久保 一雄(くぼ かずお、1901年2月16日 - 1974… 久保 一雄(くぼ かずお、1901年2月16日 - 1974年1月26日)は、日本の映画美術監督、洋画家。 群馬県藤岡市生まれ。 日本映画美術監督協会の創立者の一人。独立美術協会会員。 川端画学校洋画部で学んだ後、日活撮影所に入所。 撮影所の労働運動に関わり、「三・一五事件」で検挙される。転向しないままに奈良刑務所を出所後、PCLに入社。『人情紙風船』(山中貞雄監督)では岩田専太郎の美術考証にもとづいて、装置を担当。戦中・戦後にかけて、成瀬巳喜男、木村荘十二、山本嘉次郎、マキノ雅弘、黒澤明ら有力な監督の下で美術を担当。フリーとなってからは、山本薩夫、今井正の独立プロの映画制作に協力した。 戦前戦後の映画関連の労働運動経験者としても、山本薩夫『私の映画人生』(新日本出版社、1984年)、井上雅雄『文化と闘争――東宝争議1946-1948』(新曜社、2007年)で言及されている。
野村 実(のむら みのる、1901年2月16日 - 1996… 野村 実(のむら みのる、1901年2月16日 - 1996年2月19日)は、日本の医師、シュヴァイツァー研究家。 東京生まれ。1925年九州帝国大学医学部卒。1934年東京で結核病院を開業。1951年白十字会村山サナトリウム院長。1954年アフリカにシュヴァイツァーを訪ね、翌年のノーベル賞受賞に随行した。1959年東京コロニー理事長。キリスト教海外医療協力会会長。1970年日本シュヴァイツァー友の会会長。1983年にキリスト教功労者を受賞。
島 耕二(しま こうじ、本名・鹿児島武彦、1901年2月16… 島 耕二(しま こうじ、本名・鹿児島武彦、1901年2月16日 - 1986年9月10日)は、日本の俳優、映画監督。女優の大谷良子、片山夏子、轟夕起子は元妻。俳優の片山明彦は実子(大谷と間の子)。映画・テレビドラマの監督の湯浅憲明は甥。 1901年(明治34年)2月16日、長崎県長崎市に、医者の息子として生まれる。日本映画俳優学校を第一期生として卒業し、1925年(大正14年)、日活大将軍撮影所に入社する。現代的な二枚目俳優として内田吐夢、阿部豊、溝口健二などの作品に出演する。しかし、1934年(昭和9年)の労働争議で内田、村田実、伊藤大輔らとともに日活を脱退し、新映画社の創立に参加する。解散後、新興キネマを経て、日活多摩川撮影所に入り、『明治一代女』、『真実一路』などの作品に出演し、日活黄金期を支えるスター俳優としての地位を確立する。
神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15… 神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15日 - 1977年〈昭和52年〉1月24日)は、日本の編集者、出版事業家。カッパ・ブックスの創始者。光文社二代目社長。かんき出版創業者。「戦後最大の出版プロデューサー」と呼ばれる[要出典]。 兵庫県加古川市西神吉町出身。1922年、東京外国語学校仏語部貿易科卒業。1927年、東京帝国大学文学部仏文科を中退し、講談社に入社。自ら8か国語に堪能と称し、野間清治社長から破格の給与で遇された。キングレコード時代は童謡プロデューサーとして「かもめの水兵さん」「赤い帽子白い帽子」「ふたァつ、ふたァつ、何でしょね」などのヒット曲を飛ばす。 1945年10月光文社創立に参加し、編集局長となり、1965から1970年社長を務めた。
野田 清武(のだ きよたけ、1901年2月15日 - 196… 野田 清武(のだ きよたけ、1901年2月15日 - 1963年5月13日)は、日本の農林官僚、満州国官吏。徳島県知事。 佐賀県出身。野田清種の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、農商務省に入り食糧局属となる。1925年4月、農商務省が農林省と商工省に分割され、農林属となる。以後、営林局山林事務官、同局事務官、農林事務官、産業組合事務官、農林書記官などを歴任。 その後、満州国に転じ、国務院実業部理事官に就任。以後、農務司農政科長兼墾務科長、地籍整理局事務官、実業部理事官、総務庁参事官などを歴任。
犬塚 稔(いぬづか みのる、1901年2月15日 - 200… 犬塚 稔(いぬづか みのる、1901年2月15日 - 2007年9月17日)は、日本の脚本家、映画監督である。最高齢の映画人であった。長谷川一夫のデビュー作と引退作の脚本を執筆し(デビュー作『稚児の剣法』 は監督兼任)、勝新太郎の当たり役『座頭市』の脚本家としても知られる。 1901年(明治34年)2月15日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)花川戸に生まれ、台湾の台北市で少年時代を過ごす。父は『劇団新派』の前身の一つとされる『成美団』の座付作家・大須賀豊(本名・犬塚福太郎)だが犬塚が五歳の時に死別した。 成人して台北銀行(※犬塚本人の回想では台湾銀行)に就職するが、演劇に興味を持ち退職。
