中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元… 中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元年3月10日)- 1913年(大正2年)5月21日)は、幕末から明治時代の農地改革者、技術者。 庄屋の子として伯耆国久米郡中河原村(鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現倉吉市中河原)に生まれる。9歳の頃に寺子屋で農業を学ぶ。後に耕地を所有し、1858年(安政5年)に鳥取藩が執行した地方改革により、中庄屋に昇格した。 明治維新後、最高位の戸長及び地券の取調役となり、全国の稲作を巡回し農地改革の講演を行う。耕地は実子の中井益蔵に譲る。1884年(明治17年)、田植えの際、苗の間隔を一定にするため、田に目印をつけるための農具である田植え定規を発明。
広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830… 広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士(会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。 広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。
井深 宅右衛門(いぶか たくえもん、文政13年1月26日(1… 井深 宅右衛門(いぶか たくえもん、文政13年1月26日(1830年2月19日) - 明治30年(1897年)3月19日)は、日本の幕末から明治にかけての武士(会津藩士)、地方官吏、教育者である。幼名は梶之助、名は重義、宅右衛門は通称である。 父の死去により、家禄550石の井深家を継ぐ。物頭、組頭、町奉行、奏者番上席などを歴任し、京都守護職となった会津藩軍事奉行として幕末の京へ赴く。慶応2年(1866年)に会津へ戻り学校奉行に就任。藩校・日新館館長として教育にあたる。後の白虎隊士らが在籍していた時期である。鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩は藩領の防衛体制を固めることになり、宅右衛門は日新館の教師、学生などから構成された第二遊撃隊頭として出陣。
十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 … 十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 - 1892年12月2日)は、江戸時代幕末から明治時代の武士、軍人、勤皇家。 肥前国大村藩士の稲垣主計の三男として大村に生まれる。通称は巳之助。諱は勝見。幼くして同藩の十九采記俊彬の養子となる。尊王を唱え、大村藩三十七士の1人として数えられ、藩の用人となり勤皇に導いた。戊辰戦争では東北に従軍し、参謀から大隊長となり、賞典禄八石を賜る。1871年、藩の歩兵中隊長に任じられ、熊本鎮台の副官となった。翌年官を退いた。東京に移り、小石川区小日向武島町の自宅で死去。享年63歳。1912年、従五位を追贈された。墓所は池上本門寺。
中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12… 中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12年12月8日) - 1905年(明治38年)10月5日)は、幕末の徳島藩士、明治時代の内務・司法官僚、裁判官。官選県知事を歴任、元老院議官・貴族院議員。錦鶏間祗候、華族(男爵)。旧名は三木永吉。明治維新後に直人、錫胤と名乗る。号は可庵、無外。 徳島藩士・三木章助の長男として、徳島城下の佐古町楠小路(現在の徳島県徳島市佐古地区)で生まれる。はじめ漢学を楠本鼇山・岩本贅庵に学ぶ。少壮の頃、篠崎小竹・古賀謹堂(古賀謹一郎)の門、及び昌平黌に学ぶ。京都の儒者・中島棕隠の門下となり、のち老齢の棕隠の養子となり、中島永吉と称した。 幕末期には新居水竹らと交わり、尊王攘夷派として国事に奔走。
長山 弥一(ながやま やいち、1830年〈天保元年〉 - 1… 長山 弥一(ながやま やいち、1830年〈天保元年〉 - 1899年〈明治32年〉)は、日本の柔術家。 気楽流柔術師範や免許皆伝(14世)として知られた。 11世飯塚臥龍斎並びにその養子12世飯塚義高、その子、13世飯塚龍之輔興高から気楽流を学ぶ。上野国新田郡高根村(後の新田郡綿内村、現群馬県太田市新田大根町)生まれ。 1852年(嘉永5年)に義高帯刀に入門、その子・龍之介興高からも教授を受け、1861年(文久元年)免許皆伝。1864年(元治元年)、大根村領主であった加納遠江守の武練組役となる。1870年(明治3年)に帰農。 岡部正春、高山辰二郎らほか多数の門弟を育て、弟弟子にあたる飯塚猪早司義興に免許を授与ける。
大庭 恭平(おおば きょうへい、天保元年〈1830年〉 - … 大庭 恭平(おおば きょうへい、天保元年〈1830年〉 - 明治35年〈1902年〉1月5日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての人物。会津藩の密偵である。別名は機、景範、松斎。 天保元年(1830年)、大庭弘訓の次男として生まれる。文久2年(1862年)に藩主・松平容保が京都守護職に任じられて上洛すると、これより先に上洛する。会津藩の重臣である田中玄清や野村左兵衛の密命で浪人となって京都で活動する過激派の攘夷浪人の監視を行なうためだったとされている。文久3年(1863年)には足利三代木像梟首事件が起こり、事件後に情報を会津藩に流した大庭も犯人の1人として捕縛され、信濃国上田藩に幽閉された。
