末次 利光(すえつぐ としみつ、1942年3月2日 - )は… 末次 利光(すえつぐ としみつ、1942年3月2日 - )は、熊本県人吉市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。旧名は民夫(たみお、1974年に改名)。
職業が野球:7,475人
末次 利光(すえつぐ としみつ、1942年3月2日 - )は… 末次 利光(すえつぐ としみつ、1942年3月2日 - )は、熊本県人吉市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。旧名は民夫(たみお、1974年に改名)。
杉町 攻(すぎまち おさむ、1942年2月25日 - )は、… 杉町 攻(すぎまち おさむ、1942年2月25日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手。 長崎南山高校では第40回夏の甲子園、第31回選抜甲子園に出場。選抜ではエースとしてベスト4まで勝ち進んだ。 1960年に西鉄ライオンズへ入団。1961年シーズン途中に野手に転向し、1962年はウエスタン・リーグで打点王を獲得する。 1963年から再び投手へ転向。1965年は一軍試合出場が無く同年限りで引退した。 引退後はプロゴルファーとして活動した。
伊藤 博文(いとう ひろふみ、1942年2月11日 - )は… 伊藤 博文(いとう ひろふみ、1942年2月11日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。 大分高校から1960年に近鉄バファローへ入団。1961年・1962年に1軍出場を果たすも、結果が残せず1962年に引退。
斎藤 克男(さいとう かつお、1942年1月28日 - )は… 斎藤 克男(さいとう かつお、1942年1月28日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 作新学院高等部時代は1958年の夏の大会で初出場を4強・国体では初出場を優勝に導いた古口典央が引退した栃木県大会から正捕手となった。 1958年秋の栃木県大会でチームは1回戦に宮下陽吾と松本照夫の両投手が控える栃木商業、準決勝ではエース大井道夫率いる宇都宮工業を破り勝ち進んだ。そして決勝の矢板高戦では先制点となるタイムリー二塁打を放って勝利を呼び込み、4番・捕手として作新学院の秋季県大会初優勝の一端を担った。 秋の関東大会でも土田伸三投手とのバッテリーを務めながら4番に座り、作新は優勝の成績を収めた。
安藤 英志(あんどう ひでし、1942年1月16日 - )は… 安藤 英志(あんどう ひでし、1942年1月16日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。 萩商業高校から1961年に阪急ブレーブスへ入団。翌年に引退。
大久保 計雄(おおくぼ かずお、1942年1月7日 - )は… 大久保 計雄(おおくぼ かずお、1942年1月7日 - )は、徳島県麻植郡鴨島町(現・吉野川市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 阿波高校では1年次の1957年から正捕手としてチームを引っ張り、4番打者としてシャープな当たりと大物打ちで活躍。甲子園出場こそ無かったが、遠投100m以上の強肩ぶりに7球団が注目。加藤久幸スカウトや林義一監督代行の熱心な勧誘により、1960年に近鉄バファローへ入団。2年目の1961年に一軍初出場も腰椎分離症を発症し、以降は二軍の試合に出場することが多くなり、1967年限りで現役を引退。 引退後は近鉄で用具係(1968年 - 1970年)→二軍コーチ補佐(1971年)→一軍トレーニングコーチ(1972年 - 1983年)→一軍バッテリー兼トレーニングコーチ(1984年 - 1985年)→二軍トレーニングコーチ(1986年 - 1987年)→一軍バッテリーコーチ(1988年 - 1990年)を歴任し、2連覇を含む3度のリーグ優勝(1979年 - 1980年, 1989年)に貢献。