竹谷 源太郎(たけや げんたろう、1901年(明治34年)2… 竹谷 源太郎(たけや げんたろう、1901年(明治34年)2月14日 - 1978年(昭和53年)9月12日)は、日本の政治家、内務官僚、弁護士。衆議院議員。 宮城県伊具郡角田町(現角田市)で呉服商・竹谷源平、いち夫妻の長男として生まれる。1918年、宮城県立角田中学校を卒業し、東京高等商業学校に入学したが、体操教官(陸軍中佐)の態度に反発し退学。同年、第一高等学校に編入し、1924年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。卒業後はアメリカ合衆国でデパートメント・ストアの研究を希望していたが、友人が相談もなく手続きをした高等試験行政科試験を受けて1924年11月に合格。同年、内務省に入省し静岡県属となる。
清水 雅(しみず まさし、1901年(明治34年)2月12日… 清水 雅(しみず まさし、1901年(明治34年)2月12日 - 1994年(平成6年)12月24日)は、昭和中期から平成期の実業家。小林一三に長年仕え、阪急の大番頭と呼ばれた。阪急電鉄より1947年に分社独立した後の阪急百貨店(現在のエイチ・ツー・オー リテイリング)初代社長であり、のちには阪急百貨店会長、阪急電鉄会長を歴任した。東宝社長・会長も歴任、東宝中興の祖と呼ばれた。 1901年(明治34年)、実業家・清水栄次郎の次男として大阪府大阪市阿倍野区に生まれる。清水家は砂糖商や鉱山業、銀行業などで財を成した戦前の地方財閥で、父の栄次郎も慶應義塾に学んだ後、材木業などで巨利を得た大阪財界人として知られる存在である。
住木 諭介(すみき ゆすけ、1901年〈明治34年〉2月10… 住木 諭介(すみき ゆすけ、1901年〈明治34年〉2月10日 - 1974年〈昭和49年〉9月11日)は、日本の農芸化学者。農学博士。東京大学名誉教授、日本農芸化学会名誉会員。元東京大学農学部学部長、元理化学研究所副理事長。 新潟県新潟市東堀前通9番町(現 新潟市中央区)の新潟県庁職員・住木正次郎の長男として出生。 1919年(大正8年)3月に新潟中学校を卒業、1922年(大正11年)3月に新潟高等学校を卒業、1925年(大正14年)3月に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業、1929年(昭和4年)3月に東京帝国大学農学部大学院を修了。 1929年(昭和4年)4月に東京帝国大学農学部農芸化学科(主任:鈴木梅太郎)副手に就任、1932年(昭和7年)9月に東京帝国大学農学部農芸化学科助手に就任、1936年(昭和11年)8月に東京帝国大学農学部農芸化学科助教授に就任。
笹井 末三郎(ささい すえさぶろう、1901年2月10日 -… 笹井 末三郎(ささい すえさぶろう、1901年2月10日 - 1969年1月12日)は、日本のアナキスト、任侠、映画人である。マキノトーキー製作所理事、荒虎千本組三代目組長を歴任した。 1901年(明治34年)2月10日、京都府京都市右京区で材木運送業の千本組荒虎親分こと笹井三左衛門の三男として生まれる。笹井家は大日本国粋会西京支部の看板を掲げる家であった。 幼いころから文学を志し、旧制・同志社中学校(現在の同志社高等学校)在学中に雑誌投稿を重ねるうちに、中村還一と知り合い、アナキズムに触れる。1920年(大正9年)、大杉栄の「東京労働同盟会」機関紙『労働運動』第6号に活動家として名が挙げられる。
原 国(國、はら くに、1901年(明治34年)2月10日 … 原 国(國、はら くに、1901年(明治34年)2月10日 - 1982年(昭和57年)11月24日)は、大正から昭和期の歯科医師、政治家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡山崎村二渡(山崎町、宮之城町を経て現さつま町)で生まれる。1922年(大正11年)日本歯科医学校(現日本歯科大学)を卒業し、1924年(大正13年)中央大学専門部法律科を卒業した。 東京で歯科医師を開業。東京都大森区会議員を務めた。 日本農本党組織代表となり、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で鹿児島県全県区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、日本国有鉄道宮之城線各駅の新設、川内川治水の推進などに尽力した。
足立 梅市(あだち うめいち、1901年(明治34年)2月9… 足立 梅市(あだち うめいち、1901年(明治34年)2月9日 – 1988年(昭和63年)2月2日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。位階は正五位。衆議院議員(2期)。 三重県多気郡三瀬谷村(三瀬谷町を経て現大台町)出身。1932年(昭和7年)日本大学法文学部を卒業。弁護士を開業し、東京弁護士会、三重弁護士会に所属した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に三重県第2区から日本社会党公認で立候補して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。この間、社会党三重県支部連合会初代会長などを務めた。その後、社会党本部を批判し和田敏明らと共に社会党再建全国連絡会を結成、第25回から第27回総選挙まで3回連続で立候補したがいずれも落選した。
