内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 … 内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 - 2000年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)7月13日、京都府宇治市菟道只川に生まれる。 1947年(昭和22年)に設立された新東宝で助監督を務める。1948年(昭和23年)からは市川崑、清水宏、小津安二郎らのチーフ助監督を務めた。 1950年(昭和25年)公開の『雪夫人絵図』では溝口健二監督のチーフ助監督に就いた。1949年(昭和24年)末にラストシーンを十和田の湖で撮影するという溝口とともにロケハンに出かけたが、既に雪が積もっており、危険だと止められたが溝口が聞き入れなかった。そのため、地元の猟師に案内してもらって雪の中を出掛けたが、積雪で歩行が困難なうえに溝口が谷に落ちるなどして大変な苦労をした。
永原 慶二(ながはら けいじ、1922年7月12日 - 20… 永原 慶二(ながはら けいじ、1922年7月12日 - 2004年7月19日)は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授、和光大学名誉教授。専門は日本中世史。学位は、経済学博士(一橋大学・1962年)。 1922年、関東州大連市に生まれた。1942年3月に東京高等学校文科乙類を卒業後。同年4月、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1943年、文科系学生の徴兵猶予停止にともない、海軍の大竹海兵団に入団。1944年、東京帝国大学国史学科を卒業。 終戦後に帰郷し、東京帝国大学大学院に入学。1947年、東京大学史料編纂所員となり、『大日本史料』第三編の編纂業務に従事した。 このころ一橋大学では、村松恒一郎・川上多助門下の及川完助教授が戦死したのち、ながらく日本経済史担当の専任教員が空席となっており、その伝統が断絶してしまっていた。
村山 新治(むらやま しんじ、1922年7月10日 - 20… 村山 新治(むらやま しんじ、1922年7月10日 - 2021年2月14日)は、日本の映画監督。兄はドキュメンタリー監督の村山英治。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。1941年に長野工業学校卒業後、記録映画の助監督を経て、1949年に東映の前身である太泉映画入社。今井正らの助監督を務めた後、1956年に東映教育映画部の『わんぱく時代』で監督デビュー。1957年の『警視庁物語 上野発五時三十五分』で一般映画も監督するようになる。その後も『警視庁物語』シリーズをはじめとしたセミ・ドキュメンタリー的な作品を多く手がけた。 1970年代以降は主にテレビドラマ演出に活躍の場を移し、『特捜最前線』や一連の東映不思議コメディーシリーズなどの監督を長年にわたって務めた。
伊藤 淳二(いとう じゅんじ、1922年7月10日 - 20… 伊藤 淳二(いとう じゅんじ、1922年7月10日 - 2021年12月19日)は、日本の実業家。武藤絲治に認められ、のちにカネボウ会長になる。日本航空元会長。建築学者の横尾義貫は従兄にあたる。江藤新平の曾孫。
田井 庄之助 (たい しょうのすけ、1922年 <大正11年… 田井 庄之助 (たい しょうのすけ、1922年 <大正11年> 7月10日 - 2012年 <平成24年> 10月31日) は、日本の教育者であり文学者である。大分大学教授、別府大学教授を務めた。位階は従四位。岡山県高梁市出身。 1922年(大正11年)7月10日、岡山県高梁市に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。同期には、日本原子力研究所副理事長を務める天野昇、岡山県新見市長になる福田正彦、丸善石油(現:コスモ石油)副参与と北海道の丸善石油関連社長を務めた古米初男がいる。 1940年(昭和15年)同校を卒業し、広島高等師範学校文科へ進学した。同校を1944年(昭和19年)卒業し、広島文理大学文学部へ進学する。
横地清(よこち きよし、1922年7月10日 - 2022年… 横地清(よこち きよし、1922年7月10日 - 2022年12月10日)は、日本の数学教育学者。 愛知県に生まれる。1945年東京文理科大学数学科卒業。1966年和光大学人文学部教授。1976年山梨大学教育学部教授。1988年東海大学海洋学部教授。北京師範大学客員教授、内蒙古師範大学科学史研究所客員教授。数学教育学会名誉会長。
