尾上 正男(おのえ まさお、1905年1月4日 - 1999… 尾上 正男(おのえ まさお、1905年1月4日 - 1999年5月16日)は、日本の国際政治学者、法学者、ソ連研究者。神戸大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市出身。1929年京都帝国大学法学部卒業。満州のハルピン学院や建国大学で教授を務める。終戦直前に現地召集され、戦後は5年間シベリア抑留された。 1951年より神戸大学法学部教授、1968年定年退官、名誉教授。同年より神戸学院大学法学部教授を務め、1974年から1980年までは学長も務めた。1989年退職。 1961年、「ソビエト外交史」で京都大学法学博士。1975年勲三等旭日中綬章受章。
大野 実之助(おおの じつのすけ、1905年1月4日 - 1… 大野 実之助(おおの じつのすけ、1905年1月4日 - 1989年10月14日)は、日本の漢文学者。 和歌山県生まれ。早稲田大学高等師範部卒、教員検定試験合格。1960年「李太白研究」で早大文学博士。早大文学部助教授、教授、75年定年、名誉教授。
高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年… 高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。 大正天皇と貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。 当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。 高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。
三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999… 三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999年4月18日)は、日本の女性洋画家で、新制作協会会員。 愛知県中島郡小信中島村(現・一宮市小信中島)の織物工場を営む裕福な家の十人兄弟の6番目(4女)に生まれた。父は吉田永三郎、母は菊。母の菊は、安政の大獄で死罪となった水戸藩士・鵜飼吉左衛門(幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。先天性股関節脱臼(現・発育性股関節形成不全)を患っており、両親に抑圧されて育った節子も、この大きなショックから当時興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。戦前・戦後の画壇における女性画家の地位向上に努め、その生涯を通じてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。
福田 久雄(ふくだ ひさお、1905年1月3日 - 1984… 福田 久雄(ふくだ ひさお、1905年1月3日 - 1984年2月16日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長を務めた。徳島県出身。 1925年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に大阪商船に入社した。 1953年5月に取締役に就任し、1957年11月に専務、1959年5月に副社長を経て、1967年5月に社長に就任。1972年5月に会長、1975年5月に取締役相談役を経て、1976年6月には相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1984年2月16日肺炎のために死去。79歳没。
松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治3… 松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治38年)1月2日 - 1970年(昭和45年)11月30日)は、日本の政治家。長野県長野市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 長野市生まれ。家業は鋼材商「鍋久」で、代々「松橋久左衛門」を襲名する。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制松本高等学校文科を経て、1929年東京帝国大学経済学部卒業。家業の鋼材商「鍋久」を承継し、長野市連合青年会長、長野市会議員を経て、昭和14年(1939年)長野県会議員となる。 同21年(1946年)長野市長臨時代理者となり、翌年に施行された初の公選による長野市長選挙で当選。また戦後の特例で長野県議会議員を兼務し、議長として「分県論」を収束させた。
