浅原 才市(あさはら さいち、1850年4月2日(嘉永3年2… 浅原 才市(あさはら さいち、1850年4月2日(嘉永3年2月20日) - 1932年(昭和7年)1月17日)は、浄土真宗の妙好人のひとり。石見の才市と呼ばれる。「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介された。
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浅原 才市(あさはら さいち、1850年4月2日(嘉永3年2… 浅原 才市(あさはら さいち、1850年4月2日(嘉永3年2月20日) - 1932年(昭和7年)1月17日)は、浄土真宗の妙好人のひとり。石見の才市と呼ばれる。「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介された。
湯浅 貞太郎(湯淺、ゆあさ さだたろう、1850年3月30日… 湯浅 貞太郎(湯淺、ゆあさ さだたろう、1850年3月30日(嘉永3年2月17日)- 1911年(明治44年)8月16日)は、日本の政治家。衆議院議員、徳島県勝浦郡小松島町長。 阿波国勝浦郡田野村(現徳島県小松島市田野町)で、庄屋湯浅家・4代佐平次の長男として生まれる。私塾で学び、漢学、剣術、馬術を修めた。 徳島藩主蜂須賀家の家債整理について尽力した。1870年4月(明治3年3月)勝浦郡四番里長に就任し、以後、同郡第二小区用係、学校世話係、地租改正委員総代を歴任。徳島県が高知県に属していた1879年(明治12年)1月から名東郡、勝浦郡各書記を務めた。 1882年(明治15年)に結成された立憲改進党に参加。
清浦 奎吾(きようら けいご、旧字体: 淸浦 奎吾、1850… 清浦 奎吾(きようら けいご、旧字体: 淸浦 奎吾、1850年3月27日〈嘉永3年2月14日〉- 1942年〈昭和17年〉11月5日)は、日本の官僚、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓大久保(おおくぼ)。 肥後(現在の熊本県)出身。司法・内務官僚として活躍した後に貴族院議員となり、官界や貴族院に大きな影響力を持った。その後、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長を歴任。 1924年(大正13年)に第23代内閣総理大臣として組閣したが、超然主義との批判を受け、選挙に大敗したため5か月で総辞職した。その後は重臣として国事に関与した。 嘉永3年(1850年)2月14日、肥後国山鹿郡上御宇田村(現:山鹿市鹿本町来民)の明照寺(浄土真宗本願寺派)住職・大久保了思の五男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。
角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年… 角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年2月12日) - 1905年(明治38年)12月13日)は、日本の武士(会津藩士)、海軍軍人。最終階級は海軍中将。戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩出身者として最初の海軍将官となった人物である。 会津藩医、角田良智の二男として生まれる。父の蝦夷地赴任に同行し、南摩綱紀に学んだ。秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争と歴戦したが、藩の降伏を迎えた。古川庄八らに学んだ後、商船の水夫となり船長代理に昇る。征台の役に運送船に乗組んだ際に西郷従道の知遇を得て、1874年10月、長崎海軍出張所雇となる。
小林 仲次(こばやし なかじ、1850年3月21日(元治元年… 小林 仲次(こばやし なかじ、1850年3月21日(元治元年3月1日)- 1944年(昭和19年)2月29日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、愛知県宝飯郡御津村長。 三河国宝飯郡西方村(愛知県宝飯郡御津村、御津町を経て現豊川市御津町西方)で、小林仲三郎の長男として生まれた。御馬村の石黒須賀雄に学んだ。素封家・小林伝八郎の養子となり1883年(明治16年)家督を相続した。農業、金融業を営んだ。社会公共のため、御油海水浴場の開設、港湾修築、道路開削などに私財を提供した。 1884(明治17年)西方村戸長に就任した。山本三太郎の死去に伴い1897年(明治30年)3月に実施された第4回衆議院議員総選挙愛知県第10区補欠選挙で初当選し、その後、第9回、第12回総選挙でも再選され、衆議院議員に通算3期在任した。
肥田 景之(ひだ かげゆき、1850年3月21日(嘉永3年2… 肥田 景之(ひだ かげゆき、1850年3月21日(嘉永3年2月8日)- 1932年(昭和7年)4月3日)は、幕末の薩摩藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。 日向国諸県郡都城郷(宮崎県北諸県郡都城町を経て現都城市)で、薩摩藩士・肥田景正の二男として生まれた。1886年(明治19年)兄・景直が戊辰戦争で戦死していたため家督を相続した。 造士館で兵学を修め、都城明道館児輩指南、講武館兵式訓練教導を務めた。慶応3年10月(1867年)戦兵伍長となり戊辰戦争に従軍した。造士館助教授、都城神柱神社(神柱宮)祠官を務めた。西南戦争に従軍した。 1878年(明治11年)10月、鹿児島県警部に任官。
矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30… 矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30日(嘉永2年3月7日)- 1920年(大正9年)11月28日)は、明治から大正期の漢詩人・官僚・政治家。衆議院議員。字・実夫、号・錦山。 伊勢国飯野郡阿波曽村(三重県飯野郡射和村大字阿波曽、飯南郡射和村を経て現松阪市阿波曽町)で生まれる。土井聱牙に師事し漢学を修めた。 太政官に出仕。東京で岩倉具視、伊藤博文の知遇を得た。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(三重県第4区、自由党)で当選した。1902年(明治35年)8月の第7回総選挙(三重県郡部、立憲政友会)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 森春濤の高弟で、その子森槐南らと交友した。
岩永 マキ(いわなが マキ、1849年3月29日〈嘉永2年3… 岩永 マキ(いわなが マキ、1849年3月29日〈嘉永2年3月3日〉 - 1920年〈大正9年〉1月27日)は、日本の社会事業家、福祉事業家。肥前国西彼杵郡浦上山里村(後の長崎県長崎市)の隠れキリシタン(潜伏キリシタン)の家の生まれであり、日本政府によるキリスト教弾圧「浦上四番崩れ」により配流され、帰郷後にフランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロ神父の指導のもと、孤児の養育施設を開き、生涯を孤児養育と救貧に捧げた。現存する児童養護施設の中でも最古のものの創設者の1人であり、孤児救済の先駆者、日本の福祉事業の礎を築いた女性ともされる。 浦上山里村の隠れキリシタンの農家で、長女として誕生した。浦上山里村は平穏な農村であると共に、隠れキリシタンの村との一面もあった。
山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月2… 山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)10月7日)は、日本の法学者、法制官僚、政治家、教育者。法学博士、行政裁判所長官、貴族院議員。 福井藩の藩医・山脇立樹の長男として生まれる。福井藩の医学校・済生館で学んだ後、長崎に遊学して蘭学を学んだ。 1870年(明治3年)、文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学などで法学等を学び、日本人として初めてドイツ政府よりドクトルの称号を授与された。 1877年(明治10年)5月に帰国。同年8月、司法省御用掛となり民法編纂掛分科詰に配属された。以後、司法権少書記官兼太政官権少書記官、太政官権少書記官、参事院議官補・法制部、法制局参事官、兼行政裁判所評定官、法制局第一部長、行政裁判所評定官、同裁判所部長などを歴任し、大日本帝国憲法・皇室典範の草案・起草にも参画した。
平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月… 平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。山縣有朋の側近としても有名。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進した。
江角 柳四郎(えすみ りゅうしろう、1848年4月10日(嘉… 江角 柳四郎(えすみ りゅうしろう、1848年4月10日(嘉永元年3月7日)- 1906年(明治39年)3月22日)は日本の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 出雲国出雲郡、のちの原鹿村(簸川郡久木村を経て現島根県出雲市斐川町原鹿)で、豪農の家に生まれる。機業を営み、簸川銀行取締役などを務めた。また、島根県元出雲郡連合村戸長、島根県会議員、久木村会議員、同村長などを歴任。1904年、貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月29日に就任し、死去するまで在任した。 公益事業にも関心が高く、貧民救済、公共建築・道路修繕・衛生事業、居村児童への奨学金支給などに多額の寄付を行った。
沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3… 沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3月3日〉- 1931年〈昭和6年〉9月11日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 岩国藩士・松浦周蔵の四男として生まれ、沖原為蔵の養子となる。精義隊士として戊辰戦争に従軍。 1871年(明治4年)、陸軍中尉。御親兵第7番大隊付、第14番大隊付、東京鎮台第1大隊付などを経て、陸軍戸山学校に学ぶ。第8大隊付、歩兵第3連隊付、歩兵第2連隊中隊長などを歴任し、1877年(明治10年)3月から11月まで西南戦争に出征した。 別働第1旅団歩兵第1大隊長、歩兵第2連隊副官、歩兵第10連隊大隊長、近衛歩兵第1連隊大隊長、陸軍省人事局次長、総務局第4課長、人事課長、第2師団参謀長、陸軍教導団長などを歴任し、日清戦争には歩兵第13連隊長として出征した。
