本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3… 本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3年3月13日) - 1931年(昭和6年)3月16日)は、日本の宗教家、僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長であり、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。 1867年(慶応3年)、播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)に、姫路藩士・国友堅二郎と勝子との間に次男として生まれる(幼名・長二)。幼くして母方の菩提寺である妙善寺の本多日境に師事し、本多姓を継いだ。小学校卒業後、妙立寺の池田日昌のもとで得度し、日昌亡き後は岡山県津山の本蓮寺で児玉日容のもと、日什教学を学ぶ。18歳で大阪府堺市の妙満寺住職に任命され、1887年(明治20年)、上京後に私立哲学館(現・東洋大学)の第一期生として入学する。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
井口 丑二(いのくち うしじ、慶応元年2月22日(1865年… 井口 丑二(いのくち うしじ、慶応元年2月22日(1865年3月19日)- 昭和2年(1927年)9月20日)は、日本の宗教家、政治家。 長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)生まれ。 1882年-1886年、同郡口之津村小学校訓導。 1887年-1889年、口之津村役場書記、有給助役。 1890年-1898年、『長崎新聞』編集に従事。 1894年・1898年、長崎県会議員に当選。 1899年-1903年、新聞事業調査のためイギリス・フランス・アメリカ合衆国に出張。 1904年-1905年、杉井組経理担当社員として大韓帝国で勤務。 帰国後1906年に二宮尊徳を知りその研究に専念。 地方改良運動に従事する農商務省嘱託職員として岐阜県恵那郡蛭川村に入り、 1916年、廃仏毀釈の徹底した同村に大日本神国教(神国教)を創始、尊徳の思想の普及に努めた。
山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治… 山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治元年8月1日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月2日)は、日本の教育者、内務官僚、神職。政友会系官選鳥取県知事。 筑前国夜須郡秋月春小路で、秋月藩士・山田正修(まさのぶ)、清(せい)の長男として生まれる。1886年、杉浦重剛の称好塾に入塾し薫陶を受けた。1887年、第一高等中学校を卒業。さらに1890年7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同月24日、法制局試補となる。 1893年、鹿児島高等中学造士館教授となる。1895年、静岡県参事官に転任。以後、広島県参事官、福井県書記官、青森県書記官、法制局参事官兼同書記官、大阪府書記官、東京府書記官などを歴任。
高階 幸造(たかしな こうぞう、元治元年〈1864年〉8月 … 高階 幸造(たかしな こうぞう、元治元年〈1864年〉8月 - 大正10年〈1921年〉1月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の神職。 四條畷神社宮司、伊和神社宮司、廣田神社宮司を歴任したほか、草創期の全国神職会運営に携わり、「神社界の重鎮」と称されている。 元治元年(1864年)8月、但馬国豊岡町(現在の兵庫県豊岡市)に、豊岡藩士高階成章の三男として生まれた。 明治13年(1880年)、郷里の村社金刀比羅神社に奉職。 明治21年(1888年)、兵庫県皇典講究所理事兼教授となり、分所新築事業を担当し、これが明治31年(1898年)に竣工すると皇典講究所副総裁久我建通より『古史徴』一部を贈られた。
高山 昇(たかやま のぼる、元治元年1月28日〈1864年3… 高山 昇(たかやま のぼる、元治元年1月28日〈1864年3月6日〉 - 1950年〈昭和25年〉10月20日)は、日本の神職。官幣大社稲荷神社(現・伏見稲荷大社)外の元宮司。 元治元年(1864年)、群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)で高山茂樹(大宮巌鼓神社の神職)の長男として出生。原町小学校を経て、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退。1886年(明治19年)に皇典講究所師範科を卒業。1890年(明治23年)、長崎県皇典講究所分所教授となる。この傍らでキリスト教実情研究や西海神職連合会との交流を行ない、長崎諏訪神社宮司の立花照夫など盟友を得る。また、筥崎宮宮司の葦津磯夫に師事し神祇官興復運動の一翼を担う。
平田 盛胤(ひらた もりたね、文久3年8月14日(1863年… 平田 盛胤(ひらた もりたね、文久3年8月14日(1863年9月26日) - 1945年(昭和20年)2月28日)は、日本の神職、国学者、神田神社社司。美濃国(後の岐阜県南部)出身、東京帝国大学(後の東京大学)文学部古典講習科卒業。首府神社界の1人とされる。 父は美濃郡代(美濃国代官)を勤めた旗本戸沢盛恭で、旧名を戸沢盛定と称した。美濃国羽栗郡笠松町生まれ。1886年(明治19年)頃に平田銕胤の長男平田延胤の養子となり、盛胤と改名した。 岐阜県師範学校(後の岐阜大学)卒業後、1880年(明治13年)に上京。1882年(明治15年)9月に創設された帝国大学古典講習科(乙部・国語課)に入学。第一期の同期生に松本愛重、小中村(池辺)義象、萩野由之、関根正直、落合直文らがいる。
