原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月… 原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月10日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。徳島県徳島市生まれ。生家は江戸時代、蜂須賀家の家臣。徳島市名誉市民。娘婿は、坂野常和(元大蔵省証券局長、元日本化薬会長)。 1950年(昭和25年)、電波監理委員会はラジオ民間放送への門戸開放に際し、東京の新設放送局は二局に限ることを決定した。しかし既に民間放送開始に向けて新聞会社を母体とする朝日放送(朝日新聞系)、ラジオ日本(毎日新聞系)、読売放送(読売新聞系)、東京放送(電通系)が準備を進めており、どの新聞社系の会社が免許を取得しても軋轢が生じることが不可避となった。
橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1… 橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1月7日 - 1947年(昭和22年)2月21日)は、日本の政治家。薬剤師、徳島市長。徳島県徳島市出身。 1876年、徳島市東新町の薬舗「郡茂」の分家、橋本半太郎の長男として生まれる。 小学校を卒業後、大阪市内にある田辺製薬へ勤務し、その傍ら大阪薬学校(現在の大阪大学薬学部)に入学。1890年(明治23年)、14歳の若さで薬剤師試験に合格。後に東京薬学校(現在の東京薬科大学)に進学し1894年(明治27年)7月に同校を修了する。 1904年(明治37年)、徳島市会議員に当選。その後、徳島薬業組合長・徳島市商店研究会長・徳島県薬剤師会長を歴任。
北野 うし(きたの うし、1873年(明治6年)9月 - 1… 北野 うし(きたの うし、1873年(明治6年)9月 - 1963年(昭和38年))は、女義太夫の太夫(語り手)。ビートたけしら有名人を輩出した北野家の祖である。 1873年9月、徳島城下の通町で粉問屋を営む北野鶴藏の娘として生まれた。実家は裕福な商家であったと伝えられる。その後、女義太夫の太夫となり、芸名竹本八重子を名乗る。日本では明治20年代から30年代にかけて娘義太夫が大流行し、うしも花形の一人であったという。 折からの不況で家計を助けるために1892年に上京。以後は東京各地の寄席に出演していた。明治後期に娘義太夫を引退し、息子の徳次郎をもうける。 大正後期、成人した徳次郎は明治大学を卒業後セメント会社に勤務し、北野家はある程度裕福であったとされる。
林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日… 林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学助教授、東北帝国大学理科大学教授を務めた。 徳島県生まれ。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。東京帝国大学では高木貞治・吉江琢児と同期であり、藤沢利喜太郎による「藤澤セミナリー」に参加して、「e及びπの超越に就て」という課題の報告を提出した。 東京帝国大学卒業後に京都帝国大学理工科大学助教授を務めたが、その職を辞し、松山中学校教師や東京高等師範学校講師に就いた。
安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治… 安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治6年〉3月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 徳島県名東郡徳島出来島町(現徳島市)の水野静宜の二男として生まれる。1878年(明治11年)、先代の安芸弘栄の養子となり、1910年(明治43年)に家督を相続する。1896年(明治29年)、陸軍士官学校第7期卒業。のち1902年(明治35年)11月に陸軍大学校第16期卒業。 参謀本部部員、関東都督府陸軍参謀、歩兵第14連隊附、同大隊長、第17師団参謀、歩兵第66連隊附、朝鮮駐箚軍参謀。1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・京都連隊区司令官。
