井田 文三(いだ ぶんぞう、1853年8月15日〈嘉永6年7… 井田 文三(いだ ぶんぞう、1853年8月15日〈嘉永6年7月11日〉 - 1936年〈昭和11年〉11月11日)は、明治・大正時代の神奈川県の政治家。自由民権運動家として活動し、神奈川県会議員、向丘村長を務めた。武蔵国橘樹郡長尾村(現在の神奈川県川崎市多摩区長尾)出身。 1853年8月15日(嘉永6年7月11日)、武蔵国橘樹郡長尾村(現在の神奈川県川崎市多摩区長尾)の名主・井田勘左衛門の長男として生まれる。井田家は『新編武蔵風土記稿』の長尾村の項に、小田原北条氏の家臣・高橋帯刀を先祖とする百姓太郎兵衛として記載されている。北条氏の滅亡後に長尾に移り、井田に改名したとされる。 21歳のときに長尾村ほか3ヶ村の戸長に選ばれるが、1876年(明治9年)4月17日に辞職する。
森元 いと(もりもと いと、1853年8月15日?〈嘉永6年… 森元 いと(もりもと いと、1853年8月15日?〈嘉永6年7月11日?〉 - 1970年〈昭和45年〉6月7日)は、長寿日本一とされていた兵庫県宍粟郡千種町の女性。ただしその長寿記録は老年学研究者団体ジェロントロジー・リサーチ・グループ (GRG) によって認定されていない。 伯耆国東伯郡上浅津村(その後鳥取県東伯郡浅津村大字上浅津を経て、現湯梨浜町上浅津)生まれ。明治元年、僧侶であった父とともに兵庫県宍粟郡西山村の教福寺に移住した。父が亡くなって以降も西山村(のちに千種町となり、現在では宍粟市の一部)に居住していた。生涯独身であった。 1967年9月役所が古い戸籍の整理を進めていたところ、戸籍の間違いが発覚したとして、1968年3月に明治6年(1873年)生まれから嘉永6年(1853年)生まれと訂正された。
草刈 武八郎(くさかり たけはちろう、1853年8月12日(… 草刈 武八郎(くさかり たけはちろう、1853年8月12日(嘉永6年7月8日)- 1942年(昭和17年)11月1日)は、明治から大正期の地主・実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・川合。 肥前国松浦郡、のちの長崎県北松浦郡山口村(相浦町を経て現佐世保市)で川合小一右衛門の二男として生まれる。平戸藩校・維新館で学び、1869年(明治2年)から平戸藩砲兵塾で学んだ。1871年(明治4年6月)農業、回漕業・草刈太一左衛門の養子となり、1876年(明治9年)6月、家督を相続した。 実業界では、九十九銀行取締役、平戸貯蓄銀行取締役、長崎県農工銀行取締役、相浦銀行監査役などを務めた。 政界では、1879年(明治12年)山口村会議員に就任。
鞍谷 清慎(くらたに きよちか、1853年8月7日(安政3年… 鞍谷 清慎(くらたに きよちか、1853年8月7日(安政3年7月7日) - 1943年(昭和18年)5月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 播磨国明石郡、のちの兵庫県明石郡平野村(神戸市垂水区を経て現・神戸市西区)出身。1884年、東京専門学校政治学科卒。平野村会議員、同村長、兵庫県会議員、徴兵参事員、明石農業(株)社長となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫4区から進歩党公認で立候補したが31票差で落選。同年9月の第6回衆議院議員総選挙で立候補して初当選。1902年の第7回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から憲政本党公認で立候補したが落選。1902年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。
小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年… 小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年8月7日) – 明治44年(1911年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 津軽藩士小山内連司の子として弘前に生まれる。1868年(慶応4年)2月、海岸警備のため平舘に派遣され、翌年には箱館戦争に参加し、旧幕府軍と戦った。1877年(明治10年)、警視局に出仕し、三等少警部心得、警部補、二等警部を歴任したが、ほどなくして辞職した。辞職後は郷里に帰り、北津軽郡相内村に協就社という牧場を開いた。 1884年(明治17年)、県会議員に当選し、1889年(明治22年)には議長に就任した。日清戦争の際には第1師団司令部に属して視察に赴き、実際に戦闘にも参加した。
松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独… 松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独語名: Clara Louise Zitelmann〈クララ・チーテルマン〉、1853年8月2日 - 1931年7月18日)は、ベルリン生まれのドイツ人女性で、明治時代の幼児教育者、音楽教育者(ピアノ奏者)。配偶者は農商務省官吏で林学教育者の松野礀(旧長州藩臣)。 ベルリンにて、Carl Friedrich Zitelmann(父)とEmma Pauline Ulrike (Tangermann) Zitelmann(母)の娘として生まれる。姉はEmma Maria Luise Zitelmann(1847年3月23日生)。 フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校を卒業したとされる。