市岡 晋一郎(いちおか しんいちろう、1830年 - 189… 市岡 晋一郎(いちおか しんいちろう、1830年 - 1896年11月27日)は、明治時代前期の開拓者。 信濃国筑摩郡日出塩村(現長野県塩尻市)の庄屋の家に生まれる。幼名は「文暁」。父勘之丞と共に水田造成のため、私財を投じて奈良井川からの水利を計画し、山腹に隧道を設け、7年の歳月をかけて安政6年(1859年)に完成させた。 平田派国学に傾倒していた市岡は、幕末の戊辰戦争で中山道を江戸に向けて東下する官軍(東山道鎮撫軍)に従軍し、岩倉具視の知遇を得た。明治3年(1870年)、民部省下総開墾局知事の北島秀朝の懇請により、三井組の代理人として採用され、秩禄処分で困窮した士族に授産事業として小金牧一帯に入植帰農させ、開墾場周辺の農民を通い小作人として農業経験のない旧士族の指導に当たらせるなど、開墾の指揮を取った。
伊藤 助太夫(いとう すけだゆう、天保元年(1830年) -… 伊藤 助太夫(いとう すけだゆう、天保元年(1830年) - 明治5年11月19日(1872年12月19日))は、幕末から明治にかけての下関の豪商。別名、九三(きゅうぞう)。 長府藩赤間関の大年寄であり、大名に宿舎を提供する東の本陣伊藤家の当主であった。諱は盛正、号は自然居士、静斎。 下関を代表する豪商であり、幕末の攘夷志士らを様々な側面から支援した。特に志士の代表とも言える坂本龍馬との関係は深いものであった。伊藤邸は慶応元年(1865年)の初対面以来、龍馬の止宿先であった。邸は広く、高杉晋作らが結成した奇兵隊も一時、邸内にある阿弥陀寺(赤間神宮)に本陣を移したこともある。 現存する龍馬が書いた手紙のうち、助太夫宛の手紙が2番目に多い(14通)ことからも龍馬との関係が深かったことが覗える。
山本 吉兵衛(やまもと きちべえ、1830年 - 1904年… 山本 吉兵衛(やまもと きちべえ、1830年 - 1904年4月10日)は、三河国碧海郡高浜村(現・愛知県高浜市)出身の瓦職人。 三州瓦の鬼師(鬼板師とも、鬼瓦の製作者)であり、三河国における鬼師の元祖とされる。2021年(令和3年)時点で日本には70人から80人の鬼師がいるとされるが、うち約50人は三州瓦の産地である高浜市と碧南市に集中しており、これは2代目永坂杢兵衛と山本吉兵衛の存在が大きいとされる。 享保5年(1720年)には徳川吉宗や町奉行の大岡忠相によって瓦葺きが奨励され、町屋における屋根瓦の需要が増した。周辺地域で良質の粘土が取れたこと、燃料の入荷や製品の出荷のための海上交通が発達していたことなどから、近世の三河国では屋根瓦(三州瓦)の生産が盛んとなった。
鹿島 重好(かしま しげよし、天保元年(1830年) - 明… 鹿島 重好(かしま しげよし、天保元年(1830年) - 明治25年(1892年))は、日本の商人、政治家。島根県会議員。米子町年寄。 米子に下鹿島家2代重意の四男として生まれ、嘉永7年(1854年)分家して岩倉町に住み“岩鹿”と称された。家業は質屋で醤油・砂糖・荒物も商った。 安政7年(1860年)2月米子為替座御用を務め、文久2年(1862年)には藍座にも関与、慶応元年(1865年)2月町年寄仮役に任ぜられ、以後町年寄として働き、明治2年(1869年)4月荒尾氏の自分手政治廃止後も町年寄役を命ぜられた。 明治5年(1872年)1月第83・84区の仮戸長となり、明治7年(1874年)東倉吉町戸長となった。
新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829… 新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829年12月30日〉 - 1902年〈明治35年〉11月25日)は、幕末の志士、明治期の神道家で、神道修成派の教祖。 文政12年12月5日、阿波国美馬郡拝原村(現在の徳島県美馬市)の郷士竹澤平太と母・曾米(田村氏の女)の三男として生まれる。初名は寛三郎。幼少の頃より南朝の英雄・新田義貞の弟脇屋義助の末裔であるという、家に伝わる旧記を読み、勤王を自覚し文武の道に励んだため、7歳にして論語を暗記した。 弘化4年(1847年)、山陰、山陽諸国を巡遊。神道家として、嘉永元年(1848年)20歳の時、布教伝道の志を立てる。これを修成派では立教元年としている。
和泉要助(いずみ ようすけ、文政12年11月25日(1829… 和泉要助(いずみ ようすけ、文政12年11月25日(1829年12月20日) - 明治33年(1900年)9月30日)は明治時代の発明家。人力車の発明者の1人とされる。姓は「長谷川」とも表した。 筑前国鞍手郡中泉村(現・福岡県直方市)生まれ。筑前福岡藩の藩士出水要の養子となり、のち和泉要助と名を改めた。1870年(明治3年)に鈴木徳次郎、高山幸助と人力車の製作を行い、同年3月22日に東京府より製造と営業の許可を得た。翌年、和泉らは人力車総行事に任命されたが、1873(明治6年)の税制整備によって雑税が廃止され、人力車総行事の職は廃止された。第1回内国勧業博覧会で龍紋賞を受章した。 1871年(明治4年)「専売略規則」の制定時や1885年(明治18年)の「専売特許条例」の公布時に専売特許を出願したものの、すでに一般に普及していたことを理由に、人力車は発明品として特許を得ることはできなかった。
黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日〈182… 黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日〈1829年12月7日〉 - 明治39年〈1906年〉8月29日)は、江戸時代・明治時代の国学者、宮内省御歌所寄人、東京帝国大学教授。 日本の古来からの歴史、制度、有職故実、風俗、律令、格式、法制史、日本文学、音韻学、美術、工芸など幅広く研究し、考証学的な知を近代に継承して、再編成した明治の碩学である。大学校、元老院、東京帝国大学で研究した著書・論文は数多く、日本文化の集成者と言われた。 本姓は金子、幼名は嘉吉、名は寛長、号は荻斎。上野国桐生新町(現在の群馬県桐生市)にて代々機業を営む父・金子吉右衛門治則と母・るゐの子として生まれる。生まれつき右目が不自由だったが、幼少時から家の土蔵の中で本を読みあさった。
関戸 由義(せきど よしつぐ、文政12年10月25日〈182… 関戸 由義(せきど よしつぐ、文政12年10月25日〈1829年11月21日〉 - 1888年〈明治21年〉8月17日)は、明治期に神戸の土地開発・売買・創業などを官吏・私人として行った人物。 文政12年10月(1829年11月)、越前国足羽郡下呉服町で、輪違平兵衛(薬種商第4代)と福井藩藩医の第四代山本正伯に乳母奉公した女性(名不詳)の間に生まれる。幼名は良平。 慶応年間に江戸へ移住し、医師として関戸由義と自称する。 明治元年3月上旬(1868年)に横浜港よりサンフランシスコへ密航。帰国後、兵庫県に洋学校設立を建白。明治2年12月4日(1870年1月)、民部省通商少佑として任官。明治4年3月24日(1871年)、兵庫県外務局勧業課少属に転じ、同年5月、兵庫県権大属北風正造と船舶無断売買問題で軋轢、のち和解した。
初代 澁澤 金蔵(しょだい しぶさわ きんぞう、1829年1… 初代 澁澤 金蔵(しょだい しぶさわ きんぞう、1829年11月〈文政12年11月〉 - 没年不明)は、日本の商人、慈善家、政治家。群馬県多額納税者。族籍は群馬県平民。 上野国新田郡太田町(現・群馬県太田市)に生まれた。周蔵の長男。幼い頃から豪放不羈で、他人に頼り衣食することを欲しなかった。母を亡くし、13歳の頃父を助けて質屋古着商を営むが失敗。ことごとく資本を失う。ほとんど「赤貧洗うがごとし」の状態となった。18歳の頃その目的を父に告げて家を出た。他郷に周遊し多くの苦労をしたが、ついに意を果たさず、嘉永4年、家に帰り一小太物店を開いた。 前の負債は元利益々嵩み債主の督促はいよいよ厳しくなったため、いったん家を売却して償還することを父に告げたが父は許さなかった。
小畑 美稲(おばた うましね、1829年10月22日(文政1… 小畑 美稲(おばた うましね、1829年10月22日(文政12年9月25日) - 1912年11月12日)は、幕末から明治の武士(土佐藩士)、裁判官、政治家。元老院議官、貴族院議員、錦鶏間祗候、正二位、男爵。幼名・孫二郎または孫次郎。 土佐国土佐郡一宮村(高知県土佐郡一宮村を経て現高知市)で、土佐藩士・小畑美穂の長男として生まれる。奥宮慥斎から陽明学を学ぶ。土佐勤王党に加わり尊王攘夷運動を推進。文久3年(1863年)、土佐勤王党の獄により入獄した。 明治維新後に赦免され新政府に出仕。明治2年7月(1869年)、弾正大巡察に就任。以後、弾正権少忠、司法大解部、司法少判事を歴任。 明治5年8月(1872年)、茨城裁判所長に就任。
伊藤 六郎兵衛(いとう ろくろべえ、文政12年7月15日(1… 伊藤 六郎兵衛(いとう ろくろべえ、文政12年7月15日(1829年8月14日) - 明治27年(1894年)3月30日 )は、幕末・明治時代の宗教家で、丸山教の開祖である。 武蔵国橘樹郡登戸村(現 神奈川県川崎市)生まれで、幼名は清宮米吉(きよみや よねきち)。24歳のときに伊藤家の長女サノと結婚して婿養子となり伊藤六郎に改名、家督相続の際に家名の六郎兵衛を襲名した。 明治3年以降、富士の神の声を聞くようになり、断食行などの修業や病気治しなどを行って「生き神」として信仰を集めるようになった。しかし、教導職の資格を持っていなかったために国から弾圧を受け、明治8年、富士講の一つである富士一山講(後の扶桑教)に所属した。
九代 久次米 兵次郎(くじめ ひょうじろう、1829年6月1… 九代 久次米 兵次郎(くじめ ひょうじろう、1829年6月12日(文政12年5月11日) - 1913年(大正2年)3月3日)は、日本の銀行家。藍商人(染織家)。阿波国名東郡新居村(現・徳島県徳島市不動北町)出身。幼名は国太郎。 1829年(文政12年)に阿波藍商人である八代久次米兵次郎・義簡の子として生まれる。1869年(明治2年)、40歳で家督を相続し九代久次米兵次郎を名乗る。 1879年(明治12年)に一族が築き上げてきた経済力を基に名東郡船場町(現徳島市西船場町)に日本で6番目の私立銀行である久次米銀行(後の阿波銀行)を設立。資本金は50万円で、当時は三井銀行に次いで第2位の規模であった。
陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、文政12年5月3日(1… 陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、文政12年5月3日(1829年6月4日) - 明治36年(1903年)10月21日)は、出雲国意宇郡意東村(現・島根県松江市東出雲町下意東)出身で秀ノ山部屋(入門時は滝登部屋)に所属した大相撲力士。第12代横綱(江戸最後の横綱)。本名は石倉 槇太郎(いしくら まきたろう)。 「負けず屋」と言われた強豪で、明治維新の後に大阪頭取総長となり横綱の代数を創案した。 文政12年5月3日(1829年6月4日)に、出雲国意宇郡意東村の農家に生まれる。14歳だったある日、兄と友人の3人で小舟に乗って海釣りを楽しんでいると、昇った月が3個に分割してその間に3個の星が出ているのが見え、左から右へ旋回する様子が15分ほど見られた。
篠田 政龍(政竜、しのだ まさたつ、1829年5月(文政12… 篠田 政龍(政竜、しのだ まさたつ、1829年5月(文政12年4月)- 1893年(明治26年)5月31日)は、明治期の政治家。衆議院議員、鹿児島県南諸県郡大崎村長。 日向国諸県郡大崎郷仮宿村(現・鹿児島県曽於郡大崎町)で生まれた。漢学を修めた。 1862年(文久2年)大崎郷組頭に就任。以後、大崎常備隊小隊長、都城県第11大区長、第10大区長、第2大区長などを務めた。1880年(明治13年)鹿児島県会議員に選出され、同常置員にも在任。1890年(明治23年)第2代大崎村長に就任した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第6区、中央交渉会)で当選し、その後、議員倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任した。
倉富 胤厚(くらとみ たねあつ、文政12年3月18日(182… 倉富 胤厚(くらとみ たねあつ、文政12年3月18日(1829年4月21日) - 明治23年(1890年)6月30日)は、筑後国久留米藩領出身の儒者・政治家。通称は八兵衛、字は士簡、号は篤堂(とくどう)。 文政12年(1829年)、筑後国三潴郡大隈村(現・福岡県久留米市梅満町)の庄屋・園田為右衛門の次男として生まれる。幼名は熊三郎。 はじめ田主丸の重富縄山に儒学を学び、16歳で豊後日田の咸宜園に入門して広瀬淡窓に学んだ。なお、重富縄山も広瀬淡窓門下である。 18歳のとき、親族である竹野郡徳童村(現・久留米市田主丸町)の庄屋・倉富又市の婿となり、その後を継ぐ。慶応3年(1867年)には藩命を受けて、当時大宰府に滞在していた三条実美ら五卿(七卿落ち参照)の警護にあたっている。
堀 安道(ほり やすみち、1829年4月11日(文政12年3… 堀 安道(ほり やすみち、1829年4月11日(文政12年3月8日) - 1875年(明治8年)9月26日)は、備中国の宗教家である。同国賀陽郡八田部村(現岡山県総社市総社)にある備中国総社宮の神主。江戸から明治へ政治が大きく変わる時期に、総社の歴史をまとめ、総社宮や総社のために大きな功績を残した。 四番目の弟は画人であり、実業家でもある堀和平である。 備中国賀陽郡八田部村(現・岡山県総社市総社)西宮本町の「志保屋」の堀和助安忠(総社市門田・満谷常観の子)の長男に生まれる。氏は堀、幼名を岩太郎、長じて清一郎また和助と改め、六友居と称した。 堀家はその家譜によると、賀陽臣の出自で、国府の西堀の地に住んでいたため、堀を姓とした。
清水 卯三郎(しみず うさぶろう、文政12年3月4日(182… 清水 卯三郎(しみず うさぶろう、文政12年3月4日(1829年4月7日) - 明治43年(1910年)1月20日)は、武蔵国埼玉郡羽生村(現在の羽生市)出身の実業家。母は根岸友山の妹。浅草の「瑞穂屋」として名を馳せたことから、瑞穂屋卯三郎とも呼ばれた。 酒造業を営む清水家の三男として生まれる。芳川波山に漢学を学んだ後、箕作秋坪に蘭学を学んだ。1854年(嘉永7年)には筒井政憲の供人として下田でロシア全権大使のプチャーチンに会い、臆することなく”ヒアリ・コウ”と声をかけ、返答をもらい、外国では身分の区別なく言葉を交わすことに感激した。今でいう、国際感覚の気性に富んだ人物であったことが窺われる。 1849年(嘉永2年)に江戸に出て、洋学の習得を目指し、佐倉の蘭方医、佐藤泰然のもとで蘭語のABCを教わる。
瓜生 岩子(うりゅう いわこ、1829年3月19日〈文政12… 瓜生 岩子(うりゅう いわこ、1829年3月19日〈文政12年2月15日〉- 1897年4月19日)は、明治時代の社会事業家。孤児・窮民の救済、授産指導などに尽力した。藍綬褒章受章者。瓜生 岩としても知られる。 陸奥国耶麻郡熱塩村(現:福島県喜多方市)に渡辺利左衛門、りえの長女として誕生。生家は会津藩領の商家(油商)で、山形に支店もあった。岩4歳の時に天保の大飢饉が始まり、会津でも天変地異や凶作のため農村は疲弊していた。天保8年(1837年)9歳で父が急病となり死別。その49日後に家が火災に遭い、母の実家である温泉業「山形屋」に母、弟と3人で身を寄せることとなり、瓜生姓を名乗る。 14歳の時に若松に住む叔父、山内春瓏のもとに行儀見習いのため預けられる。