永易 将之(ながやす まさゆき、1942年1月1日 - 20… 永易 将之(ながやす まさゆき、1942年1月1日 - 2003年4月1日)は、大阪府守口市出身の元プロ野球選手(投手)。 1970年の「黒い霧事件」にて八百長をしていたと証言し、池永正明らと共に永久追放処分とされた。 1942年元日に大阪府守口市で生まれる。大阪工業大学高等学校から電電近畿に入社し、1961年の都市対抗野球大阪大会に出場すると日本新薬戦でノーヒットノーランを達成した。1962年の第33回都市対抗野球大会1回戦(対日本ビール戦)に先発し、この試合では大会史上最長記録となる延長22回まで試合が進む。延長22回裏に一死から太田誠(のちに駒澤大学監督)にサヨナラ本塁打を被弾して敗戦投手となったが、この試合を完投した永易が投じた270球は2022年現在でも都市対抗野球の最多投球記録である。
板東 里視(ばんどう さとみ、1942年1月1日 - 199… 板東 里視(ばんどう さとみ、1942年1月1日 - 1999年10月7日)は、徳島県板野郡板東町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。
滝川 博己(たきがわ ひろみ、1942年1月1日 - )は和… 滝川 博己(たきがわ ひろみ、1942年1月1日 - )は和歌山県出身の元プロ野球選手。
三田 晃(みた あきら、1942年 - )は、大阪府出身の元… 三田 晃(みた あきら、1942年 - )は、大阪府出身の元アマチュア野球選手(投手)。 成器商業高校から1961年に大和証券へ入社し、藤本英雄監督の指導を受け、同年の都市対抗にチーム初出場を果たす。1963年の都市対抗ではエース小弓場保をリリーフで支え準々決勝に進むが、富士製鐵室蘭の佐藤進に抑えられ10回裏0-1でサヨナラ負けを喫する。同年に野球部が活動停止したため、1964年に大昭和製紙へ転籍。金沢宏らと共に投の主軸として活躍し、1965年の第13回選抜社会人野球静岡大会ではチームの優勝に貢献して、最高殊勲選手にも選ばれた。同年の都市対抗では1回戦で松下電器を相手に先発するが惜敗し、秋の産業対抗では決勝に進み富士製鐵と対戦。
清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1… 清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1日)は、鳥取県出身のプロ野球選手。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之の指導を受け、3年春の選抜に出場。山陰勢初の甲子園決勝進出を果たしたが、バッテリーを組んだ宮本洋二郎が高松商業高校の山口富士雄に左翼ラッキーゾーンにサヨナラ本塁打を浴び、準優勝に終わる。夏の甲子園でも1勝したが、2回戦で徳島商業高校に完敗した。秋の熊本国体でも準優勝。 その後東映フライヤーズに入団したが、2年間出場なしに終わった。 2009年10月1日死去。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
平野 克明(ひらの かつあき、1941年12月14日 - )… 平野 克明(ひらの かつあき、1941年12月14日 - )は、新潟県出身の元プロ野球選手。 新潟県立柏崎工業高校から社会人野球の新潟電化を経て、1964年に大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)に入団。開幕3戦目の先発を任されたが早々にKOされ、以降の登板は1試合に終わり、この1年だけで現役を引退した。
金田 星雄(かねだ ほしお、1941年12月1日 - )は、… 金田 星雄(かねだ ほしお、1941年12月1日 - )は、愛知県名古屋市北区出身の元プロ野球選手・歌手。ポジションは投手。右投げ右打ち。
大坂 雅彦(おおさか まさひこ、1941年11月28日 - … 大坂 雅彦(おおさか まさひこ、1941年11月28日 - )は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手、外野手。
