岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - … 岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - 1993年8月4日)は、日本の国文学者、推理作家、小説家。本名は、岡田藤吉。 東京生まれ。東京物理学校(現 東京理科大学)を卒業した後、1935年第一高等学校卒、東京帝国大学文学部国文科に入学し、1938年卒業。1940-45年名古屋陸軍幼年学校の教官を務めた。第二次大戦後、東京青年師範学校教授[要出典]、1949年から東京学芸大学教授、1971年定年、聖徳学園短期大学教授、淑徳短期大学教授。 作家としての活動もあり、『源氏物語』や『雨月物語』といった古典に取材した作品がある。1949年、ユーモア小説「天の邪鬼」が懸賞に当選。同年に『宝石』誌の第3回懸賞募集に応募した「妖鬼の呪言」が短篇懸賞の選外佳作となり、また「噴火口上の殺人」が『ロック』誌の第2回懸賞募集に1席入選し、同誌に掲載された。
藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1… 藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1993年4月16日)は、日本の作家、眼科医。本名勝見次郎。静岡県志太郡藤枝町(現・藤枝市)出身。 藤枝町市部(現在の藤枝市本町)の勝見薬局の次男として生まれ、成蹊学園から名古屋の旧制第八高等学校を経て1936年に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を卒業。眼科教授の伊東弥恵治(1891-1958)に師事した。勤務医生活ののち独立、1950年から浜松市で眼科医院を営む傍ら、小説を書き続けた。1968年『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、1974年『愛国者たち』で平林たい子文学賞、1976年『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、1979年には『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。
山田 多賀市(やまだ たかいち、1907年12月16日 - … 山田 多賀市(やまだ たかいち、1907年12月16日 - 1990年9月30日)は日本の小説家、農民運動家。本名は多嘉市(たかいち)。 長野県南安曇郡三田村田尻(現・安曇野市)の農家の長男に生まれる。旧制小学校を4年で中退すると、13歳の時に年期奉公に出て建設作業員や瓦焼きの職人として東海地方を転々とした後、19歳の時、伊那谷の発電工事場で働き、帳付けをしていた葉山嘉樹の知遇を得た。のちに山梨県北巨摩郡登美村(現・甲斐市)に移り、21歳の時、日本農民組合青年部に加入して、小作料引き下げ闘争などの農民解放運動を展開したが、闘病生活に入った。 25歳で運動から転向し、作家を志す。新田潤の勧めによって書いた短篇「夕立雲」が、1937年に「人民文庫」に新人創作として載り、1939年から同人雑誌「槐」に代表作となる小説『耕土』が掲載されると、「中央公論」や東大の「赤門文学」で高評価を得た。
西尾 正(にしお ただし、本名同じ、1907年12月12日 … 西尾 正(にしお ただし、本名同じ、1907年12月12日 - 1949年3月10日)は、日本の探偵小説家。作品は全て短編かつ怪奇小説的な作品である。代表作に「骸骨」「海蛇」「青い鴉」など。 1907年(明治40年)12月12日、東京府東京市本郷区に、亀の子束子の製造で知られる西尾商店の一族として生まれた。 慶應義塾大学経済学部に進学し、卒業後の1934年(昭和9年)、雑誌『ぷろふいる』六月号に「陳情書」を発表してデビュー。ただし、同作は発表直後に発禁になっている。 その後も『ぷろふいる』『新青年』などの雑誌に、コンスタントに短編を発表し続けた。太平洋戦争中は沈黙、戦後には執筆を再開している。 米国のパルプ・マガジンに取材した異色作なども発表している。
古沢 元(ふるさわ げん、1907年12月11日 - 194… 古沢 元(ふるさわ げん、1907年12月11日 - 1946年5月3日) は、日本の小説家。本名は古沢 玉次郎(ふるさわ たまじろう)、別筆名・秦 巳三雄(はた みさお) 岩手県沢内村(現・西和賀町)出身。岩手県盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒業、旧制第二高等学校(現・東北大学)中退。「戦旗」編集部で秦巳三雄のペンネームで評論、翻訳を発表。その後古沢元のペンネームで「日暦」同人、武田麟太郎主宰の「人民文庫」同人となり小説、評論を発表した。1940年同人雑誌「麦」に発表した「紀文抄」(きぶんしょう)が、第12回直木賞候補作品となる。 第二高等学校では非合法政治活動に身を投じ、学業半ばで放校となったが、上京して新風を巻き起こしていたプロレタリア文学運動に加わり、「日暦」では高見順の「故旧忘れ得べき」に続いて「びしゃもんだて夜話」を三回にわたって連載、郷里の沢内村を題材にした小説を書いた。
