奈良 武次(なら たけじ、1868年4月28日〈慶応4年4月… 奈良 武次(なら たけじ、1868年4月28日〈慶応4年4月6日〉- 1962年〈昭和37年〉12月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。 農業を営み、村議会議員を務めた奈良彦一郎と母ふみ子(宇都宮藩士の娘)の次男として下野国都賀郡南摩村上南摩(現:栃木県鹿沼市)に生れる。兄は彦作。6歳で村の寺子屋で、元日光の士族入江裕次郎に四書五経を学ぶ。進文学舎、陸軍有斐学校を経て、1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、砲兵少尉任官、近衛野砲兵連隊付となる。1893年(明治26年)11月、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業。日清戦争では、臨時徒歩砲兵第2大隊副官として出征した。
生島 五郎兵衛(いくしま ごろべえ、旧姓・上西、前名・百太郎… 生島 五郎兵衛(いくしま ごろべえ、旧姓・上西、前名・百太郎、1868年4月26日〈明治元年4月4日〉 - 没年不明)は、日本の地主、家主、資産家、名望家、兵庫県多額納税者。族籍は兵庫県平民。 兵庫県有馬郡大沢村(現・神戸市北区大沢町)生まれ。上西文右衛門の二男。先代五郎兵衛の養子となる。1894年、家督を相続し、百太郎を改め襲名する。貸金業、土地家屋貸付業を営む。 兵庫県の大地主である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は真宗。趣味は書画、骨董、読書。兵庫県在籍で、住所は神戸栄町通2丁目、別宅は中山手通4丁目。 家系について『人事興信録』によると「生島家は古くより神戸に住し、醸造を業とし、同地草分けの旧家で資産家として名がある」という。
仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4… 仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4月2日)- 1943年(昭和18年)9月26日)は、日本の法学者。京都帝国大学名誉教授。財団法人立命館初代協議員。日本民法典の成立に寄与。 指導教官である穂積陳重の法律進化論の流れを汲み、法理学・法史学・比較法学を近接させた立場であった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月… 日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月1日) - 1926年(大正15年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。肥後国人吉藩、現在の熊本県人吉市の生まれ。15歳のときに鹿児島市の三州義塾に入学。成績優秀につき三州社の社費生に選ばれて東京専門学校(現早稲田大学)に入学。1889年、東京専門学校英語本科卒。卒業と同時に三州義塾の英語教師に任命される。1891年、鹿児島新聞社(現南日本新聞社)の誘いにより客員として入社。1891年10月7日、鹿児島県加治木村(後に加治木町、現姶良市)の日野家に養子として迎えられ鹿児島県人となる。明治末期には佐藤平右衛門と加治木電気会社を設立。
田川 平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4… 田川 平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4月22日(明治元年3月30日) - 1951年(昭和26年)2月17日)は、日本の商人(米並びに酒商)、神奈川多額納税者、政治家。衆議院議員(神奈川県第四区選出、当選1回)。 三重県飯南郡花岡村(現松阪市)出身。高橋萬蔵の六男。田川幸蔵の養子となり1901年、養弟國太郎の後を承け家督を相続する。米並びに酒商を営む。 田浦町議、三浦郡議、神奈川県議、所得税、営業税の各調査委員、鎌倉銀行取締役、田浦土地建物取締役社長となる。 1922年、神奈川4区の補欠選挙において憲政会公認で当選した。衆議院議員を1期務めた。 1951年2月17日に死去した。
岡田 菊次郎(おかだ きくじろう、1867年5月19日(慶応… 岡田 菊次郎(おかだ きくじろう、1867年5月19日(慶応3年4月16日) - 1962年(昭和37年)9月3日)は、三河碧海郡安城村戸崎(現・愛知県安城市安城町)出身の政治家。 安城村長、安城町長。安城村会議員、安城町会議員、碧海郡会議員、愛知県会議員。安城町に愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高校)や愛知県農事試験場などの施設を誘致し、町内の道路整備を進めた。明治用水などの水利事業にも関わり、「用水の神様」と呼ばれた。安城市名誉市民。 1867年(慶応3年)、三河国碧海郡安城村戸崎(現・愛知県安城市安城町)の米穀商である岡田覚兵衛の長男として生まれた。19歳の時に家業を弟に譲って百姓となり、約1町歩の田畑をもらって新家に出た。