西 周(、1829年3月7日〈文政12年2月3日〉- 189… 西 周(、1829年3月7日〈文政12年2月3日〉- 1897年〈明治30年〉1月31日) は、日本の啓蒙思想家・教育者、官僚。西 周助とも。爵位は男爵。 石見国津和野藩(現:島根県津和野町)の御典医の家柄。幼名、経太郎。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。 漢学の素養を身につける他、天保12年(1841年)に藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、ライデン大学でシモン・フィッセリング(ドイツ語版)に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。
神山 郡廉(こうやま くにきよ、文政12年1月13日〈182… 神山 郡廉(こうやま くにきよ、文政12年1月13日〈1829年2月16日〉 - 1909年〈明治42年〉8月20日)は、幕末の土佐藩士、明治期の内務官僚・政治家。県令、元老院議官、貴族院男爵議員、錦鶏間祗候。通称・左多衛。雅号・郡風、君風。 土佐国高知城下中島町で、土佐藩士・神山久左衛の五男として生まれ、神山左平の養子となる。吉田東洋により藩の要職に抜擢された。慶応元年(1865年)、大目付に就任。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に当たって、家老・福岡宮内と共に広島に赴き、幕府からの出兵督促を拒否した。慶応3年10月 (1867年)の大政奉還において、建白書に連署した。 王政復古後、慶応3年12月12日(1868年1月3日)、参与に就任。
仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12… 仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12年1月6日) - 1894年(明治27年)11月8日)は、江戸末期から明治初頭にかけての戯作者、新聞記者。江戸の京橋生まれ。本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めた。別号に鈍亭、金屯道人、猫々道人、和堂開珍、英魯文、戯作書太郎、野狐庵。俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄。 京橋の鑓屋町に生まれる。魚屋を営む父野崎佐吉は、星窓梶葉という号を持ち俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育った。大きな商家の丁稚となったが、人相見に小説家になれば出世すると言われ、18の年に花笠魯介文京の弟子となる。1849年(嘉永2年)19歳の時に名弘めの摺物「名聞面赤本(なをきいておもてあかほん)」を書き、それに先輩の文人や芝居作家に賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、最後に当時82歳の滝沢馬琴に頼んで「味噌揚げて作り上手になりたくば世によく熟れし甘口ぞよし」という狂歌を贈られた。
熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(18… 熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(1829年1月19日) - 大正2年(1913年)3月8日)は、日本の江戸時代末期から大正時代にかけての日本画家、芸州藩士。父は賀茂[要曖昧さ回避]の神職・山本季金。幼名を藤太郎と言った。
狩野 良知(かのう りょうち、1829年〈文政12年1月〉 … 狩野 良知(かのう りょうち、1829年〈文政12年1月〉 - 1906年〈明治39年〉12月14日)は、江戸時代から明治時代にかけての武士、漢学者。久保田藩大館城代家老、のち内務属権小書記官。秋田市の都市公園である「千秋公園」の命名者として知られる。秋田魁新報の前身である「聚珍社」「遐邇新聞」も良知の命名である。幼名は国松、のちに深蔵を名乗った。字は君達、号は羽北。京都帝国大学文科大学初代学長を務めた狩野亨吉の父。 狩野家はもともと山形を本拠地とする最上氏に仕えた武家である。最上氏が江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城があった大館の佐竹西家に仕えた。 良知は出羽国秋田郡大館町に狩野与十郎長安の子として生まれた。
川勝 寛治(かわかつ かんじ、文政12年(1829年) - … 川勝 寛治(かわかつ かんじ、文政12年(1829年) - 元治元年7月20日(1864年8月21日))は、幕末の尊攘派志士。三条家家士。 丹波国船井郡園部(現・南丹市)の出身。京都に出て三条家の家士となり、開国により国内が騒然とした時期に、三条実美の内命を受けて諸藩の尊攘派志士との間を奔走した。文久3年(1863年)8月18日の八月十八日の政変の後、三条実美・澤宣嘉らの攘夷派の公家7人は長州藩兵と共に京都から追放された(七卿落ち)。その際、寛治は三条実美の護衛の役を務め、三条実美に従って長州藩の三田尻御茶屋に下向した。その後、三条実美の密旨を同志に伝えるため京都に潜入したが、幕府の役人に捕らえられ京都所司代の管理する六角獄舎に収容された。