高橋 鐵(高橋 鉄、たかはし てつ、1907年11月23日 … 高橋 鐵(高橋 鉄、たかはし てつ、1907年11月23日 - 1971年5月30日)は、日本の小説家、性風俗研究家。 東京出身。日本大学卒業。小説を書き、社会主義に関心を抱くが、のちフロイトに関心を抱く。第二次世界大戦後は性科学の研究を始め、1950年に日本生活心理学会を設立、『あるす・あまとりあ』がロングセラーとなる。また同年に『人間探求』(第一出版社、1950年5月~53年8月)を創刊する。日本生活心理学会の機関誌『Seishin report』を刊行した。 性風俗、性科学に関する多数の著作は一世を風靡してよく売れ、1950年代~1980年代は高橋の著作が古書店にも多数並べられていた。戦前は阿部定事件に関する著作もある。
二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - … 二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - 1977年7月5日)は、日本の小説家・児童文学作家。 大阪府茨木市出身。本名は二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)で、父の音蔵は「日本のアヘン王」と呼ばれた製薬業者だった。 府立茨木中卒業。1932年、法政大学高等師範部国漢科卒業。高等女学校の教師となるが、中学時代の同窓だった川端康成と大宅壮一への憧れから文筆業に転じる。 その後、寄稿していた少年雑誌の編集者の薦めで児童文学を手がけるようになり、1939年に川端・大宅・井伏鱒二・宇野浩二・小川未明・坪田譲治・豊島与志雄・村野四郎と少年文芸懇話会を結成。『少年文学』を発行し、戦時中の厳しい世相の下で児童文学の創作を続けた。
埴原 一亟(はにはら いちじょう、1907年10月5日 - … 埴原 一亟(はにはら いちじょう、1907年10月5日 - 1979年12月31日)は、日本の小説家。山梨県出身。 早稲田大学露文科中退。戦前三度の芥川賞候補に選ばれるが、いずれも受賞を逃す。 1907年(明治40年)10月5日、山梨県北巨摩群白州町に生まれる。同町の出身者には山口素堂がいる。生家は宿場本陣の家柄であるが、1912年(大正元年)春、一家そろって上野車坂町に移る。また、大正期に下級官吏であった埴原の父は49歳でこの世を去っている(『文芸復興』誌上に「沈香も焚かず」の題で小説化している)。 早稲田大学露文科を中退後、銀座松屋に勤めながら執筆するが、左翼的との理由で解雇。1932年(昭和7年)、長編『蒼白きインテリ』を刊行(後、発禁)。
逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 194… 逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 1946年5月17日)は日本の詩人、童話作家。本名は大野四郎。画家としては、士路と号する。新聞記者の和田日出吉は兄、その妻の木暮実千代は兄嫁にあたる。また、弟の大野五郎は画家。 詩は寡作。没後1966年に編まれた定本詩集には初期詩篇を含めて78作。『詩と詩論』、『文藝汎論』、『歴程』などの雑誌に寄稿する。『歴程』創刊時の同人の1人である。 1907年、茨城県猿島郡古河町(現・古河市)に生まれる。祖父と父は、ともに足尾銅山鉱毒事件対策の渡良瀬遊水地用地として強制廃村になった栃木県下都賀郡谷中村で村長を務めていた。1908年、東京府北豊島郡岩渕町(現・東京都北区)に移住[要出典]。
飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989… 飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989年2月23日)は、日本の中国文学者、作家。北海道大学名誉教授。 1907年、神奈川県横浜生まれ。第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那哲学文学科に進んだ。在学中、同人誌『東大派』を刊行し、中国文学研究会で竹内好、武田泰淳、松枝茂夫らを知る。1937年、高見順、武田麟太郎らの『日暦』同人となる。1936年、東京帝国大学を卒業。 1938年北京に渡り、中華民国新民会調査部に勤務。1943年からは華北映画公司に勤務。しかし、憲兵隊に逮捕され勾留されることとなり、帰国した。1944年に応召、中国戦線に出た。1945年の太平洋戦争敗戦後、蘇州で捕虜生活を送った。
青山ゆき路(あおやま ゆきじ 1907年8月11日 - 19… 青山ゆき路(あおやま ゆきじ 1907年8月11日 - 1993年2月27日)は、日本の小説家、歌人。石川県鵜川村(石川県鳳至郡に所在。町制施行し鵜川町となる。現:能登町。)に生まれ、1914(大正3)年に北海道小樽市に来る。父母の生業である理美容業を継ぐ。大正末期に並木凡平を知り、以来口語短歌一筋に70年の歌歴を積む。1927(昭和2)年並木凡平が「新短歌時代」を創刊するや編集同人として参画。主著に歌集「せせらぎ」「青空に描く」「海峡」など。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
