天池 真佐雄(あまち まさお、1910年9月18日 - 19… 天池 真佐雄(あまち まさお、1910年9月18日 - 1992年11月22日 本名・中野政雄)は、東京都出身の音楽家、作曲家、ピアニスト。 東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)本科卒。その後東京中央放送局(のちのNHK)の専属ピアニストに就任。特に、戦後の『のど自慢素人演芸会』や、音楽ゲーム番組『三つの歌』では出場者の伴奏を展開した。 歌手・タレントの天地総子は実の娘である。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月1… 浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月16日 - 1986年〈昭和61年〉12月2日)は、元二松學舍大学理事長・学長、日本遺族会副会長、全国社会福祉協議会評議員・理事。故郷・群馬県では「上毛かるた」の生みの親として知られている。 群馬県吾妻郡長野原町林に、浦野安・倶子の六男として生まれる。浦野家の先祖は、大戸城主・浦野真楽斎の次男・浦野左衛門尉村信であるという。浦野家は代々大乗院住職・王城山(みこしろやま)神社別当を世襲し、その墓所には初代村信の墓という「御塚」(長野原町指定文化財)が所在する。 父・安は地元の小学校校長を務めたのち東京法学院(現・中央大学)を卒業して大蔵省主計局に勤務し、帰郷後は長野原町長などの公職に就任、神職としても群馬県皇典講究所理事、全国神職会群馬県代表などを務めた。
伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - … 伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - 1983年2月5日)は、日本の経営者。千代田火災海上保険社長を務めた。東京都出身。 1933年に明治大学法学部政治学科を卒業し、1935年4月に千代田火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1963年6月に常務、1965年6月に専務、1969年6月に副社長を経て、1977年7月から1980年7月までに社長を務めた。 1980年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1983年2月5日に急性心不全のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月1… 植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月15日 - 2006年(平成19年)6月22日)は、日本の郷土史家。山梨県の郷土研究を行う。位階は従六位。 山梨県北巨摩郡津金村(現在の北杜市須玉町)に生まれる。山梨県師範学校本科一部・同校専攻科を卒業後、西八代郡高田村(現・市川三郷町)の高田小学校、山梨県女子師範学校附属小学校に勤務し初等教育に携わり、1948年(昭和23年)には東山梨郡後屋敷村(現・山梨市)の後屋敷小学校、塩山市立北小学校、山梨市立八幡小学校において教頭職を務め、1966年(昭和41年)に東山梨郡牧丘町の牧丘町立牧丘第二中学校(現在・山梨市立牧丘第二中学校)校長で退職。
阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治4… 阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治43年)9月14日 - 1972年(昭和47年)6月18日)は、昭和に活躍した洋画家。 青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)に、父阿部政太郎、母由みの5男6女の末っ子として生まれる。阿部家は北畠顕家の末裔と言われ、代々浪岡八幡宮の宮司をしていた。合成の名は、同年の韓国併合に因んでいるが、後年合成はこの名を嫌ったという。父は当時衆議院議員だったが、1917年(大正6年)青森市長に就任したことで、一家は青森に移転。4月青森市橋本尋常小学校に入学。1922年(大正11年)1月に母を亡くし、墓前で一人泣きじゃくったという。翌年、青森県立青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に入学。
山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1… 山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1972年7月7日)は日本の哲学者、言語哲学者。立命館大学教授。 鹿児島県国分市(霧島市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1927年4月に第三高等学校文科へ入学し、6月に退学。1928年4月に第七高等学校造士館理科へ入学、1931年3月に卒業。1931年4月に京都大学文学部哲学科へ入学し、田邊元に師事。1934年3月に京都大学文学部哲学科を卒業して、同年4月から1936年3月まで大学院在学。 1936年4月~1938年3月、立命館大学専門部講師。1938年4月~1940年3月、京都帝国大学附属図書館嘱託。
