小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11… 小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11月29日 - 2003年(平成14年)10月8日)は青森県出身の洋画家。梶井基次郎の作品「檸檬」に因んで檸檬をモチーフにした静物画が多く、「レモンの画家」と呼ばれる。 青森市生まれ。旧制青森中学校(青森県立青森高等学校)在学中、南部公鎮に師事。1932年(昭和7年)に旧制青森中学校を卒業して上京し、帝国美術学校(武蔵野美術大学)に入学、牧野虎雄に師事した。1936年(昭和11年)11月、学校側の都合により帝国美術学校を繰上卒業。同年から1943年(昭和18年)まで母校青森中の図画科教師。 1938年(昭和13年)、第13回国画会展に初入選。
郷倉 和子(ごうくら かずこ、1914年11月16日 - 2… 郷倉 和子(ごうくら かずこ、1914年11月16日 - 2016年4月12日)は、日本の画家、日本芸術院会員。 日本画家郷倉千靭(ごうくら せんじん)の長女として東京に生まれる。1935年女子美術専門学校日本画科卒業、1937年安田靫彦に師事、院展に出品を続け、1957年日本美術院賞、1960年院展同人、1970年院展文部大臣賞、1984年院展内閣総理大臣賞、1989年日本芸術院賞・恩賜賞受賞、1992年勲四等宝冠章、1997年日本芸術院会員、2002年文化功労者。花鳥画が多い。 2013年11月、99歳(白寿)の誕生日を祝って企画された「白寿記念 郷倉和子展 心の調べ」が富山県立近代美術館で開催された。
矢崎 博信(やざき ひろのぶ、1914年〈大正3年〉11月9… 矢崎 博信(やざき ひろのぶ、1914年〈大正3年〉11月9日 - 1944年〈昭和19年〉2月17日)は、長野県茅野市出身の洋画家。 「日本のシュルレアリスムの先駆者」とも評される画家。代表作に「高原の幻影」等がある。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)出身。父源蔵と母とらの の長男として生まれる。実家は「信厚館」という生糸の製糸工業を経営していたが博信が子供の頃に倒産している。父矢崎源蔵は郷土史研究家、河合曾良研究者として知られていた(「信州文壇」1932年(昭和7年) - 1941年(昭和16年)という信州文壇社発行の雑誌に記事を連載していた)。 1921年(大正10年)永明村立永明尋常高等小学校(現・茅野市立永明小学校・茅野市立永明中学校)入学、この頃矢崎家に下宿していた担任の絵画教師、清澤の影響を受ける。
関野 凖一郎(せきの じゅんいちろう、1914年10月23日… 関野 凖一郎(せきの じゅんいちろう、1914年10月23日‐1988年4月13日)は昭和時代の日本の版画家、洋画家。 青森県青森市の魚粕の肥料問屋の家に生まれる。旧制青森中学校卒業。1932年に今純三に銅版画を学んだ。1936年に官展に初入選を果たす。1938年に第8回日本版画協会展において会員に推される。翌1939年に東京へ出て恩地孝四郎に師事、新宿鈴木研究所において油絵を学んだ。作品は木版画、銅版画、石版画、油絵に及んでいる。1940年に日本エッチング協会を設立、その会員となった。1953年、ルガノ国際版画展に作品を出品、1960年、アメリカ・ノースウェスト国際版画展で受賞する。1957年に調布市下布田に移住する。
大塚 耕二(おおつか こうじ、1914年(大正3年)9月28… 大塚 耕二(おおつか こうじ、1914年(大正3年)9月28日 - 1945年(昭和20年)7月30日)は、洋画家、前衛芸術家日本前衛絵画の草分け的存在として評価される画家の一人である。 熊本県菊池市隈府下町の大塚書店の次男として生まれる。旧制鹿本中学(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業後、帝国美術学校の学生であった、坂本善三(後に抽象画家となる)に師事する。 1934年、帝国美術学校西洋画科(現武蔵野美術大学)に入学。 1935年、浅原清隆、小田正春、森堯之ら学生仲間と絵画グループ「表現」を結成、同年、創立者兼初代校長で後に政治家・衆議院議員へ転身する北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立。
加藤 勝重(かとう かつしげ、1914年9月1日 - 200… 加藤 勝重(かとう かつしげ、1914年9月1日 - 2000年9月6日)は、現在の埼玉県さいたま市出身の日本画家。浦和画家。 浦和画家の発祥(関東大震災以降)以前に浦和に出生。川端画学校に学び、はじめは洋画を描いていたが、日本画に転向した。山岳風景を多く描いた。「響」などの作品は埼玉県立近代美術館に所蔵されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
