松本 民之助(まつもと たみのすけ、1914年7月11日 -… 松本 民之助(まつもと たみのすけ、1914年7月11日 - 2004年3月15日)は、日本の作曲家、教育者。東京藝術大学名誉教授。 1936年(昭和11年)東京音楽学校甲種師範科卒業。下総皖一に作曲、伊藤武雄に声楽、福井直俊にピアノを師事する。1936年 (昭和12年) ベルリンオリンピックの芸術競技で佳作入選。1938年(昭和14年)交響曲『文覚』がワインガルトナー賞優等賞受賞。作曲家の松本日之春、松本清は息子。弟子に坂本龍一や嵐野英彦、赤石敏夫らがいる。東京芸術大学音楽学部附属高等学校で松本に師事した奥慶一によれば「非常に熱心かつ厳格」という人物評がある。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
渡辺 俊男(わたなべ としお、1914年〈大正3年〉7月10… 渡辺 俊男(わたなべ としお、1914年〈大正3年〉7月10日 - 2007年〈平成19年〉8月18日)は、日本の運動生理学者、脳生理学者、医師。医学博士。お茶の水女子大学教授、横浜国立大学教授、日本大学教授。日本体力医学会名誉会員。 新潟県岩船郡関谷村下関(現 関川村下関)で渡辺医院(内科・外科)を開業する医師・渡辺彊(つとむ)の長男として出生。 関尋常高等小学校を経て、1932年(昭和7年)3月に新潟中学校を卒業、1934年(昭和9年)4月に東京慈恵会医科大学予科に入学、1937年(昭和12年)3月に予科を修了、1941年(昭和16年)3月に東京慈恵会医科大学医学部を卒業。 軍医として仙台の日本陸軍第2師団に入隊、会津若松陸軍病院に勤務、1943年(昭和18年)に応召、中国北部の日本陸軍第59師団に入隊、野戦病院(第3311部隊)に勤務、1945年(昭和20年)8月15日に朝鮮北東部の興南で終戦、ソビエト連邦によってシベリアに抑留され、1947年(昭和22年)12月に舞鶴港に帰還、最終階級は陸軍軍医少佐(ポツダム少佐)。
雲藤 義道(うんどう ぎどう、1914年〈大正3年〉7月8日… 雲藤 義道(うんどう ぎどう、1914年〈大正3年〉7月8日 - 2000年〈平成12年〉11月2日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。位階は従四位。 島根県出身。1937年(昭和12年)に東京帝国大学文学部宗教学科卒業。中山文化研究所、1965年武蔵野女子大学教授、1972年学長、1985年定年退任、名誉教授。武蔵野学院長。1986年春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。2000年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
岡崎 文次(おかざき ぶんじ、1914年(大正3年)7月7日… 岡崎 文次(おかざき ぶんじ、1914年(大正3年)7月7日 - 1998年(平成10年)7月23日)は、日本の技術者。富士写真フイルム在籍時の1956年、ほとんど独力で国産初のプログラム記憶方式のコンピュータ「FUJIC」を開発した。 富士写真フイルム退職後、日本電気(NEC)を経て、専修大学経営学部が情報教育開始のため「情報管理学科」を設置する際に、初代教授として招聘された。 「科学朝日」1948年8月号のSSEC(Selective Sequence Electronic Caculator)の記事とグラビア写真を見て計算機の実現可能性を信じたことが、岡崎文次のFUJIC開発の動機である。
高木 豊(たかぎ ゆたか、1914年7月7日 - 2005年… 高木 豊(たかぎ ゆたか、1914年7月7日 - 2005年5月14日)は日本の物理学者。特に強誘電体の研究者として有名である。東京工業大学、名古屋大学、大同工業大学(現在の大同大学)で教授を務めた。 1914年、現・大韓民国の釜山市で生まれた。旧制福岡高等学校を経て東京帝国大学(現・東京大学)に入学。1937年、同大学理学部物理学科を卒業し、授業担当の嘱託を経て1939年に理学部講師に就任。ここでエントロピーを計算する「高木の方法」を開発し、合金の規則-不規則転移を統計力学的に導いた。また、スレーターモデルを拡張して強誘電体であるKH2PO4の相転移を考察している。 1942年に第二工学部講師となり、高温まで連続で測定できる断熱型比熱測定法を開発し、「長崎-高木断熱計」と名付けられた。
下光 軍二(しもみつ ぐんじ、1914年7月5日 - 200… 下光 軍二(しもみつ ぐんじ、1914年7月5日 - 2009年2月1日)は、日本の弁護士。1980年に破産したネズミ講「天下一家の会・第一相互経済研究所」の破産管財人。朝日法律相談所の設立メンバー。第一東京弁護士会所属。東京医科大学教授の下光輝一は息子。 1914年、広島県に生まれる。1941年、中央大学法学部卒業。1946年、弁護士開業。1949年、朝日新聞法律相談所を開設。 2009年、多発性脳梗塞にて死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。
柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月… 柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月3日 - 1990年(平成2年)1月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1932年(昭和7年)岐阜県立岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。その後、日本大学を卒業した。 岐阜県会議員に選出され、司法保護委員も務めた。柳原工業工場長、同取締役副社長、岐阜商工会議所議員、岐阜県体育協会長などを歴任。岐阜青年連盟主幹に就任し『暁鐘』を主宰した。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で岐阜県第1区に民主党公認で出馬して初当選。その後、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
木下 昌雄(きのした まさお、1914年 <大正3年> 7月… 木下 昌雄(きのした まさお、1914年 <大正3年> 7月3日 - 1995年 <平成7年> 7月19日)は、日本の経営者、工学博士。日立造船社長を務めた。位階は正四位。運動生理学者・木下東作の次男。兄は動物生理学者の木下治雄。妻・敦子は東京都知事・日本赤十字社社長を務めた東龍太郎の長女。 大阪府出身。1937年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造船大尉を経て、1940年に東京帝国大学工学部助教授に就任し、1946年に鉄道技術研究所での勤務を経て、1949年に日立造船に入社。1964年11月に取締役に就任し、1967年11月に常務を経て、1973年11月に副社長に就任し、1979年6月に社長に昇格。
上松 陽助(うえまつ ようすけ、1914年(大正3年)7月2… 上松 陽助(うえまつ ようすけ、1914年(大正3年)7月2日 - 1996年(平成8年)1月18日)は、日本の政治家。岐阜県知事、岐阜市長を務めた。岐阜県名誉県民、岐阜市名誉市民。 岐阜県岐阜市出身。岐阜中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)、第八高等学校(現:名古屋大学)、東京帝国大学法学部政治学科(現:東京大学)卒業。 その後、日鉄鉱業に就職し、兵役を経て、雑貨を扱う常盤産業株式会社を設立し代表取締役社長に就任。 岐阜市役所に入庁し、経済部長、企業部長、民生部長、農林部長、民生局長等の要職を歴任した。収入役を経て、1970年に岐阜市長に初当選。 1977年2月に岐阜県知事選挙に出馬し、日本社会党参議院議員の中村波男らを破り初当選。
北川 悌二(きたがわ ていじ、1914年7月2日- 1984… 北川 悌二(きたがわ ていじ、1914年7月2日- 1984年12月16日)は、日本の英文学者。 東京生まれ。1938年東京帝国大学文学部英文科卒。旧制松本高等学校教授、旧・東京都立大学助教授を経て、東京大学教養学部教授、1975年定年、立正大学教授、獨協大学教授。 エリザベス朝演劇からサマセット・モーム、チャールズ・ディケンズ、ハーマン・メルヴィルなど幅広く翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大平 昌彦(おおひら まさひこ、1914年7月1日 - 20… 大平 昌彦(おおひら まさひこ、1914年7月1日 - 2010年2月1日)は日本の医学者。岡山大学名誉教授。専門は公衆衛生学。 福岡県出身。1932年福岡県中学修猷館、1935年旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1939年九州帝国大学医学部卒業。同年5月九州帝国大学医学部第3内科(小野寺直助教授)に入局するが、同年7月には海軍軍医となり、横須賀海軍病院、海軍軍医学校、連合艦隊第4潜水戦隊、海南島陸戦隊、稚内通信隊、海軍潜水学校、ラバウル潜水艦基地に勤務する。 1946年5月復員。同年10月九州帝国大学大学院特別研究生となり、1948年9月満了。九州大学医学部助手を経て、1950年5月助教授に就任。
玉置 猛夫(たまき たけお、1914年(大正3年)7月1日 … 玉置 猛夫(たまき たけお、1914年(大正3年)7月1日 – 2010年(平成22年)4月21日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 香川県小豆郡草壁村(草壁町、内海町草壁本町を経て現小豆島町)で生まれる。1941年(昭和16年)神戸商業大学(現神戸大学)を卒業した。 1941年、日本銀行に入行。外国為替局、考査局、為替管理局などで勤務し、1960年(昭和35年)に退行した。 1960年11月の第29回衆議院議員総選挙に香川県第1区から無所属で出馬して落選し、以後1967年(昭和42年)1月の第31回総選挙まで2回連続で立候補したがいずれも落選。1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
