近藤 金次郎(こんどう きんじろう、1866年〈慶應2年〉8… 近藤 金次郎(こんどう きんじろう、1866年〈慶應2年〉8月28日 - 1933年〈昭和8年〉2月9日)は、日本の政治家、大野町会議員、福井県会議員、呉服店店主、亀城銀行取締役、俳人。俳号は松翠舎漣月。 越前国大野郡大野町(福井県大野郡大野町を経て、現在の大野市)の酒造業・田中彌三兵衛の男子として生まれた。幼少の頃より同地の老舗呉服屋あらごろ呉服店の店主・近藤五郎右衛門の養子として育つ。1881年(明治14年)養父没後に家督を継ぎ、呉服店を継承する。1917年(大正6年)、正風音社の大野分社長を嘱託される。さらに大野町に本社のあった亀城銀行取締役(大七銀行合併の後に福井銀行に吸収される)、北陸絹布株式会社取締役、大野撚絲株式会社社長、大野町会議員、大野郡会議員を歴任した。
小屋 光雄(こや みつお、慶応2年7月19日(1866年8月… 小屋 光雄(こや みつお、慶応2年7月19日(1866年8月28日) – 昭和17年(1942年)5月16日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→新正倶楽部)。医師。 伊勢国一志郡久居(現在の三重県津市)出身。1888年(明治21年)に大阪医学校を卒業した後、東京帝国大学医科大学と伝染病研究所で学んだ。大阪府警察本部詰医・大阪地方裁判所嘱託医を務めた後、小屋病院を開業し、一志郡医師会長、三重県医師会評議員・議長、大日本医師会評議員などを歴任した。また久居町長、一志郡会議員、同議長、三重県会議員に選出された。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、中勢鉄道株式会社社長、伊勢電気鉄道株式会社取締役などを務めた。
内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年… 内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は、近代日本の東洋史学者。名は虎次郎(とらじろう)。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国における唐宋変革時代区分論争などで学界を二分した。 1866年 (慶応年間)陸奥国毛馬内村(現:秋田県鹿角市十和田毛馬内)にて、南部藩士・内藤調一(1832年 - 1908年。号は十湾)と容子の次男として生まれた。本名の「虎次郎」は、父の十湾が吉田松陰に心酔していたため、吉田松陰の通称である「寅次郎」から取って命名した。
大谷 仁兵衛(おおたに にへい、慶応元年8月3日(1865年… 大谷 仁兵衛(おおたに にへい、慶応元年8月3日(1865年9月22日) - 1956年(昭和31年)10月21日)は、明治から昭和期にかけて日本の出版業界を代表する実業家。日本タイプライターの創業者。 慶応元年8月3日(1865年9月22日)近江高島郡椋川村(現・滋賀県高島市今津町椋川)に栗田長五郎の3男として生まれ、幼名を捨吉と言った。1880年(明治13年)、京都の出版書店『大谷屋』に奉公し精励していたところ、1893年(明治26年)才覚と人物を認められ大谷家に入籍し、名を大谷仁兵衛と改めた。『十八史略摘註』などの歴史書、『日本旅行独案内』・『亰都名所案内』などの旅行書から詩集・工芸書・『歴世女装考』などのファッション誌と仁兵衛が出版・編集を行った書籍は多岐に及ぶ。
ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Dom… ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Domingos Chohachi Nakamura、1865年9月21日(慶応元年8月2日) - 1940年3月14日)は、明治時代から昭和戦前期にかけてブラジルで活動した日本人のカトリック司祭・海外宣教師。長崎県五島列島出身。 奄美大島での26年間の司牧を経て、17年間に渡りブラジル在住の日本人移民・日系人の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり、生前にすでに「生ける聖人」と呼ばれていた。 1938年、教皇ピオ11世より「大聖グレゴリオ勲章」を受章する。1940年3月、鹿児島司教区の使徒管理に任命されたが、その通知が手許に届く直前にブラジルにて死去。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日[3])は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日[4] - 1922年(大正11年)5月27日[5])。静岡県出身。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日)は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日 - 1922年(大正11年)5月27日)。静岡県出身。 1865年9月20日(慶応元年8月1日)、後の静岡県に生まれる。大学予備門、東京帝国大学法学部を卒業後官僚となり、長野県参事官、石川県参事官、岡山県警部長、茨城県書記官、東京税務監督局長、神戸税関長、大蔵省主税局長、税関臨時工事部長、大蔵省関税局長、専売局長、大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取などを歴任。 1920年(大正9年)、名市長と呼ばれた鹿島房次郎の後任として第5代神戸市長に就任。