小幡 治和(おばた はるかず、1905年(明治38年)1月2… 小幡 治和(おばた はるかず、1905年(明治38年)1月2日 - 1998年(平成10年)7月29日)は、昭和期の日本の政治家、内務官僚。福井県知事(官選第35代、公選初代)、参議院議員(2期)。福井県知事時代には福井県章、福井県民歌を制定した。 1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部卒業。内務省に入り、大阪府経済部長、内務部長、近畿地方行政事務局次長を歴任し、1946年(昭和21年)10月4日、福井県知事就任(事実上最後の官選知事)。1947年(昭和22年)4月5日、地方自治法施行に伴う初の福井県知事選挙にて当選。同年10月、福井県に昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務める。1955年(昭和30年)に知事を2期で退任し、同年3月10日の参議院議員福井県選挙区補欠選挙に無所属で出馬し当選。
林 大作(はやし だいさく、1905年〈明治38年〉1月2日… 林 大作(はやし だいさく、1905年〈明治38年〉1月2日 - 1985年〈昭和60年〉11月26日)は、昭和期の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。 愛知県八名郡賀茂村(双和村を経て現豊橋市)出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 三井物産に入社し、ボンベイ(現ムンバイ)支店、ニューヨーク支店で勤務。その後、商工省嘱託、重要物資管理営団企画課長、交易営団上海連絡部次長、同営団総務部次長などを務めた。 戦後、弁護士となり片山哲の法律事務所で勤務。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で愛知県第5区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年… 伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年9月3日)は、1920年代に活躍した元スキージャンプ選手、実業家。後に全日本スキー連盟の会長を務めた。京都府出身。 父親の伴房次郎は小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)第二代校長(在職期間1921年11月28日-1935年4月2日) 京都府生まれで小学3年生の時父親の転勤に伴い小樽へ移り住んだ。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校) - 北海道帝国大学農学部 - 日本製粉(現・ニップン)株式会社。 1926年の第4回全日本スキー選手権ジャンプ競技優勝。 1928年のサンモリッツオリンピックにスキージャンプ日本代表として出場するが、コーチも通訳もいない孤独な参戦を強いられたことに加え、台の規模や技術、道具など何もかもが自分たちがやってきたことと違うことに戸惑い本来のジャンプが全く出来ず、転倒もあって(元々、伴は着地は得意な選手であった)最下位に終わった。
吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 197… 吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 1972年2月10日)は、日本の抽象画家、実業家。吉原製油社長。具体美術協会の創設者。
厚田 雄春(あつた ゆうはる、1905年1月1日 - 199… 厚田 雄春(あつた ゆうはる、1905年1月1日 - 1992年12月7日)は、日本の映画カメラマン。小津安二郎組の名カメラマンとして知られる。
正木正(まさき まさし、1905年1月1日-1959年9月3… 正木正(まさき まさし、1905年1月1日-1959年9月3日)は、日本の教育心理学者。 熊本県出身。東京帝国大学卒。浪速高等学校教授、東北大学教授、京都大学教育学部教授。依田新との共著『性格心理学』(1937)で知られた。哲学者カール・ヒルティの翻訳もした。選集全3巻がある。 1959年 従三位勲三等
杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年… 杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年)1月1日 - 1970年(昭和45年)11月17日)は、日本の文筆家・陶芸研究者・歴史研究者。陶芸研究においては、古曾部焼、丹波焼を中心に調査・資料収集を行なった。 大阪市生まれ。東洋大学卒業。小説家として活動した後、陶芸研究・千利休の周辺をはじめとする歴史研究を行ない、兵庫県陶芸館副館長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
渡辺 順平(わたなべ じゅんぺい、1905年1月1日 - 1… 渡辺 順平(わたなべ じゅんぺい、1905年1月1日 - 1976年6月28日)は、日本の経営者。山之内製薬社長を務めた。岐阜県出身。 1925年に富山薬学専門学校を卒業し、1933年には東亜化学研究所を設立。1939年3月に山之内製薬取締役に就任し、1950年11月に常務、1962年2月に専務を経て、1968年8月には社長に就任。1974年8月には会長に就任。 1976年6月28日肺腫瘍のために死去。71歳没。