初代若尾 幾造(わかお いくぞう、1829年(文政12年12… 初代若尾 幾造(わかお いくぞう、1829年(文政12年12月)- 1896年(明治29年)10月10日)は、幕末から明治期の実業家。 甲斐国巨摩郡在家塚村(のち山梨県中巨摩郡在家塚村、現南アルプス市在家塚)で、若尾林右衛門の息子として生まれる。分家して農業に従事した。 商業に興味がなかったが、異母兄若尾逸平の熱心な勧誘を受け、安政6年(1859年)横浜に出て生糸売込業、綿花・水晶・砂糖の取引業に従事。1875年、兄弟で財産を分割して、横浜本町で生糸売込業を開業した。1880年、横浜商法会議所設立に伴い初代常議員となり、1893年、若尾銀行を設立して頭取となった。
篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日〈… 篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日〈1828年12月22日〉 - 1911年〈明治44年〉6月13日)は、江戸時代後期の志士。新選組隊士(諸士調役兼監察方及び柔術師範)、御陵衛士。幼名は泰輔、変名を篠塚友平、秦河内(はた かわち)。維新後は、秦林親(はた しげちか)と改名。 筑後国生葉郡高見村(現在の福岡県うきは市浮羽町高見)の豪農および石工業者である篠原元助の長男として生まれる。幼時より武芸を好み、久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。 嘉永5年(1852年)、藩士・小倉一之進に仕えた後、家老・有馬右近の中間となる。
伊佐庭 如矢(いさにわ ゆきや、文政11年9月12日〈182… 伊佐庭 如矢(いさにわ ゆきや、文政11年9月12日〈1828年10月20日〉 - 1907年〈明治40年〉9月4日)は、山田郡郡長、愛媛県高松中学校(明治19年に廃校)校長、金刀比羅宮禰宜、初代道後湯之町長を務めた人物である。本名:成川 斧右衛門(なりかわ おのえもん)。号:震庵。 道後温泉本館を改築し、道後温泉を松山市の有名な観光地にした人物として知られる。 伊予国(現・愛媛県松山市)に町医者・成川国雄の三男として生まれた。成川家は、祖父が土佐から松山にやってきて松山藩に出仕し医療に携わり、和歌に造詣が深く弟子を多く持っていた家だった。如矢は家庭環境に恵まれ、勉学に勤め塾に行くこともなく育った。
副島 種臣(そえじま たねおみ、1828年10月17日〈文政… 副島 種臣(そえじま たねおみ、1828年10月17日〈文政11年9月9日〉- 1905年〈明治38年〉1月31日)は、日本の政治家。侍講兼侍講局総裁、参与兼制度事務局判事、参議兼大学御用掛、内務大臣(第4代)、枢密院副議長(第2代)、外務卿(第3代)、外務事務総裁、清国特命全権大使、宮中顧問官、興亜会会長、東邦協会会頭、愛国公党発起人等を歴任。位階勲等は正二位勲一等伯爵。 初名は二郎(じろう)、龍種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。 佐賀藩士・枝吉南濠の次男として生まれる。兄は枝吉神陽。藩校・弘道館教諭を経て、尊王攘夷運動に奔走し兄と共に「義祭同盟」に参加。
水上 善治(みずかみ ぜんじ、1828年8月11日(文政11… 水上 善治(みずかみ ぜんじ、1828年8月11日(文政11年7月1日)- 1898年(明治31年)4月28日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての、富山県東礪波郡平村(現・南砺市)の実業家、政治家。当初は水上善三郎と名のっていたが、1888年(明治21年)に善治と改めた。本稿では便宜上「水上善治」と統一して表記する。 明治維新後に五箇山地域を取り巻く環境が激変する中で、五箇山の殖産興業・交通路の開拓・文化教育の振興に私費を投じて尽力したことで知られる。『平村史』では「五箇山開発・開化の偉大なる先覚者で、その名と業績は不朽である」と評されている。 水上善治は文政11年(1828年)7月1日に高草嶺集落の藤井家に生れ育った後、安政3年(1856年)5月に下梨集落の水上家を継いだ人物である。
大浦 慶(おおうら けい、文政11年6月19日〈1828年7… 大浦 慶(おおうら けい、文政11年6月19日〈1828年7月30日〉 - 1884年〈明治17年〉4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性商人。日本茶輸出貿易の先駆者。楠本イネ・道永栄(肥後天草出身)と並ぶ長崎三女傑のひとり。 文政11年(1828年)に長崎油屋町で油商・大浦太平次と佐恵の娘として生まれる。 大浦家は、賀古市郎右衛門の次男・大五郎(1818年 - 1837年)が婿養子として大浦家に入るが、慶が9歳のときに死去。大五郎の死後、大浦家の財政は傾き、それに追い打ちをかけるように、天保14年10月24日(1843年12月15日)の夜に出来鍛冶屋町より出火し、今籠町・今鍛冶屋町・油屋町・今石灰町・新石灰町・高野平郷など家屋526戸が焼ける大火が発生し、大浦家は大損害を受けた。
佐藤 国彦(國彦、さとう くにひこ、1828年7月19日(文… 佐藤 国彦(國彦、さとう くにひこ、1828年7月19日(文政11年6月8日)- 1911年(明治44年)2月19日)は、明治期の農業経営者、政治家。貴族院多額納税者議員。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡北馬城村(宇佐町を経て現宇佐市)で、佐藤楽山の長男として生まれる。1843年7月5日(天保14年6月8日)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 1874年(明治7年)第6小区戸長に就任し1878年(明治11年)まで在任。1884年(明治17年)大分県岩崎村ほか九カ村戸長となった。 1899年(明治32年)6月4日、大分県多額納税者として貴族院多額納税者議員補欠選挙で互選され、同年7月3日に就任し、1904年(明治37年)9月28日まで1期在任した。
