倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、… 倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー。 藤枝東高校3年次の高校選手権(1979年度)に出場、優勝候補の一角と目されたが1回戦敗退に終わった。卒業後は筑波大学に進学。4年次の1985年にユニバーシアード代表 に選出され、同年8月の神戸大会に出場しベスト4進出に貢献した。 1986年に本田技研工業に入部。また同年に日本代表に選出され、1987年のソウル五輪アジア予選など国際Aマッチ6試合に出場。1989 FIFAフットサル世界選手権にフットサル日本代表として出場した。北澤豪共々読売サッカークラブ所属選手として日本リーグ最終シーズンを過ごした。
杉山 誠(すぎやま まこと、1960年5月17日 - )は、… 杉山 誠(すぎやま まこと、1960年5月17日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 ポジションはDF。双子の弟の杉山実 も元サッカー選手である。 藤枝市立藤枝中央小学校でサッカーを始める。藤枝市立藤枝中学校3年次には全国中学校サッカー大会に出場し準優勝に貢献した。高校は地元の藤枝を離れ、静岡学園高校に進学。井田勝通監督の下で1年次に高校サッカー選手権準優勝。2年次には静岡県国体選抜に選出され、国民体育大会サッカー競技で優勝。3年次には日本ユース代表に選出、松本育夫監督の厳しい指導を受けた結果、最終メンバーに残り、1979年のFIFAワールドユース日本大会に出場した。 東京農業大学卒業後、1983年に日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部に加入。
大野 聖吾(おおの せいご、1958年5月28日 - )は、… 大野 聖吾(おおの せいご、1958年5月28日 - )は、日本のサッカー指導者。元岐阜工業高等学校サッカー部監督。アルビレックス新潟の成岡翔は甥。 静岡県藤枝市出身。藤枝東高校3年時に静岡県選抜に選出され国体で優勝。高校卒業後に筑波大学へ進学すると大学選手権優勝2回(1979年、1980年)、関東大学リーグ優勝1回(1980年)に貢献。4年時の1980年には全日本学生選抜に選出されマラハリムカップに出場した。 卒業後は日本サッカーリーグの数チームからの誘いを固辞して教員の道を選び、岐阜藍川高校、岐阜工業高校、大垣北高校、大垣工業高校のサッカー部監督を歴任。 岐阜工業高校時代の1998年の高校総体では準優勝。
藤 正樹(ふじ まさき、1957年12月13日 - )は、静… 藤 正樹(ふじ まさき、1957年12月13日 - )は、静岡県藤枝市出身の日本の歌手である。本名は早川 雅基。身長165センチメートル、体重58キログラム、血液型はA型、趣味はスポーツ全般(ゴルフ、野球、テニス、スキー、スケートなど)。 1973年(昭和48年)3月、日本テレビの人気オーディション番組『スター誕生!』で『新潟ブルース』を歌い、高い歌唱力が評価を得て第6回グランドチャンピオンとなった。 1973年7月25日、キャニオンレコードより歌手として15歳でデビューした。ホリプロより「演歌の怪物ハイセイコー」のキャッチフレーズで売り出され、紫色の詰襟学生服とおむすび頭、大仏様のような福々しいルックスで大人気を博した。
池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、… 池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、静岡県藤枝市出身のサッカー指導者。 筑波大学卒業後、静岡県サッカー教員団で指導者のキャリアをスタートさせる。以降は地元静岡県を中心に中高生を指導した。2004年にJFA Proライセンスを取得。 2023年7月19日、WEリーグ・ちふれASエルフェン埼玉の監督に就任。66歳にして初の女子の指導となる。 2024年10月16日に検査入院のため指揮から離れることが発表され、12月18日に健康上の都合で正式にちふれASエルフェン埼玉監督を辞任した。
中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は… 中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は、日本の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW(左ウイング)。静岡県藤枝市出身。川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部などに所属し、日本代表としても、国際Aマッチ5試合に出場し1得点した。 西益津中学校3年次に全国中学校サッカー大会優勝に貢献し注目される。高校はサッカーの名門藤枝東高校に進学するとレギュラーの座を掴み、4-2-4システムを採用する同校の左ウイングとして、第51回大会(1973年)と第52回大会(1974年)の全国高校サッカー選手権大会の2年連続準優勝に貢献した。主将として挑んだ3年次の高校選手権決勝の北陽高校戦では自身の上げた得点がオフサイドと判定される不運もあった。
碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、… 碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。サッカー選手の碓井健平は実子。 強烈なキック力を持ち、得意とした右斜め45度エリアからのシュートで多くのゴールを挙げたストライカー。 静岡県立藤枝東高等学校、早稲田大学を経て、1976年にJSLの日立製作所(現柏レイソル)に入部。2度のJSL得点王(1980年、1982年)に輝き、「第55回天皇杯全日本サッカー選手権大会」、「第1回JSLカップ」優勝に貢献した。1988年に現役引退するまでJSL通算200試合出場85得点28アシストの記録を残している。 1974年から日本代表に名を連ね、「1978 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選」、「1980年モスクワオリンピック」予選に出場。
堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 20… 堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 2025年8月23日)は、静岡県藤枝市出身の元日本代表サッカー選手、コーチ・監督。 静岡県の藤枝東高校卒業後、日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマー(現セレッソ大阪)でプレーし、JSLでは通算204試合出場46得点を記録した。 引退後はヤンマーのコーチ、セレッソ大阪のスカウト、ガンバ大阪のコーチ、サテライトチームの監督を務めた後、2001年に川崎フロンターレ監督に就任した。しかしチームの調子は上がらずシーズン途中で解任された。その後は2003年に神戸国際大学サッカー部監督、2004年にジュビロ磐田ヘッドコーチを務め、2005年から2007年まで川崎フロンターレU-18の監督であった。
高田 寛(たかだ ひろし、1953年 - )は、日本の法学者… 高田 寛(たかだ ひろし、1953年 - )は、日本の法学者。元明治学院大学法学部教授。企業法学会理事。国際取引法学会理事・副会長。一般社団法人GBL研究所理事。国際商事法研究所(IBL)監事。特種情報処理技術者。専門は、国際取引法、国際企業法務、ITビジネス関連法、法情報学。 静岡県藤枝市出身。静岡大学工学部情報工学科を卒業後、1980年に静岡大学大学院工学研究科情報工学専攻修了(工学修士)し、技術系職員として静岡放送に入社した。1982年に静岡放送を退社し、1983年から1985年までプロスペラ学院外国語専門学校講師となった。1985年に日本ディジタル・イクイップメントに転じ、次いで1998年にコンパック・コンピュータ、さらに2002年に日本ヒューレット・パッカードへ移った。
青木 裕史(あおき ひろし、本名:青木 清、1952年1月1… 青木 裕史(あおき ひろし、本名:青木 清、1952年1月10日 - 2020年12月19日)は、日本の歌手。静岡県藤枝市出身。 静岡県立藤枝東高等学校、東京芸術大学音楽学部声楽科卒業。大学在学中から、NHK教育テレビ番組にレギュラー出演。第12回日本シャンソンコンクール入賞を機に、ポピュラー界に転向。 2020年12月19日、脳梗塞のため東京都練馬区の自宅で死去。68歳没。
八並 映子(やなみ えいこ、1948年10月22日 - 20… 八並 映子(やなみ えいこ、1948年10月22日 - 2017年1月14日)は、日本の女優。本名:三浦 由江(みうら よしえ、旧姓:青木)。身長163cm、体重49kg。 静岡県藤枝市出身。県立藤枝西高校卒業。1969年、大映に第20期ニューフェイスとして入社、翌年にデビュー。 大映末期で唯一活気に満ちていた高校生番長シリーズと呼ばれる集団青春劇の中心的存在として、野放図な若さを堂々と体現し、関根恵子、渥美マリ、南美川洋子、川崎あかねとともに大映末期の5人娘として活躍した。早熟な高校生、番長といった反体制的な役柄を得意とした。1970年度エランドール新人賞受賞。 主演作の「悪名尼」は大映配給の最後の作品 (1971年11月20日公開) である。
桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日… 桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。静岡県藤枝市出身。フットメディアに所属。 現役時代は古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド市原・千葉の前身)で16年間にわたりプレーし、現役晩年にはコーチも兼任。PJMフューチャーズ/鳥栖フューチャーズでも選手兼任コーチを務め、1989年12月9日の天皇杯一回戦(対TDK戦)では、熊谷義一に代わり41歳という年齢で交代出場を果たしている。[要出典]1996年に強化育成アドバイザーとしてジュビロ磐田入りした。 1997年にトップチームコーチに就任し、監督のルイス・フェリペ・スコラーリの下で指導を行う。
岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 -… 岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 - 2013年4月26日)は、日本の元サッカー選手、指導者。 静岡県藤枝市出身。現役時代は静岡県立藤枝東高等学校、法政大学、日本鋼管でプレイした。 静岡県立藤枝東高等学校時代には同級生に松永章(後に日立製作所)と桑原隆(後に古河電気工業を経てジュビロ磐田監督)がおり、彼らと共に高校3年次には1966年(昭和41年度)の全国高等学校サッカー選手権大会、全国高等学校総合体育大会、第21回国民体育大会(大分県)少年の部を全て制覇し、史上初の高校三冠の栄冠に輝いた。 高校卒業後に法政大学へ進学、大学4年次では主将に任命され、1970年の第19回全国大学サッカー選手権大会で優勝を果たした。
内田 睦夫(うちだ むつお、1945年 - 2024年11月… 内田 睦夫(うちだ むつお、1945年 - 2024年11月10日)は、社会人野球の元選手、指導者。東京都立高島高等学校元校長。民間人校長第1号。 静岡県藤枝市出身。島田商業高校では捕手として活躍。卒業後は東海大学工学部に進む。首都大学野球リーグでは6回優勝。渡辺孝博、上田二郎らとバッテリーを組む。リーグ戦通算83試合出場、307打数107安打、打率.349、12本塁打、77打点。首位打者、MVP各1回、ベストナイン2回。 1968年に日立製作所に入社。1969年にプロ野球ドラフト会議でアトムズ(のち東京ヤクルトスワローズ)に11位で指名されたが拒否し残留。都市対抗野球大会には5年連続出場。1971年の都市対抗では大学後輩の渡辺孝博とバッテリーを組み、1回戦で本塁打を放つなど活躍。
山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )… 山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。1968年メキシコシティーオリンピックにおいて日本代表が銅メダルを獲得した時の選手の一人。藤枝市初代市長の山口森三は父に当たる。 静岡県藤枝市出身。藤枝東高校時代はフォワードとしてプレー。日本ユース代表に選出され、1962年、1963年のアジアユース大会に出場した。 中央大学に入学してサッカー部に入部し、ディフェンダーへ転向。4年次には主将を務め1966年の関東大学リーグ制覇に貢献した。 また大学在学中の1964年に日本代表に選出され10月16日の東京オリンピック1次リーグガーナ戦で国際Aマッチデビュー を飾り、これ以降左サイドバックのレギュラーとして定着。
菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -202… 菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -2022年12月2日)は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立藤枝東高校時代に全国選手権大会で優勝した実績を持つ。明治大学を経て、1968年に三菱重工業サッカー部に加入し、サイドバックとして三菱黄金時代を支えた。また、1969年6月19日のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦で日本代表として初出場した。 1974年に現役を一度引退。地元に戻り家業を継ぐ。1976年、藤枝市の志太クラブに入団。静岡県社会人サッカーリーグでプレーし、1980年には選手兼任監督に就任した。 将来の日本サッカーをリードしようと1982年に創部した中央防犯サッカー部に監督として入社。
桑原 勝義(くわはら かつよし、1944年5月30日 - … 桑原 勝義(くわはら かつよし、1944年5月30日 - )は静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現・静岡県サッカー協会専務理事、日本サッカー協会理事、日本フットボールリーグ理事長。実弟は桑原隆。 1962年度高校サッカー選手権で静岡県立藤枝東高等学校が初優勝した時の中心選手。卒業後は日軽化工清水工場、名古屋相互銀行(以下、名相銀)などに所属し、1965年には日本代表に選出され国際Aマッチ2試合に出場した。 1971年、名相銀の解散で選手は引退し、銀行の仕事に専念するつもりでいたが、日本サッカー協会の幹部・長沼健に勧められ、生まれ育った静岡に日本リーグのチームをという仕事にロマンを感じ銀行職を捨て、翌1972年、前年創設された本田技研工業サッカー部に加入。