小嶋 源作(こじま げんさく、1905年1月1日 - 198… 小嶋 源作(こじま げんさく、1905年1月1日 - 1989年8月7日)は、日本の実業家。中部日本放送 (CBC) の事実上の創業者で、第4代代表取締役社長。中日新聞社取締役。 石川県石川郡野々市村(現:野々市市)に生まれる。 明治大学を卒業後、1929年に名古屋新聞社に入社。1942年に新愛知新聞社との合併で中部日本新聞社(1971年より中日新聞社)となった後の1946年に社会部長、1949年に出版局長となる。その傍ら、「民主国家として言論の自由を取り戻すためのフリーラジオを」という強い願いを持ち、民間放送の創設に熱意を燃やす。 1950年4月、中部日本放送の創立委員に就任。当時の杉山虎之助中部日本新聞社社長、中部財界、さらには許認可権者である逓信省やGHQを説得し、初代社長に佐々部晩穂を据え、自身は代表取締役常務に就任。
大鶴 多喜之助(おおつる たきのすけ、1905年1月1日 -… 大鶴 多喜之助(おおつる たきのすけ、1905年1月1日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。荒磯部屋→春日野部屋所属。本名は宮川→槙勇。最高位は十両7枚目。 北海道釧路市出身。荒磯部屋に入門し、1923年5月「大寉」の四股名で序ノ口に就く(のち春日野部屋に移籍)。1929年1月十両に昇進。2場所続けて負け越したため、5月に幕下に落ちた。1930年1月再十両。この場所は3勝8敗と負け越したが、翌3月は6勝5敗と勝ち越し、十両での唯一の勝ち越しとなる。当時は2場所の成績で番付を作成されたため、合計の成績が9勝13敗と負け越しとなったため再び幕下に落ちた。「大鶴」と改名した1931年1月三回目の十両昇進となったが、この場所と翌場所も負け越し、5月に幕下に落ちた。
北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年… 北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年4月16日)は、日本の俳優、脚本家。本名:山田 東吾 。東京府東京市京橋区出身。 東京市京橋区生まれ。三光尋常小學校卒業。1922年、早稲田大学文学部に入学するも2年で中退。日活封切館・新宿帝都座の次席弁士として無声映画末期の説明界で存在感を示した。弁士時代の名前は山田無声。その後、松竹大船撮影所脚本部に所属したのち、1937年に日活多摩川撮影所に俳優として入社。 1937年の映画『限りなき前進』でデビューするや、注目され始め、助演俳優として活躍 。1942年に統合で大映東京に移籍。1948年にフリーとなって、1950年に松竹大船に所属、重厚な雰囲気から、主に校長や重役、父親役で数多くの映画に出演。
伊藤 啓介(いとう けいすけ、1904年(明治37年)12月… 伊藤 啓介(いとう けいすけ、1904年(明治37年)12月31日 - 没年不明)は、日本の実業家。高岳製作所元取締役。三井銀行(現・三井住友銀行)元常任監査役。東京光学機械(現・トプコン)元監査役。 埼玉県大里郡寄居町の吉田正治の次男として生まれた。早くに父を亡くし、義兄の医師・幾瀬量(娘は幾瀬マサ)の世話になる。幾瀬の先輩の伊藤新作(日本煉瓦製造営業部長)を紹介され懇意になり、望まれて伊藤の末期養子及びその妻伊藤乃ふの養子となる。 旧制熊谷中学、旧制松本高校文科乙類を経て、1928年(昭和3年)に東京帝国大学経済学部を卒業。大学卒業後、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。同行にて監査役・常任監査役を歴任。
堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日… 堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、日本の小説家。 それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、長野県軽井沢に度々療養、当地を舞台にした作品を多く残し、晩年には終の住処とした。 戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造、中村真一郎、福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。
足鹿 覚(足鹿 覺、あしか かく、1904年(明治37年)1… 足鹿 覚(足鹿 覺、あしか かく、1904年(明治37年)12月28日 – 1988年(昭和63年)5月16日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員。全日本農民組合連合会長。 生家は半農半漁で家計は苦しく、そうした環境が彼に労働者としての自覚を促した。 東京帝国大学セツルメント労働学校を終えた後、帰郷して農民運動をする。1926年(大正15年)労働農民党の創立に参加し、労働組合運動にも参加。 1931年(昭和6年)米子市会議員、1935年(昭和10年)鳥取県会議員を経て、戦後は日本社会党に入り、1949年(昭和24年)から衆議院議員に7期当選。1968年(昭和43年)から参議院議員1期。農政を中心とする思想・見識は国民の共感を得た。
