今城 誼子(いまき よしこ、1907年〈明治40年〉6月 -… 今城 誼子(いまき よしこ、1907年〈明治40年〉6月 - 1993年〈平成5年〉2月12日)は、日本の華族。香淳皇后付の女官。今城定政子爵の長女。 女子学習院高等科卒業、1929年より当時の皇太后(貞明皇后)に出仕、「浜菊掌侍」という源氏名で呼ばれた。皇太后は宮中祭祀に熱心で、旧来の皇室の慣習を厳格に守る人物であり、今城は出仕中に強くその考えに傾倒したものと思われる。1951年の皇太后の崩御後、当時の侍従次長・甘露寺受長の紹介で香淳皇后に出仕することとなった(女官昇任は1953年4月10日)。皇后の信頼が極めて厚くなり、それを背景に宮中で強い影響力を振るうに至ったが、入江相政(1969年〈昭和44年〉 - 1985年〈昭和60年〉まで侍従長)ら昭和天皇付の側近と対立、最終的には昭和天皇の支持を得た天皇側近たちによって、1971年(昭和46年)、自主退職に追い込まれる。
川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日(光緒33… 川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日(光緒33年4月12日) - 1948年3月25日)は、清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。 8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長の斎藤恒の媒酌で蒙古族のカンジュルジャブと結婚式をあげた。カンジュルジャブは、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵し、1916年に中華民国軍との戦いで戦死したバボージャブ将軍の次男にあたり、早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学していた。
朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年… 朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1947年〈昭和22年〉6月28日)は、日本の皇族。伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子。久邇宮朝融王の妃。香淳皇后の義姉。 1907年(明治40年)5月18日午前10時45分、伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子(第6子)として誕生。15分先に生まれた敦子女王(清棲幸保伯爵夫人)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である。双生児であることは誕生当初から公表され、2人は引き離されることなく、ともに養育された。1925年(大正14年)に結婚し、朝融王妃となる。
清棲 敦子(きよす あつこ、1907年〈明治40年〉5月18… 清棲 敦子(きよす あつこ、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1936年〈昭和11年〉2月24日)は、日本の元皇族。伯爵清棲幸保夫人。伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子。旧名は、敦子女王(あつこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1907年(明治40年)5月18日午前10時30分、伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子(第5子)として誕生。15分後に生まれた知子女王(久邇宮朝融王妃)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である。双生児であることは誕生当初から公表され、2人は引き離されることなく、ともに養育された。
陸奥 イアン 陽之助(むつ イアン ようのすけ、1907年(… 陸奥 イアン 陽之助(むつ イアン ようのすけ、1907年(明治40年)1月14日 - 2002年(平成14年)10月30日)は、日本のジャーナリスト、映画監督・プロデューサー、実業家、華族(伯爵)。インタナシヨナル映画社の創業者。身長180cm。 勲功華族の陸奥家に生まれる。父は陸奥宗光の長男で2代伯爵の陸奥廣吉。母はイギリス出身のイソ(ガートルード・エセル・パッシングハム)。日本名の陽之助は祖父・宗光の通称でもあった。廣吉が外交官としてロンドンに赴任していた時のアパートで午後11時20分に誕生した。誕生の際には2人の医者ブラントとアディルセンが付き添った。3歳の時に初来日する。家のあった鎌倉の小学校や学習院初等科への入学を考えたが「アイノコ」といじめられていたため断念、家庭教師に学んだ。
伊達 興宗(だて おきむね、1906年(明治39年)10月2… 伊達 興宗(だて おきむね、1906年(明治39年)10月20日 - 1947年(昭和22年)7月2日)は、日本の華族(伯爵)。伊達宗家第32代当主。 1919年(大正8年)3月、学習院初等科を卒業。1923年(大正12年)5月、父の死去により伊達伯爵家を継いだ。その後、東京農業大学に進学する。没後、夫人が伊達家の所有する山林を勝手に売却するなど横暴な振る舞いをして、親族と争いごとに発展したとされ、世間で「新伊達騒動」と言われ注目された。 朝宗 - 宗村 - 義広 - 政依 - 宗綱 - 基宗 - 行宗 宗遠 - 政宗 - 氏宗 - 持宗 - 成宗 - 尚宗 - 稙宗 - 晴宗 - 輝宗 政宗 - 忠宗 - 綱宗 - 綱村 - 吉村 - 宗村 - 重村 - 斉村 - 周宗 - 斉宗 - 斉義 - 斉邦 - 慶邦 - 宗基 邦宗 - 興宗 - 貞宗 - 泰宗 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
