桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月… 桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将で、栄典は、従一位大勲位功三級公爵。「元老の一人であった」という説もある。元老の井上馨とは義理の親子の関係であり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された[要出典]。
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坂本 則美(さかもと のりみ、または のりよし、1848年1… 坂本 則美(さかもと のりみ、または のりよし、1848年1月2日(弘化4年11月26日) - 1913年9月15日)は、明治時代の日本の実業家、政治家。土佐藩出身。貧困児童救育事業で明治初頭に活躍し、高知県会議員を務めた。その後、琵琶湖疏水建設事業に携わり、さらに衆議院議員を務めた。さらにその後、実業界に転身し、総武鉄道社長、夕張炭鉱社長などを務めた。 1848年1月2日(弘化4年11月26日)、高知県土佐郡一宮村(現在の高知市)に生まれる。高知藩士坂本覚次郎の三男。明治7、8年ごろから貧児救育事業を始め、貧児救育事業団体の詵々社の社長となり、高知慈善協会の設立にも関わった。1879年に高知県会議員に当選し、議会副議長などに選ばれ、1882年まで議員を務めた。
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小田切 謙明(おたぎり けんめい、弘化3年12月1日(184… 小田切 謙明(おたぎり けんめい、弘化3年12月1日(1847年1月17日) - 1893年(明治26年)4月9日)は、明治時代の自由民権運動家、山梨県の名望家。 甲斐国西山梨郡飯沼村(甲府市新青沼)に生まれる。生家は青沼村の村役人を務め、謙明も明治5年には戸長を務めている。1876年(明治9年)には若尾逸平らと金融会社の補融社を設立する。 山梨県では県令藤村紫朗への反発から自由民権運動が起こるが、謙明も藤村を批判し、観風新聞を創刊する。1884年(明治17年)6月には龍泉社を設立し、甲府市桜町(丸の内一丁目)に海洲温泉を開始する。その功績が生前から顕彰され「海洲大権現」としても祀られた。 1880年(明治13年)2月26日、峡中新報社社主の林誾とともに峡中同進会を設立し、依田孝、薬袋義一、加賀美平八郎、佐野広乃らとともに理事委員となる。
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阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(… 阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(弘化3年11月24日) - 1922年(大正11年)3月1日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。旧名・元助(二川元助、二川元助重遠)。家紋は四つ星。 土佐国土佐郡(高知藩)高知城下の高知中島町において、土佐藩士(馬廻役、300石。)・二川周五郎の長男として生まれ、後に阪井に改姓した。生家の中島町は板垣退助、片岡健吉の出身地であり、家が近所であった。 戊辰戦争に従軍し、1870年、大坂兵営予備生徒となる。翌年、御親兵として上京、陸軍大尉に任官し8番大隊副官となる。近衛6番大隊副官、広島鎮台地方司令官心得などを経て、1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征。
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2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月… 2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月8日(弘化3年11月22日) - 1916年(大正5年)5月20日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は吉次郎。 北前船主馬場九兵衛の二男として越中国新川郡東岩瀬村(富山県上新川郡東岩瀬村、東岩瀬町を経て現富山市)に生まれる。長男大次郎の病死により7代九兵衛(初代道久)の跡を継いだ。1881年(明治14年)北陸通船会社創設に資金援助し、北陸における小蒸気船、貨物蒸気船の導入を進めた。1885年(明治18年)上野から直江津間の鉄道が開通すると翌年、伏木の二上兵吉とともに直江津までの小蒸気船業の経営に当たる。
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奥 保鞏(おく やすかた、1847年1月5日〈弘化3年11月… 奥 保鞏(おく やすかた、1847年1月5日〈弘化3年11月19日〉- 1930年〈昭和5年〉7月19日)は、日本の陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。皇族、薩長出身者以外で最初の元帥となった。 豊前(現在の福岡県)小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として小倉(現在の北九州市)に生まれる。幼名為次郎。15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぐ。家系の詳細については奥家 (伯爵家)を参照。 馬廻・知行300石となって七郎左衛門と改名。小姓、物頭を務めた。 幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征討に参加。1869年(明治2年)1月に足軽隊長となり、翌月、東京に遊学。1871年(明治4年)5月、常備4番小隊長に就任。
