橋本昌彦(はしもと まさひこ、1979年10月12日 - )… 橋本昌彦(はしもと まさひこ、1979年10月12日 - )は、日本のシンガーソングライター。熊本県出身。関西大学卒業。血液型はO型。 プラネタリウム番組「LIFEいのち」の監督・脚本・音楽・ナレーション、および講演活動も行う。 熊本県水俣市出身。熊本市、鹿児島市での生活を経て、関西大学に進学。オーストラリア・メルボルンでの人生修行中にヴォーカルオーディションに合格し、シンガーとしてのキャリアをスタートさせる。アマチュアバンドのヴォーカリストとしてクラブやカフェなどでのLIVEを通じ知名度が広がり、メルボルンフェスティバルやモナッシュ大学、メルボルン大学のコンサートホールに出演するなど、徐々に活動の場を広げる。
古田 徹也(ふるた てつや、1979年 - )は、日本の倫理… 古田 徹也(ふるた てつや、1979年 - )は、日本の倫理学者・哲学者、東京大学准教授。専門は現代哲学、現代倫理学。 熊本県水俣市生まれ。2002年東京大学文学部倫理学科卒業、2008年同大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。2011年2月「何が真理という概念を構成するのか :ウィトゲンシュタインの人間論研究に向けて」で、東京大学より博士(文学)の学位を取得。2013年新潟大学人文社会・教育科学系准教授、2017年専修大学文学部准教授を経て、2019年東京大学大学院人文社会系研究科准教授。放送大学客員准教授も務める。 2019年『言葉の魂の哲学』でサントリー学芸賞受賞。
江口 真紀(えぐち まき、1978年10月14日 - )は、… 江口 真紀(えぐち まき、1978年10月14日 - )は、愛知県名古屋市生まれ熊本県水俣市出身のバスケットボール選手である。ポジションはセンター。 「花の78年組」の一人で、アテネ五輪日本代表。実業団5チームを渡り歩き、引退と復帰も経験した苦労人である。 水俣二中でバスケを始め、九州女学院高校から三洋電機に入社。 休部後は日立戸塚を経て、2002年にシャンソン化粧品に移籍。 2004年にはアテネオリンピック日本代表に選ばれる。 2004-05Wリーグ優勝の原動力となる。 シーズン後三菱電機に移籍。チームはW1に降格し、故障も抱え引退。 2007-08シーズン現役復帰。 2008年、アイシン・エィ・ダブリュ ウィングスに移籍。
渡辺 敦子(わたなべ あつこ、1964年10月26日 - )… 渡辺 敦子(わたなべ あつこ、1964年10月26日 - )は、日本のミュージシャン。プリンセス プリンセスのリーダー・ベーシストとして活躍した。 熊本県水俣市生まれ、千葉県育ち。千葉県立京葉高等学校卒業。 バンド結成(当初は赤坂小町と名乗っていた)時よりリーダーを務め、落ち着いた雰囲気で人気を博した。1983年、女性バンドのオーディションに合格し、1986年、プリンセス・プリンセスとしてデビュー。ベーシスト、リーダーとしてグループをまとめる。1989年「DIAMONDS」がベストセラーシングルを記録し大ブレイク女性バンドとしては初の武道館ライブを成功させるなど、安定した人気と実力を誇る。1996年、プリンセス・プリンセス解散。
西田 弘志(にしだ ひろし、1958年(昭和33年)11月2… 西田 弘志(にしだ ひろし、1958年(昭和33年)11月2日 - )は、日本の政治家。前・熊本県水俣市長(1期)、元・水俣市議会議員(3期)。 熊本県水俣市出身。1976年(昭和51年)3月、熊本県立水俣高等学校卒業。 2003年(平成15年)4月27日に行われた水俣市議会議員選挙に出馬し初当選した。5月1日、市議に就任。2007年(平成19年)4月、2期目の当選。同年6月、ふれあい一番街商店会会長になる。2011年(平成23年)4月、3期目の当選。 2013年(平成25年)11月18日、水俣市長の宮本勝彬が翌年の市長選不出馬を表明したことが報じられた。同月、副市長の田上和俊が同職を辞任。12月19日、田上は市長選挙に立候補する意向を表明した。
あたり としお(本名:阿田 利夫、1958年6月2日 - )… あたり としお(本名:阿田 利夫、1958年6月2日 - )は、日本のコメディアン、ナレーター、パーソナリティ。 熊本県水俣市出身。173cm、68kg。花王名人劇場ヤングフェスティバル一人芸部門最優秀賞受賞 、ザ・テレビ演芸チャンピオン獲得。ものまね、ラジオパーソナリティ、TV・CMのナレーション等も行っている。 この項目は、お笑いタレント・コメディアン(これらの関連記事を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:お笑い/PJ:お笑い)。
