赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治… 赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治5年9月6日) - 1942年(昭和17年)5月6日)は、明治から昭和前期の外交官、衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 鹿児島県姶良郡蒲生村(現在の姶良市)に旧薩摩藩士・赤塚源太郎の三男として生まれた。1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し、廈門領事、釜山領事、マニラ領事、外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した。
荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9… 荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9月3日) - 1944年(昭和19年)9月11日)は、日本画家。長崎県大村生まれ。本名・朝長悌二郎。
池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年… 池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年8月29日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月9日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。位階勲等は正三位勲二等。 元岡山藩主・池田慶政の四男として生まれる。その後、旧備中生坂藩主・池田政礼の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)10月25日に子爵を襲爵した。 1887年(明治20年)アメリカ合衆国に留学し、その後、東京帝国大学法科大学を修了。1903年(明治35年)友隣生命保険に入社し、その後、十五銀行(現・みずほ銀行、三井住友銀行)などで勤めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
尾上 作兵衛(おのえ さくべえ、旧姓・池内、幼名・賢次、18… 尾上 作兵衛(おのえ さくべえ、旧姓・池内、幼名・賢次、1872年10月1日〈明治5年8月29日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、資産家。姫路市会議員。国栄機械製作所創業者。族籍は兵庫県平民。 グローリー実質創業者尾上壽作の父。グローリー会長尾上壽男の祖父。 兵庫県飾麿郡安室村字新在家(現・姫路市)出身。兵庫県平民・池内宗太郎の二男。姫路の商家、尾上作平の養子となり、1901年、家督を相続した。 1918年3月、姫路市延末にて、作兵衛は個人経営で電球製造機の修理・販売を開始した。また、山陽醤油社長、日本化学漆器代表取締役、三十八銀行、姫路水力電気、姫路銀行、姫路莫大小、姫路倉庫各取締役など各種の会社重役を務めた。
磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日)… 磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日) - 1961年(昭和36年)9月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。旧姓・平田。 滋賀県士族・平田繁の二男として生まれる。父は加賀大聖寺藩士で、藩主の命により同士石川専輔と共に神戸に、神戸川崎造船所の前身の造船所を開き、藩の造船所奉行となっている。1885年(明治18年)11月に、同藩士で陸軍中佐・磯村惟亮の養嗣子となる。東京府尋常中学、陸軍幼年学校を経て、1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第3連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)卒業。 日露戦争時に大本営陸軍部参謀として勤務し、第一次世界大戦における通称・青島攻略戦と呼ばれるドイツの要衝・青島へ独立第18師団高級参謀として出撃。
佐藤 恒丸(さとう つねまる、明治5年8月28日(1872年… 佐藤 恒丸(さとう つねまる、明治5年8月28日(1872年9月30日) - 昭和29年(1954年)4月16日)は、日本の医師。陸軍軍医総監(中将相当官)。宮中顧問官。医学博士。 愛知県出身。1896年(明治29年)、帝国大学医科大学を卒業。翌年、陸軍三等軍医となり、1922年(大正11年)に軍医総監に至った。1902年(明治35年)9月、陸軍一等軍医で陸軍軍医学校教官の時、福島安正陸軍少将が英領インドのアンバラ(Ambala)で病気にかかっていたので、英領インドまで差し遣わされた。その後、京城衛戍病院院長、朝鮮駐箚軍軍医部長などを歴任した。1907年(明治40年)からドイツに留学し、1911年(明治44年)に医学博士号を受けた。
秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月… 秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月27日〉- 1933年〈昭和8年〉2月4日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、拓務大臣。 回船問屋・東京府会副議長、秦源祐の長男として東京築地で生まれる。東京府立一中、日本中学校、第一高等中学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務属となり内務省参事官室兼県治局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1897年(明治30年)5月、福井県参事官に就任し、愛媛県参事官、千葉県参事官、神奈川県参事官・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)4月から翌年5月まで欧州に出張。帰国後、1906年(明治39年)7月、長崎県事務官・第一部長兼第三部長となり、さらに同県内務部長を務めた。
稲川 政右衛門(いながわ まさえもん、明治4年8月23日(1… 稲川 政右衛門(いながわ まさえもん、明治4年8月23日(1871年10月20日) - 大正5年(1916年)2月17日)は、群馬県高崎市出身で稲川部屋→浦風部屋→高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は吉井→松本 貞四郎。身長167cm、体重110kg。最高位は関脇。 ずんぐりとした体からの突き押しを武器に上位陣を苦しめた。稲川門人だった角界入り当初は、弱く期待もされていなかったが、努力を積み重ねて入幕。1900年(明治33年)1月場所には8勝1敗と優勝相当の成績を残している。1901年~1906年頃には上位に定着し関脇5場所を務めている。1901年5月大関梅ノ谷と引分、1902年1月大砲に勝利、晩年の1907年5月にも横綱梅ヶ谷に勝利している。
佐藤 理吉(さとう りきち、1871年10月19日(明治4年… 佐藤 理吉(さとう りきち、1871年10月19日(明治4年9月6日) - 1959年(昭和34年)11月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山形県最上郡西小国村(現・最上町)出身。1894年、東京専門学校政治科卒。醸造業を営み、最上郡会議員、山形県議、同参事会員、最上郡農会議員、同会長、山形県農会副会長となる。ほか最上酒造(株)取締役社長、最上銀行取締役を務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において山形2区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが、無投票で当選。1936年の第19回衆議院議員総選挙では国民同盟から立候補したが落選した。1959年死去。
高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(… 高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(明治4年9月2日) - 1949年(昭和24年)4月5日)は、日本の社会統計学者、社会運動家。
信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年… 信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和37年(1962年)11月1日)は、日本の外交官・法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)。早稲田大学教授、学士院会員、中華民国顧問等を歴任。1943年学士院恩賜賞受賞、従三位勲一等瑞宝章。 1871年、鳥取県生まれ。父・恕軒には男の子が3人あり、それぞれ寛一郎、淳平、敬造といった。5歳か6歳のときに生母・いとが恕軒と離別した。そのためどういう母親だったかの記憶はない。 旧制鳥取県中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、開成中学校を経て、1894年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年… 本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和27年(1952年)2月18日)は、日本の彫刻家。高知市桂浜で悠然と太平洋の彼方を望んで立つ坂本龍馬の巨大な銅像(総高約15m)は、白雲の代表作である。本名は本山辰吉で「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた[要出典]。 明治4年、辰吉は土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下の侍屋敷に次男として生まれる。父本山茂武(省吾)は、土佐藩家老で宿毛7,000石の領主・伊賀家(安東家)に仕えていた。本山家は、かつて長宗我部氏とも争った家柄であったが、明治維新ののち家禄を奉還し、生活は極めて貧困であった。