南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〈慶応3… 南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〈慶応3年4月15日〉 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。 1929年には地元で、昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。 民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。 フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。
赤尾 彦作(あかお ひこさく 慶応3年4月15日(1867年… 赤尾 彦作(あかお ひこさく 慶応3年4月15日(1867年5月18日) - 昭和28年(1953年)11月26日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員、横浜弁護士会会長。 1867年(慶応3年)-甲斐国八代郡(のちの山梨県東八代郡英村、石和町を経て現笛吹市)に生まれる。 1889年(明治22年)-和仏法律学校(現在の法政大学)を卒業し、1893年(明治26年)に横浜市で弁護士を開業する。 1902年(明治35年)-横浜市会議員当選(以後1942.9まで連続10期当選)する。 1903年(明治36年)-横浜電気軌道株式会社取締役に就任し、1909年(明治42年)平沼銀行を創立に参画し、同年横浜取引所顧問に就任する。
槙山 栄次(まきやま えいじ、1867年5月17日(慶応3年… 槙山 栄次(まきやま えいじ、1867年5月17日(慶応3年4月14日) - 1933年(昭和8年)6月12日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、文部官僚。 出羽国米沢(現在の山形県米沢市)出身。山形県師範学校を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文学科を卒業。秋田尋常師範学校教諭、東京高等師範学校助教諭・書記、文部属、宮崎県尋常中学校教諭、山形尋常師範学校校長、北海道師範学校校長、東京女子高等師範学校教授を歴任。1905年(明治38年)、ドイツ・アメリカ合衆国に留学。帰国後、文部省視学官、東京女子高等師範学校教授、文部省督学官を務めた。1919年(大正8年)、奈良女子高等師範学校校長に就任した。
笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3… 笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3年4月11日) - 1960年(昭和35年)7月24日)は、日本の技術者、実業家。日本で先駆け的にディーゼル機関を開発し、新潟鐵工所社長や同社会長を務めた。 長州藩士の長男として萩町川島村(現山口県萩市大字川島)に生まれる。父が「士族の商法」で事業に失敗したため中学校に進学する資金がなく、公費で通える山口師範学校(現山口大学教育学部)を1885年に卒業し、船木小学校校長となった。その後叔父の援助などもあり、1892年に東京工業学校(現東京工業大学)機械科を卒業し、東京石川島造船所へ入社した。 銅ヶ丸鉱山機械課長を経て、1897年日本石油付属新潟鉄工所技師長に就任。
前田 武四郎(まえだ たけしろう、1867年5月14日 - … 前田 武四郎(まえだ たけしろう、1867年5月14日 - 1931年1月21日)は、日本の電気技術者、実業家。日本電気の共同創業者として知られる。 慶応3年4月11日(グレゴリオ暦1867年5月14日)、前田武平の次男として越後国北蒲原郡堀越村大野地(現阿賀野市)で生まれた。実家は裕福な農家であったが前田は郷里で農業を続けることを望まず、1882年(明治15年)に親に無断で上京し、中村正直の同人社に入塾。親もやがて軟化して遊学を許し、前田は2年後に学業を終えて一度帰郷するが、給費付きの学校である電信修技学校のことを知り、1884年(明治17年)に再び上京、入学した。1887年(明治20年)2月に同校を卒業すると逓信省に入省した。
山下 亀三郎(やました かめさぶろう、1867年5月12日(… 山下 亀三郎(やました かめさぶろう、1867年5月12日(慶応3年4月9日) - 1944年(昭和19年)12月13日)は日本の実業家。勲一等。山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者。勝田銀次郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人。
財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月… 財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月10日) - 昭和24年(1949年)1月13日)は、日本の軍人、政治家。宮崎県都城市出身。階級は海軍大将。