新井 晴簡(あらい せいかん、1853年7月30日(嘉永6年… 新井 晴簡(あらい せいかん、1853年7月30日(嘉永6年6月25日) - 1906年(明治39年)5月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。フランスに留学した。 豊岡藩士・新井晴景の長男として生まれる。明治3年(1870年)陸軍兵学寮に入り、1873年(明治6年)2月、砲兵少尉に任官。1877年(明治10年)東京鎮台砲兵第1大隊第2小隊長として西南戦争に従軍し、別働第2旅団に所属した。 1890年(明治23年)10月、要塞砲兵幹部練習所長代理となり、要塞砲兵第1連隊長、砲兵第2方面本署長を歴任し、1895年(明治28年)1月、砲兵大佐に昇進。同年2月、臨時徒歩砲兵第1連隊長に発令され日清戦争に従軍した。
安田 勲(やすだ いさお、1853年7月23日(嘉永6年6月… 安田 勲(やすだ いさお、1853年7月23日(嘉永6年6月18日)- 1916年(大正5年)6月9日)は、明治から大正初期の畜産家・政治家。衆議院議員、千葉県長狭郡大山村長。 安房国長狭郡平塚村(千葉県長狭郡大山村平塚、安房郡大山村、長狭町を経て現鴨川市平塚)で安田栄存の長男として生まれる。3歳で母を失い祖母に養育された。嶺田楓江から学び、その後上京し岡鹿門に師事して漢学を修めた。洋学を志し、1871年(明治4年)慶應義塾に入り政治学、経済学などを学んだ。 1876年(明治9年)帰郷し、第二大区区会議員に就任し、1877年(明治10年)第二大区の代議員(千葉県代議人)に当選し千葉県会に出席した。
飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月2… 飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月21日(嘉永5年7月7日)- 1923年(大正12年)9月18日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡日高村長。 越後国刈羽郡新道村、のちの新潟県刈羽郡日高村(高田村を経て現柏崎市新道)で、大地主・飯塚弥兵衛の長男として生れた。藍澤南城の三余堂学寮で漢学、洋学を学んだ。1868年(明治元年6月)に家督を相続。農業を営む。 実業界などでは、1882年(明治15年)1月、第百三十九国立銀行取締役に就任。その他、同行監査役、日本石油監査役、柏崎銀行取締役、同頭取、柏崎米穀取引所理事、北浜酒造監査役、北越植民監査役、日本赤十字社特別会員、帝国義勇艦隊名誉会員、恩賜財団済生会名誉会員などを務めた。
大沢 謙二(おおさわ けんじ、嘉永5年7月3日〈1852年8… 大沢 謙二(おおさわ けんじ、嘉永5年7月3日〈1852年8月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉1月10日)は、日本の医師。貴族院勅選議員。医学博士。 三河国宝飯郡当古村(現在の愛知県豊川市当古町)に神職・大林美濃の四男として生まれ、三河吉田藩の侍医・大沢玄竜の養子となった。東京の医学所で医学を学んだ後、1870年(明治3年)にドイツ留学を命じられ、ベルリン大学で学んだ。帰国後、東京医学校教授に就任したが、1878年(明治11年)に辞職して、自費で再びドイツに留学し、シュトラスブルク大学で医学博士の称号を得た。 1882年(明治15年)に帰国後、東京大学医学部教授となり、1886年(明治19年)には東京帝国大学医科大学教頭に就任した。
藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8… 藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8月10日) - 明治25年(1892年)8月19日)は、日本の新聞記者、政治家。旧姓は林、号は鶴谷山人・九皐外史・鳴鶴居士・聞天楼主人・翠嵐生。衆議院議員。 豊後国海部郡佐伯(現在の大分県佐伯市)の城下町で佐伯藩のお抱え水主の子として生まれた。慶應義塾(現在の慶應義塾大学)出身で福澤諭吉の弟子。郵便報知新聞社に入社し、新聞の主筆となる。立憲改進党に参加。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬し当選。その後、第2回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算二期務めた。 その他、日本橋区会議員、同議長、同衛生会長、東京府会議員、同区部会議長などを歴任。
十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8… 十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8月9日(嘉永5年6月24日) - 1924年(大正13年)8月12日)は、 明治大正期の企業家。三重県四日市市出身の三重紡績創設者で第2代東洋紡績株式会社社長。三岐鉄道建設に私費を投じて沿線に小野田セメントを誘致した四日市市名誉市民の十一代目伊藤伝七は息子(養子)である。 伊勢国三重郡室山村(現在の三重県四日市市四郷地区)の酒造業の伊藤家に生まれる。母は進士みす。幼名は伊藤清太郎。江戸時代の幕末期に元服して伊藤伝一郎。1883年(明治16年)に父の9代目伊藤伝七が亡くなり、伊藤伝七(10代目)を襲名した。 1879年(明治12年)5月60歳で没した稀代の製糸王伊藤小左衛門 (5代目)の遺志を継いだのは、製糸頭の伊藤小十郎(伊藤小左衛門5代目の子)と、後に紡績王と称される伊藤伝一郎(伊藤伝七10代目、後の伊藤伝七知周)の2人であった。