岡村 弘(おかむら ひろし、1907年7月27日 - 199… 岡村 弘(おかむら ひろし、1907年7月27日 - 1993年7月17日)は、日本のドイツ文学者、小説家。 倉本兵衛の筆名で戦時中に私小説を書いた。 高知市出身。1931年東京帝国大学文学部独文科卒。同大学院をへて、松江高等学校教授。1949年島根大学助教授、1952年神戸大学教養部助教授、教授、教養部長。1971年名誉教授。関西学院大学教授。1976年梅花女子大学教授。勲三等旭日中綬章受勲。 英語学者の岡村弘(ひろむ、1912-?)は別人。
白川 渥(しらかわ あつし、1907年(明治40年)7月27… 白川 渥(しらかわ あつし、1907年(明治40年)7月27日 - 1986年(昭和61年)2月9日)は、小説家。明石短期大学名誉教授。 愛媛県新居浜市出身。本名は正美。東京高等師範学校卒。横光利一に師事、『日暦』『文芸首都』などに参加。1940年「崖」が芥川賞候補。戦後は中間小説を書き、54年「野猿の言葉」が直木賞候補。兵庫師範学校教師、神戸市教育委員長、明石短期大学教授。神戸在住。しばしば映画化された。
丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 196… 丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 1968年8月24日)は、日本の小説家。 東京市麹町にて、落合直文門下の歌人で能楽書林を設立した丸岡桂の長男として生まれる。祖父は沖縄・高知の県知事を務めた丸岡莞爾。暁星中学校から慶應義塾予科を経て、慶應義塾大学仏文科卒。在学中、水上滝太郎の知遇を得て1930年に『三田文学』に「マダム・マルタンの涙」を発表してデビューした。のち堀辰雄に師事し、1935年「生きものの記録」を『三田文学』に発表する。 1966年「静かな影絵」「街の灯」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。『堀辰雄全集』編纂委員を務めた。能の解説、編集も多く、原民喜をモデルとした『贋きりすと』などを書いた。
矢田 津世子(やだ つせこ、本名矢田ツセ、1907年(明治4… 矢田 津世子(やだ つせこ、本名矢田ツセ、1907年(明治40年)6月19日 - 1944年(昭和19年)3月14日)は、日本の小説家、随筆家。秋田県南秋田郡五城目町出身。はじめモダン派であったが純文学に転身し、1936年に小説『神楽坂』が第3回芥川賞候補に選ばれる。文章力と美貌を兼ね備えた女流作家として人気を集めた。坂口安吾が愛した女性として知られる。大和生命第5代社長の矢田不二郎は兄。 秋田県五城目町古川町(現在の同町下タ町)に、矢田鉄三郎(1866-1925)、チヱ(1869—1944)の四女として生まれる。父鉄三郎は秋田市に居住していたが、当時の五城目町長に請われて1898年に同町の助役に就任し、本籍ごと一家をあげて五城目町に移っていた。
土岐 雄三(とき ゆうぞう、1907年6月16日 - 198… 土岐 雄三(とき ゆうぞう、1907年6月16日 - 1989年8月7日)は、日本の作家。 東京生まれ。青山学院商科卒。銀行員のかたわらユーモア小説を書き、放送作家も務めた。山本周五郎の研究もしていた。埼玉県浦和市に住んでいた。 1980年参院選に埼玉県選挙区から無所属で出馬し、落選している。
牧屋 善三(まきや ぜんぞう、1907年5月17日 - 19… 牧屋 善三(まきや ぜんぞう、1907年5月17日 - 1977年5月11日)は、日本の作家。本名・岡田五郎。作家岡田三郎の弟。第2代小樽区長山田吉兵衛は伯父。 北海道松前町生まれ。明治学院高等部在学中、三・一五事件で退学。大宅壮一の下で『千一夜物語』を翻訳、浅草の軽演劇団で脚本を執筆。1940年丹羽文雄の推薦で『文学者』に小説を発表、41年青年芸術派同人となる。
島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 199… 島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 1996年6月16日)は日本の小説家、脚本家。 京都府京都市出身。明治大学中退。1931年に「満洲日報」に入社し新聞記者となり、敗戦までの約15年間をほぼ従軍記者として過ごす。終戦後は同社の社員たちと「大陸情報通信社」を設立、在満邦人の引揚げ運動に尽力する傍ら執筆活動を続けた。 1946年に短編「殺人演出」が雑誌「宝石」の第1回短編懸賞に入選し、翌年掲載される。 デビュー当初は『古墳殺人事件』や『錦絵殺人事件』のような衒学的な本格推理を得意としていたが、1949年からは自身の経験を生かした新聞記者ものの推理小説を書き始め、1951年に短編「社会部記者」(別題「午前零時の出獄」)「遊軍記者」、「新聞記者」、「風船魔」で第4回探偵作家クラブ賞を受賞する。
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日… 井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「楼蘭」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。
