関口 久雄(せきぐち ひさお、1954年10月29日 - )… 関口 久雄(せきぐち ひさお、1954年10月29日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手。 浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)卒業後、三菱重工サッカー部(現:浦和レッドダイヤモンズ)に所属。日本代表としても、国際Aマッチ3試合に出場し1得点した。 現役引退後は浦和レッドダイヤモンズの育成部・強化部に属し、スカウトとして山田暢久や永井雄一郎等の獲得に尽力した。またその一方で、日本テレビ系列番組とんねるずの生でダラダラいかせて!!に木梨憲武・田口光久・川添孝一等と「FC・のりの」の一員として出演していた。
植木 繁晴(うえき しげはる、1954年9月13日 - 20… 植木 繁晴(うえき しげはる、1954年9月13日 - 2024年4月11日)は、神奈川県川崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィルダー、フォワード。上武大学ビジネス情報学部教授、同大学サッカー部監督。 神奈川県立新城高等学校、日本大学を経て、1977年に日本サッカーリーグ(JSL)のフジタ工業(現-湘南ベルマーレ)に入部。フジタ工業の3度のJSL優勝、2度の天皇杯制覇に貢献した。 1987年限りで現役引退後はフジタ工業のコーチ、Jリーグ入りを目指してフジタから名称変更されたベルマーレ平塚のサテライト監督を歴任、1995年には監督代行を務めた。この年のアジアカップウィナーズカップで優勝し12月にアジア月間最優秀監督に選ばれた。
永尾 昇(ながお のぼる、1954年8月20日 - )は、日… 永尾 昇(ながお のぼる、1954年8月20日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。埼玉県児玉郡児玉町(現、本庄市)出身。 埼玉県立児玉高等学校時代に関東大会優勝、国体選抜に選出された経験を持つ。法政大学を経て1977年に日本サッカーリーグ1部の三菱重工業サッカー部に入部。1978年シーズンに7アシスト(2位)を記録し新人王に選出された。翌年にも7アシストで2年連続でアシストランクの次点に入る活躍を魅せた。 また1980年度の天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝の田辺製薬戦では、かつての古豪の復活という話題性や田辺製薬が全社を上げて応援団を送り込んだ事もあって、35,000人の観衆の多くが田辺製薬を応援するアウェーの様な雰囲気の中、前半27分に決勝ゴールを決め同タイトルの獲得に貢献した。
濱口 和明(はまぐち かずあき、1954年5月17日 - )… 濱口 和明(はまぐち かずあき、1954年5月17日 - )は、日本出身のサッカー選手・指導者・審判員。ポジションはフォワード(右ウイング)。 大学2年時に当時日本サッカーリーグ(JSL)2部の読売クラブ(現東京ヴェルディ)に加入。1978年のJSL1部昇格に貢献し、1985年に引退するまで13年間所属した。JSL1部での通算記録は50試合出場8得点3アシスト。 引退後は読売クラブおよびヴェルディ川崎でトップチームや下部組織のコーチを歴任。1996年にJFA 公認S級コーチライセンスを取得した。 審判員としても活動した。1989年に1級審判に昇格し、日本サッカーリーグおよびJリーグで10年以上にわたり線審および副審を務めた。
前田 秀樹(まえだ ひでき、1954年5月13日 - )は、… 前田 秀樹(まえだ ひでき、1954年5月13日 - )は、京都市右京区出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(攻撃的MF)、DF(リベロ)。 小学校 (京都市立太秦小) 時代にサッカーをはじめ、京都商業高校(現在の京都学園高校)で国体京都府代表に選出された。法政大学では関東大学リーグおよび大学選手権の優勝を経験した。大学卒業後は古河電気工業に所属し、1981年および1982年に日本サッカーリーグのベストイレブンを受賞した。 また、法大在学中より日本代表に選出。1980年代前半の日本代表で主将を務めた。 日本サッカーリーグの1988-89シーズンにて、元号が「昭和」から「平成」に替わった後の1989年2月26日、対住友金属工業戦で後藤義一からのコーナーキックを頭で合わせてゴールを決めた。
下條 佳明(しもじょう よしあき、1954年5月10日 - … 下條 佳明(しもじょう よしあき、1954年5月10日 - )は、長野県松本市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 1973年に長野県松本県ヶ丘高等学校卒業。大学浪人中には先輩に請われて、地元の山雅クラブ(現:松本山雅FC)でプレーした。 早稲田大学を経て、1978年から1984年まで日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に所属。主にDFとしてプレーした。 引退後は指導者として、日産のコーチに就く。横浜FMのチームディレクターを務めていた2001年、2002年シーズン途中には短期間ながら監督も務めた(詳しくは指導歴を参照)。人生の半分以上(37年。2016年3月末時点)を日産ないし横浜FMで過ごした。