上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年… 上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年2月10日) - 1931年(昭和6年)9月6日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。旧姓は杉崎。 歩兵第24旅団長、第17師団参謀長を歴任し、最終階級は陸軍少将従三位勲二等功四級男爵。義父は朝鮮駐剳軍司令官・台湾守備軍司令官を務めた上田有沢陸軍大将。 名東郡加茂村で、杉崎組蔵の三男として生まれる。徳島中学校を卒業し、陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月20日に第2期士官候補生として陸軍士官学校を卒業し、1892年(明治25年)3月21日、歩兵少尉に任官される。同期には菅野尚一大将・森岡守成大将・鈴木孝雄大将らがいる。
石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日… 石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家、新聞記者。徳島県徳島市出身。 椎野家の息子として名東郡上八万村(現在の徳島市上八万町)で生まれる。園坡漁夫、晴耕雨読楼主人、侃々子と号した。後に石田家を継いだ。 1881年(明治14年)、徳島県立徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)卒業。卒業後、普通新聞社(現在の徳島新聞社)の客員となった。後に名東郡会議員を経て徳島県会議員に当選した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選したが、間もなく同年内に解散となり、第6回総選挙に再出馬したが落選した。
17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、… 17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、文久2年12月11日〈1863年1月30日〉 - 1924年〈大正13年〉7月18日)は、大相撲の立行司。本名は浪花→酒井兵吉。出身地は徳島県徳島市。 徳島市に浪花徳丸の六男として生まれる。幼少時より行司好きで子供相撲で行司を務めていた。大阪相撲の藤見崎という力士が巡業中にこの様子を見て勧誘し、1869年大阪相撲の竹縄部屋に入門。最初は木村兵丸を名乗った。 1885年に東京相撲に移籍、15代庄之助に師事。1886年1月初代木村玉治郎から、1895年1月6代木村庄三郎を経て、1911年5月10代式守伊之助を襲名、翌1912年5月に17代木村庄之助を襲名した。
井上 十吉(いのうえ じゅうきち、文久2年10月28日(18… 井上 十吉(いのうえ じゅうきち、文久2年10月28日(1862年12月19日) - 昭和4年(1929年)4月7日)は、明治期の英語学者、和英辞典編纂者、官吏。ヘボンの影響を脱した最初の和英辞典である『新訳和英辞典』を完成させた。 阿波国徳島藩に井上高格の次男として生まれ、藩主の命により江戸に出て明治4年(1871年)慶應義塾に入学(『慶應義塾入社帳」第一巻487頁)。同塾卒業後の明治6年(1873年)、旧藩主蜂須賀茂韶に選抜された7人の留学生の1人として随行し、イギリスに渡る。一行のうち最年少だった。 1873年にロンドンの小学校に入り、1878年卒業、ラグビー校初の日本人生徒として進学し、成績優秀のため賞と年金を獲得。
一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安… 一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安政3年7月6日) - 1922年(大正11年)2月4日)は、日本の政治家(衆議院議員)。徳島市長。 阿波国名東郡徳島(現徳島県徳島市)で、徳島藩士・一坂周作の長男として生まれた。新居水竹の塾で漢学を学ぶ。 1874年(明治7年)初代徳島市長である井上高格らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成。しかし自助社が出版した「通諭書」は過激な言葉で日本政府を批判していた為、俊太郎らは政府に捕らわれてしまう。 この事件を裁いた玉乃世履は、公判廷での俊太郎の熱弁に魅了され、俊太郎を自分の養子にする話を持ち出したが、養子にはならなかった。 その後、京都府、内務省、逓信省で書記官などを務めた後、1907年に徳島市長に就任。