部谷 孝之(へや たかゆき、1922年7月10日 - 200… 部谷 孝之(へや たかゆき、1922年7月10日 - 2004年10月20日)は、昭和期における日本の政治家である。民社党衆議院議員(2期)、民社党山口県議会議員(3期)を務めた。 広島県出身。1943年9月、旧制広島高等工業学校(現・広島大学工学部)工作機械学科を卒業。同年10月に海軍予備学生となった。1946年6月に徳山曹達に入社した。同年12月には同社労働組合青年部長専従となった。1955年4月に、受田新吉の秘書となった。1960年、民社党結党に参画した。1967年4月に山口県議会議員選挙に民社党公認で徳山市選挙区から立候補して、初当選した。1975年4月、山口県議会議員選挙に徳山市・都濃郡選挙区から立候補して再選を果たした。
吉江 英四郎(よしえ えいしろう、1922年7月9日 - 1… 吉江 英四郎(よしえ えいしろう、1922年7月9日 - 1986年1月21日)は、カナダ生まれ、宮城県出身のプロ野球選手(投手)。 仙台一中では第26回全国中等学校優勝野球大会に出場した。翌年に早稲田大学へ進学し卒業後地元のアマチュア野球チームの仙台広瀬倶楽部に入った。1948年に急映フライヤーズに入団。1年目に48試合に登板し16勝19敗と新人ながら2桁勝利を記録した。翌年は9勝を挙げ、1950年に読売ジャイアンツへ移籍し同年に退団。退団した次の年に社会人野球の大昭和製紙でプレーし第24回都市対抗野球大会で優勝を経験した。
越智 泰二郎(おち たいじろう、1922年7月9日 - 19… 越智 泰二郎(おち たいじろう、1922年7月9日 - 1984年8月25日)は、日本の経営者。島根県出身。 1944年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、後に日本勧業銀行に入行。1973年11月に取締役に就任し、1977年7月に北越製紙常務、1979年7月に専務を経て、1983年7月から1984年5月までに社長を務めた。 1984年8月25日甲状腺癌のために死去。62歳没。
鈴木 正(すずき ただし、1922年 <大正11年> 7月8… 鈴木 正(すずき ただし、1922年 <大正11年> 7月8日 - 2008年 <平成20年> 2月28日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長、会長を務めた。位階は正五位。 兵庫県神戸市出身。1947年に京都大学法学部政治学科を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社した。1963年11月に取締役に就任し、1971年6月に常務、1978年6月に専務、1981年7月に副社長を経て、1986年6月に社長に就任。1992年6月に会長に就任し、1995年6月には相談役に就任。 1995年11月に勲三等瑞宝章を受章。2008年死去。死没日付をもって正八位から正五位に進階した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
中田 修(なかた おさむ、1922年7月8日 - 2025年… 中田 修(なかた おさむ、1922年7月8日 - 2025年1月21日 )は、日本の医学者、精神科医。専門は犯罪精神医学。東京医科歯科大学名誉教授。兵庫県津名郡野島村(現:淡路市野島)出身。農学者の中田正一は実兄。 東京大学医学部精神科副手、東京拘置所医務部技官、東京都立松沢病院医員、東京都立梅ヶ丘病院医長などを歴任する。 精神鑑定のみならず、飲酒事故の多くについて、実際にどの程度の酒量があったのかを飲酒試験として再現し、裁判で証拠とされる場合が多い。 その際、飲酒試験に関する一定の方向性が示されていないことに注目し、それをまとめた点が際立つ。『飲酒試験における酩酊型の再現性』犯罪学雑誌60巻1号1994年によれば、飲酒試験に使用したアルコールの種類、酒量、酩酊型による再現性の差異と飲酒による健忘の問題についてまとめ、単純酩酊や複雑酩酊では再現性が高いが、病的酩酊では再現性が低いことを実証した。