林信行(はやし のぶゆき、1910年9月12日-1998年8… 林信行(はやし のぶゆき、1910年9月12日-1998年8月6日)は、日本のアメリカ文学者。 千葉県出身。1935年東北帝国大学文学部英文科卒。旧・東京都立大学助教授、教授、74年定年退官、名誉教授、創価大学文学部教授。92年定年、名誉教授。
真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -198… 真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -1987年10月30日)は、日本の小説家、文芸評論家。大衆文学研究会会員。 愛媛県宇摩郡関川村(現・四国中央市)出身。1931年、広島高等師範学校(現・広島大学)国文科中退。上京して日本プロレタリア作家同盟に加入するが、後に脱退。1939年博文館に入社し、勤務の傍ら時代小説を執筆。戦後は数年間、新小説社の『大衆文芸』の編集をし、自ら「炎風」を連載。1958年『炎風』で新鷹会賞特別奨励賞を受賞。その後は実作及び評論を手がける。
花岡 菊子(はなおか きくこ、1910年9月11日 - 19… 花岡 菊子(はなおか きくこ、1910年9月11日 - 1984年6月12日)は、日本の女優である。出生名は瀧川 幾代(たきがわ いくよ)、結婚後本名は松崎 幾代(まつざき いくよ)。1920年代末の松竹蒲田撮影所の喜劇女優として知られ、戦後は新東宝に所属、脇役俳優として映画に多く出演した。 1910年(明治43年)9月11日、静岡県静岡市寺町(現在の同県同市葵区駿河町)に生まれる。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』(蒲田雑誌社)には「1911年9月1日出生」との旨の記述がみられる。 旧制小学校卒業後、旧制・静岡精華高等女学校(現在の静岡大成高等学校)に進学、1928年(昭和3年)3月、同校を卒業する。
湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 19… 湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 1992年8月9日)は、実業家。 湧永製薬創業者。 広島県高田郡甲田町(現安芸高田市)出身。1929年、旧制崇徳中学(現崇徳高校)卒業。野村信託勤務後、共同で大阪に商社を設立、薬品担当の役員だった1950年代前半、人を介して紹介された元ベルリン大学教授・シュネル博士のニンニク研究のすすめを受け独立。1955年6月、湧永薬品を設立した。当初はシュネル博士の研究室で作った薬品を販売する会社であった。このため製品の遅れや営業の不慣れがあって経営は苦難があった。湧永は専門家でも研究者でもないが、こうした販売業と並行し素人の強みで体当たりでニンニク研究にも没頭。
平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉… 平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉9月10日 - 2002年〈平成14年〉11月30日)は、日本の作曲家。本名、平井 保喜(ひらい やすき)。 高知県吾川郡伊野町(現:いの町)出身。父親・惣太郎の影響で、家にはオルガンや蓄音器がある等、音楽的に恵まれた環境で育った。伊野小学校から、1923年(大正12年)に旧制土佐中学校(現:土佐中学校・高等学校)入学。土佐中学校在学中に当時の校長:三根円次郎(ディック・ミネの父)が生徒向けに用意していた蓄音機で音楽を聴き、独学でヴァイオリンを練習したことがNHKのラジオ番組で息子の平井丈一朗によって語られた。1929年(昭和4年)に東京音楽学校(現:東京藝術大学音楽学部)ヴァイオリン科に進学し、ローベルト・ポラックに師事して1934年(昭和9年)に卒業。
小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日… 小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日 - 1997年(平成9年)8月6日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)に生まれる。1928年(昭和3年)北海中学校卒業。1935年(昭和10年)中央大学法学部卒業。 中央大学卒業後、東京倉庫運輸株式会社入社。その後、幹部候補生の教育を受けて、陸軍主計大尉として終戦を迎えた。 第二次世界大戦敗戦のショックを経て「これからは余生だ」「人の役に立ちたい」と立候補を決意。1946年(昭和21年)平野力三の自宅を訪れ政治への熱意を語るが、当時新潟には戦前からの有力社会党派閥が既存しており、実績のない小林の入党は断わられる。