鬼鹿毛 清七(おにかげ せいしち、1855年(安政2年5月)… 鬼鹿毛 清七(おにかげ せいしち、1855年(安政2年5月)- 1931年1月15日)は、阿波国名東郡徳島寺町出身の大相撲力士。本名は末長 清七。年寄7代中川。 兄は大坂相撲で立浪と名乗る力士であり、本人も草相撲で小立浪と名乗り活躍していた。素人相撲の壽組合に入り鬼鹿毛と名乗っていた。この四股名は贔屓が化粧回しを贈ろうとしたとき、質屋に鬼鹿毛という力士の質流れの化粧回しがあり、名前を直そうとしたが無駄になるので四股名を変えたとのことである。その後大坂相撲の竹縄部屋に入り、1881年7月見習格番付外で出場。1882年9月三段目に出て鬼鹿毛清介。その後京都相撲に移り、華ノ峰善吉の弟子となる。1885年には東京相撲の梅ヶ谷の門下に入り、1885年5月幕下十枚目格番付外となる。
坂部 広織(さかべ ひろおり、1852年(嘉永5年8月) -… 坂部 広織(さかべ ひろおり、1852年(嘉永5年8月) - 1917年(大正6年)7月16日)は、日本の政治家。徳島市長。 徳島藩の中老である坂部功崇の息子として名東郡助任町(現在の徳島市助任本町)で生まれる。 後に名東勝浦郡役所書記を経て徳島市助役となり、初代徳島市長である井上高格の右腕として、徳島市創設当時の市政に妥配を振るった。 1890年(明治23年)に2代目となる徳島市長に就任、1896年(明治29年)まで6年間務めた。 1917年(大正6年)7月16日、66歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
桑村 猪平(くわむら いへい、1851年5月(嘉永4年4月)… 桑村 猪平(くわむら いへい、1851年5月(嘉永4年4月)- 1925年(大正14年)7月6日)は、日本の政治家。元徳島市長。徳島県徳島市佐古出身。 1851年(嘉永4年)、阿波国・佐古台所町(現在の徳島市佐古)に生まれた。 1876年(明治9年)、第一大区(後の名東郡)二等副戸長に就任。1878年(明治11年)に佐古村戸長兼学区取締に就任。1889年(明治22年)、徳島市収入役に就任。1890年(明治23年)、同市助役となる。1902年(明治35年)に徳島市長に就任し1906年(明治39年)まで務めた。 1925年(大正14年)7月6日、没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
井上 勤(いのうえ つとむ、1850年10月20日(嘉永3年… 井上 勤(いのうえ つとむ、1850年10月20日(嘉永3年9月15日) - 1928年(昭和3年)10月22日)は、日本の翻訳家。徳島県徳島市出身。父は医師の井上不鳴。甥に英文学者・堀正人。親戚に評論家の内田魯庵。明治10年代の翻訳全盛期に科学冒険小説の翻訳を多数手がけた。 徳島藩医・井上不鳴の長男・永吉として徳島城下前川の中洲で生まれた。兄弟は8人で(うち3人は早世)、3人の姉と弟が一人いた。7歳で江戸でオランダ人のヤン・ドンケル・クルティウスに英語を学んだ。その後、芳川顕正に同道して鹿児島に行ったが、1年ほどで徳島に戻り、小学校教師となる。1871年に教師を辞めて神戸の海岸四番館の通訳となり、ドイツ領事館に転じて、領事・ドクトル・フォケの通訳となった。
椎野 伝治郎(しいの でんじろう、1849年3月19日(嘉永… 椎野 伝治郎(しいの でんじろう、1849年3月19日(嘉永2年2月25日) - 1909年(明治42年)8月3日)は、日本の政治家。徳島県徳島市出身。 椎野庄左衛門の四男として名東郡八万村(現在の徳島市八万町)で生まれる。岡本塾に入り、晤室に漢学を学んだ。 その後、名東県・徳島県の役人となり、1882年(明治15年)に徳島県会議員となり、後に徳島県会議長を長く務めた。1889年(明治22年)、憲法発布に際し、徳島県民を代表して式典に参列した。 1892年(明治25年)には第2回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。 1909年(明治42年)8月3日、61歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
伊月 一郎(いづき いちろう、1848年(嘉永元年)11月7… 伊月 一郎(いづき いちろう、1848年(嘉永元年)11月7日 – 1891年(明治24年)6月3日)は、徳島藩出身の日本海軍軍人。最終階級は海軍大佐。日本海軍が組織的に外国へ派遣した最初の留学生として知られ、イギリス海軍式の教育を導入し、のちの海軍兵学校創立にも貢献した人物である。 伊月一郎は嘉永元年11月、藩医・伊月柳安の長男として、江戸三田四国町の徳島藩中屋敷に生まれ、その後八丁堀の藩邸に移った。文久2年、江戸在勤の藩士全員が引き上げることになり帰郷した。 慶応元年、徳島巽浜に洋学校が開設されると、伊月は同校で蘭学を学んだ。さらに慶応2年には藩命により芳川顕正らとともに長崎へ国内留学したが、維新の動乱により全員が帰藩した。