明石 元長(あかし もとなが、1906年(明治39年)9月1… 明石 元長(あかし もとなが、1906年(明治39年)9月19日 - 1949年(昭和24年)7月2日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府で陸軍将校・明石元二郎の長男として生まれる。1918年(大正7年)父が台湾総督に就任すると、家族の中でただ一人台湾に渡ったが、1919年(大正8年)10月、父が病のため死去し、同年11月29日、男爵を襲爵、小学校卒業まで台湾に留まった。明石家に資産がなく遺族の今後のため下村宏総督府総務長官ら有志が「明石財団」を設立した。また、当時の台湾総督府専売局長・賀来佐賀太郎が元長の教育を援助し、賀来の子息たちとともに学習院で学んだ。1931年(昭和6年)東北帝国大学法文学部を卒業した。
大谷 智子(おおたに さとこ、1906年〈明治39年〉9月1… 大谷 智子(おおたに さとこ、1906年〈明治39年〉9月1日 - 1989年〈平成元年〉11月15日)は、日本の元皇族、華族。久邇宮邦彦王と同妃俔子の第3王女子。東本願寺第24世法主・大谷光暢伯爵夫人。東本願寺裏方。旧名は、智子女王(さとこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。香淳皇后の妹であり、第125代天皇・明仁(上皇)の叔母、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大叔母にあたる。 1906年(明治39年) 9月1日午後7時30分、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第3王女子(第5子)として誕生。御七夜の9月7日に「智子」と命名された。 久邇宮家は兄弟も多く、財政的にゆとりがある状況ではなかった。
西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉… 西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉7月20日 - 1997年〈平成9年〉10月12日)は、日本の政治家、華族。位階は正三位。 法務大臣、参議院議員、貴族院議員。侯爵。西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。 鹿児島県で生まれ、東京で育つ。学習院を経て、東北帝国大学経済学科卒業。学習院時代の同期には日中戦争で戦死した南郷茂章などがいた。祖父隆盛と同じく、堂々とした体躯で知られた。 興銀に入り、その後は南方開発金庫の参事、ジャワ支金庫業務課長を経て、貴族院議員(1936年(昭和11年) - 1947年(昭和22年))、1947年鹿児島県選挙区より参議院議員に当選。以後当選4回。
松本 鼎一(まつもと ていいち、1906年(明治39年)5月… 松本 鼎一(まつもと ていいち、1906年(明治39年)5月31日 - 1986年(昭和61年)12月7日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍・大阪府。華族・松本春造の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1927年(昭和2年)6月15日、男爵を襲爵した。 1931年(昭和6年)3月、京都帝国大学法学部を卒業した。同年、三井生命保険に入社。その後、日産自動車、自動車統制会(参事)、日産重工業で勤務した。 1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
土屋 尹直(つちや ただなお、1906年(明治39年)5月1… 土屋 尹直(つちや ただなお、1906年(明治39年)5月13日- 1979年(昭和54年)9月24日)は、昭和期の実業家、宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・堤、旧名・忠雄。 華族・堤雄長の三男として生まれ、子爵・土屋正直の養子となる(剱沢小屋雪崩事故で正直の嫡男土屋秀直が死亡した事による)。1938年(昭和13年)12月28日、尹直と改名した。養父の死去に伴い、1939年(昭和14年)1月16日に子爵を襲爵した。 1930年(昭和5年)、東京商科大学を卒業し、三井物産本社に入社。以後、三輪銀行常任監査役、同頭取、式部官兼主猟官、兼内大臣秘書官などを務めた。 1945年(昭和20年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