清水 盛光(しみず もりみつ、1904年12月25日 - 1… 清水 盛光(しみず もりみつ、1904年12月25日 - 1999年1月16日)は、日本の社会学者。 愛知県渥美郡田原町出身。本籍・広島県。1931年九州帝国大学法文学部哲学科卒。九大助手を経て満鉄調査部に勤務し、「支那社会の研究」を発表。京都帝国大学人文科学研究所助教授、1949年京都大学人文科学研究所教授、58年「支那家族の構造」で京都大学文学博士。68年定年退官、名誉教授、関西大学教授、1974年松山商科大学教授、1977年駒澤大学教授。中国の社会関係の研究を行った。
松岡 松平(まつおか まつへい、1904年(明治37年)12… 松岡 松平(まつおか まつへい、1904年(明治37年)12月25日 - 1975年(昭和50年)3月1日)は、日本の弁護士。政治家。衆議院議員(3期)。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 富山県出身。1924年中央大学法律科を卒業し、弁護士となる。戦後、公職追放となり、追放中の1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙で富山1区から立候補して当選し、翌1953年の総選挙で落選した。1955年の総選挙で再選したが、1958年の総選挙で落選してから、5回連続落選した。1972年の総選挙で14年ぶりに国政に復帰。国会内では商工委員長を務めた。
土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - … 土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - 1980年12月23日)は、昭和期に活動した日本の美術評論家、美術史家。 岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学を卒業。1930年にドイツに留学。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。 戦後の1949年、千葉工業大学教授に就任。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1968年芸術選奨文部大臣賞、1973年菊池寛賞受賞。
舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12… 舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12月25日 - 1976年(昭和51年)1月13日)は、日本の小説家。東京生れ。旧制水戸高等学校を経て東京帝国大学文学部卒。弟は脚本家の舟橋和郎。日本芸術院会員。文化功労者。 大学在学中に『朱門』に参加。四代目河原崎長十郎や村山知義らと共に劇団「心座」の旗揚げに尽力し、『白い腕』で文壇に登場。明治大学教授として教鞭をとるかたわら、雑誌『行動』に参加して『ダイヴィング』(『行動』1934年10月)を発表、行動主義を宣言して注目された。多くの戯曲を書いたが、小説『木石』で地位を確立。 戦中に書き継いで声価の高い『悉皆屋康吉』を経て、戦後は、『雪夫人絵図』や『芸者小夏』シリーズなどの愛欲小説や、『花の生涯』をはじめとする歴史物を書いて人気作家となった。
大沢 衛(おおさわ まもる、旧字体:大澤衞。1904年1月1… 大沢 衛(おおさわ まもる、旧字体:大澤衞。1904年1月18日 - 1980年4月13日)は、日本の英文学者、翻訳家。金沢大学名誉教授。 石川県出身。1927年東京帝国大学文学部英文科卒。第四高等学校教授、戦後金沢大学教授、1969年定年、金沢美術工芸大学長。1975年退職。日本ハーディ協会会長。
朴 鐘煥(パク・チョンファン、朝鮮語: 박종환、1904年1… 朴 鐘煥(パク・チョンファン、朝鮮語: 박종환、1904年1月17日または1909年1月27日 - 没年不詳) は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。本貫は竹山朴氏(朝鮮語版)。 慶尚北道清道郡出身。京城中央高等学校、中央大学法学部卒。清道ファンサム精米合資会代表、朝鮮食糧営団参事兼清道工場長、京城大同建物株式会社取締役、京城大韓工業土建株式会社社長、米軍政庁人事行政処考試課長を歴任。 1950年7月20日ごろ敦岩洞の友人宅にいたところ拉致され、以後北朝鮮で在北平和統一促進協議会中央委員などを務めた。1959年3月ごろに咸鏡北道富寧郡(当時古茂山)に移住したとされる。以後消息、没年不明。
藤田 親昌(ふじた ちかまさ、1904年(明治37年)1月1… 藤田 親昌(ふじた ちかまさ、1904年(明治37年)1月17日 - 1996年(平成8年)11月13日)は、日本の出版人、編集者。元文化評論社社長・中央公論社編集部長。横浜事件に連座する。 1904年(明治37年)1月17日、神奈川県鎌倉に生まれる。法政大学予科を経て、1930年(昭和5年)に法政大学法文学部英文科を卒業する。中央公論社に入社し、出版部長、編集部長を歴任する。1944年(昭和19年)にいわゆる横浜事件により検挙、一年に渡り拘禁され、1945年(昭和20年)に起訴留保処分により釈放される。 戦後、1946年(昭和21年)に文化評論社を設立し、社長に就任する(1961年(昭和36年)に閉鎖)。
