三池山 大五郎(みいけやま だいごろう、1903年8月8日 … 三池山 大五郎(みいけやま だいごろう、1903年8月8日 - 1951年3月22日)は、昭和時代の大相撲力士。陸奥部屋所属。本名は松井 善次。最高位は十両9枚目。 福岡県大牟田市出身。陸奥部屋に入門し、1922年5月、「葉颪」の四股名で初土俵を踏む(のち「三池山」に改名)。1928年1月十両に昇進。この場所は2勝8敗1分と負け越した。昭和初期は東京場所と地方場所とで別々に番付が作成されたため、三池山の場合、東京場所では成績が良い反面、地方場所では不振となり、十両に昇進した次の場所の1928年3月では三段目の地位にあった。十両は在位1場所で終わり、復帰することはなかった。1930年10月に廃業。
加藤 康司(かとう やすし、1903年8月8日 - 1978… 加藤 康司(かとう やすし、1903年8月8日 - 1978年2月4日)は、日本の校閲者。 愛知県西加茂郡高橋村(現・豊田市)出身。1926年名古屋新聞(中部日本新聞)に入り、1928年朝日新聞に入って東京本社校閲部次長、1949年出版校閲部長から文芸春秋の出版物校正を担当するなど「校正の神様」といわれた。
奥村 勝蔵(おくむら かつぞう、1903年8月7日 - 19… 奥村 勝蔵(おくむら かつぞう、1903年8月7日 - 1975年9月26日)は、昭和期の外交官。 岡山県岡山市出身。天王寺中学、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科卒業。1926年(大正15年)、外務省入省。 アメリカ合衆国在ワシントン日本大使館の一等書記官在任中であった1941年(昭和16年)12月8日に、太平洋戦争が始まった。奥村はこの際に不得手なのに日米交渉打ち切りの文書をタイプライターを使い時間を浪費し浄書した。大日本帝国がアメリカ合衆国のコーデル・ハル国務長官に交渉打ち切りの文書を手渡したのは同日午後2時20分で、命令で指定された予定時刻から1時間20分の遅れであり、既に真珠湾攻撃は始まっていたため、日本による騙まし討ちと米国は宣伝した。
諸井 三郎(もろい さぶろう、1903年8月7日 - 197… 諸井 三郎(もろい さぶろう、1903年8月7日 - 1977年3月24日)は、日本の作曲家。
杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月… 杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月7日 - 1992年 <平成4年> 3月9日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。位階は正四位。 宮城県仙台市出身。1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1948年10月に取締役に就任し、1957年11月に常務を経て、1960年5月には社長に就任。1968年11月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1992年3月9日に脳梗塞のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
五十嵐 丈夫(いがらし たけお、1903年8月6日 - 19… 五十嵐 丈夫(いがらし たけお、1903年8月6日 - 1994年12月12日)は、日本の経営者。白洋舎社長を務めた。東京都出身。 1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、渡米を経て、1934年12月に白洋舎取締役に就任。 1943年12月に社長に就任し、1975年2月から1983年2月までに相談役を務めた。 1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1994年12月12日腸閉塞のために死去。91歳没。
真室 亜夫(まむろ つぐお、1903年(明治36年)8月6日… 真室 亜夫(まむろ つぐお、1903年(明治36年)8月6日 - 1945年(昭和20年)5月31日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政官。 香川県綾歌郡山田村(現・綾川町)に生まれる。松山高等学校を卒業。1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科に合格し、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。 卒業後直ちに渡台し、交通局書記逓信部庶務課に勤務。1932年(昭和7年)3月、地方理事官に進み、台北州新荘郡守に就任。1934年(昭和9年)9月、台北州内務部勧業課長に転じ、ついで拓務事務官殖産局勤務、拓務事務官管理局管理課長、企画院書記官、拓務書記官、拓殖調査部第二課長、殖産局商工課長、水産課長兼務、殖産局水産課長、殖産局水産課事務官などを経て、1942年(昭和17年)5月、海軍司政官に選任された。