富沢 清司(とみざわ きよし、1943年12月3日 - )は… 富沢 清司(とみざわ きよし、1943年12月3日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはフルバック(FB)。 八幡製鉄(現・日本製鉄)サッカー部に所属。19歳にして日本代表に選出された経歴を持ち、1964年の東京オリンピック、1968年のメキシコシティオリンピックに出場。国際Aマッチ通算9試合に出場し、2得点を挙げた。主にストッパーを担当し、1対1の場面における粘り強いディフェンスを得意としていた。 2009年に開催された全国健康福祉祭(ねんりんピック)の静岡県選抜チームのメンバーとして出場したと報じられた。
千野 忠男(ちの ただお、1934年1月21日 - 2008… 千野 忠男(ちの ただお、1934年1月21日 - 2008年7月17日)は、静岡県藤枝市出身の大蔵(財務)官僚。血液型はO型。国際金融局長、財務官、アジア開発銀行総裁などを歴任。正四位瑞宝重光章。 ざっくばらんで竹を割ったような性格。主計局主計官補佐時代には農林係主査を5年間務め、省内きっての農政通とされていた。 事務次官候補として主計官補佐(主査)、主計局総務課企画官、主計官、大臣官房文書課長、近畿財務局長を経験していたが、大学時代にスタンフォード大学に長期間留学していたため、他の同期より年齢が上で、主計局長→事務次官の順番待ちの最中に定年の壁に引っかかるため、同期の篠沢を主計コースとし、千野は財務官となる国際金融コースへと変更となった。
中山 儀助(なかやま ぎすけ、1932年10月22日 - )… 中山 儀助(なかやま ぎすけ、1932年10月22日 - )は、日本の元政治家、農家。 静岡県藤枝市岡部町でみかんと茶の生産を手がける農業を営む。元岡部町議会議員。第3子(長男)の中山雅史は、元プロサッカー選手、元ヤマハ発動機社員。 農家の長男として生まれ、家業を継いだ。岡部町議会議員を3期12年務めた(勇退後も岡部町の様々な役職を務める)。 1993年、長男・雅史がFIFAワールドカップアジア最終予選(ドーハの悲劇)で有名になると、父親の儀助も静岡弁丸出しで(いまだに)息子・雅史を「小僧」と呼ぶなどの飾らない言葉づかいや話し振り、人柄の良さが世間の注目を浴び、「ゴン父」の愛称で知られるようになった。
杉井 六郎(すぎい むつろう、1923年6月13日 - 20… 杉井 六郎(すぎい むつろう、1923年6月13日 - 2011年10月8日)は、日本の人文学者。専門は日本キリスト教史。同志社大学名誉教授。 静岡県藤枝市生まれ。静岡県立静岡中学校卒業。1942年、第二早稲田高等学院入学、翌年3月退学。1943年、弘前高等学校 (旧制)文科二類入学、同年12月、学徒出陣により中部第三部隊に入隊。1947年、シンガポールより復員、弘前高校に復学。1949年、弘前高等学校文科乙類卒業。同年4月、京都大学文学部史学科国史学専攻入学、1952年、同専攻卒業。同年4月、京都大学大学院(旧制)入学。1961年3月、京都大学非常勤講師に就任するため大学院を退学。 1952年、京都府立園部高等学校教諭、1953年、同志社高等学校講師、1955年同校教諭。
村越 化石(むらこし かせき、1922年12月17日 - 2… 村越 化石(むらこし かせき、1922年12月17日 - 2014年3月8日)は、静岡県藤枝市出身の俳人。本名は村越 英彦(むらこし ひでひこ)。ハンセン病とその後遺症と闘いながら句作を続け「魂の俳人」と呼ばれた。 静岡県志太郡朝比奈村(現:藤枝市岡部町)新舟(にゅうぶね)に生まれる。1938年、16歳のときハンセン病の罹患がわかり、旧制静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)を退学、上京し治療に専念する。この時期に療友の勧めで俳句を知った。1941年に結婚、同年群馬県草津町湯之沢を経て、妻とともに同町の国立療養所栗生楽泉園に入園。同園の「栗の花句会」(のち高原俳句会となる)で、先輩俳人の浅香甲陽から俳句精神を学んだ。
大塚 利兵衛(おおつか りへえ、1922年 〈大正11年〉1… 大塚 利兵衛(おおつか りへえ、1922年 〈大正11年〉10月31日 - 2021年〈令和3年〉1月6日)は、日本のアナウンサー、フリージャーナリスト。 静岡県藤枝市出身。中央大学時代、学徒動員のためマレーシアにおり、終戦後は同国の刑務所で捕虜となった。 1947年に復員帰国して中央大学に復学後、「アナウンサー募集」の広告を見つけて応募し、日本放送協会入局を果たす。同時期入局は小川宏、八木治郎、木島則夫、野村泰治らがおり。入局後はアナウンス職に配属されてNHK釧路放送局、NHK札幌放送局に勤務して東京アナウンス室に異動。東京アナウンス室時代は報道番組を専門としてアナウンスを担当。 アナウンサーとして数々の歴史的事件や場面に遭遇したことでも知られ、自ら現場に向かってその一部始終をくまなくリポートしたことでも知られる。