西岡 善信(にしおか よしのぶ、1922年7月8日 - 20… 西岡 善信(にしおか よしのぶ、1922年7月8日 - 2019年10月11日)は、日本の美術監督・映画プロデューサー。 奈良県明日香村出身。法政大学文学部卒業。大学在学中に徴兵され、朝鮮半島で終戦を迎えた。1947年までソ連に抑留され、帰国後の1948年、大映京都撮影所に入社。美術部に配属された。 1952年、『天保水滸伝 利根の火祭』(安達伸生監督)で初めて美術監督を務め、以降大映が製作した約180本の映画で美術監督を務めた。1952年に市川崑の監督映画『あの手この手』で美術監督を務めたのをきっかけに、大映京都製作の市川監督作品の全てで美術監督を務めた。 大映倒産の後1972年、旧大映社員とともに「映像京都」を設立し、代表取締役社長を務める傍ら、美術監督、プロデューサーとして活躍。
沓脱 タケ子(くつぬぎ たけこ、1922年7月7日 - 20… 沓脱 タケ子(くつぬぎ たけこ、1922年7月7日 - 2005年6月10日)は、日本の医師であり政治家である。大阪府出身。岸和田高等女学校(現在の大阪府立和泉高等学校)を経て、大阪女子高等医学専門学校(現関西医科大学)卒業。元日本共産党参議院議員。元姫島病院名誉院長。
金野 滋(こんの しげる、1922年7月7日 - 2007年… 金野 滋(こんの しげる、1922年7月7日 - 2007年4月1日)は、日本のラグビー選手で、元日本ラグビーフットボール協会会長。
林 裕(はやし ゆたか、1922年7月7日 - 1986年1… 林 裕(はやし ゆたか、1922年7月7日 - 1986年10月19日)は、日本の囲碁に関する評論家、編集者、観戦記者、研究家。日本棋院所属の後に執筆に専念。 東京渋谷出身。姉が福原義虎七段と結婚した縁で、1941年頃から日本棋院に出入りするようになる。1943年に学徒動員で応召。 1946年、中央大学法学部卒。戦後1948年に、村島誼紀らが『碁の新聞』を出す際に編集を任される(3号で終刊)。その後『棋道』編集の手伝いをしていて、1950年日本棋院事務局に入り、『棋道』『囲碁クラブ』や棋書を編集。編集部長、中央会館事務局長を務め、1968年には「囲碁史展」(日本橋東急百貨店)を主導した。1969年退職。
和田 静郎(わだ しずお、1922年7月6日 - 2006年… 和田 静郎(わだ しずお、1922年7月6日 - 2006年12月16日)は、「和田研究所」創設者。東京都足立区北千住出身。 1922年(大正11年)「和田牧場」経営の長男として東京都足立区北千住に生まれる。麻布獣医専門学校(現在の麻布大学獣医学部)へ進み生理学、生態学を専攻。 第二次世界大戦には比島戦線に高級獣医官として従軍。終戦から10年後、自らの肥満を克服した体験をもとに「和田式健康法(フィギュアリング)」を開発。日本ではじめて体系的な痩身法を確立させた。 1957年(昭和32年)、この和田式健康法(フィギュアリング)を紹介することを目的とした美容研究団体「和田研究所」を発足。 1959年(昭和34年)から2年間にわたり、大阪よみうりテレビ「テレビとともにやせましょう」が放送され一大ブームに。
斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 19… 斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者としても知られる。 斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。
遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年(大正11年)7月… 遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年(大正11年)7月4日 - 2014年(平成26年)12月10日)は、日本の音楽評論家・実業家。日興證券会長を務めた遠山元一の長男。 遠山元一の長男として東京市麻布区笄町(現在の港区西麻布)に生まれ育つ。クリスチャンの家庭であり、一行自身もプロテスタントの信仰で育った。 1929年(昭和4年)、成城学園小学校に入学。同級に加藤一郎がいた。1933年(昭和8年)、澤柳政太郎没後の学園経営をめぐるトラブル、いわゆる成城事件(成城騒動)により小学6年時に自主退学し、第2学期から麻布区立南山小学校に転校。1935年(昭和10年)、府立高等学校尋常科に入学。第1学年2学期からピアノを朴啓成(後の属啓成)に師事。
吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003… 吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003年12月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。 神奈川県横浜市生まれ。横浜第一中学校時代、「開校以来の秀才」と言われていた。第一高等学校を経て、1944年、東京帝国大学法学部を卒業。武山海兵団に入団後、短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、第31海軍航空廠付となる。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年4月、東京監督官事務所横浜支部に転じ、造船関係を担当。同年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1946年に大蔵省へ入省し大臣官房文書課に配属。
藤原 彰(ふじわら あきら、1922年7月2日 - 2003… 藤原 彰(ふじわら あきら、1922年7月2日 - 2003年2月26日)は、日本の歴史学者。日本近代史専攻。一橋大学名誉教授。1980年日本学術会議会員。元歴史学研究会委員長。
金 寿煥(キム・スファン、きん じゅかん、朝鮮語:김수환、1… 金 寿煥(キム・スファン、きん じゅかん、朝鮮語:김수환、1922年7月2日 - 2009年2月16日)は、洗礼名をステファノといい、大韓民国初の枢機卿である。本貫は光山金氏。 金寿煥は、1922年7月2日に日本統治時代の朝鮮の大邱で8番目の子供として生まれた。 聖ユスティノ神学校を経て1941年から日本の上智大学で哲学を学んだが、1944年1月に学徒出陣して日本軍の任務に就いた。父島で士官候補生訓練を受けたが、差別に抗議した結果幹部候補生資格を剥奪され、一等兵として終戦を迎える。なお、小笠原事件を目撃しており、戦後グアム法廷で証言した。 1947年から1951年まで韓国天主教大学で哲学の勉強を続け、1957年から1964年までドイツのミュンスター大学で神学及び社会学を学んだ。
小林 靖雄(こばやし やすお、1922年7月1日 - 200… 小林 靖雄(こばやし やすお、1922年7月1日 - 2003年10月6日)は、日本の経営学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1962年)(学位論文「原価管理に関する研究」)。東京工業大学名誉教授。第3期日本中小企業学会会長。勲三等旭日中綬章受章。 東京出身。東京商科大学(現一橋大学)卒。1962年「原価管理に関する研究」で経営学博士(神戸大学)の学位を取得。1947年東京工業大学経営工学科助手(磯部喜一研究室)、1953年助教授、1962年教授、1976年工学部長、1983年定年退官、名誉教授、放送大学副学長、西東京科学大学(帝京科学大学)教授、1995-2000年同学長。2003年帝京大学医学部附属病院で死去。
清岡 卓行(きよおか たかゆき、1922年(大正11年)6月… 清岡 卓行(きよおか たかゆき、1922年(大正11年)6月29日 - 2006年(平成18年)6月3日)は、日本の詩人、小説家、評論家、法政大学名誉教授。位階は従四位。 関東州の大連生れ。東京大学文学部仏文科で渡辺一夫に師事した。また、長らく、法政大学教授として新入生などにフランス語の基礎を、さらに、萩原朔太郎作品などをテキストに、人文特別講義を担当し、学部や専攻にかかわらず多くの学生を指導した。1996年に日本芸術院会員。 妻は作家の岩阪恵子(いわさか けいこ、本名 清岡惠子)。前妻の息子清岡智比古は、フランス語学者で明治大学理工学部教授。創作活動も行っている。 ロシア・日本の租借地であった大連で、生まれてから敗戦による本土引き揚げまでの20数年間(内地での一高、東大在学時を途中に挟む)を過ごす。
平山 美代子(ひらやま みよこ、1922年6月29日 - 2… 平山 美代子(ひらやま みよこ、1922年6月29日 - 2005年以降消息不明)は、日本の女性歌手・童謡歌手。本名は磐瀬ゆき。 現在の東京都千代田区三番町出身。1933年に明仁親王(上皇明仁)が誕生した際に「皇太子さまお生まれなつた」を歌い一躍スター歌手となった。 1922年、三越の美術部に勤務する岩瀬純の四女として東京府東京市麹町区三番町に生まれる。六人兄弟(二男四女)の末っ子であったが、長兄は幼少期の爆発事故により右眼を失明し、長姉もこの事故により右手の親指と人差し指にに大けがを負っている。また、次兄は1925年頃に自家中毒で夭逝している。 小学三年生のとき、学校教師に誘われ東京子供音楽会に入会する。