中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日(明治4… 中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1946年(昭和21年)1月20日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 山形県出身。中里重威の二男として生れる。山形県中学校、攻玉社を経て、1893年12月、海軍兵学校(20期)を卒業し、少尉候補生として「葛城」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年3月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生として学んだ。 その後、「明石」砲術長、海兵教官などを経て、日露戦争では「橋立」砲術長として出征した。「常磐」砲術長、軍令部参謀、海軍省軍務局員、イギリス駐在、「阿蘇」副長、軍務局員、軍令部参謀、「春日」艦長、「磐手」艦長、軍令部第2班長などを歴任し、1918年(大正7年)12月、海軍少将に進級。
千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年… 千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年8月28日)- 1943年(昭和18年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。陸軍少将、貴族院男爵議員。
添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(… 添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、埼玉県知事、山梨県知事、山形県知事などの要職を歴任した。 小浜県遠敷郡西津村(後の雲浜村西津、現・福井県小浜市)に、旧小浜藩士、福井県大飯郡長[要出典]、滋賀県神崎郡長[要出典]を務めた添田良平の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。東京帝大では一木喜徳郎のもとで学んだ[要出典]。同年7月、内務省に入省し内務属・庶務局地理課勤務となり、同年10月、兵庫県属・内務部第一課勤務に異動。
川口 虎雄(かわぐち とらお、1871年10月4日〈明治4年… 川口 虎雄(かわぐち とらお、1871年10月4日〈明治4年8月20日〉- 1944年〈昭和19年〉5月16日)は、日本の土木工学者・教育者。 福岡県上妻郡津江村(現・八女市津江)に生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館、1892年第五高等中学校工科を経て、1895年帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。 1895年熊本県技手、翌1896年技師となり、国の重要文化財に2004年に指定された旧郡築新地甲号樋門(郡築三番町樋門、熊本県八代市)などを設計している。1900年第五高等学校教授・工学部土木科主任に就任。1905年から2年間アメリカ、フランスに留学してコロンビア大学等で学び、1906年官制改革により第五高等学校工学部から改称された熊本高等工業学校の教授となる。
大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4… 大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4年8月16日) - 1947年(昭和22年)1月11日)は、明治から昭和(戦後初期)にかけての日本の教育者、政治家、実業家、華族(侯爵)である。衆議院議員、貴族院議員、大日本東京野球倶楽部代表取締役会長(初代)、日本職業野球連盟総裁(初代)などを歴任した。また、早稲田大学名誉総長などの名誉職も務めた。大隈重信の養嗣子である。 平戸県平戸(現:長崎県平戸市)の出身。実父は旧平戸藩主松浦詮で、旧名は松浦常(まもる)である。 1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学を卒業後、三井物産に入社する。1902年(明治35年)に大隈重信の養女・光子の婿となり、養子となる。
伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月… 伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月16日(1871年9月30日) - 昭和7年(1932年)8月15日)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。 東京日本橋呉服町(現・中央区)に写真家の北庭筑波の息子として生れる。実家は呉服町の油問屋で、父の北庭は浅草花屋敷で写真館を開いていた。祖父は浄瑠璃宮薗節の2代目宮薗千寿ともいわれる。医学予備校独逸協会などに学び、父の没後は神戸の三井銀行に勤務した。 当時、川上音二郎の「書生芝居」が人気を得ていることに興味を持ち、明治24年(1891年)、「川上一座」に俳優として参加した。間もなく、傲慢だった川上と袂を分かち、芸術的写実的な演劇を目指し、11月、依田学海の援助で浅草の吾妻座を本拠に男女合同改良演劇「済美館」を興した。