植村 諦(うえむら たい、1903年〈明治36年〉8月6日 … 植村 諦(うえむら たい、1903年〈明治36年〉8月6日 - 1959年〈昭和34年〉7月1日)は、日本の詩人、アナキスト。本名は植村諦聞(たいもん)。 奈良県吉野郡に生まれる。佛教専門学校(現佛教大学)卒。郷里で小学校の教諭をしていたが水平社運動に関係して職を追われ、朝鮮に渡って独立運動に参加。1930年に上京して、秋山清らとアナキズム系の詩誌『弾道』『文学通信』を編集。 1934年(昭和9年)に発足した日本無政府共産党では党中央委員長兼教育部長を務めるも、翌1935年(昭和10年)に発生した日本無政府共産党事件に連座して検挙される。第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)には日本アナキスト連盟結成に参加。
紙本 栄一(かみもと えいいち、1903年(明治36年)8月… 紙本 栄一(かみもと えいいち、1903年(明治36年)8月5日 - 1995年(平成7年)12月6日)は、日本の武道家。段位は居合道範士九段、剣道範士八段、銃剣道教士七段。居合の流派は夢想神伝流。「剣居一体」を唱え、全日本剣道連盟居合の制定に尽力した。 山口県熊毛郡田布施町の農家の長男として生まれる。小学校3年生のとき、村の駐在から手ほどきされた剣道に夢中になる。「駐在さんと打ち合って小手が決まった、というそのときのワクワクした気分がわたしの人生を決めた」という。 旧制中学校卒業後の1920年(大正9年)、17歳で現役志願兵として海軍呉海兵団に入隊。軍務に精励と同時に、呉鎮守府剣道師範の堀正平並びに海軍集会場剣道教師の福島小一に師事する。
都築 賴助(つづき よりすけ、1903年8月3日 - 197… 都築 賴助(つづき よりすけ、1903年8月3日 - 1972年10月28日)は、日本の教育者、都築学園グループの創始者。妻は都築貞枝、次男は都築泰壽。 徳島県美馬郡美馬町(現・美馬市)生まれ。九州帝国大学(法文学部文科)卒業、同大学院修了、福岡学芸大学、福岡教育大学教授歴任。産業教育振興に寄与した功績により紺綬褒章を受く。 学校法人都築学園、都築育英学園を創設し、第一薬科大学・第一経済大学(現 日本経済大学)・福岡第一高等学校・福岡第一商業高等学校(現 第一薬科大学付属高等学校)・みやこ幼稚園・だいいち幼稚園・むろずみ幼稚園の学園総長。 正四位勲三等に叙せられ旭日中綬章を受章。
三間 安市(みつま やすいち 、1903年(明治36年)8月… 三間 安市(みつま やすいち 、1903年(明治36年)8月3日 - 1974年(昭和49年)2月7日)は、日本の実業家。日本鉱業の社長や会長、日本鉱業協会会長などを歴任した。従三位勲一等。 岐阜県生まれ。1924年長崎高等商業学校(現長崎大学)卒業。1925年東京商科大学(現一橋大学)本科入学。1928年同卒業、久原鉱業入社。 鉱山統制会原価計算課長などを経て、1946年日本鉱業常務取締役。1957年日本鉱業取締役社長。1962年日本鉱業協会会長。1963年藍綬褒章受章。 1968年には田中清玄及び中山素平の日本自主原油開発油田確保計画に基づき、アブダビ石油を設立し、同社取締役社長に就任。1969年日本鉱業取締役会長、共同石油取締役会長。
小谷 澄之(こたに すみゆき、1903年8月3日 - 199… 小谷 澄之(こたに すみゆき、1903年8月3日 - 1991年10月9日)は、日本の柔道家(講道館10段)、レスリング選手。 身長162cm・体重69kgという小柄な体格ながら現役時代は柔道選手として明治神宮競技大会で優勝したほか、昭和天覧試合や熊本・福岡対抗試合、満州・福岡対抗試合等にも出場して活躍した。レスリング選手としてもロサンゼルス五輪に出場している。 現役を退いてからは欧州やアメリカ等を歴訪して柔道の普及と振興に尽力する傍ら、講道館や全日本柔道連盟で要職を歴任して永く柔道界の運営に携わり、晩年には講道館10段位に列せられた。 小谷は兵庫県但馬、朝来郡中川村(現・朝来市)の農村の家に4人兄弟の末っ子として生まれる。
松岡 三雄(まつおか みつお、1903年〈明治36年〉8月2… 松岡 三雄(まつおか みつお、1903年〈明治36年〉8月2日 - 1971年〈昭和46年〉6月4日)は、日本の政治家。山口県光市長を務めた。 1903年に移住先のアメリカ・サンフランシスコで生まれる。間もなく日本に帰国し、室積町に住んだ。旧制周陽中学校(現・山口県立防府高等学校)から第五高等学校を経て、京都帝国大学経済学部を卒業した。卒業後は南満州鉄道に入り、その後、満州国交通部人事課長に転じ、錦州郵政管理副局長、奉天郵政管理局長、郵政総局電政処長、外交部政務司長となる。1945年、敗戦により、ソ連軍に拘束され、ハバロフスクの収容所に抑留される。1947年に帰国した。 1951年、光市長選挙に立候補して当選する。