早坂 冬男(はやさか ふゆお、1901年(明治34年)2月8… 早坂 冬男(はやさか ふゆお、1901年(明治34年)2月8日 - 1976年(昭和51年)6月10日)は、日本の内務官僚。最後の官選青森県知事。 宮城県加美郡小野田村出身。早坂伊勢松の二男として生まれる。宮城県仙台第二中学校、第二高等学校文科甲類を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、山形県、熊本県、新潟県、富山県、岐阜県などで勤務。さらに、大阪府工場課長を経て、1945年、北海道庁内務部長に就任。 1947年3月、青森県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月に知事を退任。その後、公職追放となった。
宮本 延人(みやもと のぶひと、1901年2月8日 - 19… 宮本 延人(みやもと のぶひと、1901年2月8日 - 1988年7月12日)は、日本の民俗学者。 1901年、長野県上田市に生まれる。9歳の時に家族とともに東京に移り住んだ。1928年に慶應義塾大学文学部史学科卒業後、台湾に渡り、台北帝国大学で民俗学の講師をしながら台湾原住民の研究を行い、現在の台湾原住民に関する学問的基礎を築いた。1943年、京城帝国大学に転任し、人文科学研究所の助教授に就任した。 戦後は中華民国政府に請われて台湾に残り、台湾大学の教授を務めた。1948年に日本に帰国。その後は東海大学教授として文学部長など要職を歴任した。1972年に退官し、1975年に名誉教授となった。1988年に死去した。
川辺 外治(かわべ そとじ、明治34年〈1901年〉2月8日… 川辺 外治(かわべ そとじ、明治34年〈1901年〉2月8日 - 昭和58年〈1983年〉9月29日)は、富山県砺波市の洋画家。農家の次男に生まれて一時は画家を志すも、長兄の死により農業を継ぎ、その傍ら教師として多くの画家を育てた。 「人間疎外の美術、描くことそれ自体すら否定する美術、それで満足出来るならそれを実行するがよい。しかし大宇宙を信じ、その無限を見つめ片影を感受し、その表現に一生をささげる気概と意欲を燃やして生きることはなんと意義のあることであろうと夢想するものである。」と述べ、中央画壇に対しては批判的であった。 戦時中、近隣の町に疎開してきた版画家の棟方志功や織田一磨、伊藤四郎などの生活を支援するために発表会や研修会などを企画して開催し、彼らとの交流を深めた。
小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 199… 小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 1991年3月20日)は、日本の服飾学者、文化女子大学名誉教授。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)色染科卒業。陸軍被服本廠理化学部長、研究部長。戦後は繊維会社に勤務し繊維を研究、1962年文化女子短期大学教授、1964年文化女子大教授兼任。1972年定年退任、名誉教授。 世界各地の民族衣装を研究、1964年ヨーロッパ7か国を回り、57か国で研究、死去の直前まで中国雲南省で研究していた。
野口 恒樹(のぐち つねき、1901年2月7日 - 1989… 野口 恒樹(のぐち つねき、1901年2月7日 - 1989年11月7日)は、日本の哲学者。皇学館大学名誉教授。 福岡県遠賀郡芦屋町生まれ。愛媛県師範学校教諭、海軍教授、長崎県立短期大学教授を経て、皇学館大学教授・名誉教授。
伊志井 寛(いしい かん、1901年2月7日 - 1972年… 伊志井 寛(いしい かん、1901年2月7日 - 1972年4月29日)は、日本の俳優である。 本名:石井 淸一、旧芸名及び別名:竹本 津駒太夫(たけもと つこまだゆう)、石井 寛(読み同じ)。 1901年2月7日(木曜日)、東京府東京市牛込区神楽坂(現:東京都新宿区)に、落語家4代目三升亭小勝と竹本清之助(本名は富沢つね)の子として生まれる。1906年、5歳で父と死別する。 17歳まで銀座の商家に奉公に出ていたが身に合わず、1919年に文楽座の竹本津太夫の門に入り、竹本津駒太夫名義で初舞台を踏む。ところが満20歳の徴兵検査を機に文楽界を退き、1922年、松竹蒲田撮影所に入社。伊志井寛と改名し、旧劇活動写真の写実化に成功したといわれている1923年公開の野村芳亭監督映画『女と海賊』等に脇役として出演。
