南雲 克郎(なぐも かつろう、1920年〈大正9年〉5月20… 南雲 克郎(なぐも かつろう、1920年〈大正9年〉5月20日 - 2009年〈平成21年〉11月20日)は日本の陸軍軍人および陸上自衛官。陸士54期卒(歩兵)。最終階級は陸軍大尉、陸将補。 山形県米沢市出身。父は陸軍少将・満洲国軍中将の南雲親一郎。真珠湾攻撃などを指揮した海軍の南雲忠一大将は父の従弟とされ、本人も南雲大将の甥として紹介されている。 原隊は歩兵第7連隊。少尉任官後、62代連隊旗手を拝命する。 大戦末期に予科士官学校区隊長に発令され、1945年春より群馬県新鹿沢に疎開。食糧不足からニラやノビル、カエルやマムシを食するような状況で、営内に漂う悪臭に閉口していたという。 7月末より各中隊より選抜された60期~61期生徒50名を引率し、山形県飽海郡本楯村の海岸にて製塩作業中に終戦を迎える。
梅沢 治雄(うめさわ はるお、旧字体:梅澤 治雄、1910年… 梅沢 治雄(うめさわ はるお、旧字体:梅澤 治雄、1910年(明治44年)10月30日 - 2003年(平成15年)6月23日)は、日本の元陸軍軍人および陸上自衛官。陸士44期卒(歩兵)、陸大51期(恩賜)。最終階級は中佐、陸将。 山形県米沢市出身。梅沢力助少将(11期)の長男。東京府立第六中学校(3回生)より陸軍幼年学校(29期)に転じ、陸軍士官学校を卒業。原隊は近衛歩兵第1連隊。少尉任官後、第51代連隊旗手を拝命。幹部候補生専任教官や歩兵学校教官を経て、陸軍大学校卒業後は第6師団参謀として中支に出征。参謀本部部員、陸大教官、大本営参謀を経て、陸軍省人事局で終戦を迎える。 戦後は第一復員局総裁秘書官を経て、保安隊に入隊。
関 衛(せき まもる、1909年(明治42年)3月8日 - … 関 衛(せき まもる、1909年(明治42年)3月8日 - 1942年(昭和17年)10月26日)は、日本の海軍軍人。南太平洋海戦において戦死。海兵58期。最終階級は海軍中佐。 山形県米沢市に父・関才右衛門と母・ヤスのもとに生まれる。父は海軍大佐で、日本海海戦に第19艇隊所属の水雷艇「雉」艇長として参戦している。母は旧米沢藩士・左近司政記の娘。左近司政三海軍中将は伯父にあたる。 府立五中を経て、1926年(大正15年)11月海軍兵学校58期に入校。この時期はダルトンプランによる教育が実施されていた。1930年(昭和5年)11月18日卒業。58期生は少尉候補生として装甲巡洋艦「出雲」・「八雲」に乗組し練習航海に出発(関は「八雲」に乗組み)。
宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年… 宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年)3月17日 - 1959年(昭和34年)5月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)、宮下民雄の長男として山形県米沢市福田町に生まれる。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1938年(昭和13年)、陸軍歩兵大佐に昇進。1941年(昭和16年)、陸軍少将に進級。1943年(昭和18年)6月、第32歩兵団長に就任し太平洋戦争に出征、中国で従軍した。独立歩兵第1旅団長、第1国境守備隊長を経て、1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み、翌月、第157師団長に着任し、青森県三本木(現在の十和田市)で本土決戦に備えたが、交戦することなく終戦を迎えた。
大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月1… 大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1941年(昭和16年)8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市上花沢片町出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業し、同年12月、工兵少尉に任官。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部通信課に配属された。 1935年(昭和10年)3月、工兵大佐に昇進し、参謀本部通信課長に就任。1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し、陸軍通信学校付となり、さらに同校幹事を務めた。1938年(昭和13年)10月、台湾軍参謀長となる。 1940年(昭和15年)3月、近衛師団司令部付となり、同年7月、鎮海湾要塞司令官に就任。
大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 194… 大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 1944年10月18日)は、日本の陸軍軍人、作曲家、指揮者。最終階級は陸軍軍楽少佐。山形県米沢市出身。 1889年、小学校長を勤める音楽好きな父の家に生まれるが、7歳のころ生家の大滝家を離れ親戚の大沼家の養子となる。米沢工業学校卒業後に音楽への思い止みがたく上京して、軍楽兵を目指し1907年陸軍戸山学校に入校。同校を首席で卒業し銀時計を授与される(俗に言う「恩賜の銀時計組」)。1912年に陸軍戸山学校軍楽隊を中心とする選抜メンバーでイギリス演奏旅行する際、メンバーに選ばれず永井建子軍楽隊長の留守居役を命じられたことに発奮し、フランス語を習得した。