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田沼 健(たぬま けん、弘化3年11月16日〈1847年1月… 田沼 健(たぬま けん、弘化3年11月16日〈1847年1月2日〉 - 1909年〈明治42年〉7月6日)は、幕末の高田藩士、明治期の内務官僚。官選山梨県知事。名・利遂、通称・周太郎。 越後国頸城郡高田蓮池横町(現新潟県上越市)で、高田藩士・田沼善太夫(通称・恆)の長男として生まれる。藩儒・木村容斎に学んだ。明治2年9月(1869年)、高田藩史監となり、さらに同藩少属十四等出仕を務めた。 廃藩置県後、柏崎県に出仕。1873年8月、新潟県少属に就任し、楠本正隆県令に仕えた。楠本が東京府知事に転じると、1876年、同府少書記官に就任。1883年6月、神奈川県大書記官に転じた。 1893年(明治26年)3月21日、山梨県知事に就任。
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杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈184… 杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈1846年12月31日〉 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、幕末の館林藩士、明治期の内務官僚・実業家。大分県知事。従四位勲四等。幼名、太郎吉。 弘化3年(1846年)、江戸浜町の館林藩中屋敷に生まれる。父は杉本重好。3歳の時に父とともに館林へ移った。館林藩主・秋元志朝が創設した藩校・求道館(のち造士書院)に学び、表小姓として出仕した。また藩外交官補助、国事外交係を務める。 明治維新後は鎮将府に召し出された。明治2年(1869年)館林藩権少参事となり、権少検事、大警部などを歴任する。1884年(明治17年)には欧米を歴訪。徳島県書記官、警視庁警務局長、新潟県書記官などを歴任する。
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屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de J… 屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de Jesús Yas / 1846年〈弘化3年〉12月27日 - 1917年〈大正6年〉11月29日)は、岩手県(陸奥国)で生まれ、アンティグア・グアテマラへと移住した日本人写真家である。日本の写真創成期の写真家達(上野彦馬や下岡蓮杖など)とは無縁に、グアテマラで写真術を習得した。 1846年、岩手県一関市藤沢町藤沢に生まれた。父は蘭学医の尚安。幼少期より父から蘭学を学び、1863年、15歳で上京し叔父より漢学を学ぶ。その後医学や天文学などを修学し、1868年に帰郷。3年ほど医業に携わり、再び上京。 1874年に神奈川県横浜市で通訳として金星観測を行った著名なメキシコン人天文学者コバルビアス率いるメキシコ科学調査隊との出会いをきっかけとして、メキシコへ渡った。
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金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年… 金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年12月21日)- 1923年(大正12年)1月16日)は、日本の政治家、神職、華族。貴族院男爵議員。有郷と表記される場合がある。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有久の二男として生まれる。元治元年7月7日(1864年8月8日)父の隠居に伴い家督を相続し第47代石見国造となる。1875年(明治8年)9月、華族に列せられ、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 明治4年(1871年)物部神社権宮司に就任し、権大講義、大教正、神道大社教副管長などを歴任。明治元年(1868年)から川合国漢塾を設け神道教育と共に国漢教育を行い、また、皇典講究所委員にも就任した。
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池田 甚之助(いけだ じんのすけ、1846年1月9日(弘化2… 池田 甚之助(いけだ じんのすけ、1846年1月9日(弘化2年12月12日)- 1901年(明治34年)10月27日)は、明治時代の政治家。池田家12代当主。貴族院多額納税者議員。秋田銀行の前身行の一つである、旧秋田銀行初代頭取。 出羽国山本郡高梨村(秋田県仙北郡高梨村、仙北村、仙北町を経て現大仙市)に生まれる。生家は豪農で庄屋を務めた。 大区小区制が敷かれると、1872年(明治5年)秋田県第八大区第二小区戸長となり、ついで高梨村戸長、初代高梨村長などを歴任した。明治期の秋田県の鉄道敷設に際しては発起人を務めた。 1890年(明治23年)秋田県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1891年(明治24年)10月15日まで在任した。
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佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年1… 佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年11月25日〉 - 1921年〈大正10年〉7月25日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、順天堂医院院長。最終階級は陸軍軍医総監(中将相当官)。男爵。医学博士。 常陸国太田内堀(現:茨城県常陸太田市内堀町)で醸造業を営む高和清兵衛の長男として生まれる。佐倉順天堂に入り、その堂主であり叔母の夫である佐藤尚中の養嗣子となる。戊辰戦争では奥州に出張し、白河、三春で新政府軍の病院頭取を務めた。 明治2年(1869年)、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、1874年(明治7年)にアジア人として初の医学士の学位を取得し帰国。