朽木 綱博(くつき つなひろ、1905年(明治38年)11月… 朽木 綱博(くつき つなひろ、1905年(明治38年)11月13日 - 1963年(昭和38年)6月13日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・池田、旧名・博久。 陸軍将校・池田仲博の三男として生まれ、陸軍少将・朽木綱貞の養子となる。養父の死去に伴い、1930年4月1日、子爵を襲爵した。 1931年、東京帝国大学文学部を卒業。松竹興業社長秘書、東京宝塚劇場嘱託、参謀本部嘱託などを務めた。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月2… 筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月25日 - 1978年〈昭和53年〉3月20日)は、日本の元皇族。旧華族。山階宮菊麿王第3王子。靖国神社第五代宮司。位階勲等は従三位勲一等侯爵。皇族時代の名と身位は藤麿王。 1905年(明治38年)2月25日午後10時15分、山階宮菊麿王の第3王子として誕生。御七夜の3月3日に「藤麿」と命名された。 1925年(大正14年)2月25日、皇族として貴族院議員に就任。同年3月23日勲一等旭日桐花大綬章受章。 皇族男子として初めて皇族軍人としての義務を免除され、東京帝国大学国史学科で黒板勝美に師事する。義務を免除された理由は、明治天皇により、将来、伊勢の神宮の祭主となることが定められていたためとされる。
岩倉 具正(いわくら ともまさ、1905年(明治38年)1月… 岩倉 具正(いわくら ともまさ、1905年(明治38年)1月24日 - 1964年(昭和39年)7月31日)は、昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府出身。子爵・岩倉具明の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1938年(昭和13年)2月1日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1933年(昭和8年)東京帝国大学文学部支那哲学科を卒業。宮内省勤務、国際電気通信会社員を務めた。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選したが、翌月14日に辞職した。
高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年… 高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。 大正天皇と貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。 当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。 高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。
伊達 宗彰(だて むねあき、1905年 - 1969年)は、… 伊達 宗彰(だて むねあき、1905年 - 1969年)は、日本の華族、政治家・実業家。
加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治… 加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治37年)12月8日 - 1976年(昭和51年)11月21日)は、日本の洋画家、華族。光風会会員。旧名・島津 久幹。 鹿児島県出身。重富島津家(薩摩島津氏の主要分家)の男爵・島津壮之助の二男として生まれる。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)で大牟礼南島に、東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科で藤島武二に師事。1928年に東京美術学校を卒業。加藤子爵家(元近江水口藩主家、加藤嘉明系)の加藤克明の婿養子となる。 1957年、光風会会員となる。橋口康雄(橋口五葉の甥)や山口長男の上杜会に加わったことや、猪熊弦一郎と三春会をつくったこともある。
佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 19… 佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 1989年1月19日)は、日本の実業家・華族(男爵)。東洋製作所社長。 佐竹東家(旧出羽秋田藩主・佐竹氏の分家)第23代当主・佐竹義準男爵の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。1924年、父の死に伴い家督を継ぎ、男爵を襲爵。 東京高等師範学校附属中学校、旧制水戸高等学校を経て、1930年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、三菱航空機名古屋製作所に入社した。就職先に三菱系の企業を選んだのは妹の操子が三菱財閥の創業者一族・岩崎彦弥太に嫁いでいることが関係していたと考えられている。三菱重工業、東洋機器製作所勤務を経て東洋製作所の社長に就任。
松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8… 松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8月16日 - 1968年(昭和43年)3月16日)は、昭和期の法学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・松平親信の長男として生まれる。父の死去に伴い、1915年(大正4年)1月11日、子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)学習院高等科を卒業し、1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部を卒業。1930年(昭和5年)陸軍省嘱託となる。以後、拓務省嘱託、貴族院事務局嘱託、外務大臣秘書官付嘱託などを務めた。 1941年(昭和16年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