森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元… 森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元年8月1日〉 - 1936年〈昭和11年〉3月6日)は石川県出身の数学者であり教育者。第三高等学校校長などを務めた。 1865年、石川県金沢に生まれる。第一高等学校を経て東京帝国大学理科大学に進んだ。1891年(明治24年)に同大学数学科を卒業。1892年(明治25年)には同郷の友人である香村小録に桜井一久の妹・倉を紹介、結婚に至る。 三重県尋常中学校教諭となった外三郎は、第三高等学校や学習院などで教授を歴任した。1909年(明治42年)よりイギリス・アメリカ・ドイツに留学し、当時欧米で最先端の教育として注目されていた新教育運動(日本では「大正自由教育運動」)に触れる。
渡辺 千代三郎(渡邊、わたなべ ちよさぶろう、1865年9月… 渡辺 千代三郎(渡邊、わたなべ ちよさぶろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日)- 1936年(昭和11年)4月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。西成鉄道社長、大阪瓦斯社長、南海鉄道社長、貴族院勅選議員。 現在の岐阜県で渡辺新次郎の二男として生まれる。幼少より学問を好み、1889年(明治22年)7月、帝国大学法科大学法津学科を卒業した。卒業後、代言人(弁護士)の登録をしたが、1891年(明治24年)日本銀行に入行した。北海道支店長に昇進したが、その後辞職し、帝国商業銀行副支配人となる。 その後、大阪に移り北浜銀行頭取岩下清周の招きで同行副支配人となり、さらに支配人に就任した。西成鉄道社長、大阪瓦斯社長、南海鉄道社長、大阪株式取引所理事、帝国瓦斯協会(現日本ガス協会)会長なども務めた。
中島 和三(なかじま わぞう、慶応元年8月1日(1865年9… 中島 和三(なかじま わぞう、慶応元年8月1日(1865年9月20日) - 1944年(昭和19年)1月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家。高知県高岡郡須崎町長、高知市長。高知県会議員。 五藤家の旧臣・中島作次の次男として土佐国安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。1883年(明治16年)高知県師範学校中等科を卒業後、安芸郡大井・井ノ口、土佐郡潮江などの訓導を経て、幡多郡視学。その後、県属となり、1908年(明治41年)香美郡長、1912年(大正元年)吾川郡長、1914年(大正3年)高岡郡長を経て、1917年(大正6年)12月、高知市長に就任。1921年(大正10年)12月まで務める。 満期辞任後は、1922年(大正11年)高知県教育会長を15年務め、さらに同年、高知信用組合を設立し、組合長に就任した。
狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年… 狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1942年(昭和17年)12月22日)は、日本の教育者。号は君山。
長尾 半平(ながお はんぺい、1865年9月17日(慶応元年… 長尾 半平(ながお はんぺい、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1936年(昭和11年)6月20日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の土木技術者、鉄道技術者、教育者、政治家、実業家。俳人でもあり、「秋邨」と号した。 祖伯父は長尾秋水。1865年(慶応元年)村上藩士の長男として、越後国村上堀片(現・新潟県村上市堀片)で生まれる。若くしてクリスチャンとなり禁酒主義者となる。1879年から地元新潟の語学校に入学したが、同1885年学制改革により同学校が廃止し上京。築地英語学校に通うほか青山学院で聖書研究。 1887年(明治20年)大学予備門から工部大学校(現東京大学工学部)に進学し、後身の帝国大学工科大学土木工学科を1891年に卒業。
名村 忠治(なむら ちゅうじ、1865年9月16日(慶應元年… 名村 忠治(なむら ちゅうじ、1865年9月16日(慶應元年7月27日)- 1923年(大正12年)9月11日)は、明治から大正期の、農業指導者、地主、政治家。衆議院議員、福井県坂井郡三国町長。旧姓・藤田。 越前国今立郡横越村(福井県今立郡新横江村横越、鯖江町を経て現鯖江市横越町)で、藤田惣左衛門の六男として生れる。1881年(明治14年)2月、坂井郡坂井港松ケ下町(三国町を経て現坂井市)の名村ゆうの養子となる。普通学、漢学を修めた。1891年(明治24年)6月に家督を相続した。 1888年(明治21年)荒地を開墾して桑園とし私立接木伝習所を設置。三国輸出米商組合長、坂井郡農会副会長、福井県農工銀行監査役、福井県実業会員などを務めた。