長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm N… 長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm Nagayoshi Nagai, Nagajosi Nagai、1845年7月24日〈弘化2年6月20日〉- 1929年〈昭和4年〉2月10日)は、日本の薬学者、化学者、教育者。東京帝国大学名誉教授。日本薬学会初代会頭、大日本製薬技師長。日独協会理事長。帝国学士院会員。学位は哲学博士(ベルリン大学)、理学博士(明治天皇勅令)、薬学博士(明治天皇勅令)。名は直安、長吉。号は朴堂。ドイツ名はヴィルヘルム(Wilhelm)。エフェドリンの発見者、メタンフェタミンの合成者。 弘化2年6月20日(1845年7月24日)、阿波国名東郡常三島村薙刀丁(現:徳島県徳島市中常三島町2丁目)に、長井琳章と田鶴子の長子として生まれた。
高井 幸雄(たかい ゆきお、1840年(天保11年10月) … 高井 幸雄(たかい ゆきお、1840年(天保11年10月) - 1909年(明治42年)11月26日)は、日本の政治家。徳島市長。現徳島県徳島市出身。 嫡男は広島県立職工学校や台北州立台北工業学校で校長を務めた高井利五郎。 徳島城下の富田浦町車富田(現在の徳島市東富田地区)の徳島藩士の家に生まれた。 井上高格や一坂俊太郎等がつくった自助社の運動に加わり、自助社が出版した過激な言葉で日本政府を批判した「通諭書」の事件後は、1882年(明治15年)に那賀部長を勤めた。 徳島県会議員となった後の1898年(明治31年)から1902年(明治35年)は徳島市長を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
岩本 晴之(いわもと はるゆき、1834年1月25日(天保4… 岩本 晴之(いわもと はるゆき、1834年1月25日(天保4年12月16日)- 1913年(大正2年)11月21日)は、幕末の徳島藩士、明治期の政治家(衆議院議員)。通称は才二郎。 阿波国名東郡徳島城下富田浦町(現徳島県徳島市)で徳島藩士・香川周満の子として生まれ、のち岩本品蔵の養子となる。学問を新居水竹に学ぶ。明治維新後は徴士、三河県(現・愛知県)判事、白川県(現・熊本県)大参事、民政局検事助役、徳島藩権大属、名東県権大属、同大属、中属を経て、司法省に入り、少解部、権中解部、大区長兼学区取締となる。1875年(明治8年)に徳島に戻り自由民権運動に参加。その後、阿波郡長・麻植郡長・名東郡長、日本赤十字社徳島県委員長などを歴任する。
井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19… 井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19日(天保2年6月11日) - 1893年(明治26年)4月24日)は、日本の政治家。初代徳島市長。徳島藩士。阿波国名東郡徳島(現・徳島県徳島市大岡本町・渭北地区)出身。次男は英語学者の井上十吉。玄孫は歌手の井上真紀。 1831年に徳島藩士である井上高超の嫡子として生まれる。その後、家督を相続、徳島藩の目付を務める。そのすぐ後に京都にて長州藩士らと交わり、尊王攘夷運動に参加。徳島に戻り、14代藩主である蜂須賀茂韶の下で力を発揮する。 1871年に徳島県の大参事に抜擢。1874年に後の徳島市長である一坂俊太郎らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成し代表となる。
中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12… 中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12年12月8日) - 1905年(明治38年)10月5日)は、幕末の徳島藩士、明治時代の内務・司法官僚、裁判官。官選県知事を歴任、元老院議官・貴族院議員。錦鶏間祗候、華族(男爵)。旧名は三木永吉。明治維新後に直人、錫胤と名乗る。号は可庵、無外。 徳島藩士・三木章助の長男として、徳島城下の佐古町楠小路(現在の徳島県徳島市佐古地区)で生まれる。はじめ漢学を楠本鼇山・岩本贅庵に学ぶ。少壮の頃、篠崎小竹・古賀謹堂(古賀謹一郎)の門、及び昌平黌に学ぶ。京都の儒者・中島棕隠の門下となり、のち老齢の棕隠の養子となり、中島永吉と称した。 幕末期には新居水竹らと交わり、尊王攘夷派として国事に奔走。