岡崎 平内(おかざき へいない、1848年4月3日(嘉永元年… 岡崎 平内(おかざき へいない、1848年4月3日(嘉永元年2月28日)- 1917年(大正6年)8月12日)は、日本の政治家。7代目平内。衆議院議員。初代鳥取県会議長。初代鳥取市長。 明治の鳥取士族、政治界の指導者として、明治の100年式典の時、県政功労者となった。幼名は兵太郎、長じて可観と改め、後1880年(明治13年)9月父の名を継ぎ平内と改める。 因幡国邑美郡馬場町(現在の鳥取県鳥取市馬場町)、鳥取藩御用係500石の藩士の家に生まれた。平内の嫡男。明治元年に若くして家督を継ぎ、また鳥取藩大砲隊長となった。 1874年(明治7年)「愛国社」に入り自由民権運動に参加したが、一転して1877年(明治10年)に陸軍省に入省。
日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(… 日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(1848年3月25日) - 大正10年(1921年)1月9日)は、明治期の紡績実業家。東京富士瓦斯紡績や日清紡績など紡績業に深く関わり、東京商業会議所副会頭を務めた。鐘淵紡績、東京毛織物各社長。 越後国蒲原郡裏館村(現・三条市)の旅宿営業者・大島栄造の3男として生まれる。万延元年(1860年)より江戸日本橋堀留の綿糸棉花問屋松本屋・斎藤弥助のもとで奉公し、のち日比谷家の養子となる。明治11年(1878年)に独立して浅草区茅町に綿糸染糸店を開くが、松本屋廃業によりそれを受け継ぎ、事務所を堀留に移して 綿糸・綿花を扱う卸商・日比谷商店を設立。
木原 章六(きはら しょうろく、嘉永元年2月17日(1848… 木原 章六(きはら しょうろく、嘉永元年2月17日(1848年3月21日) - 1889年(明治22年)9月30日)は明治時代の日本の裁判官。諱は祐之。従五位勲六等。旧広島藩士。兵庫裁判所検事、東京控訴裁判所検事、宮城控訴裁判所検事長、大阪控訴裁判所検事、函館控訴裁判所判事、東京重罪裁判所長、東京控訴院評定官等を歴任。
初代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1847… 初代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1847年4月19日(弘化4年3月5日)- 1904年(明治37年)2月15日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員、山形県東田川郡新堀村長。幼名・今吉。 出羽国田川郡新堀村(のち山形県東田川郡新堀村大字新堀、現酒田市)で、地主・阿部彦太郎の二男として生まれ、同村の本家・阿部孫右衛門の養子となる。 東田川郡新堀学校世話掛、飽海郡南山牛場看守人、余目勧業区連合村会議員、新堀学校通学村連合会議員、学務委員、山形県会議員、東田川郡勧業会員、新堀村長、東田川郡会議員、同郡参事会員などを務めた。 1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に山形県第三区から出馬して当選。
納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2… 納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2月24日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月10日)は、日本の写真家。正岡子規最後の肖像写真を撮影したことで知られる。本名は美算。 飯沼慾斎の義弟長矩の七男として、岐阜県大垣市に生まれる。6歳の時「納屋才」の屋号で魚市を営む中島家の養子となり、11歳で家業を継いだ。 三重県桑名市で最初の写真館「笛橋堂」を開業し、明治期東海写真界の発展に寄与した。上京した後は、根岸に名を「春光堂」と改めて写真館を開業した。
千葉 禎太郎(ちば ていたろう、1847年4月3日(弘化4年… 千葉 禎太郎(ちば ていたろう、1847年4月3日(弘化4年2月18日)- 1931年(昭和6年)4月21日)は、幕末・明治から昭和時代前期の大地主、政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(7期)。 上総国市原郡今富村(千葉県海上村、三和町を経て現市原市)出身。千葉氏の末裔。漢学を修める。1868年(明治元年)里正に就任。1875年(明治8年)千葉県代議人となり、村会議員、郡会議員、郵便局長、小学校長を歴任する。この間、戸長も務めた。1879年(明治12年)県制発布とともに千葉県会議員に当選し、市原倶楽部を設立した。ほか、大日本農会、大日本水産会連合品評会各評議員および協賛会長、千葉県教育会評議員、神国生命保険社長、興業貯蓄銀行、成田鉄道各監査役、千葉県農工銀行頭取、東京米穀取引所理事および監査役などを歴任した。
斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年… 斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年3月26日) - 1938年(昭和13年)2月17日)は、日本の外科医、政治家。衆議院議員(3期)、群馬県会議員(10期)、初代群馬県医師会長。 上野国北甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)の小幡藩藩医、斎藤寿幹(のち寿安)の子として生まれる。幼名・鋌策。はじめ藩の学問所で学び、文久元年(1861年)江戸の医師・福富玄同に弟子入りし、翌年群馬郡野田村(現・北群馬郡吉岡町)の外科医・原沢文仲の弟子となった。また高崎の五藤俊英に種痘術の教えを受けた。慶応3年(1867年)小幡藩奥詰医師となり寿幹の名を襲名。七日市藩医も兼務した。 明治2年(1869年)寿雄と改名し東京に遊学、明治4年(1871年)より大学南校に学び、翌年帰郷。