西村 天囚(にしむら てんしゅう、1865年9月12日(慶応… 西村 天囚(にしむら てんしゅう、1865年9月12日(慶応元年7月23日) - 1924年(大正13年)7月29日)は、日本のジャーナリスト。本名は時彦(ときつね)、で、天囚は号。他に碩園(せきえん)とも名乗った。字は子駿。大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親である。 江戸時代に大坂につくられた学問所「懐徳堂」の復興にも尽力し、漢籍など天囚の旧蔵所が「碩園記念文庫」として保存されている。 祖先に西村織部丞時貫がいる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岸沢 惟安(きしざわ いあん、1865年9月12日(慶応元年… 岸沢 惟安(きしざわ いあん、1865年9月12日(慶応元年7月23日) - 1955年(昭和30年)3月26日)は、曹洞宗の僧、仏教学者。 武蔵国埼玉郡上池守(現・埼玉県行田市)の木元要吉の四男として生まれる。幼名は計之助。埼玉県師範学校卒業。開新小学校(現・熊谷市立成田星宮小学校)の訓導・校長を務めたあと、1897年西有穆山に就いて得度。丘宗潭にも師事、生涯を『正法眼蔵』の解明に尽くした。埼玉県の清法寺、兵庫県の永源寺、京都府の安泰寺、青森県の法光寺を歴住し、静岡県志太郡豊田村(現焼津市)に旭伝院を開創した。号に眠芳など。
二階堂 保則(にかいどう やすのり、1865年(慶応元年9月… 二階堂 保則(にかいどう やすのり、1865年(慶応元年9月9日)- 1925年8月4日)は、江戸時代幕末の尊攘運動家。明治時代から大正時代の医師、統計学者。諱は良碩。号は如瓶。 越後国蒲原郡古寺村(現在の新潟県新発田市)に生まれる。幼名は菊太郎。中之島村の医師・三浦宗仙の養子となる。幼い頃から医学を学び、漢学者の若月元輔と共に江戸に行き、松崎慊堂や林復斎に教えを受け、田原藩に招聘された。故郷に戻り、子弟を教育していたが、三島郡瓜生村の金子邸で勤皇の同志と交わる。戊辰戦争が起こるや松田秀次郎や高橋竹之助などと草莽隊の方義隊を結成し、新政府軍の道案内を務めた。隊の解散後は家を義弟の宗潮に譲り、本姓の二階堂氏を名乗る。
川上 淳一郎(かわかみ じゅんいちろう、1865年9月7日(… 川上 淳一郎(かわかみ じゅんいちろう、1865年9月7日(慶応元年7月18日) - 1931年(昭和6年)11月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。1878年、長岡学校(現新潟県立長岡高等学校)入学。1885年、東京専門学校卒。農業を営む。前東谷村(のち東谷村→栃尾市→長岡市)会議員、同村長、古志郡参事会員、新潟県会議員、同参事会員となる。また栃尾銀行、長岡銀行、北越新報各取締役、越佐新聞社社長を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において新潟県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
浦瀬 済之(浦瀨 濟之、うらせ さいし、1865年9月7日(… 浦瀬 済之(浦瀨 濟之、うらせ さいし、1865年9月7日(慶応元年7月18日)- 1936年(昭和11年)12月18日)は、明治から昭和前期の漁業指導者、政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡芦浦村(長崎県下県郡船越村、美津島町を経て現対馬市美津島町芦浦)で生まれる。漢学、法律学、経済学を修めた。 長崎県収税属となる。その後、厳原連合町村会議員、長崎県会議員、同参事会員などを務めた。水産組合副組長に就任し、水産業の振興に尽力した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から立憲同志会公認で出馬し、大池忠助、早川鉄冶の有力候補と激しい選挙戦を戦い、2票差で次点となり大池に敗れた。
東 奭五郎(ひがし せきごろう、慶応元年7月17日〈1865… 東 奭五郎(ひがし せきごろう、慶応元年7月17日〈1865年9月6日〉 - 1947年〈昭和22年〉12月3日)は、日本の会計学者。"Skyscraper" に摩天楼という訳語を与えた人物という説がある。 1865年、長崎県西彼杵郡三重村の士族東太郞兵衞の四男として生まれた。 1888年、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、函館商業学校の教諭となった。その後長崎商業学校や熊本商業学校の教諭、母校東京高等商業学校附属商業教員養成所主任や神戸高等商業学校(現神戸大学)の教授を務めた。1916年に教授を辞任し、会計事務所を開き、商業実踐や簿記学研究のためにイギリスやアメリカに留学した。アカウンティングの訳語として会計学をあてるべきと主張し、鹿野清次郎と論争したことでも知られる。
金杉 英五郎(かなすぎ えいごろう、慶応元年7月13日(18… 金杉 英五郎(かなすぎ えいごろう、慶応元年7月13日(1865年9月2日)- 昭和17年(1942年)1月26日)は、日本の医学者、政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。 下総国香取郡鏑木村(千葉県香取郡古城村字鏑木、干潟町を経て現旭市)の名主金杉与右衛門の子として生まれる。叔父で、内務省書記官を務めていた金杉恒の養子となる。東京帝国大学医科大学にて医学を学んだ後、ドイツへ留学。ヴュルツブルク大学、エアランゲン大学で学んだ。その後、1892年に、高木兼寛経営の東京病院(現、東京慈恵会医科大学附属病院)にて勤務をする傍ら、東京慈恵医院医学校(現、東京慈恵会医科大学)にて、講義を行う。後に、東京慈恵医院医学校が、大学令に基づき、大学に昇格した際、東京慈恵会医科大学の初代学長となった。