上田 毅八郎(うえだ きはちろう、1920年8月30日 - … 上田 毅八郎(うえだ きはちろう、1920年8月30日 - 2016年6月18日)は、日本の画家である。海洋船舶画家として、模型メーカー・タミヤの「ウォーターラインシリーズ」をはじめとするボックスアートで知られる。 静岡県藤枝市鬼岩寺に生まれ、静岡市千代田で育つ。上田は子供のころから「子供の科学」「航空少年」といった少年雑誌を見ながら、船舶や飛行機の絵を盛んに模写していた。 1941年(昭和16年)、徴兵の為帝国陸軍の高射砲連隊(浜松市)に入営。後に船舶部隊(暁部隊)の船舶砲兵に転科、陸軍徴用船である軍隊輸送船に乗船し備砲たる高射砲の操作要員(船砲隊員)となり(船舶砲兵第1連隊)、太平洋戦争における数々の輸送任務に従軍。
村松 幸雄(むらまつ ゆきお、1920年3月6日 - 194… 村松 幸雄(むらまつ ゆきお、1920年3月6日 - 1944年7月25日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
飯塚 正二(いいづか しょうじ、1913年〈大正2年〉2月2… 飯塚 正二(いいづか しょうじ、1913年〈大正2年〉2月24日 - 1999年〈平成11年〉4月27日)は、昭和から平成時代の政治家。位階は正五位。静岡県藤枝市長。 藤枝市出身。1930年(昭和5年)静岡県藤枝農学校卒業。 静岡県庁に入り、1966年(昭和41年)副出納長、1967年(昭和42年)事業部長、1968年(昭和43年)公営企業管理者を経て、1972年(昭和47年)藤枝市助役に転じた。 1976年(昭和51年)6月、藤枝市長に就任。4期務め、1992年(平成4年)引退した。 1999年(平成11年)4月27日死去、86歳。死没日をもって正五位に叙される。
紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年〈明治41年〉 -… 紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年〈明治41年〉 - 1963年〈昭和38年〉9月16日)は、日本の警察官。静岡県警察の刑事として担当した事件において、数多くの冤罪被害者を生み出した。 現在の静岡県藤枝市出身。 自身が担当した幸浦事件(死刑判決の後、無罪)、二俣事件(死刑判決の後、無罪)、小島事件(無期懲役判決の後、無罪)、島田事件(死刑判決の後、無罪)の各事件で無実の者から拷問で自白を引き出し、証拠を捏造して数々の冤罪を作った。その捜査手法は紅林の部下も含めて静岡県警の警察官に影響を与えることになり、紅林自身は直接捜査に関与しなかったが袴田事件(死刑判決の後、無罪)などの冤罪事件を生む温床ともなった。
藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1… 藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1993年4月16日)は、日本の作家、眼科医。本名勝見次郎。静岡県志太郡藤枝町(現・藤枝市)出身。 藤枝町市部(現在の藤枝市本町)の勝見薬局の次男として生まれ、成蹊学園から名古屋の旧制第八高等学校を経て1936年に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を卒業。眼科教授の伊東弥恵治(1891-1958)に師事した。勤務医生活ののち独立、1950年から浜松市で眼科医院を営む傍ら、小説を書き続けた。1968年『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、1974年『愛国者たち』で平林たい子文学賞、1976年『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、1979年には『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。
岡野 繁蔵(繁藏、おかの しげぞう、1894年(明治27年)… 岡野 繁蔵(繁藏、おかの しげぞう、1894年(明治27年)6月4日 - 1975年(昭和50年)7月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。「南洋の貿易王」と称された。 児童文学作家の岡野薫子の大伯父にあたる。 静岡県志太郡青島村南新屋(青島町を経て、現藤枝市)で、岡野和吉の二男として生まれる。高等小学校を経て私立育英学校中学科に進んだ。2年次に瀬戸川の氾濫で実家が被災したため学校を中退し、藤枝駅前の丸十運送で住み込みで働く。育英中学に教師として赴任してきた橋本清之助と知り合い、社会教育団体の修養団藤枝支部の結成に関わった。 1914年(大正3年)にスマトラの雑貨商・豊原辰熊から青年の紹介依頼を修養団の蓮沼門三を通して聞き、同年、東洋貿易に入社した。
