林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年… 林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年1月20日)- 1921年(大正10年)11月21日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・小原。 尾張国春日井郡上条村(愛知県春日井郡和爾良村、東春日井郡和爾良村、鳥居松村を経て現春日井市上条町)で、小原藤三郎の長男として生まれ、皇漢学、英学、撃剣、柔術を学んだ。1881年(明治14年)先々代林金兵衛の養子となり、先代・亡養兄国太郎の家督を相続し農業を営む。 学務委員、勧業委員、東春日井郡書記、和爾良村会議員、連合村会議員、愛知県教育会商議員、愛知県育児院幹事、東春日井郡徴兵参事員、同郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、大日本武徳会支部常置委員などを務めた。
初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日… 初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日〈1863年3月9日〉 - 1929年〈昭和4年〉6月6日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。群馬県前橋市長、第12代群馬県会議長、前橋市会議長、群馬中央銀行(現・群馬銀行)頭取。 坂本金十郎の三男として、武蔵国児玉郡児玉町(現・埼玉県本庄市)に生まれる。 前橋の江原都奈(つな)の養子となり、資産家・江原家の分家を継いだ。 1892年(明治25年)第1回前橋市会議員選挙に当選。以後1896年(明治29年)から翌年まで市会副議長、1898年(明治31年)から1903年(明治36年)まで市会議長を務める。1903年(明治36年)に群馬県会議員に当選、1905年(明治38年)県会議長となる。
東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月… 東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月18日(1863年3月7日) - 大正5年(1916年)1月24日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政本党)。弁護士。 備中国川上郡松原村(現在の岡山県高梁市)出身。司法省法学校で法学を学んだ。1888年(明治21年)より松江、東京、大阪の各裁判所で判事を務めた。1893年(明治26年)に官を辞し、大阪で弁護士を開業した。 1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第6回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(186… 朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(1863年3月5日) - 昭和2年(1927年)6月14日)は、日本の衆議院議員、弁護士。 加賀国金沢出身。石川県専門学校、東京英和学校を経て、1885年(明治18年)に東京大学法学部選科に入学した。その後本科に移り、1889年(明治22年)に帝国大学法科大学英法科(東京大学から改称)を卒業した。渋沢栄一の知遇を得て第一銀行法律顧問となり、さらに浅野総一郎の法律顧問も務めた。また東京法学院、東京専門学校、東京商業学校、専修学校、日本法律学校などの講師に就任した。1890年(明治23年)に弁護士となり、1896年(明治29年)には日本弁護士協会の結成に参加した。
阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年… 阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年1月16日〉- 1941年〈昭和16年〉11月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。父親は阪谷朗廬。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻である。 後月郡西江原村(現:岡山県井原市)、幕末に開国派として活躍した漢学者、阪谷朗廬の四男として生まれる。1873年(明治6年)に父の友人である箕作秋坪の三叉学舍に入り、1876年(明治9年)には東京英語学校に入学、1880年(明治13年)には東京大学予備門を卒業。 1884年(明治17年)、東京大学文学部政治学科(現:法学部第3類)を卒業後、大蔵省に入省する。
五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863… 五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863年3月3日) - 昭和19年(1944年)8月7日)は、日本の実業家、政治家。北海道多額納税者。北海造営(株)監査役。札幌電気軌道監査役。金融業。地主。北海道士族。衆議院議員。 越前国足羽郡、のちの福井県足羽郡和田村(現福井市)出身。福井県士族五十嵐佐次平の長男。明治31年(1898年)家督を相続する。金融業を営む。衆議院議員に挙げられる。 五十嵐農場(東中)の土地売却をめぐっては、当時急激に増加しつつあった小作争議との関わりで社会の注目を集めることになった。この農場は明治40年(1907年)に中島農場から所有権が移動したもので、実質的な所有者は札幌の金貸し業・五十嵐であった。
