内閣の崩壊とともに野に下り弁護士業務に従事した。
伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9… 伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9月9日) - 1926年(大正15年)8月5日)は、日本の明治より大正期にかけての医師・政治家・思想家。現在の青森県出身で、青森県医師会会長や弘前市長、衆議院議員を歴任した。今東光の母方の伯父にあたる。 1857年(安政4年)旧暦9月9日の重陽節句の日に、現在の弘前市元長町において、津軽藩典医伊東家久・もと夫妻の次男として生まれる。幼名は滝次郎と称した。 1865年(慶応元年)、原子塾に入塾。後に黒滝学校に転じ、1868年(明治元年)藩校稽古館に入学。1871年(明治4年)藩命により英学修行を命じられ、英学塾(翌年東奥義塾と改名)に入塾。
寺田 利吉(てらだ りきち、1857年10月20日〈安政4年… 寺田 利吉(てらだ りきち、1857年10月20日〈安政4年9月3日〉 - 1918年〈大正7年〉12月10日)は、日本の実業家。寺田銀行頭取。寺田紡績工廠社長。高野登山鉄道、岸和田紡績、和泉水力電気各取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市、寺田甚与茂の異父弟。1880年、分家して一家を創立する。住所は大阪府泉南郡岸和田浜町(現・岸和田市) この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月… 榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月15日) - 明治30年(1897年)2月6日)は、明治期の医師、医学博士。幼名は善太郎。父は蘭学者の榊令輔。弟の榊順次郎と榊保三郎も医学者である。 はじめ駿府において堀越愛国のもとで英学を学んだとされる。明治13年(1880年)に東京大学を卒業後、明治15年(1882年)にベルリン大学に留学し精神病学を専攻した。明治19年(1886年)に帰国、帝国大学医科大学教授に就任し、精神病学教室を開設、帝国大学医科大学草創期において精神病、精神衛生、小児精神論、看護法を講じ、剖検、司法精神鑑定相馬事件など幅の広い活動を行なった。墓所は染井霊園(1イ-5-8)。
阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4… 阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4年8月27日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、明治-大正期の日本の工学者。 江戸(後の東京府東京市、現・東京都区部)生まれ。阪田長十郎の二男、阪田貞明の叔父。工部大学校(東京大学工学部の前身の1つ)卒業。1890年、欧米に留学し機械工学を研究。帰国後、東京工業学校教授。のち同校の校長や後身の東京高等工業学校(現: 東京工業大学)校長などを務めた。 日本機械学会の第3、15、18、20、23期幹事長を務めた。 1920年12月1日、胃潰瘍の療養中に心臓麻痺で死去、享年63歳。
立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政… 立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政4年8月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉1月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)。『破戒』(島崎藤村)に登場する市村代議士のモデルといわれる。 1857年(安政4年)、淡路国三原郡立川瀬村(後賀集村、現兵庫県南あわじ市賀集立川瀬)で、立川伝平の長男として生まれる。伝平は百姓出身だが足軽の株を買って洲本に移った。雲平は洲本の藩校を経て、1871年、徳島師範学校入学。1876年、京都へ遊学。岸田俊子、小室信介など民権派の人々と交遊関係を深める。1881年、明治法律学校入学。1882年、代言人試験合格。翌年、郷里で弁護士事務所を開業。
武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(… 武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(安政4年8月25日) - 没年不明)は、日本の政治家、銀行家。埼玉県大里郡榛沢村長。深谷銀行取締役。族籍は埼玉県平民。 埼玉県大里郡榛沢村(のち岡部町、現・深谷市)出身。兵助の嫡男。寺子屋に学び、私塾等にて漢学を研修する。農業を営む。戸長連合村副戸長を歴任する。 榛沢村助役に推され、10数年に亘り勤続して村長を補佐する。1894年4月に榛沢村長に就任し、1902年10月に退職する。榛沢村会議員を4期つとめる。 村政の元老で、多年自治開発に努力精進して名望が高かった。 