宮島 肇(みやじま はじめ、1904年1月15日 - 199… 宮島 肇(みやじま はじめ、1904年1月15日 - 1991年2月25日)は、日本の哲学・教育学者。横浜国立大学名誉教授。 鹿児島県出身。東京文理科大学卒。1951年「文化哲学の基礎研究」で東京教育大学文学博士。横浜国立大学教授。1969年定年退官、名誉教授、関東学院大学教授。1969年横浜文化賞受賞。1981年から1984年まで神奈川県教育文化研究所の初代所長をつとめる。 息子は社会学者の宮島喬、経済学者の宮島洋、政治学者の宮島泉。
十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえも… 十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえもん、1904年(明治37年)1月15日 - 1952年(昭和27年)10月4日)とは、大正から昭和時代前期にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名市村 勇(いちむら いさむ)。 京橋区築地に生まれ、のち十五代目市村羽左衛門の養子となる。二代目市村吉五郎は養父を共にする弟にあたる。1910年(明治43年)4月、東京歌舞伎座『鞍馬山祈誓掛額』の牛若丸で四代目市村竹松を襲名し初舞台。以後成駒屋五代目中村福助、片岡千代之助らとともに若手の旗手として将来を嘱望された。1925年(大正14年)1月には七代目(自称・十五代目)市村家橘を襲名。
吉田 安三郎(よしだ やすさぶろう、明治37年(1904年)… 吉田 安三郎(よしだ やすさぶろう、明治37年(1904年)1月14日 - 昭和47年(1972年)4月20日)は、日本の都市計画家。建築官僚、建築指導者。大学卒業と同時に内務省大臣官房都市計画課に入省後、都市計画東京地方委員会技師、建設省指導課長、大阪府建築部長などを経て、昭和30年に新たに発足した日本住宅公団では計画、建築担当の理事。本格的な団地造成の仕事に取り組む。公団退任後は塚本不動産、八千代エンジニヤリング、鹿島建設、東亜不動産など幅広い活動を続けると同時に、日本都市計画学会副会長、会長をつとめ、同学会当時の社団法人化を実現、また後進の指導につとめる。幅の広い活躍をする一方、いろいろな会の仕事など多方面に精力的に活動した。
米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 19… 米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 1971年6月20日)は、日本の経営者、工学博士。久保田鉄工(現在のクボタ)社長を務めた。 広島県呉市出身。1928年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に久保田鉄工(現在のクボタ)に入社。1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1960年に専務を経て、1967年に社長に就任した。 1968年11月に紫綬褒章を受章した。 1971年6月20日、胃がんのために死去。67歳没。
羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月… 羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉12月30日)は、大正、昭和期の日本の政治家、社会運動家。日本社会党参議院議員。「参議院の良心」と呼ばれた論客であった。 明治37年(1904年)1月13日長野県下伊那郡鼎村(現・飯田市)に米屋の長男として生まれる。飯田の松濤義塾に学び、家業のかたわら青年運動に参加する。山川均と出会い社会主義運動に加わるようになる。大正11年(1922年)秋、「下伊那文化会」を発展させ、自由青年連盟(Liberal Younger's League)を結成し、機関誌『第一線』を発行する。大正13年(1924年)治安警察法違反で検挙、起訴され、禁固4か月の判決を受ける。
愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 -… 愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 - 1944年11月11日)は、愛媛県宇和島市出身で押尾川部屋に所属した元大相撲力士。本名は宮川 初義。最高位は十両2枚目。 大阪相撲の押尾川部屋に入門。東西合併により、1927年5月三段目に付出され、その場所で三段目優勝を果たす。1931年5月十両に昇進したが、2場所続けて負け越し、1932年1月場所の番付では幕下に落ちた。ところが、番付発表直後に起きた春秋園事件により、大量の幕内十両の脱退者が出たため、一転して十両残留となった。以後6場所連続十両の地位にあった。1934年1月に幕下に落ち、翌5月三段目まで陥落したところで廃業した。1944年死去。