遠藤 正則(えんどう まさのり、1914年(大正3年)6月3… 遠藤 正則(えんどう まさのり、1914年(大正3年)6月30日 - 2009年(平成21年)4月26日)は、昭和から平成時代の政治家。東京都文京区長。文京区名誉区民。 茨城県水戸市出身。茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を卒業後上京し、1933年(昭和8年)7月、東京市本郷区に奉職し、1939年(昭和14年)中央大学商学部二部を卒業した。戦時中は千葉県市川市国府台の高射砲隊にいた。のち文京区教育委員会学務課長、総務部長、助役を経て、1973年(昭和48年)12月、文京区長に就任した。1999年(平成11年)4月の任期満了まで6期24年務めた。この間、特別区長会会長を歴任した。ほか、特別区人事・厚生事務組合管理者、特別区協議会理事長を務めた。
小長谷 睦治(こながや むつはる、1914年6月30日[要出… 小長谷 睦治(こながや むつはる、1914年6月30日[要出典] - 1988年4月3日[要出典])は、大日本帝国海軍軍人で、のちに日本の実業家となる。 広島県江田島町(現江田島市)に生まれる。1936年に海軍機関学校を卒業し、翌1937年海軍機関少尉に任官した。空母加賀、大村海軍航空隊、横須賀海軍航空隊での勤務の後、海軍機関学校教官、第三航空艦隊参謀などを歴任した。 1945年8月の終戦後、海軍少佐として厚木連絡委員会委員を命じられ、マニラのダグラス・マッカーサー連合国最高司令官の下に派遣される降伏軍使の搭乗する緑十字機の準備など、終戦処理に従事した。 1946年の海軍解体により、千葉県銚子市で水産加工業、水飴澱粉製造、肥料製造などを手がけた。
鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年)6月28日… 鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年)6月28日 - 2006年(平成18年)11月7日)は、日本の実業家。三菱銀行入行を皮切りに、三菱グループで三菱重工業副社長や三菱自動車販売(現三菱自動車工業)社長・会長などを歴任した。 鈴木商店(現味の素)第2代社長鈴木忠治の六男。鈴木商店創業者の2代目鈴木三郎助は伯父。長兄に三楽オーシャン(現メルシャン)社長・会長を務めた鈴木三千代、次兄に工学博士で昭和電線電纜会長を務めた鈴木松雄、三兄に鈴木竹雄(東京大学名誉教授)、四兄に通商産業省重工業局長等や日揮会長を務めた鈴木義雄、五兄に経済同友会副代表幹事や昭和電工社長・会長を務めた鈴木治雄、弟に大蔵省国際金融局長や国際通貨基金理事などを務めた鈴木秀雄、多摩電気工業(現・真田KOA)会長を務めた鈴木泰雄がいる。
霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日… 霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日 - 1984年(昭和59年)4月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は坂本 榮吾。福島県双葉郡大久村(現在のいわき市)出身。1979年(昭和54年)紫綬褒章受章。 1914年(大正3年)に福島県双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。 浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまり、1936年(昭和11年)にコロムビアに入社。
雨宮 恒之(あまみや つねゆき 1914年6月25日 - 2… 雨宮 恒之(あまみや つねゆき 1914年6月25日 - 2001年1月7日)は日本の映画プロデューサー、実業家。ペンネームは福 閑太郎(フク カンタロウ)。山梨県出身。 松本高等学校文科乙類を経て、1939年に東京帝国大学文学部美術科を卒業、東宝に入社した。 1941年の太平洋戦争中は将校となり、ジャワ島に派遣された。1945年10月から12月頃、クマヨラン(英語版)飛行場作業隊副官陸軍大尉だった彼はジャカルタ治移動演芸隊の演技指導も行った。 戦後、1949年12月28日に東宝取締役として復帰した。1952年1月25日に交通事故で亡くなった森田信義に変わって東宝撮影所所長となる。1955年9月20日に支配人制となり辞任。
髙橋俊英(たかはし としひで、1914年6月24日 - 19… 髙橋俊英(たかはし としひで、1914年6月24日 - 1979年11月5日)は、日本の大蔵官僚。理財局次長、銀行局長、住宅金融公庫理事、同副総裁、公正取引委員会委員長などを歴任。 茨城県出身。1938年10月 高等試験行政科を合格。東北帝国大学法文学部卒業。1939年 大蔵省入省。預金部資金局監理部。1955年8月10日 理財局総務課長兼理財局国庫課長。同年9月1日 理財局総務課長。1956年7月20日 理財局総務課長兼理財局資金課長。同年10月22日 理財局総務課長。1957年6月 経済企画庁調整部参事官。同年8月 経済企画庁調整局参事官。1958年7月18日 東京税関長。1959年8月1日 銀行局検査部長。