阿部 弘毅(あべ ひろあき、1889年(明治22年)3月15… 阿部 弘毅(あべ ひろあき、1889年(明治22年)3月15日 - 1949年(昭和24年)2月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 海軍兵学校(39期)、海軍大学校(23期)卒業。海軍兵学校同期に伊藤整一、遠藤喜一、高木武雄、山県正郷、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 山形県米沢市出身。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を148人中26位で卒業。1912年(大正元年)12月、海軍少尉任官。 1938年(昭和13年)11月海軍少将、海軍兵学校教頭兼監事長。1941年(昭和16年)8月、重巡洋艦「利根」、「筑摩」からなる第8戦隊司令官。第8戦隊は真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に参加した。
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月… 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1944年〈昭和19年〉7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。正三位勲一等功一級。 1887年3月25日、山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で、郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方(中士階級)でもあった。 米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。
南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年(明治19年)… 南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年(明治19年)9月19日 - 1963年(昭和38年)11月18日(22日とも))は、日本および満州国の陸軍軍人。陸士19期卒(歩兵)。日本陸軍では長く教育畑におり、満洲国軍でも陸軍軍官学校長を務めた。最終階級は陸軍少将、満州国軍中将。 1886年(明治19年)に山形県南置賜郡笹野村(現在の米沢市笹野)で南雲親吉の次男として生まれた。 米沢尋常中学興譲館を経て、1907年(明治40年)5月31日、陸軍士官学校第19期卒業。歩兵第32連隊より会津の歩兵第65連隊に転じたのち少尉任官。陸軍戸山学校、陸軍歩兵学校、陸士区隊長(27期担当)を経て1921年(大正10年)7月、久邇宮邦久王の訓育中隊長兼教育主任を担当。
中島 鉄蔵(なかじま てつぞう、旧字体: 中島 鐵藏、188… 中島 鉄蔵(なかじま てつぞう、旧字体: 中島 鐵藏、1886年9月10日 - 1949年7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は、陸軍中将。栄典は、従三位[要出典]勲一等功三級。 山形県米沢市木場町出身。1905年11月、陸軍士官学校(18期)を卒業、翌年3月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となる。1918年11月、陸軍大学校(30期、同じ山形県出身の石原莞爾と同期)を卒業した。 戦術研究に才覚を現し、1919年陸軍歩兵学校教官、1921年フランス駐在武官、1926年12月陸軍大学校兵学教官を歴任。1930年8月陸軍歩兵大佐に陞進、参謀本部戦史課長。1931年8月歩兵第77連隊長。1933年3月陸軍歩兵学校教導隊長、同年8月侍従武官。
小泉 恭次(こいずみ きょうじ、1886年(明治19年)2月… 小泉 恭次(こいずみ きょうじ、1886年(明治19年)2月2日 - 1946年(昭和21年)12月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1886年(明治19年)に山形県米沢市で生まれた。興譲館中学校二年を経て、仙台陸軍幼年学校卒業。1905年(明治38年)に陸軍士官学校第18期を卒業し、1906年(明治39年)に歩兵少尉任官。1915年(大正5年)に陸軍大学校第27期卒業。1927年(昭和2年)に天津駐屯歩兵隊長に就任し、済南事件が発生した際には日本人居留民の保護に当たった。1928年(昭和3年)に東京警備司令部参謀を経て、1930年(昭和5年)に陸軍歩兵大佐に進級し、名古屋連隊区司令官に就任。
甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉… 甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉1月11日 - 1958年〈昭和33年〉3月26日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市門東町出身。米沢尋常中学興譲館より仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。中央幼年学校生徒隊付などを経て、1917年11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した。 歩兵第32連隊中隊長、参謀本部員、歩兵第40連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第7師団参謀などを歴任。1930年8月、陸軍大佐に昇進し京城帝国大学の配属将校となる。留守第11師団参謀長を経て、歩兵第15連隊長となり、第一次上海事変により動員されるが満州に転用され、馬占山軍の攻撃に従事。
片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1… 片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1972年8月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山形県米沢市出身。片桐作吉の長男として生まれる。米沢中学校を経て、1906年11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科を卒業し、「摂津」分隊長、「厳島」分隊長、砲術学校教官などを経て、1918年11月、海軍大学校(甲種16期)を卒業。以後、第2水雷戦隊参謀、軍令部出仕兼参謀、「摂津」砲術長、「出雲」砲術長、海兵教官、海軍省教育局第1課局員などを歴任。 さらに、欧米出張、「大井」艦長、「青葉」艦長、教育局第1課長、「榛名」艦長などを経て、1933年11月、海軍少将に進級。
浅間 義雄(あさま よしお、1885年7月25日 - 194… 浅間 義雄(あさま よしお、1885年7月25日 - 1945年9月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍司政長官。 1885年7月、山形県米沢市北谷地小路に生まれる。米沢尋常中学興譲館を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1910年、歩兵中尉として陸軍戸山学校に分遣、成績優秀につき恩賜の時計を賜る。1912年、天津に駐屯。1914年、中隊長として青島に従軍(青島の戦い)。1921年、歩兵大尉、遼陽に駐屯。1923年、歩兵少佐、浜松師範学校配属将校。 1927年、歩兵第32連隊大隊長、後に陸軍歩兵学校分遣。1931年、歩兵中佐、第8師団高級副官、1933年まで満州事変(熱河作戦)に参加する。
下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1… 下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1月9日 - 1953年(昭和28年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身。 日中関係が不穏な時期に下村は第10戦隊司令官に就任した。下村は日本海軍の通信系統、即ち、北京海軍駐在武官→旅順→東京→佐世保→高雄→第三艦隊旗艦出雲から、佐世保、高雄を省略することで、日華事変が勃発した当日に出雲艦上においていち早く事変発生の情報を入手した。第三艦隊司令長官長谷川清と会談中のことであった。
池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月… 池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月22日 - 1905年〈明治38年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。日本海海戦で戦死した海軍中尉である。大蔵大臣などを歴任した池田成彬は兄。従七位勲六等功四級。 海軍兵学校30期。山形県米沢市出身。父は米沢藩士・池田成章。同期生に百武源吾、松山茂などがおり、米沢からは今村信次郎、下村忠助など7名が入校している。兵学校卒業後の遠洋航海から帰国した1903年(明治36年)12月、海軍少尉に任官し、ほどなく日露戦争開戦を迎えた。 池田は新造駆逐艦の配置を希望し、第二駆逐隊所属の「雷」へ配属となる。日本海海戦の初日である1905年(明治38年)5月27日、日本海軍の駆逐隊、水雷艇隊はバルチック艦隊に対し夜間攻撃を実施した。