森 荘已池(もり そういち、1907年〈明治40年〉5月3日… 森 荘已池(もり そういち、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1999年〈平成11年〉3月13日)は、日本の作家。 岩手県盛岡市出身。本名:森 佐一(もり さいち)。旧制盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)、東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語科中退。岩手日報記者をへて、文筆業へ。岩手県在住で最初の直木賞作家。宮沢賢治と深い親交があり、賢治作品や賢治に関する文章を多く残している。 妹の夫である大村次信(写真家大村次郷、考古学者大村幸弘の父)は、盛岡藩で火業師(砲術師)をつとめ、エトロフ島事件に遭遇しロシア人の捕虜となった大村治五平の子孫にあたる。その縁から、大村家で門外不出の書として伝えられていた治五平の手記『私残記』を託され、1943年6月に現代語訳と解説をつけて大和書店より翻刻出版した。
鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993… 鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993年2月18日)は、日本のプロレタリア作家、政治家。 秋田県平鹿郡旭村(現・横手市)出身。横手中学から山形高等学校へ進学するも社会運動にかかわって中退。 山形高校在学中に紺野与次郎らとともに社会主義運動に入る。その後上京し、東京合同労組書記などを経て職工になる。1929年、四・一六事件に連座し逮捕される。ほどなくして創作活動に入り、『監房細胞』(1931年)などの小説を著し、日本プロレタリア作家同盟の秋田支部を結成して活動した。作家同盟解散後も創作活動を続けたが、1940年には東北農業研究所を設立、農村での改良運動にかかわる。 第二次世界大戦後は政治活動も行い、1946年には旭村の村長職もつとめた。
山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月2… 山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月25日 - 1996年〈平成8年〉5月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。妻は、児童文学作家で翻訳家の山本藤枝。ロシア児童文学の翻訳・研究家の松谷さやかはその子にあたる。 福井県遠敷郡松永村門前(現小浜市)で、山本文雄の長男として生まれる。旧制小浜中学校卒業。中学時代より詩作を始め、1926年(大正15年)東洋大学専門学部倫理学東洋文学科に入学、1929年(昭和4年)に卒業した。在学中に乾直恵、白井一二らと『白山詩人』同人となり赤松月船、勝承夫、大村主計と詩を発表し、処女詩集『仙人と人間との間』を創刊し活躍した。 1932年(昭和7年)三省堂編集部に勤めながら文学活動を続け、1935年(昭和10年)には同人誌『星座』に参加、同誌に連載した『国木田独歩ノート』で全国同人誌クラブ賞受賞。
渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 201… 渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 2014年9月16日)は、日本(青森県青森市出身)の農民・人形作家。太平洋戦争中に転居した夫の故郷の但馬地方の農村風景や農作業をする人々を描写した人形を製作していた。
石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 200… 石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 2008年4月2日)は、日本の児童文学作家・翻訳家。位階は従四位。日本芸術院会員。 「くまのプーさん」「ピーターラビットのおはなし」「うさこちゃん」といった数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。 埼玉県北足立郡浦和町(後の浦和市、現:さいたま市)常盤に兄1人姉4人のきょうだいの末っ子として生まれる。生家は旧中山道沿いで金物店を営む旧家だった。父は小学校教師を経て友人と銀行を興し、浦和商業銀行の支配人をつとめていた。 1913年4月、埼玉県立女子師範附属小学校(現在の埼玉大学教育学部附属小学校)入学。
北町 一郎(きたまち いちろう、明治40年(1907年)3月… 北町 一郎(きたまち いちろう、明治40年(1907年)3月7日 - 平成2年(1990年)9月4日)は、日本の小説家。 新潟県中蒲原郡小須戸町(現新潟市)小向生まれ。福島高等商業学校(現福島大学)特待生を経て、1932年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後、婦女界社に入社。記者や、婦女界編集長を務めた。 1935年に「賞与日前後」でサンデー毎日大衆文芸入選。小説家として活動し、太平洋戦争中は大日本帝国陸軍報道班員としてスマトラ島で従軍取材を行い、昭南新聞マレー語版の編集責任者を務めた。 1948年に「健康教室」を創刊し78歳まで編集長を務めたほか、婦女界編集顧問、文部省嘱託、日本学校衛生会主事、日本文芸著作権保護同盟理事などを務めた。