稲玉 貞雄(いなだま さだお、1914年(大正3年)6月23… 稲玉 貞雄(いなだま さだお、1914年(大正3年)6月23日 - 1989年(平成元年)4月17日)は、昭和時代の政治家。長野県更埴市長。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 長野県埴科郡森村(現・千曲市)生まれ。1932年(昭和7年)長野県屋代中学校卒業。 南満洲鉄道教習所から満鉄に入り、旅順駅助役となる。引き揚げ後の1947年(昭和22年)森村役場に入り。1959年(昭和34年)更埴市土木課長、1963年(昭和38年)総務課長、1967年(昭和42年)収入役、1974年(昭和49年)助役を経て、1978年(昭和53年)更埴市長に当選。1989年(平成元年)病気により引退した。この間、時代の変化に対応した行政改革を行った。
奥村 虎雄(おくむら とらお、1914年6月23日 - 没年… 奥村 虎雄(おくむら とらお、1914年6月23日 - 没年不明)は、愛媛県出身の通産官僚、業界団体役員。 浦和高等学校 (旧制)を経て、1938年東京帝国大学法学部卒業。同年商工省入省。同期に倉八正(特許庁長官、石油公団4代目総裁)、橋口隆(衆議院議員、総務副長官(政務担当))日高準之介(日銀政策委員経企庁代表)、奥宮正典(石油鉱業連盟副会長)、五神辰雄(中大法卒、神奈川県副知事)、磯野太郎(繊維局長)など。 1962年1月総理府土地調整委員会事務局長で退官。のち日本鉄鋼連盟へ。専務理事を経て、1980年副会長。在任中、業界団体のなかでは先駆けて、鉄鋼各社をリードする人材育成をする必要性から、各社従業員の技術革新への対応のために産業技術短期大学への派遣、自由化・国際化への対応のために欧米諸国への研修生派遣などの措置をとり、高度経済成長期に鉄鋼連盟はその他業界団体の模範として知られてゆくこととなった。
大村 政夫(おおむら まさお、1914年6月23日 - 19… 大村 政夫(おおむら まさお、1914年6月23日 - 1998年2月11日)は、日本の彫刻家。高等学校美術科教諭、高校野球指導者。日展特選2回。日展参与を務めた。 東京都京橋区東湊町に生まれる。伊豆豆陽中学卒業。1940年3月、東京美術学校彫刻科卒業。同年12月、応召従軍。1949年、静岡県立静岡城内高等学校奉職。1951年、静岡県立静岡商業高等学校非常勤講師奉職。1963年、静岡商業高校非常勤講師退任。1968年第11回日展・1969年改組第1回日展において特選(2年連続)。1975年、静岡高校退職。 1949年から1975年の間、静岡高校で多くの後進を育てた。薮崎昭は画家を目指し大村に相談したところ「『よし、明日からやろう』と言われ、石膏デッサンが始まった。
新橋 喜代丸(しんばし きよまる、1914年〈大正3年〉6月… 新橋 喜代丸(しんばし きよまる、1914年〈大正3年〉6月22日 - 没年不明)は昭和初期に活躍した芸者歌手。本名生駒光江。 1914年(大正3年)岡山県真庭郡落合町(現在の真庭市)に生まれる。1933年(昭和8年)に上京し新橋喜代三に師事する。1935年(昭和10年)の『月の東京』でデビューして以降、タイヘイレコードの歌手として『花嫁双六』などのヒット盤を出した。
篠崎 信男(しのざき のぶお、1914年6月21日 - 19… 篠崎 信男(しのざき のぶお、1914年6月21日 - 1998年4月16日)は、日本の人口学者。 東京出身。別名・神寺人言(じんげんひとよ)。 第一高等学校、東京帝国大学理学部数学科をへて、1939年長谷部言人によって新設された人類学科に移り第一期生として卒業。 1961年「血族結婚部落に関する生体人類学的研究」で東京大学理学博士。 1943年厚生省に入り、人口問題研究所、同人口資質部長。1984年日本人口学会会長。1984年勲二等瑞宝章受勲。
久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - … 久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - 1954年9月23日)は、日本の漁船員。マグロ漁船第五福竜丸操業中にビキニ環礁付近でアメリカの水爆実験の被害に遭い半年後に死去した。 1914年6月21日、静岡県志太郡焼津町(現在の焼津市)に生まれる。 1942年1月9日(当時27歳)、久保山はクェゼリン島第四艦隊第6防備隊に配属された特別監視艇(焼津港所属漁船)「第五福吉丸」に乗り組んでいた。1944年1-3月、船は撃沈されたが、久保山は43年5月に虫垂炎で入院・帰国していて助かった。 1954年1月、マグロ漁船第五福竜丸無線長として出航。南太平洋ビキニ環礁付近で操業中の同年3月1日未明、核実験(ブラボー実験)で被曝した。