永野 茂門(ながの しげと、1922年〈大正11年〉6月28… 永野 茂門(ながの しげと、1922年〈大正11年〉6月28日 - 2010年〈平成22年〉1月4日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。陸上幕僚長、参議院議員(2期)、法務大臣などを歴任した。法務大臣は在任11日で辞任した。 大分県出身。大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1941年7月に陸軍士官学校を卒業(第55期)し陸軍将校となる。終戦時は電信第13連隊中隊長、陸軍大尉。 戦後、公職追放を経て、陸上自衛隊に入隊し通信科出身ながら陸上幕僚長となるも、1980年に宮永スパイ事件の責を取る形で時の防衛庁長官・久保田円次とともに辞任した。 1986年、第14回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬し、名簿順位は25名中21位だったが、自民党の大勝により当選した(22位までが当選)。
中川 成夫(なかがわ しげお、1922年6月28日 – 20… 中川 成夫(なかがわ しげお、1922年6月28日 – 2000年9月16日)は日本の考古学者、博物館学者。近世考古学の提唱者として、以後の研究に道を開くとともに、博物館学の第一人者として長年にわたって研究に携わり、学芸員の養成にも尽力した。 大阪府生まれ。1942年に台北帝国大学予科文科に入学し、1944年に修了。同年10月1日に同大学文政学部史学科南洋史学専攻に進学する。1946年台北帝国大学廃止により、東京帝国大学文学部史学科に転入学し、1949年に卒業。同年、東京大学助手に採用される。1955年に東京大学を退職し、1957年立教大学専任講師、1960年同大学助教授、1967年教授となり、文学部で考古学の授業を受け持つとともに、学芸員課程で博物館学も担当する。
神 彰(じん あきら、1922年6月27日‐1998年5月2… 神 彰(じん あきら、1922年6月27日‐1998年5月28日)は、北海道出身の興行師、事業家、国際芸能プロモーター。
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月… 鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者・評論家・政治運動家・大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。 米国ハーバード大学で哲学を学んだのち、リベラルな立場の批評で論壇を牽引。思想史から大衆文化まで幅広い分野を扱う。著書は『戦時期日本の精神史』(1982年)、『アメリカ哲学』(2008年)など多数。 1922年6月25日、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの2番目(長男)として生まれる。
吉沢 正五(よしざわ しょうご、1922年 <大正11年> … 吉沢 正五(よしざわ しょうご、1922年 <大正11年> 6月24日 - 1994年 <平成6年> 11月18日)は日本の政治家。白根市(現・新潟市)長(6期)。土地家屋調査士。位階は従五位。 新潟県出身。1942年東京農業大学農業土木技術員養成所卒。翌年兵役に就いた。戦後は新潟県中蒲原郡庄瀬村(のち白根市、現・新潟市)農地委員会、長岡市農林課、新潟県農業会議などに勤務する。1961年白根市長に当選。市長在職中は上下水道や都市ガスの整備、保育や教育施設の充実、農村総合整備モデル事業や大圃馬整備事業を推進した。市長を1985年までの6期24年務めた。1994年死去。死没日付をもって従五位に叙された。
阿部 文男(あべ ふみお、1922年6月23日 - 2006… 阿部 文男(あべ ふみお、1922年6月23日 - 2006年12月6日)は、日本の政治家。 衆議院議員(7期)、北海道開発庁長官(第53代)、沖縄開発庁長官(第22代)、宏池会事務総長などを歴任した。 山形県東根市出身。北海道帝国大学附属農林専門部を卒業した。 函館市議会議員などを務めた。1963年の北海道議会議員選挙に立候補し、函館市選挙区から当選した。以来、連続2期当選を果たした。北海道議会では、商工労働委員会や予算特別委員会において、それぞれ副委員長を務めた。第32回衆議院議員総選挙立候補のため、2期目の1969年12月6日に辞職した。 北海道議会議員辞職後、1969年の衆議院議員総選挙に立候補し、旧北海道第3区にから当選を果たした(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