高岡 熊雄(たかおか くまお、1871年9月29日(明治4年… 高岡 熊雄(たかおか くまお、1871年9月29日(明治4年8月15日) - 1961年(昭和36年)12月29日)は、日本の農学者・農政学者・農業経済学者。。第3代北海道帝国大学総長。島根県生まれ。 1871年、津和野藩士・高岡道敬の次男として島根県鹿足郡津和野町で生まれた。津和野小学校を卒業後、兄がいた旧制山口中学校に進学し、ここで出会った国木田哲夫(独歩)とは終生の親交を結んだ。その後兄の転勤にともなって転校し、札幌農学校(現・北海道大学農学部)予科に進学。農学校では新渡戸稲造に師事。1895年6月、札幌農学校農学科を卒業した。卒業後は、新渡戸教授のすすめで同校の研究生となった。 1896年7月、母校の札幌農学校農芸伝習科講師に就いた。
境野 哲(さかいの さとる/さとし、明治4年8月12日(18… 境野 哲(さかいの さとる/さとし、明治4年8月12日(1871年9月26日) - 昭和8年(1933年)11月11日)は、日本の仏教史学者・仏教運動家。宗教家(真宗大谷派僧侶)。文学博士。専門は中国仏教史。号は黄洋(こうよう)。境野黄洋の通称で知られる。 宮城県名取郡(現在の仙台市太白区)出身。哲学館(東洋大学の前身)出身。東洋大学教授を務める傍ら、曹洞宗大学(駒澤大学の前身)にも出講。新仏教同志会の中心メンバーであり、雑誌『新仏教』(1900-1915年)発刊に尽力。禁酒・禁煙・廃娼運動を展開。また、明治27年(1894年)には鷲尾順敬や村上専精らと雑誌『仏教史林』を創刊。大正7年(1918年)、東洋大学(哲学館)出身者として初めて、同大学の学長に就任。
杉 精三(すぎ せいぞう、明治4年8月12日〈1871年9月… 杉 精三(すぎ せいぞう、明治4年8月12日〈1871年9月26日〉 - 1954年〈昭和29年〉1月11日)は、日本の逓信官僚、内閣印刷局長。錦鶏間祗候。 現在の山口県防府市に蔵田恂一の長男として生まれ、母方の杉家を継いだ。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。通信事務官、青森郵便局長、高松郵便局長、広島郵便局長、京都郵便局長、名古屋逓信管理局長、航路標識管理局長、西部逓信局長・大阪地方海員審判所長、逓信省経理局長、内閣印刷局長を歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、電信協会に入り、理事を経て、会計部長を務めた。
岡松 参太郎(おかまつ さんたろう、1871年9月23日(明… 岡松 参太郎(おかまつ さんたろう、1871年9月23日(明治4年8月9日) - 1921年(大正10年)12月15日)は、日本の法学者。専門は民法学。学位は、法学博士(1901年)。京都帝国大学法科大学(現在の京都大学法学部)教授。儒学者の岡松甕谷の三男。弟子に末川博など。 宮崎県延岡市出身。東京府尋常中学(のちの東京府立第一中学校)、第一高等学校を経て、明治27年(1894年)に帝国大学法科大学英法科卒業。ただちに助教授に就任し、明治29年(1896年) - 32年(1899年)の間、民法研究のため欧州留学し、民族法学者ヨーゼフ・コーラーらと交流する機会を得た。 明治32年(1899年)、京都帝国大学法科大学教授に就任。
宮木 又七(みやぎ またしち、明治3年9月28日(1870年… 宮木 又七(みやぎ またしち、明治3年9月28日(1870年10月22日) - 1929年(昭和4年)6月14日)は、朝鮮総督府官僚。 山梨県出身。平井家に生まれ、宮木経吉の養子となった。1899年(明治32年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。統監府書記官となり、韓国政府の招聘で仁川税関長となった。1910年(明治43年)からは朝鮮総督府仁川税関長となる。その後、全羅南道長官、同知事を務めた。 退官後は日露実業株式会社社長に就任した。
川添 万寿得(かわぞえ ますえ、1870年10月20日(明治… 川添 万寿得(かわぞえ ますえ、1870年10月20日(明治3年9月26日) - 1938年(昭和13年)7月11日)は日本基督教会の牧師である。 1870年(明治3年)土佐藩士橋本家の2男として高知県江ノ口村(現高知市)に生まれる。その後、叔母の川添家の養子になる。 1888年(明治21年)高知教会で洗礼を受ける。1892年(明治25年)に片岡健吉と共に、上京し明治学院神学部に入学する。 明治学院を卒業後に長野県佐久郡に伝道に行く。1897年(明治30年)按手礼を受けて正式に牧師になる。1902年(明治35年)に渡米し、オーバン神学校(英語版)に留学する。 1905年(明治38年)に帰国して、東京三田四国町に「みくに伝道会」を起こす。
荻野 仲三郎(おぎの なかさぶろう、1870年10月19日(… 荻野 仲三郎(おぎの なかさぶろう、1870年10月19日(明治3年9月25日)– 1947年(昭和22年)5月21日)は、日本の歴史家。 現在の三重県に、荻野彌七の二男として生まれた。第三高等学校(1894年卒業)を経て、1897年7月、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業した。 内務省社寺局寺院課属 などを経て、1903年に東京女子高等師範学校教授となる。 「国宝保存会」・「重要美術品等調査委員会」・「史蹟名勝天然紀念物調査委員会」等の委員を歴任し、古美術保存事業に務めた。大学卒業後は、中学校の教科書(東洋史などの科目)の執筆も行った。また、陽明文庫の理事も務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