谷口 陸男(たにぐち りくお、1914年6月20日 - 19… 谷口 陸男(たにぐち りくお、1914年6月20日 - 1988年10月21日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 1914年、三重県生まれ。東京帝国大学文学部英文科を卒業。 神戸大学助教授ののち、東京大学教養学部教授を務めた。1975年に東京大学を定年退官し、その後は大谷女子大学、中京大学教授として教鞭をとった。1987年、東京大学名誉教授となった。 英米文学のうち、ロスト・ジェネレーションの米国作家たちを主な研究対象とした。ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーなどの翻訳を手掛けた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1… 島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1989年11月10日)は、日本の政治家。 日本社会党に所属し中選挙区時代の衆議院北海道第1区で5度当選を果たしたほか、仁木町長を2期務めた。 船頭の長男として北海道高島郡高島町(現小樽市)に生まれた。高島小学校の高等科を卒業後、地元の水産試験場に勤めながら札幌逓信講習所の受験勉強を行い1928年に合格した。 札幌逓信講習所を卒業し1929年から札幌郵便局電信課、1934年から小樽郵便局電信課に勤務、その後札幌逓信講習所の高等科に入所、1942年には逓信官吏練習所に合格したが陸軍に尉官待遇で徴用されてフィリピンのマニラに派遣され、そこで1年半余り過ごした後、ネグロス島に送られ終戦を迎え、1945年12月に復員した。
本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - … 本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - 1977年5月21日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。独立し、映画監督を兼ねるようになってからの筆名に岸本 恵一(きしもと けいいち)、高木 丈夫(たかぎ たけお)、藤本 潤三(ふじもと じゅんぞう)、藤本 潤二 (ふじもと じゅんじ)等がある。
柳田 友道(やなぎた ともみち、1914年(大正3年)6月1… 柳田 友道(やなぎた ともみち、1914年(大正3年)6月18日 - 2012年(平成24年))は、 東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、東京大学教授、応用微生物研究所所長を経て、富山大学教授から富山大学学長に就任。 日本の微生物学者として、微生物科学を確立した。 1914年(大正3年) 誕生(茨城県磯原町) 1937年(昭和12年) 東京帝国大学医学部薬学科入学 1940年(昭和15年) 海軍短期現役士官 薬剤科 1946年(昭和21年) 東京大学理学部植物学教室研究生 1962年(昭和37年) 東京大学教授 1968年(昭和43年) 東京大学応用微生物研究所(東京大学定量生命学研究所)の7代目所長に就任 1975年(昭和50年) 東京大学名誉教授、富山大学教授に就任 1979年(昭和54年) 富山大学学長に就任 1985年(昭和60年) 退官、富山大学名誉教授 2012年(平成24年10月) 北海道にて没。
鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性… 鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性、1914年6月17日 - 1992年2月19日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。193cmの長身選手として1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場した。 1914年東京生まれ。東京府立五中、武蔵高校を経て、東京帝国大学経済学部に進学。在学中は籠球部レンジャースに所属して主将を務めた。1936年のベルリンオリンピックには、バスケットボール日本代表として出場した。 大学卒業後は日産自動車に勤務したが、戦後退社して陶器の輸出入を手掛ける茜商会を起業した。会社経営の一方で日本バスケットボール協会の理事として後進の育成にあたり、1957年5月には日本スポーツ界代表団の一員として中華人民共和国を訪問した。
熊谷 清一郎(くまがい せいいちろう、1914年6月16日 … 熊谷 清一郎(くまがい せいいちろう、1914年6月16日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者、東京大学名誉教授。 岩手県盛岡市出身。1932年に盛岡中学を卒業。1940年に東京帝国大学工学部卒業、1943年東京帝国大学大学院満期退学。戦後東京大学教授となり、定年後名誉教授となる。その後は岩手大学で教授を務め、退職後はノーリツ基礎研究所所長もつとめた。 内燃機関研究を主に行い、国際燃焼学会で活躍した。 一般向け著作として、「火」(1979年)、「エンジンの話」(1981年)(いずれも岩波新書)がある。