中野 好夫(なかの よしお、1903年〈明治36年〉8月2日… 中野 好夫(なかの よしお、1903年〈明治36年〉8月2日 - 1985年〈昭和60年〉2月20日)は、日本の英文学者・評論家。英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られている。東京大学教授・中央大学教授を歴任。 愛媛県松山市生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)在学中、スパルタ教育に反発して退学。のち旧制第三高等学校へ入学。旧制第三高等学校では野球部に入っており、野球部の1年先輩には戦前最後の沖縄県知事を務めた島田叡がいた。 第三高等学校卒業後に入学した東京帝国大学文学部英文学科で斎藤勇に師事。同じ斎藤勇の弟子に平井正穂がいる。 1926年に卒業後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校に英語教師として赴任。
大山 義年(おおやま よしとし、1903年(明治36年)8月… 大山 義年(おおやま よしとし、1903年(明治36年)8月2日 - 1977年(昭和52年)7月16日)は、昭和時代の日本の化学工学者。東京工業大学名誉教授。 茨城県水戸市に生まれる。麻布中学校、水戸高等学校を経て、東京帝国大学工学部造兵学科へ入学。化学機械を修め、恩師の大河内正敏の勧めで理化学研究所に入る。その後、1931年(昭和6年)台北帝国大学に赴任し、粉体工学の研究を行い、1940年(昭和15年)東京工業大学化学工学科助教授を経て、1942年(昭和17年)同大学教授、1958年(昭和33年)東京大学応用微生物研究所教授兼任、1960年(昭和35年)東京工業大学原子炉研究施設長、さらに1962年(昭和37年)より2年間同大学第6代学長を務める。
樋端 久利雄(といばな くりお、1903年(明治36年)8月… 樋端 久利雄(といばな くりお、1903年(明治36年)8月1日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人。海兵51期首席、海大甲種33期首席。海軍甲事件で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍大佐。 1903年(明治36年)8月1日、香川県白鳥本町(現在の東かがわ市)で農業を営む父・樋端荒吉と母・モトの六人兄弟の第五子、三男として生れる。大川中学校を経て、1920年(大正9年)8月26日、海軍兵学校第51期入校。同期に小園安名、山本祐二、大井篤らがいる。樋端は兵学校の前後数クラスで群を抜いた秀才であり、将来を嘱望されていた。しかし、人柄は一見鋭さを感じさせないもので、思考に集中しているときは口元が締まらずぼんやりしているように見え、特に体力的に恵まれていたわけではなかった。
田中 修吾(たなか しゅうご、1903年8月1日 - 199… 田中 修吾(たなか しゅうご、1903年8月1日 - 1996年12月16日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長を務めた。福井県出身。 1924年に小樽高等商業学校を卒業し、同年に大福海上火災保険に入社。1942年に共栄火災海上保険に転じ、1949年5月に取締役に就任し、1958年2月に常務、1965年6月に専務を経て、1970年に副社長に就任し、1973年6月には社長に昇格。1977年7月に会長を経て、1979年7月から相談役を務めた。 1975年11月に勲四等旭日小綬章を受章した。 1996年12月15日老衰のために死去。93歳没。
堂森 芳夫(どうもり よしお、1903年〈明治36年〉8月1… 堂森 芳夫(どうもり よしお、1903年〈明治36年〉8月1日 - 1977年〈昭和52年〉1月13日)は、日本の政治家。位階は正三位。日本社会党所属の衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。医学博士。 福井県出身。1929年(昭和4年)金沢医科大学を卒業。市立敦賀病院内科医長を経て開業医になる。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙で福井県から立候補し、定数5名のうち第5位になるが、法定得票数に満たなかったため当選者にならなかった(4位との差は981票)。5月に行なわれた再選挙で福田一(自由党)や中野重治(共産党)らを制し、衆議院議員に初当選した。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で落選。
原田 慶吉(はらだ けいきち、1903年7月30日 - 19… 原田 慶吉(はらだ けいきち、1903年7月30日 - 1950年9月1日)は、日本の法制史学者。専門はローマ法。兵庫県神戸市出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27… 徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27日 - 1942年〈昭和17年〉1月28日)は、戦前から戦中に活躍した日本の声楽家(バリトン)・流行歌手・俳優。愛称は「徳さん」。 1903年(明治36年)7月27日、神奈川県高座郡藤沢町(現在の同県藤沢市)の開業医の家に生まれた。 開校したばかりの逗子開成中学校(現在の逗子開成高等学校)を経て、1928年(昭和3年)、東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、1930年(昭和5年)、ビクターから『叩け太鼓』で流行歌手としてデビュー。