大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)… 大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)3月13日 - 1951年(昭和26年)3月19日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。醸造家。衆議院議員。静岡県会議長。 静岡県志太郡藤枝宿(藤枝町を経て現藤枝市)出身。生家は酒造業を営み、父の先代大塚甚之助は志太電気会社や藤相鉄道などを創設した実業家。 藤枝町長、同町会議員、静岡県会議員、同副議長、議長、静岡県鉄工組合連合会理事、同酒造組合連合会長、全国酒造組合中央会理事、藤相鉄道監査役、静岡県酒類販売社長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙では静岡全県区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は日本自由党総務、衆議院請願委員長を務めた。
山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年… 山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年)1月3日 - 1955年(昭和30年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。幼名・治作。 静岡県志太郡西益津村(藤枝町を経て現藤枝市大手)出身。先代忠五郎の息子として生まれ、忠五郎を襲名した。西益津高等小学校、永井東陵の私塾育英学校で学んだ。 農業に従事し、西益津村長、同村会議員、志太郡会議員、静岡県会議員、同副議長、同議長、全国町村会会長を歴任し、1928年の第16回衆議院議員総選挙で静岡1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙から4回連続当選した。
増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3… 増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3月19日〉 - 1951年〈昭和26年〉1月14日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家・政治家。 後藤新平秘書から衆議院議員となり、さらに実業界に転じて電気事業に参加。大同電力社長、日本発送電(日発)初代総裁、台湾電力(台電)社長などを務めた。駿河国(現・静岡県)出身。 増田次郎は慶応4年2月26日(明治元年、新暦:1868年3月19日)、駿河国志太郡稲川村(現・静岡県藤枝市)に増田儀右衛門の次男として生まれた。生家は120俵あまりの収穫がある比較的裕福な農家で、父儀右衛門は戸長に選ばれるような村の有力者であった。 小学校を出た後、世継ぎであり体の丈夫な兄・太郎に農業を継がせるので次郎は商人になるのがよい、という父の意向で、13歳のとき奉公に出され六合村にあった親類の商家に預けられた。
鈴木 辰次郎(すずき たつじろう、1864年3月27日(元治… 鈴木 辰次郎(すずき たつじろう、1864年3月27日(元治元年2月20日) - 1932年(昭和7年)12月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(2期)。 駿河田中藩領志太郡忠兵衛新田(静岡県志太郡大洲村を経て現藤枝市)出身。石田武雄の弟として生まれ、先代喜三郎の養子となり1891年(明治24年)家督を相続する。1883年(明治16年)静岡師範学校を卒業する。 農業を営む傍ら教育に従事する。また、日露戦争に従軍した。大洲村長、志太郡会議員、静岡県会議員、同参事会員、県農会副会長、焼津町長、日本簇機取締役などを歴任した。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
小林 勝民(こばやし かつたみ、文久2年4月5日(1862年… 小林 勝民(こばやし かつたみ、文久2年4月5日(1862年5月3日) – 昭和18年(1943年)7月7日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。ジャーナリスト。弁護士。 駿河国益津郡藤枝(現在の静岡県藤枝市)出身。和漢学、英学、法学を学んだ。『朝野新聞』記者、『日刊民報』記者、『静岡民友新聞』主筆、『台湾民報』主筆、雑誌『国士』主筆、雑誌『大亜細亜』主筆などを務めた。また台北市に弁護士事務所を開いた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、台湾物産株式会社取締役、台湾石鹸株式会社監査役などを務めた。