金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月… 金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月14日 - 1989年4月24日)は、日本の歴史家。法学博士。法制史、海事慣習制度の研究者。 1914年6月14日、静岡県富士市に生まれる。静岡県立富士中学校、福岡高等学校文科丙類を卒業。1941年3月、東京帝国大学文学部国史学科卒業。1943年、同経済学部経済学科卒業。のち、同大学院経済学研究科修了。1962年、「江戸時代の海難救助制度の研究」により明治大学から法学博士の学位を取得。1952年、海上保安大学校教授。1973年4月から1975年4月まで教頭。1976年11月、海上保安大学校退官、名誉教授の称号を授与される。山陽女子短期大学教授、呉市立図書館長。
永井 智雄(ながい ともお、本名:飯沼 修(いいぬま おさむ… 永井 智雄(ながい ともお、本名:飯沼 修(いいぬま おさむ) 1914年6月14日 - 1991年6月17日)は、日本の俳優。東京都出身。
岡田 春夫(おかだ はるお、1914年6月14日 - 199… 岡田 春夫(おかだ はるお、1914年6月14日 - 1991年11月6日)は、日本の政治家。衆議院副議長(第53-54代)、衆議院議員(15期)。 戦後日本社会党の安全保障問題の代表的な論客として名を馳せ、「爆弾男オカッパル」の異名をとった。幼名・穣。父の初代・岡田春夫も政治家(立憲民政党所属の代議士)で、父の死後名前を「穣」から父と同じ「春夫」に改名した。外交官の岡田晃は弟。長男は岡田宰(弁護士)、次男は岡田充(共同通信客員論説委員・客員大学教授)。 北海道美唄市生まれ。出生地の美唄市には生家が保存されている。1937年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業。製材業、北海道議会議員を経て、1946年戦後初の総選挙で旧北海道4区から衆議院議員に初当選。
松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)… 松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)6月13日 - 1994年(平成6年)12月23日)は、日本の実業家。日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)副社長、日本ケーブルテレビジョン社長を務めた。 松岡洋右の長男としてワシントンで生まれる。東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同盟通信に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業。第一南遣艦隊司令部付となりカムラン湾に赴任。第11根拠地隊付(サイゴン)、第2海軍航空工廠会計部勤務(木更津)を歴任。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む。同年、海軍省軍務局第4課(大本営報道部)に転じ終戦を迎えた。
木津 三郎(きづ さぶろう、1914年(大正3年)6月12日… 木津 三郎(きづ さぶろう、1914年(大正3年)6月12日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県三郷市長(第4代 – 第6代)。 実子は現三郷市長の木津雅晟。 埼玉県北葛飾郡早稲田村(現・三郷市)出身。埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)、東京専修学院卒。卒業後は早稲田村役場に奉職する。その後は三郷村、三郷町、三郷市に勤務し、市制施行後に収入役、助役となる。1982年、三郷市長選挙に立候補して当選する。市長を1994年までの3期務めた。1995年、勲四等旭日小綬章を受章した。
横井 大三(よこい たいぞう、1914年6月11日 - 20… 横井 大三(よこい たいぞう、1914年6月11日 - 2006年7月22日)は、日本の検察官。最高裁判所判事。本籍は神奈川県だが、生まれたのは朝鮮平安北道。 旧制府立高等学校を経て1937年(昭和12年)に東京帝国大学法科を卒業。司法官試補となり、1938年(昭和13年)から裁判官として法曹キャリアをスタートさせ、東京・新潟地裁などに勤務したが、1945年(昭和20年)4月に司法省に転じ、以降は検察官となる。現行刑事訴訟の「証拠」の項目をGHQと折衝しながらつくりあげた。その後、刑事局参事官、刑事局刑事課長、ついで東京地検、東京高検、最高検それぞれの公判部長を務めた。 仙台高検検事長、名古屋高検検事長を務めた後、1977年(昭和52年)6月に定年退官し、約1年間専修大学の教授をしていた。