広瀬 宰平(ひろせ さいへい、文政11年5月5日(1828年… 広瀬 宰平(ひろせ さいへい、文政11年5月5日(1828年6月16日) - 大正3年(1914年)1月31日)は、初代住友総理人である。明治期の大阪財界の大立者。位階は従六位勲四等。 広瀬宰平は、近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲市)の旧家・北脇家の次男として生まれた。幼名・駒之助、維新後は宰平と改名した。 9歳のとき、別子銅山の支配人をしていた叔父の北脇治右衛門に連れられて別子に移り、11歳のときに別子銅山に奉公にあがった。1855年、家長・住友吉左衛門の推薦で、元住友江戸店の支配方であった伊予国新居郡金子村久保田(現・新居浜市)の広瀬義右衛門の養子となる。1865年、別子銅山の近代化を訴えた宰平は、家長により別子銅山の総支配人に抜擢される。
西村 茂樹(にしむら しげき、1828年4月26日(文政11… 西村 茂樹(にしむら しげき、1828年4月26日(文政11年3月13日) - 1902年(明治35年)8月18日)は明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。道徳振興団体「日本弘道会」創設者。号は泊翁。
安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月… 安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月19日(文政11年3月6日) - 1909年(明治42年)11月23日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の警察官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。通称・十郎。従三位勲一等。 薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・安藤十郎の息子として生まれる。英学を修めて子弟に教授した。 明治維新後、新政府に出仕し、明治元年10月2日(1868年11月15日)東京府市中取締隊長に就任。以後、東京府監察、同大属、兼同第二大区総長、同第一大区総長、同権典事、同典事、同邏卒総長、警保助、司法中検事、権大警視、大警視、中警視、権中警視などを歴任。西南戦争に際し、新撰旅団の編成に尽力した。
前田 案山子(まえだ かがし、文政11年2月23日(1828… 前田 案山子(まえだ かがし、文政11年2月23日(1828年4月7日) - 明治37年(1904年)7月20日)は、日本の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。 夏目漱石の『草枕』に登場する「志保田の隠居」のモデルである。 肥後国玉名郡小天村(現熊本県玉名市)の豪族・前田惟鑑の第三子として生まれる。 幼名を一角、長じて覚之助を名乗る。武術に優れ、槍の名手と言われ、25歳で肥後藩士となり、細川家の槍術指南を務める。 1877年(明治10年)富岡敬明県令から熊本県第七大区(玉名郡南半分)区長に任命。小天村の男子を集めて人民保護隊と名付け、西南戦争に際しては、中立党を設けた。1878年(明治11年)に小天の山麓に温泉を発見し、別荘を建設、犬養木堂、植木枝盛、中江兆民、頭山満など、多くの活動家が訪れた(のちに夏目漱石が投宿し、ここを舞台に小説『草枕』を執筆した)。
狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日〈1828… 狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日〈1828年2月27日〉 - 明治21年〈1888年〉11月5日)は、幕末から明治期の日本画家。近代日本画の父と称される画家のひとり。幼名は幸太郎。名は延信()、雅道()。号は松隣、皐隣。 盟友たる橋本雅邦と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。 1828年長府印内(現・下関市長府印内町)で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代洞晴(どうせい)のとき長府藩御用絵師となり、5代察信(さつしん)の時代に長府に移り住んだ。
山本 覚馬(やまもと かくま、旧字体: 山本 覺馬、文政11… 山本 覚馬(やまもと かくま、旧字体: 山本 覺馬、文政11年1月11日(1828年2月25日) - 明治25年(1892年)12月28日)は、幕末の会津藩士、砲術家(津田流炮術)、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現:同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。 会津藩士で砲術指南役の山本権八(禄高は22石4人扶持)の長男として、鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれる。山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。母は佐久。