新津 義雄(にいつ よしお、旧姓:数間、1922年〈大正11… 新津 義雄(にいつ よしお、旧姓:数間、1922年〈大正11年〉6月22日 - 2011年〈平成23年〉12月27日)は、日本の実業家。丸新グループ創立者・初代代表、テレビ新潟放送網第2代社長・最高顧問、新津記念館初代館長・理事長。 新潟県新潟市(現 新潟市中央区)に生まれ、新潟市旭町通1番町(現 新潟市中央区旭町通1番町)の新津石油創業者・新津恒吉の養子になった。 新潟師範学校附属小学校を経て、1940年(昭和15年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)9月に新潟高等学校を半年繰り上げ卒業、1946年(昭和21年)9月に東北帝国大学法文学部法科を卒業。 1946年(昭和21年)10月に石油販売会社・丸新産業を創立し副社長に就任、1949年(昭和24年)5月に丸新石油を創立し社長に就任、同月に昭和石油監査役に就任、1972年(昭和47年)9月に新津石油を創立し社長に就任、1984年(昭和59年)5月に全国石油協会副会長に就任、1988年(昭和63年)6月にテレビ新潟放送網第2代社長に就任、1992年(平成4年)8月に父の新津恒吉が建てた迎賓館を新津記念館として開館し初代館長に就任。
村山 喜一(むらやま きいち、1921年〈大正10年〉7月2… 村山 喜一(むらやま きいち、1921年〈大正10年〉7月21日 - 1996年〈平成8年〉8月16日)は、日本の政治家。 鹿児島県議会議員、衆議院議員(10期)、衆議院副議長(第58代)などを歴任した。 鹿児島県姶良郡蒲生町(のちの姶良市)にて生まれた。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)卒業。1941年に台南師範学校卒業後、小学校教員、鹿児島県評事務局長、鹿児島県議会議員を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に日本社会党より立候補し当選、以後当選10回。 党内では和田博雄 – 勝間田清一 – 石橋政嗣の派閥に所属する。1982年2月、飛鳥田一雄委員長の下で国会対策委員長に就任、その後馬場昇書記長下ろしに伴う役員改選により、同年12月副委員長となる。
服藤 弘司(はらふじ ひろし、1921年〈大正10年〉7月2… 服藤 弘司(はらふじ ひろし、1921年〈大正10年〉7月20日 - 2005年〈平成17年〉7月15日)は、法制史学者、東北大学名誉教授。専門は近世武家法。 愛媛県新居浜市生まれ。1939年愛媛県立西条中学校卒、1942年旧制広島高等学校卒、同年九州帝国大学法文学部入学、1943年学徒動員、1945年復員。 1946年九州帝国大学法文学部卒、1952年同大学院(旧制)特別研究生修了(指導教授:金田平一郎)、九州大学九州文化史研究所研究員、1953年金沢大学法文学部助教授、1957年同教授、1962年九州大学にて論題「近世封建法の性格」で法学博士受く、1967年東北大学法学部教授、1979年同図書館長、1985年定年退官、名誉教授。
片岡 明(かたおか あきら、1921年7月20日 - 199… 片岡 明(かたおか あきら、1921年7月20日 - 1997年8月14日)は、日本の経営者。ヒガシマル醬油社長を務めた。兵庫県出身。 1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、1952年4月にヒガシマル醬油に入社。1966年に取締役に就任し、1971年5月に常務、1978年3月に専務を経て、1986年3月に副社長に就任し、1990年3月には社長に昇格。1996年3月には副会長に就任。 1997年8月14日急性呼吸不全のために死去。76歳没。
中込 八郎(なかごみ はちろう、1921年〈大正10年〉7月… 中込 八郎(なかごみ はちろう、1921年〈大正10年〉7月20日 - 1999年〈平成11年〉11月14日)は、日本の高等学校物理教師、科学写真家。 群馬県館林市生まれ。群馬師範学校を経て、1944年東京高等師範学校卒。東京都立竹早高等学校、東京都立西高等学校教諭として勤務。1986年定年退職。日本物理教育学会理事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 20… 保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 2001年11月17日)は、京都府出身のプロ野球選手・監督。