厚木 たか(あつぎ たか、1907年〈明治40年〉3月3日 … 厚木 たか(あつぎ たか、1907年〈明治40年〉3月3日 - 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の記録映画作家。本名・芳賀 松江。 1907年(明治40年)群馬県伊勢崎市新町に岡田清平・すみの長女として生まれる。1929年(昭和4年)日本女子大学英文科卒。 1930年(昭和5年)、日本プロレタリア映画同盟に参加。1934年(昭和9年)にPCL(現・東宝)に入社。1938年(昭和13年)芸術映画社に移る。構成を担当した『或る保姆の記録』(芸術映画社、1942年)が国民映画賞を受賞[要検証 – ノート]。 朝日映画にも一時所属したが、1945年(昭和20年)以降はフリーの脚本家となる。1958年(昭和33年)『おふくろのバス旅行』で教育映画祭最高賞ブルーリボン賞受賞。
北原 武夫(きたはら たけお、1907年2月28日 - 19… 北原 武夫(きたはら たけお、1907年2月28日 - 1973年9月29日)は、日本の小説家。 神奈川県小田原市の医家に生まれる。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、家業を継ぐべく旧制新潟高等学校理科に入学するが父に反抗して中退し、慶應義塾大学予科に入学。慶應義塾大学文学部仏文科に進むが国文科に転じ、1932年に卒業。在学中に、井上友一郎、田村泰次郎らの同人誌『桜』に参加。 都新聞社に入社。横浜支局に勤務。1934年、都新聞社本社に転勤。この間、1933年に宇野千代と知り合う。1936年、宇野千代と共に日本最初のファッション雑誌『スタイル』を創刊。1938年、『妻』を発表して芥川賞候補となり文壇にデビュー。
李 孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 - 1942年… 李 孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 - 1942年5月25日)は朝鮮の小説家。本貫は全州。号は可山。兪鎮午に「小説の形式で詩を吟じた作家」と評され、郷土の美しさを詩のような流れる文筆で描いた。その代表作が『ソバの花咲く頃(메밀 꽃 필 무렵)』である。 1907年2月23日、江原道平昌郡蓬坪面倉洞2区南安洞681番地に1男3女の長男として生まれる。父の李始厚は漢城師範学校出身で、京城で教鞭を執っていた。母、康洪敬は珍富の聖潔教会の功労者として知られていた。父の仕事のため、一時京城に住むも、5歳のときに再び故郷に戻り、私塾で漢学を学んだ。非常に物覚えのよい李は村人から神童と呼ばれるほどであった。
宮脇 紀雄(みやわき としお、1907年2月15日 - 19… 宮脇 紀雄(みやわき としお、1907年2月15日 - 1986年11月18日)は、日本の児童文学作家。 岡山県川上郡成羽町(現・高梁市)出身。 農業、岡山市で書店勤めや書店経営をしたが、1935年上京して坪田譲治に師事。土師清二の知遇を得て童話を書き始める。1969年「山のおんごく物語」で野間児童文芸賞、1976年「ねこの名はヘイ」で日本児童文芸家協会賞、1977年「おきんの花かんざし」、1980年「かきの木いっぽんみが三つ」で産経児童出版文化賞を受賞。海外児童文学、日本の古典などの再話を数多く行った。 生態学者の宮脇昭は弟。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
陣出 達朗(じんで たつろう、1907年2月14日 - 19… 陣出 達朗(じんで たつろう、1907年2月14日 - 1986年4月19日)は、日本の時代小説家。第3代日本作家クラブ会長。石川県出身。 『遠山の金さん』シリーズ、『伝七捕物帳』シリーズ、『新五捕物帳』の作者として知られる。 小松市生まれ。本名・中村達男。兄が南満州鉄道に勤めていたため満州にわたり、奉天中学校に入学したが病気のため帰郷、金沢中学校(現・金沢高等学校)四年修了。1929年日活脚本部に入社する。のち右太プロ脚本部に転じたが、再び日活に戻る。 1933年、『さいころの政』で第12回「サンデー毎日」大衆文芸賞を受賞。1938年会社を辞し脚本家から作家に転身する。 1947年に探偵作家クラブ創設の際、捕物作家も入会するはずだったが、木々高太郎の反対で実現しなかった。
川端 秀子(かわばた ひでこ、1907年(明治40年)2月8… 川端 秀子(かわばた ひでこ、1907年(明治40年)2月8日 – 2002年(平成14年)9月7日)は、作家・川端康成の妻。青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)出身。旧姓は松林。戸籍名はヒテ。青森県立八戸高等女学校(現・八戸東高等学校)卒業。 1925年(大正14年)、川端康成と出会う。1931年(昭和6年)12月2日入籍。 康成の没後約十年を経た1983年(昭和58年)に回想『川端康成とともに』を発表。2002年(平成14年)9月7日に死去し、近親者のみでの葬儀・告別式が執り行われた。 JR大森駅西口にある天祖神社の石垣には夫・康成の肖像がある「馬込文士村の住人」レリーフなどと共に何点かのレリーフが飾られ、川端秀子の肖像は断髪したモダンガールとして文士村の女性を紹介するレリーフにある。