森 正(もり ただし、1867年5月9日(慶應3年4月6日)… 森 正(もり ただし、1867年5月9日(慶應3年4月6日)- 1943年(昭和18年)1月14日)は、明治から昭和前期の実業家、銀行家、政治家。衆議院議員。 大和国式上郡、のちの奈良県式上郡三輪村(式上郡三輪町、磯城郡三輪町、大三輪町を経て現桜井市)で、森五郎の長男として生れた。1886年(明治19年)上京して政治経済学を学んだ。1892年(明治25年)4月、アメリカ合衆国に留学し商業学を学び、さらにイギリスに留学して1899年(明治32年)に帰国した。 帰国後、実業界に入り、中央商業銀行頭取、工商貯蓄銀行取締役、日本製糸取締役、大和電気取締役、三輪素麺同業組合長などを務めた。また、郷土の将来有望な青年の育成に尽力し援助を行った。
一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1… 一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1867年5月7日〈慶応3年4月4日〉- 1944年〈昭和19年〉12月17日)は、日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧名は岡田 丘平(おかだ きゅうへい)。号は梁舟。 公法学を専門とする法学者で、帝国大学の法科大学では教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。天皇機関説を提唱したことでも知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めたが、のちに天皇機関説事件において美濃部らとともに激しい批判に晒された。貴族院勅選議員に勅任されてからは、第1次桂内閣の法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣の文部大臣や内務大臣など要職を歴任した。
岡村 金太郎(おかむら きんたろう、慶応3年4月2日(186… 岡村 金太郎(おかむら きんたろう、慶応3年4月2日(1867年5月5日) - 昭和10年(1935年)8月21日)は、日本の海藻学者・水産学者。日本海藻学の開拓者として明治から昭和初期にかけて活躍し、養殖の基礎を築いた。また、日本で初めてプランクトンを定性的に研究した。発表した論文は約250編、海藻に関する著書が極めて多い。 慶応3年4月2日(1867年5月5日)に岡村清七、セイの長男として江戸芝新幸町(現在の東京都港区新橋1丁目)に生まれる。芝新銭座町の攻玉塾、東京大学予備門を経て明治18年(1885年)7月に東京大学理学部(後の帝国大学理科大学)へ入学した。明治22年(1889年)7月の帝国大学理科大学植物学科卒業後は同大学大学院に入学、矢田部良吉のもとで藻類学研究を開始した。
三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日(1867年… 三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日(1867年5月4日) - 1919年(大正8年)3月7日)は、日本の銀行家。子爵。三島通庸の長男であり、徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルでもある。
原 錦吾(はら きんご、1867年4月30日(慶応3年3月2… 原 錦吾(はら きんご、1867年4月30日(慶応3年3月26日)- 1936年(昭和11年)4月13日)は、日本の実業家である。 江戸の生まれ。高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、同学校の教授となり教鞭を執る。1892年(明治25年)に明治火災保険(現在の東京海上日動火災保険)に入社し、副支配人や代表取締役を歴任した。 1914年(大正3年)には同社の常務に就任するが翌1915年(大正4年)に自身の独立によって辞任し、三井物産の小田柿捨次郎常務取締役から損害保険会社設立のための調査研究の委嘱を受け、大正海上火災保険の設立計画書の立案を行った。 しかし、1917年(大正6年)には平生釟三郎東京海上火災保険専務取締役の反対で、大正海上火災保険での経営への参画を辞退させられ、その後は日本初の火災保険協会であった日本共立火災保険の設立に携わる。
武生 房栄(たけふ ふさえ、1867年4月25日(慶応3年3… 武生 房栄(たけふ ふさえ、1867年4月25日(慶応3年3月1日) - 1945年9月7日)は、日本の女性医師。明治期からすくなくとも1920年(大正9年)まで、福井県内で活動していた女性医師は1名のみであり、この間、武生は県内ただ一人の女性医師であった。 近江国高島郡(現・滋賀県)に生まれる。済生学舎(後に東京医学専門学校済生学舎、日本医科大学の前身)に学び、1891年(明治24年)に24歳で医術開業試験に合格し、女性医師として日本で12番めに医籍登録した。 1893年(明治26年)福井県敦賀郡中郷村(現・敦賀市)堂の武生慶哲と結婚。同地で主に眼科を専門として開業し、西愛発・中愛発・東愛発などの近隣小学校の校医も務めた。