近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9… 近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9日 - 1990年〈平成2年〉3月19日)は、日本の医師。群馬県吾妻郡原町(吾妻町を経て現・東吾妻町)出身。 群馬県立高崎中学校に入学後、東京府立第四中学校に転入し4年修了。第一高等学校を経て、1936年に東京帝国大学医学部を卒業。1937年内務省衛生局に入り、1938年厚生省(現・厚生労働省)が設立されると技官として結核予防施策に取り組んだ。戦後母子衛生課長を務め、その後退官。 1947年に東京大学より医学博士の学位を取得。学位論文の題は「本邦における潜在結核死亡推計に関する統計的研究」。 1952年よりNHKのラジオドクター・テレビドクターを務め、「皆さんの健康」「療養の時間」を担当する。
森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 -… 森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 - 1986年5月30日)は日本の大蔵官僚、銀行家。元大蔵事務次官、第5代東京証券取引所理事長、第23代日本銀行総裁。 妻は南洋庁長官・田原和男の長女で若槻禮次郎元首相の孫娘に当たる。 宮崎県小林市出身。父・貞右衛門は町会議員・商工会長などを務めた。宮崎・小林中学、第五高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、大蔵省に入省。主税局属。戦時中は理財局金融課長や理財局証券課長、総合計画局参事官、大臣官房文書課長等を歴任し、戦後は経済安定本部総裁官房次長、長沼弘毅次官の下で大臣官房長を務め、1953年8月に主計局長、1957年5月に大蔵事務次官に就任。
児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9… 児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9日 - 平成3年(1991年)7月15日)は鳥取ガス株式会社の第3代社長。昭和52年(1977年)に黄綬褒章受章。 鳥取県の文化活動の中心として活躍した実業家。文化人。著書『黙堂閑話』。鳥取市出身。 昭和7年(1932)合名会社児嶋商店を継ぐ。昭和28年(1953)に鳥取ガス株式会社代表取締役社長、同年鳥取ガス産業株式会社代表取締役社長に就任し、ガス供給事業に尽力。昭和49年(1974)に日本ガス協会理事に就任し、ガス業界の発展に寄与した。昭和50年(1975)に君司酒造株式会社、昭和62年(1987)に鳥取ガス株式会社、昭和63年(1988)に鳥取ガス産業株式会社のそれぞれ代表取締役会長に就任。
黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 200… 黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 2006年8月16日)は、日本の随筆家である。タレントの黒柳徹子の母親。
竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1… 竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1959年11月9日)は、日本のアナウンサー。 新潟県出身とされる一方、戸籍謄本には「富山県射水郡作道村大字殿村津幡江村(現在の射水市殿村)生まれ」と記載されている。 もし新潟県生まれだった場合、同県生まれ初のNHKアナウンサーである可能性が極めて高い。 青山学院大学英文科卒業。子供のころから美声として評判で、1934年にNHKが初めて行った全国規模のアナウンサー採用試験に合格し、同期25名の一員として4月に入局したが、わずか1か月後の養成期間中に退職した。退職理由はNHKが解雇したもので、竹脇のアナウンサーとしての能力を認める同期のアナウンサーたちは、解雇の話を聞いて抗議しようとしたが、竹脇が「解雇理由は分かっている。
頼 桃三郎(らい ももさぶろう、1910年〈明治43年〉9月… 頼 桃三郎(らい ももさぶろう、1910年〈明治43年〉9月4日 - 1992年6月)は、日本の国文学者、広島大学名誉教授。竹原頼家の子孫である。 広島県賀茂郡竹原町(現竹原市)に生まれる。竹原町の富豪で製塩業・頼俊直の三男。第三高等学校を経て、1933年、東京帝国大学文学部国文科卒業。 1939年から1945年まで日本放送協会勤務。1946年、三原高女、県師範女子部、1949年、広島大学教育学部分校の教師。1953年から1963年まで三原分校付属校長。その後広島大学教授となり、1974年、退官、名誉教授、安田女子大学教授。 頼山陽の叔父頼春風の玄孫である。近世浄瑠璃を専門とした。趣味は柔道。住所は広島市南区比治山町、広島市牛田本町6丁目。
宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1… 宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1986年6月18日)は、日本の美術家。始め木版画を主に制作するが後に油彩の抽象画に転向。輝いた栄誉には第12回毎日芸術賞をはじめ、第32回西日本文化賞などがある。本名は宇治山哲夫。 明治43年(1910年)、大分県日田市に生まれる。日田工芸学校で漆芸蒔絵の技法を習得し、日田漆器株式会社に入社。漆工や木工デザインを担当する。同時に独学で木版画を学び、様々な芸術賞に入選する。油彩画の制作を始めると同時にアトリエを奈良県天理市に構える。 1961年(昭和36年)、大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)教授となり別府市に移る。1971年(昭和46年)からは、同短大の学長を務めた。
金 徳烈(キム・ドギョル、朝鮮語: 김덕열/金德烈、1910… 金 徳烈(キム・ドギョル、朝鮮語: 김덕열/金德烈、1910年9月2日 - 消息不明)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 京畿道楊州郡州内面維楊里(現・楊州市維楊洞)出身。中央高等普通学校(現・中央高等学校)を卒業した後、1930年に京城法学専門学校(現・ソウル大学校)、1933年に普成専門学校(現・高麗大学校)法科にそれぞれ入学した。1936年に卒業後、渡日し中央大学法学部に入学し、1940年に卒業した。光復後は米軍政庁で管財処の監察官、楊州郡の州内面長などを務めた。1948年5月の初代総選挙に無所属で楊州郡甲区より立候補して当選し、制憲国会議員となった。当選後の6月に無所属倶楽部に参加し、常任委員会の産業労農委員会に所属した。
水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 19… 水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 1984年8月29日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手(外野手)、野球指導者(プロ野球監督)。
宇佐美 淳(うさみ じゅん、1910年9月1日 - 1980… 宇佐美 淳(うさみ じゅん、1910年9月1日 - 1980年5月9日)は、日本の俳優。宇佐美 淳也、宇佐美 諄の芸名でも活躍した。本名:駒木 五郎。 岩手県二戸郡姉帯村出身。東京農業大学中退後に明治大学を卒業。その後は松尾自動車会社に就職。1937年、親類である作家の北村小松の紹介で新興キネマに入社。映画役者として端役からキャリアを積み、二枚目スターとしての地位を確立。 新興太泉への入社時に付けた芸名「宇佐美諄」は宇佐美が理想の青年像と考えていた菊池寛の小説「心の日月」の登場人物「宇佐美慎介」にあやかったものだが、これをそのまま拝借しようとしたところ新興の宣伝部長に「慎介という名前は現代青年らしくない」と反対されたため、一字名の「諄」にしたという。
近藤 ミネ(こんどう ミネ、1910年〈明治43年〉9月1日… 近藤 ミネ(こんどう ミネ、1910年〈明治43年〉9月1日 - 2025年〈令和7年〉5月20日)は、日本の農家、スーパーセンテナリアン。愛知県額田郡幸田町在住の長寿の女性。2025年4月26日から死去まで国内最高齢であった。 愛知県東加茂郡旭村大字伊熊(現:豊田市伊熊町)に生まれた。結婚後は農家として働き、明るい性格で周囲から好かれていた。 2023年3月に愛知県最高齢者となり、2024年12月に日本で2番目の長寿者となった。9人の子をもうけ、孫が16人、ひ孫が33人、玄孫が11人いる。「うまい、うまい」が口癖であるという。長生きの秘訣は好き嫌いなくなんでも食べること。また「よく外に出かけていたこと」も秘訣とされ、毎年豊田市の香嵐渓を訪れ、うどんや五平餅を食べていた。
佐野 嘉吉(さの かきち、1910年(明治43年)8月30日… 佐野 嘉吉(さの かきち、1910年(明治43年)8月30日 - 1993年(平成5年)3月7日)は、日本の元政治家。元自由民主党衆議院議員(3期)。
上條 勝久(かみじょう かつひさ、1910年(明治43年)8… 上條 勝久(かみじょう かつひさ、1910年(明治43年)8月29日 - 2011年(平成23年)12月27日)は、日本の内務官僚、建設官僚、政治家。参議院議員(2期)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。旧制高鍋中学校卒。1936年に宮崎県庁に入り、1941年に内務省に転じる。1945年、内務省国土局内務理事官。1957年、国土地理院総務部長になる。建設省大臣官房福利厚生課長を経て、1965年、建設大学校校長。退官後、全国建設研修センター理事長、日本道路公団顧問を経て、1974年の参院選で宮崎県選挙区から自由民主党公認で立候補して当選。2期務めた。この間、1977年から1978年まで科学技術政務次官、1981年から1982年まで参議院地方行政委員長に就任。