江口 寿史(えぐち ひさし、男性、1956年〈昭和31年〉3… 江口 寿史(えぐち ひさし、男性、1956年〈昭和31年〉3月29日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。妻は元アイドルの水谷麻里。血液型はO型。代表作に『ストップ!! ひばりくん!』、『すすめ!!パイレーツ』、『江口寿史の爆発ディナーショー』など。女性画に定評がある。 熊本県水俣市生まれ。1963年に放映が始まったTVアニメーション『鉄腕アトム』で漫画の存在を知り、さらに雑誌『少年』の『鉄腕アトム』の連載により漫画に夢中になる。読み始めの頃、一番好きだったのは同誌連載の関谷ひさしの『ストップ!にいちゃん』だったという。少しのちにちばてつやの大ファンとなる。 中学2年生の終わりに父親の転勤で千葉県野田市に転居。
むた ゆうじ(1956年2月18日 - )は日本のシンガーソ… むた ゆうじ(1956年2月18日 - )は日本のシンガーソングライター。「出前コンサート」を開催するほか、CMソング制作、校歌制作を行う。高齢者向けグループホーム「喫茶去(きっさこ)」も運営している。 1956年2月18日生まれ。 熊本県水俣市出身。熊本県宇城市在住。 18歳よりライブ活動を行っていたが、20歳のときにハンディキャップを持つ青年と出会ったことから、自ら音響機材を持って行く「出前コンサート」を福祉施設や学校などで演奏を行うようになった。 2006年より2015年まで「ゆずり葉音楽祭」を主宰する。 2013年より4月に宇城市にて「春の小川コンサート」を主宰する。 『テレビタミン』(熊本県民テレビ)ではゲストコメンテーターを務めた。
森枝卓士(もりえだ たかし、1955年4月7日 - )は、日… 森枝卓士(もりえだ たかし、1955年4月7日 - )は、日本の写真家、ジャーナリスト。熊本県水俣市出身。日本写真家協会会員。大正大学客員教授。 水俣病の取材に訪れたユージン・スミスの影響でジャーナリストを志す。 鹿児島県立出水高等学校卒業。国際基督教大学教養学部社会科学科卒業。東南アジアを中心に世界中で取材活動を行う。食文化にまつわる著作が多い。週刊ヤングジャンプにて連載されていた漫画『華麗なる食卓』の監修を務める。
村下 孝蔵(むらした こうぞう、1953年〈昭和28年〉2月… 村下 孝蔵(むらした こうぞう、1953年〈昭和28年〉2月28日 - 1999年〈平成11年〉6月24日)は、日本のフォークシンガー、シンガーソングライター。『初恋』『踊り子』『ゆうこ』『陽だまり』など、恋愛をテーマとした数々のヒット曲がある。熊本県水俣市出身。 水俣市立水俣第一小学校、水俣市立水俣第一中学校、鎮西高等学校、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科卒業。 1953年2月28日、熊本県水俣市浜町仲之町通りで、映画館(村下興業社)を営む夫婦の第3子として生まれる。家には幾つもの土蔵があり、親族7家族が住む大きな家だったという。代々、男子は独立して蔵を持てという理由で、祖父の名は改蔵、父は昭蔵、兄は修蔵だった。
内山 安二(うちやま やすじ、1935年6月21日 - 20… 内山 安二(うちやま やすじ、1935年6月21日 - 2002年9月2日)は、日本の漫画家。熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)出身。代表作に『コロ助の科学質問箱』など。 1953年から1954年にかけて『漫画少年』投稿欄の常連で、つげ義春と文通していた。同誌1954年8月号以降は3号続けて『長屋大平記』(出典ママ)などの作品を依頼されている。 1954年、毎日新聞社に入社。西部本社の毎日小学生新聞西部編集部に配属され、大阪本社から電送された手塚治虫の作品の修正を手掛けたのを切っ掛けに、毎日小学生新聞に自ら漫画を描き始める。 毎日新聞社を退社後は、プロの漫画家に転向し、主に学習漫画をメインとした作品を数多く発表した。
川本 輝夫(かわもと てるお、1931年8月1日 - 199… 川本 輝夫(かわもと てるお、1931年8月1日 - 1999年2月18日)は、日本の市民活動家、政治家。水俣病の患者の運動体『チッソ水俣病患者連盟』の委員長、水俣市議会議員(3期)を務めた。 熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)出身。父・川本嘉藤太は、水俣市に工場がある新日本窒素肥料株式会社(1965年に「チッソ」と改名)に勤めていた。 川本は、家庭の事情により熊本県立水俣高等学校を2年で中退した。漁業作業員、建設作業員、チッソ臨時工員などの職業を経験した後に病院勤務する。寝たきりの父を介護しつつ、准看護士資格を取得した。 1955年、水俣病を発症。1961年より父が発病して寝たきりとなり、1965年4月に急性劇症でもだえ死ぬのを看取った。
谷川 道雄(たにがわ みちお、1925年12月2日 - 20… 谷川 道雄(たにがわ みちお、1925年12月2日 - 2013年6月7日)は、日本の東洋史学者、京都大学名誉教授。民俗学者谷川健一、詩人谷川雁は兄。弟に日本エディタースクール創設者の吉田公彦。 熊本県水俣市生まれ。水俣小学校、熊本県立熊本中学校(現:熊本県立熊本高等学校)、大阪府立浪速高等学校を経て、1945年、京都帝国大学文学部史学科に進学。兵役を挟んで、1948年9月卒業。同年京都大学大学院に入学し、その旁ら京都府立亀岡高等学校、京都府立洛北高等学校で教鞭も執る。 1952年11月に名古屋大学文学部助手(主任:宇都宮清吉)。1954年6月、京都大学大学院を退学する。名古屋大学文学部助教授を経て、1972年、名古屋大学文学部教授。