九代 久次米 兵次郎(くじめ ひょうじろう、1829年6月1… 九代 久次米 兵次郎(くじめ ひょうじろう、1829年6月12日(文政12年5月11日) - 1913年(大正2年)3月3日)は、日本の銀行家。藍商人(染織家)。阿波国名東郡新居村(現・徳島県徳島市不動北町)出身。幼名は国太郎。 1829年(文政12年)に阿波藍商人である八代久次米兵次郎・義簡の子として生まれる。1869年(明治2年)、40歳で家督を相続し九代久次米兵次郎を名乗る。 1879年(明治12年)に一族が築き上げてきた経済力を基に名東郡船場町(現徳島市西船場町)に日本で6番目の私立銀行である久次米銀行(後の阿波銀行)を設立。資本金は50万円で、当時は三井銀行に次いで第2位の規模であった。
湯浅 瞭子(ゆあさ りょうこ、4月5日 - ) は、日本のラ… 湯浅 瞭子(ゆあさ りょうこ、4月5日 - ) は、日本のラジオパーソナリティ。エフエム徳島所属。徳島県徳島市出身。
金山 哲平(かなやま てっぺい)は、フリーアナウンサー。 こ… 金山 哲平(かなやま てっぺい)は、フリーアナウンサー。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:アナウンサー)。
郡 正夫(こおり まさお)は日本のナレーター、ラジオパーソナ… 郡 正夫(こおり まさお)は日本のナレーター、ラジオパーソナリティ、リング・アナウンサー、esportsキャスター、徳島県徳島市出身。通称はコーリー。
黒田 忠良(くろだ ただよし、1月3日 - )は、元エフエム… 黒田 忠良(くろだ ただよし、1月3日 - )は、元エフエム徳島のアナウンサー。 徳島県徳島市出身。血液型はB型。高校在学中から四国放送劇団に所属しラジオ番組に出演。大学卒業後、フリーアナウンサーとしてNHK徳島放送局や四国放送で活動後エフエム徳島に入社した。1995年の阪神淡路大震災では、淡路島からのレポートや番組取材などを続けた経験から、いち早く「防災士」の資格を取得し、番組内でのアドバイスや講演など啓蒙活動を行う。 NHK徳島放送局との災害時協力協定など防災について業務をすすめ、同局との防災番組共同制作に至った。 社会貢献活動に関心が高く、2005年からアナウンサー朗読会「おななし宝ばこ」を主宰し四国放送、NHK徳島局、エフエム徳島のアナウンサー有志が童話やエッセイなどを朗読する会を毎年開き、10回の開催に至った。
岡本 直之(おかもと なおゆき)は、日本の財務官僚。内閣官房… 岡本 直之(おかもと なおゆき)は、日本の財務官僚。内閣官房日本経済再生総合事務局次長や、内閣府経済社会総合研究所総括政策研究官、初代財務省大臣官房政策立案総括審議官等を経て、国土交通省政策統括官。 徳島県徳島市出身。徳島県立城南高等学校を経て、1985年 東京大学法学部卒業、大蔵省入省。理財局国有財産総括課配属。銀行局調査課調査係長から1990年7月10日 関東信越国税局潮来税務署長。1991年 横浜市企画財政局財政部財政課財政担当課長。大蔵省関税局課長補佐、大蔵省理財局課長補佐、独立行政法人日本貿易振興機構チューリヒ事務所長、財務省理財局国債企画官などを歴任し、2005年 農林水産省生産局畜産部畜産企画課畜産総合推進室長。
源 純夏 は、日本の競泳選手、スイミングインストラクター。2… 源 純夏 は、日本の競泳選手、スイミングインストラクター。2000年シドニーオリンピック4×100mメドレーリレー銅メダリスト。元テレビ朝日社員。2012年に徳島ライフセービングクラブを設立。現在、同クラブ代表として小松海水浴場の監視等で活動している。
柴門 ふみ は、日本の漫画家・エッセイスト。徳島県徳島市出身… 柴門 ふみ は、日本の漫画家・エッセイスト。徳島県徳島市出身。
伊丹 あき(いたみ あき)は、日本の脚本家。日本映画学校(現… 伊丹 あき(いたみ あき)は、日本の脚本家。日本映画学校(現・日本映画大学)7期卒業。同期には、映画監督の小沼雄一、脚本家の港岳彦、足立紳などがいる。徳島県徳島市出身。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