渡辺 由一(わたなべ よしいち、1954年4月5日 - )… 渡辺 由一(わたなべ よしいち、1954年4月5日 - )は日本出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 東北高校、仙台大学を経て、東洋工業に所属した。1978年には古田篤良、小原秀男、山出実、中野重富、安原真一らとともに天皇杯決勝進出に貢献。 日本代表としては、1979年のジャパンカップを始め国際Aマッチ6試合に出場し1得点を記録している。
岸奥 裕二(きしおく ゆうじ、1954年4月2日 - )は、… 岸奥 裕二(きしおく ゆうじ、1954年4月2日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(ストッパー、スイーパー)。 北海道室蘭市出身。室蘭大谷高等学校から1973年に日本サッカーリーグの新日鐵サッカー部に入団。トレードマークの口元の髭と、センターバックとして大柄ではないが、得意のハードタックルで他チームのエースキラーとして活躍。北海道出身者として初めて日本代表に選出され、モスクワオリンピック予選5試合に出場した。引退後は新日鐵君津サッカー部の監督も務めた。 日本サッカーリーグ1部成績 ・JSL東西対抗戦 2回出場(1980年、1981年)
アデマール・ペレイラ・マリーニョ(ポルトガル語: Adema… アデマール・ペレイラ・マリーニョ(ポルトガル語: Ademar Pereira Marinho、1954年3月23日 - )は、ブラジル・ミナスジェライス州ベロオリゾンテ出身の元サッカー選手、サッカーおよびフットサル指導者。解説者及び通訳。 ベロオリゾンテで生まれた。アトレチコ・ミネイロのファンでありながら、15歳でライバルチームであるクルゼイロの入団テストに合格、18歳でプロ契約を果たす。 その後、ミナス・ジェライス連邦大学を経て、1975年に札幌大学に留学生として来日。サッカー部に所属して大学選手権などで活躍した。 1976年、フジタ工業に入社してサッカー部(現:湘南ベルマーレ)に入部。ゲームメーカーとして、日本サッカーリーグ(JSL)(1977年、1979年)、天皇杯(1977年、1979年)制覇に貢献した。
松崎 康弘(まつざき やすひろ、1954年1月20日 - )… 松崎 康弘(まつざき やすひろ、1954年1月20日 - )は、千葉県千葉市出身の元サッカー審判員。現日本サッカー協会常務理事。
山出 実(やまで みのる、1954年〈昭和29年〉1月6日 … 山出 実(やまで みのる、1954年〈昭和29年〉1月6日 - )は、滋賀県出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード(FW)。 中学校時代はバレーボール、高校からはサッカーを始めた。 大阪経済大学卒業後、東洋工業(現、マツダ)に入社、東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に所属し、1978年には古田篤良、渡辺由一、安原真一らと天皇杯準優勝に貢献。 1983年は中国サッカーリーグのマツダオート広島サッカー部に所属し、リーグ得点王となる。1984年は、JSL2部に落ちていたマツダSCで再びプレーした。現役引退後もマツダに社員として勤務。マツダ親和会サッカー部コーチ、国体広島女子U-15コーチなどを勤めた。
数野 篤人(かずの あつひと、1954年 - )は、山梨県甲… 数野 篤人(かずの あつひと、1954年 - )は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手。山梨県立機山高等学校、日本体育大学卒業。 山梨県立機山工業高等学校を経て、1973年に日本体育大学に進学。日体大時代は2年次からレギュラーとなり、1974年度の春季対抗戦(関東大学サッカーリーグ戦一部)優勝、1975年度の全日本大学選手権大会優勝に貢献した。卒業後は郷里の山梨県で教師を務める傍ら日本サッカーリーグ(JSL)2部の甲府サッカークラブ(日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟のヴァンフォーレ甲府の前身)に在籍。1978年シーズンにJSL2部で12得点を挙げ得点王に輝き、リーグ戦3位の原動力となった。 教職としては山梨県北杜市立小淵沢中学校校長、甲府市立甲運小学校校長、甲府市立上条中学校校長などを歴任後2014年3月に退職[要出典]。
上田 栄治(うえだ えいじ、1953年12月22日 - )は… 上田 栄治(うえだ えいじ、1953年12月22日 - )は、千葉県館山市出身の元サッカー選手(FW)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現在は日本サッカー協会特任理事、女子委員長を務めている。 薬園台高校から1972年に青山学院大学へ進学し、4年次の1975年には日本学生選抜に選出されて、ソウルで行われた日韓定期戦に出場。卒業後の1976年にフジタ工業へ入部するが、卒業前にも日本学生選抜メンバーとして世界大学サッカー大会(ウルグアイ)に出場。入部後はFWとしてプレーし、JSL通算88試合20得点を記録するなど、3度のJSL1部優勝(1977年, 1979年, 1981年)と2度の天皇杯制覇(1977年, 1979年)に貢献。
碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、… 碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。サッカー選手の碓井健平は実子。 強烈なキック力を持ち、得意とした右斜め45度エリアからのシュートで多くのゴールを挙げたストライカー。 静岡県立藤枝東高等学校、早稲田大学を経て、1976年にJSLの日立製作所(現柏レイソル)に入部。2度のJSL得点王(1980年、1982年)に輝き、「第55回天皇杯全日本サッカー選手権大会」、「第1回JSLカップ」優勝に貢献した。1988年に現役引退するまでJSL通算200試合出場85得点28アシストの記録を残している。 1974年から日本代表に名を連ね、「1978 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選」、「1980年モスクワオリンピック」予選に出場。
石井 茂巳(いしい しげみ、1953年7月7日 - )は日本… 石井 茂巳(いしい しげみ、1953年7月7日 - )は日本出身の元サッカー選手。 古河電工などに所属し、日本代表としても1974年のアジア競技大会など、国際Aマッチ15試合に出場した。1976年には日本サッカーリーグ新人王を受賞。 1972年古河電工株式会社の社員子弟を中心とした、古河サッカースクールが発足。古河サッカースクールを一般開放。古河電工サッカー部の下部組織としてジュニアユース、ユースと規模を拡大。Jリーグ開幕直前に市原市に移転でスクールの理念と伝統を受け継いで、F.C.ゼブラが発足し現在も横浜市西区に存続。往年の古河電工サッカー部所属選手から古河電工サッカースクールコーチに就任した者が、石井を含め現在はゼブラの役員や顧問として名を連ねている。
渡辺 三男(わたなべ みつお、1953年6月4日 - )は、… 渡辺 三男(わたなべ みつお、1953年6月4日 - )は、栃木県那須郡那須町出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 フジタ工業などに所属し、日本代表として28試合に出場し、4得点を挙げた。 2017年度の日本サッカー殿堂の候補者にノミネートされたが受賞はならなかった
眞藤 邦彦(しんどう くにひこ、1953年5月4日 - )は… 眞藤 邦彦(しんどう くにひこ、1953年5月4日 - )は、広島県出身のサッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現職は日本サッカー協会 (JFA) インストラクター。 1976年に日本体育大学体育学部体育学科を卒業後、広島市立中学校で6年間教員として勤務、その後広島市立沼田高等学校・広島市立広島工業高等学校に教員として勤務、サッカー部で指導を行った。1997年にJFA 公認S級コーチライセンスを取得。 2003年4月より3年間、広島市教育委員会付のままサンフレッチェ広島へ派遣され、育成組織(アカデミー)で活動。2004年から2年間は強化部育成部長として活動した。2006年4月から3年間はJFAに派遣され、JFA技術委員・Jリーグ技術委員を務めながらJFA指導者養成プログラムで要職を務めた。
堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 20… 堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 2025年8月23日)は、静岡県藤枝市出身の元日本代表サッカー選手、コーチ・監督。 静岡県の藤枝東高校卒業後、日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマー(現セレッソ大阪)でプレーし、JSLでは通算204試合出場46得点を記録した。 引退後はヤンマーのコーチ、セレッソ大阪のスカウト、ガンバ大阪のコーチ、サテライトチームの監督を務めた後、2001年に川崎フロンターレ監督に就任した。しかしチームの調子は上がらずシーズン途中で解任された。その後は2003年に神戸国際大学サッカー部監督、2004年にジュビロ磐田ヘッドコーチを務め、2005年から2007年まで川崎フロンターレU-18の監督であった。
安原 真一(やすはら しんいち、1953年2月3日 - )は… 安原 真一(やすはら しんいち、1953年2月3日 - )は大阪府出身の元サッカー選手。 初芝高等学校(現・大阪立命館高等学校)1年次に全国高校サッカー選手権優勝に貢献。 高校を卒業後、1971年に東洋工業(現・マツダ)へ入社。日本サッカーリーグ1部の東洋工業に入団し、サイドアタッカー・チャンスメーカーとして活躍した。個人記録としては、1977年にJSLアシスト王、翌1978年には古田篤良、渡辺由一、山出実らと天皇杯準優勝に貢献、JSLでも山出実と共に得点ランク4位(7得点)など。