吉田 暎二(よしだ てるじ、1901年〈明治34年〉2月5日… 吉田 暎二(よしだ てるじ、1901年〈明治34年〉2月5日 ‐ 1972年〈昭和47年〉9月30日)とは、大正から昭和にかけての浮世絵・歌舞伎の研究家。 東京本所区(現在の墨田区)の東両国で生まれる。父は東海銀行支店長の吉田源次郎。1907年(明治40年)相生尋常小学校に入学、1914年(大正3年)東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校・附属中学校)に入学。1919年(大正8年)早稲田大学露文科に入学したが、のちに関東大震災により中退する。1924年(大正13年)東京歌舞伎座に入社、雑誌『歌舞伎』、『歌舞伎研究』の編集を担当する。1927年(昭和2年)に歌舞伎座を退社、その後高見沢木版社、また北光書房に勤務することがあった。
速水 敬二(はやみ けいじ、1901年(明治34年)2月5日… 速水 敬二(はやみ けいじ、1901年(明治34年)2月5日 - 1974年(昭和49年)7月8日)は、日本の哲学者。専門はヘーゲルの哲学。 1901年、三重県で生まれた。京都帝国大学で学び、卒業。 1946年に國學院大學教授となった。1962年、学位論文『誰:顔の形而上学』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。1974年に死去。 「学者一家」として知られる東畑家の次男坊で、速水家に婿養子に入った。
宇佐美 洵(うさみ まこと、1901年〈明治34年〉2月5日… 宇佐美 洵(うさみ まこと、1901年〈明治34年〉2月5日 - 1983年〈昭和58年〉2月19日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取、全国銀行協会会長を経て、第21代日本銀行総裁を務めた。 東京市芝三田小山町に生まれる。市谷小学校に入学して1年後、父の勝夫が富山県知事に就任したことから、一家は富山に越し、2年間をすごした。その後、父が韓国統監府参事官に転任することになったため、父のみが京城に赴任し、母子は東京に戻った。だが、母・よしが急死し、父は母の姉・みつを後添に迎えることになったため、祖父・池田成章に連れられ、みつと子どもたちは朝鮮に渡った。 京城中学校を経て1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業。
駒形 十吉(こまがた じゅうきち、1901年(明治34年)2… 駒形 十吉(こまがた じゅうきち、1901年(明治34年)2月4日 - 1999年(平成11年)2月7日)は、日本の実業家。大光相互銀行社長、新潟総合テレビ(現・NST新潟総合テレビ)社長、新潟日報社監査役。新潟県長岡市出身。 長岡の米穀・味噌醤油醸造を営んでいた駒形宇多七の三男(11人兄弟の10番目)として生まれる。新潟県立長岡中学校卒業後、旧制新潟高等学校に進むが中退。大阪の株式取引商で実務経験を積んだ。 1922年(大正11年)父の死去に伴い、帰郷し家業に従事する。1928年(昭和3年)に北陸産業無尽の設立に参画し支配人、1941年(昭和16年)に社長となる。翌1942年(昭和17年)3月には国民無尽商会と合併し、大光無尽に商号を変更し、1951年(昭和26年)に大光相互銀行に改組した。
熊沢 龍(くまざわ りゅう、1901年2月3日 - 1974… 熊沢 龍(くまざわ りゅう、1901年2月3日 - 1974年2月28日)は、昭和時代の言語学者、国語教育者。東京教育大学名誉教授、東京成徳短期大学学長、日本国語教育学会理事長を務めた。位階および勲等は正三位・勲三等。 東京府南多摩郡忠生村大字上小山田(現在の東京都町田市常盤町)の寺子屋師匠である斎藤楓山の長男として生まれる。後に熊沢家の養子となる。父は1873年、現在の小山田小学校の前身である有隣学舎の訓導となった。1908年5月、病気のため辞職し同年12月17日に没したが、村民の教育のために一生を捧げた。祖父は本山派修験の持宝院不動尊の山主であった阿闍梨芳山。 東京文理科大学文学科を1932年に卒業後、同大学の研究科に入り、1934年に助手となる。
久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治3… 久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治34年〉2月2日 - 1959年〈昭和34年〉12月7日)、または久邇 朝融(くに あさあきら)は、日本の旧皇族、海軍軍人。久邇宮第3代当主。官位は海軍中将大勲位功三級。香淳皇后の兄、第125代天皇・明仁の母方の伯父にあたる。 1901年(明治34年)2月2日、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第1王子として誕生し、2月9日に朝融と命名された。 1921年(大正10年)2月2日に20歳を迎え、貴族院議員となった。4月19日に成年式が執り行われた。同年7月16日に海軍兵学校(49期)を卒業し、皇族軍人の一員として海軍軍人としてのキャリアを歩む。兵学校では、華頂宮博忠王と同期生だった。