河村 九淵(かわむら ちかすえ、1863年3月2日(文久3年… 河村 九淵(かわむら ちかすえ、1863年3月2日(文久3年1月12日) - 1934年4月9日)は、日本の教育者、農学者。熊本農業学校(現・熊本県立熊本農業高等学校)初代校長、立教学校(現・立教大学)化学教授、奈良英和学校校長、香川県高松尋常中学校校長。熊本県近代文化功労者。 1863年(文久3年)、津山藩士・河村浩一の長男として江戸に生まれる。岡山県出身。1876年(明治9年)に開校した日本最初の高等農業教育機関である札幌農学校(現・北海道大学)で4期生として学ぶ。 農学校卒業後、山形で農学校教諭、香川県高松尋常中学校校長を歴任。 1890年(明治23年)10月、立教大学校(現・立教大学)が改組されて第2次立教学校が発足すると、化学の教授に就任し、動物学、植物学、生理学を講じる。
佐藤 琢治(さとう たくじ、文久3年1月13日(1863年3… 佐藤 琢治(さとう たくじ、文久3年1月13日(1863年3月2日) - 1902年(明治35年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。号・養花生、浩毅。 陸奥国登米郡登米(現在の宮城県登米市)で、仙台藩陪臣・佐藤弥右衛門の二男として生まれる。明治法律学校(現在の明治大学)で学ぶ。自由党に入党したため、保安条例で追放された。『新愛知』、『仙台自由新聞』、『民報』、『自由党党報』で記者を務めた。1892年(明治25年)、宮城県会議員に選出。 1898年(明治31年)、第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
鎌田 三之助(かまた さんのすけ、1863年3月2日(文久3… 鎌田 三之助(かまた さんのすけ、1863年3月2日(文久3年1月13日) - 1950年(昭和25年)5月3日)は、日本の公共事業家、政治家。衆議院議員、宮城県鹿島台村(現在の大崎市鹿島台地域)村長。品井沼干拓事業に打ち込み「わらじ村長」の名で知られた。 1863年(文久3年)陸奥国志田郡木間塚村竹谷(現在の宮城県大崎市古川、旧・古川市)に鎌田三治の次男として生まれる。生家の鎌田家は、仙台藩士の流れを汲む家で鳴瀬川に沿った大地主の家柄であり、祖父玄光、父三治とも地元の治水事業に生涯を傾けた。1878年(明治11年)政治家を志し上京し、漢学塾や明治法律学校で学ぶ。郷里に戻り農業に従事しながら木間塚に青年教育の場として大成館を設立し夜学で教える。
竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久… 竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久3年1月12日)- 1932年(昭和7年)4月16日)は、明治から昭和初期の大蔵官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・古瀬。 出羽国最上郡、のちの山形県最上郡新庄町(現新庄市)で、素封家、新庄藩士・古瀬鉄之助の第五子として生れ、同藩士・竹村勝行の養子となる。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 1888年11月24日、大蔵省試補に任官し出納局に配属。出納局配賦課事務取扱、大蔵主計官、預金局勤務、兼預金局収支課長、理財局国庫課長、青森県収税長、岡山県収税長、新潟税関長、司税官、新潟県税務管理局長、大蔵主計官などを歴任し、1898年(明治31年)10月27日に退官した。
久保田 与四郎(くぼた よしろう、文久3年1月11日(186… 久保田 与四郎(くぼた よしろう、文久3年1月11日(1863年2月28日) - 大正8年(1919年)4月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 文久3年(1863年)、信濃国小県郡長瀬村(現長野県上田市)で出生。旧姓は高柳。 16歳にして長野師範学校を出て小学校教員となる。明治14年(1881年)1月辞して、翌年慶應義塾に入るが、2年にして帰郷。後に再度上京して明治法律学校に入学。代言人(弁護士)免許を得て、明治19年(1886年)卒業。 明治20年(1887年)1月、東京にて弁護士を開業。後にロンドンに留学して、法学、政治学を学ぶ。 英船ノルマントン号事件の名誉回復訴訟における原告代理人などを務めた。
村上 先(むらかみ すすむ、文久3年1月8日(1863年2月… 村上 先(むらかみ すすむ、文久3年1月8日(1863年2月25日) - 1925年(大正14年))は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。実業家。号は李門。 陸奥国気仙郡矢作村(現在の岩手県陸前高田市)出身。仙台藩士伊藤武左衛門の二男として生まれ、村上大蔵の養子となった。漢学・英学を学び、鳥取県東伯郡長、札幌支庁長を務めた後、台湾総督府に移り、台北県滬尾弁務署長、臨時土地調査局事務官、塩水港庁長、台南庁長を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、台湾証券交換所社長、日鮮鉱業社長、大正活映社長、帝国殖産興業社長、東洋美術興業社長、旭製炭顧問などを務めた。
河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文… 河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文久3年1月7日)- 1933年(昭和8年)11月13日)は、明治期から昭和初期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、山梨県南都留郡谷村長、同谷村町長。 甲斐国都留郡、のちの谷村(山梨県南都留郡谷村、谷村町を経て現都留市)で、豪農・河口善兵衛の長男として生まれる。和漢学、数学を修めた。1877年(明治10年)1月、家督を相続し農業を営む。 1882年(明治15年)7月、巌村(現上野原市)の古家広泰らの鶴北自由党(のち峡中立憲党)に入党し自由民権運動に加わった。谷村長、谷村町長、南都留郡会議員、同参事会員、所得税調査員を務めた。1888年(明治21年)山梨県会議員に選出された。
坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(186… 坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日)は、日本の自然人類学者。日本初の人類学者として、日本における考古学・人類学の普及と確立に尽力した。坪井信道の孫で、坪井信良の子。 蘭方医・坪井信道の孫として江戸の両国矢之倉(現・東日本橋)に生まれた(父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良である)。1877年大学予備門に入り、1886年帝国大学理科大学動物学科卒業。同年、東京人類学会を結成。帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の1888年帝国大学理科大学助手。翌年より3年間イギリスに留学し、1892年10月帰国し帝国大学理科大学教授。
武島 務(たけしま つとむ、1863年2月20日(文久3年1… 武島 務(たけしま つとむ、1863年2月20日(文久3年1月3日) - 1890年(明治23年)5月17日)は、日本の明治期の陸軍軍医。森鷗外の短編小説『舞姫』に登場する主人公・太田豊太郎のモデルとされる。 1863年2月20日(文久3年1月3日)、武蔵国秩父郡太田村(現・埼玉県秩父市)に漢方医であった武島家三代目の父・有慶と母・きよの長男に生まれた。済生学舎(現日本医科大学)と東亜医学校にて医学を学ぶ。東亜医学校では森鴎外から生理学の講義を受ける。1882年(明治15年)に東京府医術開業試験に合格。内外科医術開業免許を受ける。 1884年(明治17年)3月、軍医学講習所(陸軍軍医学校の前身)に入所。
小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月… 小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月11日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、駿河国生まれの書家。名は鐧之助、字は間金、鵞堂は号。別号を斯華翁、斯華書屋主人という。斯華廼舎、二柳居の堂号もある。 明治、大正のかな書道界を代表する大家で、現代のかな書道の基礎を築いた一人である。平安期の草仮名を基底として独自の流麗なスタイルを案出し、その書風は鵞堂流と称され多くの門弟を得た。また「斯華会」を創設し、この組織をもって普及に努めたため、婦人たちで習字をするものはほとんど鵞堂流を習うという盛況を現出した。 文久2年(1862年)駿河国(静岡県)藤枝宿に、田中藩士の武道師範、小野清右衛門成命の長男として生まれる。
山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久… 山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久2年2月9日) - 1945年(昭和20年)3月4日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の物理学者、官僚。理学博士。 出雲国(現・島根県)松江に、松江藩士・山口軍兵衛礼行(知行は200石)の三男として生まれる。1884年、東京大学理学部物理学科を卒業。 東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。 その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。
宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年… 宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年2月8日〉 - 1928年〈昭和3年〉4月2日)は、日本の銀行家・会社役員、新潟県の大地主、篤農家、新潟県多額納税者。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)・宇尾野友太郞の長男。1887年、東京高等商業学校を卒業する。新潟商業学校長となる。1893年、家督を相続する。 新発田倉庫、新潟貯蓄銀行各監査役、第四銀行取締役・同専務取締役をつとめる。 宇尾野家は古着商で、平凡な一庶民階級であったが、藤八は極めて堅実な人で、よく産を為した。第四国立銀行創設当時、支配人の白勢彦次郎に知られ同行に入り、累進して専務取締役となった。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。
飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年… 飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年2月5日) - 1908年(明治41年)2月6日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 小松藩郷士・飯尾才右衛門、武川氏の長男として伊予国新居郡萩生村(中萩村、中萩町を経て現愛媛県新居浜市)に生まれる。尾埼山人について漢学を修めた。1888年(明治21年)新居郡会議員に当選したのを皮切りに、愛媛県会議員を務めた。1898年(明治31年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月8日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。 1888年(明治21年)5月、飯尾製糸場を設けて機械製糸を開始し、県内屈指の製糸工場となった。