小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月… 小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月11日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、駿河国生まれの書家。名は鐧之助、字は間金、鵞堂は号。別号を斯華翁、斯華書屋主人という。斯華廼舎、二柳居の堂号もある。 明治、大正のかな書道界を代表する大家で、現代のかな書道の基礎を築いた一人である。平安期の草仮名を基底として独自の流麗なスタイルを案出し、その書風は鵞堂流と称され多くの門弟を得た。また「斯華会」を創設し、この組織をもって普及に努めたため、婦人たちで習字をするものはほとんど鵞堂流を習うという盛況を現出した。 文久2年(1862年)駿河国(静岡県)藤枝宿に、田中藩士の武道師範、小野清右衛門成命の長男として生まれる。
笹野 甚四郎(ささの じんしろう、1853年11月3日〈嘉永… 笹野 甚四郎(ささの じんしろう、1853年11月3日〈嘉永6年10月3日〉 - 1928年〈昭和3年〉12月6日)は、日本の資産家、実業家。藤相鉄道社長。共盛銀行頭取。族籍は静岡県平民。 静岡県志太郡藤枝町出身。藤枝宿下伝馬の郷宿「ならや」を営む八百次の長男。幼名は十三吉。恵まれた環境であったが5歳の時に実父を、12歳の時に祖父を、14歳の時に継父を亡くし笹野家は苦境に立たされる。 1868年、家督を相続。祖父の甚四郎の名を襲名し「ならや」の看板を捨て、料理屋を起こす。1869年、隣家からの火事で全焼し、それを機に駿河半紙を扱う紙屋に転身、同業者が増えると次に運送業を始める。 1891年、東京へ出る。
與山 このみ は、静岡県藤枝市出身の女子サッカー選手。ポジシ… 與山 このみ は、静岡県藤枝市出身の女子サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー (オフェンシブハーフ)。
加茂 実菜心(かも みなこ)は、日本の実業家。人工知能検索エ… 加茂 実菜心(かも みなこ)は、日本の実業家。人工知能検索エンジン研究家。エブリオン専務取締役。 静岡県藤枝市出身。有限会社100パーセントアップにて編集ライターを経験後、美容研究家のマネージメント、大手美容クリニックの広報PRを得て、フリーで活動。後に、株式会社エブリオンの専務取締役になる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 正和 は、日本の男性声優。静岡県藤枝市出身。アクセント… 鈴木 正和 は、日本の男性声優。静岡県藤枝市出身。アクセント所属。
浅羽 由紀(あさば ゆき、12月5日 - )は、静岡県藤枝市… 浅羽 由紀(あさば ゆき、12月5日 - )は、静岡県藤枝市出身の日本の女性シンガーソングライター。ピアノ弾き語り。北海道松前町観光大使「松前奉行」(2014年5月 - )。「藤枝音楽祭・藤on♪(フジオン)」(2009年5月3日 - )を 開催するための発起人の一人。 ライブハウスやイベントへの出演を中心に活動しており、ともしびライブと題する路上ライブを 積極的に行っている。本名同じ。身長151.7cm、血液型AB型。交流分析士1級・一般社団法人ライフミッションコーチⓇ協会ライフミッションファシリテーターⓇの資格を持つ。 自身による作詞・作曲のレパートリーを ピアノ、キーボードで弾き語るソロ演奏が中心。
北川 友紀(きたがわ ゆき、本名同じ)は、日本のシンガーソン… 北川 友紀(きたがわ ゆき、本名同じ)は、日本のシンガーソングライター。ラジオパーソナリティである。2014年よりソロプロジェクト「Heart Cresc.」(ハートクレッシェンド)として活動。静岡県藤枝市出身。
北原 佳奈 は、静岡県藤枝市出身の女子サッカー選手兼サッカー… 北原 佳奈 は、静岡県藤枝市出身の女子サッカー選手兼サッカー指導者。アルビレックス新潟シンガポール所属。ポジションはディフェンダー。
平井 友裕(ひらい ともひろ)は、日本のITマーケター、実業… 平井 友裕(ひらい ともひろ)は、日本のITマーケター、実業家。LINE公式アカウントの構築・活用における専門家として知られ、主に「ひらい先生」の通称で活動している。 静岡県藤枝市出身。ITマーケターとして活動する傍ら、2025年に藤枝市の地域課題解決を目指す市民団体「シン・藤枝発掘部」を発足。同団体の代表として、公共施設「BiViキャン」を活用した地域活性化のワークショップや意見交換会を主導している。これらの活動は、静岡新聞などのメディアで地域振興の取り組みとして報じられている。 ライブドアニュース(ITトレンドニュース)において、LINEに関する解説記事が通算15回以上にわたり日間ランキング1位を獲得している。