有井 進斎(ありい しんさい)は幕末、明治の儒学者。徳島藩寺… 有井 進斎(ありい しんさい)は幕末、明治の儒学者。徳島藩寺島学問所素読方、長久館助教授、長崎師範学校(1874-1878年)教諭、陸軍参謀本部編纂課雇員、東京府師範学校兼中学校教官。 天保元年(1830年)阿波国徳島に生まれた。 那波鶴峰に業を受け、小出兼政に算術、岩本贅庵に経書、史書を学び、寺島学問所素読方、西の丸長久館助教授を務めた。履歴書によれば、明治元年(1868年)11月12日徳島藩町学校長、明治2年(1869年)10月15日学校洋書局一等助教、明治3年(1870年)6月1日漢学校教授となっている。 長崎師範学校(1874-1878年)教員を命じられた門弟岡本韋庵に代わりを依頼され、明治4年(1871年)6月教員、明治5年(1872年)6月文部省十等出仕、8月教諭となった。
江川 悦子(えがわ えつこ)は、日本の特殊メイクアーティスト… 江川 悦子(えがわ えつこ)は、日本の特殊メイクアーティスト。メイクアップディメンションズ代表。 徳島県徳島市生まれ。京都女子大学短期大学部卒業。1976年、文化出版局に入社。 特殊メイクの道に進むきっかけは、映画『狼男アメリカン』で「人間が狼に変身していく」メイクに魅せられたためであった。1979年アメリカ合衆国・ハリウッドにあるJoe Blasco make-up Center 入学。同校を卒業後に映画スタジオ助手となり、映画『メタルストーム』、『デューン/砂の惑星』、『ゴーストバスターズ』、『キャプテンEO』などのプロジェクトに参加。 1986年に帰国し、日活撮影所(調布市)内に、特殊メイク制作会社メイクアップディメンションズ設立。
垣塚 彰(かきづか あきら)は日本の生物学者(細胞生物学、分… 垣塚 彰(かきづか あきら)は日本の生物学者(細胞生物学、分子生物学)。学位は医学博士(京都大学)。2024年3月末にて京都大学大学院生命科学研究科を定年退職。同年4月から京都大学大学院医学研究科 研究員。元京都大学大学院生命科学研究科所長。京都大学名誉教授。 専門は生物学であり、特に分子生物学、細胞生物学といった分野の研究に従事。神経変性疾患などの難治性疾患に関する研究で知られる。マチャド・ジョセフ病は原因遺伝子から作られる異常タンパク質が凝集して発症することを明らかにするなど、ポリグルタミン病研究に貢献した。マチャド・ジョセフ病の発症メカニズムの解明が評価され、2002年にベルツ佳作賞を受賞。
鈴木 秀総(すずき ひでのぶ)は、静岡県浜松市出身の美容師・… 鈴木 秀総(すずき ひでのぶ)は、静岡県浜松市出身の美容師・写真家。日本の各地域を紹介する写真を撮影。 ヨーロッパ・アメリカ・東南アジアなど、日本国外のメディアに取り上げられることが多い。ナショナルジオグラフィックなど国外のメディアに注目され、フランスの国民美術協会がルーブル美術館で開催するサロン展に2年連続招待展示され、金賞を受賞した。 徳島県徳島市生まれ。静岡県浜松市育ち、愛知県豊橋市在住。美容室B-ROBOTSを開業。2015年、静岡県湖西市B-ROBOTSから愛知県豊橋市中原町に美容室Lietratte'を移転・開業。
露口(つゆぐち)はかつて愛媛県松山市二番町に所在していたサン… 露口(つゆぐち)はかつて愛媛県松山市二番町に所在していたサントリーバー。1958年(昭和33年)に四国初のハイボールを提供するバーとして開店して以来、多くの常連客に親しまれていたが、2022年(令和4年)に閉店した。「ハイボールの聖地」とも呼ばれる店であった。 サントリーは日本社会にウイスキーを普及させようと、日本全国にトリスバーやサントリーバーを開業し、最盛期となる昭和30年代にはおよそ1500軒があった。露口もそういったサントリーバーの1軒であるが、ウイスキー人気は1983年(昭和58年)にピークを迎え、その後の焼酎やチューハイに人気が移ったことで、バーからスナックなどに業態を変える店も増え、サントリーバーとして継続営業する店は日本全国に数えるほどしか残っていない。
鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、新字体:鳥居竜蔵、旧字体: … 鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、新字体:鳥居竜蔵、旧字体: 鳥居龍藏)、1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1953年(昭和28年)1月14日)は、日本の人類学者、民族学者、考古学者。 1870年(明治3年)、徳島の新町橋近く(現在の徳島県徳島市東船場町)にある煙草問屋に生まれる。 実家は裕福で、周囲から「旦那衆」と呼ばれていた。 1876年(明治9年)、観善小学校(現・徳島市新町小学校)に入学したが、学校になじめず家に逃げ帰ることも多かった。鳥居は自身の教育観として、学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方が勝っていたと語っている。