木村 禧八郎(きむら きはちろう、1901年2月2日 - 1… 木村 禧八郎(きむら きはちろう、1901年2月2日 - 1975年5月13日)は、日本の政治家、経済評論家。日本社会党参議院議員。野党随一の財政政策通として知られて、特にインフレーション抑止政策を一貫して主張した。 東京の呉服商の家に生まれた。少年時代から勉強好きで知られ、1924年、慶應義塾大学経済学部を卒業する。同年時事新報に入社し、経済記者として活躍する。その後、毎日新聞、エコノミストを経て、戦後は北海道新聞に移り論説委員長を務める。記者時代からインフレーションに強い関心を持ち、1939年、岩波書店から『インフレーション』を出す。 1947年、第1回参議院議員通常選挙に社会党公認で全国区から立候補し当選する。
物部 薫郎(もののべ / ものべ くんろう、1901年(明治… 物部 薫郎(もののべ / ものべ くんろう、1901年(明治34年)2月1日 - 1977年(昭和52年)2月3日)は、日本の内務・厚生官僚。長野県知事。旧姓は平松。 岡山県川上郡湯野村(現在の高梁市備中町東油野)出身。平松瀧之助の三男として生まれ、同郡平川村、物部真一の養子となる。岡山県第一岡山中学校、第六高等学校を卒業。1924年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 以後、石川県学務課長、長野県学務部長、厚生書記官・失業対策部事業課長、同衛生局保健課長、内務省監査官、内務書記官・防空局企画課長兼整備課長、愛知県部長・経済部長などを経て、同県内務部長となる。
植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 19… 植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 1987年5月27日)は、日本の東洋史学者。実兄は作家の直木三十五。 1901年、大阪市で父惣八、母しづの次男として大阪市南区内安堂寺町通に生まれる。父は古着屋であった。1908年4月、大阪市桃園第一尋常小学校に入学。1913年4月には大阪府立天王寺小学校に入学。1919年4月、山口高等学校(文科乙類)に入学。1922年4月、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。1923年7月には華北を旅行する。学生時代は近藤健一から奨学金を与えられていた。1925年、東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。 卒業後は、母校の東京帝国大学文学部東洋史学科副手に採用される。
解良 富太郎(けら とみたろう、1901年(明治34年)1月… 解良 富太郎(けら とみたろう、1901年(明治34年)1月30日 - 1937年(昭和12年)2月20日)は、日本の歌人、法学者。商法、特に海商法を専攻したが、病弱で大学教員としての道は諦め、病床で短歌を詠んだ。アララギ派に属した。 1901年(明治34年)1月30日、新潟県三島郡寺泊町片町で父・彌一郎、母・モトの四男として生まれる。家は雑貨商を営んだ。 1915年(大正4年)、寺泊尋常高等小学校の高等科第二学年を卒業し、家業を助ける傍ら独学で中学講義録を学んだ。1917年(大正6年)には与板町登記所雇員となるも、脚気のため1か月も経たずに退職した。1918年(大正7年)、勉学の希望を捨てられず、次兄・英次郎の勤務先である大阪の孔官堂主人の増田という人物が富太郎を呼び寄せ、大阪に転居した。
小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 19… 小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 1988年7月19日)は、日本の工学者。専門は機械工学。鹿児島大学名誉教授 。鹿児島大学工学部長や鹿児島工業高等専門学校初代校長を歴任。 鹿児島県鹿児島市高麗町出身。1918年鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。1922年第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1925年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。大学卒業後に南満州鉄道へ入り機関士見習いからたたき上げ、あじあ (列車)の設計に携わる。終戦直前に満鉄本部運輸局長。戦後1946年から鹿児島県立工業専門学校 (旧制)でボイラー関係を教える(県立工業専門学校は学制改革で1949年2月に鹿児島県立大学工学部となる)。