武政家は旧幕時代、組頭をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857… 岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857年10月2日) - 昭和16年(1941年)12月20日)は技術者、日本の実業家。日本で最初の外資との合弁企業である日本電気(NEC)の創業者。勲五等。 豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町、旧・豊津町)に小倉藩士・喜田村修蔵の次男として生まれる。兄・寛治(娘婿・喜田村朔治の養父)は豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった。 父・修蔵は岩垂家から喜田村家に婿養子として入ったが、岩垂家の後嗣がなかったため、邦彦が岩垂家を継ぐこととなった。1868年(明治元年)[要検証 – ノート]に修蔵が東京で暗殺されたため、仇討ちを志して兄とともに上京した。
巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安… 巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安政4年8月15日) - 1891年(明治24年)1月24日)は、明治期の鉱山学者、日本新聞社創立発起人。東京大学理学部教授・農商務省鉱山局技師として採鉱冶金術の改良に貢献した。滋賀県出身者で初の工学博士(博士登録番号10番)。 旧暦安政4年8月15日(1857年10月2日)、近江国水口で生まれる。巌谷家は代々水口藩典医を務め、祖父は巌谷玄通、父は明治維新後太政官一等書記・貴族院議員を務めた漢学者の巖谷一六(本名は修、明治の三筆の一人)。立太郎は長男として誕生した。 6歳より水口にて藩儒中村栗園に学び神童と称され、明治元年(1868年)京都で神山鳳陽に師事して漢学を学んだ。
神藤 才一(かんどう さいいち / しんどう さいいち、安政… 神藤 才一(かんどう さいいち / しんどう さいいち、安政4年8月15日(1857年10月2日) – 昭和9年(1934年)1月5日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→猶興会→立憲同志会)。大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍歩兵大尉。 相模国高座郡相原村(現在の神奈川県相模原市)出身。1879年(明治12年)、陸軍士官学校(旧3期)を卒業し、同年12月22日、陸軍歩兵少尉に任官。1884年(明治17年)に甲申政変に出征し、帰国後は山地元治将軍の幕僚を務めた。1886年(明治19年)にフランスに留学して軍事学を学ぶが、やがて法学に転じ、1895年(明治28年)にリヨン大学を卒業し、法学博士の称号を得た。
金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月1… 金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月15日〈1857年10月2日〉 - 昭和20年〈1945年〉3月4日)は、日本の牧師、伝道者、宗教家。別名はポール・カナモリ。明治初期の日本のプロテスタント派の3つの源流の1つである熊本バンドの中心メンバーの一人であった。晩年は湘南の嶺山に隠居し、原始的な洞窟生活をして「今仙人」といわれた。 第102代内閣総理大臣・石破茂の母方の曾祖父である。 肥後国玉名郡小天村(現・玉名市天水町小天)に郷士・金森繁蔵の次男として生まれた。その後、理由は分からないが一家は託麻郡本山村(現・熊本市中央区本山)に移り住んでいる。 明治4年(1871年)、日新堂に入塾。
吉田 定之助(よしだ さだのすけ、1857年10月1日(安政… 吉田 定之助(よしだ さだのすけ、1857年10月1日(安政4年8月14日)- 1918年(大正7年)9月20日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町(現須賀川市)で、吉田勝太郎の長男として生まれる。私塾で学んだ。 1889年(明治22年)2月、家督を相続し、以降、須賀川町会議員に8期在任。岩瀬郡会議員、福島県会議員、同議長、破産管財人、所得税調査委員なども務めた。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(福島県郡部、立憲政友会)で当選し、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙(福島県郡部、立憲政友会)では次点で落選し、衆議院議員に1期在任した。
井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年… 井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年8月12日) - 1924年(大正13年)3月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。予備役後は衆議院議員を2期務めた。 安政4年8月12日、加賀藩士の切米3俵の中間井上栄信の次男として現在の金沢市で生まれる。1872年、海軍兵学寮に入学する。1874年の台湾出兵では高尾丸に、1877年の西南戦争では筑波に学生の身分で乗船した。1878年7月、海兵を卒業する(5期)。1881年、海軍少尉に任ぜられる。 各艦で海上勤務のほか、1886年(明治19年)から1889年(明治22年)には海軍兵学校航海術教官となる。日清戦争直前の数年間、在清国公使館付武官として諜報活動に従事し、開戦とともに帰国。