石渡 秀吉(いしわた ひできち、1870年10月17日(明治… 石渡 秀吉(いしわた ひできち、1870年10月17日(明治3年9月23日) - 1933年(昭和8年)7月30日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。醸造家。衆議院議員(1期)。神奈川県三浦郡浦賀町長。 石渡真三郎の長男として神奈川県三浦郡大津村(浦賀町を経て現横須賀市)に生まれる。慶應義塾、専修学校などに学び、1892年(明治25年)家業の醤油醸造の販路拡大のためハワイへ渡り、翌年帰朝した。1906年(明治39年)浦賀町会議員に当選し、1922年(大正11年)まで通算3期務めた。1911年(明治44年)三浦郡会議員、同郡会議長を歴任した。1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では神奈川県郡部から無所属で出馬し当選するが、選挙法違反の大審院判決により任期途中の1913年(大正2年)1月27日に辞職した。
佐柳 藤太(さやなぎ とうた、1870年10月14日(明治3… 佐柳 藤太(さやなぎ とうた、1870年10月14日(明治3年9月20日) - 1925年(大正14年)2月24日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、熊本市長、小樽市長。 讃岐国多度郡(後に仲多度郡豊原村、現:多度津町)で生まれる。第三高等学校を経て、1892年、東京法学院(現:中央大学)を卒業。1894年、弁護士試験に合格。1895年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1896年、内務省に入り県治局属となる。 以後、新潟県内務部第一課長、山形県内務部長、福岡県事務官・内務部長などを歴任。 1912年12月、滋賀県知事に就任。1914年4月、千葉県知事に転じた。米作、教育、社会教育の振興に尽した。
横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治… 横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治3年9月20日)- 1947年(昭和22年)4月10日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県邑久郡鶴山村長、同県和気郡日生町長。木堂派として活動した。 備前国邑久郡鶴海村(岡山県邑久郡鶴山村鶴海、備前町を経て現備前市鶴海)で、素封家、酒造業・横山栄蔵の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)を中退し兵役に服し、帰郷して家業の酒造業を手伝った。 その後、分家して果樹園を営みナシ栽培を行う。邑久郡農会長、同郡畜産組合長、岡山県畜産組合連合会副会長、中央畜産会副会頭、帝国馬匹協会理事、岡山酪農販売購買利用組合理事長などを務め、畜産などの農業振興に尽力。
浜田 恒之助(はまだ つねのすけ、1870年10月13日(明… 浜田 恒之助(はまだ つねのすけ、1870年10月13日(明治3年9月19日) - 1945年(昭和20年)4月28日)は、日本の内務官僚。憲政会系府県知事。 土佐国安芸郡奈半利村出身。浜田愚一郎の三男として生まれる。第三高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。内務省に入り内務属として警保局に配属された。 1897年4月、茨城県参事官に就任。以後、山梨県警察部長、石川県警察部長、宮城県警察部長、神奈川県警察部長、奈良県事務官、北海道事務官・第三部長などを歴任。 1910年6月、富山県知事に就任。1915年8月、宮城県知事に転任。
幣原 坦(しではら たいら、1870年10月12日(明治3年… 幣原 坦(しではら たいら、1870年10月12日(明治3年9月18日) - 1953年(昭和28年)6月29日)は、日本の東洋史学者、教育行政官。幼名・徳治郎(とくじろう)。名前の「坦」は「たん」と読まれることもある。 本職は朝鮮史を専攻する歴史家だが、戦前の統治行政・統治教育を推進した官僚、教育者としても知られている。 大阪府北河内郡門真村(現・大阪府門真市)の旧家である幣原家の長男として生まれる。父・新治郎は市川家に生まれ幣原家の婿養子となっている。坦の次弟は後に外交官・政治家として活動し戦後に内閣総理大臣となった幣原喜重郎である。 1882年(明治15年)泊園書院(現・ 関西大学)で漢学を学び、1893年(明治26年)東京帝国大学文科大学国史学科卒業。
木村 鷹太郎(きむら たかたろう、明治3年9月18日〈187… 木村 鷹太郎(きむら たかたろう、明治3年9月18日〈1870年10月12日〉 - 昭和6年〈1931年〉7月18日)は、主に明治・大正期に活動した日本の歴史学者、哲学者、言語学者、思想家、翻訳家。 通称「キムタカ」。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。 1870年(明治3年)9月18日、愛媛県宇和島市に生まれる。 明治学院を経て、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)史学選科課程に入学、後に同学哲学選科課程に転じて1893年7月修了。陸軍士官学校英語教授職等を務める。 1897年(明治30年)に井上哲次郎・湯本武比古らと大日本協会を組織、同年5月に機関誌『日本主義』を創刊し、日本主義を提唱する。