梶野 悳三(かじの とくぞう、1901年1月29日 - 19… 梶野 悳三(かじの とくぞう、1901年1月29日 - 1984年4月1日)は、昭和期日本の小説家。 新潟県岩船郡村上町(現在の村上市)生まれ。本名・正義。幼児期に北海道に移住。1921年に横須賀海兵団に入り、水兵となる。海軍三等主計兵曹であった。柔道に励んで四段となる。退団後、柔道知識を生かして梶野千万騎(かじの ちまき)の筆名で「試合もの」の小説を書き始める。1933年、山手樹一郎らと『大衆文学』を創刊。長谷川伸の新鷹会に加入後、悳三に改名。 1930年代後半から海洋文学、とくに捕鯨船員の生活などを描いた長編を手掛けるようになり、「俺は水兵」「鯨の町」などの作品を発表する。 1946年、自身が少年期を過ごした北海道天塩の鰊漁場を描いた「鰊漁場」(『大衆文芸』1947年6月号)で大衆雑誌懇話会賞を受賞。
高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年〈明治34年〉1月… 高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年〈明治34年〉1月28日 - 1987年(昭和62年)6月5日)は、日本のダダイスト詩人。 愛媛県伊方町出身。母親を少年時代に亡くす。八幡浜商業学校(現・愛媛県立八幡浜高等学校)を中退し、以後、放浪がちの生涯を送った。1920年(大正9年)「萬朝報」の懸賞短編小説に『焔をかゝぐ』で入選、小説家としてデビュー。その後詩作に転ずる。1922年12月、「今から俺はダダを全世界に宣伝するのだ」と言ってタクシーの運転手をステッキで殴る事件(発狂事件)を起こして逮捕される。 1923年(大正12年)、詩集「ダダイスト新吉の詩」は「DADAは一切を断言し否定する」で始まり、「皿」は、食堂の皿洗いをしていた時の心境を「皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿/倦怠」と表現した(本来縦書きで、皿が積み重なるさまを示している)。
金子 与重郎(旧字体: 金子 與重郞、かねこ よじゅうろう、… 金子 与重郎(旧字体: 金子 與重郞、かねこ よじゅうろう、1901年(明治34年)1月27日 - 1954年(昭和29年)10月9日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員(3期)。 群馬県勢多郡粕川村大字室沢(現・前橋市粕川町室沢)で、金子新作の長男として生まれる。群馬県立勢多農林学校(現・群馬県立勢多農林高等学校)を経て、1919年(大正8年)盛岡高等農林学校農学科別科を卒業した。 帰郷して農業を営む。また、県下の産業組合の組織化に尽力し、組合厚生病院を設けて農村の保健衛生の向上に尽くした。群馬蚕糸会社の設立に参画し、蚕糸業の振興を図った。その他、粕川村会議員、粕川信用販売利用組合長、群馬県購買販売利用組合専務理事、同購買販売利用組合連合会総務部長、群馬蚕糸製造監査役などを務めた。
広岡 謙二(廣岡 謙二、ひろおか けんじ、1901年〈明治3… 広岡 謙二(廣岡 謙二、ひろおか けんじ、1901年〈明治34年〉1月27日 - 1995年〈平成7年〉6月30日)は、日本の内務官僚。石川県知事、警視総監。位階は正四位。 徳島県出身。広岡四郎の二男として生まれる。徳島中校、第一高等学校を経て、1923年4月、東京帝国大学文学部に入学したが、翌年3月に退学。1926年11月、高等試験行政科試験に合格。1927年3月、東北帝国大学法文学部英法科を卒業。同年4月、内務省に入り山口県属として内務部庶務課兼地方課に配属された。 1929年5月、山口県警部を兼務。以後、山口県商工水産課長、地方警視・鹿児島県保安課長、宮城県特高課長、警視庁特別高等警察部特高第一課長、同部労働課長、山口県学務部長、大分県書記官・警察部長、警視庁消防部長、熊本県書記官・警察部長、福岡県部長・警察部長などを歴任。
高野 実(たかの みのる、1901年1月27日 – 1974… 高野 実(たかの みのる、1901年1月27日 – 1974年9月13日)は、日本の労働運動家。元日本労働組合総評議会(総評)事務局長。長男にジャーナリストの高野孟が、二男に気功師の津村喬がいる。
13代千宗左(せん そうさ、1901年〈明治34年〉1月27… 13代千宗左(せん そうさ、1901年〈明治34年〉1月27日 - 1979年〈昭和54年〉8月29日)は、茶道表千家の家元。 京都府生まれ。12代惺斎千宗左の次男。即中斎。幼名は覚二郎、号に無尽・清友軒。慶應義塾大学文学部及び京都帝国大学史学選科卒。1936年、兄・不言斎が急逝、1937年、父・惺斎の死去のため、表千家13代家元を継ぐ。1949年、財団法人不審庵を設立。1973年、京都市文化功労者。1975年、表千家同門会を発足させ茶の普及につとめた。また不審庵伝来の「元伯宗旦文書」を公刊。1979年、死去。