近岡 善次郎(ちかおか ぜんじろう、1914年(大正3年)8… 近岡 善次郎(ちかおか ぜんじろう、1914年(大正3年)8月10日 - 2007年(平成19年)6月3日)は、日本の洋画家。 1914年(大正3年)山形県新庄市に生まれる。1931年(昭和6年)山形県立新荘中学校(現・山形県立新庄北高等学校)を卒業。1933年(昭和8年)文化学院美術部にて、石井柏亭、有島生馬、山下新太郎に学ぶ。1946年(昭和21年)一水会優賞を受賞。1956年(昭和31年)文部省留学生として渡欧した後、帰国。1960年(昭和35年)一水会会員となる。1961年(昭和36年)太平洋地域絵画展に日本代表として出品(「飛びの森の天狗」)。1963年(昭和38年)第6回安井賞受賞。
若松 光一郎(わかまつ こういちろう、本名みついちろう、19… 若松 光一郎(わかまつ こういちろう、本名みついちろう、1914年8月8日 - 1995年11月7日)は、日本の洋画家。コラージュの世界的第一人者。 「大地の歌」。グスタフ・マーラーの「大地の歌」を聞きながら、チベットの古代壁画のイメージで描いた150号超を3枚組み合わせた大作である。 東京国立近代美術館、福島県立美術館、いわき市立美術館、郡山市美術館、そしてアートスペースエリコーナに彼の作品が置かれている。
岡田 又三郎(おかだ またさぶろう、1914年8月2日 - … 岡田 又三郎(おかだ またさぶろう、1914年8月2日 - 1984年3月2日)は、昭和期の洋画家、日展理事。東京都出身。荒削りの大胆な技法で背景の省略された処理の巧みさと、伝統的な写実性を兼ね備えた風格ある画風が特徴。岡田三郎助、浦和画家の寺内萬治郎に師事。1965年にフランスのサロン・ドートンヌで日本人初の金賞を受賞、フランス政府から芸術勲章を授与された。 親しい友人に、三木武夫がいる。
平松 譲(ひらまつ ゆずる、1914年4月13日 - 201… 平松 譲(ひらまつ ゆずる、1914年4月13日 - 2013年7月21日)は、日本の洋画家。 東京都の三宅島出身。白日会会員として白日会展において中沢賞、内閣総理大臣賞を受賞。日展文部大臣賞を受賞。 1992年に『TOKYO』で日本芸術院賞を受賞し、1995年に日本芸術院会員となる。元日展顧問。 三宅島出身ということもあり、風景画を得意としていた。 2013年7月21日、急性肺炎により死去。99歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岸田 麗子(きしだ れいこ、1914年(大正3年)4月10日… 岸田 麗子(きしだ れいこ、1914年(大正3年)4月10日 - 1962年(昭和37年)7月26日)は、日本の画家。洋画家・岸田劉生の娘で、劉生の連作集「麗子像」のモデル。モデルとなった絵画には「麗子微笑」(重要文化財東京国立博物館所蔵他)等がある。 岸田劉生と岸田蓁の娘として生まれる。 鎌倉女学院在学中の1929年(昭和4年)に15歳で父を喪う。1937年(昭和12年)武者小路実篤の新しき村で知り合った歯科医師の瀧本貞次郎と結婚し和歌山市に住んで、1940年(昭和15年)娘・夏子を儲ける(夏子の他に姉弟もいる)。戦後は東京に住むが、瀧本と別れ、年下の臼井幸四郎と結婚し、臼井は岸田姓を名のった。
杉全 直(すぎまた ただし、1914年3月26日 - 199… 杉全 直(すぎまた ただし、1914年3月26日 - 1994年1月23日)は、日本の洋画家。浦和画家。元東京芸術大学教授、多摩美術大学教授。東京都品川区出身。 洋画家であるが、東京美術学校系統のシュルレアリスムのグループで目立った活動をしていた「貌」に参加し、平面作品のみではなく、立体作品を中心に制作した時期もある。現代日本美術展、日本国際美術展などで優秀賞を受賞し、日本の抽象絵画をリードする一人となった。 2021年1月9日から3月28日まで三重県立美術館にて「ショック・オブ・ダリ ― サルバドール・ダリと日本の前衛」展が開催されサルバドール・ダリに影響を受けた日本の作家として杉全直他、 靉光、浅原清隆、池田龍雄、石井新三郎、小牧源太郎、斎藤長三、島津純一、白木正一、高山良策、難波架空像(香久三)、浜田浜雄、早瀬龍江、尾藤豊、福沢一郎、藤田鶴夫、古沢岩美、森堯之、矢崎博信、山下菊二、山本昌尚、吉井忠、米倉壽仁、渡辺武の24人とダリの作品が展示され、同年4月24日から6月27日まで諸橋近代美術館でも同展覧会が開催された 。