神谷 傳兵衛(2代目)(かみや でんべい、明治3年10月11… 神谷 傳兵衛(2代目)(かみや でんべい、明治3年10月11日(1870年) - 昭和11年(1936年)10月2日)は、山形県山形市旅籠(現在の山形市旅籠町)出身の実業家。襲名の前の名は神谷 傳蔵(伝蔵とも表記される)。 茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの経営者。東京耐火煉瓦株式会社取締役のほか、神谷貿易、神谷醸造の取締役も務め、第四代三河鉄道代表取締役も務めた。 旧姓は小林傳藏。小、中学校を卒業後東京湯島の金原医籍店に勤務(近所でも評判な青年であった)その際、神谷傳兵衛に才能を買われ、金原寅作(当時の社長)も快諾し神谷のワイン作りを手伝う。のちに傳兵衛の婿養子になる。 明治3年10月11日(1870年)、山形市旅篭町に店舗を構える 榮玉堂(現在の栄玉堂)の次男として生まれた。
花岡 次郎(はなおか じろう、1870年10月10日〈明治3… 花岡 次郎(はなおか じろう、1870年10月10日〈明治3年9月16日〉 - 1923年〈大正12年〉9月23日)は、明治から大正時代にかけての日本の実業家・政治家。実業界では小坂善之助の女婿として小坂家の事業に関係し、長野電灯・信濃毎日新聞社長などに就任。政界では長野県会議員や衆議院議員(当選1回)を歴任。 花岡次郎は、明治3年9月16日(新暦:1870年10月10日)、花岡吉左衛門の長男として、信濃国水内郡東条村(後の長野県上水内郡若槻村、現・長野市)に生まれた。花岡家は村の地主で、次郎が12代目にあたる。 1890年(明治23年)に東京専門学校を卒業し、1898年(明治31年)5月に家を継いだ。
松浦 五兵衛(まつうら ごへえ、1870年10月9日〈明治3… 松浦 五兵衛(まつうら ごへえ、1870年10月9日〈明治3年9月15日〉- 1931年〈昭和6年〉3月12日)は、明治から昭和初期の政治家・実業家。衆議院副議長を務めた。旧姓は栗田。 遠江国城東郡沢水加村(現在の菊川市域)で栗田文次郎の二男として生まれる。1892年(明治25年)、東京法学院を卒業。1893年(明治26年)、佐野郡西郷村五明(現在の掛川市域)の松浦家の養子となる。小笠郡会議員、静岡県会議員、同参事会員を歴任。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に静岡県郡部区から立憲政友会所属で出馬し当選。以後、第16回総選挙まで連続10回の当選を果たした。日本製糖汚職事件に連座し、1909年(明治42年)7月3日、有罪判決を受けて衆議院議員を退職。
土方 久徴(ひじかた ひさあきら、明治3年9月14日(187… 土方 久徴(ひじかた ひさあきら、明治3年9月14日(1870年10月8日) - 昭和17年(1942年)8月25日)は、第12代日本銀行総裁。
菊本 直次郎(きくもと なおじろう、1870年10月6日(明… 菊本 直次郎(きくもと なおじろう、1870年10月6日(明治3年9月12日) - 1957年(昭和32年)10月28日)は、日本の実業家。三井銀行取締役会長や寿重工業取締役会長、日本パルプ工業取締役を歴任。松尾芭蕉の研究家としての顔も持つ。 1870年(明治3年)、藤堂家旧臣菊本保有の次男として伊賀国阿拝郡上野萬町(現・三重県伊賀市)に生まれる。 1892年(明治25年)12月、慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)を第一期生として卒業。翌年、三井銀行に入行。 1918年(大正7年)1月、三井銀行常務取締役に就任。 1934年(昭和9年)、三井銀行取締役会長に就任。当時、三井銀行では社長制から会長制へ変わったため、菊本は初代会長となった。
尾崎 元次郎(おざき もとじろう、1870年10月5日(明治… 尾崎 元次郎(おざき もとじろう、1870年10月5日(明治3年9月11日)- 1945年(昭和20年)1月9日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院議員。 現在の静岡県静岡市出身。尾崎伊兵衛の長男。1890年(明治23年)静岡県立尋常中学校を卒業。 日清戦争・日露戦争に従軍し、陸軍歩兵大尉に昇る。退役後、茶業・林業の経営を行い、静岡銀行監査役、静岡地方森林会議員、静岡市奨兵会長、静岡県勧善会理事、静岡市消防組頭などを務める。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙に静岡県静岡市区から出馬し当選。1917年(大正6年)4月の第13回総選挙まで当選し連続3期を務める。政党は中正会、正交倶楽部に所属した。
桜井 小太郎(さくらい こたろう、明治3年9月11日(187… 桜井 小太郎(さくらい こたろう、明治3年9月11日(1870年10月5日) - 昭和28年(1953年)11月11日)は日本の建築家。日本人初の英国公認建築士である。娘の安芸子は穂積八束の長男、重威に嫁いだ。