大石 千代子(おおいし ちよこ、1907年2月7日 - 19… 大石 千代子(おおいし ちよこ、1907年2月7日 - 1979年1月5日)は、日本の小説家。福岡県出身。第9回芥川賞候補。 1907年福岡県京都郡豊津町生まれ。京都高等女学校(現・福岡県立京都高等学校)卒業。本名は有山千代子。鶴田知也らの同人誌「村の我等」に参加。ブラジルやフィリピンに滞在した経験を持ち、移民や大陸開拓の題材が多い。
高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30… 高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30日 - 1965年8月17日)は、日本の小説家、詩人。
火野 葦平(ひの あしへい、1907年〈明治40年〉1月25… 火野 葦平(ひの あしへい、1907年〈明治40年〉1月25日 - 1960年〈昭和35年〉1月24日)は、日本の昭和戦前・戦後期の小説家。本名:玉井 勝則。 早くから文学を志し、早大在学中『街』の創刊に参加。労働運動に参加するも検挙され転向した。日中戦争応召中に『糞尿譚』が芥川賞を受賞。次いで『麦と兵隊』以下3部作が評判を呼んで、兵隊作家としてマスコミの寵児となった。そのため、戦後は戦犯作家として指弾される。その後、筆力を揮って再び活躍したが、睡眠薬を用いて自殺した。甥にアフガニスタンで亡くなった医師の中村哲、Jリーグ・ギラヴァンツ北九州を運営する株式会社ギラヴァンツ北九州取締役会長の玉井行人がいる。
高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 … 高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、音楽評論家。本名は安藤 煕(あんどう ひろし)。 ヴァイオリニストで、女性初の文化功労者に選ばれた安藤幸と、英文学者・安藤勝一郎の子として東京市本郷区西片町に生まれる。東京帝国大学独文科卒。 水戸高等学校や第一高等学校教授などをつとめながら、同人雑誌『作家精神』に小説を書いた。1936年「遣唐船」で芥川賞候補、1940年(昭和15年)、大伴家持を描いた歴史短篇「歌と門の盾」で芥川賞を授与されるが辞退する。菊池寛は「恥を掻かされた」と言って怒っている。高木は、自分が辞退すれば『作家精神』の桜田常久がくりあげ受賞すると誤認したという説もある(桜田は次回受賞)。
山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年(明治40年)1月… 山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年(明治40年)1月11日 - 1978年(昭和53年)9月30日)は、日本の小説家。位階は従四位。 歴史小説を中心に活躍。本名は藤野庄蔵(ふじの しょうぞう)。『徳川家康』により第2回吉川英治文学賞を受賞。日本を守る会の代表委員を務めた。 自由党元衆議院議員の山岡賢次は養子。立憲民主党衆議院議員の山岡達丸は孫。 新潟県北魚沼郡小出町大字佐梨(現:魚沼市佐梨)の山内家に生まれる。1920年11月3日、高等小学校2年次に中退し上京。神田区中猿楽町(現・千代田区神田猿楽町)の平賀印刷所で働き始める。その後、母方の親戚である博文館印刷所に移り、文選工として働きつつ逓信省の研修所に学ぶ。
稲垣 昌子(いながき まさこ、1907年1月10日 - 19… 稲垣 昌子(いながき まさこ、1907年1月10日 - 1981年10月6日)は、日本の児童文学作家。 東京生まれ。旧姓・藤原。東京高等女学校卒、大阪の梅花女子専門学校(現梅花女子大学)卒、早稲田大学英文科卒。早大図書館に四年間勤め、稲垣達郎と結婚。1955年前後から児童文学同人誌『だ・かぽ』に作品を発表。 1965年、『マアおばさんはネコがすき』でNHK児童文学賞奨励賞、日本児童文学者協会賞受賞。
荒木 精之(あらきせいし、1907年1月7日 - 1981年… 荒木 精之(あらきせいし、1907年1月7日 - 1981年12月30日)は、小説家、思想家、文化運動家、地方雑誌「日本談義」を発行、熊本地方の文化に貢献した。 阿蘇郡長陽小学校校長荒木民次郎の長男として生まれる。母富香も同じ小学校に勤務していた。5歳時、母はなくなり父は後妻を娶る。小学校卒業後、熊本市船場町の逓信講習所に入る。郵便局の推薦でないので熊本郵便局の臨時事務員や福岡県大川の郵便局に勤務する。同僚のものが軽微な過失で懲戒免職になったので、憤慨して辞表を提出した。「懲戒免職」は彼の最初の小説である。父は現菊池市で隈府女子技芸学校を設立したので加勢をした。父の死後は義母荒木スヱヲが続けた。