平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月… 平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月23日) - 昭和18年(1943年)3月2日)は、日本の応用化学者。初名は石松决(いしまつ さだむ)。 筑前国(現・福岡県)出身。福岡藩の貢進生として1870年に大学南校入学。ロバート・ウィリアム・アトキンソンに師事して理化学を学び、1878年東京大学化学科卒業。その後、イギリス・オーエンス大学に留学し、有機化学と染色を学んだほか、現地の縫製会社で働いて実地研修をした。 帰国後の1881年に東京職工学校教諭。1882年に親戚の判事・平賀義質の死去の際、その娘婿となり、名前を平賀義美に改名。1890年、農商務省技師となる。商工局第三課長時代に、新しく農商務大臣に就任した後藤象二郎が局長人事に不満をもったことから1893年に退職し無職となったが、1894年に大阪府立商品陳列所長となり、大阪府の工業顧問にも就任した。
伊東 圭介(いとう けいすけ、1857年9月22日(安政4年… 伊東 圭介(いとう けいすけ、1857年9月22日(安政4年8月5日)- 1895年(明治28年)2月5日)は、明治時代の政治家、弁護士。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 盛岡藩目付役の父、伊東元右衛門の子として盛岡に生まれる。幼くして藩校作人館に入り和漢学を修め、大清水の小原洋学塾で学び、上京したのち岩手県聴訴課に奉職する。法律に目覚め、官を辞して法学を研究し、1875年(明治8年)代言人となった。翌年、協同社を、1878年(明治11年)には改進社を設立、さらに同社を合併し自由党盛岡支部を設立するなど自由民権運動に傾倒するが、1884年(明治17年)政談演説会で黒田内閣顧問の職務を誹毀したとして侮辱罪に問われ重禁錮2ヶ月罰金10円に処された。
青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9… 青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 大正10年(1921年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 豊前国小倉城下(現在の福岡県北九州市小倉北区)に、小倉藩士鎌田思誠の四男として生まれ、青柳彦蔵の養子となった。法律学を学んで、代言人となった。福岡県会議員に選出され、参事会員も務めた。 1900年(明治33年)、衆議院補欠選挙で当選。第7回衆議院議員総選挙、第8回衆議院議員総選挙でも再選された。
伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日… 伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 昭和3年(1928年)4月28日)は、日本の実業家。新聞『時事新報』編集長、新聞『日本』社長。交詢社理事、慶應義塾評議員。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(… 安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(1857年9月20日) - 昭和5年(1930年)12月2日)は、備前国赤坂郡小野田村(現・赤磐市熊山町)出身の社会実業家。東京市養育院幹事。 1857年、備前国赤坂郡小野田村で生まれる。幼くして母と死別し、遠戚の天台宗寺院で育つ。仏教を修める一方、岡山の藩校遺芳館で経学を学び、新聞記者となる。山陽新報、中国日々新聞、福島新聞などの記者を務める傍ら、自由民権運動に携わり、「岡山自由党の四天王の一人」と称される。また、集会条例違反で逮捕された事もあった。 その後上京し、1888年、東京府に奉職する。東京市養育院院長であった渋沢栄一の勧めで、1892年、養育院幹事となる。
高橋 善一(たかはし よしかず、安政4年8月3日〈1857年… 高橋 善一(たかはし よしかず、安政4年8月3日〈1857年9月20日〉 - 1923年〈大正12年〉5月20日)は、明治時代から大正時代の鉄道員・鉄道官吏。新橋停車場の下級駅夫より鉄道院副参事まで累進した最古参の鉄道員として知られた。初代東京駅長。名は「ぜんいち」とも。 三河国渥美郡西伊古部村(現・豊橋市伊古部町)にて、河合善七(福井県平民)の次男として生まれ、幼くして同郡赤沢村(現・豊橋市赤沢町)の高橋祐二の養子となり、のち高橋さくと婚姻した。 数え14歳で海軍を志して上京、早稲田の北門社に入塾したが、新橋・横浜間の汽車を見物したの機に、1873年(明治6年)につてを得て新橋停車場(のち汐留駅)の下級駅夫として雇われた。