金田 平兵衛(かねだ へいべえ、1870年10月4日(明治3… 金田 平兵衛(かねだ へいべえ、1870年10月4日(明治3年9月10日)- 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 備後国御調郡宇津戸村(広島県御調郡宇津戸村、世羅郡甲山町を経て現世羅町)出身。1893年、東京法学院卒。農業を営み、宇津戸村長、広島県議、同参事会員、同郡部会副議長、尾道穀物、尾道鉄道、尾道銀行各(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において広島10区から憲政会公認でで立候補して当選した。1924年の第15回衆議院議員総選挙でも再選した。衆議院議員を2期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1938年死去。
木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日〈… 木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日〈明治3年9月10日〉- 1943年〈昭和18年〉9月26日)は、日本の天文学者、理学博士。Z項(木村項)の発見者。恩賜賞 (日本学士院)、英国王立天文学会ゴールドメダル受賞者。 石川県石川郡野村字泉野(現・石川県金沢市泉野町)出身。幼い頃に漢学塾を経営する親戚の木村民衛の養子となり、上山小三郎から数学を学ぶ。この時の学友に西田幾多郎がいる。 幼少期より優秀であった木村は、1880年(明治13年)に県立の石川県専門学校に一番で入学し(但し同校開校は1881年)、1885年に赴任した北条時敬に学んで数学に目覚め、1887年に同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進み、今川覚神より天文学を学んで、1889年に首席で卒業した。
土倉龍治郎(どくら りゅうじろう、1870年(明治3年)10… 土倉龍治郎(どくら りゅうじろう、1870年(明治3年)10月1日 - 1938年(昭和13年)10月15日)、日本の実業家。土倉龍次郎と表記される場合がある。 同志社普通学校卒業の後、台湾に渡る。日本統治下の台湾において林業、樟脳採取事業で成功、また台湾で初めての水力発電会社を設立した。1万ヘクタールの山林を300年租借し、森林開発を行った。樟脳事業では台湾製脳合名会社を設立、大規模な生産に乗り出し、製脳窯は450基・生産従事者は2,000人を超えた。土倉が社長を務めた台北電気は、台湾初の電力会社であったが、水力発電所(亀山発電所(中国語版))を建設中に総督府によって官営化された。官営化後に完成した亀山発電所は出力660馬力というものであった。
石原 初太郎 (いしはら はつたろう、明治3年9月6日(18… 石原 初太郎 (いしはら はつたろう、明治3年9月6日(1870年9月30日) - 昭和6年(1931年)2月25日)は、日本の地質学者。四女の美知子は作家・太宰治の妻となった。 甲斐国(出生翌年の廃藩置県で山梨県巨摩郡大下条村(現・甲斐市))に、父・孫三郎と母・かくの長男として生まれる。 幼少の頃から和漢の書に親しみ、松島小学校(現在・甲斐市立敷島小学校)を終えて徽典館中学校(現在・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校から東京帝国大学理科大学地質学科で地質学を専攻し1897年(明治30年)に大学を卒業した。 卒業後、農商務省東京鉱山監督署、同省鉱山局、盛岡鉱山監督署に勤務し、1898年(明治31年)に「岡木くら」と結婚した。
杉野 喜精(すぎの きせい、明治3年9月6日(1870年9月… 杉野 喜精(すぎの きせい、明治3年9月6日(1870年9月30日) - 昭和14年(1939年)5月2日)は日本の実業家、相場師。山一證券の初代社長や、東京株式取引所理事長を務めた。 1870年東京深川で江戸詰めの津軽藩藩士・納戸役の家に生まれる。翌年父が失職。 東京商業学校(のちの一橋大学)卒業。1889年日本銀行入行、1896年愛知銀行副支配人。 1902年名古屋銀行取締役支配人就任も、日露戦争後のバブル景気の崩壊による戦後恐慌の影響でモラトリアムを余儀なくされ、責任をとり1907年辞職し兜町で株の現物店の八幡屋を開設。 1910年、八幡屋の経営が思わしくなかったところ、小池国三に誘われ小池合資会社入社、七番番頭となる。
今村 鞆(いまむら とも、明治3年9月6日〈1870年9月3… 今村 鞆(いまむら とも、明治3年9月6日〈1870年9月30日〉 - 昭和18年〈1943年〉)は、日本の警察官、在野の朝鮮学者、朝鮮史家。 1870年9月6日、土佐国高岡郡高岡村(現・高知県土佐市)に生まれた。1899年、警視庁警部となり、1903年、警察監獄学校を卒業して岐阜県警部となった。1904年、法政大学専門部法律科を卒業して、1908年に渡韓。 朝鮮半島へ赴任後、忠清北道警察部長となった。1909年、江原道警察部長に転任、ならびに通監部警視。1910年、警務委通監府南部警察署長。1914年より平壌警察署長。1915年からは済州島司兼警察署長兼検事事務取扱となった。職務に当たる一方で、趣味でもあった在地の民俗・風習の採集や聞き取り調査を進めていった。