六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年… 六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年3月20日) - 1950年(昭和25年)4月15日)は、日本の漆工芸家。日本の漆工芸界の草分け。旧姓・藤岡、幼名・仲太郎。のち注多良と改名。 1867年、 広島県佐伯郡大原村(現・江田島市大柿町大原)生まれ。1883年(明治16年)広島師範学校初等師範科(現・広島大学教育学部)を卒業後、母校の小学校で教員を務めたのち上京。東京美術学校(現・東京芸術大学)の一期生として漆工科へ入学。1893年(明治26年)卒業と同時に同校漆芸科助教授に就任し、岡倉天心とともに国内の古美術を研究した。 1898年(明治31年)、岡倉が同校を辞職した際には行動をともにし、日本美術院の創立に参加。
三宅 速(みやけ はやり、1867年4月22日(慶応3年3月… 三宅 速(みやけ はやり、1867年4月22日(慶応3年3月18日) - 1945年(昭和20年)6月29日)は、日本の外科医。 徳島県穴吹町舞中島(現・美馬市)出身。1891年(明治24年)に帝国大学医科大学卒業後、外科教授であったユリウス・スクリバの勧めで外科医となる。徳島市内の外科病院で5年ほど勤務したのち、ドイツへ留学してブレスラウ大学のミクリッチ(ミクリッツ、Jan Mikulicz-Radecki)に師事し、胆石症の研究を行った。 帰国後、35歳の時に大阪府立医学校(現在の大阪大学)の付属医院外科医長、続いて京都帝国大学、福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に赴任した。その後再度ドイツへ留学し、1904年(明治37年)、38歳の時に福岡医科大学教授となった。
赤田 瑳一(あかた さいち、1866年5月20日〈慶応2年4… 赤田 瑳一(あかた さいち、1866年5月20日〈慶応2年4月6日〉 - 1935年〈昭和10年〉8月31日)は、日本の政治家、地家主。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。大阪市会議員。族籍は大阪府平民。 摂津国東成郡天王寺村(現・大阪府大阪市)で代々農業を営む家に生まれる。赤田太兵衛の長男。2歳で父を亡くし、母の手で育てられた。 その後、河内国高安郡(現・大阪府八尾市)の叔父の元に移り17歳まで過ごした。八尾町の田中祐篤の塾生となり国史・漢籍を学ぶ。のち塾を脱し伊予の松山に赴き同地の豫章館に入り、国史・漢籍を修める。病気となり帰阪して療養の傍ら家政を整理する。 天王寺村の戸長・橋本善右衛門が赤田を迎え、役場用掛とする。
2代目川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、慶応2年4月5日… 2代目川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、慶応2年4月5日(1866年5月19日) - 昭和22年(1947年))は、日本の実業家。初代川崎八右衛門、世舞子夫妻の次男。金三郎とも名乗った。川崎守之助の父。妻、幸子(こうこ)は、郷純造の娘。東京川崎財閥第2代当主。男爵。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
佐川 玄彝(さがわ げんい、1866年5月18日(慶応2年4… 佐川 玄彝(さがわ げんい、1866年5月18日(慶応2年4月4日) - 1944年(昭和19年)5月13日)は、日本の僧侶。曹洞宗總持寺独住第15世貫首、永平寺第72世貫首。道号は訓山玄彝。 1866年(慶応2年)周防国大島郡(後の山口県大島郡蒲野村、現・周防大島町)生まれ。1882年3月3日屋代村の龍心寺大村玄英について得度。1891年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業(卒業証書授与は1892年春)。同年、曹洞宗管長より山形県米沢市の曹洞宗中学林の教授に任命される。1892年師匠の病気のため辞職し看病に務める。1893年2月、龍心寺住職。1894年山口県曹洞宗中学林の教授。1913年曹洞宗第四中学林の第3代学林長に就任。
安東 敏之(あんどう としゆき、1866年5月15日(慶応2… 安東 敏之(あんどう としゆき、1866年5月15日(慶応2年4月1日)- 1932年(昭和7年)2月9日)は、明治から昭和前期の弁護士、政治家。衆議院議員。旧姓・芦田、幼名・利作。 美作国勝北郡広戸村(岡山県勝田郡広戸村、勝北町を経て現津山市)で芦田藤平の五男として生まれ、1884年(明治17年)4月、同郡、のちの新野村(勝北町を経て現:津山市)の安東友七の養嗣子となる。有功学舎、勝北中学校、大阪泰西学舘、関西法律学校を経て、1891年(明治24年) 東京法学院(現中央大学)法科を卒業した。同年、代言人試験(弁護士試験)に合格し東京で開業した。 1893年(明治26年)名古屋市に転居して、1901年(明治34年)名古屋弁護士会長に就任。