加藤 光雄(かとう みつお、1953年1月22日 - )は、… 加藤 光雄(かとう みつお、1953年1月22日 - )は、日本出身の元サッカー選手。ポジションはMF。 関西学院大学から1976年に三菱重工業に加入。7シーズン在籍し日本リーグ通算61試合出場7得点を記録した。日本代表としては1979年8月のアムール・コモルスルチク戦(国際Cマッチ)戦で代表デビューを飾り初得点を記録。同月29日の北朝鮮戦で国際Aマッチ出場を果たした。
東本 貢司(ひがしもと こうじ、1953年 - )は、大阪府… 東本 貢司(ひがしもと こうじ、1953年 - )は、大阪府出身の翻訳家、サッカーライター・コメンテーター。 高校2年の時、父親の仕事の関係でイギリスに渡り、サマセット州バースのパブリックスクールに入る。全盛期だったジョージ・ベスト、ボビー・チャールトン、ケビン・キーガンらのプレーを目の当たりにし、イングランドフットボールの虜になる。 国際基督教大学教養学部英文学科卒業後、広告プランナー、専門学校講師を経て、Jリーグ開幕時からサッカージャーナリストの世界に進む。雑誌「ワールドサッカーグラフィック」(ビクターエンタテインメント(当時))の編集に携わる。 1998年、スカイパーフェクTV!開局よりSKY sports(現在のJ SPORTS)でプレミアリーグ・FAカップのコメンテーターを担当。
古田 篤良(ふるた あつよし、1952年10月27日 - )… 古田 篤良(ふるた あつよし、1952年10月27日 - )は、広島県広島市舟入(現在の同市中区)出身 の元サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代のポジションはFB(フルバック)。守りの要として活躍し、守備にとどまらず高いキック力で攻撃の起点にもなった。 小学5年生からサッカーをはじめ、広大付属高校時代は福原黎三から指導を受けた。1971年、日本で行われたAFCユース選手権1971では守備的なハーフバックとして、高田一美、奥寺康彦、永井良和らとプレーしている。 代表デビューは、早稲田大学1年時の1971年8月13日アイスランド代表戦。18歳292日での代表デビューで、これは1998年に市川大祐に破られるまで日本代表の国際Aマッチ最年少出場記録だった。
木口 茂一(きぐち しげいち、1952年8月10日 - )は… 木口 茂一(きぐち しげいち、1952年8月10日 - )は、帝京高等学校出身の元サッカー選手。現役時代のポジションは、DF、MF、FW。通称は「アブさん」。 東京都にある私立帝京高等学校を卒業後、日本サッカーリーグで活躍。古河電工ではFW、MFを経てDFに定着。選手晩年の全日空横浜ではリベロを任された。[要出典]1986年3月22日の三菱重工戦の直前、競技場から姿を消して試合をボイコット(全日空横浜サッカークラブ・ボイコット事件)したことを理由に、日本サッカー協会から無期限の出場停止処分を受けた(2012年に処分解除)。
小幡 真一郎(おばた しんいちろう、1952年7月21日 -… 小幡 真一郎(おばた しんいちろう、1952年7月21日 - )は、京都府京都市出身の元サッカー選手、サッカー審判員(元国際主審)。 1993年5月15日に行われた、Jリーグオープニングマッチ・ヴェルディ川崎対横浜マリノスの主審を務めたことで知られる。 京都教育大学教育学部附属高校から東京教育大学を卒業後、母校である京都教育大学教育学部附属高校で教鞭を執りながら京都サンガF.C.の前身である京都紫光クラブで選手としてプレーし、29歳で現役引退。引退後は高校サッカー部の指導者としての道を歩むつもりであったが、1988年に第43回国民体育大会が行われることになり、開催地として審判員を確保する必要に迫られ、先輩の誘いを受けて審判員資格の取得を目指すことになる。
湯浅 健二(ゆあさ けんじ、1952年5月11日 - )は、… 湯浅 健二(ゆあさ けんじ、1952年5月11日 - )は、日本のサッカージャーナリスト、サッカー指導者。北海道出身。
横谷 政樹(よこたに まさき、1952年5月10日 - )は… 横谷 政樹(よこたに まさき、1952年5月10日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー。 日立製作所などに所属し、日本代表としてもワールドカップアルゼンチン大会予選など、国際Aマッチ20試合に出場した。 ・JSL東西対抗戦 2回出場(1979年、1983年)
川本 治(かわもと おさむ、1952年5月1日 - )は、北… 川本 治(かわもと おさむ、1952年5月1日 - )は、北海道出身のサッカー選手、サッカー指導者。 北海道釧路市生まれ。父親の転勤で札幌市、伊達市で育ち、中学3年で室蘭市に移る。室蘭清水丘高ではGKだったが、中央大学進学後にFWに転向。サッカー部主将を務めた1974年には関東大学サッカーリーグで優勝を経験。1975年に入団した古河電工サッカー部(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)ではFWとして10年間にわたって活躍。JSL(1976年)、天皇杯(1976年度)、JSLカップ(1977年、1982年)の優勝に貢献した。 引退後の1984年からは古河電工サッカー部のコーチおよび監督、Jリーグ開幕後は後身のジェフユナイテッド市原のフロントスタッフを歴任した。