宮川 久次郎(みやかわ きゅうじろう、文久2年2月3日(18… 宮川 久次郎(みやかわ きゅうじろう、文久2年2月3日(1862年3月3日) - 没年不詳)は、明治期日本の外交官、銀行家。在広東副領事、在香港副領事、在ニューヨーク一等総領などを歴任した。 東京府出身。高等商業学校(現一橋大学)卒業後、外務省入省。森有礼文部大臣による上申により、1888年に交際官試補と兼任して母校高等商業学校教諭に任じられ、統計を講じた。1889年広東副領事。同年汕頭副領事及び瓊州副領事を兼務。1890年香港副領事。1895年ニューヨーク一等領事。1897年に非職となり、のち横浜正金銀行副支配人などを務めた。1900年叙正六位。1908年の申酉事件では、成瀬隆蔵、図師民嘉、村瀬春雄、八十島親徳と大学問題実行委員に就任。
嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(18… 嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(1862年3月1日) - 昭和22年(1947年)10月26日)は、日本の小説家、翻訳家、評論家、詩人。 嵯峨の屋 お室、矢崎 嵯峨の舎(屋)(やざき さがのや)、北邙散子(ほくぼうさんし)、探美(たんび)などの筆名もある。 本名・矢崎 鎮四郎(しんしろう) 曾孫は、俳優・モデルの岡本竜汰。 後の東京市日本橋区(現・東京都中央区)日本橋箱崎にあった下総関宿藩邸生まれ。父親が脱藩し彰義隊(卍隊)に加わったため、貧苦の生活を送る。 1876年、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科の給費生となる。二葉亭四迷とは同級生だった。 卒業後統計院に勤めるが官制に伴って失職、二葉亭四迷の紹介で坪内逍遥の門下生となる。
井尻 良造(いじり りょうぞう、1862年3月1日 - 19… 井尻 良造(いじり りょうぞう、1862年3月1日 - 1925年9月11日)は、京都府船井郡世木村殿田にいた政治家・実業家。京都府会議員の在任中、八木町と富本村をつなぐ桂川(大堰川)のわたしにはじめて木橋を架設した。 1862年(文久2年)3月1日、良造は丸山小三太の三男として丹波国多紀郡栃梨村(現・兵庫県丹波篠山市栃梨)に生まれた。丸山家は篠山藩譜代の藩士で、側用人をつとめた上士の家柄であった。良造は、多紀郡篠山在の某塾(のちに鳳鳴義塾、現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)で学んだ。 1878年(明治11年)11月、良造は16歳の時、船井郡殿田村(現・南丹市日吉町殿田)の井尻家に養嗣子として迎えられた。
戸井 嘉作(とい かさく、1862年2月23日〈文久2年1月… 戸井 嘉作(とい かさく、1862年2月23日〈文久2年1月25日〉 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(立憲民政党)。横浜市会議員。横浜市参事会員。族籍は神奈川県平民。 甲斐国山梨郡下鍛冶屋村(のち山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋、現・山梨県甲府市)生まれ。戸井彦五郎の長男。3歳の時に母りんが亡くなり、専ら祖母ツネに養育される。 7歳より寺子屋に通い、9歳の時に初めて小学校が設けられて入学する。13歳の時に小学校を卒業して甲府の神道局(のち皇典講習所)に19歳まで修業する。20歳の時に神奈川県四等巡査を拝命する。 22歳の時に三浦郡役所準判任御用掛となる。
元田 作之進(もとだ さくのしん、文久2年2月22日(西暦1… 元田 作之進(もとだ さくのしん、文久2年2月22日(西暦1862年3月22日) - 1928年(昭和3年)4月16日)は、聖公会の日本人最初の監督(主教)。日本聖公会東京教区初代主教。立教大学の初代学長、英和学舎塾長。松下正寿は娘婿。 文久2年2月22日、筑後国久留米藩士(郡奉行を務めた)の第6子として出生。1877年(明治10年)、久留米師範学校の第一回卒業生になる。卒業後は小学校や中学校の教師を務めた。 1881年(明治14年)米国聖公会宣教師テオドシウス・ティングの大阪・川口の英和学舎(のちの立教大学)で学ぶ。 1882年(明治15年)に洗礼を受けてキリスト教に入信。同年、英和学舎の教師である河島敬蔵が日本で初めてシェイクスピア劇の翻訳を行う中で筆記を担当。
大橋 頼摸(おおはし らいも、1861年3月19日(万延2年… 大橋 頼摸(おおはし らいも、1861年3月19日(万延2年2月9日) - 1912年(大正元年)11月5日)は、明治時代の政治家。実業家。新聞経営者。衆議院議員。静岡県磐田郡井通村長。 遠江国豊田郡小立野村(静岡県豊田郡井通村、磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。浜松師範を卒業し、西之島学校(現磐田市立豊田南小学校)教員となる。ついで郡書記を経て25歳にして川井村外11宿村戸長に就任し、1888年(明治21年)には静岡県会議員に当選した。15年に渡り県議を務め、さらに県常置委員、県参事会員、井通村長、中遠農会長、磐田郡米穀改良組合長、静岡県農会長などを歴任した。 その後、静岡新報を立ち上げ社長として経営に当たったほか、静岡印刷の社長も務めた。
磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延… 磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延2年2月7日) - 1931年(昭和6年)4月23日)は、国民英学会の創立者。磯部彌一郎とも。 熊本藩士磯辺謙叟の二男として豊後国大分郡鶴崎村(現・大分市鶴崎)に生まれる。漢学塾を経て1875年(明治8年)上京し鳴門塾へ入学したのち慶應義塾に学ぶ。一度ほかの私立学校に転じたのち、1877年(明治10年)慶應義塾に復学し、翌年応募した懸賞作文『酒と博打いずれがその害大なるや』で賞を受ける。 福沢諭吉の民権主義に感化され、1880年(明治13年)に退学して北海道の開拓会社「函館開拓社」へ入社、岩内社に移ったのち、同社の閉鎖に伴い岩内小学校の教員となる。
山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元… 山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元年1月28日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 陸奥仙台藩領登米郡、のちの登米町(現登米市)で、商家・山田東十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)11月、家督を相続した。1894年(明治27年)登米郡会議員に当選。1899年(明治32年)から宮城県会議員を4期務めた。ほか、登米町会議員、宮城県参事会員、登米汽船、登米製糸各社長、宮城貯蓄銀行取締役、宮城県繭糸同業組合長などを歴任した。仙北鉄道設立の発起人にも名を連ねた。 1909年(明治42年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月9日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
石母田 正輔(いしもだ しょうすけ/まさすけ、1861年3月… 石母田 正輔(いしもだ しょうすけ/まさすけ、1861年3月6日(文久元年1月25日) - 1941年(昭和16年)5月8日)は、宮城県石巻町長、初代石巻市長。二男に歴史学者・石母田正、五男に政治家・石母田達がいる。 石母田家は仙台藩の重臣で多くの勘定奉行を輩出し、3,000石の知行地を与えられていた。祖父石母田寛衆は筆頭勘定奉行を勤めており、その知行地である陸奥国宮城郡大沢村芋沢(現・宮城県仙台市青葉区)に生まれる。宮城師範学校を卒業し、卒業後は奥羽日日新聞に入り、記者となるが、低収入のため官界に入る。茨城県龍ヶ崎警察署長、茨城、島根両県の警察部勤務を経て、台湾台南県蕃薯藔弁務署長を務めた。その後、台湾時代に知り合った同郷の荒井泰治の誘いを受け、北海道に渡り、札幌の電灯会社の社長に就任した。
平井 万太郎(萬太郎、ひらい まんたろう、1861年3月1日… 平井 万太郎(萬太郎、ひらい まんたろう、1861年3月1日(文久元年1月20日)- 1929年(昭和4年)8月20日)は、明治から大正期の酒造家、政治家。衆議院議員、茨城県稲敷郡根本村長。 常陸国河内郡上根本村(新治県河内郡上根本村、茨城県河内郡上根本村、根本村、稲敷郡根本村、新利根村上根本、新利根町を経て現稲敷市上根本)で酒造家の家に生まれた。漢学、詩文、簿記を修め、酒造業を営む。 1886年(明治19年)大同団結運動に加わり、のち立憲改進党に入党して自由民権運動を推進。根本村会議員、郡徴兵参事員、根本村長に在任。1890年(明治23年)茨城県会議員に選出され1895年(明治28年)まで在任した。
中澤 楠弥太(なかざわ くすやた、1861年2月27日(万延… 中澤 楠弥太(なかざわ くすやた、1861年2月27日(万延2年1月18日) - 1906年(明治39年)11月7日)は、高知県出身の政治家、実業家。 1861年(万延2年)、土佐国長岡郡大津村字田辺島(現高知県高知市大津)で、郷士・中澤愿一、以登の長男として生まれた。明治法律学校(現・明治大学)卒業。 自由民権運動に従事し、板垣退助らの知遇を得る。1891年、県会議員に当選。更に同参事会員などを務めた他、実業界に於いては、土佐紙業組合頭取などを務めた他、1902年には高知銀行(現・四国銀行)頭取に就任。1905年、衆議院議員に当選(高知県郡部選出、立憲政友会)。 その他、高知商工会議所会頭、土陽新聞(高知新聞)専務、土佐農工銀行頭取なども務めた他、国道高知ー徳島線の開通、平山発電所の建設、土佐電気鉄道の敷設、電話局の開局などに大きな貢献を果たし、若くして高知県政財界のリーダーとして重きをなしたが、1906年、上京中に急性化膿中耳炎のため46歳で急逝した。
坂東 勘五郎(ばんどう かんごろう、1861年2月24日(万… 坂東 勘五郎(ばんどう かんごろう、1861年2月24日(万延2年1月15日) - 1918年(大正7年)3月23日)は、日本の政治家。実業家。徳島県東みよし町出身。 阿波国三好郡中庄村(現在の徳島県東みよし町)の郷士・坂東恒五郎の長男として生まれた。 徳島師範学校を卒業後、小学校教員、郡書記、県会議員、県会副議長を経て、1894年(明治27年)の第4回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し衆議院議員として初当選し、以来25年間に渡り国政に参与した。 在任中は、北海道縦貫自動車道の完成、全国の鉄道敷設に力を注いだ。また、地元である徳島県においても徳島鉄道を設立して社長に就任した。 1917年(大正7年)3月23日に急逝。