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月2… 丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月25日(1866年5月9日) - 昭和2年(1927年)7月9日)は、日本の詩人、小説家、実業家。 江戸青山生まれ。共立学校(現開成高等学校)、東京大学予備門を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中、尾崎紅葉らと硯友社創設に参画し、新体詩などを発表し、卒業後は文学を離れ、矢野二郎校長の勧めで教員となり、1892年からは県立神戸商業学校校長事務取扱を務めた。 のち、実業家に転じ、高田商会横浜支店長等を経て、独立し、イギリスのサン保険会社(英語版)の東京支店開設にあたり同支店支配人となり、同社の契約高や保険料収入を日本国内3位以内にまで育てた。
山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2… 山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2年3月21日) - 1940年(昭和15年)5月27日)は、日本の医師、政治家、衆議院議員(1期)、医学博士。兄は衆議院議員の山谷虎三。長男は俳人・日新書院取締役の山谷太郎で、その次男が脚本家・演出家の倉本聰である。 東京都出身。岡山県医学校を経て、東京帝国大学医学部で内科及び病理学を専攻する。1907年、ドイツに留学し、ギーセン大学とゲッチンゲン大学で学び、ドクトル・メジーネ(医学博士)を授けられる。帰国後は津山町(現・津山市)で病院を開業する。その後、大阪の病院の副院長、三共(資)理事、(株)日新医学社を創立、取締役社長となる。その他、医学雑誌や図書の出版に従事した。
黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年… 黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年3月11日) - 1923年(大正12年)8月31日)は、明治・大正時代の書家・漢学者。名は安雄。字は武卿。別号に欣堂、蓍園。讃岐国(香川県)出身。金石文の権威であり、楚辞や文選等を得意とした。 慶応2年(1866年)讃岐国那珂郡良野村(現・まんのう町吉野)大宮神社祠官黒木茂矩(しげのり)の子として生まれる。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、父・茂矩は秋山厳山、日柳燕石らに学び、高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)等を務めた。 欽堂は父・茂矩と片山冲堂に学んだ後、漢学塾・二松學舍を経て、1885年(明治17年)東京大学文学部附属古典講習科漢書課後期入学、1888年(明治21年)7月卒業。
坂本 嘉治馬(さかもと かじま、慶応2年3月11日(1866… 坂本 嘉治馬(さかもと かじま、慶応2年3月11日(1866年4月25日) - 昭和13年(1938年)8月23日)は、日本の実業家。明治、大正期を代表する出版社、冨山房を神田神保町に設立した。土佐国(高知県)宿毛村出身。 1866年、土佐国(高知県)宿毛村坂ノ下で生まれる。1884年に酒井融をたよって上京、同郷の小野梓が経営する東洋館に勤務する。1886年、東洋館が終焉をむかえたため、小野の義兄小野義眞の援助を受け冨山房を設立。1900年、吉田東伍『大日本地名辞書』の刊行を開始。1915年、上田萬年、松井簡治『大日本国語辞典』の刊行を開始。1920年、内外印刷株式会社を設立。1929年、出身地に私立坂本図書館(現:宿毛市立坂本図書館)を設立。
石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1… 石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1866年4月24日)- 1945年(昭和20年)5月25日?)は、日本の外交官、政治家。第2次大隈内閣で外務大臣を務め、国際連盟設立期には日本代表を務めた。特使としてアメリカで締結した石井・ランシング協定にその名を残すことでも知られる。
高久 倉蔵(たかく くらぞう、1866年4月23日(慶応2年… 高久 倉蔵(たかく くらぞう、1866年4月23日(慶応2年3月9日) - 1917年(大正6年)6月17日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 下野国都賀郡皆川村(現在の栃木県栃木市)出身。皆川村会議員、同村長、下都賀郡会議員、栃木県会議員を歴任した。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、野州日報社主を務めた。