龍 隆行(りゅう たかゆき、1941年11月25日 - 20… 龍 隆行(りゅう たかゆき、1941年11月25日 - 2017年3月15日)は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)、プロボウラー。1971年プロ入りJPBA日本プロボウリング協会第8期生ライセンス№225。 小学生の時に野球をやっていた兄の影響でプロ野球選手を志すようになり、その兄からカーブを教えてもらってから頭角を現し、中学の時に4番で投手を務める程に活躍をしていた。 三池高校では、エースとして1958年秋季九州大会で準々決勝に進むが、長崎南山高の杉町攻(西鉄)に完封を喫する。翌1959年は春季九州大会決勝で宮崎大淀高を降し優勝を飾る。夏の甲子園県予選でも準々決勝に進むが、戸畑高に敗退し甲子園には届かなかった。
前川 芳男(まえかわ よしお、1941年11月20日 - 2… 前川 芳男(まえかわ よしお、1941年11月20日 - 2024年4月26日)は元プロ野球審判員。2010年まで審判部特命顧問。 横浜市立桜丘高等学校から専修大学、興亜電工、横浜ナショナルサービスを経て1967年パシフィック・リーグ審判部入局。後に審判部副部長となった五十嵐洋一(1998年退職)とは同期生である。審判員袖番号は25(1977年初採用から。ただし、審判員指導員に転じた1998年以降は空き番。当時パ・リーグでは審判は指導員に転じると袖番号を返上するという暗黙のルールがあったため)。 順調にキャリアを積み、1978年から1995年までほぼ毎年、パリーグの審判の代表として日本シリーズの審判を務め、そのうち1979年は江夏の21球で有名となった第7戦の球審を務めたり、1988年の10.19第2試合で球審を務めたりして後年にも語り継がれている。
富恵 一(とみえ はじめ、1941年11月6日 - 1974… 富恵 一(とみえ はじめ、1941年11月6日 - 1974年6月5日)は、山口県出身のプロ野球選手(外野手)。右投げ右打ち。 山口県立萩高等学校では外野手、投手として活躍。1958年秋季中国大会県予選準決勝に進むが、岩国高に敗退。翌1959年夏の甲子園県予選は、準々決勝で防府高に延長11回の末に惜敗。 卒業後は関西大学に進学。関西六大学野球リーグでは在学中3回優勝。1年生の秋からベンチ入り、3年生の1962年春季リーグからレギュラーとなる。しかし1963年秋季リーグで、エース西川克弘を擁し優勝したものの、西川と内野手の雑賀幸男が広島カープと秘密裏に契約していたことが発覚。関大はリーグ終了後に出場停止、優勝取り消し処分を受ける。
金 星根(キム・ソングン、韓国語:김성근、1941年10月3… 金 星根(キム・ソングン、韓国語:김성근、1941年10月30日 - )は、日本の京都府京都市右京区出身の野球選手(投手)・コーチ・監督。 韓国で実業団野球の投手として活躍後、KBO7球団で監督を務め、2014年までの監督通算1234勝は韓国プロ野球史上、金応龍の1567勝(24年、1290敗68分)に次ぐ歴代2位の記録である。通称は、野球の神様という意味を持つ「野神」。 日本名は金林 星根(かねばやし せいこん)。 在日韓国人2世として京都で生まれる。本籍地は慶尚南道晋陽郡で、桂高校3年次の1959年に第4回在日僑胞学生野球団の一員として初訪韓し、卒業後の1960年に韓国へ渡り、在日成人球団訪問試合をしてから東亜大学校にスカウトされたが、中退して実業団野球に専念。
黒川 豊久(くろかわ とよひさ、1941年10月29日 - … 黒川 豊久(くろかわ とよひさ、1941年10月29日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。 東北高校時代は1958年、1959年と2年連続で夏の甲子園に出場。 1960年に西鉄ライオンズへ入団。1961年9月27日に平和台野球場で行われたウエスタン・リーグ対広島東洋カープ戦では満塁ホームランを2本打ち10打点を記録した。