蔦谷喜一(つたや きいち、1914年2月18日 - 2005… 蔦谷喜一(つたや きいち、1914年2月18日 - 2005年2月24日)は、画家、塗り絵作家。東京都出身。 1914年(大正3年)、京橋の紙問屋「蔦谷音次郎商店」の9人兄弟の7番目(五男)として生まれる。 1931年(昭和6年)、東京市立京橋商業学校を中退し、画家を志し川端画学校で学ぶ。 1939年(昭和14年)、画家としてはなかなか芽が出ず、見兼ねた兄の口利きで25歳にして商売をすることになり、菓子店の経営者となるが、商才は全くなく、赤字により1年ほどで店を閉める。 1940年(昭和15年)、友人が持ち込んだ「ぬりえ」の仕事をフジヲの名で始める。フジヲは、夏目漱石の「虞美人草」の藤尾からとった。
小山田 二郎(おやまだ じろう、1914年(大正3年)1月1… 小山田 二郎(おやまだ じろう、1914年(大正3年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月26日)は、日本の洋画家。世相を皮肉的に風刺するシュールな油彩画や水彩画を多く描き、特に油彩ではペインティングナイフでキャンバスを傷つけるほど大胆な手法で描くことで知られる。曽祖父に黒羽藩士の小山田廣徳(辨助)、遠縁に日本画家の小堀鞆音がいる。 1914年(大正3年)、小山田廣志と妻まつの子として父の出張先である中華民国の満洲地域にある奉天省 安東県(現在の中華人民共和国遼寧省丹東市の東港市)で生まれる。翌年に両親から離れて祖父母の住む日本に引き取られ東京で暮らし始めるが、2歳の時スタージ・ウェーバー症候群を発症。
金子 徳衛(かねこ とくえ、1914年 - 1998年)は、… 金子 徳衛(かねこ とくえ、1914年 - 1998年)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家の一人。 兄は元蕨市市長の金子吉衛。浦和中学校(現:埼玉県立浦和高等学校)卒業後、東京美術学校油画科に入学。同級生には藤本東一良、柳宗理、1年先輩に渡辺武夫がいた。1947年の第三回日展では、審査員であり師の寺内萬治郎(同じく浦和画家)の肖像画「T先生の像」を出品し、特選を受賞した。また、萬治郎も弟子の金子の肖像画「画家K君の像」を展示し、師弟が互いの肖像画を展示するというのは文展以来の歴史の中でも無く、話題となった。作品の一部は埼玉県立近代美術館に収蔵されている。
木村 儀三郎(きむら ぎさぶろう、1914年 - 1978年… 木村 儀三郎(きむら ぎさぶろう、1914年 - 1978年)は、日本の画家。旧姓は川村。
徳永 春穂(とくなが しゅんすい、1914年 - 2005年… 徳永 春穂(とくなが しゅんすい、1914年 - 2005年)は岡山県を代表する日本画家である。得意は人物画であり、師匠は美人画で有名な伊東深水である。 また、岡山県和気郡和気町に本社を置く、生産数日本一を誇るこいのぼりメーカー徳永こいのぼりの創業者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
川面 稜一(かわも りょういち、1914年 - 2005年1… 川面 稜一(かわも りょういち、1914年 - 2005年1月9日)は、日本の日本画家、文化財修復技術者。古建築の彩色復原や障壁画・壁画の模写に従事し、建造物彩色の選定保存技術保持者として知られる。また、都をどりの舞台背景画制作にも長年携わった。 川面は、戦前から法隆寺金堂壁画模写事業に参加し、戦後は寺社建築の彩色復原、壁画・障壁画の現状模写・復原模写などに従事した。とくに、建築部材に残る彩色痕跡を調査したうえで修理・復原彩色を施す建造物彩色の分野で重要な役割を果たした。1997年には文部大臣から建造物彩色の選定保存技術保持者に認定された。 大阪市に生まれる。1934年、京都市立絵画専門学校を卒業した。
山口 蒼輪(やまぐち そうりん、1913年12月16日 - … 山口 蒼輪(やまぐち そうりん、1913年12月16日 - 1950年6月25日)は日本画家、本名は山口 肇。 長野県南安曇郡烏川村(現・安曇野市)の旧家に生まれる。幼少時から病弱であったが、日本画を赤羽雪邦、書を小穴喜一、修身・国語・漢文を浅井洌に学ぶ。1928年に上京し、日本美術学校で日本画を学ぶが一年余で中途退学する、その後は中村岳陵の弟子となり、蒼野社画塾に入塾、「蒼輪」の号を授かる。第17回院展に「草」で初入選し、以後は「菊」「果実」などで入選を重ね、1935年に院友に推挙された。1945年に帰郷し、農業に従事しながら、同志と「銀嶺会」を結成し、全信州美術展、長野県展などに出品したが、心臓麻痺により37歳で急逝した。