岡井 藤之丞(おかい とうのじょう、1866年4月22日(慶… 岡井 藤之丞(おかい とうのじょう、1866年4月22日(慶應2年3月8日)- 1944年(昭和19年)12月19日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(中央倶楽部)。 1866年(慶應2年3月)、美濃国郡上郡八幡町に生まれる。1886年(明治19年)に東京法学校(現・法政大学)を卒業し、代言人試験に合格する。 1899年(明治32年)に岐阜県会議員に当選し、第17代副議長をへて、1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。第9回衆議院議員総選挙、第10回衆議院議員総選挙に連続当選する。 また、1904年(明治37年)の日露戦争においての功労により勲四等旭日小綬章を受章する。
澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日(… 澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日(慶応元年4月23日) - 1927年(昭和2年)12月24日)は、近代日本の文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。子の一人に、美術史学者となった澤柳大五郎がいる。
澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日〈… 澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日〈慶応元年4月23日〉 - 1927年〈昭和2年〉12月24日)は、日本の文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。文部次官。東北帝国大学初代総長・京都帝国大学第5代総長・成城学園創立者・大正大学初代学長。子の一人に、美術史学者となった澤柳大五郎がいる。大学の自治をめぐり澤柳事件を引き起こし辞職した。 澤柳の最大の業績は成城小学校での〈教授の実験〉によって、「教育上の問題を実験的に研究して解決する」という近代教育学の方法を確立したことである。その結果、文字教育における「読み先習の法則」を発見した。また文部次官時代には小学校教育から変体仮名を廃止し、子どもたちの文字学習がスムーズに進むような改革も行った。
中原 清(なかはら きよし、慶応元年4月23日(1865年5… 中原 清(なかはら きよし、慶応元年4月23日(1865年5月17日) - 大正11年(1922年)1月3日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 日向国那珂郡檍村(現在の宮崎県宮崎市)出身。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)に入学して法学を学び、1890年(明治23年)に卒業した後は弁護士業務に従事した。1901年(明治34年)には宮崎県弁護士会長に選出された。 1899年(明治32年)、宮崎県会議員に当選し、さらに1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に当選した。
大上 宇市(おおうえ ういち、1865年5月17日(慶応元年… 大上 宇市(おおうえ ういち、1865年5月17日(慶応元年4月23日) - 1941年(昭和16年)5月21日)は、日本の博物学者、植物学者。研究報告などの署名には通称として用いていた大上宇一(おおがみ ういち)の表記も多数見られる。号に嶺海、山海子がある。 5歳のときに母と生別し、8歳で篠頭小学校(現・たつの市立香島小学校)に入学するも病弱のため12歳で中退。 少年から青年時代にかけて独学で、薬草採取を通じて動植物を中心とした本草学・博物学に興味を深く持ち、標本の採集に没頭する。『動物学雑誌』や『介類雑誌』、『昆虫世界』、『博物学雑誌』、『日本農業新誌』、『農業雑誌』、『植物学雑誌』などをはじめ多数の学術誌に、採集報告を寄稿しつづけながら動植物の調査結果を独力でまとめ、一生を兵庫県揖保郡香島村篠首(現・たつの市)で過ごした。
大橋 翠石(おおはし すいせき、慶応元年4月22日〈1865… 大橋 翠石(おおはし すいせき、慶応元年4月22日〈1865年5月16日〉- 1945年〈昭和20年〉8月31日)は、明治中期から昭和前期にかけて日本で活動した日本画家。虎の絵を多く描き、パリ万国博覧会 (1900年)において日本人で唯一の金牌を受けるなど欧米でも高く評価された。 出身地は美濃国安八郡大垣町内(現・岐阜県大垣市新町2丁目)。本名は 大橋 卯三郎( - うさぶろう)。通称として宇一郎(ういちろう)を用いた。著名な親族として、大橋万峰こと実兄の大橋鎌三郎(日本画家)と娘婿で弟子の大橋翠邦(大橋翠峰)がいる。 世に「虎の翠石」として名高い。特に長い冬毛が美しいアムールトラを多く画題に選び、その描くところの虎は毛の描写の細かさ、威風堂々とした体躯、生きているように鋭い眼光や動きを表現していると評価されている。