森 寅雄(もり とらお、1914年〈大正3年〉6月11日 -… 森 寅雄(もり とらお、1914年〈大正3年〉6月11日 - 1969年〈昭和44年〉1月8日)は、日本人の剣道家、フェンシング選手。剣道の段位は八段(範士追贈)。米国フェンシング界では「タイガー・モリ」の異名をとった名選手である。昭和初期の日本剣道界、米国フェンシング界でトップクラスの実力を持ちながら、さまざまな事情で優勝を逃した「悲運の剣士」としても知られる。 群馬県山田郡桐生町新宿(現・桐生市新宿)に、野間(旧姓・岡田)善次郎・ヤスの子として生まれる。初名は野間 寅雄。曽祖父は幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人である森要蔵。寅雄の名は、要蔵とともに白河戦争で戦死した彼の息子(野間寅雄の大叔父)・森寅雄にちなんだものである。
土倉 麻(どぐら あさ、1914年6月11日 - 2008年… 土倉 麻(どぐら あさ、1914年6月11日 - 2008年4月20日)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。1932年ロサンゼルスオリンピックに女子100メートル競走および400メートルリレー走で出場。 同じロサンゼルスオリンピック参加者の田島直人と結婚し、田島姓となった。日本のオリンピック選手同士の結婚の第一号である。 京都市出身。祖父は「大和の山林王」と謳われた土倉庄三郎で、庄三郎の長男・鶴松の娘が麻である。 京都府立京都第一高等女学校高等科(現在の京都府立鴨沂高等学校)在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに女子100メートル競走および400メートルリレー走に出場。前者は予選落ちしたが、後者で日本チーム(他に中西みち・村岡美枝・渡辺すみ子)は5位に入賞した。
黒澤 俊夫(くろさわ としお、1914年6月10日 - 19… 黒澤 俊夫(くろさわ としお、1914年6月10日 - 1947年6月23日)は、大阪府出身のプロ野球選手(外野手)。
早坂 寿雄(はやさか としお、1914年(大正3年)6月10… 早坂 寿雄(はやさか としお、1914年(大正3年)6月10日 - 2004年(平成16年)3月9日)は、日本の電気音響学者。 1914年6月10日生まれ。1937年3月、東北帝国大学工学部電気工学科卒業。同年4月、同学部助手。1941年3月、逓信省電気試験所技師。1945年7月、工学博士。1952年11月、日本電信電話公社電気通信研究所音響研究課長。1959年2月、同電気通信研究所次長。1963年4月、同理事・所長。1967年5月、沖電気工業常務取締役。1970年5月、同専務取締役。1984年11月、勲三等瑞宝章受章。 1956年5月から1958年5月まで、日本音響学会会長。
渡辺 綱也(わたなべ つなや、1914年〈大正3年〉6月9日… 渡辺 綱也(わたなべ つなや、1914年〈大正3年〉6月9日 - 1979年〈昭和54年〉8月24日)は、日本の国文学者、国語学者。新潟大学名誉教授。 新潟県東蒲原郡津川町大字津川(現 阿賀町津川)出身。 1933年(昭和8年)3月に新潟中学校を卒業、1936年(昭和11年)3月に新潟高等学校を卒業、1939年(昭和14年)3月に東京帝国大学文学部国文学科を卒業、東京帝国大学文学部大学院に入学、1942年(昭和17年)3月に退学。 1942年(昭和17年)4月に東京帝国大学文学部助手に就任、1943年(昭和18年)9月に陸軍予科士官学校教授に就任、東京帝国大学文学部助手を兼任、1944年(昭和19年)5月に東京帝国大学を退職、1945年(昭和20年)8月に陸軍を退官。
右近 保太郎(うこん やすたろう、1914年6月8日 - 1… 右近 保太郎(うこん やすたろう、1914年6月8日 - 1997年9月8日)は、日本の経営者。日本火災海上保険社長、会長を務めた。福井県出身。 1938年に東京帝国大学経済学部商学科を卒業し、同年に東京海上火災保険に入社。。 1946年に日本火災海上保険に転じ、1957年に常務に就任し、1958年6月には副社長に就任し、1963年7月には社長に昇格。1981年7月に会長に就任し、1984年に取締役相談役に就任。 1975年10月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1997年9月8日呼吸不全のために死去。83歳没。
荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 199… 荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 1999年1月5日)は日本の医師、生化学者、歯学者。元東北大学歯学部長、歯学部教授、東京医科歯科大学歯学部生化学講座初代主任教授、国立予防衛生研究所歯科衛生部部長。 1938年、日本大学医学部卒業。卒業後、同大学生化学教授の志賀直の元で研究に従事、志賀の台北帝国大学赴任に同行。 戦後、東京医学歯学専門学校(東京医科歯科大学)にて研究、1952年東京医科歯科大学歯学部生化学講座開設に伴い教授に就任。山本肇、佐伯政友らと東北大学歯学部創設のため1966年に東北大学へ赴任、1967年同歯学部長。 1971年兼任で国立予防衛生研究所歯科衛生部部長、1977年に専従、1980年退任。
