藤野 道格(ふじの みちまさ、1960年9月 -)は日本の技… 藤野 道格(ふじの みちまさ、1960年9月 -)は日本の技術者、実業家。東京都生まれ、青森県弘前市育ち。東京大学工学部航空学科卒。1984年、本田技研工業に入社。1986年に本田技術研究所基礎技術研究センターに配属後、航空機の研究開発に携わる。米ミシシッピ州立大学研究所にて実験機を試作。先進小型ビジネスジェット機「HondaJet」の設計・開発責任者。Honda R&Dアメリカ副社長等を経て、2006年よりホンダ エアクラフト カンパニー社長兼CEOに就任し、2016年より本田技研工業常務執行役員を兼任。2022年4月1日付で退職した。 1984年に東京大学工学部航空学科を卒業後、クルマの技術者になろうと本田技研工業に入社。
櫛引 博敬(くしびき ひろのり、1949年 - )は、日本の… 櫛引 博敬(くしびき ひろのり、1949年 - )は、日本の実業家、アグロカネショウ株式会社代表取締役社長。 1949年、青森県弘前市生まれ。1972年3月、立教大学法学部卒業。英国・国立ブリストル大学ロングアシュトン・リサーチ・ステーション(加工用リンゴの研究所)に2年間在籍し、シードルやアップルワインを本格的に研究する。加工用リンゴ、料理用品種のリンゴの日本不在を嘆き、自ら試験農場に取り組む。その傍らでリンゴの健康的効果をも実証したリンゴ研究の第一人者。その後、ユニー株式会社取締役を経て、1991年よりアグロカネショウ代表取締役社長を務める。
清藤 哲夫(せいとう てつお、1949年 - 2020年12… 清藤 哲夫(せいとう てつお、1949年 - 2020年12月26日)は、青森県弘前市で事業を展開し、地元経済界の主導的役割を担って地域振興に尽した、日本の経営者。弘前公益社やアップルウェーブ、アップルコミュニケーションズで代表取締役を務め、弘前観光コンベンション協会会長、弘前商工会議所会頭などを歴任した。 弘前市生まれ。生家は冠婚葬祭に関わる造花を扱う「清藤造花店」を営んでいた。 青森県立弘前高等学校から、法政大学に進んだが、中途退学して帰郷した。 家業に従い、1981年に事業を株式会社組織化して、弘前公益社代表取締役となり、以降、総合的な葬祭業への展開を進めた。 地元の経済界における役職としては、弘前商工会議所では1998年から副会頭を18年、2016年からは会頭となったほか、2006年から弘前観光コンベンション協会会長を10年間務めた(以降は、顧問)。
西田 通弘(にしだ みちひろ、1923年 - )は、日本の実… 西田 通弘(にしだ みちひろ、1923年 - )は、日本の実業家。本田技研工業の副社長等を歴任した。
島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年… 島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年〉1月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月17日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 青森県弘前市で生まれる。小学校卒業後、市内のタンス店に職工として勤め、その後、無産運動に加わる。1932年、全農青年部青森県連合会執行委員に就任。1934年、日本共産党に入党したが、同年に検挙され懲役3年となり服役した。 戦後、日農の再建に尽力し、また日本社会党の結成に加わり、同青森県連選挙対策部長、同書記長、同委員長、弘前市議会議員、青森県議会議員などを務めた。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に青森県第二区から出馬して当選。
高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月2… 高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月29日-1984年(昭和59年)1月6日)は、日本の医学者、学校経営者。医学博士(北海道帝国大学)。 青森県弘前市で出生後、北海道札幌に移住。1921年北海道庁立札幌第二中学校卒業。1928年(昭和3年)北海道帝國大学医学部卒業。1930年同医学部助手。1933年北海道帝国大学にて論題「沃度代謝と消化器との関係」にて医学博士受く。1933年北海道帝国大学医学部第二内科講師。1934年同医学部第二内科助教授。1947年北海道大学医学部内科学第三講座初代教授及び北海道大学病院医科第三内科長に任命される。1955年(昭和30年)北海道大学医学部附属病院院長。
岩淵 勉(いわぶち つとむ、1888年〈明治21年〉2月 -… 岩淵 勉(いわぶち つとむ、1888年〈明治21年〉2月 - 1956年〈昭和31年〉1月14日)は、日本の実業家、政治家。青森県弘前市長。位階は従六位。勲六等瑞宝章。 青森県中津軽郡弘前に生まれる。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、慶應義塾大学部理財科卒。卒業後は弘前電燈株式会社に就職し、会社支配人となる。その後、陸奥鉄道支配人、津軽鉄道常務となった。 1945年暮れに弘前市長の葛原運次郎が死去、1946年1月にその後任の市長に就任した。翌1947年、弘前市長選挙に立候補して当選した。4年後の市長選挙には不出馬、1955年の市長選挙に立候補して市長に返り咲いた。しかし、病気に倒れ、1956年、在職中のまま死去。
菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10… 菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10月1日 - 1945年(昭和20年)2月25日)は、大正から昭和前期の日本の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。中国通(支那通)として知られた。天文学者・一戸直蔵の義弟。 青森県中津軽郡弘前城下(現弘前市)で、旧弘前藩士の政治家・菊池九郎、久満子の長男として生まれる。東奥義塾、第二高等学校を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業した。 青年時代から中国問題に関心を持ち、中国で貿易商を営み、日支商事会社長、山口商事取締役、東海漁業取締役などを務めた。その後、新聞記者、弁護士となる。また、合資会社ボルネオ物産商会代表者に就任した。
福島 藤助(ふくしま とうすけ、1871年3月22日(明治4… 福島 藤助(ふくしま とうすけ、1871年3月22日(明治4年2月2日) - 1925年(大正14年)7月6日)は、青森県弘前市の醸造家、実業家。福島酒造会社(のちに福島醸造株式会社)、富名醸造株式会社、陸奥製糸株式会社、株式会社北日本農園、弘前印刷株式会社の創業者。 藤助が大工から酒造業に転業した1896年(明治29年)は、日清戦争後の好景気の波が青森県弘前市にも押し寄せているさなかであった。国の流れは軍備の強化へと向かい、同年9月に第8師団(日本軍)の弘前設置が正式に決定、翌年10月10日に師団司令部が設置された。廃藩によって沈滞していた弘前の経済界や市民は、これを大歓迎した。また、1894年(明治27年)12月1日には青森‐弘前間の鉄道が開通し、師団設置のための資材の輸送などに大いに貢献した。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年… 竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年3月21日) - 1929年(昭和4年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 弘前藩士・竹内多作の長男として弘前城下(現青森県弘前市)に生まれる。廃藩後、一家は南津軽郡浅瀬石村(現黒石市)へ移住する。ついで黒石町に住んだ。1877年(明治10年)召募巡査として西南戦争に参加し、その帰郷の際に政治家を志した。1886年(明治19年)黒石の政治結社益友会の常任書記に任じた。ほか、東津軽郡書記、戸長、山形村長、南津軽郡会議員、同参事会員などを歴任した。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では青森県郡部から出馬し当選。
4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4… 4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4年11月) - 1921年(大正10年)1月9日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 弘前城下松森町(弘前松森町を経て現弘前市松森町)で酒造業・松木家に生まれる。1867年(慶応3年)以降、弘前藩御用達となり、ついで松前商社頭取となった。1894年(明治27年)弘前両益銀行を創立し頭取に就任。1898年(明治31年)弘前銀行取締役を経て、のち第4代頭取となる。 そののち弘前電燈発起人筆頭を経て、1899年(明治32年)10月、青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月21日から務め、任期途中の1902年(明治35年)6月13日に辞職して、宮本甚兵衛にその職を譲った。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年… 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。 1845年(弘化2年)、陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれる。藩校稽古館(現・東奥義塾高等学校)で学んだ後、弘前藩・青森県に勤め、中津軽郡長も務めるなどしたが、1881年(明治14年)に辞職。
対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天… 対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天保7年11月7日)- 1914年(大正3年)12月24日)は、幕末の弘前藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員(1期)、初代札幌区長。 陸奥国津軽郡弘前城下代官町(現弘前市)で弘前藩士・対馬利助の息子として生まれる。箱館戦争に従軍。弘前藩公用人を経て、明治4年7月(1871年)青森県に出仕。明治5年4月(1872年)開拓使に転じ十一等出仕となり、同年11月(12月)開拓中主典に昇進。会計整理、教育、衛生普及、商工業振興などを担当し、1878年7月に退官した。 その後、実業界に転じ、開拓使経営の醸造場の払下げを受けて酒造業を経営。また、元開拓使官吏・堀基らと共に札幌の商社の嚆矢である「大有社」を創設し、米穀雑貨輸入販売、海産物輸入業を営んだ。