中田 乙一(なかた おとかず、1910年(明治43年)8月2… 中田 乙一(なかた おとかず、1910年(明治43年)8月29日 - 1999年(平成11年)12月28日)は、日本の実業家。元三菱地所社長。位階は正四位。 北海道小樽市出身。庁立小樽商業学校を経て、1932年に小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業。 大蔵省勤務を経て、1939年三菱地所に転じる。総務部長・取締役・常務・副社長などを経て、1969年に社長に就任。在任中は、数多くのニュータウン事業を手がけた他、横浜市の「みなとみらい21」構想を策定するなど、宅地開発・都市再開発事業を積極に推し進め、それまで東京・丸の内の貸ビル事業が主体であった同社を、総合デベロッパーとして発展させる基を築いた。
藤本 幸邦(ふじもと こうほう、1910年8月29日 - 2… 藤本 幸邦(ふじもと こうほう、1910年8月29日 - 2009年12月4日)は、曹洞宗の僧、福祉事業家。 長野県長野市出身。曹洞宗円福寺住職。駒澤大学仏教学科卒。渡辺薫美に師事。戦後、長野市篠ノ井地区に篠ノ井文化協会を設立し、劇団「たんぽゝ」などの文化活動を始める。1948年養護施設円福寺愛育園を設立、「一寺院一孤児」を提唱する。曹洞宗大本山布教師、同北信越管区教化センター統括。アジア難民救済事業も行いカンボジアに小学校校舎を寄付した。1984年仏教伝道文化賞受賞。
門脇 吉一(かどわき よしかず、1910年8月28日 - 1… 門脇 吉一(かどわき よしかず、1910年8月28日 - 1978年7月12日)は、日本の経営者。香川県出身。 1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に大日本麦酒に入社。1949年に日本麦酒(のちのサッポロビール)に移り、1958年に人事部長に就任し、経理部長、取締役、常務、専務を経て、1973年に社長に就任。1978年には会長に就任した。 1978年7月12日胃がんのために死去。67歳没。
水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年(明治… 水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年(明治43年)8月25日 - 2003年(平成15年)4月8日)は脚本家。映画監督の谷口千吉は元夫。1913年(大正2年)生まれを自称していた。
尾原 佐七(1910年8月25日 - 没年不明)は、日本の実… 尾原 佐七(1910年8月25日 - 没年不明)は、日本の実業家。尾原呉服店、山陰ゴム卸(株)各社長。島根県衣料品商業協同組合会理事長。島根倉庫(株)取締役、島根県信用保証協会理事。松江商工会議所常議員。松江商店会会長。旧名一義。 島根県松江市白潟本町出身。先代佐七の長男。旧名一義、佐七を襲名した。1935年尾原呉服店の専務となり、1947年同社長に就任した。 宗教は真宗。菩提寺は明宗寺。
一原 有徳(いちはら ありのり、1910年8月23日 - 2… 一原 有徳(いちはら ありのり、1910年8月23日 - 2010年10月1日)は、北海道小樽市に居住していた版画家。モノタイプ手法を用いた特異な作風で、国際的にも名高い。また、俳人・登山家としても知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
富澤 政鑒(とみざわ まさみ 1910年(明治43年)8月2… 富澤 政鑒(とみざわ まさみ 1910年(明治43年)8月23日 - 1980年(昭和55年)2月7日)は、日本の政治家。初代多摩市長である。 1910年に多摩市の連光寺に生まれる。祖父は富澤政賢。 1959年に多摩村の村長になった。 1964年に多摩村の町政執行により、初代町長、唯一の町長になった。 1971年に多摩町の市政執行により、初代市長になった。 聖蹟桜ヶ丘の高級分譲住宅地を中心に住宅都市化を推進した。公団による多摩ニュータウン開発を受け入れた。 1979年に選挙で臼井千秋に敗れ、市長を辞める。 その約1年後の1980年に死去。
古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 19… 古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 1993年8月)は、日本の看護教育者。戦後の看護教育の基礎を築くとともに、看護学校の大学化への運動を行った。歌人として八代 かの江の筆名も用いた。 山梨県東八代郡御代咲村(現・笛吹市)に生まれる。両親はともに小学校教員で、父盛治は校長を務めたが結核に罹患し47歳で他界した。 1930年に山梨県女子師範学校本科第一部を卒業し、1930年4月から1934年3月まで山梨県御代咲小学校教員を務める。1934年4月に日本赤十字社中央病院看護婦養成所(甲種)に入学、1937年3月に卒業し、成績優秀により橋本記念賞受賞。同年4月、日本赤十字社山梨支部診療所に勤務。