佐藤 太清(さとう たいせい、1913年〈大正2年〉11月1… 佐藤 太清(さとう たいせい、1913年〈大正2年〉11月10日 - 2004年〈平成16年〉11月6日)は、京都府福知山市出身の日本画家。本名は佐藤 實(さとう みのる)。 花鳥画と風景画を融合させた独自の花鳥風景画(かちょうふうけいが)を確立したことで知られる。日本画壇の重鎮として戦後の日展を支えたほか、晩年は福知山市佐藤太清賞公募美術展を福知山市と創設し、後進の育成に尽力した。 日展初入選は30歳と大変遅咲きだったが、1966年(昭和41年)第9回新日展に出品した「風騒」は、全く新しい画期的な日本画として絶賛され、文部大臣賞、日本芸術院賞をダブルで受賞し注目を浴びた。1980年(昭和55年)日本芸術院会員、1988年(昭和63年)文化功労者顕彰、1992年(平成4年)には文化勲章を受章。
富士 正晴(ふじ まさはる、本名:冨士正明、1913年10月… 富士 正晴(ふじ まさはる、本名:冨士正明、1913年10月30日 - 1987年7月15日)は、日本の小説家、詩人、版画家。多くの有名作家を輩出した『VIKING (同人誌)』の創刊同人であり、3度の芥川賞候補、直木賞候補となり、晩年は竹やぶに囲まれた自宅に引きこもって活動し、「竹林の隠者」と呼ばれた。毎日出版文化賞、大阪芸術賞、関西大賞大詩仙賞受賞。 徳島県三好郡山城谷村(現三好市)出身。両親はともに小学校の訓導をしていた。家族と神戸に転居し、神戸第三中学校卒業。 1931年旧制第三高等学校理科甲類に進学。志賀直哉を訪問したところ、竹内勝太郎を紹介されて師事する。1932年、野間宏(のちに富士の妹と結婚して義弟となる)や桑原静雄とともに、詩の同人誌『三人』を創刊。
遠藤 ミマン(えんどう ミマン、本名・遠藤滿男、1913年1… 遠藤 ミマン(えんどう ミマン、本名・遠藤滿男、1913年10月25日 - 2004年9月28日)は、日本の画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
桂 ゆき(かつら ゆき、1913年10月10日 – 1991… 桂 ゆき(かつら ゆき、1913年10月10日 – 1991年2月5日)は、日本の洋画家。 東京府東京市本郷区出身。本名は桂 雪子(かつら ゆきこ)。初めは「ユキ子」、1970年代頃から「ゆき」と称する。日本における前衛女性画家の先駆者であり、第一人者として前衛美術の基礎を築いた。戦前から逸早く先端的なコラージュの手法を、シュルレアリスムから距離をおきながら独自に展開し、生活用具や動物など実在と抽象的な形を混在させた独自の表現を探求した。フランス、アメリカ、アフリカなど世界各地へ滞在し、1962年には『女ひとり原始部落に入る アフリカ・アメリカ体験記』を上梓したほか、絵本の挿絵なども手掛け、動物をモチーフとした特徴的な作品を数多く制作した。
内田祥文(うちだ よしふみ、1913年10月 - 1946年… 内田祥文(うちだ よしふみ、1913年10月 - 1946年3月26日)は、日本の建築家、建築研究者、都市計画家、都市研究者。工学博士。戦時下で木造建築の防災などに、戦後は戦災都市復興に取り組んだが、急逝した。 東京市麻布区(現・東京都港区)にて建築家内田祥三(後に東京帝国大学総長)・みね子の長男として生まれる。 |旧制開成中学から日本大学予科を経て、1938年に日本大学工学部(現・日本大学理工学部・大学院理工学研究科)建築学科を卒業する。同1938年、東京帝国大学大学院に進学し、高山英華らと都市の研究を続ける。大学院在学中、東京帝国大学で助手をしていた経済学者•難波田春夫の思想に強い影響を受け国民住宅や労働者住宅などを計画した。
星 襄一(ほし じょういち、1913年9月27日 - 197… 星 襄一(ほし じょういち、1913年9月27日 - 1979年6月17日)は、日本の木版画家。国画会会員。日本版画協会会員。 新潟県北魚沼郡小出町(現・魚沼市)出身。台南師範学校を卒業後、台湾で初等教員を務め、終戦後に帰郷。後に上京し、1956年武蔵野美術学校を卒業。孔版画を習う。1949年、日本版画協会賞を受賞。木版画を学ぶ。1959年、国画賞受賞。1960年からは東京国際版画ビエンナーレ展に幾度か作品を出品。星座や雪、樹などを題材とした木版画作品を多く手掛けた。1979年、肺癌により千葉県八千代市の自宅で没した。65歳。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高田 誠(たかだ まこと、1913年9月24日 - 1992… 高田 誠(たかだ まこと、1913年9月24日 - 1992年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家、文化功労者。瑞宝章受章者。浦和画家の代表格として知られる。 埼玉県浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)常盤町の代々医者として知られていた旧家である高田家に生まれた。父は医師のほか民政党の県議会議員を務めた高田源八。兄に、医師であり浦和医師会会長、埼玉県産婦人科医会会長、浦和教育委員などを務めた高田進、弟に斎藤工業株式会社代表取締役社長、社団法人埼玉建設産業団体連合会初代会長、社団法人全国建設産業団体連合会会長などを務めた斎藤裕がいる。埼玉県立男子師範学校付属小学校の5、6年生のころに初めて油絵を制作している。