斎藤 和平太(さいとう わへいた、1865年5月10日(慶応… 斎藤 和平太(さいとう わへいた、1865年5月10日(慶応元年4月16日)- 1925年(大正14年)9月24日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、新潟県西蒲原郡小池村長。 越後国蒲原郡小池村(現:新潟市燕市)で、大庄屋・斎藤義範の長男として生まれる。長善館、遠藤義方(寺泊町入軽井)に学び、漢学を修めた。1881年、長岡農学校に入学。 産業の振興に尽力し、西蒲原郡会議員、新潟県会議員、小池村長を務めた。1898年8月、第6回衆議院議員総選挙で新潟県郡部から憲政党所属で出馬し当選。その後、第9回総選挙まで連続四回の当選を果たした。地租軽減、行財政整理、民力の休養を主張した。1903年、第18帝国議会における立憲政友会と第1次桂内閣の妥協に反対し政友会から脱会したが、党友の慰留を受けて復帰した。
樋口 喜吉(ひぐち きよし、1865年5月9日(慶応元年4月… 樋口 喜吉(ひぐち きよし、1865年5月9日(慶応元年4月15日) - 1934年(昭和9年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。予備役編入後、光学関係の研究に従事し、特許権や実用新案権を取得した。 幕末の若松城郭内に生まれる。戊辰戦争後に再建された日新館の助教となり、陸軍教導団を経て陸軍士官学校入校。1889年(明治22年)に卒業した(旧11期)。同期生に奈良武次、石光真清がいる。陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第16連隊付となる。 日清戦争に出征後、歩兵第30連隊付大尉。1899年(明治32年)陸軍大学校に入校。樋口は陸士5期から7期を主体とした後輩たちと共に学び、1902年(明治35年)に卒業(16期)。
渡部 董之介(わたなべ とうのすけ、慶応元年4月15日(18… 渡部 董之介(わたなべ とうのすけ、慶応元年4月15日(1865年5月9日) - 昭和13年(1938年)2月9日)は、日本の文部官僚、教育者。 現在の岐阜県出身。1889年(明治22年)、帝国大学文科大学哲学科を卒業。文部省試補、視学官、参事官・書記官、参事官・図書審査官、図書監査官・図書課長心得などを歴任した後、第七高等学校造士館 (旧制)長に就任した。 その他、維新史料編纂会委員を務めた。
沢原 俊雄(澤原 俊雄、さわはら としお、1865年5月8日… 沢原 俊雄(澤原 俊雄、さわはら としお、1865年5月8日〈慶應元年4月14日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月29日)は、日本の政治家、実業家、資産家、広島県多額納税者、広島県の大地主。呉商工会議所顧問。広島県呉市長。広島合同貯蓄銀行、沢原銀行各頭取。呉私立教育会長。勲四等。族籍は広島県平民。 広島県安芸郡荘山田村(現・呉市)に生まれる。沢原為綱の長男。広島英語学校に入学し、後に退学する。1889年、東京に在住し学校に入学、1890年、中途退学し帰郷する。 1896年、呉貯蓄銀行創立発起人となり、同行取締役、同行頭取となる。1902年、家督を相続する。商業、農業、貸地貸金業を営み、広島県多額納税者に列する。
大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元… 大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元年4月13日〉- 1943年〈昭和18年〉7月13日)は、日本の内務官僚、政治家。日本赤十字社理事。位階・勲等・爵位は正二位勲一等侯爵。 1865年(慶応元年)4月13日、薩摩国鹿児島城下新照院通町に大久保一蔵(利通)と満寿子の三男として生まれる。幼名は三熊。1887年(明治20年)、第一高等中学校を卒業後、アメリカ合衆国に留学し、イェール大学を卒業。さらにドイツに留学し、ハレ大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学ぶ。 1894年(明治27年)に帰国。日清戦争で大本営付通訳官を務め、その後、台湾総督秘書官に就任。1896年(明治29年)9月、内務省に入省し、内務大臣秘書官に就任。
岩崎 宗茂助(いわさき そもすけ、1865年5月6日(慶応元… 岩崎 宗茂助(いわさき そもすけ、1865年5月6日(慶応元年4月12日)- 1941年(昭和16年)2月23日)は、明治から昭和前期の医師・政治家・実業家。衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡志布志郷野井倉村(現・鹿児島県志布志市有明町野井倉)で、岩崎宗之助、ケサヨの長男として生まれる。都城の坂本陽斉から漢方医学を学び、東京医学専門学校済生学舎で学ぶ。1885年(明治18年)第6師団に衛生兵として入隊。1891年(明治24年)に帰郷し志布志村で医師を開業する。日清戦争に衛生兵として出征し、日露戦争にも従軍し陸軍三等軍医となる。 囎唹郡医師会長、鹿児島県産業組合連合会理事、志布志漁業、志布志醸造各 (株) 社長、志布志無尽、志布志倉庫運送各 (株) 取締役を歴任する。