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井上 源衛(いのうえ げんえ、1845年12月23日(弘化2… 井上 源衛(いのうえ げんえ、1845年12月23日(弘化2年11月25日) - 1923年(大正12年)3月30日)は、明治から大正時代の政治家。神職。衆議院議員。 美濃国本巣郡、のちの岐阜県本巣郡穂積村(穂積町を経て現瑞穂市)に生まれる。1871年(明治4年)第七大区二小区年番戸長となり穂積村と前野村の戸長を兼ね、1873年(明治6年)神官教導職、1874年(明治7年)2月、第七大区二小区権区長を兼ね、同郡山口村住吉神社などの神官、区長を兼任した。 1877年(明治10年)農事や養蚕業の研究のため地方を回り、帰郷後は1879年(明治12年)4月に岐阜県会議員となり衛生会委員を兼ねた。1880年(明治13年)8月、県内の治水改修のため西濃11郡の有志者と治水共同社を設立し取締役を務め、木曽、揖斐、長良川の三大河川改修事業を政府に請願した。
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古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(184… 古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(1845年12月22日)- 大正3年(1914年)12月21日)は、日本の海軍軍人(海軍少佐)、教育者。海城学園の創設者。 肥前国佐賀郡北川副村古賀(現佐賀県)に平尾吉左衛門、よしの次男として生まれ、20石取りの下級武士である古賀家の養子となる。佐賀藩の砲隊司令として奥羽追討の師に加わり、秋田の戦いに功績があって有栖川大総督宮から感状を下賜された。 1891年11月、私財を投じて有栖川宮を始めとする多くの皇族達の賛同を得て海軍予備校、後の海城学園を創設。以降、理事長兼校長として、数多くの将校を育てた。
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市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化… 市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化元年12月8日) - 1908年(明治41年)2月15日)は、元長野県会議員、元信飛新聞社社長、啓蒙家。松本城が競売にかけられ落札されたが、買い戻した人物として知られる。幼名は泰之助。 信濃国筑摩郡松本城下の下横田町の名主の家に生まれ、明治維新後は南佐久郡郡長、戸長を務めた。幕末に江戸で学問を修めた後、松本に戻り『信飛新聞』を発行した(同紙は長野県初の日刊新聞)。 1872年(明治5年)、松本城が大蔵省によって競売にかけられ、天守閣が235両、付合物を合わせて計309両で落札された。落札者は天守閣を取り壊そうとしたが、量造は「城がなくなれば松本は骨抜きになる」と紙面で訴え、先祖伝来の蔵書を売るなどして金を工面し始める。
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上野 景範(うえの かげのり、1845年1月8日(天保15年… 上野 景範(うえの かげのり、1845年1月8日(天保15年12月1日) - 1888年(明治21年)4月11日)は明治時代の日本の外交官。通称、敬助、敬介。13歳で長崎に赴き、まず蘭学、ついで英学を修めた。 薩摩国鹿児島郡出身。英学に明るく、明治維新後にハワイの元年者移民問題などに当たり、駐米・英・墺などの全権公使を歴任。後に元老院議官となった。趣味は油絵。明治6年(1873年)5月、内閣に提議した李氏朝鮮との修好条約締結問題における意見書は、征韓論の端緒となり、明治六年政変を引き起こすこととなる。 天保15年(1844年)12月1日、薩摩国鹿児島近在塩屋村(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて唐通事・泰助と雪夫妻の長男として出生。
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大迫 尚敏(おおさこ なおとし/なおはる[要出典]、1844… 大迫 尚敏(おおさこ なおとし/なおはる[要出典]、1844年12月24日〈天保15年11月15日〉- 1927年〈昭和2年〉9月20日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。学習院長、第7師団長等を務める。栄典は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。 薩摩国鹿児島郡薩摩藩冷水通町(現:鹿児島市冷水町)で、薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。 戊辰戦争従軍の後、1871年(明治4年)3月、陸軍に入り御親兵に属す。同年少尉・中尉と進み1873年(明治6年)、陸軍省八等出仕、1874年(明治7年)には陸軍大尉を命ぜられる。 1877年(明治10年)、西南戦争に出征し、熊本城籠城戦に参加。
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荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)… 荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)1月4日(旧暦11月15日) - 1882年(明治15年)9月19日)は、武蔵国北埼玉郡(現:埼玉県加須市)出身の元大相撲力士。本名は小室 敬之助(こむろ けいのすけ)。 幼少期から相撲好きで身体も大きく、古川藩の二人の侍と喧嘩した際には相手を掴んで拍子木のように打ち合わせたと伝わる。若藤部屋に入門し、1865年2月場所で序ノ口から初土俵を踏むと1871年3月場所で新十両に昇進、1874年12月場所で新入幕を果たした。突っ張って動き回る取り口で幕内での勝率は5割前後で推移したが、精悍な容貌で人気があり、当時の力士としては珍しく読み書きができ、数理に明るかった。