下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉1… 下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉10月8日 - 1916年〈大正5年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で観戦武官として戦死した海軍中佐である。海大甲種10期首席。正六位勲四等功四級。 1881年(明治14年)10月8日、山形県米沢市に生まれた。下村正助海軍中将は実弟である。幼くして母と死別し、父と共に北海道根室に移住したが、中学進学のため帰郷し、米沢中学に進んだ。翌年父を失っている。1899年(明治32年)に海軍兵学校に入校し、1902年(明治35年)12月、187名中8番で卒業した(30期)。百武源吾、松山茂のほか、今村信次郎、松浦松見、池田宏平ら同郷の7名が同期生である。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 19… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 1964年10月5日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県南置賜郡三沢村赤芝(現・米沢市)出身。佐藤丑松の三男として生れる。米沢尋常中学興譲館を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。陸軍戸山学校付などを経て、1912年11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸士教官、参謀本部員、支那公使館付武官補佐官、参謀本部員、兼陸大教官、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部課長、欧州出張、歩兵第46連隊長、第3師団司令部付(済南駐在)などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)… 今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)12月4日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 旧米沢藩江戸家老同心(下士階級)で農業を営む今村滝次郎の二男として生れる。米沢中学校を経て、1902年(明治35年)12月、海軍兵学校(30期)を次席で卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。この時席次は百武源吾と入れ替わり首席となった。日露戦争では「韓崎丸」乗組として、百武、溝部洋六らと海兵32期の指導にあたり、日本海海戦には「三笠」乗組で砲術長安保清種付として参戦した。「須磨」乗組、「鹿島」回航委員、同分隊長などを経て、海軍砲術学校特修科を首席で修了。
小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日… 小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日 - 1937年(昭和12年)8月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。実弟である櫻井忠記陸軍大佐の親戚に山本五十六元帥や山下源太郎海軍大将がいる。 山形県米沢市代官町出身。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し、陸士に配属された。 1922年(大正11年)8月、歩兵大佐に昇進し、陸軍兵器本廠付となる。1923年(大正12年)8月、歩兵第25連隊長に就任。1924年(大正13年)12月、第1師団参謀長に転じた。 1928年(昭和3年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第19旅団長に就任。
千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1… 千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1月) - 昭和15年(1940年)12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。 米沢藩士・千坂高雅の三男として生まれる。 明治29年(1896年)11月26日陸軍士官学校(第8期)卒業、明治30年(1897年)6月28日陸軍少尉任官。 明治31年(1898年)歩兵第5連隊付、明治32年(1899年)11月17日陸軍中尉任官。明治36年(1903年)歩兵第31連隊中隊長、明治 37年(1904年)戦時大本営陸軍部管理部 副官歩兵大尉、明治42年(1909年)5月20日陸軍少佐任官。明治 45(1912年)第二師団副官、大正3年(1914年)歩兵第3連隊大隊長 、大正4年(1915年)12月23日陸軍中佐任官、同日予備役編入。