上尾 庄次郎(うえお しょうじろう、1909年9月20日 -… 上尾 庄次郎(うえお しょうじろう、1909年9月20日 - 1988年6月26日)は、日本の薬学者(天然物化学・植物塩基化学)。勲等は勲二等。学位は薬学博士(東京帝国大学・1937年)。京都大学名誉教授、静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 東京帝国大学医学部講師、京都帝国大学医学部助教授、大阪大学医学部教授、大阪大学薬学部教授、大阪大学薬学部学部長、京都大学薬学部教授、京都大学薬学部学部長、社団法人日本薬学会会頭(第36代)、武庫川女子大学薬学部教授、静岡薬科大学学長(第4代)などを歴任した。 天然物化学や植物塩基化学を専攻する薬学者である。ヒガンバナの有毒成分の研究で知られており、リコリンをはじめとするアルカロイドの構造を解明するなど、ヒガンバナ科植物塩基に関する研究では世界をリードした。
大ノ濵 勝治(おおのはま かつじ、1909年9月20日 - … 大ノ濵 勝治(おおのはま かつじ、1909年9月20日 - 1979年1月1日)は、現在の千葉県銚子市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は若山 勝治。167cm、107kg。最高位は東前頭4枚目。 1927年1月初土俵、1932年1月十両昇進、1932年2月新入幕(春秋園事件の余波)したが、1933年5月に廃業した。もろ差しからの速攻を磨き、幕下時代には6戦全勝の優勝同点も記録した。春秋園事件の影響で幕内に上がったが、地力が伴わず4場所とも勝ち越せなかった。廃業後は千葉県内で鮮魚店を営み、巡業の勧進元を務めた。
本野 亨一(もとの こういち、1909年9月19日 - 19… 本野 亨一(もとの こういち、1909年9月19日 - 1993年5月28日)は、日本のドイツ文学者である 東京出身。1934年京都帝国大学文学部独文科卒。立命館大学教授を退職後は、1976年から1980年まで甲南女子大学教授。フランツ・カフカを専攻し、最初に作品を訳・刊行した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
河崎 一郎(かわさき いちろう、1909年9月19日 - 2… 河崎 一郎(かわさき いちろう、1909年9月19日 - 2004年8月13日)は、日本の外交官。駐アルゼンチン特命全権大使在任中、日本人は身体的魅力に乏しいと主張する書籍を出版したことが問題となり、外務大臣により事実上解任された。 大阪生まれ。1929年(昭和4年)に大阪高等学校文科甲類を卒業後、1932年(昭和7年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1939年在(昭和9年)サンフランシスコ副領事。1941年(昭和16年)在バンクーバー領事、日本赤十字社バンクーバー特別委員長。1942年(昭和17年)在ソビエト連邦大使館二等書記官。 1951年(昭和26年)賠償庁特殊財産部長、賠償庁次長心得。
平岡 敏男(ひらおか としお、1909年(明治42年)9月1… 平岡 敏男(ひらおか としお、1909年(明治42年)9月18日 - 1986年(昭和61年)8月6日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 毎日新聞社社長(1976年2月 - 1980年12月)。 北海道旭川市出身(留萌市生まれ)。弘前高等学校では新聞部に所属し、一期下の太宰治とも親交があった。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、東京日日新聞社(後の毎日新聞東京本社)に入社。経済部記者、東京本社経済部長、論説委員、ロンドン支局長などを経て、1963年取締役。1966年西部本社代表、1968年常務。 1976年2月、巨額の負債を抱え、経営危機に瀕していた毎日新聞社の社長に就任。永野重雄に救済を仰ぎ、翌年「新旧分離方式」の経営再建の方針を固め、登記上の本社で発行部門を担当していた大阪本社を、負債の整理・清算に専念させ(「株式会社毎日(旧社)」)、東京本社(編集部門)と経営を一本化させる形で、新たに東京に新会社「毎日新聞株式会社(新社)」を設立した。
鈴鹿 俊子(すずか としこ、1909年9月18日 - 200… 鈴鹿 俊子(すずか としこ、1909年9月18日 - 2008年2月20日)は、日本の歌人・随筆家。川田順の後妻。本名・川田俊子。 京都生まれ。同志社女子専門学校(のち同志社女子大学)中退。17歳のとき、家に下宿していた京都帝国大学経済学部教授の中川与之助と結婚、3子をもうける。中川は苦学から身を起こして帝大教授となった人物であったが、結婚生活は幸せなものではなかった。 1942年、吉沢義則主宰の歌誌「ハハキギ」に入会。1944年、島文次郎の妻で教師の楳乃が自宅で開いていた古典講義会で歌人の川田順に出会い、師事して頻繁に出入りするようになるうちにやがて恋へと発展した。一方、夫の中川は敗戦後の公職追放で帝大を辞職させられていた。