石原 半右衛門(半右衞門、いしはら はんうえもん、1847年… 石原 半右衛門(半右衞門、いしはら はんうえもん、1847年3月25日(弘化4年2月9日)- 1930年(昭和5年)2月20日)は、明治期の文部官僚・政治家。衆議院議員。 丹波国船井郡大戸村(京都府船井郡川辺村字大戸、園部町を経て現南丹市園部町大戸)で、江戸幕府旗本滝川氏家臣、地役人・石原三左衛門の二男として生まれた。 明治維新後、文部属、大阪専門学校雇、岩手県尋常師範学校長、京都師範学校幹事、京都府船井郡長などを歴任。 また、川辺村会議員、京都府会議員、同常置委員、平安遷都千百年記念祭協賛会評議員、第4回内国勧業博覧会評議員を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1890年7月、大成会)で初当選し、その後、第6回総選挙まで4回再選され、最後は三四倶楽部に所属して衆議院議員に通算5期在任した。
荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘… 荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘化3年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(荒木屋、肥料・綿・米穀商)、海運業、醤油醸造業、鳥取県の大地主、荒木合名会社社員、実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の人で、生家は代々醤油醸造業を営む。 海運業を営み、主に地方の物産を蒐集し、これを北国中国等に輸送し帰港には肥料を積載して年数回往復航行する。危難や損失がなかったため収利は夥しく頓に資財を増殖し声望が大いに起り、地位は益々高まる。 1902年、境製糸社員の荒木久九郎、渡辺広太郎、里見五平は各々その出資額全部を共に社員の荒木徳三郎へ譲渡して退社し、荒木徳三郎はこれを譲り受けてその出資額を金3400円と変更する。
渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月1… 渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月16日(弘化3年3月21日) - 1932年(昭和7年)5月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員、小樽区長。初名・佐助。 出羽国能代港(現秋田県能代市)で渡辺甚四郎の二男として生まれる。12歳まで能代の商家で奉公し、万延元年(1860年)家出して小樽に渡り、山田兵蔵家の店員として勤め、主人からの信頼を得てその一字をもらい受けて兵四郎と改名。1877年に独立し荒物商を営む。 また漁業経営にも乗り出し、ニシン漁網の改良を行い、漁業組合、水産組合を創設して、小樽郡漁業組合頭取、小樽外六郡漁業組合連合会長、小樽水産組合長など務め、北海道水産界の振興に貢献した。
佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日… 佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日(弘化3年3月7日)- 1909年(明治42年)5月23日)は、明治期の日本の政治家、蚕種業者。衆議院議員、初代長野市長。幼名は勝彦。号は柏堂、忠恕。 信濃国小県郡上塩尻村(長野県小県郡塩尻村を経て現上田市)で生まれた。和漢学を修めた。家業の蚕種業に従事し、1872年(明治5年)には上塩尻村の戸長となる。1875年(明治8年)蚕種製造業上田組を設立して頭取に就任し、東京蚕種会事務局議員兼幹事、東京蚕種取締所委員として蚕種の改良と輸出振興に尽力した。1886年(明治19年)には東京蚕種組合中央部長野県総代から長野県蚕糸業組合取締所副頭取となり、1896年(明治29年)信濃蚕種業組合長に就任するなど、一貫して蚕種業の発展に尽力した。
渡辺 国武(わたなべ くにたけ、旧字体: 渡邊 國武、184… 渡辺 国武(わたなべ くにたけ、旧字体: 渡邊 國武、1846年3月29日〈弘化3年3月3日〉- 1919年〈大正8年〉5月11日)は、明治期の日本の官僚、政治家。位階・勲等・爵位は正二位勲一等子爵。旧姓は小池。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。兄は伯爵渡辺千秋。 1846年3月29日(弘化3年3月3日)、信濃国諏訪郡東堀村(後の長野県岡谷市)にて諏訪高島藩士の家に生まれた。父渡辺政徳は、武士が桃の節句に生まれたのでは具合が悪いということで、藩庁に端午の節句の5月5日生まれと届けている。両親と早く死別したため、兄の千秋とともに祖母の手によって養育された。10歳の時にコレラにかかるが、一命を取り留める。
武内 維積(たけうち いせき、1846年3月22日(弘化3年… 武内 維積(たけうち いせき、1846年3月22日(弘化3年2月25日)- 1903年(明治36年)11月7日)は、明治期の日本の検察官、内務官僚。官選佐賀県知事。位階および勲等は従四位・勲四等。幼名は検一郎。 播磨国揖西郡龍野(現兵庫県たつの市)出身。武内宇三郎の二男として生まれる。林田藩儒・河野鉄兜に学んだ。 1883年12月27日、検事に任官。その後、内務省に転じ、内務権少書記官、大阪府少書記官、同書記官、大分県書記官、愛媛県書記官、宮城県書記官などを歴任。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に兵庫県第8区から出馬するが落選。 1897年4月、第2次松方内閣により佐賀県知事に任じられた。