若林 玵蔵(わかばやし かんぞう、1857年9月19日(安政… 若林 玵蔵(わかばやし かんぞう、1857年9月19日(安政4年8月2日)- 1938年(昭和13年)5月3日)は、日本の速記者である。幼名は銓太郎。 武蔵の埼玉郡加須に生まれる。明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、在学中の1882年(明治15年)に田鎖綱紀に師事し、彼が開いた日本傍聴筆記法講習会の記念すべき第一回講習生して加入した。これにより、卒業後の1884年(明治17年)に埼玉県議会の議事記録に携わる。 その後は矢野龍渓が著した『経国美談』の後編や三遊亭圓朝の『怪談牡丹灯籠』の速記したものを版にする事にも携わり、速記物の実用化に貢献した。これにより若林は多くの速記者の育成や、1890年(明治23年)には帝国議会における衆議院の常任速記者としても活動した。
植木 元太郎(うえき もとたろう、1857年9月19日(安政… 植木 元太郎(うえき もとたろう、1857年9月19日(安政4年8月2日) - 1943年(昭和18年)1月25日)は日本の実業家、政治家。島原鉄道および口之津鉄道(のちに島原鉄道に合併)、温泉軽便鉄道(のちの雲仙鉄道)、小浜鉄道(同)を設立し、島原半島内の鉄道網の整備を進め、のち初代島原市長を務めた。号「鉄狂斎」。 1857年、肥前国高来郡多比良村(長崎県南高来郡多比良町、国見町を経て現雲仙市国見町)で、酒造業を営む植木直平の子として生まれる。肥前鹿島の谷口藍田に漢学を、長崎の中島広行に国学を学んだ。 1874年(明治7年)、父の没後家業を継ぐ。1879年(明治12年)頃から副業として山野の開墾や海面埋め立てにより農地を造成しクワや果樹の栽培を手がけ、養蚕製糸業を営む。
渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日(1857年9… 渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日(1857年9月15日) - 大正8年(1919年)6月29日)は、日本の冶金学者。 長崎県出身。大学南校を経て、1879年(明治12年)、東京大学理学部を卒業し、東京大学校助教授となった。1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学ぶ。1886年(明治19年)、東京帝国大学工科大学教授に就任し、農商務省技師を兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省で御料鉱山設置の構想が進むと、御料局技師・理事・佐渡支庁長に任命された。1891年(明治24年)には工学博士の学位を得た。しかし1896年(明治29年)に御料鉱山構想が中止になると退官した。
木戸 孝正(きど たかまさ、1857年9月14日〈安政4年7… 木戸 孝正(きど たかまさ、1857年9月14日〈安政4年7月26日〉- 1917年〈大正6年〉8月10日)は、日本の宮内官、政治家、華族(侯爵)。貴族院侯爵議員。旧姓は来原、幼名は彦太郎。 長州藩士・来原良蔵、治子(木戸孝允の妹)夫妻の長男として生まれる。木戸孝允の養嗣子であった弟木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し1884年(明治17年)11月18日、侯爵を襲爵()。1890年(明治23年)2月、貴族院令施行により貴族院侯爵議員に任じられ死去するまで在任した。 1871年(明治4年)、アメリカ合衆国に留学。帰国後、開成学校、東京大学理学部、大阪専門学校を修了。1882年(明治15年)以降、山口師範学校教諭兼同山口中学校教諭、駅逓局属、農商務省御用掛、主猟官などを経て、1902年(明治35年)に東宮侍従長兼式部官、1908年(明治41年)に宮中顧問官式部官兼閑院官別当となる。
渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月… 渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月26日) - 1930年4月7日)は日本の翻訳家、著作家、教師、ジャーナリスト、自由民権家として明治期に活躍した人物である。渋江抽斎の実子で、本名は成善(しげよし)、幼名は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。森鷗外が小説『渋江抽斎』を執筆した際の情報提供者であるというのが一般的な評価である。 渋江は親交の深かった多くの民権家が民権運動後期に至り、アジアへの国権拡張を主張する中で、誰もが唱えなかった植民地問題について深い理解があった。多くの自由民権思想家が自国民の自由民権だけを意識してきたのに対して、渋江は代表作『万国戦史』の編纂をとおして戦史思想を展開し植民地政策に反対を唱えた。