小村 俊三郎(こむら しゅんざぶろう、 明治3年9月3日(1… 小村 俊三郎(こむら しゅんざぶろう、 明治3年9月3日(1870年9月27日) - 1933年(昭和8年)4月12日)は、日本の外交官、大正・昭和期に言論界で活躍した記者。同時代日本の中国通の第一人者といわれる。中国通の先輩として「小ム俊」の名は知られていた。 小村寿太郎の又従弟である。年少の時に上京し、島田重礼の家塾に学び、続いて小村寿太郎の家に下宿しながら東京高等師範学校に学んだ。学校の教育方針を横議したため退学処分をうけた。1897年(明治30年)3月に高等師範学校から中退した後、私費留学生として北京に派遣した。専ら中国語を修め、袁世凱に招聘され、訳官として勤務の傍ら中国研究に従った。北清事変の際には、日本派遣隊の嘱託となって、青木宣純中佐の下に時文を書く仕事に当たり軍政を助け活躍した。
大西 行礼(おおにし ゆきのり、1870年9月25日(明治3… 大西 行礼(おおにし ゆきのり、1870年9月25日(明治3年9月1日)– 没年不詳)は、日本の実業家、蔵書家。 1870年、香川県の士族、素封家である大西家当主・大西唯一の長男として出生。1874年(明治7年)12月に家督を継ぎ、1893年(明治26年)に明治法律学校(現・明治大学)を卒業した。百十四銀行重役などを務める一方で農業も営み、香川県の高額納税者であった。四国財界の代表者と言われ、四国第1位の資産家であった。また、重要文化財などを含む、多くの和漢の書籍を所有し、日本では稀に見る蔵書家と称された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日… 角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日〈1869年10月20日〉 - 1916年〈大正5年〉3月16日)は、明治時代の詩人、北欧文学者、文芸評論家、新聞記者。本名:角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成して世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遥と並び称された。 新聞社ごとに号や筆名を使い分け、『國民新聞』では岳麓布衣、『大阪朝日新聞』では不二行者、出門一笑、『大阪毎日新聞』では迂鈍居士、鈍右衛門、『読売新聞』では剣南、伊吹郊人、豹子頭、『東京日日新聞』では浩々而歌閣主、他、剣南道士など。 駿河国富士郡大宮町(現・静岡県富士宮市)生まれで旧静岡藩士の家系。佐野天声の実兄である。
藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2… 藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2年9月15日) - 1929年(昭和4年)7月15日)は、明治・大正期の東洋史学者。文学博士。号は剣峰。 阿波国美馬郡郡里村(現・徳島県美馬市)に生まれる。徳島中学校、第三高等学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学文科大学漢文科卒業。 早稲田大学や東洋大学において中国文学史を講じるかたわら、1896年小柳司気太・田岡嶺雲らと東亜学院を創立、「江湖文学」を創刊した。上海に渡り、1898年東文学社を設立、1904年広州では教育事業に協力、1905年蘇州の江蘇師範学堂を設立、1909年北京大学の教習として招聘されるなど中国の教育水準の向上に尽力した。
勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2… 勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2年9月15日〉- 1948年〈昭和23年〉10月10日)は、日本の大蔵官僚、政治家。理財局長、大蔵次官、蔵相、文相、内閣参議を歴任。同郷の俳人・正岡子規や海軍軍人・秋山真之の友人だった。勝田宰州、勝田明庵は俳号。 1869年(明治2年)、伊予国松山一番町(現在の愛媛県松山市)に生まれた。松山藩士・勝田久廉の五男。 勝山学校、伊予尋常中学、一高を経て、1895年(明治28年)に東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省に入省。主税局属。1901年(明治34年)6月の函館税務管理局長兼税関長時代に関税法などの調査のために2年間ヨーロッパに派遣される。
福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - … 福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - 1909年)は、日本の画家、著作家である。 出羽国五十目村(後の秋田県五城目町)の甚助・いへの第二子で長男として生まれる。生家は肝煎などの村役人を務めてきた旧家で、代々薬種商を営み、地主でもあった。幼名は貞助。幼少の頃より文才・画才に秀でて、当初は「瑞稲(ずいとう)」の号を用いて絵を描いていた。12歳のころに名を禎輔と改め、14歳ころからは笑迎の号を名乗っている。 生家が裕福な旧家であったため多くの書画を所有しており、就学前からそれらに親しんだ笑迎は、みずからも絵筆を走らせるようになっていた。師匠はなく、生家所蔵の書画を手本にした独学であったことから、作風には文人画、狩野派、浮世絵の画風が入り交じった独特のものになっている。