加賀美 光賢(かがみ みつかた、弘化3年2月24日(1846… 加賀美 光賢(かがみ みつかた、弘化3年2月24日(1846年3月21日) - 1907年(明治40年)4月8日)は、日本の海軍軍人(軍医)、医師。宮中顧問官。最終階級は海軍軍医総監。位階および勲等は正四位・勲三等。 弘化3年(1846年)2月24日、甲斐国西山梨郡住吉村(現在の山梨県甲府市で、身延線の甲斐住吉駅周辺)にある住吉神社の神職・加賀美光矩と、その妻である察の子として生まれる。清和源氏武田氏流・加賀美氏の末裔。 薩摩藩の医師石神良策に師事し、西洋医学をイギリス人医師のウィリアム・ウィリスに学ぶ。1872年、海軍軍医部の創設にともない軍医頭となり、1892年、海軍軍医学校長に任命された。
田中 功平(たなか こうへい、1845年4月1日〈弘化2年2… 田中 功平(たなか こうへい、1845年4月1日〈弘化2年2月25日〉 - 1916年〈大正5年〉10月4日)は、明治・大正時代における愛知県岡崎市の実業家。家業の旅館業を営む傍ら、有志とともに同地の電力会社岡崎電灯を起業し、同社を中心に各地の電気事業に関係した。 田中功平は、弘化2年2月25日(新暦:1845年4月1日)、現在の愛知県西尾市一色町開正(旧・幡豆郡開正村)に生まれた。長男であるが家を弟に譲り、自身は岡崎に出て籠田町の旅館「丸藤(まるとう)旅館」にて勤め、その後旅館経営を引き継いだ。また旅館業の傍ら雲母採掘業など新規事業にも取り組んだ。 1895年(明治28年)の夏頃、田中は旅館の常連客から当時国内では数少なかった電灯事業の話を聞かされた。
初代 小布施 新三郎(おぶせ しんざぶろう、こぶせ しんざぶ… 初代 小布施 新三郎(おぶせ しんざぶろう、こぶせ しんざぶらう、1845年3月31日(弘化2年2月24日) - 1925年(大正14年)2月17日)は、日本の金融実業家。 信濃国高井郡高梨村(現・長野県須坂市)生まれ。江戸での丁稚奉公の後に帰郷し、明治維新後に横浜に出て外国商館に勤務する傍らドル相場を研究し、1879年(明治12年)に東京兜町に公社債・株式仲買業や古金銀売買を営む小布施商店(現・ちばぎん証券)を開業。1883年(明治16年)には東京株式取引所の仲買人となり、明治20年代からの金利安による株式の活況や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦期の景気の上昇に乗じた投機を積極的に行って業績を伸ばした。
桜井 昭悳(さくらい あきのり、1845年3月22日(弘化2… 桜井 昭悳(さくらい あきのり、1845年3月22日(弘化2年2月15日) - 1917年(大正6年)2月16日)は日本基督教会の牧師である。 神官宇都宮若狭の長男として、伊予国喜多郡若宮村(現愛媛県大洲市若宮)に生まれる。神官になるのを嫌い、上京する。海軍に入隊し、海軍少尉に昇進する。 1872年に平野ちかと結婚する。妻の感化でキリスト教に入信する。1876年にディビッド・タムソンより洗礼を受ける。 海軍を辞め、北海道開拓使の御用船の船員になるが、北海道伝道のために献身し、日本基督教会の牧師になる。函館で開拓伝道を行った。 その頃、東京で桜井女学校を開いていた妻ちかが、函館女子師範学校の英語教師になり、共に伝道をする。
加納 鉄哉(かのう てっさい、1845年3月22日〈弘化2年… 加納 鉄哉(かのう てっさい、1845年3月22日〈弘化2年2月15日〉 - 1925年〈大正14年〉10月28日)は、幕末から明治時代に活動した彫刻家。本名は光太郎。 美濃国厚見郡岐阜(現・岐阜県岐阜市)に生まれ、幼少の頃から芸術に知識が深かった父より南画や彫刻等を学ぶ。1858年(安政5年)には禅寺に修行のため出家し、仏画や根付の制作に携わり鶴洲から彫刻を学んだ。明治維新直後の1868年(明治元年)に還俗し、尾張にて鉄筆画の技法について研究した後に上京しその技法を用いた絵画や彫刻の制作を行う。 1881年(明治14年)に開催された第2回内国勧業博覧会には鉄哉の作品が出品され、その後は日本および中国の古美術品の研究に携わった。
小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844… 小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844年4月2日) - 1922年(大正11年)6月21日)は、明治・大正期の実業家、武士(岡崎藩士)。丸善の専務取締役社長を務めた。 三河国岡崎にて岡崎藩士・小柳津宗和の長男として生まれる。幼少時は志賀重昂の父重職の下で学ぶ。岡崎藩主・本多忠民に仕え藩の要人となる。 1863年(文久3年)、西洋流大砲方の命を受けて江戸にのぼったが、英書を学ぶ必要を感じて大鳥圭介の塾縄武館に入る。また中浜万次郎に師事し、兵学・洋学の手ほどきを受けた。同年秋より開成所に転じ、英学得業士となる。 1868年(慶応4年)の戊辰戦争時には、志賀熊太に血判状を提出した後に脱藩して遊撃隊に加わる。
伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2… 伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2月8日) - 1901年(明治34年)10月25日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。旧姓・羽田。 羽田家の三男として伊豆国君沢郡三津村(静岡県君沢郡内浦村、田方郡内浦村を経て現沼津市)に生まれ、20歳の時に富士郡神谷村(須津村、吉原市を経て現富士市)の伊達松翁の養子となる。土木請負業を営む傍ら静岡県会議員を務め、1881年(明治14年)岳南自由党に参加した。沼川石水門の工事に私財を投じ、伊達組を興して山陽本線の工事を請け負うなど公共のために尽くした。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から出馬し当選。
有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天… 有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天保14年3月15日〉- 1919年〈大正8年〉1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。 長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。
小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保… 小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保14年3月13日) - 1910年(明治43年)7月22日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。通称は友直。 大組頭小野寺惣三郎の長男として出羽鶴岡藩領飽海郡飛鳥村(山形県飽海郡南平田村、平田村、平田町を経て現酒田市)に生まれる。1868年(明治元年)家督を相続し肝煎、ついで戸長となり、1882年(明治15年)から1902年(明治35年)まで20年間に渡り山形県会議員を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では山形県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 この間、区書記兼村長、学務委員、町村連合会議員、山形県参事会員、南平田村会議員、飽海郡会議員、同議長、郡教育会議員、地方森林会議員など多くの公職を歴任した。
小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3… 小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3月9日) - 1888年(明治21年)3月25日)は明治時代の日本の実業家、官僚。旧松本藩士。通称・彰太郎、左右輔。号は雪巌。 久美浜県権知事兼生野県権知事、豊岡県令、東京株式取引所頭取を歴任した。 天保13年3月9日(1842年4月19日)、信濃国筑摩郡松本城下に松本藩医小松維貫(通称・齢司、坪井信道門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学崇教館に学んだのち、安政5年(1858年)から藩命で江戸に遊学。塩谷宕陰の教えを受け、文久元年(1861年)には陽明学を学ぶため古賀謹堂に入門したが、父・維貫が江戸に赴任した文久2年(1862年)、家事を掌るべく帰藩した。
神田 兵右衛門(こうだ ひょうえもん、天保12年2月18日(… 神田 兵右衛門(こうだ ひょうえもん、天保12年2月18日(1841年4月9日) - 大正10年(1921年)1月13日)は、日本の実業家。本姓は梅谷で、名は胤保、号は松雲。播磨国印南郡大塩村(現在の兵庫県姫路市大塩町)出身で、慶應3年に兵庫開港商社取締役世話役に就任し、兵庫運河建設に大きく貢献した[要出典]。のち、神戸市会議長を務める。「神戸発展の父」とも呼ばれる[要出典]。 播磨国印南郡大塩村(現兵庫県姫路市大塩町)の大庄屋の三男に生まれ、15歳で兵庫出在家町の素封家、第12代神田兵右衛門の養子となる。 神田家の家督を継いだ兵右衛門は、慶應3年(1867年)7月、兵庫開港商社取締役世話役に命じられた。
田中 義廉(たなか よしかど、天保12年2月11日(1841… 田中 義廉(たなか よしかど、天保12年2月11日(1841年4月2日) - 明治12年(1879年)10月3日)は日本の洋学者、教科書編纂者。号は天口酔史。博物学者の田中芳男は実兄。 信濃国伊那郡飯田城下(現在の長野県飯田市)に医師・田中隆三(如水)の六男として生まれた。幼名は大輔。兄の芳男とともに名古屋の伊藤圭介の門下となり、蘭学や医学を学ぶ。安政6年(1859年)江戸に出て、林洞海に蘭学や本草学を学ぶ。また海軍兵学と蒸気機関の研究に専念し、英語やフランス語を修めた。慶応3年(1867年)に幕府に出仕し、幕府海軍士官となる。同4年(1868年)の上野戦争では彰義隊に属した。明治2年(1869年)には新政府の海軍御用掛となって海軍操練所の設立に協力し、兵学大助教に進むが、学制発布を受けて、同5年(1872年)には文部省に転属し、小学校教科書の編纂に着手し、「小学読本」を発行。
山口 小一(やまぐち こいち、1841年3月29日(天保12… 山口 小一(やまぐち こいち、1841年3月29日(天保12年2月7日)- 1911年(明治44年)8月27日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の政治家。衆議院議員。 肥前国杵島郡武雄村小楠(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣(足軽)の家に生まれる。幕末には名誉とされていた武雄領の時報役を務めた。戊辰戦争では主君鍋島茂昌に従い羽州を転戦した。 その後、武雄軍団所史生、副戸長を務め、1880年、長崎県会議員に当選。1883年、佐賀県会議員に選出され、1887年、鎌田景弼佐賀県知事により抜擢され佐賀県属・土木課副長に就任。その後、退官して県会議員に復帰し、1902年、県会議長に就任した。