伊吹 武彦(いぶき たけひこ、1901年1月27日 - 19… 伊吹 武彦(いぶき たけひこ、1901年1月27日 - 1982年10月12日)は、日本のフランス文学者。京都大学名誉教授。 大阪府生まれ。旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒。第三高等学校教授、京都帝国大学文学部講師、1950年京都大学文学部仏文科教授。1964年に定年退官、関西学院大学教授を務めた。戦後まもなくは、文芸誌『世界文学』(を編集し、近現代フランス文学を紹介した。 ラクロ、フローベール、アナトール・フランス、プルースト、サルトルなどを訳し、生島遼一、桑原武夫とともに京大フランス学を形成した。後年は『仏和大辞典』の編纂にも尽力した。 京都市とパリの姉妹都市の結成など日仏文化交流に貢献し、1961年にレジオンドヌール勲章を受章した。
初代・瀧川 末子(たきがわ すえこ、1901年(明治34年)… 初代・瀧川 末子(たきがわ すえこ、1901年(明治34年)1月27日 - 1983年(昭和58年)2月12日)は、元宝塚少女歌劇団花組主演男役クラスで宝塚歌劇団卒業生。1920年当時の本名の表記は竹中みさを、死去時の本名は竹中美佐保。兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)出身。1913年11月 - 1933年在団。宝塚歌劇団2期生で、初期のスターの一人。同期生に篠原淺茅、人見八重子、吉野雪子がいる。花組組長も務めた。なお、藤波楽斎『歌劇と歌劇俳優』には「瀧川壽榮子」と書かれている。 芸名は小倉百人一首の第77番:崇徳院の 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。学位は、理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。 宮地が定年退官後、京都大学の教室は京大出身で九州大学助教授であった森下正明が引き継いだ。 その森下正明が定年退官後、川那部浩哉が引き継いだ。杉山幸丸も宮地の流れを汲んでいる。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。
望月 市恵(もちづき いちえ、男性、1901年1月25日 -… 望月 市恵(もちづき いちえ、男性、1901年1月25日 - 1991年9月8日)は、ドイツ文学者、信州大学名誉教授。
下泉 重吉(しもいずみ じゅうきち、1901年1月25日 -… 下泉 重吉(しもいずみ じゅうきち、1901年1月25日 - 1975年12月21日)は、日本の動物学者。東京教育大学教授、都留文科大学学長を務めた。理学博士。 主として動物の冬眠について研究をおこなった。またヤマネの生態について明らかにし飼育に成功する。日本生物教育学会を創設し、理科教育や環境教育、自然保護思想についての振興につとめた。後に同会名誉会長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月… 金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月25日 - 1962年2月22日)は、大韓民国の医師、教員、政治家、実業家、社会事業家。麗水郡郡守、麗川郡郡守、第3代韓国国会議員、湖南新聞社長を歴任した。 全羅南道麗川郡(現・麗水市)出身。ソウル中東中学校、日本大学師範科卒。莞島中学校教員、光州農業実習学校長を歴任した後に全羅南道の医師試験に合格した。その後は韓国キリスト教青年会(朝鮮語版)総務、麗水郡・麗川郡郡守を経て、全羅南道三日保健診療所長を務めた。麗水華井医院を開業したほか、麗水愛養園長を務めた。1954年の第3代総選挙では麗川郡選挙区から無所属で出馬し当選し、その後は自由党に入党した。
野上 進(のがみ すすむ、1901年1月25日 - 1965… 野上 進(のがみ すすむ、1901年1月25日 - 1965年12月21日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期、自由民主党)。 熊本県出身。1923年明治大学専門部政経科卒。卒業後は関東庁警察部に入り、のち熊本県内の各警察署長、同県刑事、警防の各課長、熊本市交通局長、熊本電気軌道社長、九州産業交通初代社長、同会長、熊本観光社長、ラジオ熊本、熊本振興各取締役、熊本県交通安全協会、同県バス協会、同県トラック協会各会長などを務めた。 1947年、熊本県議会に当選し、副議長となる。自由党熊本県支部幹事長、1956年、自由民主党熊本県連会長、1960年、参議院議員熊本地方区補欠選挙に当選、参議院運輸委員会委員長などを歴任する。
石川 冷(いしかわ れい、1901年1月25日 - 没年不詳… 石川 冷(いしかわ れい、1901年1月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は石川 良平(いしかわ りょうへい)だが、婚姻後は齋藤 良平(さいとう - )と名乗った。旧芸名は石川 鳳堂(いしかわ ほうどう)。妻は舞踊家の藤間寿美枝(本名は斎藤 千代子)である。 1901年(明治34年)1月25日、東京府東京市本所区業平(現在の東京都墨田区)に生まれる。父親である杢平は人形師であった為、人形作りを手伝いながら、1914年(大正3年)に小学校を卒業。卒業後は琴古流尺八を習い、石川鳳堂と名乗った。 1920年(大正9年)、新派俳優の武田正憲(1890年 - 1962年)の門下となり、東京で初舞台を踏む。