土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年… 土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年)9月17日 – 1933年(昭和8年)9月9日)は、戦前日本のエスペランティスト。詩人土井晩翠の長男。第二高等学校在学中からエスペラント運動に取り組み、特にドイツの小学校長ヨハネス・シュレーダーと親交した。東北帝国大学入学後、ハンセン病患者救済のため寄附金付切手の導入を働きかけたが、在学中に病没した。 1909年(明治42年)9月17日、土井晩翠・八枝夫妻の長男として生まれた。片平丁尋常小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)在学中に教師に飛び級を勧められ、5年次修了後に宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)に入学した。1年生の夏期休暇には原釜海水浴場で鰹漁船まで泳いだり、蔵王に登山するなど健康だったが、4年生の秋に発火演習で無理をしてから体調を崩した。
原田 鋼(はらだ こう、1909年9月17日 - 1992年… 原田 鋼(はらだ こう、1909年9月17日 - 1992年7月17日)は、日本の政治学者。元中央大学学長。専門は、政治学。特に、政治思想史・政治哲学・政治権力。後年、法哲学も研究した。政治学分野から初めての文化功労者である。 中国大連生まれ。栃木県大田原市で育つ。1936年、早稲田大学政治経済学部卒業。1941年から1945年にかけて、早稲田大学政治経済学部非常勤講師。1942年11月、法学博士(東京帝國大學)(学位論文「法治国家論」)。 1948年、中央工学専門学校専任講師。1949年、中央大学法学部教授。政治学原論・政治史・法哲学を担当。1965年、中央大学評議員( - 1973年)。1969年、中央大学学長。
前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月1… 前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月17日 - 1993年〈平成5年〉4月16日)は、日本の社会運動家。市民運動関係者からは「前田のじいさん」と呼ばれた。 福岡県鞍手郡宮田村(現・宮若市)出身。1917年に父が他界したため、祖父が初代村長をつとめた京都郡延永村(現・行橋市延永)に移り、延永小学校に転校。1926年、福岡県立豊津中学校を卒業して、東京方面へ行く。 労働組合運動に関わり、1931年、日本共産党に入党する。関西地区のオルグを担当する。1932年、治安維持法・陸軍刑法違反で検挙される。懲役7年の実刑判決を受け、福岡刑務所に下獄。1940年に保安処分となり門司市に移り住むが、再度治安維持法違反で起訴され、禁固10ヶ月の判決を受ける。
片山 豊(かたやま ゆたか、1909年(明治42年)9月15… 片山 豊(かたやま ゆたか、1909年(明治42年)9月15日 - 2015年(平成27年)2月19日)は、日本の企業家である。 米国日産の初代社長を務め、1970年代に「ダットサン」ブランドで日産車を販売し、アメリカ国内での日本車トップに押し上げた。長男は元サッカー選手で1968年メキシコシティーオリンピック銅メダリストの片山洋。 静岡県周智郡気多村(現・浜松市天竜区春野町気田)で生まれる。日産自動車創業者の鮎川義介の親戚にあたる。 現在の鎌倉市立第一小学校から旧制中学校の神奈川県立湘南中学校、慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業後、1935年(昭和10年)に日産自動車へ入社。 当初は設計部門の配属を希望していた。
前田 武男(まえだ たけお、1909年9月15日 - 197… 前田 武男(まえだ たけお、1909年9月15日 - 1977年5月21日)は、日本の実業家。キヤノン2代目社長を務めた。 気を見るに敏にして積極果断で、難局に当っては慎重に事を進める。私生活ではユーモアに理解があり、囲碁とゴルフを趣味とした。 1909年9月15日:山梨県都留市に生まれる。 1930年3月:早稲田大学政治経済学科卒業。その後山一証券勤務を経て、1934年5月キヤノン株式会社の前身である精機光学研究所に移った。 1937年8月10日:精機光学研究所を基盤とする新会社:精機光学工業株式会社設立に合わせ、同社営業部長に就任。 1946年8月:同社取締役に就任。 1947年9月:同社がキヤノンカメラ株式会社に改名。