古角 俊郎(こすみ としろう、1921年7月19日 - 20… 古角 俊郎(こすみ としろう、1921年7月19日 - 2013年1月8日[1])は、日本の高校野球指導者。和歌山県立新宮高等学校硬式野球部元監督、明治大学硬式野球部OB会の駿台倶楽部顧問を務めた。
富山 奏(とやま すすむ、1921年7月19日-2009年1… 富山 奏(とやま すすむ、1921年7月19日-2009年1月)は、日本の国文学者。 三重県津市生まれ。京都帝国大学文学部国文科卒。高野山大学教授、皇學館大學教授、四天王寺女子大学教授、四天王寺国際仏教大学教授、副学長。1971年「伊賀蕉門の研究と資料」で大谷大学文学博士。71年同著で芭蕉祭文部大臣賞受賞。1989年中村元東方学術賞・東方文化賞受賞。近世俳諧、特に芭蕉が専門。
桑名 重治(くわな しげはる、1921年7月18日 - 没年… 桑名 重治(くわな しげはる、1921年7月18日 - 没年不明)は、茨城県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 水戸中学校から満州鉱山、松下飛行機、茨城県庁を経て、1950年に東急フライヤーズへ入団。1年目は33試合に登板して5勝11敗の成績だった。その後は1952年に6勝、1953年は8勝を挙げている。1954年は1勝9敗と成績は振るわずこの年に引退した。横手投げからシュート、カーブを武器とした。
竹山 太郎(たけやま たろう、1921年7月17日 - 20… 竹山 太郎(たけやま たろう、1921年7月17日 - 2016年12月18日)は、日本の材料工学者。北海道大学名誉教授。元日本電子顕微鏡学会会長。 横浜生まれ。1945年北海道帝国大学工学部生産冶金工学科卒業。北海道大学工学部助手、北海道大学工学部講師を経て、1959年北海道大学工学部助教授。1962年工学博士。1963年北海道大学工学部教授。1971年日本電子顕微鏡学会瀬深賞受賞。1983年日本金属学会谷川・ハリス賞受賞。1984年日本電子顕微鏡学会会長。1985年北海道大学名誉教授。北海道産業専門学校客員教授。1992年同退職。1996年勲三等旭日中綬章受章。日本金属学会北海道支部長、文部省学術審議会専門委員、日本原子力研究所核融合炉材料研究専門委員。
大河内 鷹(おおこうち たか、1921年(大正10年)7月1… 大河内 鷹(おおこうち たか、1921年(大正10年)7月17日 - 2009年(平成21年)4月9日)は、日本の政治家。福島県二本松市長(3期)。 福島県安達郡二本松町(現・二本松市)出身。1942年、陸軍士官学校(56期)卒。戦後、帰郷し、二本松市議会議員となり、7期務め、議長も2期務めた。1984年、二本松市長に当選し、3期務める。1996年に市長を退任した。2009年(平成21年)4月9日死去、87歳。死没日をもって正七位から従四位に叙される。
鹿取 泰衛(かとり やすえ、1921年7月16日 - 200… 鹿取 泰衛(かとり やすえ、1921年7月16日 - 2003年1月11日)は、日本の外交官。位階は正三位。 外務大臣官房長、外務審議官、駐中国特命全権大使、駐ソ連特命全権大使。 宮城県仙台市出身。1941年浦和高等学校文科乙類卒業。1943年東京帝国大学法学部政治学科中退、外務省入省。ドイツ語研修を受ける。在ドイツ日本国大使館一等書記官を経て、1963年外務省欧亜局西欧課長。1965年外務省外務大臣官房会計課長。1967年外務省北米局外務参事官。同年在シアトル日本国総領事館総領事。1969年在インド日本国大使館参事官。1970年外務省経済協力局外務参事官。1972年外務省外務大臣官房長。1974年外務省経済協力局長。
水之江 忠臣(みずのえ ただおみ、1921年(大正10年)7… 水之江 忠臣(みずのえ ただおみ、1921年(大正10年)7月16日 - 1977年(昭和52年)7月18日)は、日本の家具デザイナーである。大分県豊後高田市出身。 日本大学卒業後、1942年(昭和17年)に前川國男が創設したデザイン建築事務所に入所し、デザイナーとしての活動を始める。その後前川から建築の設計を教わり、椅子やテーブル等の家具の設計に携わる。水之江の作品はこれまで以上に丈夫な材料を用いた事や斬新なデザインによって、1954年(昭和24年)に神奈川県立音楽堂や神奈川県立図書館に所蔵され、一躍有名となった。 後に公共施設のみならず、家庭向けの家具の設計にも従事する。1958年(昭和33年)には日本室内設計家協会の発足と共に理事長を務め、1963年(昭和38年)には独立して自身のデザイン設計事務所を創設した。