石館 守三(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1… 石館 守三(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1996年7月18日)は、日本の薬学者、薬理学者。日本の薬学界のパイオニア。ハンセン病治療薬「プロミン」を合成し、多くのハンセン病患者を救った。また、日本初のがん化学療法剤ナイトロミン(ナイトロジェンマスタードN-オキシド)を創製した。東京大学薬学部初代学部長、名誉教授、薬学博士、元日本薬剤師会会長。 放送作家・アニメーション監督の石ダテコー太郎は孫。 1901年、青森県青森市、喜久造・みきの三男として薬種商を営む裕福な商家に生まれた。1918年、青森県立青森中学校を卒業、1919年第二高等学校理科二類に進学。中学を卒業して浪人中の夏、療養所でハンセン病患者に初めて遭遇し、衝撃を受ける。
小島 吉雄(こじま よしお、1901年(明治34年)1月24… 小島 吉雄(こじま よしお、1901年(明治34年)1月24日 - 1989年(平成元年)10月21日)は、日本の国文学者。 学位は、文学博士(九州帝国大学・論文博士・1945年)(学位論文「後鳥羽上皇と新古今和歌集」)。大阪大学名誉教授。 大阪府出身。1924年京都帝国大学文学部国文科卒。九州帝国大学助教授、教授、1945年「後鳥羽上皇と新古今和歌集」で九州帝国大学より文学博士の学位を取得。1950年大阪大学文学部教授、1965年定年退官、名誉教授。 「新古今和歌集の研究」をはじめ、中世歌論、連歌、俳諧、浄瑠璃を研究した。 1982年(昭和57年)には各種の古典講座を開催し、一般市民に古典文学への興味と理解を深めさせ、古典文学の普及に尽力してきたとして、大阪文化賞を受賞する。
朝井 閑右衛門(あさい かんえもん/あさい かんうえもん、出… 朝井 閑右衛門(あさい かんえもん/あさい かんうえもん、出生名:浅井 實(みのる)、1901年1月24日 - 1983年4月23日)は、日本の洋画家。戦前は官展や光風会で活躍、戦後は新樹会や国際形象展を結成し、油彩の厚塗りで強烈な個性を発揮した。常に画壇の第一線で活躍しながら画集もなく、また本格的な個展も開催することがないなど、特異な生涯を貫いた。同じモチーフを繰り返し描くことが多く、「バラの画家」「ドン・キホーテに憑かれた画家」とも呼ばれる。 明治34年(1901年)1月24日、大阪府大阪市南区恵美須町(現在の浪速区恵美須西)の今宮戎神社の南門近くで、浅井繁熊(25歳)、ヒサ(27歳)の長男として生まれる。
斎藤 次郎(さいとう じろう、1901年1月23日 - 19… 斎藤 次郎(さいとう じろう、1901年1月23日 - 1971年6月13日)は、日本の経営者。住友セメント社長を務めた。 東京都出身。1927年に東北帝国大学法文学部を卒業し、同年に磐城セメントに入社。 1939年6月に取締役に就任し、同年12月に常務を経て、1948年4月には社長に就任。 1967年3月に藍綬褒章を受章。 1971年6月13日、急性肺炎と心不全のために死去。70歳没。
多田 基(ただ もとい、1901年(明治34年)1月23日 … 多田 基(ただ もとい、1901年(明治34年)1月23日 - 1995年(平成7年)12月21日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授、学校法人実践女子学園理事長、大月短期大学名誉教授。 1901年(明治34年)1月23日、鳥取県鳥取市に生まれる。1925年(大正14年)に法政大学経済学部を卒業し、1947年(昭和22年)に法政大学教授に就任する。 1961年(昭和36年)に大月短期大学学長に就任する。1974年(昭和49年)に実践女子学園理事長に就任し、1978年(昭和53年)に実践女子大学・短期大学学長を兼任する。 1995年(平成7年)12月21日に死去、94歳。 内田百閒の教え子で、黒澤明の『まあだだよ』の題材である「摩阿陀会」の肝煎(幹事)の一人である。
深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年… 深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は植岡 隆逸(うえおか たかいつ)。 1901年(明治34年)1月22日、宮崎県に生まれる。実家は旅館業を経営していた。京都府立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)中退。 1926年(大正15年)5月、坪内士行(1887年 - 1986年)等の宝塚国民座の創立に参加し俳優となる。1929年(昭和4年)、松竹大阪の専属俳優となり、同年8月には大阪浪花座で旗揚げした関西歌舞伎の阪東壽三郎(1886年 - 1954年)を中心とする第一劇場に参加した。同劇場には小堀誠、吉田豊作、進藤英太郎、八雲恵美子などがいた。