小野 十三郎(おの とおざぶろう、本名は小野 藤三郎〈とうざ… 小野 十三郎(おの とおざぶろう、本名は小野 藤三郎〈とうざぶろう〉、男性、1903年〈明治36年〉7月27日 - 1996年〈平成8年〉10月8日)は、日本の詩人。関西詩人協会所属。 詩誌「赤と黒」に参加。アナーキズム傾向の強い第1詩集『半分開いた窓』(1926年)を刊行した。また、日本の伝統叙情論を否定する詩論で、論壇に衝撃を与えた。代表作に『大阪』(1939年)、『異郷』(1966年)など。 大阪府大阪市南区の裕福な家庭に生まれる。天王寺中学校卒業後、1921年に上京し、東洋大学専門学部文化学科に入学するも、わずか8ヵ月ほどで中退。親からの仕送りを受けながら詩作を続けた。 1923年、萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤らの詩誌『赤と黒』に参加し、アナーキズム詩運動に入る。
深川 タマヱ(ふかがわ たまえ、1903年7月26日 -19… 深川 タマヱ(ふかがわ たまえ、1903年7月26日 -1992年12月9日 )は、日本の政治家、参議院議員(2期)。 佐賀県出身。1933年九州帝国大学法文学部経済学科卒業。戦後、新日本婦人党総裁となり、1947年の第1回参議院選挙に東京地方区から(無所属)初当選。2期務めた。のち、民主党に移り、婦人部副部長や参議院民主党副会長などを務め、改進党では都連副会長や婦人部長となり、日本民主党を経て自由民主党に入った。国会では参議院建設委員長や懲罰委員長を務めた。1956年の第4回参議院議員選挙で落選した。 1974年秋の叙勲で勲三等宝冠章受章。 1992年12月9日死去、89歳。死没日をもって従四位に叙される。
小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年<明治36年>7月… 小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年<明治36年>7月25日 - 1988年<昭和63年>12月16日)は、日本の昭和期に活躍した洋画家である。 肖像画、特に群像を多く手がけたことで知られる。 1903年(明治36年)、旧三田藩の旧家で貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として、神戸市神戸(現在の中央区)の中山手通に生まれた。兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)では竹中郁と同級で、生涯の親友だった。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中の1925年(大正14年)に親戚の小磯吉人の養子となり改姓し、同年「兄妹」が帝展入選、1926年(大正15年)「T嬢の像」が帝展特選を果たす。
片山 直憲(かたやま なおのり、1903年7月25日 - 1… 片山 直憲(かたやま なおのり、1903年7月25日 - 1982年1月2日)は、岡山県出身の通商産業省(現・経済産業省)キャリア官僚。弁理士、行政書士、および中央大学評議員としての貢献により、1979年春の叙勲で勲五等双光旭日章を受章した。 岡山県和気郡和気町(旧・岡山県赤磐郡石生村)出身。江戸時代には岡山藩(池田藩)で代々蘭学者や藩医を務めた岡山県上級士族の家系に生まれる。(族籍は、岡山県士族)。 1916年石生尋常小学校を卒業後、旧制岡山県岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校(現・岡山大学教養部)を経て、1928年3月、旧制中央大学法学部英法科を卒業した。 高等試験行政科に合格し、1928年、当時の商工省(現・経済産業省)に入省。
澤 蘭子(さわ らんこ、1903年7月25日 - 2003年… 澤 蘭子(さわ らんこ、1903年7月25日 - 2003年1月11日)は、日本の女優である[4][5][6][7][8][9]。新漢字表記沢 蘭子[4][5][6][8]。出生名澤 靜子(さわ しずこ)、松本四良との婚姻時の本名は松本 静子(まつもと しずこ)[7]、死去時の本名は澤 志づ子(さわ しづこ)、旧芸名泉 らん子(いずみ らんこ)、泉 蘭子(いずみ らんこ)[4]、澤 らん子(さわ らんこ)[4][5]。帝国キネマ演芸が製作・配給して大ヒットとなったサイレント映画『籠の鳥』(1924年)のヒロインとして知られる。
三木 栄(みき さかえ、1903年7月25日 - 1992年… 三木 栄(みき さかえ、1903年7月25日 - 1992年12月20日)は、日本の医史学者。専門は朝鮮医学史。もと京城帝国大学助教授。 大阪府堺市生まれ。九州帝国大学卒業。1932年、博士。堺市教育委員賞、日本医師会最高優功賞、日本医史学会功労賞、韓国科学史学会感謝牌賞などを受賞。