木谷 忠(きたに ただし、1921年7月15日 - 2006… 木谷 忠(きたに ただし、1921年7月15日 - 2006年4月10日)は、日本の経営者。名古屋テレビ放送社長を務めた。和歌山県出身。 1944年に東京商科大学経済学部を卒業し、1948年に朝日新聞社に入社。1980年6月に取締役に就任し、1981年4月に常務、1983年10月に専務を経て、1985年6月に名古屋テレビ放送副社長に就任し、1988年7月守部政喜社長の急逝により社長昇格。1993年6月に代表取締役相談役に就任し、1995年6月に取締役相談役、1998年6月から相談役を経て、1999年6月に特別顧問に就任。 2006年4月10日肝不全のために死去。84歳没。
水原 泰介(みずはら たいすけ、1921年7月14日 - 1… 水原 泰介(みずはら たいすけ、1921年7月14日 - 1989年9月14日)は、日本の社会心理学者。 広島県生まれ。1944年9月東京帝国大学文学部心理学科卒。大学院に進み、1946年副手。1952年お茶の水女子大学助教授、1958年名古屋大学教育学部助教授、1964年9月東京大学教養学部助教授(心理学)、1974年東大文学部教授(社会心理学)、1982年定年退官、名誉教授、駒澤大学教授。没後、正四位勲三等旭日中綬章受勲。 1971年10月 東京大学 文学博士。論文の題は「態度の形成・変化と認知構造」。
佐々木 力(ささき つとむ、1921年7月13日 - 201… 佐々木 力(ささき つとむ、1921年7月13日 - 2019年8月11日)は、日本の労働法務の専門家。 宮城県出身。1947年東北帝国大学法学部卒。1948年日本出版協会勤務。1950年労働法令協会勤務、調査部長で1964年退職。1965年人事制度研究会を設立し所長。労務に関する実用書を多数執筆した。 2019年8月11日死去。 (享年98歳) この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐野 肇(さの はじめ、1921年7月13日 - 2003年… 佐野 肇(さの はじめ、1921年7月13日 - 2003年6月24日)は、日本の経営者、薬学博士。中外製薬社長を務めた。宮城県仙台市出身。 1944年に東京帝国大学第一工学部火薬学科を卒業し、同年に日本火工に入社し、陸軍兵器学校、陸軍技術中尉を経て、1947年10月に中外製薬に入社。 1964年5月に取締役に就任し、1974年11月に常務、1985年3月に専務を経て、1987年3月から1992年10月までに社長を務めた。 2003年6月24日肺炎のために死去。81歳没。
楠 正弘(くすのき まさひろ、1921年7月10日-2009… 楠 正弘(くすのき まさひろ、1921年7月10日-2009年7月20日)は、日本の宗教学者。東北大学名誉教授。 京都府綾部市出身。浄土真宗の寺に生まれる。東北大学大学院文学部特別研究生博士課程修了。東北大学教養部助教授、文学部日本文化研究施設教授。79年「信仰の形成と本質構造」で東北大学文学博士。85年定年退官、名誉教授、武蔵野女子大学教授。堀一郎に師事し、宗教学から民間信仰へと研究を進めた。
上田 明一(うえだ めいいち、1921年7月10日 - 20… 上田 明一(うえだ めいいち、1921年7月10日 - 2004年6月20日)は、日本の哺乳類学者。元農林省林業試験場鳥獣科長。森林野生動物研究会会員。北海道における森林害獣としてのユキウサギやエゾヤチネズミ等の応用動物学的研究を行った。動物学者・生態学者の上田宏の父。 1921年北海道旭川に生まれる。1945年北海道帝国大学農学部農業生物学科卒業。1947年北大大学院特別研究生を修了し、農林省札幌営林局森林有害動物調査所に勤務。1951年森林有害動物調査所の廃止に伴い、林業試験場(現・森林総合研究所)札幌支場に移った。1961年、農学博士(北海道大学)取得。論文の題は「エゾヤチネズミの発生予察並びにその駆除法に関する研究」。
荒木 義朗(あらき よしろう、1921年(大正10年)7月9… 荒木 義朗(あらき よしろう、1921年(大正10年)7月9日 - 1989年(平成元年)6月3日)は、日本の銀行家。富士銀行頭取、会長、全国銀行協会連合会会長、経済同友会副代表幹事を歴任した。 東京生まれ。府立高等学校を経て京都帝国大学法学部を卒業。学徒出陣し陸軍経理学校で終戦を迎える。 1945年(昭和20年)秋に安田銀行(後の富士銀行)に入行。本店の貸付審査部門を長く担当し、本所、広島の支店長を歴任した。 1970年(昭和45年)取締役に選任され、73年に常務、75年に副頭取、81年から頭取を務め、87年に会長に退く。この間、全銀協会長を2度務め、経済同友会副代表幹事を6年間にわたり担った。