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千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年… 千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日)- 1914年(大正3年)1月11日)は、明治期の公吏、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・丹三郎。 陸奥国栗原郡文字村上葛峰(宮城県栗原郡文字村、栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた。農業を営む。 1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる。 1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し、常置委員も3期務めた。
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下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13… 下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13年12月7日) - 1898年(明治31年)5月19日)は、明治時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 近江国坂田郡長浜(現・滋賀県長浜市)出身。1876年(明治9年)以降、南新町副戸長、同戸長、長浜町会議員のほか、大阪製紙抄造場、近江製糸所などを経営した。 1890年(明治23年)滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで務めた。
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山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天… 山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天保13年12月5日)- 1916年(大正5年)3月8日)は日本の政治家。 衆議院議員。現在の東海地方を代表する木曽三川の水害対策(木曽三川分流工事)に翻弄し、生涯を治水に捧げた人物。 1929年(昭和4年)、岐阜公園に像高2m余の台座付きの銅像が建立された。後に、太平洋戦争時の金属類回収令より撤去。 1957年(昭和32年)、岐阜市内の長良川金華橋近くの四ッ屋公園に顕彰記念碑が立てられ、現在も存在する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
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石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842… 石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842年1月12日) - 大正9年(1920年)11月16日)は、尾張国大曽根出身の僧侶。 天保12年12月1日(1842年1月12日)、尾張国大曽根において出生。9歳のときに仏門に入る。長門国・信濃国・尾張国など各地で修行を積み、地元泰増寺に戻る。元治元年(1864年)には總持寺、1875年(明治8年)には豊橋龍拈寺の住職に就任。さらには彦根清涼寺、東京豪徳寺、小田原最乗寺の住職を歴任し、1905年(明治38年)には当時石川県鳳至郡にあった曹洞宗大本山總持寺の貫首に至った。翌年には曹洞宗管長となる。焼失した總持寺の再興に際して、神奈川県鶴見への移転を主導したとされる。
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建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12… 建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12年12月1日) - 1908年(明治41年)2月16日)は、幕末の小倉藩士、明治期の官僚・外交官・実業家。大阪府知事、元老院議官。旧名・牧野弥次左衛門。 豊前国京都郡延永村(現:行橋市延永)に生まれる。小倉藩士・建野建三の養子となり「郷三」と改名。第二次長州征討において長州藩との戦いに従軍した。明治3年(1870年)、イギリスに留学し法律学を学んだ。 1877年(明治10年)11月、宮内省御用掛三等侍補心得となる。以後宮内権大書記官、兼太政官権大書記官を歴任。1879年(明治12年)、グラント前米国大統領の来日に当たり接伴掛を務めた。 1880年(明治13年)5月、大阪府知事に就任し約9年間在任、在任中に大阪府と堺県の合併を実現させた。
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勝山 芳藏(かつやま よしぞう、1841年12月27日(天保… 勝山 芳藏(かつやま よしぞう、1841年12月27日(天保12年11月15日) - 1896年(明治29年)11月30日)は、因幡国気高郡(現鳥取市)出身の力士。本名は小松 芳五郎。年寄2代尾車。最高位は東前頭5枚目(明治5年4月場所)。 玉垣に入門し1864年10月序ノ口。負け越しが一度もなく1871年4月入幕。しかし幕内では不調で一度も勝ち越せず下位の常連であった。負け越し続きにもかかわらず1877年6月までの6年間幕内から陥落しなかったのは若者頭的存在で指導能力があったためと思われる。1877年引退し年寄尾車を襲名。尾車の名跡は元禄時代以来の復活と思われ、師匠玉垣の後ろ盾と事務能力から角界に残るため復活させたと考察される。