五十嵐 光彰(いがらし みつあき、 1865年9月2日(慶応… 五十嵐 光彰(いがらし みつあき、 1865年9月2日(慶応元年7月13日)- 1913年〈大正2年〉4月24日)は、明治時代に活躍した日本の実業家、ジャーナリスト、官吏。東京通信社社長・主幹(第2代)、警保局(現・警察庁)警部。 豊後国速見郡杵築(現大分県杵築市)で杵築藩士五十嵐光彬の二男として生まれ、1890年(明治23年)4月に家督を相続した。 大阪の英和学舎(現・立教大学)で学ぶ。テオドシウス・ティングによって、先の聖テモテ学校を復興して、1879年(明治12年)に開校された英和学舎は、1887年(明治20年)に東京の立教大学校と合併して閉校するまでのおよそ8年の間に、聖職者に元田作之進、近重利澄、小林彦五郎、実業家に大塚惟明、寺岡踏正(旧・平井忠介)、的場松太郎、山根虎二郎、五十嵐光彰、土屋元作、教育者に松村松年、土生靑(土生青)、栃谷六三郎、新聞記者に水田栄雄(水田南陽)、永松達吾、粟屋関一、医師に深澤鑒十郎(深澤鑑十郎)、官吏に久芳直介など、多くの名士を輩出した。
石橋 忍月(いしばし にんげつ、慶応元年9月1日(グレゴリオ… 石橋 忍月(いしばし にんげつ、慶応元年9月1日(グレゴリオ暦1865年10月20日) - 1926年(大正15年)2月1日)は日本の文芸評論家、小説家、弁護士、政治家。本名は友吉。号は萩の門、気取半之丞、福洲学人など。三男は文芸評論家の山本健吉(本名・石橋貞吉)。 明治23年(1890年)、森鷗外の「舞姫」、「うたかたの記」等をめぐり鴎外と論争し評論の地位を高めた。しかし、壮年以降は文学からはなれ、長崎県の県会議員、弁護士として活動した。 帝大在学中からレッシング、ゲーテ、シラーなどに親しみ、文学への目を開き坪内逍遥の『妹と背鏡』、二葉亭四迷の『浮雲』などを論じた清新な筆触で認められた。
有賀 長文(ありが ながふみ、1865年8月27日(慶応元年… 有賀 長文(ありが ながふみ、1865年8月27日(慶応元年7月7日) - 1938年(昭和13年)9月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、三井財閥の幹部(三井合名会社理事長)。 摂津国大坂(現在の大阪府大阪市)で代々歌道を生業とする家系に生まれる。1889年(明治22年)帝国大学法科大学政治科を卒業後、井上毅長官の下、法制局の試補を経て、貴族院書記官に転じる。その後、農商務省へ入省、農商務書記官、参事官、工務局長を歴任する。1898年(明治31年)、大隈重信が板垣退助と連合して、第3次伊藤内閣の後を受けて、隈板内閣が発足すると、行政整理の一つとして大石正巳農商務大臣が、商務局と工務局の統合を打ち出す。
武田 熊蔵(たけだ くまぞう、1865年8月27日〈慶応元年… 武田 熊蔵(たけだ くまぞう、1865年8月27日〈慶応元年7月7日〉 - 1943年〈昭和18年〉2月8日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。埼玉県川越市長。 武田鉚助の長男として忍町(現行田市)に生まれる。1882年(明治15年)埼玉県巡査を振り出しに1899年(明治32年)深谷警察署長、ついで越谷、川越、浦和など県内の主要な警察署長を歴任。1910年(明治43年)北葛飾郡長に就任したのち、秩父、大里、北足立郡各郡長を経て、1923年(大正12年)川越市長に就任した。 市長在任中は、産婆看護婦学校(現川越看護専門学校)や市立商業学校・実科高等女学校を開設し、1927年(昭和2年)下水道1期工事を完成させるなど草創期の市政発展に尽力した。
田村 沖之甫(たむら おきのすけ、1865年8月27日(慶応… 田村 沖之甫(たむら おきのすけ、1865年8月27日(慶応元年7月7日) - 1919年4月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 甲斐国東山梨郡相興村中尾(現:山梨県笛吹市一宮町)に宮司・田村義事の息子として生まれる。陸軍士官学校(旧10期)に入り、1888年(明治21年)7月28日、砲兵少尉に任官。1899年(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業。陸軍省総務局勤務となる。 日露戦争に第4軍参謀として出征した。1908年(明治41年)12月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第4連隊長に就任。1910年(明治43年)10月、ドイツ駐在武官に発令された。1913年(大正2年)2月、軍務局砲兵課長に転じた。
中澤 年章(なかざわ としあき、元治元年8月20日(1864… 中澤 年章(なかざわ としあき、元治元年8月20日(1864年9月20日) - 大正10年(1921年))とは、明治時代の浮世絵師。 月岡芳年の門人。姓は中澤、名は延太郎。年章は号で、幽斎は別号。甲斐国巨摩郡布施村(現在の山梨県中央市小井川)の百姓・惣甫・りうの長男として生まれる。6歳の時父を亡くし、2年後に継父・喜七が入婿、弟が生まれる。明治14年(1881年)継父の姪・ゑいと結婚するが、4年後に離縁。その後、家を弟に任せ上京し、月岡芳年の内弟子となった。 月岡芳年に師事した理由は明らかではないが、芳年は元治元年(1864年)に甲府道祖神祭礼における幕絵制作のため甲府を訪れており、1871年(明治4年)にも山梨県を訪れている。
伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年… 伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年9月18日〈元治元年8月18日〉- 1913年〈大正2年〉7月30日)は、日本の歌人、小説家。明治期に活躍した。 明治法律学校(現・明治大学)で学ぶが、眼病のため中退し帰郷。再度上京し、1889年に牛乳搾取業を始めた。 短歌に関心をもったのは1893年頃で、正岡子規の『歌よみに与ふる書』に感動、1900年に門人となった。子規没後は、根岸短歌会の中心となり、「馬酔木」「アララギ」を創刊、アララギ派の基礎を作った。1905年には、純愛小説『野菊の墓』を発表、夏目漱石にも激賞された。 晩年には、感情の直接的表現と、熱情の奔流を主張する「叫び」の説を唱えた。
稲瀬川 栄治郎(いなせがわ えいじろう、1864年9月17日… 稲瀬川 栄治郎(いなせがわ えいじろう、1864年9月17日(元治元年8月17日) - 1925年(大正14年)1月22日)は、現在の茨城県笠間市出身で入間川部屋に所属した力士。本名は小幡 栄次郎。169cm、98kg。最高位は西前頭筆頭。 1889年幕下格で初土俵、四股名は師匠の入間川清藏が一時名乗っていたものに因む。1897年5月十両昇進。1902年1月新入幕、1910年6月廃業した。1907年6月から1910年6月までは最年長力士。廃業後は男爵古河虎之助の家に召し抱えられ、身辺の世話や相撲の指導を行った。大正14年1月22日東京滝野川区西ヶ原の自宅で腎臓病の為60歳で没する。東京都台東区谷中の慈雲山瑞輪寺に埋葬されている。
添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年… 添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和4年(1929年)7月4日)は、明治・大正期の財政家(大蔵官僚)・銀行家・実業家・経済学者・官庁エコノミスト。法学博士(1899年)。貴族院議員。筑前(現在の福岡県)の出身。日本法律学校(現日本大学)の設立に加わった。 近代日本における財政確立の功労者の一人であるとともに、経済学の教育・普及に尽力した「官庁エコノミスト」の先駆け的人物として知られている。 1864年、筑前国遠賀郡広渡村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の職人・添田新三郎の三男として生まれる。出生当時は添田家は相当の資産家であったが、父新三郎が私欲が無く慈善を好んだため資産を使い果たし、家族と共に7歳から諸国を流浪することとなる。
芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元… 芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元年8月15日) - 1953年(昭和28年)2月27日)は、日本の陸軍軍医。最終階級は軍医総監。医学博士。レントゲン技術の日本への導入に貢献したほか、軍陣医学の発展に寄与した。 幕末の会津若松城下で、会津藩藩士の芳賀家に生まれる。戊辰戦争の敗戦により一家は離散したが、兄の直政は弁護士となり、姉(又は妹)は旧会津藩士で検事となった小原朝忠に嫁ぎ、小原夫妻の養子が小原直である。 帝国大学を最優等で卒業。大学院で外科を専攻し、スクリバに師事する。在学中に郷里で発生した磐梯山噴火の際は、三輪徳寛とともに現地で負傷者の救護にあたった。大学院を卒業し、『特発脱疽ニ就テ』で医学博士号を授与される。
相川 久太郎(あいかわ きゅうたろう、元治元年8月15日(1… 相川 久太郎(あいかわ きゅうたろう、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 大正15年(1926年)2月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 加賀国江沼郡東谷口村(現在の石川県加賀市)に山口庄助の二男として生まれ、相川家の養子となった。東京で法律学を学び、弁護士試験に合格。法律事務所を開業した。また、石川県会議員に選出された。 1890年(明治23年)第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第11回衆議院議員総選挙で再選された。 その他、石動電気株式会社取締役、能登電気株式会社監査役、飛越電気株式会社監査役を務めた。
森 盲天外(もり もうてんがい、1864年9月13日(元治元… 森 盲天外(もり もうてんがい、1864年9月13日(元治元年8月13日) - 1934年(昭和9年)4月7日)は、愛媛県会議員、余土村長、道後湯之町長を務めた政治家である。本名:森 恒太郎(もり つねたろう)。
尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治… 尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治元年8月11日)- 1917年(大正6年)3月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。従四位勲四等。貴族院男爵議員。 土佐藩士・尾崎忠治の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)10月、家督を継承し、同年11月6日、男爵を襲爵した。 東京帝国大学法科大学を修了。1883年(明治16年)前橋始審裁判所書記に就任。ほどなく退官して、日本銀行文書局書記、同検査役、都銀行取締役などを務めた。1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、死去するまで在任した。 1917年3月、神奈川県鎌倉郡鎌倉町長谷の私邸で療養中に死去した。