古我 周二(こが しゅうじ、1903年 <明治36年> 7月… 古我 周二(こが しゅうじ、1903年 <明治36年> 7月25日 - 1983年 <昭和58年> 8月15日)は、日本の経営者。滋賀県出身。位階は従四位。 1929年に東京商科大学本科を卒業し、同年に横浜護謨製造に入社。取締役、常務、専務を経て、1959年に日本ゼオン副社長に就任し、1966年11月には社長に昇格。1972年5月に会長に就任。 1970年4月に藍綬褒章を受章し、1977年5月に勲三等旭日中綬章を受章。 1983年8月15日 脳梗塞のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
南 松鶴(ナム・ソンハク、朝鮮語: 남송학、1903年7月2… 南 松鶴(ナム・ソンハク、朝鮮語: 남송학、1903年7月23日 - 1974年6月22日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。第2・3代韓国国会議員。 本貫は宜寧南氏(忠簡公副正公派)、別名は南 禹鉉(ナム・ウヒョン、남우현)。キリスト教徒。 ソウル麻浦または忠北槐山出身。1922年に京城鉄道学校を卒業し、その後早稲田大学政経科を校外生として卒業し、陸軍歩兵学校幹部班卒業。1935年にイエス教長老会龍山教会長老・長老会長を歴任し、1936年に南洋印刷所を経営した。解放後は大韓独立促成国民会龍山区支部長・中央常務委員・中央総本部財政部長・ソウル市支部財政部長、総選挙対等委員会中央本部財政部長、民族代表者大会龍山区選出代議員、朝鮮印刷文化建設協会(現・大韓印刷文化協会)理事長、南洋印刷所・南洋印刷社経営者、大韓青年団龍山区団長、自由党中央本部訓練部長・最高委員・無任所常務委員、国会交通逓信分科委員長・海運造船各社に対する国政監査処理委員会委員長を務めた。
佐野 芳雄(さの よしお、1903年(明治36年)7月23日… 佐野 芳雄(さの よしお、1903年(明治36年)7月23日 - 1972年(昭和47年)9月27日)は、大正から昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。旧名・好男。 兵庫県三原郡湊村(湊町、西淡町を経て現南あわじ市)で生まれる。1918年(大正7年)兵庫高等小学校を卒業した。 三菱神戸造船所に入り、1921年(大正10年)友愛会に加入。1923年(大正12年)神戸造船労働組合・機械労働組合が結成され書記長に就任し、同年、神戸一般労働組合長となった。日本大衆党などに加わり、1938年(昭和13年)共立精機工作所(船舶修理機械工場)を経営した。 終戦後、日本労働組合総同盟(総同盟)の結成に参画し、1946年(昭和21年)総同盟兵庫県連合会会長に就任した。
花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月… 花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月22日 - 1978年(昭和53年)8月20日)は、日本の農業技術者、政治家。長野県東筑摩郡宗賀村長(3期)、長野県塩尻市議会議員、長野県塩尻市長(第3代、2期)を歴任した。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 長野県東筑摩郡宗賀村本山(現・塩尻市)生まれ。1920年(大正9年)3月、東筑摩郡立農学校を卒業。小学校代用教員、村立宗賀実業補習学校助教諭を務めた後、1932年(昭和7年)に穀物検査員として長野県庁に勤務し、同県農産物検査技術補、農産物検査監督員、食糧検査所支所長などを務め、後に食糧事務所長となる。1945年(昭和20年)の終戦後は、GHQ軍政部と折衝して、長野県内の窮迫した食糧事情の好転に一役買った。
藤井 龍心(ふじい りゅうしん、1903年7月21日 - 1… 藤井 龍心(ふじい りゅうしん、1903年7月21日 - 1998年4月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。種智院大学教授。真言宗智山派管長。智積院65世能化。専門は密教学。真言宗清和院住職。義父に、智積院55世能化の高井観海。
前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 19… 前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 1983年6月3日)は、日本のイスラム学者、東洋史家、東洋学者。慶應義塾大学名誉教授。 1903年、山梨県笛吹市八代町に生まれた。山梨県立日川中学校、東京外国語学校仏語科を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科に進んだ。当時は日本ではほとんど研究する者がなかったイスラム史を志し、アラビア語を学んだ。1928年に同大学を卒業。 卒業後は、台北帝国大学助手や台南州立台南第一中学校教諭を務めた。1940年、南満洲鉄道東亜経済調査局に勤勤。このことで厖大なイスラム文献を自由に手に取り研究する機会を得た。 1953年、学位論文『東西交渉史上におけるイスラム教徒勢力の消長に関する研究』を慶應義塾大学に提出して文学博士号を取得。
鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月2… 鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月20日 - 1975年(昭和50年)12月3日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 静岡県静岡市で生まれる。静岡県立静岡中学校を経て第四高等学校を卒業。1925年(大正14年)11月、高等試験行政科試験に合格し、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。 日本セメント(現太平洋セメント)に入社。1928年(昭和3年)東洋紡績(現東洋紡)に転じ、常務を経て1945年(昭和20年)社長に就任。1946年(昭和21年)社長を辞して東洋冷蔵を経営した。 1949年(昭和24年)望まれて三共第4代社長に就任し、人員整理と品種制限により経営を再建した。
荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989… 荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989年7月8日)は、昭和期の新聞記者・コラムニスト。岐阜県吉城郡(現在の飛騨市)出身。 1926年、旧制斐太中学(現岐阜県立斐太高等学校)を経て早稲田大学政治経済学部卒業。東京朝日新聞に入社。1930年(昭和5年)に飛行家の東善作がロサンゼルスから東京へ三大陸横断飛行を達成した際には、朝日新聞紙上に連載された本人名義の紀行文のゴーストライターを務めている。その後満州事変の従軍記者として活躍し、1937年のジョージ6世戴冠式に特派され文名を高めた。1939年に東京本社社会部長になる。その後、リオデジャネイロ支局長やマニラ総局長を歴任する。 太平洋戦争終結後の1945年11月に論説委員となり、「天声人語」を17年半にわたって担当してその名を高め、1956年に第4回菊池寛賞受賞(「天声人語」の執筆により)。
江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997… 江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997年11月13日)は、日本の実業家。三井不動産社長を務めた。終生、三井グループに影響力を持ち続け、グループ内で地位の低かった三井不動産を「三井御三家」の一角に押し上げた。また東京ディズニーランドのオープンに尽力したほか、妻と娘が関わった桐朋学園の発展にも一役買った。 茨城県筑波郡作岡村大字作谷(現:つくば市)の農家に生まれる。兄1人、姉3人の末っ子だったが、2人の姉は子供の頃早世した。 村の小学校を卒業後、茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学した。自宅から中学まで10キロあったが毎日自転車で通い、隣村の一級下の赤城宗徳(衆議院議員)は同じ自転車通学の仲間だった。
竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 19… 竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 1984年6月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者、小説家。日本芸術院会員。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。 1903年、銀行員の息子として赴任先の大阪市で出生。幼少期は父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現・ソウル)で過ごした。東京府立第四中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に入学。1926年に大学を卒業した。 卒業後はドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省より欧州留学を命じられ、ベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となった。 戦後、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されることとなり、改組後間もない1951年に東京大学教授を退官。
水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1… 水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1990年12月31日)は、新潟県六日町(現南魚沼市)出身の著述家。日本初の女流映画脚本家で後に児童文学作家となった。