池田 敏子(いけだ としこ、1904年1月13日- 1984… 池田 敏子(いけだ としこ、1904年1月13日- 1984年7月5日)は、日本の著作家、池田書店創業者。 山形市生まれ。東京保母伝習所卒業。1929年(昭和4年)高山菊次と結婚、1935年(昭和10年)に教材社を創業、高山晴洲の筆名で執筆活動を始める。 1946年(昭和21年)離婚、1949年(昭和24年)2月23日に池田書店を創業する。1960年(昭和35年)出版の『性生活の知恵』は、英語版80万部も含めて400万部以上のベストセラーに、性に関する啓蒙書を多く出すほか、『下村湖人全集』などを刊行する。近藤信緒(こんどう・のぶお)の筆名で自らも多くの著書を著し、1949年(昭和24年)出版の『人に好かれる法』は、50万部以上のベストセラーとなった。
中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12… 中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12日 - 2001年〈平成13年〉11月12日)は、日本のフランス語学研究者。日本民俗語学者。 1904年(明治37年)1月12日、愛媛県南宇和郡一本松村広見(現・愛南町)に生まれる。父・中平幾男、母・栄。「わたしの家は三万石の〔伊予〕吉田藩〔宇和島藩の支藩〕の小船頭の役をしていて、祖父は殿様が参勤交代のときに大阪まで行ったようである」。「祖父は四万十川が氾濫したとき、政府(県かもしれない)が呉れた米を、御上のくれた物は食べないと言って頑張った、という話を聞いたこともあるが、わたしのアマノジャクも、この祖父の性質を受けているのかもしれない」。
野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月1… 野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月12日 - 1975年(昭和50年)9月28日)は、日本の実業家。三井東圧化学(現三井化学)社長や、日本化学工業協会会長を務めた。 1924年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業、三井鉱山入社。1931年三池窒素工業入社。1937年東洋高圧工業入社。1946年東洋高圧工業取締役に昇格。1947年東洋高圧工業専務取締役。1957年東洋高圧工業取締役副社長。1963年から東洋高圧工業取締役社長を務め、1968年には三井銀行本店で三井化学工業の石毛郁治取締役社長との間で、合併調印式を行い、合併後の三井東圧化学でも社長を務めた。同年日本化学工業協会会長。
聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月1… 聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月11日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は日本のジャーナリスト、労働運動家。息子は元参議院議員の聴濤弘。 香川県生まれ。関西学院大学卒業後、朝日新聞社に入社。朝日新聞記者として論説委員などを歴任。戦後の1945年に日本共産党入党。朝日新聞労働組合委員長(初代)にも就任した。1946年には全日本新聞通信労働組合委員長(初代)と全日本産業別労働組合会議(産別会議)議長(初代)に就任した。 二・一ゼネストでは伊井弥四郎とともに最高責任者の1人になったが、1947年1月20日に右翼団体・新鋭大衆党による襲撃を受け全治1ヶ月の重傷を負った。
水上 不二(みずかみ ふじ、男性、1904年(明治37年)1… 水上 不二(みずかみ ふじ、男性、1904年(明治37年)1月10日 - 1965年(昭和40年)3月31日)は、日本の詩人、童話作家、絵本作家、作詞家。 宮城県本吉郡大島村(現在の気仙沼市)字長崎にて父・佐助、母・あやの の次男として生まれる。 1918年(大正7年)、本吉郡立水産学校(現在の宮城県気仙沼向洋高等学校)に入学し、卒業後は1922年(大正11年)9月より本吉郡内の小学校3校に勤務した。その後、1928年(昭和3年)4月に上京し、東京府南葛飾郡の松江第一小学校に勤務した。 1930年(昭和5年)、処女詩集『私の内在』を発行する。この頃より鈴木三重吉、北原白秋らが発刊した「赤い鳥童謡運動」に参加。
長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10… 長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10日 - 1994年(平成6年)8月21日 )は、日本の登山家であり、随筆家でもある。まだ日本では珍しかった山小屋であるヒュッテ・霧ヶ峰を経営した人物として有名。日本山岳会員、日本児童文芸家協会・日本国立公園新社理事。岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の長尾家に生れる。大正4年度吹屋小学校を卒業。地元の旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。長尾自身、好奇心旺盛な性格であり、5年生の夏には、神戸市の貧民窟(スラム)へ見物に行く。そこは、人一人やっと通れる位の路地があり、病める者、貧しき者、悩める者、弱き者、虐られた者等、世の中の敗者とされる人々がひしめき合い、これを見て世の中の不平等さを認識した。
祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日… 祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日 - 1979年(昭和54年)2月14日)は、日本の応用化学者である。 愛知県名古屋市に生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)に入学後、工学部に所属し応用化学を専攻した。卒業後は東京工業大学に勤務し、講師を経て助教授として活動する。1936年(昭和11年)より留学のため渡英し羊毛の研究に携わり、その後ドイツに移住しアルカリセルロースの研究にも携わった。 1939年(昭和14年)に帰国後は、その応用として合成繊維(アルカリ繊維素)の研究に携わる。これによって、1941年(昭和16年)に理学博士の称号を得た。翌1942年(昭和17年)より教授に昇格し、1948年(昭和28年)に母校の東京大学に復帰し同大学で教鞭を執る。
高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 197… 高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 1978年2月28日)は、昭和期の政治家、内務・警察官僚。位階は正三位。 衆議院議員(8期)、文部大臣を歴任した。 山口県美祢郡東厚保村(現・美祢市)小杉に、農業・高見政五郎の次男として生まれる。高等小学校を卒業後、炭焼きをしながら独学で教員免許を取得、小学校代用教員となる。その後軍隊生活等を経て、1928年大阪府天王寺師範学校第二部(現・大阪教育大学)を卒業、1929年関西大学専門部法科卒業後、大阪府庁学務部に勤務するが、1929年に高等文官試験行政科に合格する。翌1930年には法律科にも合格し、1938年内務省に入省する。 秋田県社会部長、警視庁警視、和歌山県警察部長、奈良県経済部長等を経て、静岡県経済部長となるが、1951年次期県知事の有力候補者であった県総務部長の斎藤寿夫と親しいことを理由に、当時の小林武治知事によって左遷される。
長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 -… 長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 - 1988年1月28日)は、日本の画家。猫の絵で有名。また、地味井 平造(じみい へいぞう)の筆名で探偵小説を執筆した小説家でもある。 1904年、父・長谷川清(後に淑夫に改名)、母・長谷川ユキの二男として函館に生まれる。長兄に、牧逸馬・林不忘・谷譲次の三つのペンネームを用いて活躍した作家の長谷川海太郎がおり、弟には、ロシア文学者で詩人の長谷川濬(三男)、作家の長谷川四郎(四男)がいる。 旧制函館中学(現・北海道函館中部高等学校)卒業。中学の同級生に、探偵小説家・編集者の水谷準がいた。その後、画家を志して1924年に上京し、松本泰が大家をつとめる下宿で、水谷と共同生活を送る。
牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日… 牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の作家、詩人、翻訳家、イタリア文学者で、イタリア民謡「山の大尉」の歌詞も訳した。父は高級住宅街「苦楽園」を開発した実業家中村伊三郎。夫は「広辞苑」「少年少女ファーブル昆虫記」「生き物図鑑」などのイラスト画家牧野四子吉(よねきち)。 1904年(明治37年)大阪府大阪市北区上福島(現福島区)生まれ。大阪市立靱尋常小学校(現大阪市立明治小学校)、大阪府立清水谷高等女学校(現大阪府立清水谷高等学校)を経て、神戸女学院大学部英文科(現神戸女学院大学)へ進学(のちに中退)。1924年(大正13年)東京時事新報(現産経新聞)に勤務。
瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1… 瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1997年6月23日)は、日本の政治家。位階は正三位。 元衆議院議員(当選11回)。都城市長・建設大臣・法務大臣・文部大臣を歴任。 熊本県天草郡下津浦村(現・天草市)に、村の収入役を務めた河内寿松の三男として生まれる。熊本通信生養成所を卒業後、天草の郵便局での電信技術者、下津浦村書記を経て、向学心に燃え上京。苦学しながら開成中学校夜間部(のちの昌平高校)、さらに明治大学法学部に進み、1932年卒業。司法省に入り、岡山・山口等の各地裁判事を歴任する。1933年宮崎県都城市の金物商瀬戸山徳蔵の一人娘香代と結婚したが、後に瀬戸山家の血筋が絶えたため、1942年瀬戸山家の婿養子となる。
趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月… 趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月6日 - 1983年1月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産婦人科医、実業家、政治家。第2・3・4代韓国国会議員、第3代前・後期民議院副議長。 本貫は咸安趙氏。ジャーナリストの趙鏞寿(朝鮮語版)の叔父である。 慶南咸安出身。培材高普、セブランス医学専門学校(現・延世大学校)卒、京都帝大大学院修了。産婦人科医、大邱民報社長、大邱時事新報社長、慶北国民訓練院長、国民会大邱市副委員長・大邱支部組織部長・慶尚北道支部長・中央本部副会長、大韓労総最高委員を歴任した。1948年の初代総選挙に出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙で大邱市から初当選し、自由党院内議員部政策委員長・中央委員、国会懲戒資格委員長・内務治安委員長・全院委員長・内務委員長、第3代国会民議院副議長を務めた。
平澤 貞二郎(ひらさわ ていじろう、1904年1月5日 - … 平澤 貞二郎(ひらさわ ていじろう、1904年1月5日 - 1991年8月20日)は、日本の実業家・詩人である。 平澤貞二郎は福井県坂井市三国町の仏壇屋に生まれ、15歳の時に上京した。1921年に東京府立商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)を卒業したのち、大沢商会や報知新聞社などに勤務した。その傍らで詩の創作活動に励み、1925年に萩原朔太郎や室生犀星らが出していた雑誌『感情』の流れを汲んだ『帆船』に参加したり、1927年に詩誌『金蝙蝠』を創刊したり、1928年に詩集『街の小民』を出版したり、1930年にはプロレタリア詩誌合同のプロレタリア詩人会の委員長に就任して機関誌『プロレタリア詩』を13号まで刊行したりするなど、1920年から1930年代頃にはプロレタリア詩人として活動している。
本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2… 本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2008年1月29日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。長男は北國銀行第6代頭取の本陣靖司。 石川県小松市出身。1929年に京都帝国大学法学部を卒業し、1930年2月に加越合同銀行に入行した。1943年12月に北國銀行に転じ、1948年2月に常務に就任し、1950年10月に専務、1954年11月に副頭取を経て、1961年1月には頭取に就任。1966年7月には会長も兼任し、1968年11月には頭取を退任。 近現代の日本画をはじめとした美術品収集を趣味としており、小松市立本陣記念美術館にコレクションが収蔵されている。 2008年1月29日、老衰のために死去。
石田 龍次郎(いしだ りゅうじろう、1904年1月4日 - … 石田 龍次郎(いしだ りゅうじろう、1904年1月4日 - 1979年1月11日)は、日本の地理学者。一橋大学名誉教授。日本地理学会会長(1966-67)。 石川県能美郡小松町(現・小松市)で酒類販売商を営む麦谷家の六男として生まれる。14歳で尋常高等小学校の高等科を修了し、石川県立小松中学校に入学する。1921年第四高等学校理科甲類に入学し、1924年に卒業。1927年、東京帝国大学理学部地理学科卒業。在学中は山崎直方、辻村太郎、多田文男等の指導を受ける。同年4月、石田姓を継いで石田龍次郎と改姓。同年東京商科大学予科講師に就任。同専門部講師、予科教授を経て、1949年一橋大学社会学部教授。1967年、定年退官、名誉教授。
比佐 芳武(ひさ よしたけ、本名:武久 猛〈たけひさ たかし… 比佐 芳武(ひさ よしたけ、本名:武久 猛〈たけひさ たかし〉、1904年1月4日 - 1981年12月17日)は、日本の元脚本家である。マキノ正博のもっとも苦しんだ若い時期に惜しみなく協力した盟友であり、「七つの顔を持つ男」で知られる片岡千恵蔵の当たり役「多羅尾伴内」の生みの親である。 現在の北海道滝川市に生まれる。 マキノ・プロダクションに入社、同社で初めて採用されたのはオリジナルストーリーであった。中川信夫が脚本化し、マキノ正博が監督したこの『浪人太平記』は、1931年(昭和6年)3月19日に公開された。同年のマキノ解散後は、高村正次が興した「正映マキノキネマ」で1932年(昭和7年)、マキノ正博が「青山正雄」名義で監督した『喧嘩道中記』、おなじくマキノが監督した『二番手赤穂浪士』の2作にオリジナル脚本を書いた。
黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日… 黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日 - 1986年(昭和61年)6月18日)は、日本のジャーナリストで経営者。 毎日新聞社取締役、中部本社社長や毎日大阪会館社長を務めた。1921年 全国中学校大会で走高飛1m69cmの日本記録を樹立しアジア大会(当時:極東選手権大会)に出場。日本学生陸上競技連合の設立に関わる。 1904年 (明治37年)1月3日 東京市神田区小川町3番地にて父 安吉と母 くりの長男として生まれる。二人の弟と3人の妹の6人兄弟。 1911年(明治44年)4月 東京市小川尋常小学校(平成2年に閉校)に入学 1917年(大正6年)龍馬13歳 小川尋常小学校卒業。