上野 房之助(うえの ふさのすけ、1861年2月23日〈文久… 上野 房之助(うえの ふさのすけ、1861年2月23日〈文久元年1月14日〉 - 没年不明)は、日本の商人(呉服商)、栃木県多額納税者、上野百貨店創業者。 茨城県新治郡土浦町(現・土浦市)出身。奥井久助の弟、大津順三郎の兄。栃木県宇都宮の上野家の3代目松次郎の長女カネの入夫となる。宇都宮市泉町本家の隣りに呉服太物商を開業する。「油屋呉服店」と称する。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は栃木県宇都宮市本郷町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
穂積 八束(ほづみ やつか、1860年3月20日〈安政7年2… 穂積 八束(ほづみ やつか、1860年3月20日〈安政7年2月28日〉 - 1912年〈大正元年〉10月5日)は、日本の法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。 伊予宇和島藩士の穂積家に生まれる。鈴木(穂積)重樹の三男。長兄の穂積重頴は第二十国立銀行頭取。東京帝国大学法学部教授、民法起草者の一人である穂積陳重は次兄。正三位勲一等。前妻は伊達宗城家令・西園寺公成の長女さと(早世)、後妻は浅野総一郎(初代)(浅野財閥創始者)の長女まつ。 明治22年から始まった民法典論争に際し発表した論文「民法出テゝ忠孝亡フ」(法学新報第5号、明治25年8月25日)で非常に有名だが、本文中に登場する文言ではなく、穂積陳重によると題名は江木衷の発案。
竹内 明太郎(たけうち めいたろう、1860年3月20日(万… 竹内 明太郎(たけうち めいたろう、1860年3月20日(万延元年2月28日) - 1928年(昭和3年)3月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(高知県第五区選出、当選3回)。族籍は東京府士族。 現在の高知県宿毛市出身。竹内綱の長男。父に従い大阪、東京に赴き、同人社で英語、仏学塾でフランス語を学び、父と一緒に自由党に尽くし、『東京絵入自由新聞』の経営に従事したが、鉱山業、鉄工業に転じて、父の経営する佐賀県の芳谷炭鉱の主宰となる。1901年(明治34年)欧米を漫遊して鉱山業を視察し、新式の機械を購入して帰国。 1902年(明治35年)には遊泉寺銅山の開発に着手すると、1917年に遊泉寺銅山の附属施設として小松鉄工所(後の小松製作所)を設立した。
大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860… 大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。 安政7年(1860年)、会津若松の生まれ。父は会津藩の国家老・山川尚江重固(やまかわ なおえ しげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は父方の祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が親代わりとなった。重英は会津藩財政再建に貢献し、知行300石から1,000石に加増され、また種痘や新式銃にもいち早く理解を示した人物であった。
市島 謙吉(いちしま けんきち、1860年3月9日(安政7年… 市島 謙吉(いちしま けんきち、1860年3月9日(安政7年2月17日) - 1944年(昭和19年)4月21日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(3期)、文化事業家、随筆家、初代早稲田大学図書館長。号は春城。 安政7年(1860年)2月17日、越後国蒲原郡水原村(現在の新潟県阿賀野市)に角市市島家五代目直太郎の長男として生まれた。幼名は雄之助といい、これは病弱のため八幡宮より一時的に貰ったものである。のちに郷土の英雄・上杉謙信にあやかって謙吉と改名した。 市島家は丹波国発祥で、慶長3年(1598年)越後に移り、商業で財を成した豪農一族で、角市家は宗家三代目喜右衛門の二男次郎吉から始まる筆頭分家である。
友枝 梅次郎(ともえだ うめじろう、1860年3月9日(万延… 友枝 梅次郎(ともえだ うめじろう、1860年3月9日(万延元年2月17日) - 1920年(大正9年)11月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 豊前国上毛郡八屋村(福岡県築上郡八屋町、宇島市を経て現豊前市)で総庄屋の家に生まれた。漢学、英語、数学を学ぶ。村会議員、町村連合会議員、築城、上毛両郡連合会議員、筑豊鉱業組合会常議員を務め、また、鉱山を経営し、筑豊炭礦、小倉鉄道、宇島鉄道各(株)取締役、社団法人小倉競馬倶楽部理事となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において小倉市選挙区から立憲政友会公認で立候補して初当選。第13回総選挙でも当選した。衆議院議員を2期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
前川 槙造(槇造、まえかわ まきぞう、1860年3月7日(万… 前川 槙造(槇造、まえかわ まきぞう、1860年3月7日(万延元年2月15日)- 1902年(明治35年)7月12日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 但馬国朝来郡、のちの兵庫県朝来郡竹田村(竹田町、和田山町を経て現朝来市)で生まれた。郷里の習田雪峰に師事し漢学を修めた。1876年(明治9年)上京して官立外国語学校(のち東京外国語学校)に入学し仏語科で学んだが中退。1884年(明治17年)東京専門学校(現早稲田大学)に入り政治学、経済学を学んで1887年(明治20年)に卒業し帰郷した。 1888年(明治21年)2月、大阪府会議員に選出され、同常置委員、同副議長に在任。その他、南区徴兵参事員、府立大阪博物場協議員、地方衛生会員、市立大阪商業学校商議員、大阪市水道敷設委員、第4回内国勧業博覧会事業取調委員、大阪築港取調相談役なども務めた。