山口 嘉七(やまぐち かしち、1857年9月13日(安政4年… 山口 嘉七(やまぐち かしち、1857年9月13日(安政4年7月25日)- 1932年(昭和7年)12月17日)は、明治から昭和初期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 若狭国遠敷郡小浜酒井町(福井県遠敷郡小浜町を経て現小浜市酒井)で、小浜藩士・山口甚太夫の三男として生れる。 1886年(明治19年)代言人試験に合格し、1893年(明治26年)弁護士登録を行い、大津、京都で開業。その後、帰郷して1895年(明治28年)4月、小浜町会議員となる。遠敷郡会議員、同参事会員にも在任。1897年(明治30年)8月、福井県会議員に初当選し、1908年(明治41年)3月まで通算5期、10年6ヵ月在任した。
10代奥野 小四郎(おくの こしろう、1857年9月10日(… 10代奥野 小四郎(おくの こしろう、1857年9月10日(安政4年7月22日) - 1915年(大正4年)12月31日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県津名郡洲本町長、北海道河西郡帯広町長。旧姓・富永、初名・守次郎。 淡路国津名郡(後の鮎原村、現洲本市)で富永包方の二男として生まれる。徳島藩校で漢学、撃剣を修め、その後英語を学んだ。1877年、洲本町の商人・9代奥野小四郎の死去に伴い、その養嗣子となり10代小四郎を襲名。 1881年、淡路汽船 (株) を起こし翌年社長に就任。淡路紡績 (株) 社長、淡路製陶 (株) 社長などを務めた。その他、洲本町長、洲本町会議員、洲本商工会会長、津名郡会議員、同郡会議長、同郡参事員、徴兵参事員、兵庫県会議員などを歴任。
関 直彦(せき なおひこ、1857年9月4日〈安政4年7月1… 関 直彦(せき なおひこ、1857年9月4日〈安政4年7月16日〉- 1934年〈昭和9年〉4月21日)は、日本のジャーナリスト、政治家、弁護士。東京日日新聞社長、衆議院議員、貴族院議員。 江戸で紀州藩士関平兵衛の次男として生まれる。築地の立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。 1883年(明治16年)、東京大学法学部法律科を卒業後、東京日日新聞入社。東京専門学校・英吉利法律学校の各講師、東京日日新聞記者、日報社社長などを務め、後に弁護士となり東京弁護士会長も務めた。さらに、東京日日新聞・大阪日日新聞・帝国石油の各社長などを歴任。 政界にも進出し、麹町区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を歴任。
麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7… 麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7月7日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は日本の炭鉱業者、実業家、政治家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の曽祖父。
中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(185… 中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(1857年8月26日)- 1937年(昭和12年)4月11日)は、日本の医師、医学者。ジョン万次郎の子。 中浜万次郎の長男として江戸土佐藩邸中屋敷にて出生。明治5年(1872年)、横浜十全医院に入り医学を研修、翌6年(1873年)に大学東校に入り、明治14年(1881年)に(旧)東京大学医学部を卒業。 1881年(明治14年)に福島県医学校校長に任命され、その後、岡山・金沢各医学校教授兼病院長を歴任。1885年(明治18年)10月、内務省の命により、衛生学に属する部分の研究のためドイツへ留学差遣される。1886年(明治19年)1月、ライプツィヒ大学衛生試験所の衛生学ホフマン教授に師事する。
松井 直吉(まつい なおきち、1857年8月14日(安政4年… 松井 直吉(まつい なおきち、1857年8月14日(安政4年6月25日) - 1911年(明治44年)2月1日)は明治時代の日本の化学者。理学博士。 第三高等中学校(京都大学の前身の一つ)教頭、文部省専門学務局長、東京化学会(日本化学会の前身の一つ)会長、東京帝国大学(東京大学の前身)農科大学長・総長を歴任した。 以上のことから文展審査員となっている。 弟は国文学者の和田万吉。 また、松井は8男8女の計16子をもうけているが、8男で山上家の養子となった山上八郎は、日本の甲冑についての研究で知られている。
木下 甚三郎(きのした じんざぶろう、1857年8月10日(… 木下 甚三郎(きのした じんざぶろう、1857年8月10日(安政4年6月27日)- 1930年(昭和5年)9月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 播磨国明石郡、のちの兵庫県明石郡大久保村(大久保町を経て現明石市)出身。農業を営む。明石郡松蔭村(現・明石市)戸長、大久保村会議員、明石郡会議員、兵庫県会議員、同県農会議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において兵庫7区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では兵庫5区から政友本党公認で立候補したが落選した。1930年に死去した。