千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年… 千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年2月15日)- 1936年(昭和11年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士・千坂高雅の二男として生まれる。米沢中学校、攻玉社を経て、明治20年(1887年)7月に海軍兵学校(14期)を卒業し、同22年(1889年)9月に海軍少尉任官。練習艦「館山」分隊長などを経て、日清戦争では「扶桑」分隊長として出征した。 練習艦「満珠」航海長、「高雄」航海長、「須磨」航海長、皇族(有栖川宮威仁親王)付武官、「松島」航海長、「八雲」回航委員、同航海長、「夕霧」艦長などを歴任。日露戦争には「初瀬」航海長として出征したが、明治37年(1904年)5月に乗艦が触雷により沈没した。
大瀧 道助(おおたき みちすけ、1868年(明治元年) - … 大瀧 道助(おおたき みちすけ、1868年(明治元年) - 1911年(明治44年)11月24日)は、日本の海軍軍人。第十水雷艇隊司令として第三回旅順港閉塞作戦や日本海海戦を戦った。第十二駆逐隊司令在任中座礁事故で殉職。最終階級は海軍中佐正六位・勲四等・功四級。 米沢藩士の大瀧義重の子として生まれる。海兵17期生となる。1890年(明治23年)7月に88名中39番の成績で海軍兵学校を卒業した。「金剛」または「比叡」に配乗となって実務訓練を受け、少尉任官は1892年(明治25年)5月である。日清戦争では「金剛」分隊士として威衛海攻略戦に参戦した。 「松島」分隊長を経て、1903年(明治36年)9月、第三艦隊に所属する第十水雷艇隊司令(少佐)に補され、麾下4隻の水雷艇を率いて日露戦争に参戦する。
黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈186… 黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈1866年7月4日〉- 昭和12年〈1937年〉4月29日)は、明治から大正期の日本の海軍軍人。海軍大将。山形県(旧米沢藩)出身。江戸時代中期の米沢藩士黒井忠寄は傍系である。黒井家の菩提寺はともに鍛冶町の曹洞宗高国寺。 米沢藩士(250石)黒井繁邦の二男。同郷の山下源太郎や南雲忠一と同様、米沢藩の藩校をルーツとする興譲館中学より海軍兵学校に入学。明治20年(1887年)、兵学校13期を36人中4位で卒業。同期に野間口兼雄大将・栃内曽次郎大将がいる。この期は他にも中将5名・少将10名を輩出する。 練習艦「龍驤」での訓練を終えて、最新の巡洋艦「高千穂」で最初の2年あまりを過ごす。
上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応… 上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1946年(昭和21年)11月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士(興譲館教頭)・上泉清次郎の長男として生まれる。私立米沢中学校、攻玉社を経て、1886年12月、海軍兵学校(12期)を卒業し、1888年1月に海軍少尉任官。海軍大学校で丙号学生として学び、「日進」「葛城」「高千穂」の各分隊長、佐世保海兵団分隊長、呉鎮守府参謀、大連湾要港部副官、「龍田」分隊長、「済遠」砲術長などを経て、1897年12月、海大将校科(1期)を卒業し、さらに水雷術練習所で学んだ。 「鎮遠」水雷長、「八重山」副長、「敷島」回航委員・水雷長、「秋津洲」「千代田」の各副長、佐世保海兵団副長、竹敷要港部第2水雷敷設隊司令、「高砂」副長、軍令部副官、兼同第1局員などを歴任。
山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文… 山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文久3年7月30日〉- 1931年〈昭和6年〉2月18日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、華族。海軍大将正二位勲一等功三級男爵。日露戦争時の軍令部作戦班長(のちの作戦部長)、連合艦隊司令長官、軍令部長などを歴任した。 米沢藩士・山下新右衛門(禄高:25石)の次男。藩校興譲館、その後身の私立米沢中学校を経て明治12年(1879年)海軍兵学校に入校。明治15年(1882年)「龍驤」に乗り込み遠洋航海に参加した。翌年海軍兵学校を4位の成績で卒業(10期)。同期に首席の加藤定吉大将、17位の名和又八郎大将がいる。 帰国後は「浅間」で砲術訓練を積み、兵学校修学課程で学問を深め、明治19年(1886年)の長浦水雷営勤務から現場に出た。
釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2… 釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2年9月13日) - 1939年(昭和14年)1月19日)は、日本の海軍軍人。手旗信号の改良で功績があり、日清戦争では第一遊撃隊参謀、日露戦争では「龍田」「佐渡丸」の艦長として歴戦した海軍中将である。旧名は源五郎。 幕末の米沢に生まれる。海軍兵学校11期を26名中15番で卒業した。村上格一、川島令次郎らが同期生である。米沢では小森沢長政の影響があり、山下源太郎(10期)、上泉徳弥(12期)、黒井悌次郎(13期)、千坂智次郎(14期)、釜屋の弟である釜屋六郎(14期、のち中将)などの海兵進学が続き、のちに米沢の海軍と呼ばれることとなる。 釜屋は水雷練習所の教官や、水雷団長などを務めた水雷を専門とする士官であった。
藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(185… 藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(1854年1月28日) - 1901年(明治34年)12月1日)は、明治時代の陸軍軍人。官位は陸軍歩兵大尉従六位勲四等。山形県士族(1894年(明治27年)に分家後は千葉県士族)。 1877年(明治10年)の西南戦争に出征して戦功を挙げる。歩兵第18連隊中隊長等を歴任する。 1881年(明治14年)7月、養子縁組解消に伴い「石口」姓から「藤巻」姓へ復姓。 陸軍省大日記(西南戦役第二旅団戦闘履歴明治10年2月26日~11年8月6日)によると『歩兵第2連隊第1大隊第1中隊附 陸軍少尉石口胤家は今回戦役中4月9日より5月11日まで中隊長代理となり木留村にて戦役に服し7月10日六観音山迂回の節は一小隊を引率し、賊軍背後に進出して部下を配慮指揮して大いに奮戦する。
丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉… 丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉永2年12月26日)- 1912年(明治45年)5月12日)は、明治期の海軍軍人、実業家、政治家。衆議院議員、米沢市会議長。 出羽国置賜郡米沢(山形県南置賜郡米沢を経て現米沢市)で、米沢藩士・丸山英造の長男として生まれた。1871年(明治4年)米沢に洋学舎が設立され諸勤学生(副舎長)に就任し、イギリス人チャールズ・ヘンリー・ダラスから学んだ。 五十嵐力助らと県会の開設を建議した。1879年(明治12年)海軍裁判所に出仕し、1884年(明治17年)海軍少尉に任官。東京軍法会議判士を務めた。また興亜会の中国語学校・興亜学校の初代校長に就任した。
小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年)… 小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年)3月13日)は、幕末の米沢藩士、明治期の海軍法務官。初期海軍の法制度確立に努め、海軍省法務部長に至る。また郷里の後進を海軍に勧誘し、米沢海軍の祖とされる人物である。米沢有為会第二代会長。 旧名は宮島琢蔵。父は米沢藩右筆・宮島吉利、兄は宮島誠一郎である。 明治維新後に米沢藩少属となり、次いで兵部省海軍所文官に採用され、海軍省発足とともに海軍大録に任じられた。小森沢の海軍入りは兄の宮島誠一郎と親しかった勝海舟の影響があったともいわれる。 長く海軍大臣を務めた西郷従道の知己を得たといわれ、1877年(明治10年)太政官権大書記官、翌年には海軍大書記官を兼ねる。
下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842… 下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842年8月29日(天保13年7月24日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、幕末の米沢藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家、日本画家。最終階級は海軍主計大佐。貴族院勅選議員。雅号・桂谷(けいこく)。 出羽国置賜郡米沢(現山形県米沢市)で、米沢藩士・下条半兵衛の長男として生まれ、慶応2年6月(1866年)下条武兵衛の養子となり家督を相続。明治2年12月(1870年1月)権少属任官。1873年以降、海軍少秘書、同大秘書、同少書記官、同主計少監、同督買部理事官、横須賀鎮守府会計監督部長、佐世保鎮守府主計部長、海軍主計学校長、海軍部内の諸課長、海軍主計大監等を歴任し、1893年5月予備役に編入。
和田 久馬(わだ きゅうま、生年不明 - 1944年(昭和1… 和田 久馬(わだ きゅうま、生年不明 - 1944年(昭和19年)2月19日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争においてグリーン諸島に逆上陸し、守備部隊指揮官として戦死した。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 和田は米沢中学を経て、1938年(昭和13年)3月に海軍兵学校を卒業した海兵65期生である。重巡「鈴谷」、戦艦「長門」での艦船勤務を経て、1939年(昭和14年)10月に佐世保鎮守府第八特別陸戦隊附となって以降は陸上勤務が続いた。配置は海南島根拠地隊司令部附、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊分隊長、横須賀海兵団分隊長兼教官である。1941年(昭和16年)11月に横須賀鎮守府附となるが、和田は海南島勤務以来三日熱マラリアに悩まされており、郷里や水交社で療養している最中に開戦を迎えた。