池田 宣政(いけだ のぶまさ、1904年(明治37年)7月1… 池田 宣政(いけだ のぶまさ、1904年(明治37年)7月1日 - 1988年(昭和63年)1月9日)は、昭和期の政治家、実業家、華族。侯爵、貴族院議員。旧岡山藩池田家第15代当主。初名は政鈞。 岡山県岡山市で、旧岡山藩主家13代当主、侯爵・池田詮政の三男として生まれる。学習院高等科で学んだ。兄で先代の池田禎政がスペインかぜのため26歳で早世し、未婚により子供がいなかったため1920年(大正9年)家督を相続し、同年3月10日、侯爵を襲爵した。1925年(大正14年)欧米各国を視察した。 1934年(昭和9年)6月30日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任。農林省委員、農商務省委員、厚生省行政委員、帝国飛行協会(現日本航空協会)理事などを務めた。
水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月2… 水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の華族(子爵)・政治家・中国研究者。水野家(旧結城藩)第19代当主。旧名は邦で、1924年(大正13年)11月26日、勝邦に改名した。 1928年(昭和3年)に学習院を卒業、東京帝国大学文学部に進学して中国に関する研究を行った。外務省派遣中華民国調査員、専修大学講師、外務省在支特別研究員、北支那開発会社調査局嘱託などを歴任。北平(現在の北京)に「水野公館」を開設し日中外交に携わると共に、中国各地を調査し多くの報告書、論文を執筆した。 1939年(昭和14年)7月10日に貴族院子爵議員に選出され、院内会派研究会所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
青木 重夫(あおき しげお、1904年〈明治37年〉4月17… 青木 重夫(あおき しげお、1904年〈明治37年〉4月17日 - 1961年〈昭和36年〉6月8日)は、昭和期の実業家、農林業経営者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍・栃木県。農業経営者・青木梅三郎(杉孫七郎三男)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1941年(昭和16年)10月15日、子爵を襲爵した。 1930年(昭和5年)、東北帝国大学法文学部を卒業。1932年(昭和7年)、日本生命保険に入社し、その後、常磐簡易火災保険副支配人、日本火災保険副支配人、日本火災海上保険支配人を務めた。その他、栃木県那須郡高林村(現:那須塩原市)で農林業の経営を行う。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
三条西 信子(さんじょうにし のぶこ、1904年〈明治37年… 三条西 信子(さんじょうにし のぶこ、1904年〈明治37年〉3月30日 - 1945年〈昭和20年〉11月8日)は、日本の元皇族、華族。久邇宮邦彦王と同妃俔子の第2王女子。三条西公正侯爵夫人。旧名は、信子女王(のぶこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。香淳皇后の妹であり、第125代天皇・明仁(上皇)の叔母、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大叔母にあたる。 1904年(明治37年)3月30日午前3時、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第2王女子(第4子)として誕生。御七夜の4月5日に「信子」と命名された。 久邇宮家は兄弟も多く、財政的にゆとりがある状況ではなかった。こうした中、姉良子女王と妹智子女王は年齢も近く、何事も一緒に過ごした。
岩倉 具栄(いわくら ともひで、1904年〈明治37年〉2月… 岩倉 具栄(いわくら ともひで、1904年〈明治37年〉2月8日 - 1978年〈昭和53年〉11月2日)は、日本の英文学者、華族、政治家。東京府出身。貴族院議員。法政大学教授。D・H・ローレンスの研究者。岩倉家第18代当主。勲等は勲三等。その他の栄典は藍綬褒章。爵位は公爵(華族制度廃止まで)。 公爵岩倉具張の長男として、東京府荏原郡上目黒の西郷従徳邸に誕生。当時、父は東京帝国大学の学生だった。父方の曾祖父は岩倉具視で母方の祖父は西郷従道。東京府東京市麹町区に育つ。 父具張が投機に失敗して多額の負債を作ったため、責任を取って官職を辞し、1914年(大正3年)8月29日に隠居。このため、1914年(大正3年)9月5日、学習院初等科5年在学中の具栄が公爵の爵位を継承。
久我 通顕(こが みちあき、1903年〈明治36年〉10月2… 久我 通顕(こが みちあき、1903年〈明治36年〉10月23日 - 1982年〈昭和57年〉11月10日)は、日本の華族。旧公卿家。侯爵。貴族院議員。女優久我美子の父。 久我常通の長男として生まれる。1936年(昭和11年)父退隠の後を承け、家督を相続する。國學院大學国文学科卒業。 1943年(昭和18年)内務省委員となり後近代商業美術協会長に就任 戦前、国語の教師をしたこともあったが、ほとんど仕事はしなかった。 華族の娘と一緒になるのはいやで、粋筋に通じた下町娘を好んだという。じっさい遊びでも華族ではアカ抜けていたほうで、下情にも通じていた。父常通も通顕も戦前は決まった職業を持たなかった。妻与志江によれば「遊び人の血筋なんでしょうか。