奈街 三郎(なまち さぶろう、1907年1月2日 - 197… 奈街 三郎(なまち さぶろう、1907年1月2日 - 1978年12月23日)は、日本の児童文学作家。宮城県仙台市出身。東京商業学校(現在の一橋大学)卒業。本名:山田三郎。 小川未明に師事する。 1952年、『まいごのドーナツ』で第1回小学館児童文化賞受賞。1959年、『とけいの3じくん』で文部大臣賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(… 入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(明治40年) - 1989年(平成元年))は、日本の詩人・児童文学作家・教育者・経営者。 北海道小樽市生まれ。1928年(昭和3年)旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)卒業。 在学中に詩誌「北斗星」を創刊。旧制中学校教諭]しながら、作詩活動を続け、詩誌「青光」を創刊。1936年(昭和11年)に第一詩集「あしかび」を刊行。その後官憲の弾圧を受け、教職を辞職し、1943年(昭和18年)に満州国に渡る。満州国日本人中学校の教員をしていたが、終戦。シベリア抑留を経て、1949年(昭和24年)に帰国。 1956年(昭和31年)北海道詩人協会の設立に参画し、同協会事務局長に就任( - 1976年(昭和51年))。
手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1… 手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1981年12月1日)は、日本の文学研究者、作家である。 山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。維新の英蘭学者手塚律蔵は曾祖父の弟にあたる。 旧制徳山中学から慶應義塾大学に進学する。徳山中学在学中に19世紀ロシア文学を愛読、特にトルストイの影響を受ける。慶應在学中に社会運動に参加するようになり、その後当時非合法だった日本共産党に入党し、文化団体の活動をする。日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の新人作家であったこの時期の作品に1932年に発表した「虱」がある。 1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。
岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 -… 岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 - 1980年1月30日)は、日本の小説家。本名:八田秀吉。福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)生まれ。 旧福岡県立小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科卒業。1928年から1961年まで八幡製鉄所に勤務した。1938年、同郷の芥川賞作家・火野葦平や劉寒吉らと共に同人誌「九州文学(第二期)」に参加し、代表作となる『富島松五郎伝』(「九州文学」1939年10月号。「オール讀物」1940年6月号)で、1939年下半期・第10回直木賞候補、翌1940年上半期・第11回直木賞候補に挙げられるも受賞ならず。さらに、「辰次と由松」で同年下半期・第12回直木賞候補、「西域記」で1943年上半期・第17回直木賞候補となったが、いずれも受賞できなかった。
久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月… 久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月13日 - 1998年10月23日)は、日本の児童文学作家。 愛媛県宇和島市出身。愛媛県立松山商業学校卒業後、窪田空穂が主宰する短歌雑誌『国民文学』の同人となる。上京して東洋大学専門部東洋文科に進学。太宰治、檀一雄と出会い、同人誌「青い花」に参加。中退後、川端康成の紹介で創元社編集部の手伝いを経て、1939年に児童図書出版社の教養社へ入社したのを機に児童文学創作を志す。1942年に評論「童話の本質」を発表。1946年に日本児童文学者協会設立と同時に会員となる。 『ビルの山ねこ』で小学館文学賞、『赤い舟の帆』で日本児童文学者協会賞をそれぞれ受賞。
南条 三郎(南條 三郎、なんじょう さぶろう、1906年11… 南条 三郎(南條 三郎、なんじょう さぶろう、1906年11月12日 - 1957年5月22日)は、日本の小説家、歴史作家。 岡山市生まれ。本名・安井徳雄。1931年早稲田大学文学部英文科卒業。毎日新聞社「小学生新聞」編集記者、高校教師などの職につく。1939年長編『断雲』で『サンデー毎日』の千葉亀雄賞に当選、サンデー毎日大衆文藝賞に1937年、1938年、1946年の3回当選。戦後は地方新聞に歴史小説を連載した。代表作『小説本阿弥一門』は『東京日日新聞』に1957年から1958年まで連載された。 小説家の南原幹雄は息子である。