川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(… 川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(安政7年2月13日) - 1918年(大正7年)11月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 阿波国麻植郡(ごおり)鴨島字上下島(現在の徳島県吉野川市鴨島町上下島)出身。初名は国三郎。 麻植郡会議員、徳島県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員などを務める。阿波商業会議所会頭などを経て、1890年の第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以降、第2回、第7回から第13回総選挙で立憲政友会より9回当選を果たす。 また阿波国共同汽船専務、阿波藍社長、徳島鉄道社長、阿波藍同業組合組長などを歴任。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
矢島 浦太郎(やじま うらたろう、1860年3月4日(安政7… 矢島 浦太郎(やじま うらたろう、1860年3月4日(安政7年2月12日) - 1917年(大正6年)10月17日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(5期、立憲同志会)。 信濃国水内郡善光寺町字岩石町(現長野市)に生まれる。長野県師範学校を卒業し、東京法学校(現・法政大学)で法律学を修める。長野日日新聞記者を経て、弁護士の業務に従事し、長野町会議員、上水内郡会議員、長野市会議員、同参事会員、長野県議会議員を経て、1903年(明治36年)に第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。以後連続5期当選する。 また、湊鉄道・産業銀行・東京生命各取締役、茨城炭礦監査役などを歴任する。1917年(大正6年)に死去。
尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元… 尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元年2月12日〉 - 1937年9月17日)は、日本の実業家。姓の「澤」は「沢」の旧字体、名の「福」は「福」の旧字体、「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう)、尾澤 福太郎(おざわ ふくたろう)、尾沢 福太郎(おざわ ふくたろう)とも表記される。 尾澤組組長(第2代)、諏訪電気株式会社社長(第3代)、株式会社尾澤組社長(初代)、片倉製糸紡績株式会社常務取締役、朝鮮生糸株式会社社長、京浜電力株式会社取締役、片倉殖産株式会社取締役、第二京浜電力株式会社取締役、諏訪工材株式会社取締役、武州製糸株式会社取締役、片倉生命保険株式会社監査役、富国火災海上保険株式会社監査役、千曲電気株式会社代表取締役、日本相互電気株式会社取締役、岩手県是製糸株式会社取締役、尾澤組合名会社代表社員などを歴任した。
本城 安次郎(ほんじょう やすじろう、1860年3月4日(万… 本城 安次郎(ほんじょう やすじろう、1860年3月4日(万延元年2月12日)- 1901年(明治34年)11月5日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 石見国那賀郡、のちの島根県那賀郡周布村(現浜田市)で、建築業・本城新輔の息子として生まれた。大阪開明学校を卒業し、上京して攻玉塾で学び、1878年(明治11年)ころ工部大学校に入学したが、病のため1879年(明治12年)秋に退学した。 健康が回復すると神戸で紙類廃売店を開業し、また、貿易店を営み、日清戦争時には軍需物品を扱い、大阪に本城商会を設けて遼東、台湾へも事業を拡張した。その他、神戸樟脳取引所理事、大阪浪速商品取引所創立委員長、神戸商業会議所議員などを務めた。
砂川 雄峻(すながわ かつたか、1860年3月2日(安政7年… 砂川 雄峻(すながわ かつたか、1860年3月2日(安政7年2月10日) - 1933年(昭和8年)4月15日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 播磨国飾東郡姫路(現兵庫県姫路市)で、姫路藩士砂川貫一郎の二男として生まれる。1882年(明治15年)、東京大学を卒業した。同年の東京専門学校(後の早稲田大学)の創設にあたっては、創立委員として小野梓や高田早苗などと共に大隈重信を支え、最初は講師を務め、後には評議員・維持員を務めた。その後、大阪で弁護士として活動し、大阪弁護士会長も務めた。さらに関西法律学校(後の関西大学)の講師となり、後に監事、主席理事を歴任した。 また1887年(明治20年)より大阪府会議員を務め、議長にも選出された。
市瀬 禎太郎(いちのせ ていたろう、1860年3月2日(安政… 市瀬 禎太郎(いちのせ ていたろう、1860年3月2日(安政7年2月10日) - 1908年(明治41年)3月8日)は、明治時代の教育者。 丹波国篠山北新町(現在の兵庫県丹波篠山市)出身。7歳で藩学に入り漢学を学び、8歳で篠山藩諸公子相手職を務めた。1875年(明治8年)、旧篠山藩主・青山忠誠が旧藩子弟の優秀者を東京に招致した際に選ばれ、島田篁村の双桂精舎で学んだ。 1880年(明治13年)、多紀郡役所御用掛・学務委員となり、自邸に私塾を開いた。1882年(明治15年)、篠山中学校校長に就任。1884年(明治17年)に篠山中学校は廃止となるが、同年に鳳鳴義塾(現在の兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)が設立されると初代塾長となった。