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池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保1… 池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保12年11月10日〉- 1918年〈大正7年〉4月30日)は、明治時代の医者。日本の近代医学の礎を築いた人物。学位は、医学博士。華族(男爵)、宮中顧問官、錦鶏間祗候。諱・秀之、幼名・圭助。通称・桂太郎または謙輔(けんすけ)で謙斎に改めた。 1841年、入沢健蔵の次男として越後国蒲原郡中之島村(現長岡市)に生まれる。幼名は圭助。安政5年3月(1858年1月 - 2月)に江戸に出、伯父の入澤貞意宅に寄宿する。漢学を瀬川道元に、剣術を心形刀流伊庭軍兵衛、オランダ語を竹垣龍太郎に学ぶ。 竹垣の紹介を経て適塾に入門し、1862年に西洋医学所へ入学した。
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品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈18… 品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈1841年1月11日〉 - 1891年〈明治24年〉2月18日)は、江戸時代のオランダ語通訳、幕臣。明治時代の官僚。通称・英輔。 肥前国長崎で品川権左衛門の子として生まれる。兄の品川九十九は大村藩の御用商人で、義理の兄弟に石鹸工場創業の吉村又作(現在のマリンフード創業者)、甥に平野富二がいる。同族のオランダ通詞の品川徳三郎の養子となる。オランダ語をはじめ英語も習得していたため、ペリーの浦賀来港により幕臣に抜擢され、横浜で通弁となる。安政6年(1859年)に幕府が各国と通商条約を締結する際通弁を務めた。また通弁のかたわら横浜で洋学教授を行った。
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渡辺 猶人(わたなべ なおと、1840年12月29日(天保1… 渡辺 猶人(わたなべ なおと、1840年12月29日(天保11年12月6日) - 1908年(明治41年)6月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国伊那郡飯田城下に飯田藩士の長男として生まれる。江戸に出て安井息軒に入門し、谷干城らと交誼を結ぶ。帰藩後は父が督学を務めていた藩の文学所の補佐を務めた。明治維新後は大宮神社祠宮を経て、長野県官吏となり、第19大学区第4小区戸長や学区取締などを務め、1882年(明治15年)に下伊那郡長、翌1883年(明治16年)に更級郡・埴科郡長に任命された。1889年(明治22年)に飯田町会議員、1891年(明治24年)に下伊那郡会議員になった。同年7月22日に飯田町長となった。
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中村 重遠(なかむら しげとお、1840年12月25日〈天保… 中村 重遠(なかむら しげとお、1840年12月25日〈天保11年12月2日〉 - 1884年〈明治17年〉2月22日)は、明治時代の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。旧名進一郎。 1840年(天保11年)、宿毛村(現在の高知県宿毛市)に小野弥源次の子として生まれた。のち中村儀平の養子となる。山内氏固の家臣で1862年(文久2年)、宿毛文館の句読役になった。戊辰戦争では、1868年(明治元年)、東征軍に従ったが途中帰国し、宿毛出兵を説き機勢隊を編成しその責任者となる。北陸に進み功をあげる。 1871年(明治4年)[西暦年要検証]、兵部省七等出仕。のち陸軍少佐任官。1873年(明治6年)6月、陸軍省第4局第1課長に就任し、同年12月、熊本鎮台参謀長心得に転じ佐賀の乱に出征。
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奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1… 奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1月8日 – 大正15年(1926年)10月13日)は、幕末から明治期にかけて活動した医師・海軍軍医。幕府の歩兵屯所附医師を経て、維新後に海軍医官として要職を歴任し、のち開業医として活動した。幼名は瓊太郎、のち省吾。幕末期には玄省(げんせい)を名乗り、明治初年に虎炳と改めた。 天保11年(1840年)1月8日、出羽国上山藩医・奥山玄仲(1809-1905)の長男として長崎に生まれる。父玄仲に従って江戸に出て、林復斎・安積艮斎・安井息軒らについて儒学を学び、語学面では当初父から、のち堀達之助から蘭語を学んだ。文久3年(1863年)9月、歩兵屯所附医師となり西丸下屯所に詰め、慶応元年(1865年)5月には歩兵屯所附御抱医師・富士見御宝蔵番格、慶応3年(1867年)5月には歩兵屯所附医師取締介に進んだ。
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内田 雄蔵(雄藏、うちだ ゆうぞう、1840年1月6日(天保… 内田 雄蔵(雄藏、うちだ ゆうぞう、1840年1月6日(天保10年12月2日) - 1909年(明治42年)1月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥後国下益城郡河江村(のち益南村、小川町を経て現宇城市)生まれ。戸長、下益城郡会議員、学務委員、熊本県会議員、同常置委員、郡所得税調査委員、地方衛生委員、郡参事会員、地方委員となる。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙において熊本4区から国民協会所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1909年に死去した。