左近充 辰治(さこんじゅう たつじ、1952年4月22日 -… 左近充 辰治(さこんじゅう たつじ、1952年4月22日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはGK。 大阪府の初芝高等学校から、1971年に日本サッカーリーグ(JSL)日本鋼管サッカー部へと入る。鋭い読みと瞬発力で、小柄だが守備範囲の広いGKとしてプレー。2部リーグに落ちていた1983年、のちに日本代表となる松井清隆の加入で、そのシーズンの第6節から正位置を奪われる。1986-87年シーズンで一度は現役を退いたが、NKKとなって3年目の1990-91年の開幕直後に追加選手登録された。なおこのシーズンは、高校選手権で活躍した埼玉県の私立武南高等学校卒の新人GK・木寺浩一も途中登録された。
永井 良和(ながい よしかず、1952年4月16日 - )は… 永井 良和(ながい よしかず、1952年4月16日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)出身。息子の永井俊太も元サッカー選手。 浦和南高校時代から快速フォワードとしてその名を知られ、当時の漫画・アニメーション『赤き血のイレブン』の主人公・玉井真吾のモデルとなった。 卒業後に日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部へ入部。選手として1977年度のJSL、天皇杯の二冠や、1985-86年度JSL優勝などに貢献した。また1976年に日本年間最優秀選手賞を受賞した。 1987-88シーズンを最後に現役を退いてから、古河サッカー部コーチと日本ユース(U-18)のコーチ、監督を併任。
小滝 春男(こたき はるお、1952年4月11日)は広島県出… 小滝 春男(こたき はるお、1952年4月11日)は広島県出身の元サッカー選手。 実兄は東洋工業でディフェンダーとして活躍した小滝強、実弟はフジタでフォワードとして活躍した小滝勇一。三兄弟が同時期に日本のトップリーグでプレーした初のケース。 現役時代は人に強く攻め上がりが得意なサイドバックで、MFとしてもプレーした。70年代の東洋工業で活躍し、1978年天皇杯決勝進出に貢献した。 また、代表ではユース代表3回、ジュニア代表2回経験。1971年、日本で行われた第13回アジア・ユース選手権ではサイドバックとして、高田一美・奥寺康彦・永井良和らとプレーしている。1974年Cキャップ1試合、1979年JSL選抜。
奥寺 康彦(おくでら やすひこ、1952年3月12日 - )… 奥寺 康彦(おくでら やすひこ、1952年3月12日 - )は、秋田県鹿角市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー、ディフェンダー。元サッカー日本代表。現在は一般社団法人横浜FCスポーツクラブ(横浜FC)の代表理事兼シニアアドバイザー を務めた。 1.FCケルンの中心選手として、ブンデスリーガ優勝と、DFBポカールで優勝した最初の日本人であり、UEFAチャンピオンズリーグ(旧称UEFAチャンピオンズカップ)の準決勝でゴールを成し遂げた最初のアジア人でもある。 秋田県鹿角市十和田大湯(旧: 鹿角郡大湯町 → 十和田町)出身。二卵性双生児の妹がいる。
瀬田 龍彦(せた たつひこ、1952年1月15日 - )は、… 瀬田 龍彦(せた たつひこ、1952年1月15日 - )は、岩手県盛岡市出身の元サッカー選手。ポジションはGK。瀬田貴仁、瀬田達弘はともに息子。 JSLでは日立製作所に所属し、通算164試合に出場。その間、JSL、天皇杯など数々の優勝に輝き、1972年、1976年のベストイレブンを獲得。現役終盤からはコーチも兼任していた。 日本代表としては1974年、1978年のワールドカップアジア予選に出場。モントリオールオリンピックアジア予選ではレギュラーとして全試合に出場した。 現在はテレビ中継解説者、サッカー指導員を務めている。1998年にS級コーチングライセンスを取得。2005年には沖縄県の国体女子成年チームの特別コーチを務めた。
瀬田 龍彦(せた たつひこ、1952年1月15日 - )は岩… 瀬田 龍彦(せた たつひこ、1952年1月15日 - )は岩手県盛岡市出身の元サッカー選手。ポジションはGK。ソニー仙台FC在籍の瀬田貴仁、横河武蔵野FC在籍の瀬田達弘はともに息子。