北田 豊三郎(きただ とよさぶろう、嘉永5年6月20日(18… 北田 豊三郎(きただ とよさぶろう、嘉永5年6月20日(1852年8月5日) - 大正14年(1925年)1月25日)は、堺市長、衆議院議員。 和泉国堺出身。1874年(明治7年)より、副戸長、学区取締、学区取締幹事、戸長、和泉郡・大鳥郡書記を歴任した。1881年(明治14年)、大阪府会議員に当選し、1891年(明治24年)には副議長、1892年(明治25年)には議長に就任した。また1889年(明治22年)には堺市会議員に当選し、議長に選出されている。 1893年(明治26年)、堺市長に就任。学校建設、商品陳列所・米穀取引所設立に尽力した。1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
野溝 甚四郎(のみぞ じんしろう、1852年8月5日〈嘉永5… 野溝 甚四郎(のみぞ じんしろう、1852年8月5日〈嘉永5年6月20日〉 - 1928年〈昭和3年〉9月24日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍歩兵大佐。正五位勲三等功四級。 特記のない場合『旧岡藩勤王家略伝』による
千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(185… 千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(1852年8月2日) - 明治16年(1883年)11月13日)は、日本の教育者、自由民権運動家。私擬憲法「日本帝国憲法」(通称:五日市憲法)の起草者として知られる。 1852年(嘉永5年6月17日)8月2日、仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村(現・宮城県栗原市志波姫、北緯38度46分35.1秒 東経141度5分55.7秒)に仙台藩の下級士族である千葉宅之丞と妾のちかの長男として生まれる。3歳のときに母親が千葉家を去り、義母に育てられる。11歳で仙台藩藩校・養賢堂(北緯38度16分6秒 東経140度52分16秒 / 北緯38.26833度 東経140.87111度 / 38.26833; 140.87111 (仙台藩藩校・明倫養賢堂(跡地は宮城県議会議事堂)))にて大槻磐渓に師事。
梅浦 精一(うめうら せいいち、嘉永5年6月13日(1852… 梅浦 精一(うめうら せいいち、嘉永5年6月13日(1852年7月29日) - 1912年(明治45年)3月17日)は明治時代の実業家。越後国長岡出身。大蔵省紙幣寮、新潟県立新潟学校教頭、内務省勧業寮を経て、東京商法会議所書記長、石川島造船所専務取締役。日本初の銀行簿記書『銀行簿記精法』訳者。 嘉永5年(1852年)6月13日越後国長岡の医家に生まれた。幼名は敬助。10歳で刈羽郡南鯖石村三余塾藍沢南城に漢学を学び、13歳で長岡藩医山田到処にオランダ語初歩を学んだ。 1868年(明治元年)江戸に遊学して石井謙道に西洋医学を学び、学資が不足すると学友原田豊、岡玄卿の助けで開業医溝部有山の助手兼家僕となったが、結局医学を断念した。
海江田 平治(かいえだ / かえだ へいじ、1852年7月2… 海江田 平治(かいえだ / かえだ へいじ、1852年7月26日(嘉永5年6月10日) - 1913年(大正2年)7月22日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 廻船問屋「かねひら」の当主海江田平右衛門の長男として薩摩鹿児島藩領日置郡市来郷湊村東町(西市来村、市来町を経て現いちき串木野市)に生まれる。家督を継いだ後、1895年(明治28年)西市来村の第3代村長に就任した。商家の子弟教育のための共立学舎の創設に尽力した。 1897年(明治30年)鹿児島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
谷沢 竜蔵(たにざわ りゅうぞう、嘉永5年6月10日(185… 谷沢 竜蔵(たにざわ りゅうぞう、嘉永5年6月10日(1852年7月26日) - 大正7年(1918年)4月1日)は、衆議院議員(立憲革新党→山下倶楽部→帝国党→大同倶楽部)、弁護士。 若狭国遠敷郡西津村(現在の福井県小浜市)に小浜藩士渡辺瀬平の二男として生まれ、谷沢氏の養子となった。小浜藩校で学んでいたが、1868年(明治元年)に貢進生に選ばれ、東京に遊学して法学・経済学を学んだ。1871年(明治4年)、廃藩置県により小浜藩が廃止され、敦賀県が設置されると郷里に帰った。1876年(明治9年)に代言人規則が制定されると、免許を受けて事務所を開いた。同年、敦賀県が廃止され滋賀県に編入されると大津に事務所を移し、1880年(明治13年)より大津代言人組合会長を務めた。
小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1851年8月8日(… 小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1851年8月8日(嘉永4年7月12日) - 1929年(昭和4年)8月27日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員(1期)。 下野国都賀郡日光(栃木県下都賀郡日光町を経て現日光市)出身。漢学を学ぶ。主に外国人を相手とする美術貿易商を営み、日光町会議員、栃木県会議員となる。豊富な財力と人脈を有していた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において栃木県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。 1905年頃から訪日外国人旅行者を対象とする「大名ホテル」の建設を進め、1919年頃に建物が完成したが、ホテルの開業には至らなかった。
伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月2… 伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月27日(嘉永4年6月29日) - 1917年(大正6年)5月3日)は、日本の教育者、文部官僚。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者である。号は楽石。 信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。幼名は八弥。父は20俵2人扶持の低禄の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった(事実上1年4人で分け与えなけければならないこととなっている)。 1861年(文久1年)から藩校進徳館で学び、1867年(慶応3年)に江戸へ出府。ジョン万次郎に英語を学ぶ。万次郎が欧米に出張すると、1869年(明治2年)に築地に転居したアメリカ合衆国長老教会の宣教師カラゾルスから英語を学ぶ。
山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年… 山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年8月12日) - 明治39年(1906年)11月15日)は、明治時代の日本の洋画家、版画家である。 嘉永3年(1850年)、美濃恵那郡明智村野志(現在の岐阜県恵那市)で農業と養蚕を営む山本権八の長男として生まれる。本名は為蔵、為之助、為治(次)郎。 既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写したと、後年芳翠は回想している。慶応元年(1865年)15歳の時ふと手にとった『北斎漫画』に啓発されて画家を志す。始めは京都において、小田海僊の門人久保田雪江に南画を学ぶ。そのうち、本当に南宗画を勉強するため中国に行こうと、明治4年(1872年)頃に横浜に出てくる。
関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永… 関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永3年7月5日) - 1912年(明治45年)1月21日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 木村寿山の子として水戸城下に生まれ、1870年(明治3年)常陸国信太郡鳩崎村(茨城県信太郡鳩崎村、稲敷郡鳩崎村、江戸崎町を経て現稲敷市)の先代・関口八兵衛の養子となり家督を相続する。漢学を修めた。1882年(明治15年)鳩崎村外2箇村戸長となり、1884年(明治17年)同職を辞し、翌年の1885年(明治18年)茨城県会議員に当選するが辞退した。醤油醸造業に従事する傍ら、1888年(明治21年)為替回漕会社を江戸崎町に興し、1889年(明治22年)には煉瓦製造場を設立した。
田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(185… 田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(1850年8月6日) - 大正12年(1923年)8月15日)は、日本の経済学者・政治家・官僚。元東京市長。専修学校(専修大学の前身)の創始者の一人である。子爵。
岡崎 運兵衛(おかざき うんべえ、1850年8月5日(嘉永3… 岡崎 運兵衛(おかざき うんべえ、1850年8月5日(嘉永3年6月28日)- 1919年(大正8年)12月17日)は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・高橋、幼名・権作、雅号・雲隣。 出雲国神門郡稗原村(現島根県出雲市)で、豪農・高橋佐十郎の二男として生まれ、10歳で松江堅町の豪商・先代岡崎運兵衛の養子となる。江戸の昌平坂学問所で学び、帰郷後、藩儒・澤野修輔、中村守手などに師事し、さらに南画を天野漱石に学んだ。慶応3年(1867年)養父の死去に伴い18歳で家督を継承し、運兵衛を襲名した。 維新後、自由民権運動に加わり自由党に入党。松江町会議員、松江市会議員、同議長、島根県会議員、同副議長、同議長を歴任。
三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6… 三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6月15日)- 1917年(大正6年)9月17日)は、明治から大正前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、四日市市会議長。 伊勢国三重郡浜田村(三重県三重郡四日市町浜田を経て現四日市市)で、大地主、酒造業・三輪嘉平(嘉左衛門)の長男として生まれる。堀木恥堂から漢籍を学んだ。酒造業、肥料商を営む。 1886年(明治19年)頃、三重県酒造改良協会の設立を主導し、専門技術者を招聘して醸造術の近代化を図り、酒造法の改善に貢献した。また、四日市米穀取引所、四日市銀行の設立に尽力し、取引所理事長、銀行2代頭取を務めた。その他、関西鉄道監査役、三重県人造肥料監査役、三重土木取締役、四日市倉庫重役、四日市商業会議所役員なども務めた。
塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永… 塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永2年6月20日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家、篤農家、長野県の大地主、長野県多額納税者。佐久銀行監査役。族籍は長野県平民。 長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)出身。長野県平民・塩川幸左衛門の長男。阿部四之助、塩川幸太、塩川賢三、塩川三四郎の叔父である。農業を営み、大地主である。1887年、家督を相続する。佐久銀行監査役である。住所は長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6… 古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6月18日) - 1910年(明治43年)1月5日)は、明治時代の政治家、大地主、岐阜県多額納税者。衆議院議員(岐阜県郡部選出、当選1回)。岐阜県恵那郡大井村長、大井町長。族籍は岐阜県平民。 美濃国恵那郡、のちの岐阜県恵那郡大井町(現恵那市)に生まれる。尾張明倫堂に入り、漢学を学ぶ。 農業を営み、学区取締、恵那郡書記、岐阜県会議員、大井村長、大井町長などを務めた。 1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。中正倶楽部に所属した。
10代 桜井 三郎右衛門(櫻井 三郎右衛門、さくらい さぶろ… 10代 桜井 三郎右衛門(櫻井 三郎右衛門、さくらい さぶろうえもん、1849年7月31日〈嘉永2年6月12日〉 - 1908年〈明治41年〉1月27日)は明治時代の政治家、実業家、島根県の大地主。貴族院多額納税者議員。旧姓は神田。諱は直達。族籍は島根県平民。 出雲国神門郡下古志村(現・島根県出雲市下古志町)出身。神田猪蔵の三男。仁多郡上阿井村(現・奥出雲町上阿井)・桜井源兵衛の養子となる。 家業の製鉄は明治10年代に入ると、洋鉄の流入その他により経営が次第に苦しくなり、秦、絲原、田部の各鉄師と連盟して島根県に対して鉄山炉の経営資金拝借方を願い出たが、聞き入れられなかった。これにくじけず、施設の近代化に努力し地方製鉄業の模範となる改革を行う。
小川 又次(おがわ またじ、嘉永元年7月24日(1848年8… 小川 又次(おがわ またじ、嘉永元年7月24日(1848年8月22日) - 明治42年(1909年)10月20日)は、明治時代の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。幼名、助太郎。諱は長利。 小倉藩士・小川兼宣の長男。幼名は助太郎。江川塾で学んだ後、小倉藩士として長州征討に出征した。 明治3年(1870年)7月、兵学寮生徒となる。明治4年(1871年)1月、権曹長心得となり、少尉心得を経て、明治5年(1872年)2月に少尉に昇進。1874年(明治7年)4月、台湾征討軍に従軍。1875年(明治8年)1月、東京鎮台歩兵第1連隊付となる。1876年(明治9年)4月、歩兵第13連隊大隊長に就任し、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征。
磯風 音次郎(いそかぜ おとじろう、嘉永元年7月20日(18… 磯風 音次郎(いそかぜ おとじろう、嘉永元年7月20日(1848年8月18日) - 明治35年(1902年)6月7日)は、明治時代初期の力士、本名西村 長兵衛。180cm、139kg。 磯風音次郎は、近江滋賀郡松本村(現滋賀県大津市)に生まれ、本名は西村長兵衛と言った。浜大津で沖仲仕をしながら素人相撲を取っていた。沖仲士としてある藩の御用金を運送中に粟津原(現滋賀県大津市晴嵐付近)で追剥に奪われ訴え出たところ、逆に役人が同業の者が遊ぶ金に使ったのだろうと疑われ、立派な力士になって見返してやろうと決意したと伝えられる。 明治元年(1868年)頃に京都の初島七蔵に弟子入りし西の大関となる。明治16年(1883年)東京で幕内格番付外、翌年客席(三役格)で場所をつとめ明治20年(1887年)頃横綱を自称したとされるが、明治23年(1890年)吉田司家から巡業横綱を許された。
南条 新六郎(なんじょう しんろくろう、嘉永元年7月7日〈1… 南条 新六郎(なんじょう しんろくろう、嘉永元年7月7日〈1848年8月5日〉 - 1920年〈大正9年〉10月7日)は、日本の実業家、名望家。第四十国立銀行頭取や、日本製粉社長を務めた。 上野国で館林藩家老の岡谷瑳磨介の第3子として生まれ、のちに同藩の南條源太左衛門の養子となる。御番頭支配中小姓、半隊司令士、歩卒隊長を経て1871年中尉に任命される。退官後、大蔵省銀行局の簿記学講習所(のちの高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校)で学ぶ。同窓にのちにともに日本製粉設立に参画した旧館林藩士の笠原圓蔵がいた。 1878年に館林町で群馬県初の銀行である第四十国立銀行を設立し、1891年に頭取に就任した。
相馬 一郎(そうま いちろう、1848年7月23日(嘉永元年… 相馬 一郎(そうま いちろう、1848年7月23日(嘉永元年6月23日)- 1929年(昭和4年)11月22日)は、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県北蒲原郡五十公野村長。 越後国蒲原郡新発田(新潟県北蒲原郡新発田町を経て現新発田市)で、相馬善右衛門、よし の長男として生まれる。農業を営む。 用掛小区長、副大区長、学務委員、五十公野村長、北蒲原郡会議員、同議長、新潟県会議員、同副議長などを務めた。憲政本党に所属していたが、1901年(明治34年)の増税案に対して党議と意見が不一致のため離党し、同志と共に新潟進歩党を組織した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に新潟県郡部から同志倶楽部所属で出馬して初当選。