飯塚 敏子(いいづか としこ、1914年6月8日 - 199… 飯塚 敏子(いいづか としこ、1914年6月8日 - 1991年12月14日)は、日本の女優。本名・本間 敏子(旧姓・飯塚)。 戦前の松竹時代劇を代表する女優の一人である。 1914年6月8日、埼玉県大里郡武川村明戸(現・深谷市)に生まれる。生後間もなく、東京市芝区新橋(現・東京都港区新橋)にて「新橋旅館」を経営していた実家に移る。従って、現役時代の俳優名鑑等では、「東京生まれ」と書かれた物も多い。小学校の頃から、岡安喜代八について三味線と尺八を学ぶ。1927年、文化学院女学部に入学。同校の先輩に夏川静枝・入江たか子・伊達里子などがいる。家庭の事情により同校を3年で辞め、家業を手伝っていたが、1930年に雑誌「婦人公論」主催の美人投票に当選する。
金久 卓也(かねひさ たくや、1914年6月7日 - 200… 金久 卓也(かねひさ たくや、1914年6月7日 - 2008年6月26日)は、日本の医学者、内科学者。医学博士。内科疾患の精神身体医学的側面について研究した、日本における心身医学の草分け。鹿児島大学名誉教授。 鹿児島県瀬戸内町生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)四年修了を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科を1934年に卒業。1938年、九州帝国大学医学部を卒業。学部では操坦道のもとでデング熱やワイル病について研究した。金子廉次郎教授の第一内科に入局し九大講師。1945年11月、「黄疸出血性レプトスピラ病における出血の成因に関する実験的研究」で九州大学より医学博士取得。また戦後は稲田竜吉東京大学教授が主催するインフルエンザ研究会にも参加した。
廣江美之助(ひろえ みのすけ、1914年6月7日 - 200… 廣江美之助(ひろえ みのすけ、1914年6月7日 - 2000年1月12日)は日本の植物学者である。専門はセリ科植物の分類学的研究である。 岐阜県出身、東京大学植物学科を経て、カリフォルニア大学に留学した。京都大学教授を長く務めた。昭和30年頃から警察の植物鑑定に協力し、『捜査植物学』全4巻を出版し、京都府警永年捜査貢献賞を受賞した。
中田 大三(なかだ だいぞう、1914年〈大正3年〉6月7日… 中田 大三(なかだ だいぞう、1914年〈大正3年〉6月7日 - 1998年〈平成10年〉3月25日)は、日本の実業家。神戸電鉄をはじめとする神戸電鉄グループの発展に大きく尽力した。 1914年(大正3年)6月7日に山梨県甲府市に生まれる。1936年(昭和11年)山梨高等工業学校電気工学科を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄で会社としては現在の阪急阪神ホールディングス)に入社。1966年(昭和41年)11月に取締役に就任し、1969年(昭和44年)5月に常務となった。 神戸電鉄では、1970年(昭和45年)に三木駅衝突事故や丸山駅追突事故など多数の負傷者を出す重大事故を繰り返して大阪陸運局(現・近畿運輸局)より特別監査が行われており、さらに1954年(昭和29年)以来無配状態を続けるという経営状態で、これを受けて社長の原泰良や専務・常務が退任する事態になっていた。
三浦 一郎(みうら いちろう、1914年6月6日 - 200… 三浦 一郎(みうら いちろう、1914年6月6日 - 2006年3月13日)は、日本の西洋史学者・エッセイスト。元茨城大学教授、上智大学名誉教授。 東京府豊島師範学校附属小学校、旧制武蔵高等学校を経て、東京帝国大学西洋史卒業。 戦後新制成蹊高等学校教諭を経て、茨城大学助教授、1966年同大学教授、1970年上智大学教授、1980年同大学特別待遇教授、1985年退職、同大学名誉教授。ギリシア古代西洋史を専門とするが、『世界史こぼれ話』が角川文庫に収められて人気を博した。 没年91。葬儀は日本基督教団高輪教会、喪主は長男の三浦久利夫(くりお)。
川瀬 二郎(かわせ じろう、1914年6月5日 - 1981… 川瀬 二郎(かわせ じろう、1914年6月5日 - 1981年12月15日)は、日本の経営者。日本板硝子元社長。福岡県出身。 1935年に彦根高等商業学校を卒業し、同年4月に日本板硝子に入社。1962年5月に取締役に就任し、1966年5月に常務を経て、1971年5月には社長に就任。1976年5月に取締役相談役を経て、1978年6月には相談役に退いた。 1981年12月15日、肝硬変のために死去。67歳没
神威山 力雄(かむいやま りきお、1914年6月5日 - 1… 神威山 力雄(かむいやま りきお、1914年6月5日 - 1974年2月19日)は、北海道室蘭市出身で花籠部屋に所属した元大相撲力士。本名は熊谷 力雄。最高位は十両4枚目。 花籠部屋に入門し、1929年5月初土俵を踏む。1934年1月満19歳で十両に昇進。この場所負け越し、幕下に落ちる。1935年1月、一場所で十両に復帰したが、この場所も負け越し再び幕下に落ちる。1936年1月、三度目の十両昇進で勝ち越し、この場所から5場所連続十両の地位にあった。1938年5月幕下に落ち十両復帰を目指し、「神惠山」(かむえやま)に改名(1941年5月)したが、十両に復帰することなく1942年5月に廃業した。1974年死去。