大滝 雅良(おおたき まさよし、旧姓:川口、1951年9月1… 大滝 雅良(おおたき まさよし、旧姓:川口、1951年9月15日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身のサッカー指導者、元サッカー選手。静岡市立清水商業高等学校前監督。静岡市立清水桜が丘高等学校監督。 清水商業高校時代に苫米地康文の指導を受ける。3年時には主将を務め、1969年の高校総体準優勝に貢献した。拓殖大学を経て1974年に母校の商業科教師として赴任し、苫米地の後を継いでサッカー部監督に就任した。1985年の高校選手権初優勝を皮切りに、これまで高校選手権優勝3回、高校総体優勝4回、全日本ユース選手権優勝5回に導くなど、2012年3月の定年まで同校の監督として後進の指導を行った。 また風間八宏、藤田俊哉、名波浩、川口能活、安永聡太郎、小野伸二、水野晃樹の7名を海外プロリーグへ輩出したことを始め、数多くの教え子達を日本代表やJリーグへと送り出している。
祖母井 秀隆(うばがい ひでたか、1951年9月2日 - )… 祖母井 秀隆(うばがい ひでたか、1951年9月2日 - )は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手・サッカー指導者、経営者。 兵庫県神戸市で生まれ、幼少期は兵庫県芦屋市で育つ。宮川小学校、芦屋市立精道中学校、報徳学園高校を経て、大阪体育大学に入学。 大学卒業後、1975年に読売サッカークラブに入団。半年で退団し、西ドイツに渡り、ドイツ4部リーグのBTSノイシュタント(BTS Neustadt)でプレー。退団後は引き続現地に留まり、ケルン体育大学でコーチング学を学ぶ。 1984年に帰国して、母校の大阪体育大学サッカー部および同好会チームの大体大蹴鞠団(佐川急便大阪SCの前身)でコーチを担当。 1995年からジェフユナイテッド市原・千葉(当時はジェフユナイテッド市原)の育成部長、1997年から2006年までゼネラルマネージャーに就任。
斉藤 和夫(さいとう かずお、1951年7月27日 - )は… 斉藤 和夫(さいとう かずお、1951年7月27日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身のサッカー選手、コーチ・監督。現役時代のポジションはディフェンダー。 法政大学から日本サッカーリーグ(JSL)の三菱重工(現-浦和レッドダイヤモンズ)に入団、JSLでは通算248試合出場3得点を記録、ベストイレブンにも3度輝いた。日本代表では国際Aマッチ32試合出場の記録を残した。 1989年、三菱がJSL2部に降格すると監督に就任、圧倒的な強さを見せて優勝、1年で1部復帰を果たした。1992年に監督を退任すると三菱から名前の変わった浦和レッドダイヤモンズのコーチ、ジェフ市原のコーチを歴任した。 1997年にはJFL所属の川崎フロンターレの監督に就任した 川崎ではJリーグ昇格を期待されたが、後半戦の山場である第20節から3連敗し、昇格圏外の3位へ後退すると更迭された。
大住 良之(おおすみ よしゆき、1951年7月17日 - )… 大住 良之(おおすみ よしゆき、1951年7月17日 - )は、日本のサッカージャーナリスト、サッカー指導者。サッカーマガジン編集長、FC PAF監督、日本スポーツプレス協会副会長、日本サッカー協会審判委員等を歴任。アジアサッカー連盟フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー受賞。 神奈川県横須賀市久里浜出身。日本のサッカージャーナリストの先駆者的な存在で知られる。 栄光学園中学校・高等学校、一橋大学法学部卒業後、大学時代にアルバイトをしていたベースボール・マガジン社に1974年に入社、サッカーマガジン編集部に在籍。1978年以降は編集長を務めた。 1982年にベースボール・マガジン社退社。 その後はアンサーを経て1988年からはフリーとなる。
高田 一美(たかだ かずみ、1951年6月28日 - 200… 高田 一美(たかだ かずみ、1951年6月28日 - 2009年10月1日)は、静岡県出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード(ウイング)。引退後は改姓により「郡司 一美(ぐんじ かずみ)」と名乗っていた。 清水東高等学校から日本大学へ進学。10代で日本代表に選出され、1970年11月15日のスウェーデンのクラブチームユールゴーデンIF戦で代表デビューを飾ると同年12月のアジア競技大会に出場。1976年に退くまで国際Aマッチ16試合に出場した。 また日本ユース代表にも選出され、1971年4月に日本で開催された第13回アジアユース大会では奥寺康彦、永井良和らと共に出場し2得点を上げている。 1971年に日大を中退し日本サッカーリーグ1部の三菱重工業に入部すると、すぐさま出場機会を掴み1974年度にはアシスト王に輝いた。
山口 森久(やまぐち もりひさ、1951年5月10日 - )… 山口 森久(やまぐち もりひさ、1951年5月10日 - )は、福岡県出身のサッカー選手、サッカー審判員(主に副審)。長男の山口慶は元プロサッカー選手。 中学・高校時代は学校にサッカー部がなく、京都教育大学のサッカー部で本格的にサッカーを始める。卒業後は京都紫光クラブに入り、日本サッカーリーグ2部(JSL2部)で5年間プレー。紫光クラブでは足の速さを活かして左サイドバックとしてレギュラー起用されたが、試合中に首を痛めて現役引退を余儀なくされる。 引退後は審判員の道に進み、1983年に1級を取得。日本サッカーリーグ時代は主審を務めていた。1992年に国際副審(当時は線審。1996年7月に副審に呼称変更)に登録される。