古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘… 古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘化4年7月11日)- 1914年(大正3年)11月3日)は、幕末の平戸藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国松浦郡平戸村(長崎県北松浦郡平戸村、平戸町を経て現平戸市)で、平戸藩士・吉川右衛門兵衛の長男として生まれる。藩儒の平田貞次郎、楠本瑞山らから漢学を学んだ。慶応2年(1866年)藩校維新館学員に就任。王政復古の際には藩主松浦詮に従って京都に滞在し、明治2年(1869年)藩主の近侍職となった。 廃藩置県後は実業界に転じた。1885年(明治18年)平戸士族授産生産社副社長に就任し、その後同社長に就任。1887年(明治20年)第九十九銀行(現十八親和銀行)取締役頭取に就任し、1902年(明治35年)7月、同頭取を退任。
月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8… 月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8月7日) - 明治27年(1894年)1月8日)は、江戸時代末期の福岡藩士、明治時代の官僚。北海道樺戸集治監典獄、樺戸・雨竜・上川三郡郡長として北海道開拓に携わる。樺戸郡月形町の町名は彼の姓に由来している。 弘化4年(1847年)、筑前国遠賀郡中底井野村(現福岡県中間市中底井野)で旭迎堂を開いていた儒学者でもある福岡藩士月形健(春耕)と伊藤常足の門人の宮崎省庵の娘の竹との間に生まれ、直吉と名付けられる。 嘉永3年(1850年)鞍手郡植木村(現福岡県直方市)に伯父(父の長兄)の月形深蔵(漪嵐)が隠居して教授所を開き、直吉は深蔵の元に足しげく通い、朱子学や剣術を学ぶ。
飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年… 飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年8月5日〉 - 1923年〈大正12年〉8月27日)は、日本の鉄道の父といわれる井上勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者である。山口県萩市出身。元長州藩士。 萩藩大組飯田家の子として生まれた。はじめは吉次郎といった。 藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰・大村益次郎らに師事する。1864年、高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。 1867年(慶応3年)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学した(この時飯田と共に派遣されたのが、松下村塾時代の同期生でもあった渡辺蒿蔵)。帰国後、工部省鉄道局に入局。 1877年(明治10年)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された工技生養成所で教鞭を執り、多くの日本人技術者らを育て上げる。
市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年… 市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年6月23日) - 1927年(昭和2年)7月30日)は、明治時代のロシア語通訳、外交官、教育家。幼名は秀太郎。 1847年、広島藩士・市川兼恭の長男として江戸神田新白銀町で生まれる。1860年(安政7年)、蕃書調所の仏学稽古人となり、1864年(元治元年)、開成所の仏学科教授手伝並に任ぜられた。 かねてより駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは幕府にロシアへ留学生を送ることを提案していた。1865年(慶応元年)、幕府は提案を採り上げ、遣露留学生を送ることを決定。当時開成所教授で、ロシアとロシア語に関心を持っていた父の推薦で留学生に選ばれた。
10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29… 10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29日(弘化4年6月18日)- 1904年(明治37年)10月20日)は、日本の実業家・慈善家。総合建設会社(ゼネコン)の佐藤工業株式会社創業者。富山県砺波郡柳瀬(現砺波市)生まれ。多くの橋の架設に私費を投じ、又、本願寺富山別院が焼失した際、2ヵ月後に「蓮如上人400回忌法要」という大行事を控えていた本願寺の為に結果的に無償で昼夜突貫で再建した。 1500年代の佐藤家の祖佐藤助左衛門から数えて9代目佐藤助九郎の子で、名は10代目貞次であるが、佐藤工業の創業者、初代助九郎と称している。 貞次は近郷に並ぶ者のない豪力と胆力の優れた父の資質を受け継ぎ、相撲・盤持ちなどを得意とし“力持ち貞次”といわれた。
松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日〈弘化… 松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日〈弘化3年6月23日〉- 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の司法官僚・政治家。徳島県板野郡上板町七条出身。位階・勲等・爵位は贈従一位勲一等男爵。検事総長、農商務大臣、貴族院議員。日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長。幼名は毅之進、のち康毅。 検事総長や農相を歴任。学問的遺業の中には拷問制度の廃止と裁判所構成法を中心とする訴訟制度近代化の提唱が特筆されている。 山田顕義の死後、廃校決議まであった日本法律学校を立て直し、30年間にわたり日本大学の発展に寄与し、同学の礎を築いた。