市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治… 市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治元年8月9日) - 1947年(昭和22年)2月23日)は、日本の歴史学者。文学博士。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長。専門は東洋史、中国史。字は圭卿。号は器堂・筑波山人・月波散人。日本の東洋史学の開拓者。 元治元年(1864年)、常陸国筑波郡北条町(現茨城県つくば市北条)出身。1878年に上京し、明治法律学校を経て、1887年に帝国大学古典漢書科を卒業。 翌1888年に学習院傭教師に就いた。1890年に同助教授、1892年に同教授昇格。学習院傭教師時代の1889年には、森鷗外らとともに同人組織の新声社を結成し、8月に日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた共訳の詩集『於母影』(雑誌『国民之友』夏期付録)を刊行した。
木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元… 木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元治元年8月8日) - 1944年(昭和19年)11月22日)は、日本の司法官、教育者。 1864年(元治元年)、木下誉一郎の三男として紀伊国日高郡御坊町で生まれた。財部村好浄寺住職湯川知城の後凋学舎で漢学を修めた。1880年(明治13年)9月、司法省法学校に入学。同期に横田秀雄(のちの大審院長)や水町袈裟六(のちの日銀副総裁)がいた。司法省法学校の廃校後は東京法学校を経て帝国大学法科大学(仏法科)に編入。1888年(明治21年)7月に卒業して司法部に入り、東京控訴院判事、行政裁判所部長などを歴任した。1913年(大正2年)6月休職となる。
大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月… 大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月7日〉 - 明治33年〈1900年〉11月2日)は、日本の哲学者。郷里岡山の操山()にちなんで操山と号す。「日本哲学の父」「日本のカント」との評価も受ける。 備前国岡山西田町(現・岡山県岡山市)で岡山藩士・木全(きまた)正脩の三男として生まれ、後に母方の実家・大西家の養子となる。1877年(明治10年)9月、同志社英学校普通科に入学。翌年新島襄より受洗。在学中は山崎為徳の薫陶を受け、彼の思想形成に大きな影響を与えた。15歳で、叔父大西定道の家をつぐ。1881年(明治14年)山崎が夭逝した時、大西は呆然自失に陥ったといわれる。1884年(明治17年)、同志社英学校神学科を卒業。
中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年… 中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年9月7日) - 没年不詳)は、日本の農商務官僚。錦鶏間祗候。 三重県出身。1889年(明治22年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。判事試補、判事を務める。1892年(明治25年)、農商務省に転じ、鉱山監督官、農商務参事官・製鉄所事務官、農商務書記官、福岡鉱山監督署長、大阪鉱山監督署長、東京鉱山監督署長、東京鉱務局長などを歴任した。 退官後は、東京帝国大学や秋田鉱山専門学校などで講師として鉱山法を講義した。1923年(大正12年)5月7日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
二代目 五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう、元治元年8月7日〈… 二代目 五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう、元治元年8月7日〈1864年9月7日〉 - 昭和18年〈1943年〉1月9日)は、明治末期から昭和初期にかけて活躍した洋画家。 下総国猿島郡沓掛村(現茨城県坂東市)で、神祇官白川殿免許の大工倉持正重の六男として生まれる。本名は子之吉、通称は芳雄。幼少から画を好み、5,6歳の頃、麦の穂を一日中その場を動かず丹念に写生し、家の人が覗いてみると、色・形から粒の並びまで実物そっくりだったという。1878年(明治11年)2月上京、五姓田義松の画塾に入る。同年、工部美術学校教師アントニオ・フォンタネージに通い、指導を受ける[要出典]。義松の日記では「明治十三年四月二日に倉持子之吉弟子となる」とあり、正式に弟子となったのはこの時だと考えられる。