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武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年… 武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年11月24日) - 1882年(明治15年)1月2日)は、明治期の日本の医師、愛知県議会初代議長、自由民権運動家。民権結社、進取社副社長。明治生命保険(現・明治安田生命保険)創立者の阿部泰蔵は実弟。 1838年(天保9年)三河国八名郡下吉田村(現・愛知県新城市)の医者・豊田鉉剛の次男として生まれたが、18歳の時に、宝飯郡森村(現・豊川市)の武田家の養子となる。 江戸に出て、蘭方医の伊東玄朴が開いた象先堂に入門して医学を学び、1859年(安政6年)に宝飯郡森村に帰り開業する。その後、1869年(明治2年)修道館の教官となり、青少年の教育にも携わった。
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大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年… 大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年11月23日) - 1918年(大正7年)4月15日)は、但馬国養父郡の旗本・大藪領主小出英道の家臣。明治時代の司法官僚。東京地方裁判所長、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長。関西法律学校(のちの関西大学)の創立者の1人で名誉校員。 江戸、のちの東京市神田区錦町(現東京都千代田区神田錦町)に生まれる。但馬国養父郡の旗本・大薮領小出英道(播磨守)の家臣であった父・大島貞薫に従い、小出家の江戸屋敷に勤番し、幕末の混乱期には江戸と大薮領の間を往来した。大村益次郎の江戸在中時代の門下生。 1870年(明治3年)弾正少巡察となり、1871年(明治4年)司法少大解部から司法権少判事となる。
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高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1… 高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1839年1月5日) - 明治33年(1900年)4月8日)は、上総国山辺郡(現在の千葉県東金市)出身で明治期の大相撲力士・年寄。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重100kg。本名は山崎 (後に一時今井姓)伊之助(後に浦五郎)。現在まで続く高砂部屋の開祖である。 農家の三男で土地相撲で活躍し、20代半ばで妻子ある身ながら江戸へ出て、3代阿武松庄吉の門下に入った。東海大之助の初名で1863年(文久3年)8月場所に初土俵を踏み、1865年(元治2年)に序ノ口についた。1867年(慶応3年)に三段目に昇進、ここで姫路藩のお抱え力士になり「高見山大五郎」の四股名を名乗るようになった。
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西山 禾山(にしやま かさん、1838年1月19日(天保8年… 西山 禾山(にしやま かさん、1838年1月19日(天保8年12月24日) - 1917年(大正6年)4月3日)は江西山大法寺の18代住職。臨済宗の師家。現在の愛媛県八幡浜市穴井出身。 父は須賀吟助、母は徳子という。12歳の時に八幡浜市の江西山大法寺の徒弟となり、20歳頃から約10年間、宇和島市の金剛山大隆寺の晦巌について修行する。さらに久留米市の梅林寺や、岐阜県伊深の正眼寺などで座禅を習った。その後、京都の相国寺で越渓老師に参禅しようとしたがその時は相国寺を去っていたために、後継者となっていた独園につく。越渓が妙心寺の天授庵で僧堂を開いたので、同じ妙心寺の大嶺院に住み、明治元年から越渓の猛烈な指導のもと修行に励む。
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和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保… 和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保8年12月13日) - 1903年(明治36年)3月28日)は、会津兼定のうち11代目に相当する、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した刀工。加茂打ちと呼ばれる1869年(明治2年)から1874年(明治7年)までに越後加茂にて鍛刀した作品で知られ、1892年(明治25年)には皇太子に刀を献納する。銘は「陸奥国会津住兼元」「奥州会陽臣和泉守兼㝎」「会津刀匠和泉守兼㝎」「岩代国若松住和泉守兼㝎」「於新発田和泉守藤原兼㝎謹鍛」「大日本岩城国会津住兼㝎」「奥州會津住兼本」「和泉守兼定」「岩代國會津住兼定」。 1838年1月8日(天保8年12月13日)に会津若松浄光寺町に生まれる。
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奥 三郎兵衛(三郎兵衞、おく さぶろうべえ、1837年1月9… 奥 三郎兵衛(三郎兵衞、おく さぶろうべえ、1837年1月9日(天保7年12月3日) - 1897年(明治30年)9月1日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 和泉国日根郡中之庄湊村(現・大阪府泉佐野市)生まれ。深川区会議員、東京商業会議所副会頭、帝国商業銀行、帝国海上保険、東京建物各(株)監査役となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において東京5区から無所属で立候補したが28票差で落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙で当選。衆議院議員は1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1897年に死去した。