山内 範造(やまうち はんぞう、1865年5月6日(慶応元年… 山内 範造(やまうち はんぞう、1865年5月6日(慶応元年4月12日)- 1945年(昭和20年)3月17日)は、明治から昭和前期の農業経営者、銀行家、政治家。衆議院議員、福岡県筑紫郡筑紫村長。曾孫は元衆議院議員山内康一。 筑前国御笠郡、のちの福岡県筑紫郡筑紫村(筑紫野町を経て現筑紫野市)で、山内伊七郎、タヨの長男として生まれる。漢学を修めた。1894年(明治27年)3月に家督を相続し農業を営む。筑紫郡農会特別議員、福岡県農会特別議員、同評議員、帝国農会議員、同評議員、地方森林会議員などを務めた。 1897年(明治30年)筑紫村長に就任。1904年(明治37年)筑紫郡会議員となり同参事会員も務めた。
石井 十次(いしい じゅうじ、1865年5月5日(慶応元年4… 石井 十次(いしい じゅうじ、1865年5月5日(慶応元年4月11日) - 1914年(大正3年)1月30日)は、明治期の慈善事業家。岡山孤児院を創設した人物である。その功績から、「児童福祉の父」と言われる。アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。 岡山で医師を目指して、岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の医学生として研修中であったが、生活に困窮する母親から子どもを預かったことをきっかけに孤児教育会を設立する。その後、預かる子どもの数が増え、育児事業に専念するために医師として働くことを断念した。そして、英国のキリスト者のジョージ・ミュラーをモデルにして、キリスト教信仰に根ざした岡山孤児院を創設して、生涯を孤児救済に捧げた。
簡野 道明(かんの どうめい(みちあき)、慶応元年4月9日〈… 簡野 道明(かんの どうめい(みちあき)、慶応元年4月9日〈1865年5月3日〉 - 昭和13年〈1938年〉2月11日)は日本の漢文学者(漢字学者)・言語学者・教育者である。 江戸八丁堀で伊予国吉田藩藩士の子として生まれる。幼名は米次郎である。 4歳の時伊予国吉田(現在の愛媛県宇和島市吉田町)に戻り、小学校に入ってから漢学・習字に学び、中学を卒業後小学校の教員を経て愛媛県師範学校に入学する。卒業後は南予地区で教鞭を執る。 1892年に上京後苦労の生活の日々を送り、30歳で東京高等師範学校に入学し、卒業後は東京で再び師範学校教師になる。在任中に「漢文読本」「故事成語大辞典」の編集を担当した。 1923年に漢和辞典「字源」を編集し刊行した。
太田 朝敷(おおた ちょうふ、1865年5月2日(尚泰18年… 太田 朝敷(おおた ちょうふ、1865年5月2日(尚泰18年4月8日)- 1938年(昭和13年)11月25日)は、沖縄の新聞人、政治家。慶應義塾で福沢諭吉の薫陶を受ける。琉球新報(戦前)の設立に参画し、のちに社長となる。また言論人としては沖縄県の本土への同化を強く唱えた。著書に『沖縄県政五十年』など。 太田は日清戦争で親中派の頑固党に対し、親日的開化党の立場で論陣を張り、その後、一貫して沖縄の本土への同化を強く訴えた。 太田は1900年の講演で「沖縄今日の急務は何であるかと云へば、一から十まで他府県に似せることであります。極端にいへば、クシャミすることまで他府県の通りにすると云う事であります」と極端な同化主義を唱えている。
友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治… 友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治2年4月6日) - 1932年(昭和7年)9月17日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 安芸国山県郡溝口村(現広島県山県郡北広島町)で、農業、醤油製造業、鉱山業を営む友田幸兵衛の長男として生まれる。広島で漢学を、大阪で法律学を学んだ。その後、村吏、郡吏、裁判所吏員、広島の山陽土木会社社員などを務めた。 父の事業で財産を失ったことから、1891年に北海道移住を計画。資産が無いため屯田兵に応募しようとしたが、当時は広島県での募集はなく、岡山県で募集があり同県に転籍。屯田兵に合格して同年6月に岡山から小樽に渡航。同年7月1日、上川郡永山村(現旭川市)に入植し開墾に従事した。
井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29… 井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29日(慶応元年4月5日) - 1950年(昭和25年)8月1日)は、岡山県出身の日本の俳人、陸軍軍人。最終階級は陸軍主計総監(中将相当官)。旧姓・佐々。別号に彭洋。 岡山藩(現・岡山県赤磐市)で佐々寅三の二男として生まれる。少年時代から父の影響で定型俳句を始めるも、軍人の道を進んだ。陸軍監督長・井出正章の養嗣子となり、1899年(明治32年)1月に家督を相続した。 1886年6月25日、工兵少尉に任官。1889年11月2日、工兵中尉に昇進し、1894年7月31日に経理部へ転科し監督補となる。陸軍経理学校卒業後、陸軍省経理局建設課長、陸軍主計監・第18師団経理部長、近衛師団経理部長、朝鮮駐剳軍(朝鮮軍)経理部長等を歴任。