山西 きよ(やまにし きよ、1909年〈明治42年〉9月15… 山西 きよ(やまにし きよ、1909年〈明治42年〉9月15日 – 1996年〈平成8年〉1月7日)は日本の政治家。茨城県小川町(現・小美玉市)長(1期)。航空自衛隊百里基地建設反対運動(百里基地訴訟)の先頭に立った。 東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)に生まれ、茨城県鹿島郡中野村(現・鹿嶋市)に移る。小川町の肥料商山西家に嫁ぎ、町のPTA連合会や婦人会の役員を務める。 1956年(昭和31年)に防衛庁(現・防衛省)は小川町百里に航空自衛隊の基地を設置することを計画した。これに対し、小川町の基地設置反対派は基地反対期成同盟や愛町同志会を結成し、山西は愛町同志会婦人部長になり、反対闘争に加わった。
井上 究一郎(いのうえ きゅういちろう、1909年9月14日… 井上 究一郎(いのうえ きゅういちろう、1909年9月14日 - 1999年1月23日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、エッセイスト。東京大学名誉教授。本名・九一郎。マルセル・プルースト研究の第一人者であり、『失われた時を求めて』の個人全訳で知られる。 大阪府出身。東京帝国大学フランス文学科卒業。1949年、東京大学教養学部助教授。1953年、フランス渡航中の森有正が辞表を出したため、その代わりとして文学部仏文科助教授、61年教授。70年定年退官後は武蔵大学教授。1999年1月23日に心肺不全のため、89歳で死去した。娘の金沢公子もフランス文学者で、その子(井上の孫)金沢英之は、国文学者である。
平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1… 平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1977年3月7日)は、日本の外交官。NHK解説委員。 香川県丸亀市生まれ。平沢家は岩手県和賀郡西和賀町沢内の旧家で、父の代に転居した。1930(昭和5)年3月に第一高等学校(一高)を卒業し、1934(昭和9)年に文官高等試験外交科試験に合格。1935(昭和10)年3月に東京帝国大学法学部政治学科卒業。翌月、外務省に入省し、書記生となる。1936(昭和11)年7月にベイツ大学を卒業し、1938(昭和13)年4月まで外交官補として在米大使館に勤務。斎藤博アメリカ合衆国駐箚日本国特命全権大使在任中に大使秘書官を務める。 1938年4月、バンクーバーから一時帰国のために横浜港に向かう氷川丸に乗船した際、偶然にもIOC委員で、エジプト・カイロでのIOC総会から帰国の途にあった嘉納治五郎と出会い、交友を深めた。
中田 弘二(なかた こうじ、1909年9月14日 - 没年不… 中田 弘二(なかた こうじ、1909年9月14日 - 没年不詳)は、俳優、政治家である。本名は中田 博二(なかた ひろじ)。 1909年(明治42年)9月14日、長崎県長崎市瀬ノ脇町(現在の同市飽の浦町)に生まれる。父中田猪十郎(生年不詳 - 1914年)は貿易商・土木労力請負業を経営する傍ら、国家主義者頭山満の政治結社玄洋社に入社し、孫文(1866年 - 1925年)の第三革命にも参加していた。 朝日尋常小学校(現在の長崎市立朝日小学校)から長崎県立瓊浦中学(現在は廃校)を経て、1930年(昭和5年)、日本大学専門部芸術科を卒業。卒業後、直ちに野戦銃砲第6聯隊に幹部候補生として入隊。除隊した1932年(昭和7年)10月、スカウトされて日活太秦撮影所に入社。
鈴木 雄二(すずき ゆうじ、1909年9月12日 - 没年不… 鈴木 雄二(すずき ゆうじ、1909年9月12日 - 没年不明)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。 東京市芝区神谷町(現・東京都港区虎ノ門)出身。上智大学で学ぶ。小田原水産興業(株)に入り、同社員となり、取締役となる。相海漁業経営組合、神奈川県水産業会各理事、相洋水産化学研究所理事長、青年民主政治研究会顧問、(株)小田原魚市場社長を歴任する。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で神奈川県から諸派で立候補したが落選。1947年の第23回衆議院議員総選挙において神奈川3区から日本社会党公認で立候補して当選。1949年の第24回衆議院議員総選挙で落選した。
鈴木 良一(すずき りょういち、1909年9月12日 - 2… 鈴木 良一(すずき りょういち、1909年9月12日 - 2001年4月3日)は、日本の歴史学者。専攻は中世史。土一揆・国一揆の研究で先駆的業績をあげる。その後に有力説となった戦国時代の明応の政変始期説を提唱する。 京都府生まれ、神奈川県出身。1930年第三高等学校文科乙類卒業、1933年東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「中世に於ける農民の統制(特に社寺を中心として)」。愛知県女子師範学校(現・愛知教育大学)、愛知県半田中学校で教諭。戦後は神奈川県で高校教師となる。のち平塚市史編さん協議会委員長。