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井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年1… 井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 長州藩の藩主側近から尊王攘夷運動に参加し、イギリスへの密航をきっかけに開国論者となり、長州藩における倒幕運動の中心人物として活動した。太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、長州閥の重要人物となった。第1次伊藤内閣成立により外務卿改め外務大臣を務め、「鹿鳴館外交」を展開し不平等条約改正に臨み、黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。
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伴 資健(ばん すけゆき、1835年12月31日(天保6年1… 伴 資健(ばん すけゆき、1835年12月31日(天保6年11月12日) - 1913年(大正2年)1月28日)は、安芸国(現広島県)出身の政治家。広島市長を3期務めた。幼名保之丞、のちに後十郎兵衛、資知と改名。
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大築 尚志(おおつき たかゆき、1835年12月24日(天保… 大築 尚志(おおつき たかゆき、1835年12月24日(天保6年11月5日) - 1900年(明治33年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。幼名、保太郎(やすたろう)。
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岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩崎 彌太郞、天… 岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩崎 彌太郞、天保5年12月11日〈1835年1月9日〉- 1885年〈明治18年〉2月7日)は、日本の実業家。土佐藩(現在の高知県)出身で、34歳の時、大阪府大阪市西区の土佐稲荷神社付近の堀江の辺りの大地主だった。現在の三菱財閥(現:三菱グループ)の源流企業であるが、明治政府が設立した共同運輸会社と話し合いの上合併し日本郵船が創設された。その年に岩崎彌太郎は50才で病死した。弟である三菱財閥2代目の岩崎弥之助とともに岩崎家の中心的人物であった。 天保5年12月(1835年1月)、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる。
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山田 十竹(やまだ じっちく、天保4年12月9日(1834年… 山田 十竹(やまだ じっちく、天保4年12月9日(1834年1月18日) - 明治34年(1901年)8月26日)は、江戸時代末期から明治時代の儒学者、漢学者、教育者。名は浩(ひろし)、字は養吉(ようきち)。号の「十竹」は広島城郭内の自宅に十数本の竹が植えられていたことによる。墓は広島市の比治山共同墓地(現・南区)。
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依田 学海(よだ がっかい、旧字体:學海、天保4年11月24… 依田 学海(よだ がっかい、旧字体:學海、天保4年11月24日(1834年1月3日) - 明治42年(1909年)12月27日)は、日本の漢学者、文芸評論家、小説家、劇作家。幼名は幸造、信造。通称は七郎、右衛門次郎。諱は朝宗(ともむね)。初め字を百川(ひゃくせん)といったが後にこれを本名とした。学海は雅号で、柳蔭とも号した。
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菅原 白龍(すがわら はくりゅう、天保4年11月13日(18… 菅原 白龍(すがわら はくりゅう、天保4年11月13日(1833年12月23日) - 明治31年(1898年)5月24日)は明治時代に活躍した日本画家。 天保4年(1833年)11月13日に出羽国置賜郡白龍時庭村(現・山形県長井市時庭)において菅原道栄(号・源龍斎)の長男として生まれた。本名は源暁。明治15年(1882年)から道雄の名を、明治17年(1884年)から白龍の号を本名とした。大岳、泰嶽、梵林、日本橋隠士、爽気龍人、五石十水楼、和楽斎など20を超える号をもつ。家は代々続いた真言宗の修験で、地元の諏訪神社に仕えていた。また、村に学校を開き子供たちに漢籍、手習いなどを教えていたので、白龍も父から書、習字などを学んだ。
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橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日… 橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日(天保2年12月15日) - 1910年(明治43年)3月15日)は観世流シテ方の能役者にして橋岡家六世。名は雅茂、號は雅雪(がせつ)。岐阜県の出身。 美濃国近ノ島村で医師・藤井平兵衛(元徳)の二男として1831年(天保2年12月15日)に生まれ、20歳頃に能役者・橋岡泰次郎の養子となる。江戸時代の能役者は若年寄り配下として幕府の保護を受けていたが、維新後はその地位が失われ職を転じる者多数。忠三郎も代書屋をして生計を立てた。 観世清孝(1837-1888年)の時代、宗家困窮のため「観世流本面」が海外に流出しかけたところ、忠三郎が神戸で買い留め流派の面目を保つ。