佐藤 長栄(さとう ちょうえい、1951年4月15日 - )… 佐藤 長栄(さとう ちょうえい、1951年4月15日 - )は山形県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。 米沢中央高校、中央大学を経て日本サッカーリーグの古河電工サッカー部(現-ジェフユナイテッド市原・千葉)に入団しリーグ142試合、日本代表国際Aマッチ1試合出場の記録を残した。 引退後は1991年から1994年までジェフユナイテッド市原のコーチ、1995年に清水エスパルスのコーチを務め、1996年にブランメル仙台(現-ベガルタ仙台)の監督に就任したが1年限りで退任した。その後、1998年から1999年まで浦和レッズのコーチを務め、退任直前の第79回天皇杯では監督として登録(チームの指揮は総監督の吉田靖が執った)された。
Template:Infobox サッカー関係者 国井 精一… Template:Infobox サッカー関係者 国井 精一(くにい せいいち、1951年〈昭和26年〉4月14日 - )は、日本のサッカー指導者。聖和学園高等学校女子サッカー部創設者・初代監督。後任の監督は、教え子であり元日テレ・ベレーザ選手の曽山加奈子。現在は東北福祉大学男女サッカー部監督を務める。 2021年には、日本サッカー協会(JFA)の創立100周年記念表彰において、長年の女子サッカー普及・発展への貢献を称え「功労表彰」を受賞した。 宮城県岩沼市出身。小学6年時よりサッカーを始め、宮城県工業高等学校から日本体育大学へ進学。選手時代はDFとして、天皇杯、全日本大学サッカー選手権大会、国民体育大会などに出場した。
淀川 隆博(よどがわ たかひろ、1951年3月4日 - )は… 淀川 隆博(よどがわ たかひろ、1951年3月4日 - )は、日本の元サッカー選手、前Jリーグ所属ジェフユナイテッド市原・千葉社長。現役時代のポジションはGK。 兵庫県出身。早稲田大学在学中には学生日本代表に選ばれた経験を持ち、1973年からは古河電工サッカー部(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)でプレイ。 引退後は古河電工の営業職を経て、2004年4月から2008年4月までジェフユナイテッド市原の代表取締役社長を務める。 2006年にクラブの監督として契約途中であったイビチャ・オシムの日本代表監督就任要請を許諾、それまで一貫してチームの強化方針を担当していた祖母井秀隆GM(当時)と対立し、祖母井GMは退団する結果となった。
加藤 寛(かとう ひろし、1951年1月29日 - )は、兵… 加藤 寛(かとう ひろし、1951年1月29日 - )は、兵庫県神戸市出身(生まれは岡山県久米郡)のサッカー指導者。元ヴィッセル神戸監督。1977年から1998年まで日本サッカー協会ナショナルトレセンコーチも務めていたほか、兵庫県サッカー協会常務理事・日本クラブユースサッカー連盟理事なども務め、神戸アスリートタウンクラブの設立など、関西を中心にサッカーの普及に尽力している。父親は神戸フットボールクラブ創設者の1人である加藤正信。 父親の影響でサッカーを始め、神戸市立上野中学校、神戸市立葺合高等学校を経て、大阪体育大学に進学。大学1年生のときには第1回FIFAコーチング・スクールでデットマール・クラマーの助手を務めた。
河野 和久(こうの かずひさ、1950年12月30日 - )… 河野 和久(こうの かずひさ、1950年12月30日 - )は広島県出身の元サッカー選手。ディフェンダー(DF)。 山陽高等学校では崎谷誠一、平田和資らと共に1967年全国高等学校サッカー選手権優勝(洛北と両校優勝)、国体3位。3年時の翌1968年全国高等選手権は準優勝(0ー1初芝)。ユース日本代表にも選出され、1969年第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)に出場した。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者の同学年で、多くが日本サッカーリーグ(JSL)各チームの主力選手として活躍した。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。 高校卒業後、日立入りし、忠実なサイドバックとして長くレギュラーとしてプレーした。
小原 秀男(こはら ひでお、1950年12月29日 - 20… 小原 秀男(こはら ひでお、1950年12月29日 - 2015年10月2日)は、広島県広島市佐伯区出身のサッカー選手・指導者。 広島県立広島工業高等学校卒業。3年時の1968年、同級の荒井公三らと全国高等学校サッカー選手権3位。ユース日本代表にも選ばれ第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)出場。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者で、多くが日本サッカーリーグ(JSL)に進み、各チームの主力選手として活躍した。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。 高校を卒業後、1969年に東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)の選手として活躍した。