山本 良仙(やまもと りょうせん、1828年1月26日(文政… 山本 良仙(やまもと りょうせん、1828年1月26日(文政10年12月10日) - 1903年(明治36年)1月20日)は、江戸時代後期から明治時代の天台宗僧。但馬観音寺の第16世住職。 1828年1月26日(文政10年12月10日)、山本忠右衛門の四男として丹波国多紀郡野間村(現・兵庫県丹波篠山市)として生れる。 1847年12月16日(弘化4年11月9日)、20歳の時、家督を相続し丹波国氷上郡北由良村(現・兵庫県丹波市)の福井儀兵衛長女・茂世(もよ)と婚姻するが、仏門に帰依せんと出家の志をやみ難く、親族の山本又治郎を養子に迎えて家を継がせ、自らは1884年(明治17年)1月14日、57歳の時に隠居した。
山本 怡仙(やまもと いせん、1828年(文政11年) - … 山本 怡仙(やまもと いせん、1828年(文政11年) - 1880年(明治13年)9月12日)は日本の実業家、教育者。幼名は仙次郎、字は等一、通称は平三郎また階、怡仙、怡僲、別に楳堂或いは梅堂逸人とも号した。松井耕雪、松村友松とともに幕末から明治初期にかけて「府中三人衆」とも称すべき人物で、府中の文化産業の発展に尽くした功績は甚だ大きい。
島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日… 島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日(文政10年11月8日)- 1907年(明治40年)9月2日)は、幕末から明治時代に活躍した僧、仏教学者である。法名は円真。別名に如縄道人等。 役藍泉(島田浄観)の孫として周防の徳山に生まれる。幼年期より徳山藩に仕え、儒教や神道等宗教に関する事を多く学んだ。後に天台宗本山派修験道教学院の住職となる。 後に藩主の命によって上洛し興譲館で教鞭を執り、勤皇説を唱えた。維新後の1872年(明治5年)に廃藩置県に携わるため還俗し同時期に活躍した福田行誡、獅岳快猛らと共に『大蔵経』の編纂に携わった。その後、教部省や内務省内の社寺局等に勤めるなど現代における仏教の興隆に貢献した。
内藤 耻叟(ないとう ちそう、文政10年9月25日〈1827… 内藤 耻叟(ないとう ちそう、文政10年9月25日〈1827年11月15日〉 - 1903年〈明治36年〉6月7日)は、明治時代に活躍した歴史家。本名は正直。 文政10年(1827年)、常陸国(現茨城県)水戸南町に美濃部茂政の二男として生まれ、水戸藩士・内藤氏を継ぐ。天保12年(1841年)に藩校弘道館に入り、同校において会沢正志斎、藤田東湖らに師事。のちに幼少期の徳川慶喜の学問の相手もつとめている。安政6年(1859年)に藩内の論争に巻き込まれて謹慎の上、隠居を命ぜられる。後に天狗党鎮圧に加わった功績で慶応元年(1865年)に弘道館教授に任ぜられるが、翌年再び藩内の論争に巻き込まれて入獄、その後幕末期の混乱に乗じて水戸を脱出し、放浪生活を送る。
新 貞老(あたらし さだお、1827年11月7日(文政10年… 新 貞老(あたらし さだお、1827年11月7日(文政10年9月18日) - 1900年(明治33年)3月9日)は、幕末の鳥取藩士。明治時代の官吏。国学者。神職。佐渡県権知事、相川県権令。本姓は衣笠。通称は初め田中良達、新庄恒蔵、五郎。変名に池田謙斎。雅号に真木園。 因幡国高草郡村上村に生まれる。新武男の父。国学を飯田秀雄に、紀州にて医学を、和歌を加納諸平に学ぶ。 1860年(万延元年)国書掛となり、国学局教授に転任。1862年(文久2年10月)国事周旋方となり京都に上った。1863年(文久3年)本圀寺事件に参加し、大坂の獄につながれ、1867年(慶応3年)赦されて出獄した。 1868年(明治元年4月)内国事務局書記、12月には権弁官となり、1869年(明治2年2月)奥羽民政巡察使を兼任し奥羽巡回中、7月に佐渡県権知事となる。
武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、1827年11月4日(文… 武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、1827年11月4日(文政10年9月15日)- 1880年(明治13年)1月28日)は、日本の武士(伊予大洲藩士)、科学者、教育者、陸軍軍人。函館時代までは斐三郎、明治政府時代からは成章(しげあきら)の名を使った。竹塘(ちくとう)と号す。 緒方洪庵や佐久間象山らから洋学などを学び、箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設した。明治7年(1874年)3月、陸軍大佐。陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校長(初代)。 文政10年(1827年)、伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)にて誕生。先祖は甲斐武田氏の出で、大洲藩加藤氏に仕えたが、名をはばかって江戸時代は竹田姓を名乗っていたこともある。