島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年〈明治36年〉5月1… 島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年〈明治36年〉5月19日 - 1990年〈平成2年〉8月26日)は、日本の華族。玉里島津家第3代当主。位階・勲等・爵位は正三位勲一等公爵。第8代日本赤十字社社長、結核予防会会長などを歴任した。 1903年(明治36年)5月19日、島津忠済の長男として、東京市麹町区三年町に生まれる。学習院女子部幼稚園に入る。学習院初等科、中等科、高等科を卒業。1915年(大正4年)、初等科在学中に父・忠済が58歳で死去して、家督を継ぐ。 1926年(大正15年)、京都大学文学部に入学、のち法学部に移り、在学中に結婚し、1930年(昭和5年)に卒業。同年、日本赤十字社本社に「社会事業調査の嘱託」として入社し、調査部に勤務。
恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36… 恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36年〉5月16日 - 1995年〈平成7年〉3月23日)、のちに賀陽 敏子(かや としこ)は、日本の旧皇族。賀陽宮恒憲王の妃。九条道実公爵令嬢。貞明皇后は叔母、昭和天皇は従兄にあたる。戦後皇籍離脱。
大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月… 大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月11日 - 1974年(昭和49年)4月17日)は、日本の昭和時代の華族、陸軍軍人、政治家(第5代〜第8代大村市長)。大村家第33代当主。大村市名誉市民。 父大村純英が陸軍軍人として赴任中の静岡県静岡市で誕生、ほどなく東京へ移る。 学習院初等科で院長であった乃木希典の薫陶を受け、学習院中等科を経て陸軍中央幼年学校へ入り、1924年(大正13年)7月に陸軍士官学校本科卒業(第36期)。同年10月に砲兵少尉任官。以後、砲兵部隊中心に軍歴を重ねる。最終的には野戦重砲第八連隊付を経て中佐に昇進した。1933年(昭和8年)6月、父の死没に伴い伯爵を襲爵。
武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、190… 武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の皇族、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女、山階宮武彦王の妃。 1903年(明治36年)3月30日午後5時、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女子(第3子)として誕生。京都府立第一高等女学校を卒業。 1921年(大正10年)2月、山階宮武彦王と婚約が内定したと報じられたが、複数回延期された。1922年(大正11年)7月19日午前9時に結婚の儀を執り行い、山階宮武彦王と結婚した。 翌1923年(大正12年)9月1日、佐紀子女王は第1子を懐妊し、母・好子妃とともに神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜別邸で静養していたところ、関東大震災で別邸が崩壊し、同日薨去した。
香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6… 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6日 - 2000年〈平成12年〉6月16日)は、日本の第124代天皇・昭和天皇の皇后(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は、良子(ながこ)。お印は、桃。 久邇宮家出身の生まれながらの皇族であり、誕生から昭和天皇の践祚以前は、名と身位は「良子女王(ながこじょおう)」と称され、皇室典範における敬称は「殿下」であった。 1924年(大正13年)1月26日に摂政宮皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)と成婚し、2男5女を儲けた。1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御及び昭和天皇の践祚に伴い、皇后に冊立された。
錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1… 錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1903年〈明治36年〉2月19日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・在孝。 子爵・唐橋在正の五男として生まれる。叔父、子爵・錦小路在明の死去に伴い、その家督を継承して頼孝と改名し、1912年(明治45年)6月10日に子爵を襲爵した。 1927年(昭和2年)東京帝国大学文学部を卒業した。1928年(昭和3年)東京府立園芸学校教諭に就任。その他、逓信省委員、運輸通信省委員、歌会始講頌などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2… 蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉5月14日)は、日本の鳥類学者、華族(侯爵)、貴族院議員、探検家、飛行家。絶滅鳥ドードー研究の権威として知られた他、沖縄本島と宮古島との間に引かれた生物地理学上の線である蜂須賀線に名をとどめている。徳川家斉の玄孫。 旧徳島藩藩主・蜂須賀家の当主。蜂須賀小六から数えて第18代目にあたる。 1903年(明治36年)2月15日、東京で誕生した。父・蜂須賀正韶は侯爵、貴族院副議長。母・筆子は徳川慶喜の四女。長姉・年子はデザイナー。 学習院初等科に入った頃から生物に著しい関心を示し、先輩の黒田長禮に出会ってから鳥類学に志す。
前島 勘一郎(まえじま かんいちろう、1903年(明治36年… 前島 勘一郎(まえじま かんいちろう、1903年(明治36年)2月13日 - 1981年(昭和56年)2月25日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 実業家・前島彌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1935年(昭和10年)7月1日、男爵を襲爵した。 1929年(昭和4年)東京帝国大学農学部を卒業。1936年、早稲田大学出版部理事となる。その他、肥田製作所取締役などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
吉川 重国(きっかわ しげくに、1903年(明治36年)2月… 吉川 重国(きっかわ しげくに、1903年(明治36年)2月9日 - 1996年(平成8年)3月16日)は、日本の宮内省官僚、華族。岩国藩主吉川家分家の人物。父は吉川重吉、兄に吉川本家の家督を継いだ吉川元光。妻は福井松平家分家の子爵松平慶民の次女、綾子。従四位男爵。 吉川重吉の次男として東京で生まれる。京都帝国大学卒業後の大正5年(1916年)に男爵となった。東洋拓殖に勤務の後、昭和2年(1927年)からヨーロッパへ留学。帰国後、宮内省に入省し、式部官狩猟官となる。昭和16年(1941年)には課長に昇進。 戦後は宮中儀礼の専門家として活動。昭和28年(1953年)のエリザベス2世戴冠式出席の皇太子明仁親王に随行した。
伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月2… 伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月22日 - 1955年(昭和30年)3月17日)は、日本の華族、造園家、園芸家。吉田伊達家12代当主。旧名は定(さだ)。 東京生まれ、子爵伊達宗定の二男で、前当主の子爵伊達宗起の弟。伊達定清、伊達定継の父。 1925年(大正14年)東京農業大学本科卒業後、匠生として宮内省内匠寮工務課庭園係に勤務した。1929年(昭和4年)に宮内技手補、次いで1933年(昭和8年)宮内技手となった。 1934年(昭和9年)9月20日に分家したが、兄宗起が1940年に34歳で死去したことに伴い本家に復籍し、1941年(昭和16年)6月16日に子爵を襲爵した。
斯波 正夫(しば まさお、1902年(明治35年)12月13… 斯波 正夫(しば まさお、1902年(明治35年)12月13日 - 1983年(昭和58年)12月18日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京帝国大学教授・斯波忠三郎の長男として生まれる。父の死去に伴い、1934年(昭和9年)11月1日、男爵を襲爵した。 1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部を卒業。同年、三井合名会社に入社し、その後、三井不動産管理部管理長を務めた。 1945年(昭和20年)10月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
広橋 真光(ひろはし ただみつ、明治35年(1902年)12… 広橋 真光(ひろはし ただみつ、明治35年(1902年)12月11日 - 平成9年(1997年)5月21日)は、昭和時代の華族(伯爵)・内務官僚。近衛文麿・東條英機両首相の秘書官を務める。戦後、千葉県知事を1か月だけ務めた。 明治35年(1902年)、伯爵・広橋賢光の嫡男として誕生。明治43年(1910年)、襲爵。大正15年(1926年)に東京帝国大学を卒業し、翌年内務省に入省する。この年の12月2日、梨本宮家から規子女王が降嫁する。昭和15年(1940年)、近衛文麿首相の元で内閣総理大臣秘書官を務め、次の東條内閣でも留まった。 昭和22年(1947年)、千葉県知事・小野哲が突如参議院選挙への出馬を表明して辞任したために同県知事に転じる。
水谷川 忠麿(みやがわ ただまろ、1902年〈明治35年〉8… 水谷川 忠麿(みやがわ ただまろ、1902年〈明治35年〉8月27日 - 1961年〈昭和36年〉5月20日)は、日本の男爵、貴族院議員。旧姓、近衛。 公爵近衛篤麿の四男として生まれた。兄に内閣総理大臣の近衛文麿、指揮者の近衛秀麿、ホルン奏者の近衛直麿がいる。 男爵水谷川忠起の養子となり家督を相続する。学習院中等科時代から有島生馬について洋画を習い、画家を志す。学習院高等科在学中、1921年(大正10年)に養母堯子を亡くした。1923年(大正12年)京都帝国大学文学部哲学科に入学した直後に養父忠起を亡くし、男爵位を相続。京大在学中は京都帝大オーケストラに参加してオーボエを吹き、京都音楽協会の設立に参加。
閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治… 閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治35年〉8月3日 - 1988年〈昭和63年〉6月18日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人、居合道家、剣道家。閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子。閑院宮第7代当主にして最後の当主。軍人としての階級は陸軍少将。全日本居合道連盟第2代会長。栄典は大勲位・功四級。戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし、「閑院 春仁(かんいん はるひと)」と名乗った。のちに「純仁(すみひと)」と改名した。 1902年(明治35年)8月3日 、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子(第5子)として誕生。 学習院初等科を健康上の理由で長期休学し、その後神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、1924年(大正13年)7月陸軍士官学校(36期、兵科・騎兵)を卒業。
西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945… 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐。愛称・通称はバロン西(バロン・ニシ、Baron Nishi)。
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈… 秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈明治35年〉6月25日 - 1953年〈昭和28年〉1月4日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第二皇子。明治天皇の皇孫にあたる。兄に昭和天皇、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。 宮家の一つである秩父宮の家祖。御称号は淳宮(あつのみや)。身位は親王。お印は若松(わかまつ)。大日本帝国陸軍の軍人でもあり、階級は少将。勲等功級は大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はいない。 東京・赤坂の青山御所(東宮御所)で誕生し、兄の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)とともに、生後4カ月で皇孫御養育掛・枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。
伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年〈明治35年〉6月20… 伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年〈明治35年〉6月20日 - 1971年〈昭和46年〉4月3日)は、日本の旧皇族。元華族。博義王の妃。一条実輝公爵令嬢。母は、細川護久侯爵令嬢・悦子。旧名は、一条 朝子(いちじょう ときこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、博義王妃 朝子(ひろよしおうひ ときこ)であった。 香淳皇后とは女子学習院の同級生で、梨本宮家の方子女王と並んで昭和天皇のお妃候補の一人であったとされる。後に学習院の同窓会組織「常磐会」の会長も務める。1919年(大正8年)12月23日に、博義王と結婚、翌年北海道を訪れている。1男3女をもうける。関東大震災時は皇族による被災者の慰問活動として、1923年(大正12年)9月23日に新宿区(当時の淀橋町)の被災児童避難所を慰問・視察した。
六角 英通(ろっかく ひでみち、1902年(明治35年)5月… 六角 英通(ろっかく ひでみち、1902年(明治35年)5月19日 - 1987年(昭和62年)12月19日)は、昭和期の電気工学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。工学博士。 京都市で子爵・六角玄通の長男として生まれる。1907年(明治40年)9月、父の死去に伴い家督を継承し、同年11月27日、子爵を襲爵した。 1924年(大正13年)学習院高等科を卒業し、1927年(昭和2年)東北帝国大学工学部電気学科を卒業。1930年(昭和5年)逓信省に入省し電気試験所技師に就任。東北大学講師、同教授などを経て、1963年(昭和38年)から1976年(昭和51年)まで相模工業大学(現湘南工科大学)学長を務めた。