赤木 周行(あかぎ ちかゆき、1857年8月8日(安政4年6… 赤木 周行(あかぎ ちかゆき、1857年8月8日(安政4年6月19日) - 1896年(明治29年)3月8日)は、岡山県士族の理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
芦田 鹿之助(あしだ しかのすけ、1857年8月7日(安政4… 芦田 鹿之助(あしだ しかのすけ、1857年8月7日(安政4年6月18日)- 1928年(昭和3年)4月30日)は、明治期の地主・銀行家・政治家。衆議院議員、京都府天田郡初代中六人部村長。号・光月。元首相の芦田均の父。 丹波国天田郡宮村(京都府天田郡中六人部村字宮を経て現福知山市)で、大地主、大庄屋・芦田治左衛門の長男として生まれる。綾部藩の近藤寡斎、沢井広重などに師事し、綾部藩郷学校・広畔堂で修学。その後、京阪に遊学した。 1875年(明治8年)3月、豊岡県の天田郡宮村用掛に就任し、さらに同県第十七大区四小区副戸長を務めた。1876年(明治9年)天田郡が京都府に編入され、同年10月、天田郡第一区副区長兼学区取締となる。
加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月… 加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月16日) - 1907年(明治40年)9月23日)は、東京生まれの教育者であり、東京物理学講習所(後の東京物理学校、現東京理科大学)の創立者の一人である。 1857年(安政4年)6月16日、江戸(現・東京)に生まれた。東京帝国大学を卒業した。1881年(明治14年)、東京物理学講習所の創立者の一人となる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
土屋 夏五郎 (つちや なつごろう、安政5年6月15日(18… 土屋 夏五郎 (つちや なつごろう、安政5年6月15日(1857年8月4日) - 昭和11年(1936年)12月7日)は、山梨県出身の郷土史家。号は夏堂。 甲斐国八代郡白井河原村(後の東八代郡中道町、現在の甲府市白井町)に生まれ、徽典館で修学。その後教職に就き明治12年(1879年)に西八代郡富里村の市瀬学校校長心得となった後、同郡内、車田村の車田学校、三沢村の三沢学校、久那土村の久那土尋常小学校(現在の身延町立久那土小学校)、高田村の高田尋常小学校の各校長を務めている。明治31年(1898年)6月には宮城県の徴任に応じ、登米郡米山村(現在の登米市)の米岡小学校及び同郡南方村(現在の登米市)の南方小学校の校長となった、明治41年(1908年)12月に山梨県に帰郷後、明治42年(1909年)4月に西八代郡大塚村(現在の市川三郷町)の大塚尋常小学校(現在の市川三郷町立大塚小学校)校長を務め、大正2年(1913年)11月に退職するまでの36年間、西八代郡教育会長、宮城県登米地域の教育講習会長など教育関係の役職を務め教育界に貢献している。
岡本 清三(おかもと せいぞう、1857年8月4日(安政4年… 岡本 清三(おかもと せいぞう、1857年8月4日(安政4年6月15日) - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の政治家、鉄道実業家である。 尾張国海東郡津島村(現在の愛知県津島市)で生まれる。1865年に中島郡の忍順寺に入って、服部諦信と改名し、約7年間修業した。1879年に愛知県師範学校を卒業した後に宮口学校、飛島学校などで教鞭を取った。1882年に岡本家の養子となり、岡本清三と名乗る。1886年に津島村会議員に就任し、1890年から1903年6月までに愛知県会議員を務めた。1890年の第3回内国勧業博覧会で電車を見たのを機に愛知県での電気鉄道敷設に奔走し、1894年に愛知馬車鉄道の取締役に就任し、名古屋電気鉄道取締役と尾西鉄道取締役も務めた。
角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安… 角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安政4年6月15日) - 1919年(大正8年)3月20日)は、明治・大正期の俳人・政治家。本名は真平(しんぺい)。駿河国加島(現静岡県富士市)生れ。東京に出て代言人(弁護士)となり、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任した。位階及び勲等は正六位、勲四等。 農業・角田彦右衛門の二男として生まれる。1874年(明治7年)に上京し法律学を修めた。1880年(明治13年)、代言人試験に合格した。東京府会議員、同副議長、神田区会議員、同議長、牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任。 その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務めた。