大内田 茂士(おおうちだ しげし、1913年 <大正2年> … 大内田 茂士(おおうちだ しげし、1913年 <大正2年> 9月24日 - 1994年 <平成6年> 2月1日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。位階は正五位。 福岡県朝倉郡大福村(朝倉町を経て、現 朝倉市)出身。1931年、福岡県立朝倉中学校(現 福岡県立朝倉高等学校)卒業。浜哲雄に画家となることを勧められ、高島野十郎らの指導を受ける。23歳で朝倉郡宝珠山小学校代用教員となり、翌年上京して東京新宿絵画研究所で学ぶ。1942年「静物」で国展入選、1943年「隈」が文展入選。1944年応召され、台湾で終戦を迎える。 戦後、父の教え子だった森部隆の後援を受け、1949年に後援会が結成された。示現会の創立に参加し、日展の審査員・評議員も務めた。
丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日… 丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)は、日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。 日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。また、日本人並びにアジア人として初めてプリツカー賞を受賞した人物である。
山田 正男(やまだ まさお、1913年8月1日 - 1995… 山田 正男(やまだ まさお、1913年8月1日 - 1995年)は日本の都市計画家。土木技術者。1930年代から1970年代の30年以上にわたり、東京都の道路計画の策定などに携わった。戦後の首都高速道路・東京外環自動車道の立案・設計に積極的に関与し、一時は「山田天皇」と呼ばれるほどの権勢を誇った。東京都建設局長・東京都首都整備局長・首都高速道路公団理事長などを歴任。 今日の東京の自動車専用道路網構築の立役者とも言え、東京都市計画史上では石川栄耀に次いで重要な人物とみなされている。 1937年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、4月から内務省都市計画東京地方委員会に勤務した。当時の上司は石川栄耀だった。
藤本 東一良(ふじもと とういちりょう、1913年6月27日… 藤本 東一良(ふじもと とういちりょう、1913年6月27日 - 1998年9月17日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。リズミカルな筆触、明快な色調の風景画を得意とした。 静岡県伊豆下田生まれ。生後間もなく大阪に移住。1930年、鹿子木孟郎、赤松麟作に師事する。1931年(昭和6年)大阪天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)卒業後、上京して川端画学校に学ぶ。1935年(昭和10年)東京美術学校入学。寺内萬治郎、藤島武二に師事。1937年(昭和12年)ポール・ゴーギャンに憧れて南洋旅行。1939年(昭和14年)光風会展で初入選、F氏賞を受賞、第3回海洋美術展でも海軍協会賞を受賞。1940年、東京美術学校を卒業、第4回海洋美術展で朝日新聞社賞を受賞。
門脇俊一(かどわき しゅんいち、1913年6月23日 - 2… 門脇俊一(かどわき しゅんいち、1913年6月23日 - 2006年)は、日本の画家、版画家。「現代の浮世絵師」とも呼ばれる。 1913年6月23日に、香川県三豊郡観音寺(現在の観音寺市八幡町)で門脇百太郎とみねの六男として生まれる。家は代々木材彫を営んでいた。 1994年にフランス国立高等美術学校(パリ)にて開催した個展がきっかけとなって、1995年8月、セントビンセント・グレナディーンから木版画「不動明王」の郵便切手が発行された。