久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10… 久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10日 - 1935年〈昭和10年〉3月4日)は、日本の華族、陸軍軍人。陸軍歩兵大尉。侯爵。久邇宮邦彦王の第二王子。香淳皇后の兄(次兄)、第125代天皇・明仁(上皇)の伯父、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大伯父にあたる。 学習院初等科を経て学習院中等科在学途中の1918年(大正7年)4月の17歳のとき、東京府立一中2年次に入学。1920年(大正9年)12月1日の府立一中4年次だったとき、当時の皇族の慣例に従って士官候補生として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1921年(大正10年)10月1日の20歳のとき、陸軍士官学校に入学。1922年(大正11年)3月10日、貴族院皇族議員に就任。
梅溪 通虎(梅渓、うめたに みちとら、1902年(明治35年… 梅溪 通虎(梅渓、うめたに みちとら、1902年(明治35年)3月8日 - 1984年(昭和59年)8月9日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・松平。梅溪家12代当主。 三重県で、実業家・松平家晃、則子夫妻の二男として生まれる。生まれてすぐ母方の梅溪家当主・梅溪通魯の養子となり、養父の死去に伴い、1920年(大正9年)6月21日に子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。さらに同大学院を修了した。日本鉱業監査役、日本水産本店庶務課長、日本海洋漁業統制(株)理事などを務めた。 1945年(昭和20年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治… 華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人。 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子。2月1日、博忠と命名される。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった。 海軍兵学校を卒業(49期)した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)。
李 方子(り まさこ、朝: 이방자〈イ・バンジャ〉、1901… 李 方子(り まさこ、朝: 이방자〈イ・バンジャ〉、1901年〈明治34年〉11月4日 - 1989年〈平成元年〉4月30日)は、日本の元皇族であり、李王垠の妃。梨本宮守正王と同妃伊都子の第1王女子。肥前佐賀藩主・鍋島直正の曾孫。旧名は、方子女王(まさこじょおう)。皇室典範における敬称は殿下。 宮家(梨本宮家)の第1王女子(女王)として生まれ、日本国内で王公族として皇族に準じる待遇をうけた李垠(旧大韓帝国、高宗第七皇子)に嫁した。「李方子」とは、第二次世界大戦後、王公族としての身分を喪失したことにより夫の姓を名乗ったものである。 1901年(明治34年)11月4日、梨本宮守正王と同妃伊都子夫妻の第1王女子(第1子)として誕生し、御七夜の11月11日に「方子」と命名された。
多久 龍三郎(たく りゅうざぶろう、1901年(明治34年)… 多久 龍三郎(たく りゅうざぶろう、1901年(明治34年)9月4日 - 1983年(昭和58年)9月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員、多久鍋島家(後多久氏)13代当主。 12代多久鍋島家当主、男爵・多久乾一郎の三男として東京市赤坂区青山で生まれ、父の死去に伴い、同年12月12日に男爵を襲爵した。 2歳で父祖の地佐賀県に移るが、10歳の時に上京。学習院に入り昭和天皇の御学友となる。1922年、学習院高等科を卒業。1926年(大正15年)東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、さらに同経済学部を修了。1927年(昭和2年)欧米に留学した。 1932年(昭和7年)織田信託監査役に就任。
横山 隆良(よこやま たかひさ、1901年(明治34年)9月… 横山 隆良(よこやま たかひさ、1901年(明治34年)9月4日 - 1977年(昭和52年)8月24日)は、昭和期の華族(男爵)。加賀八家横山家第15代当主。 加賀藩重臣横山家第14代当主、男爵横山隆俊の子として生まれる。1934年2月15日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 早稲田大学法学部を卒業。大学卒業後、浅野物産に入社し、重役まで昇進した。その他、小野慈善院評議員、北陸大亜細亜協議会会頭、鶴来通運社長、北陸鉄道常務、石川県乗合自動車運送事業組合専務理事などを務めた。 長隆 - 長知 - (康玄) - 忠次 - 玄位 - 任風 - 貴林 - 隆達 - 隆従 - 隆盛 - 隆章 - (隆貴) - 隆平 - 隆俊 - 隆良 - 隆昭
堤 経長(つつみ つねなが、1901年(明治34年)5月30… 堤 経長(つつみ つねなが、1901年(明治34年)5月30日 - 1992年(平成4年)1月16日)は、日本の子爵。堤家の第15代当主。東京帝国大学法学部卒業。東京都出身。伯母は明治天皇の典侍で大正天皇の生母である柳原愛子。 東京都出身。子爵・堤雄長とその妻である柳原浜の長男として生まれる。母である浜の姉が明治天皇の権典侍の柳原愛子で、大正天皇の従弟に当たる。1940年(昭和15年)から1947年(昭和22年)まで子爵であった。。 1914年(大正3年)から1921年(大正10年)宮内省東宮職出士。東京帝国大学農学部、法学部を卒業し、鉄道局参事、仙台鉄道局職員、運輸省鉄道総局食糧増産本部次長、興亞火災海上保険(現、日本興亜損害保険)取締役、東海開発社長、歌会始読師、霞会館評議員、監事などを歴任した。