野間 豊五郎(豐五郎、のま とよごろう、1841年3月28日… 野間 豊五郎(豐五郎、のま とよごろう、1841年3月28日(天保12年2月6日) - 1934年(昭和9年)11月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 伊予国越智郡本庄村(のち愛媛県越智郡津倉村→吉海町、現・今治市)の大地主の生まれ。漢学と数学を学ぶ。農業を営む。村民総代、学務世話係、本庄村戸長、津倉村助役、同村長、同村会議員、同議長、越智郡会議員、愛媛県会議員、日本赤十字社特別社員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛媛2区から自由党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党から出馬して再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天… 大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天保11年2月19日〈1840年3月22日〉 - 1912年〈大正元年〉11月23日)は、幕末から明治初期の地方官僚。幕末の志士(彦根藩郷士)。姓は伊賀。字は厚龍、雅号に菱陀。幕臣・小栗忠順の処刑に関与したことで知られる。上野国岩鼻県知県事として強権を振るったことで「首切り龍太郎」の異名をとり恐れられたが、住民から罷免要求が出され半年で免職となった。 大音龍太郎は、天保11年2月19日[要出典](1840年3月22日)、近江伊香郡大音村(現・滋賀県長浜市木之本町大音)に生まれた。父の周倫は厚斎と号する医者で、彦根藩の北国街道柳ヶ瀬の関守を勤める郷士であった。
松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天… 松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天保10年3月2日) - 1913年(大正2年)9月23日)は、明治時代の政治家、実業家。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 越後国刈羽郡柏崎村(現新潟県柏崎市)の町年寄の家に生まれた。原修斎に学び漢学を修めた。町年寄を務め、その後、柏崎県に出仕し学区取締に就任。1879年(明治12年)新潟県会議員に当選し、初代議長となった。ほか自由民権を唱え、北辰自由党に加わった。実業家としては柏崎活版印刷社長などを歴任した。1889年(明治22年)鈴木昌司、西潟為蔵、山際七司らと越佐同盟会を結成し評議員に就任。1890年(明治23年)6月に県会議員を辞職し、同年7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第6区から出馬し当選。
司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839… 司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839年4月11日) - 明治12年(1879年)3月11日)は、医学者・言語学者。愛知医学校校長。佐渡島新町(現:新潟県佐渡市真野新町)生まれ。日本初の独和辞典を刊行した。 諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称。他に、号に「揖軒」「無影樹下」「船楼」があった。本名は「司馬津」。 幼名、島倉伊之助(なお「島倉亥之助」の表記もある。弟に島倉家を譲り、司馬と改姓した。 語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。松本良順、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、特に医学用語の日本語訳を多く作っている。
楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9… 楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9年3月20日〉- 1902年〈明治35年〉2月7日)は、肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。 肥前大村藩士・楠本直右衛門正式(60石)の長男として玖島城下の岩船に生まれる。藩校・五教館の監察、頭取を務めた。中老として尊攘倒幕運動で活躍し、渡辺昇ら「大村藩勤王三十七士」の一人として知られる。 1868年(明治元年)、徴士として新政府に出仕。長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役をつとめ、1870年(明治3年)8月)に外務権大丞、1872年(明治5年)5月に外務大丞を経て、同年5月24日に新潟県令として就任する。