富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年… 富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年6月3日)- 1926年(大正15年)10月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(5期)。 肥前大村藩領彼杵郡大村(長崎県東彼杵郡大村、大村町を経て現大村市)に生まれる。生家は農業を営んだ。幼くして漢学と英学を修めた。1882年(明治15年)から8年間に渡り長崎県会議員を務め、その間、常置委員、徴兵参事員、所得税調査委員、学務委員などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では長崎県第1区から出馬し当選。第3回、第4回、第5回、第6回総選挙でも当選し衆議院議員を通算5期務めた。
仙石 貢(せんごく みつぎ/せんごく みつぐ、1857年7月… 仙石 貢(せんごく みつぎ/せんごく みつぐ、1857年7月22日〈安政4年6月2日〉- 1931年〈昭和6年〉10月30日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。工学博士。 没後勲一等旭日大綬章追贈(昭和6年10月30日付)。 土佐国高知出身。1872年(明治5年)、高知藩病院附属吸江学校に入学し、英語を学ぶ。1878年(明治11年)7月、東京大学理学部土木工学科卒業。同年9月、東京府土木掛。1884年(明治17年)、工部省鉄道局勤務、日本鉄道、甲武鉄道工事を担当した。1891年(明治24年)8月、工学博士学位を取得している。 1896年(明治29年)10月、逓信省鉄道技監を最後に退官し、実業界に転じ筑豊鉄道社長となる。
波多野 喜右衛門(はたの きえもん、1857年7月21日(安… 波多野 喜右衛門(はたの きえもん、1857年7月21日(安政4年6月1日)- 1937年(昭和12年)3月1日)は、明治時代後期から大正時代の政治家。衆議院議員。 尾張国東春日井郡、のちの篠岡村、現在の小牧市篠岡に生まれる。神谷梅峰に儒学を学ぶ。戸長、大草村長、篠岡村長、愛知県会議員、同参事会員を経て、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で愛知県第5区から立憲政友会所属で出馬して当選し、1期務める。1921年(大正10年)12月15日、選挙法違反の判決により議員を辞した。
島津 啓次郎(しまづ けいじろう、安政4年閏5月25日〈18… 島津 啓次郎(しまづ けいじろう、安政4年閏5月25日〈1857年7月16日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は、幕末から明治時代初頭の士族。旧佐土原藩出身。旧藩主家出身でありながら西南戦争では薩軍側に加わり、戦死した。 安政4年(1857年)、佐土原にて誕生する。第11代佐土原藩主・島津忠寛の三男で、母は側室。3歳の時に家老家に当たる町田氏に養子に出される。10歳の時、鹿児島に遊学、翌年さらに東京に移り、勝海舟門下生となる。啓次郎の才能を見抜いた海舟により推薦され、明治3年(1870年)、薩摩藩藩費留学生として兄・大村純雄らと共に渡米、アナポリス、ニューヘイブン (コネチカット州)、グリンブルドなどで英語、フランス語、文学、数学等を学ぶ。
仁太坊(にたぼう、安政4年7月7日(1857年) - 昭和3… 仁太坊(にたぼう、安政4年7月7日(1857年) - 昭和3年1月2日(1928年))は青森県生まれの津軽三味線奏者。本名・秋元仁太郎。津軽三味線の始祖。 1857年(安政4年)に金木新田(かなぎしんでん)の神原村(現・青森県五所川原市金木町神原)に生まれる。本名は仁太郎(にたろう)。父・三太郎は岩木川の河原の舟小屋に住み、渡し守を務めていた。母は出産後しばらくして体を壊し、亡くなっている。 仁太郎は8歳で天然痘にかかり失明。当時の幕藩体制下では、目の不自由な男性が経済的に身を立てるため琵琶や三味線、そして按摩や鍼灸の技能を習得する職能ギルドのような組織として「当道座」があった。しかし、当道座は封建体制の中の身分制組織であり、「筋目悪しき者」とされていた渡し守の子である仁太郎は当道座に入ることが許されなかった。
平ノ戸 三之助(ひらのと さんのすけ、1857年7月(安政4… 平ノ戸 三之助(ひらのと さんのすけ、1857年7月(安政4年) - 没年不詳)は、肥前国松浦郡(現長崎県佐世保市)出身で湊部屋、中村部屋、雷部屋に所属した元力士。元世話人。本名は岡本 三之助。最高位は前頭2枚目。身長体重不明。 初めは大坂相撲に所属する力士であったが、25歳であった1883年1月に上京、湊部屋出身の梅ヶ谷藤太郎の門弟となり、東京相撲に加入し、二枚目格からの始まりとなった。1888年5月、30歳の時にようやく入幕を果たし、以後実力を発揮。1891年5月には、西ノ海嘉治郎から2度目の金星を上げ、翌1892年1月は自己最高位の西前頭2枚目に躍進した。なお、平ノ戸が獲得した3つの金星はすべて、西ノ海からのものである。