明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864… 明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) - 大正8年(1919年)10月26日)は明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。夫人は国子、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。
山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治… 山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治元年8月1日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月2日)は、日本の教育者、内務官僚、神職。政友会系官選鳥取県知事。 筑前国夜須郡秋月春小路で、秋月藩士・山田正修(まさのぶ)、清(せい)の長男として生まれる。1886年、杉浦重剛の称好塾に入塾し薫陶を受けた。1887年、第一高等中学校を卒業。さらに1890年7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同月24日、法制局試補となる。 1893年、鹿児島高等中学造士館教授となる。1895年、静岡県参事官に転任。以後、広島県参事官、福井県書記官、青森県書記官、法制局参事官兼同書記官、大阪府書記官、東京府書記官などを歴任。
戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月… 戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月1日〉 - 1915年〈大正4年〉4月15日)は、明治期の政治家、尋常小学校教員、華族。貴族院子爵議員。 下野宇都宮藩一門重臣・戸田忠至の嫡男戸田忠綱の長男として生まれる。忠義の出生当時、祖父の忠至はすでに大名格であったが、2年後の慶応2年(1866年)に分知を受けて支藩下野高徳藩主となった。父の忠綱もその跡を継いで明治2年(1869年)に高徳藩知事、のち曾我野藩知事となった。 父の隠居に伴い、1882年(明治15年)6月29日に家督を相続する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1883年(明治16年)宮中賢所勤番に就任する。
牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元… 牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元年8月1日)- 1928年(昭和3年)5月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、富山市長。 越中国新川郡富山風呂屋町(現富山県富山市堤町通り)で、町年寄・牧野正貫(まさつら)の長男として生まれる。漢学、数学を修めた。家業の呉服業を営む。その他、十二銀行取締役、北陸商業銀行取締役、第四十七国立銀行取締役、富山電灯取締役、中越鉄道取締役、北陸生命保険取締役、富山鉄道取締役、富山米穀肥料取引所監査役、富山商業会議所副会頭などを務めた。また、富山実業新聞を創刊した。 政界では、1892年5月、富山市会議員に選出され、18年間在職し、同議長、富山県会議員、同議長も務めた。
田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年… 田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1938年(昭和13年)12月1日)は明治〜昭和期の医学博士、外科医、日本整形外科の命名者で基礎を築く。東京帝国大学教授、東京市会議員に当選し、東京府社会事業活動を通じて医事衛生問題に取り組む。栃木県出身。 1864年8月27日((旧暦)元治元年7月26日)、下野国足利郡田中村(現栃木県足利市田中町)で代々名主を務めた田部井家三男として誕生。父は田部井森平、幼名を又助と称した。1869年(明治2年)近村にある私塾清花堂で手習いを修め、八幡村(現足利市八幡町)の禅定院にある立教小学校から1877年(明治10年)栃木の中教院学校に入り漢詩を学び、1878年(明治11年)梁田郡掘込村宝勝寺の八幡村小学校の教師になる。
樫野 恒太郎(かしの つねたろう、元治元年(1864年)8月… 樫野 恒太郎(かしの つねたろう、元治元年(1864年)8月27日 - 昭和23年(1948年)5月1日)は江戸時代末期(幕末)生まれで、明治・大正・昭和時代の実業家。 元治元年(1864年)8月27日、徳島県阿南市中林町に、徳島藩中老・海上方奉行で通称阿波水軍の長であった森甚五兵衛16代目村晟の家臣であった父・樫野藤蔵と母・ミツの間に生まれる。明治維新後、父が創業した石灰製造所を継ぎ、神戸・徳島など京阪神を始め、国内の石灰業界で活躍し事業を拡大した(第二次世界大戦前、徳島県南部は大理石及び石灰石の代表的産地であり、大正9年(1920年)着工、昭和11年(1936年)完成の現在の国会議事堂の3階天皇御休憩所の出入口や内部の内装及び彫刻その他の議事堂各所に使われている石材である時鳥(ほととぎす)答島(こたじま)加茂更紗(かもさらさ)などは徳島県産であり、山口県産と並んで国会議事堂の石材の主要な部分を占めている)。