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伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(183… 伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(1830年12月31日) - 明治33年(1900年)7月15日)は、日本の男爵。志士、貴族院議員、大審院判事、錦鶏間祗候、従五位。通称、蔵人、右近大進。子に伊丹春雄、伊丹二郎。 京都(山城国)粟田(現京都市東山区)生まれ。伊丹家は代々粟田青蓮院宮に仕えた。幼き頃から神童と呼ばれ、徳川幕府が衰退するにいたって尊皇攘夷派の志士となり東奔西走する。安政5年(1858年)に橋本左内、梅田雲浜らと共に幕府に捕らわれ彦根城に幽閉される。その後、放免となり明治維新を迎える。 維新後、大阪府判事に命ぜられて同地に赴任。その後、長崎・東京府へ赴任し、大審院に入り元老院議官に転ず。
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十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 … 十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 - 1892年12月2日)は、江戸時代幕末から明治時代の武士、軍人、勤皇家。 肥前国大村藩士の稲垣主計の三男として大村に生まれる。通称は巳之助。諱は勝見。幼くして同藩の十九采記俊彬の養子となる。尊王を唱え、大村藩三十七士の1人として数えられ、藩の用人となり勤皇に導いた。戊辰戦争では東北に従軍し、参謀から大隊長となり、賞典禄八石を賜る。1871年、藩の歩兵中隊長に任じられ、熊本鎮台の副官となった。翌年官を退いた。東京に移り、小石川区小日向武島町の自宅で死去。享年63歳。1912年、従五位を追贈された。墓所は池上本門寺。
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中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12… 中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12年12月8日) - 1905年(明治38年)10月5日)は、幕末の徳島藩士、明治時代の内務・司法官僚、裁判官。官選県知事を歴任、元老院議官・貴族院議員。錦鶏間祗候、華族(男爵)。旧名は三木永吉。明治維新後に直人、錫胤と名乗る。号は可庵、無外。 徳島藩士・三木章助の長男として、徳島城下の佐古町楠小路(現在の徳島県徳島市佐古地区)で生まれる。はじめ漢学を楠本鼇山・岩本贅庵に学ぶ。少壮の頃、篠崎小竹・古賀謹堂(古賀謹一郎)の門、及び昌平黌に学ぶ。京都の儒者・中島棕隠の門下となり、のち老齢の棕隠の養子となり、中島永吉と称した。 幕末期には新居水竹らと交わり、尊王攘夷派として国事に奔走。
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新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829… 新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829年12月30日〉 - 1902年〈明治35年〉11月25日)は、幕末の志士、明治期の神道家で、神道修成派の教祖。 文政12年12月5日、阿波国美馬郡拝原村(現在の徳島県美馬市)の郷士竹澤平太と母・曾米(田村氏の女)の三男として生まれる。初名は寛三郎。幼少の頃より南朝の英雄・新田義貞の弟脇屋義助の末裔であるという、家に伝わる旧記を読み、勤王を自覚し文武の道に励んだため、7歳にして論語を暗記した。 弘化4年(1847年)、山陰、山陽諸国を巡遊。神道家として、嘉永元年(1848年)20歳の時、布教伝道の志を立てる。これを修成派では立教元年としている。
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熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(18… 熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(1829年1月19日) - 大正2年(1913年)3月8日)は、日本の江戸時代末期から大正時代にかけての日本画家、芸州藩士。父は賀茂[要曖昧さ回避]の神職・山本季金。幼名を藤太郎と言った。
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篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日〈… 篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日〈1828年12月22日〉 - 1911年〈明治44年〉6月13日)は、江戸時代後期の志士。新選組隊士(諸士調役兼監察方及び柔術師範)、御陵衛士。幼名は泰輔、変名を篠塚友平、秦河内(はた かわち)。維新後は、秦林親(はた しげちか)と改名。 筑後国生葉郡高見村(現在の福岡県うきは市浮羽町高見)の豪農および石工業者である篠原元助の長男として生まれる。幼時より武芸を好み、久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。 嘉永5年(1852年)、藩士・小倉一之進に仕えた後、家老・有馬右近の中間となる。
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