志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年… 志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。 1903年(明治36年)7月16日、秋田県に生まれる。 のちに京都に移り、勝見庸太郎に入門、1922年(大正11年)には旧制・東山中学校(現在の東山高等学校)を卒業している。1926年(大正15年)、勝見が「勝見庸太郎プロダクション」を設立、マキノ・プロダクションと配給提携を交わし、映画の製作を開始すると、それに参加する。その後、島耕二と離婚した大谷良子と結婚している。 1937年(昭和12年)には、日活京都撮影所に入社、多く脇役を務めた。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、志茂山は同社に継続入社する。
佐久間 寿美(さくま すみ、1903年(明治36年)7月14… 佐久間 寿美(さくま すみ、1903年(明治36年)7月14日 - 1982年(昭和57年)2月1日)は、埼玉県川越の馬車旅館として創業された「佐久間旅館」の女将として勤め著名人との親交も多かった。川越の女傑とも呼ばれた。
堀口 清(ほりぐち きよし、1903年(明治36年)7月12… 堀口 清(ほりぐち きよし、1903年(明治36年)7月12日 - 1991年(平成3年)4月16日)は、日本の剣道家。段位は全日本剣道連盟 剣道範士九段。居合道範士九段(英信流)。杖道範士。警視庁剣道名誉師範。 群馬県邑楽郡梅島村(現・明和町)新里に生まれる。 小学校入学前から、梅島尋常高等小学校で剣道を教えていた祖父・要吉および群馬師範出身の父・兼太郎から剣道の手ほどきを受ける。 1921年 専修商業学校(現:専修大学)の夜間部に通いながら、修道学院、小沢愛次郎の盈進塾興武館にて剣道に励む。 1924年 警視庁に奉職。神楽坂署へ配属となる。 1928年1月 神楽坂署担当師範だった堀田捨次郎から大刀を頂戴し居合を始める。
大塚 弥之助(おおつか やのすけ、1903年(明治36年)7… 大塚 弥之助(おおつか やのすけ、1903年(明治36年)7月11日 - 1950年(昭和25年)8月7日)は、日本の地質学者である。 東京・日本橋で生まれ、東京高等師範学校附属中学校から静岡高等学校を経て、東京帝国大学理学部地質学教室を1929年(昭和4年)に卒業した。在学中は小沢儀明から地史学の方法を、辻村太郎から地形学の方法を、徳永重康からは新生代生物層序の方法を学んだ。 卒業後は同大学地震研究所の助手として勤務した。大塚の地球科学における研究は広い範囲におよび、地形学・地球物理学・層位学・古生物学・地史学・構造地質学にわたっている。在学中に四国の四万十川の曲流地形を調査し、『地理学評論』に論文を発表した。
日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 19… 日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 1989年2月21日)は電通相談役。岐阜県出身。 岐阜中学校から第四高等学校に進み東京帝国大学法学部政治学科入学。1928年に卒業と同時に電通に入社。上海電通広告公司主任理事を経て、1947年に取締役に就任。その後1950年に常務取締役、1957年に専務取締役、1960年に代表取締役副社長を経て、亡くなった吉田秀雄社長に代わって1963年2月8日に代表取締役社長に就任。電通テック本社ビル建築に指揮を執る。1964年に東京オリンピック大会では「マーケティング局」と「PR局」を新設し国家イベント参画への道を開く。1965年には旧吉田記念館(吉田秀雄氏私邸)および現金1億4千万円の出捐を得て、文部省の認可により吉田秀雄記念事業財団が発足し初代理事長となる。
豊原 道也(とよはら みちや、1903年(明治36年)7月1… 豊原 道也(とよはら みちや、1903年(明治36年)7月11日 - 1980年(昭和55年)12月24日)は、日本の内務官僚、実業家。最後の官選山梨県知事。位階は従四位。 新潟県出身。豊原規矩弥の三男として生まれる。新潟高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。内務省に入省し、秋田県属となる。 1939年、大分県学務部長に就任。以後、茨城県経済部長、長野県書記官・警察部長、厚生省生活局住宅課長、警視庁保安部長、富山県部長・内政部長、浦賀引揚援護局次長などを歴任。 1947年3月、前任の吉江勝保が知事選に出馬のため辞任したことに伴い山梨県知事に就任。
芦田 泰三(あしだ たいぞう、1903年7月10日 - 19… 芦田 泰三(あしだ たいぞう、1903年7月10日 - 1979年10月18日)は、日本の実業家。住友生命保険元社長・会長。 明治36年(1903年)、兵庫県生まれ。昭和2年(1927年)、東京商科大学(現一橋大学)を卒業、同年住友生命入社。京都、ソウル、福岡などの支店長、人事部長、営業部長を歴任し、昭和22年(1947年)財閥解体により名称変更された国民生命保険社長に就任。昭和27年(1952年)もとの社名に改称、昭和41年(1966年)には会長。 源氏鶏太から『三等車に乗る一等重役』と称賛されたという。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