茅野 智行(ちの ともゆき、1941年10月24日 - )は… 茅野 智行(ちの ともゆき、1941年10月24日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手(内野手)。 北海高等学校では1959年にエース荻野一雄を擁し、夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧東高に10回裏サヨナラ負け。卒業後は芝浦工業大学へ入学。東都大学リーグでは1961年秋季にリーグ初優勝を経験。同季の最高殊勲選手であった岩下光一が卒業した後の正遊撃手となり、1963年秋季リーグでは打率.389で首位打者を獲得、全試合連続安打や無失策も記録した。ベストナイン(遊撃手)2回選出。 1964年に西鉄ライオンズに入団。同年はトニー・ロイの控えながら、遊撃手として13試合に先発出場する。
鈴木 征夫(すずき ゆきお、1941年10月16日 - 20… 鈴木 征夫(すずき ゆきお、1941年10月16日 - 2009年4月10日)は、宮城県出身のプロ野球選手。 東北高校から1960年に西鉄ライオンズへ入団。1962年引退。
県 真澄(あがた ますみ、1941年10月16日 - )は、… 県 真澄(あがた ますみ、1941年10月16日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手(外野手)。 大府高校から三協精機に入社。三塁手として1961年の都市対抗にチーム初出場を果たす。1回戦で日本石油の佐々木吉郎に抑えられ敗退。 1964年に南海ホークスに入団。1965年には一軍に上がり、2試合に右翼手として先発出場。初本塁打も放つものの一軍定着はできず、1966年限りで引退。
野口 元三(のぐち もとぞう、1941年10月6日 - )は… 野口 元三(のぐち もとぞう、1941年10月6日 - )は京都府出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手、外野手)。
安藤 敏雄(あんどう としお、1941年10月4日 - )は… 安藤 敏雄(あんどう としお、1941年10月4日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手。 芦屋高校では藤悟郎の1年下。2年生の秋からエースとなり本格派右腕として注目される。同期の広瀬幸司とバッテリーを組み活躍。1958年秋季近畿大会準決勝に進み、平安高の藤野隆司と投げ合うが敗退。しかし翌1959年春の選抜への出場を決める。大会では1回戦で三浦和美のいた広陵高を完封するが、2回戦で浪華商に敗れる。同年夏は県予選準々決勝で滝川高に敗退、甲子園には届かなかった。他の高校同期に一塁手の西岡浩史らがいる。 1960年に西鉄ライオンズへ入団するが、肩を故障しアンダースローへの転進を余儀なくされる。1962年に一軍初登板。
松村 正晴(まつむら まさはる、1941年10月1日- )は… 松村 正晴(まつむら まさはる、1941年10月1日- )は、広島県出身の元プロ野球選手(二塁手・三塁手/右投げ右打ち)である。
大井 道夫(おおい みちお、1941年9月30日 - )は、… 大井 道夫(おおい みちお、1941年9月30日 - )は、日本の元アマチュア野球選手(投手)、高校野球指導者で、元日本文理高等学校(新潟)野球部監督。 栃木県出身。栃木県立宇都宮工業高等学校、早稲田大学第二商学部卒。 宇都宮工の左腕エースとして活躍。2年生時の1958年夏の甲子園県予選決勝に進むが、作新学院に敗退。翌1959年夏は北関東大会決勝で前橋高に延長15回サヨナラ勝ち、夏の甲子園出場を決める。大会では順調に勝ち進み、準決勝は東北高の嶺岸征男(後に大毎)、波山次郎(後に大洋)との投手戦となるが、延長10回2-1でサヨナラ勝ち。決勝では西条高のエース金子哲夫(後に阪神)と投げ合い、延長15回の末2-8で敗れ準優勝にとどまった。
井上 善夫(いのうえ よしお、1941年9月27日 - 20… 井上 善夫(いのうえ よしお、1941年9月27日 - 2019年12月31日)は、山梨県上野原市出身のプロ野球選手(投手)。 日大二高では2年生でエースとなり、1958年秋の東京地区大会決勝に進む。日大三高の千原陽三郎と投げ合い1-0で完封、翌1959年の春の選抜への出場を決める。選抜では、1回戦でこの大会準優勝の県岐阜商に0-9で大敗。県岐阜商には高木守道がいた。同年の夏の選手権にも出場。準々決勝に進出するが、東北高の嶺岸征男、波山次郎両投手の継投の前に2-3で惜敗。8月末からは全日本高校選抜の一員として石黒和弘、朝井茂治らとアメリカ西海岸・ハワイ遠征を果たす。秋の東京国体では決勝で平安高の藤野隆司に投げ勝ち、初優勝を飾った。