森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月1… 森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月16日〉 - 1908年〈明治41年〉12月31日)は、日本の政治家。山形県南村山郡東村長。山形県会議員。 現在の上山市菖蒲出身。森作右衛門の長男として出生。1891年(明治24年)5月18日に南村山郡会議員選挙に東村選挙区から立候補して、当選。その後、1893年(明治26年)、1897年(明治30年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)、1907年(明治40年)の選挙でも当選した。 1899年(明治32年)9月25日に山形県会議員総選挙に南村山郡選挙区から憲政党公認で立候補して、当選を果たした。1903年(明治36年)は立憲政友会公認で立候補して、再選を果たした。
池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘… 池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘化3年6月1日)- 1921年(大正10年)9月13日)は、明治期のジャーナリスト、農業経営者、政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡上村長。 肥後国玉名郡上小田村(熊本県玉名郡上小田村、小田村を経て現玉名市上小田)で、医師・池松玄操の二男として生まれた。 明治の初めころに東京に出て自由民権運動に加わる。1875年(明治8年)評論新聞が創刊され、記者となる。西南戦争後に帰郷し、民権活動家に呼びかけ1878年(明治11年)5月、民権結社・相愛社を組織し社長に就任。1881年(明治14年)7月、その機関紙「東肥新報」発刊して民権思想を広めた。1882年(明治15年)2月、相愛社は実学党と公議政党を形成し、その後、九州改進党となった。
立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日… 立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日(弘化2年7月19日) - 1907年(明治40年)3月6日)は、幕末の桑名藩士、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。 実父は桑名藩士(江戸詰め、200石)の町田伝太夫。桑名藩士・立見尚志の養子となった。松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られる。藩校立教館、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。 藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。その後幕府陸軍に出向。歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。フランス教官をして「立見は天成の軍人である。
長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm N… 長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm Nagayoshi Nagai, Nagajosi Nagai、1845年7月24日〈弘化2年6月20日〉- 1929年〈昭和4年〉2月10日)は、日本の薬学者、化学者、教育者。東京帝国大学名誉教授。日本薬学会初代会頭、大日本製薬技師長。日独協会理事長。帝国学士院会員。学位は哲学博士(ベルリン大学)、理学博士(明治天皇勅令)、薬学博士(明治天皇勅令)。名は直安、長吉。号は朴堂。ドイツ名はヴィルヘルム(Wilhelm)。エフェドリンの発見者、メタンフェタミンの合成者。 弘化2年6月20日(1845年7月24日)、阿波国名東郡常三島村薙刀丁(現:徳島県徳島市中常三島町2丁目)に、長井琳章と田鶴子の長子として生まれた。
陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8… 陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8月20日〉- 明治30年〈1897年〉8月24日)は、日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。「カミソリ大臣」とも呼ばれた。 版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正、議会の先駆けである元老院の設立に多大な影響を与え、第1次山縣有朋内閣では農商務大臣として第1回帝国議会を成功させる支柱となった。外務大臣としては幕末期以降に結ばれていた全15か国の不平等条約(領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部を回復)改正に成功した。日清戦争において陸奥外交と呼ばれる外交を行い、戦中・戦後処理に尽力し、三国干渉を日本の有利な形で収まるように立ち回った。
岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7… 岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7月7日〉- 1908年〈明治41年〉12月12日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、華族。正二位勲一等功二級子爵。 長州藩士岡沢甚内の子として萩に生まれる。1862年(文久2年)以降は江戸の長州藩邸に滞在しながら京都を往来し、文久の政変に巻き込まれたこともあった。大村益次郎の塾に学んだ後は尊皇攘夷運動に携わる。南国隊を組織し戊辰戦争に従軍した。 維新後は陸軍に進み、1870年(明治3年)10月に大坂第2教導隊に入営。1871年(明治4年)2月に四等軍曹、4月に御親兵大隊長、6月3日には陸軍准中尉となり、さらに同年中には中尉・大尉・少佐と昇任した。