谷川 雁(たにがわ がん、本名:谷川 巌(たにがわ いわお)… 谷川 雁(たにがわ がん、本名:谷川 巌(たにがわ いわお)、1923年12月25日 - 1995年2月2日)は、日本の詩人、評論家、サークル活動家、教育運動家。社会主義的なリアリズムを基調とにした詩人として知られ、評論集「原点が存在する」「工作者宣言」は1960年代の新左翼陣営に思想的な影響を与えた。 熊本県水俣市に開業医の、六人兄妹の次男として生まれる。兄は民俗学者の谷川健一、弟に東洋史学者の谷川道雄、日本エディタースクール創設者の吉田公彦。旧制熊本中学、第五高等学校を経て、1945年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業。従軍する。 戦後、西日本新聞社に勤務。同人誌「九州詩人」「母音」に詩を発表し、安西均、那珂太郎などと交遊。
谷川 健一(たにがわ けんいち、1921年7月28日 - 2… 谷川 健一(たにがわ けんいち、1921年7月28日 - 2013年8月24日)は、日本の民俗学者・地名学者・作家・歌人。近畿大学教授・日本地名研究所所長等を歴任。2007年文化功労者選出。 在野の学者として日本文学や民俗学の研究をおこない多くの研究書を著した。日本文学の源流を沖縄・鹿児島などの謡にもとめた「南島文学発生論」などの業績をあげた。 1921年、熊本県水俣で六人兄弟の長男として生まれた。熊本中学、浪速高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学文学部に進学。しかし東京大学入学後、結核を患い、各地の療養所を転々とした。大学ではフランス文学専攻で学び、卒業。 30歳を過ぎた頃より編集者として平凡社に勤務、『風土記日本』(1957-60年)、『日本残酷物語』(1959-61年)などを企画・編集し、1963年創刊の『太陽』初代編集長を務めた。
淵上 毛錢 (ふちがみ もうせん、1915年〈大正4年〉1月… 淵上 毛錢 (ふちがみ もうせん、1915年〈大正4年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉3月9日)は日本の詩人。 熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)に生まれる。本名・喬(たかし)。東京の青山学院中学部へ進学する。東京では、詩人山之口貘の知遇を得、のちのちまで交流は続いた。脊椎カリエスを病んで青山学院を中退・帰郷。以後、寝たきりの生活を余儀なくされる。病床で詩作を始め、「九州文学」などに作品を発表。また戦後の1946年、水俣青年文化会議を組織するなど、郷里の文化活動の発展に貢献した。1950年、35歳で死去。 代表作に「柱時計」「寝姿」など。ユーモラス、また一面スケールの大きい詩風と評される。
湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2… 湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2月14日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月13日)は、明治時代の社会事業家。徳富蘇峰・蘆花の姉で、衆議院議員・湯浅治郎の後妻となった。同志社総長や国際基督教大学初代学長を務めた湯浅八郎は息子。 徳富一敬・久子の四女として、安政7年1月23日(1860年2月14日)肥後国水俣(現・熊本県水俣市)に生まれる。姉が3人いる上、夫妻は姪も養女としており、5人目には男子の誕生を望んでいたが女子であったため、失意の一敬はどういうわけか初と名づけた。その後に生まれた男子が猪一郎(蘇峰)と健次郎(蘆花)である。 12歳の時、熊本に住む叔母・横井つせ子(横井小楠の未亡人)のもとへ預けられることとなり、いとこの時雄・みやと一緒に暮らし始めた。
徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24… 徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24日(1822年11月7日) - 大正3年(1914年)5月26日)は、幕末から明治にかけての日本の儒学者(朱子学者)、官僚、教育者。徳富蘇峰、徳富蘆花の父。淇水(きすい)と号した。 肥後国葦北郡水俣郷(後の熊本県水俣市)に、惣庄屋の長男として生まれ、幼児には万熊、後には太多助、太多七などと称した。一敬の父は辛島塩井の高弟で、津奈木手永惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。 一敬は1837年から、近藤英助の私塾で教えを受けつつ藩校時習館に学ぶが、1842年に父の死去により惣庄屋の務めのため帰郷した。1845年に横井小楠の門下となった。