近藤 隆正(こんどう たかまさ、1941年9月19日 - )… 近藤 隆正(こんどう たかまさ、1941年9月19日 - )は、大分県津久見市出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手、右投右打。
門口 秀世(かどぐち ひでお、1941年9月17日 - )は… 門口 秀世(かどぐち ひでお、1941年9月17日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手。 兵庫県立洲本高等学校から1960年に近鉄バファローへ入団。1962年に引退。
渡辺 秀武(わたなべ ひでたけ、1941年〈昭和16年〉9月… 渡辺 秀武(わたなべ ひでたけ、1941年〈昭和16年〉9月16日 - 2007年〈平成19年〉8月25日)は、静岡県富士市出身のプロ野球選手(投手)、スカウト。 愛称は「メリーちゃん」。 富士高校卒業後の1960年に本州製紙へ入社するが、後に日本軽金属へ移籍。1963年の都市対抗では河合楽器に補強され出場し、電電四国との1回戦で好リリーフを見せ、勝利投手となるなど活躍。チームの準決勝進出に貢献するが、積水化学に敗退した。この時のチームメイトに一枝修平がいる。 大会終了後の8月23日に読売ジャイアンツへ入団し、二軍では3年目の1965年に防御率1.83でイースタン・リーグ最優秀防御率に輝いたが、最初の3年間は僅か3勝と低迷。
西岡 浩史(にしおか ひろし、1941年9月12日 - )は… 西岡 浩史(にしおか ひろし、1941年9月12日 - )は、兵庫県出身のアマチュア野球選手(一塁手)、実業家。野球選手引退後は東芝グループで要職を務めた。 芦屋高校では一塁手として活躍。1年上のエース藤悟郎を擁し、1958年春の選抜へ出場。1回戦で宇都宮工に敗退。同年夏の甲子園県予選は準々決勝で兵庫工に敗れる。翌1959年も春の選抜に連続出場。1回戦で三浦和美のいた広陵高を降すが、2回戦で浪華商に敗れる。同年夏は県予選準々決勝で滝川高に敗退、甲子園には届かなかった。高校同期には安藤敏雄、広瀬幸司のバッテリーがいた。 卒業後は慶應義塾大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは1962年秋季リーグ、1963年春季リーグに優勝。
柴垣 旭延(しばがき あきのぶ、1941年9月9日 - )は… 柴垣 旭延(しばがき あきのぶ、1941年9月9日 - )は、愛知県江南市出身の高校野球指導者。西濃運輸硬式野球部(岐阜県大垣市)監督を経て、母校である享栄高等学校野球部監督に就任。春夏4度ずつの甲子園出場を果たし2007年限りで総監督に就くも、2013年から2018年まで同校監督に復帰した。 5人姉弟の2番目で長男として生まれ、本格的に野球に取り組んだのは中学からである。当時160cm程と小柄だったが、やがて地肩の強さと足の速さを活かし1番・遊撃手に定着。3年時の進路相談では、野球の有名校への進学を期するも担任教師の説得を容れ、地元の滝実業学校普通科へ進学した。しかし学業重視の学校方針に馴染めず悩んでいたところへ、父から自営会社の倒産を打ち明けられ、大学進学を諦める覚悟もした。
斎藤 幸夫(さいとう ゆきお、1941年9月7日 - )は、… 斎藤 幸夫(さいとう ゆきお、1941年9月7日 - )は、東京府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 桐朋高等学校から早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは、1960年秋季リーグでいわゆる早慶六連戦による優勝を経験するが、その後はチームの低迷が続き優勝には届かなかった。大学同期には内野手の岡田紀明(河合楽器-高松商監督)、杉浦藤文(中京高監督-中京大監督)、外野手の大井道夫らがいた。 1963年に大毎オリオンズ に入団。翌1964年に一軍に上がり、6試合に遊撃手、二塁手として先発出場。1965年は山崎裕之、篠原良昭と遊撃手の定位置を争い、25試合に先発を果たす。その後は出場機会が減少、1966年限りで引退した。