山田 兼松(やまだ かねまつ、1903年7月10日 - 19… 山田 兼松(やまだ かねまつ、1903年7月10日 - 1977年8月27日)は、日本の男子マラソン選手。香川県坂出町(現・坂出市)出身。1928年アムステルダムオリンピックのマラソンで4位に入り、日本人として同種目で初めて入賞した。 1903年、坂出の塩田業者の家に末っ子として生まれる。子どもの頃から塩田での作業に従事していた。当時の塩田では広い浜辺を走り回る作業が多く、従事する人々は自然に足腰が鍛えられた。その中から極東選手権競技大会や「日本オリンピック大会」に出場した森井安平、浜田嘉平らが輩出され、「塩田マラソン」とも呼ばれるようになる。 1920年アントワープオリンピックで、近隣の宇多津出身の大浦留市が5000メートルと10000メートルの代表として出場し、帰郷の際に坂出の青年により「オリンピック歓迎マラソン大会」が実施されたことで、塩田勤務者を含めた地元民の間にマラソンや陸上競技への関心が高まることになった。
江藤 夏雄(えとう なつお、1903年(明治36年)7月9日… 江藤 夏雄(えとう なつお、1903年(明治36年)7月9日 - 1968年(昭和43年)1月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。初代司法卿であった江藤新平の孫。 東京生まれ。父は江藤新平の二男で衆議院議員の江藤新作。冬に生まれた兄が冬雄と名付けられたのと同じく、夏に生まれたので夏雄と名付けられた。第五高等学校、1928年京都帝国大学経済学部卒業後、南満洲鉄道職員、満洲国官吏、興亜院秘書官などを経て1946年3月、第22回衆議院議員総選挙に日本自由党所属として佐賀選挙区に出馬し初当選を果たす。その後、GHQによる公職追放の余波もあり2期にわたり出馬しなかったが、1952年10月、第25回衆議院議員総選挙に自由党から再出馬する。
芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8… 芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者。
渡辺 万寿太郎(わたなべ ますたろう、1903年〈明治36年… 渡辺 万寿太郎(わたなべ ますたろう、1903年〈明治36年〉7月6日 - 1966年〈昭和41年〉8月15日)は、日本の政治家、実業家、資産家。新潟県岩船郡関川村長。渡辺家11代。 新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身。三左衛門の長男。1929年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。1933年、家督を相続する。司法省刑事局嘱託、東大文学部研究嘱託を経て1945年に関谷村長となる。 農業を営む。関谷村農業会長、新潟県農業会同県森林組連同県国民健康保険組連各理事、同県社会保険診療報酬算定協議会委員、同県農業実践大学協会理事同大学校長、同県国民健康保険委員、同県社会教育委員、同県地方森林会、同県医療機関整備審議会、同県公的医療機関運営審議会各委員、全国国民健康保険直営診療施設運営協議会理事に選ばれる。
日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993… 日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993年4月8日)は、日本の刑法学者、裁判官、弁護士、法学博士。 三重県出身。小野清一郎らに師事、刑法学者として改正刑法準備草案、ついで改正刑法草案の作成に関わる。戦後政財界の主な汚職事件で弁護団に参加、ロッキード事件では全日空の若狭得治の主任弁護士として活動した。訳書にイェーリング著『権利のための闘争』(岩波文庫)がある。
中嶋 光矢(なかじま みつや、1903年 <明治36年> 7… 中嶋 光矢(なかじま みつや、1903年 <明治36年> 7月2日 - 1989年 <平成元年> 11月10日)は、日本の経営者。日本短波放送社長を務めた。位階は正五位。 山形県出身。1930年に京都帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に日本経済新聞社に入社。1949年3月に取締役に就任し、1956年2月に常務を経て、1965年5月には日本短波放送社長に就任。1976年6月に最高顧問に就任。 1974年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1989年11月10日老衰のために死去。86歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。