古森 泰(こもり たい、1864年8月27日(元治元年7月2… 古森 泰(こもり たい、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1937年(昭和12年)5月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。 対馬国下県郡厳原(現在の長崎県対馬市)出身。長崎甲種医学校を卒業。厳原町で協立厳原病院を開業し、医療に従事した。日清戦争時には対馬警備隊医務嘱託を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久… 早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久3年8月8日〉 - 1916年〈大正5年〉4月17日)は、明治時代の政治家・実業家・銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国安八郡、のちの岐阜県海津郡今尾町(平田町を経て現海津市)出身。早川理右衛門の長男として生まれ、1883年(明治16年)10月、家督を相続する。 1890年(明治23年)の岐阜県会議員選挙に安八郡選挙区から立候補して初当選を果たしたが、任期途中で辞職した。そのほか、南濃銀行頭取、土地家屋貸付会社社長、七十六銀行、真宗生命保険、大垣銀行、美濃商業銀行、竹鼻銀行、岐阜市貯蓄銀行、濃飛農工銀行、治水共同社、福寿生命保険取締役、美濃貯蓄銀行、高須貯蓄銀行各重役などを歴任した。
川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年… 川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年8月8日)- 1926年(大正15年)9月4日)は、明治時代から大正時代の華族(男爵)、実業家、発明家。現在の株式会社KTKの創業者。 薩摩国鹿児島郡塩屋町(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて、後に男爵となる薩摩藩士の川崎祐名の長男として生まれる。 1875年、横浜に住んでいた英国人のワッソン女史方に寄留して英語を習得した。16歳の頃に寛美と改名する。19歳で大学予備門の1級生から外務省御用掛となった。この頃激務の余暇に、のちに子爵となる曽根荒助からフランス語を学んだ。22歳でロンドンの日本公使館の会計主任となる。1886年、官制改革で交際官試補となり、1887年にはパリの日本公使館会計主任に転じた。
河本 にわ(かわもと にわ、 1863年9月17日〈文久3年… 河本 にわ(かわもと にわ、 1863年9月17日〈文久3年8月5日〉 - 1976年〈昭和51年〉11月16日)は、1975年5月31日から死去まで長寿日本一及び長寿世界一であった滋賀県の女性。また、生年に確証のある中では当時の日本歴代最高齢でもあり、生年に確証のある日本人としては初めて113歳を迎えた人物でもあった。 滋賀県高島郡安曇川町(現・高島市)で、より糸工場を経営していた河本家に嫁ぐ。20代で結婚して8人の子を産み、生前に80人以上の子孫ができた。元自由民主党参議院議員の河本嘉久蔵は孫である。100歳のときに河本嘉久蔵から隠居所を貰い、晩年まで居住していた。 1975年5月31日梅田ミトの死去に伴い、長寿日本一および世界一の座を引き継いだ。
青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文… 青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文久3年8月2日) - 1944年(昭和19年)12月21日)は、日本の牧師である。 岡崎藩士青山昇三郎(後の日本基督教会牧師)の長男として岡崎に生まれる。明治維新になり、1875年(明治8年)8月に父と共に東京に転居。東京市築地の新栄教会でデイヴィッド・タムソンと小川義綏の薫陶を受け、1877年(明治10年)1月に受洗する。 1880年(明治13年)に築地大学校に入学する。ジェームス・ハミルトン・バラらに薫陶を受ける。後に東京一致英和学校に移る。1885年(明治18年)に明治学院の最初の卒業生となる。卒業と同時に、神学部に入学する。 しばらく四国の大洲で伝道をしたのち、1888年(明治21年)に渡米し、マコーミック神学校で学ぶ。
石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(18… 石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(1863年9月13日) – 昭和13年(1938年)9月12日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 弘前に生まれ、東奥義塾を卒業した。1889年(明治22年)、弘前市会議員となり、1891年(明治24年)には中津軽郡会議員となった。1896年(明治29年)、青森県会議員に選出され、1903年(明治36年)には議長に就任した。1907年(明治40年)、県会議長に再選され、弘前市会議長も兼ねた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1期務めた。1913年(大正2年)、再び市会議員となり、さらに1918年(大正7年)・1922年(大正11年)・1934年(昭和9年)の3度、弘前市長に選出された。