森川 卓郎(もりかわ たくろう、1941年8月28日- )は… 森川 卓郎(もりかわ たくろう、1941年8月28日- )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
今村 正博(いまむら まさひろ、1941年8月22日 - )… 今村 正博(いまむら まさひろ、1941年8月22日 - )は、奈良県出身の元プロ野球選手。
新治 伸治(にいはり しんじ、1941年7月31日 - 20… 新治 伸治(にいはり しんじ、1941年7月31日 - 2004年5月4日)は、日本のプロ野球選手(投手)、実業家。東京大学野球部初のプロ野球選手である。 東京都文京区立第四中学校の1年生の時、東京都中学生による憲法記念野球大会で優勝する。都立小石川高校時代には硬式野球部がなく、軟式野球部にてプレー。3年生のときに東京都少年野球大会で優勝した。 新治は早稲田大学でのプレーを希望して知り合いに相談したところ、早稲田では硬式での経験がないと難しい、東大なら軟式上がりでもレギュラーになれるだろうと言われ、早稲田大学をあきらめ東京大学経済学部を受験し合格。硬式野球部に入部した。東京六大学野球リーグでは1961年春季リーグから8季連続最下位。
小松 輝清(こまつ てるきよ、1941年7月23日 - )は… 小松 輝清(こまつ てるきよ、1941年7月23日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手。 宮崎大淀高等学校から1960年に阪急ブレーブスへ入団。1964年に引退。
髙木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - )は… 髙木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - )は、プロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。愛知県名古屋市生まれ、岐阜県岐阜市育ち。
林 勝(はやし まさる、1941年7月16日 ‐ 2025年… 林 勝(はやし まさる、1941年7月16日 ‐ 2025年9月14日)は、日本の高校野球指導者。滋賀県出身。現役時代は捕手、外野手。 滋賀県立伊香高等学校では春季近畿大会でベスト4まで進出した経験はあるが、甲子園大会とは無縁だった。中京大学に進学したが1年で退学し、日本大学に再入学した。日大野球部では外野手として1試合しか出場できなかった。 1965年に卒業して帰郷、創立4年目の滋賀県立能登川高等学校に保健体育教師として赴任。翌年から野球部監督に就任し、1975年の第47回選抜高等学校野球大会に同校を甲子園初出場させた。 1978年に開校3年目の滋賀県立長浜高等学校に転じ、野球部監督に就任。1年目は練習試合を含めて18戦全敗に終わったが、1984年の第66回全国高等学校野球選手権大会に同校を導き、初戦の岩手県立大船渡高等学校戦で自身甲子園初勝利も記録した。
村瀬 広基(むらせ ひろもと、1941年7月16日 - )は… 村瀬 広基(むらせ ひろもと、1941年7月16日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。
石黒 和弘(いしぐろ かずひろ、1941年7月1日 - )は… 石黒 和弘(いしぐろ かずひろ、1941年7月1日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手(内野手)。
北川 公一(きたがわ こういち、1941年6月29日 - )… 北川 公一(きたがわ こういち、1941年6月29日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)。
山崎 武昭(やまざき たけあき、1941年6月25日 - 1… 山崎 武昭(やまざき たけあき、1941年6月25日 - 1995年2月1日)は、高知県吾川郡伊野町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。