崎谷 誠一(さきや せいいち、1950年12月1日 - )は… 崎谷 誠一(さきや せいいち、1950年12月1日 - )は、広島県似島出身の元サッカー選手。 山陽高等学校でフォワード、あるいは攻撃的MFとして2年時の1967年、全国高等学校サッカー選手権で優勝(洛北と第二延長を含む120分0-0で両校優勝)、国体3位。2年生でユース日本代表に選出される。3年時の翌1968年には主将として全国高等選手権準優勝(0ー1初芝)。翌1969年第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)に出場した。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者の同学年で、崎谷は八幡製鉄、山陽の同級・河野和久は日立、県立広島工業の荒井公三は古河電工、小原秀男は東洋工業、修道の大谷栄一は三菱重工、広島市商の河本博は八幡製鉄と、日本サッカーリーグ(JSL)に進み、いずれもチームの主力選手として活躍した。
志波 芳則(しわ よしのり、1950年12月1日 - )は、… 志波 芳則(しわ よしのり、1950年12月1日 - )は、福岡県福岡市出身のサッカー指導者。東福岡高等学校サッカー部の監督、総監督を務めた。福岡商業高校(現福岡市立福翔高校)、日本体育大学卒(1972年)。 東福岡高等学校監督に就任すると、寺西忠成コーチ(八幡製鉄サッカー部を率いた名将)との二人三脚で1990年代を通じて高校サッカー界を代表する強豪校にまで育て上げた。1997年には高校総体、全日本ユース、高校選手権の三冠を達成、公式戦52戦無敗記録を達成した。 これまで小島宏美、山下芳輝、本山雅志、長友佑都らを日本代表やJリーグへと送り出している。 現在は総監督の肩書で、森重潤也監督と共に東福岡高等学校サッカー部の指導を行っている。
今井 敬三(いまい けいぞう、1950年11月19日 - )… 今井 敬三(いまい けいぞう、1950年11月19日 - )は、京都府京都市左京区出身の元サッカー選手、実業家。1970年代後半の日本を代表するディフェンダー(当時はフルバック)。 京都府立洛北高等学校、同志社大学を経て日本サッカーリーグ(JSL)の藤和不動産サッカー部/フジタ工業クラブサッカー部(現、湘南ベルマーレ)で9年間プレイ。1977年から1980年まで4年連続でJSLベストイレブンに選出され、1979年には日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)にも輝いている。古前田充と共にフジタの守備の中心選手だった。 日本代表選手としては1978年アジア大会やモスクワオリンピック予選などに出場し、代表主将も務めた。
荒井 公三(あらい こうぞう、1950年10月24日 - 2… 荒井 公三(あらい こうぞう、1950年10月24日 - 2020年12月27日[要出典])は、日本の元サッカー選手、日本代表選手。広島県佐伯郡能美町(現江田島市)出身。 広島工業高校3年時の1968年、全国高等学校サッカー選手権3位。ユース日本代表にも選出され第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)出場。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者で、多くが日本サッカーリーグ(JSL)に進み、各チームの主力選手として活躍した。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。 所属した古河電工でも日本代表でも1970年代の主力選手の一人として活躍。所属チームでは若き古河を象徴するダイナミックなMFとして守備を引き締め永井良和、奥寺康彦らと1976年、古河電工念願の日本サッカーリーグ初制覇、天皇杯制覇の二冠、翌1977年のJSLカップ制覇などに貢献した。
清雲 栄純(きよくも えいじゅん、1950年9月11日 - … 清雲 栄純(きよくも えいじゅん、1950年9月11日 - )は、山梨県塩山市(現:甲州市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者、ラグビー選手、法政大学スポーツ健康学部教授。サッカー選手時代のポジションはDF。 中学時代までは野球をしていた。山梨県立日川高校入学後、クラス対抗ラグビー大会の活躍によりまずラグビー部からスカウトされ、その後サッカー部にも入り、両部を掛け持ちするようになる。サッカーでは県大会3位止まりだったが、主にフルバックやウイングとしてプレーしたラグビーでは3年生の時に全国高校ラグビー大会で準々決勝まで進出し、大会ベストフィフティーンにも選ばれた。高校時代の同級生には有賀健、風間深志、ジャンボ鶴田がいる。