織田 信福(おだ のぶよし/しんぷく、1860年3月1日(安… 織田 信福(おだ のぶよし/しんぷく、1860年3月1日(安政7年2月9日) - 1926年(大正15年)1月13日)は日本の民権運動家。高知県最初の歯科医でもある。 万延元/安政7年(1860年)2月9日、土佐国幡多郡宿毛(現・高知県宿毛市)にて誕生した。父は土佐藩士族の織田大八、母は安。初名は羽田馬三郎。慶応4/明治元年(1868年)には宿毛の伊賀家の家臣として仕えていた。1873年(明治6年)12月28日には、羽田信福が幡多郡宿毛村第208番小学下等小学第七級を卒業していたことが判明している。 1880年(明治13年)に高知に転居し、医師・山崎立生の「鼎立義塾」門下生となったが、翌年12月に立生は死没した。
青盛 喜一郎(あおもり きいちろう、1860年2月29日〈万… 青盛 喜一郎(あおもり きいちろう、1860年2月29日〈万延元年2月8日〉 - 没年不明)は、日本の商人(石油和洋紙卸商)、銀行役員、広島県多額納税者、地主・家主、政治家。呉市会議員。族籍は広島県平民。 広島県人・青盛万次の二男。1884年、家督を相続する。石油和洋紙卸商を営み、広島県多額納税者に列する。呉銀行、呉倉庫各専務取締役をつとめる。1939年、退隠する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。呉市に於ける名望家である。 住所は呉市本通、同市岩方通4丁目(現・中央)、同市和庄町。 青盛家は古くより呉市にて商業を営む。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
岩崎 総十郎(いわさき そうじゅうろう、安政7年2月5日(1… 岩崎 総十郎(いわさき そうじゅうろう、安政7年2月5日(1860年2月26日) - 大正9年(1920年)5月2日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 仙台市出身。岡鹿門が開いた私塾「麟経堂」で学んだ後、専修学校(現在の専修大学)で法学・経済学を学んだ。1881年(明治14年)に専修学校を卒業すると、明治法律学校(現在の明治大学)に進み、翌年に卒業した。その後判事補に任ぜられ、大阪地方裁判所に勤務したが、やがて官を辞し、弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他に塩水港精糖拓殖株式会社、七十七銀行、仙台瓦斯株式会社、大崎水電株式会社の監査役を務めた。
井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7… 井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7年2月5日) - 1927年(昭和2年)12月15日)は、日本の農学者、政治家。衆議院議員(大阪府郡部選出、当選2回)。族籍は山口県士族。 長門国阿武郡萩町(現萩市)出身。山口県士族・井原勘兵衛の二男で、先代井原壽の養子となり家督を相続する。 1880年(明治13年)、駒場農学校農学科を卒業し、1883年(明治16年)には同校農芸化学科を卒業した。農商務省御用掛、山口中学校教諭、山口農学校校長、山口高等中学校教諭、宮城農学校校長、宮城県技師を歴任した。1898年(明治31年)より大阪府技師、大阪府立農学校校長を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、幼名・篤太郎、万延元年2月4… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、幼名・篤太郎、万延元年2月4日〈1860年2月25日〉 - 1926年〈大正15年〉3月25日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員(7期)、群馬県会議員、群馬郡会議員、伊香保町会議員。伊香保電気軌道社長。高崎水力電気、伊香保鉱泉場組合、渋川紡績各取締役。族籍は群馬県平民。24代目武太夫。隠居後秀家を名乗る。 政治家として自由民権運動に関心をもち、廃娼運動に率先して取り組み、実業家としても群馬、伊香保の発展に尽力した。伊香保温泉の衛生環境と施設の改善を改良取締所(後の伊香保鉱泉場取締所、現・渋川伊香保温泉観光協会)頭取として推進し、伊香保を東京の代表的避暑地として定着させた。
大島 要三(おおしま ようぞう、1859年3月19日(安政6… 大島 要三(おおしま ようぞう、1859年3月19日(安政6年2月15日)- 1932年(昭和7年)3月23日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国埼玉郡、後の埼玉県北埼玉郡大桑村(現:加須市)で大島庄太郎の長男として生まれた。1881年(明治14年)に上京し東北線鉄道敷設工事の下請を担当し、元請の杉井組・杉井定吉の信用を得て支配人となる。1891年(明治24年)、白河町(現:白河市)から福島町(現:福島市)に転居した。 杉井の死後に独立して大島組を組織。1894年(明治24年)からの奥羽線福島 - 米沢間を担当したことにより信用を得た。福島電灯社長、福島民友新聞社長、白棚鉄道社長、東京信用銀行取締役、福島貯蓄銀行監査役、福島羽二重監査役、東京米穀商品取引所監査役など、多数の企業の役員などを務めた。