荻野 一雄(おぎの かずお、1941年6月22日 - )は、… 荻野 一雄(おぎの かずお、1941年6月22日 - )は、北海道紋別郡西興部村出身の元プロ野球選手(投手)。 西興部中時代から速球派投手として知られ、北海高校では2年からエース。2年生時の1958年秋季北海道大会札幌地区予選決勝では、千歳高に対して北海道高校野球史上初の完全試合を達成。秋季北海道大会準々決勝に進むが函館工に敗退。1959年春季北海道大会の対歌志内高戦では、初回先頭打者から13連続三振を記録。同年夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧東高に10回裏サヨナラ負け、甲子園出場を果たすことはできなかった。同期には茅野智行(芝浦工大 → 西鉄)・八木沼陽一(立教大 → 河合楽器)、1期下には佐藤進(富士鐵室蘭 → 国鉄・産経 → 中日)などのメンバーを擁していた。
山本 秀一(やまもと ひでかず[1]/ひでい… 山本 秀一(やまもと ひでかず[1]/ひでいち[2]、1941年6月18日 - )は、和歌山県出身の陶芸家、元プロ野球選手。プロ野球選手時代のポジションは内野手。陶芸家としては雷山陶秀の名義で活動している。
石戸 四六(いしど しろく、1941年6月4日 - 1980… 石戸 四六(いしど しろく、1941年6月4日 - 1980年8月2日)は、日本のプロ野球選手(投手)。秋田県大館市出身。 長男ではあるが、6月4日に生まれたことに因んで「四六」というユニークな名前が付けられた。“六四”ではないのは、父親によると「六四だと頭が重くて、下が軽いからフラフラするだろう。四六だと下が大きくて安定する。男が一生、フラフラ生きてどうするのだ」であるためという。秋田商業高校では、エースとして1957年秋季東北大会県予選決勝に進むが、金足農に完封負け。翌1958年夏の甲子園に出場。しかし初戦(2回戦)で板東英二を擁する徳島商と対戦し、自らのエラーもあり0-3で敗れた。 社会人野球の日立製作所に進み、1962年に日本鉱業日立の補強選手として都市対抗に出場。
大黒 正一(だいこく しょういち、1941年6月1日 - )… 大黒 正一(だいこく しょういち、1941年6月1日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。 八幡浜高校では2年生の時に夏の甲子園に出場。 1960年に大阪タイガースへ入団。1963年に阪急ブレーブスへ移籍するも一軍試合出場は無く同年で退団した。
門岡 良典(かどおか よしのり、1941年6月1日 - )は… 門岡 良典(かどおか よしのり、1941年6月1日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。中日ドラゴンズに所属した門岡信行は弟。 高田高校から1961年に毎日大映オリオンズへ入団。僅か1試合の出場で、2年目の1962年に引退した。 門岡のオリオンズ入団は、翌年卒業する弟の信行を獲得するためだったとも言われている。
栽 弘義(さい ひろよし、1941年5月11日 - 2007… 栽 弘義(さい ひろよし、1941年5月11日 - 2007年5月8日)は、沖縄県糸満市出身の高校野球指導者。長男は自由ケ丘高等学校監督の赤嶺琢。 1941年、沖縄県糸満市に生まれる。4歳のときに沖縄戦に遭遇し、3人の姉を失い、自らも背中に重傷を負った。高校時代は糸満高校野球部に所属。 当時、夏の甲子園は現在のような一県一代表制は採用されておらず、夏の沖縄大会で優勝しても、九州の学校との決定戦に勝たないと甲子園に出場できなかったため、沖縄勢にとって、甲子園出場は至難であった。しかし、栽が2年生だった1958年夏は、夏の甲子園が第40回の記念大会を迎え、特別に一県一代表制を採用したことから、沖縄大会優勝校が甲子園に出場できることとなった。
朝井 茂治(あさい しげじ、1941年5月11日 - 201… 朝井 茂治(あさい しげじ、1941年5月11日 - 2010年5月2日)は、静岡県裾野市出身の元プロ野球選手(内野手)。一時期、登録名を朝樹 一義世とした。