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月… 坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。 第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記などの多彩な活動を通し、無頼派、新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。 新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科(現・文学部 東洋思想文化学科)卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。 戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた。
北沢 喜代治(きたざわ きよじ、1906年10月17日 - … 北沢 喜代治(きたざわ きよじ、1906年10月17日 - 1980年8月11日)は、日本の作家。 長野県上高井郡須坂町(現須坂市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類を経て東京帝国大学国文科卒業。 富山県旧制高岡中学(富山県立高岡高等学校)などの教壇に立つ傍ら、1937年、臼井吉見らと同人誌『鳰の巣』を発行し「最後の銅貨」などの小説を発表。『早稲田文学』には「雁の書」が掲載された。 詩集『兄の最後の手紙』(1935年)では貧困への憎悪を表現したものであるが、秋山清には酷評された。 戦時中は宇野浩二が北沢を頼り松本に疎開。戦後は小谷剛主宰の『作家』に「日之島」、「夢三代」などの小説集を出した。
庄司 総一(しょうじ そういち、1906年(明治39年)10… 庄司 総一(しょうじ そういち、1906年(明治39年)10月6日 - 1961年(昭和36年)11月28日)は、昭和期の小説家・詩人・台湾文学者。筆名は、阿久見謙。同人雑誌『新表現』創刊・主催者。 山形県飽海郡北平田村漆曽根(現・酒田市)生まれ。 医師の子として生まれ、父親の仕事の都合で北海道、大連、台湾と居を変えながら、台南市の台南一中を卒業した。慶應義塾大学文学部英文科に進み、西脇順三郎の薫陶を受ける。阿久見謙の名で『三田文学』・『新三田派』に創作を発表しながら、内台共婚を題材にして描いた小説『陳夫人』で第1回大東亜文学賞を受賞した。次いで日本文学報国会の会員となり、皇民化運動の一翼を担った。
小野寺 百合子(おのでら ゆりこ、1906年〈明治39年〉1… 小野寺 百合子(おのでら ゆりこ、1906年〈明治39年〉10月1日 - 1998年〈平成10年〉3月31日)は、日本の翻訳家、随筆家、ノンフィクション作家。トーベ・ヤンソンの『ムーミンシリーズ』などの児童文学翻訳で知られる。旧姓、一戸。陸軍少将小野寺信は夫。 東京都渋谷区生まれ。東京女子高等師範学校附属高等女学校専攻科(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)卒。第二次世界大戦中、公使館附武官だった夫とともにスウェーデンに滞在し、和平工作のための夫の情報活動を手伝い、暗号電文を作ったり、本国からの電文を解読したりした。60歳を過ぎてから、トーベ・ヤンソンやアストリッド・リンドグレーン、エレン・ケイなどスウェーデン文学の翻訳に従事した。
石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 19… 石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 1986年2月8日)は、日本の俳人・小説家・編集者。俳誌「鶴」の二代目主宰。本名は友次。 新潟県北蒲原郡笹岡村(現阿賀野市)生まれ。笹岡尋常高等小学校高等科卒業。農業学校を出て家業の農業に従事したのち、1924年に叔父を頼って上京。 横浜の濾水工場で働いたのち、1932年まで神田の東京堂書店に勤める。この間、那珂公平の紹介で横光利一に師事したほか、多くの文人と交わる。1932年、保高徳蔵の「文学クオタリイ」に参加、同人となり発行事務を手伝う。1933年、書物展望社にて随筆誌『文体』の編集に携わる。1935年、沙羅書店を設立、横光利一の『日輪』『覚書』、水原秋桜子の『葛飾』復刻版、石橋辰之助の『山行』、石田波郷の『石田波郷句集』などを刊行する。
劉 寒吉(りゅう かんきち、1906年(明治39年)9月18… 劉 寒吉(りゅう かんきち、1906年(明治39年)9月18日 - 1986年(昭和61年)4月20日) は、日本の昭和期の小説家。本名は 濱田 陸一(はまだ りくいち)。 1906年(明治39年)9月18日 福岡県小倉市、魚町33番地(現 北九州市小倉北区、魚町2丁目4番21号)で 父 濱田源治 母 マツの長男として生まれた。名は陸一。生家は、旧小倉藩小笠原公の砂糖御用達商人「濱田屋」。1925年(大正14年)小倉市立小倉商業学校(現 福岡県立小倉商業高等学校)卒業。 在学中より文学の道に進み、同人誌『悟桐』を創刊。1925年(大正14年)9月、同人誌『公孫樹』を創刊。1938年(昭和13年)『九州文学』創刊以来、1983年(昭和58年)12月号の第464号で休刊するまで、48年間『九州文学』の大黒柱として、編集経営に尽力した。