堀内 利国(ほりうち としくに、1844年8月19日(天保1… 堀内 利国(ほりうち としくに、1844年8月19日(天保15年7月6日) - 1895年(明治28年)6月18日)は日本陸軍の軍医。明治前半に熊本や大阪鎮台病院長などを務めた。当時の日本は脚気の流行が問題になっていたが、堀内利国は大阪鎮台において兵食を白米から麦飯に変えることで兵士の脚気をほとんどゼロになるまで減らし、脚気が麦飯で予防できることを日本で初めて実験的に証明した。 明治3年(1870年)に日本で初めての陸軍病院が大阪に設置され、堀内利国は軍事病院医官となった。堀内は軍事病院の外人教師・オランダ人医師ブッケンから医学を学んだ。日本に徴兵制が敷かれて地方から大阪に集まってくる兵が増えるにつれて、軍隊の中で脚気患者が目に見えて増大するようになった。
弘田 琢磨(ひろた たくま、1843年8月7日(天保14年7… 弘田 琢磨(ひろた たくま、1843年8月7日(天保14年7月12日) - 1920年(大正9年)2月12日)は、明治時代の教育家。 土佐国高岡郡押岡村(現:高知県須崎市)に生まれる。父は高知藩士の弘田潤造。 真面目な性格で、特に武技を好み激剣柔道の奥義を究めた。少壮藩に謹志して藩士の鼓舞教導に努めた。 戊辰戦争に従軍し、廃藩置県後、県立高知中学校が創立した際には教師となって漢文を教えた。厳格でよく生徒を諭し、多くの生徒から敬慕されていた。また、郷里の為に基金を投じ、学校を設立して子どもたちの教育に力を注いでいた。 山河を開拓して公園を作るなど公共事業に大きく貢献した。村町の人たちはこれを讃えて弘田公園と呼んだ。
大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ、184… 大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ、1842年8月20日〈天保13年7月15日〉- 1905年〈明治38年〉4月8日)は、 日本の政治家。司法大臣(第9代)、衆議院議員(7期)を務めた。元は小西姓。父は小西新左衛門。通称、近江西郷。 彦根藩士で足軽の小西貞徹の次男として生まれる。幼名を寛蔵。 戊辰戦争に従軍し武功を立てた。戸籍編成の際、姓を小西から大東に改めた。廃藩置県後、司法省に入り、権少判事となる。明治六年政変(征韓論政変)の際に下野し、1877年(明治10年)の西南戦争の勃発後に代言人仲間だった有馬藤太らとともに大阪で警察に拘束されるが、後に放免となる。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に滋賀郡部から立候補し初当選。
長岡 安平(ながおか やすへい、1842年8月10日(天保1… 長岡 安平(ながおか やすへい、1842年8月10日(天保13年7月5日) - 1925年(大正14年)12月20日)は、日本の造園家、作庭家。また茶人で、「祖庭」と号した。日本人初の公園デザイナー。 明治初期から大正にかけて東京府の公園係長などとして活躍。数々の名園を生み出した。明治年代から大正初期に至る間の造園技術の第一人者、また公園行政官のパイオニア。日本の近代公園の先駆者。 1842年(天保13年)肥前大村藩士として大村城下に生まれる。小さい頃から病弱だったため、藩士の子息に課された武芸等は嗜まず、そのためもっぱら動植物を好み、飼育や栽培等といった方面に才を見出していたという。 1870年(明治3年)郷土の先輩である楠本正隆に従って上京、1872年(明治5年)楠本が新潟県令に就任すると彼に従って新潟に赴く。
磯辺 包義(いそべ かねよし、1842年7月30日(天保13… 磯辺 包義(いそべ かねよし、1842年7月30日(天保13年6月23日) - 1917年(大正6年)6月4日)は、明治から大正時代前期の大日本帝国海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。貴族院勅選議員。幼名は虎之助。 熊本藩士磯辺謙叟の長男として、豊後国大分郡鶴崎村(鶴崎町、鶴崎市を経て、現在の大分市鶴崎)に生まれる。1856年(安政3年)5月、家督を相続する。のち本籍を東京府に置いた。幼年より海軍を志し、1868年(明治元年)「摂津艦」乗組となり、翌年艦長代理に進んだ。ついで「飛龍丸」艦長を経て、1871年(明治4年)海軍大尉に進み、「千代田形」艦長となる。間もなく「第一丁卯」艦長に転じ、1873年(明治6年)「大坂丸」艦長を経て、1874年(明治7年)4月、少佐に進んだ。
相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保1… 相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保12年6月23日〉- 1911年〈明治44年〉4月1日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。官位は従二位勲一等功三級男爵。旧名は忠一郎。 佐賀藩士相浦蕃慎の長男として生れる。藩校・弘道館で学び、佐賀藩海軍に入り、戊辰戦争に従軍。 1869年(明治2年)、「延年艦」副長となり、「長鯨丸」「飛隼丸」の各船長、「日進」乗組などを歴任。1871年(明治4年)、海軍大尉に任官。「摂津艦」「雲揚」「龍驤艦」の各艦長などを歴任。1873年(明治6年)3月、水路寮出仕、水路寮測量課長、海軍兵学校次長などを務めた。 1879年(明治12年)9月、現場に復帰し「筑波」艦長となり、以後、「金剛」「扶桑」の各艦長を経て、1885年(明治18年)12月に海軍少将となる。