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天… 後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太(やすやた)。通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。 板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。
千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月… 千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月31日) - 明治29年(1896年)10月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。北辰一刀流小太刀免許皆伝、長刀師範。学習院女子科(後の女子学習院)舎監。漢字表記では坂本龍馬に与えた長刀目録に佐那と記述され、司馬遼太郎の小説でその表記を用いたため、この名称が一般化しているが、千葉家の位牌には佐奈と記されている。初名を乙女。 天保9年(1838年)、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。兄に千葉重太郎がいる。北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、10代の頃に皆伝の腕前に達したという。
伏島 近蔵(ふせじま ちかぞう/きんぞう、天保8年3月7日〈… 伏島 近蔵(ふせじま ちかぞう/きんぞう、天保8年3月7日〈1837年4月11日〉 - 1901年〈明治34年〉8月7日)は、江戸幕末から明治にかけて活躍した、上野国(群馬県)出身の実業家。横浜を開拓した代表的人物の一人であり、第七十四国立銀行の初代頭取や、横浜市会議員をつとめた。 天保8年(1837年)、上野国新田郡藪塚村(現・群馬県太田市)に生まれる。 慶応元年(1865年)に、横浜に出て商売を始めた。南京豆や蚕卵紙の取引によって財をなす。特にウォルシュ・ホール商会に重用された。 明治5年(1872年)、私財を投じ、廃絶していた郷里の岡登用水の再興を行う。この功績により、1876年(明治9年)の明治天皇東北巡幸の際には賞品の下賜を受けた。
古川 正雄(ふるかわ まさお、1837年4月8日(天保8年3… 古川 正雄(ふるかわ まさお、1837年4月8日(天保8年3月4日) - 1877年(明治10年)4月2日)は明治時代の日本の教育者。福澤諭吉の弟子として、日本の近代教育の礎を築いた教育者の一人。慶應義塾初代塾長。また幕末には軍艦頭並として95名を引き連れ榎本軍に加わり戊辰戦争を戦った。旧名を古川節蔵、岡本節蔵、岡本周吉といい、岡本博卿の筆名でも知られる。 広島県西中国山地に奥深い山県郡川小田村生まれ。庄屋の三男に生まれ青年期に医学を志し、広島に出て広島城下で漢学を学ぶ。 1856年(安政3年)、19歳の時、大阪に出て、当時日本中の秀才が集うといわれた緒方洪庵の適塾に入門、蘭学、兵学を修めた。この頃は岡本周吉と称した。
相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4… 相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4月7日〉 - 大正7年〈1918年〉6月22日)は、幕末期の庄内藩銃隊頭。明治期の地方官吏、郡長。通称は文八郎。 相良守峯(ドイツ文学者)、相良守次(心理学者)は孫に当たる。 天保8年3月(1837年4月)、庄内藩士相良文右衛門(守富)の3男として生れ、のちに兄八十吉(守均)の跡を継いだ。安政2年(1855年)選ばれて砲術修業のため江川太郎左衛門の塾に入門した。慶応4/明治元年(1868年)の戊辰戦争では、庄内軍の銃兵部隊を指揮する立場で転戦し、4月の清川口の戦いに銃兵指図役として従軍したのをはじめ、銃隊頭として長岡藩支援のため北越戦争にも参戦した。
四海波 静太夫(しかいなみ せいだゆう、1836年4月16日… 四海波 静太夫(しかいなみ せいだゆう、1836年4月16日(天保7年3月1日) - 1883年(明治16年)11月1日)は、伊勢国員弁郡(現在の三重県いなべ市員弁町大泉)出身で境川部屋、宮城野部屋、再度境川部屋に所属した力士。本名は水谷 清八。2代鏡山。身長体重不明。最高位は東前頭2枚目。 1859年11月境川部屋に入門し、故郷の大泉を四股名にしたが、伊勢ノ濱大五郎に改名。期待をされて盛岡藩の抱えになった。1871年4月、34歳で入幕。宮城野部屋に転籍して荒馬大五郎に改める(宮城野の婿になった為)。その後巡業中の女性問題から破門、同時に離縁され、四海波に改名して古巣に復帰。幕内上位を保っていたが三役昇進はならず、1879年6月限りで引退し鏡山を襲名。
伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2… 伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2月24日) - 1917年(大正6年)2月24日)は、刈谷藩士、政治家(衆議院議員2期)、実業家。別名は伊藤 三弥(いとう さんや)。 天保7年2月24日(旧暦)(1836年)、三河国碧海郡の刈谷城内に生まれた。兵庫県出身、伊勢国出身とされることもある。父は伊藤庄兵衛保秀。刈谷藩の藩校である文礼館に学び、尾張国の儒学者である伊藤両村の私塾でも学んだ。17歳で京都に出ると、頼三樹三郎の私塾で学ぶ中で尊王思想が芽生えた。 安政6年(1859年)7月にはいとを妻に娶った。同年に父が死去すると、岩倉具視が洛北の岩倉村に蟄居していた際に岩倉邸に仕え、岩倉具視と志士との連絡役を担った。