山元 恵一(やまもと けいいち、1913年(大正2年)5月1… 山元 恵一(やまもと けいいち、1913年(大正2年)5月13日 - 1977年(昭和52年)11月)は、沖縄県出身の洋画家。 那覇市西村生まれ。父親は警察官。沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に進学、「樹緑会」に属し美術教師の比嘉景常から指導を受ける。卒業後、反対を押し切り上京し、東京美術学校を受験するが失敗、川端画学校に入り木炭によるデッサンを習得した。 1933年(昭和8年)、東京美術学校油画科に入学し、シュルレアリスムのグループ〈貌〉に加わる。1938年(昭和13年)、東京美術学校油画科を卒業。1941年(昭和16年)、比嘉景常の後任の美術教師として県立第二中学校に赴任する。
武田 範芳(たけだ のりよし、1913年4月28日 - 19… 武田 範芳(たけだ のりよし、1913年4月28日 - 1989年7月29日)は、北海道旭川市出身の洋画家。色の魔術師と呼ばれた国際的な画家である。エーゲ海をはじめて描いた作家でもあり、1960年代より国際展に出品し多くの国際賞を獲得した。フランス美術家連盟会員。ル・サロンフランス政府展 金 銀 銅 受賞。長男は俳優の武田光太郎。6親等に武田真治がいる。 1913年4月28日、北海道旭川生まれ。小学校のときに応募した水彩画公募展の審査員であった上野山清貢にほめられたことを契機に画家を志す。1932年、北海道庁立永山農業学校(現北海道旭川農業高等学校)林学科を卒業して上川支庁林務課に勤務し、大雪山自然林の保護に携わる。
金 煥基(キム・ファンギ、朝鮮語: 김환기、1913年4月3… 金 煥基(キム・ファンギ、朝鮮語: 김환기、1913年4月3日〈太陰暦: 1913年2月27日〉 - 1974年7月25日)は、大韓民国の洋画家。全羅南道新安郡の安佐島(朝鮮語版)出身。 本貫は金海金氏。号は樹話(スファ、수화)。金 煥其(読み、ハングル同じ)という表記も見られる。卞東琳の夫であった。 日本統治時代の全羅南道新安郡に生まれた。1936年に日本大学美術学部卒業。その後吉鎮燮などと白蛮会を組織する一方、東京で個展を開いた。1946年から1949年までソウル大学校美術大学で教授を務め、新写実派展に出品した。幾度となく国展審査委員を務め、1952年に弘益大学校美術大学教授、1954年に芸術院の会員となった。
篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年… 篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年〈大正2年〉3月28日 - 2021年〈令和3年〉3月1日)は、日本の美術家、版画家、エッセイスト。 映画監督の篠田正浩は従弟、建築家の若山滋は甥にあたる。 日本の租借地だった関東州大連に生まれる。父の篠田頼治郎は東亜煙草の大連支社長で、職場と自宅があったジョサイヤ・コンドル設計の元ロシア帝国の3階建洋館で三男四女の第五子として生まれ、満洲子と命名された。 2歳で東京に戻り、5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。 1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。
麻生 三郎(あそう さぶろう、1913年(大正2年)3月23… 麻生 三郎(あそう さぶろう、1913年(大正2年)3月23日 - 2000年(平成12年)4月5日 )は、東京都生まれの洋画家である。 武蔵野美術大学名誉教授。戦中戦後を通して焼けただれ、焦げ付いたような暗褐色に彩られた家族を中心とした人物像や自己の内面を解体デフォルメし、闇の中から浮かび上がるように描き出す作風で知られる。彫刻家の麻生マユは実娘。 1913年(大正2年)3月23日、東京市京橋区本湊町(現在の東京都中央区湊)に麻生惣兵衛、喜代の三男(3男3女の4番目)として生まれる。麻生家は100年以上の歴史をもつ炭問屋、屋号は「山惣」。実家は当時築地の居留区があった明石町にほど近く、洋館が立ち並ぶその場所に麻生は毎日通い、お小遣いでラスクやレーズンなどを買っていた。
萩原 英雄(はぎわら ひでお、1913年〈大正2年〉2月22… 萩原 英雄(はぎわら ひでお、1913年〈大正2年〉2月22日 - 2007年〈平成19年〉11月4日)は、日本の画家、版画家。油彩画、現代木版画などを描く。 1913年(大正2年)2月22日、山梨県甲府市相生町(現在の甲府市宝一丁目)に生まれる。父は元治郎・母は「ふじ」、英雄は元治郎の次男。父の元治郎は警察署長を務め、蔵書家としても知られ、現在の山梨県笛吹市境川町の出身である俳人の飯田蛇笏(いいだ だこつ)とも親交があった。 1920年(大正9年)、元治郎は日本統治下の朝鮮・定州の警察署長として単身赴任し、翌1921年(大正10年)には家族を呼び寄せ英雄も朝鮮へ渡る。1929年(昭和4年)には単身で日本へ帰国し、東京の日本大学第二中学校(現・日大二高)に編入する。
中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年〈大正2年〉2月… 中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年〈大正2年〉2月16日 - 1983年〈昭和58年〉4月19日)は、日本の画家、ファッションデザイナー、編集者、イラストレーター、人形作家。 妻は宝塚歌劇団元男役トップスターの葦原邦子。長女芙蓉、長男洲一、次男蒼二、次女すみれの二男二女があり、長男は画家。姪はシャンソン歌手の中原美紗緒。俳優・声優の加古臨王は孫。 先祖は物部姓中原氏といわれる。 幼少の時より絵や造形に才能を示し、18歳の時、趣味で作ったフランス人形が認められて東京の百貨店で個展を開催。それがきっかけで雑誌『少女の友』の挿絵、口絵、表紙絵、付録等を手掛けるようになり、一世を風靡する人気画家となる。
松田 正平(まつだ しょうへい、1913年1月16日 - 2… 松田 正平(まつだ しょうへい、1913年1月16日 - 2004年5月15日)は、日本の洋画家。山口県宇部市出身。 1913年、島根県鹿足郡青原村(現・津和野町)で久保田家の二男として出生するが、8歳のころに山口県宇部市の松田家の養子となる。 神原尋常小学校を経て旧制宇部中学(後の山口県立宇部高等学校)に入学。卒業後は上京して川端画学校に通う。2年の浪人生活を経て1932年に東京美術学校西洋画科に入学し藤島武二教室に学んだ。1学年上に同じ山口出身の香月泰男がいた。 美校卒業してまもない1937年10月に渡欧、パリのアカデミー・コラロッシュでデッサンを学ぶ。1939年に帰国した後、1940年第15回国画会展に出品するも落選、同年宇部市の緑屋百貨店で滞欧作展を開催する。
高田 正二郎(たかだ しょうじろう、1913年1月13日 -… 高田 正二郎(たかだ しょうじろう、1913年1月13日 - 1989年7月4日)は、日本の洋画家、グラフィックデザイナー。 東京都日本橋区の寿司屋の次男として生まれる。 東京都立第三中学校在学中に日本パステル画会に入会、洋画家の矢崎千代治(やざき ちよじ)に師事。1929年卒業。 1930年頃に従兄で彫刻家の吉田久継(よしだ きゅうけい)や東京美術学校教授の島田佳矣(しまだ よしなり)、同助教授の千頭庸哉(ちかみ ようさい)にデザインや鉛筆画を学ぶ。 1931年、東京美術学校図案科入学。和田三造、広川松五郎に師事。 1932年に東京湾汽船、キッコーマンの広告懸賞に入選したのを皮切りに各コンクールで入賞・受賞を重ねる。
片岡 誓(かたおか ちかい、1913年 - 1997年)は洋… 片岡 誓(かたおか ちかい、1913年 - 1997年)は洋画家、二紀会同人、サロン・ド・パリ委員、日本美術家連盟会員。 1913年岡山県真庭郡中和村(現:真庭市)で片岡家の7人兄弟の末っ子として生まれる。幼少より県の絵画展などで特賞を取るなどし、将来、画家を目指そうと幼心に決意。 姫路師範学校(現:神戸大学)で教師の資格を得、教鞭をとる一方で、二紀会の田村孝之介に師事する。抽象画に新たな表現法を見出し、神戸二紀会の有望若手画家として活躍。毎年東京で個展を開催し高い評価を得る。 その後、イタリア・ローマ美術院館長の招聘により渡欧、ほどなくパリに下宿しモンパルナスのアカデミー・グランショミエールに学び、西洋絵画の本場で学ぶうちに後期印象派、とり分けアンリ・マティスに惹かれ、色彩豊かな画風を確立していった。
鎌田 正蔵(かまた まさぞう、1913年 - 1999年)は… 鎌田 正蔵(かまた まさぞう、1913年 - 1999年)は、日本の洋画家、シュールレアリズム(超現実主義)運動画家。 福島県立美術館、郡山市立美術館、小野町ふるさと文化の館美術館
河野 扶(かわの たすく、1913年(大正2年)- 2002… 河野 扶(かわの たすく、1913年(大正2年)- 2002年(平成14年)8月14日)は、日本の洋画家。
栗山 茂(くりやま しげる、1912年11月18日 - 20… 栗山 茂(くりやま しげる、1912年11月18日 - 2010年9月9日)は、日本の版画家。紐版画や紙版画など多彩で自在な試みを展開した。日本版画協会名誉会員。静岡県版画協会名誉会長。 静岡市鷹匠町に生まれる。雑誌『若草』で竹久夢二の絵にふれて憧れ、 同じ頃木版画を試作。のち青木四郎を介して知った浦田儀一の父(摺師)から版画の手ほどきを受ける。平塚運一や永瀬義郎の技法書にも学ぶ。1929年秋、小川龍彦、中村岳(仲蔵)、杉山正義、青木四郎とともに童土社結成。同年10月、童土社創作版画展第1回展開催。 1930年、中学卒業記念に同人誌『艸笛』を創刊、友人とともに版画や童謡、詩を寄せる。同年末、それぞれ個々に 版画誌を主催していた小川の『まるめろ』と中村の『有加利樹』に『艸笛』を統合、新たに『ゆうかり』を創刊。
吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元年)10月2… 吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元年)10月21日 - 2001年(平成13年)11月29日)は、東京都出身の日本の日本画家、教育者。本名誠二郎。
川島 宙次(かわしま ちゅうじ、1912年10月15日 - … 川島 宙次(かわしま ちゅうじ、1912年10月15日 - 1998年)は、日本の民家研究家・画家。 東京生まれ。1932年大阪市立都島工業学校建築科卒。一級建築士。大林組に入り、住宅部長、大林ハウジング取締役を歴任。欧米、東南アジア諸国を歴訪し住居建築を研究。1990年第1回竹内芳太郎賞受賞。日本民族建築学会評議員、東京民芸協会会員、日本美術家連盟会員。
守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10… 守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10日 - 2003年(平成15年)12月22日)は、岐阜県大垣市出身の日本画家。本名は守屋 正(もりや ただし)。元愛知県立芸術大学教授。文化功労者。文化勲章受章。 1912年(大正元年)、岐阜県大垣市船町の味噌たまり製造元「四代目孫八」の四男(11人兄弟の8番目)として生まれる。生後100日目、分家守屋貞吉(大垣市桐ヶ崎町の米穀商)へ養子に出される。1930年(昭和5年)、岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業。上京し、同郷の前田青邨に師事。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科に入学。在学中に特待生となる。
長松 太郎(ながまつたろう、1912年(大正元年)8月7日 … 長松 太郎(ながまつたろう、1912年(大正元年)8月7日 - 1978年(昭和53年)10月24日)は、広島市建設局長、広島市助役、広島ステーションビル社長を歴任した日本の都市計画家。造園家。日本公園緑地協会で沖縄国際海洋博海浜公園基本計画委員会委員長、広島市河岸緑地整備計画設計協議会委委員も委嘱。設計策定にあたった。豪放な性格で酒を好み周囲から慕われていたという。 父親は戦前日本の植物学者で学習院大学教授、東京海上火災保険社長、貴族院議員を務めた長松篤棐で、長男として生まれる。妻は古市六三の長女。母方祖父に古市公威。 学習院を経て1936年(昭和11年)東京帝国大学農学部を卒業し、内務省神社局に勤める。
里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 19… 里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 1974年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家のひとり。 熊谷中学校出身。浦和画家の須田剋太と同じく光風会に所属し、浦和市(現・さいたま市南区)の別所沼畔にアトリエを構え、須田のアトリエと隣り合っていた。別所沼対岸(稲荷台)の林倭衛のアトリエにも須田としばしば訪れた。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。新文展に初入選で特選を受賞した。県北美術家協会会長、熊谷市教育委員長などを歴任し、文化の振興にも貢献した。作品は埼玉県立近代美術館に所蔵されている。
楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月1… 楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月14日 - 1996年頃)は、日本の造園系都市計画家。 本人の文章によると、東京帝国大学農学部において、菊竹倉二と同じ研究室に所属していたという。 建設省計画局都市計画課や施設課長、大阪府土木部計画課技師、千葉市建設局等を歴任した。1958年当時は「協和コンサルタンツ顧問」であった。その後、社団法人日本緑化センター常務理事を務める[要出典]。 1978年に第5回日本公園緑地協会北村賞を受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。