北島 斉孝(齊孝、きたじま なりのり、1863年9月11日〈… 北島 斉孝(齊孝、きたじま なりのり、1863年9月11日〈文久3年7月29日〉- 1918年〈大正7年〉11月9日)は、日本の神職、政治家、華族。出雲大社北島国造家76代、貴族院男爵議員。旧名・殿若丸。 出雲国出雲郡(現島根県出雲市大社町)で北島国造家75代・北島脩孝の長男として生まれる。父の死去に伴い1893年(明治26年)4月7日、男爵を襲爵した。 1882年(明治15年)出雲大社権宮司に就任。同禰宜、大教正、神道出雲教(現出雲教)大教主を務めた。 1908年(明治41年)7月1日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、死去するまで在任した。
清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年… 清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。
今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863… 今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863年3月27日〉 - 昭和19年〈1944年〉9月11日)は、日本の神道家、思想家、国文学者。宮城県白石市出身。 神宮奉斎会会長。日本大学皇道学院院長。東洋文化研究所講師。前名は定介(さだすけ)、号は竹の屋主人。 東京大学古典講習科入学以来、明治時代は純粋な国文学者としての道を歩む。初代司法大臣山田顕義にかわいがられ、将来を嘱望され、皇典講究所の講師を依頼された。大正の初期に川面凡児の実践的神道論に影響を受けてより、本居宣長以来の国文学的神道論に加え、実践に基づく信仰的な神道論を加えて「皇道」と呼び、それを国民の指針として普及する活動に尽力する。
川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年… 川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。禊の行法を体系化し、組織的に行なった。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。名は恒次(つねじ)、字は吉光。号は殿山(でんざん)。 豊前国(のち大分県宇佐郡両川村小坂、現宇佐市)に、酒造業を営む家の次男として生まれる。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。
中山 通幽(なかやま つうゆう、1862年4月19日(文久2… 中山 通幽(なかやま つうゆう、1862年4月19日(文久2年3月21日) - 1936年(昭和11年)5月17日)は、日本の宗教家。岡山県出身。宗教団体・福田海(ふくでんかい)の開祖。旧姓・薬師寺。本名・多田盛太。多田通幽とも。 備中国(現在の岡山県高梁市)に生まれる。3歳で吉備津の多田家の養子となる。[要出典] 16歳で小学校教員となる[要出典]。当山派で修験道を修する。また、井上円了の哲学館に学び、大阪に関西哲学館を開く。1895年(明治28年)、大阪市天王寺伶人町に宗教団体・無縁法界講を結成し、無縁仏の供養に取り組む[要出典]。 1908年(明治41年)、大阪で神道・儒教・仏教・道教を折衷した宗教団体・福田海を開宗し、陰徳積善を説く。
石井 信(いしい しん、1861年12月17日(文久元年11… 石井 信(いしい しん、1861年12月17日(文久元年11月16日)- 1923年(大正12年)4月9日)は、明治から大正期の政治家、神職。衆議院議員。旧姓・天神林。幼名・信吉。 出羽国雄勝郡湯沢町(秋田県雄勝郡湯沢町を経て現湯沢市)で、久保田藩士・天神林久平(儀敬)の二男として生まれ、同藩士、叔父・石井忠良の養子となる。養父の私塾・立志堂で学び、藩儒・西宮藤長に師事して漢学を修めた。1877年(明治10年)2月、養父の死去に伴い家督を相続した。 自由民権運動に加わり、武石敬治、添田飛雄太郎らと自ら学ぶ私塾・麗沢舎を設立して英語など新時代の知識を伝えた。1886年(明治19年)10月、秋田県会議員に選出され5期在任。
有馬 良橘(ありま りょうきつ、1861年12月16日〈文久… 有馬 良橘(ありま りょうきつ、1861年12月16日〈文久元年11月15日〉 - 1944年〈昭和19年〉5月1日)は、日本の海軍軍人、神職。最終階級は海軍大将。和歌山県和歌山市出身。養子に海軍中将・有馬寛がいる。 文久元年11月15日(1861年12月16日)、紀州藩の藩医(奥医師)・有馬元函の長男として生まれる。父の元函は紀州徳川家家臣として幕府軍側に参戦転戦したために、良橘が幼少の頃は朝敵扱いされ、良橘の尋常小学校入学が12歳まで遅延する結果を招く。旧制三田英学校より海軍兵学校第12期入校。入校時成績順位は44名中第16位、卒業時成績順位は19名中16位。 有馬の職歴の特徴として明治天皇と東郷平八郎との関わりが深く、日清戦争でも東郷が艦長を務める防護巡洋艦「浪速」の航海長として東郷の指揮下で従軍している。
持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30… 持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30日(万延元年9月17日)- 1931年(昭和6年)2月28日)は、明治から昭和初期の神職・政治家・実業家。衆議院議員。1913年(大正2年)「若狭」に改名した。 下野国都賀郡高椅村(栃木県下都賀郡絹村字高椅、桑絹村、桑絹町を経て現小山市高椅)で、持田和泉の長男として生まれる。明治元年(1868年)結城藩黌に入り和漢学を修め、栃木県中教院を終えて上京し、専修学校(現専修大学)で法律学、経済学を学んだ。 1875年(明治8年)教導職試補となり、郡吏、絹村戸長、少講義などを歴任。1885年(明治18年)高椅神社祠官に就任。1887年(明治20年)栃木県会議員に選出され4期在任し、同常置員、絹村会議員、下都賀郡会議員、同参事会員、教育諮問会員、郡徴兵参事会員、農林会特別会員、地方森林会議員、神道栃木分局顧問、神道教師尋常検定委員なども務めた。
大島 正健 (おおしま まさたけ、安政6年7月15日(185… 大島 正健 (おおしま まさたけ、安政6年7月15日(1859年8月13日) - 昭和13年(1938年)3月11日) は日本人の宗教家・教育者・言語学者。札幌農学校(現在の北海道大学)の第1期生であり、クラーク博士の教育指導を直接受けた一人となった。クラークの 'Boys, be ambitious' (青年よ、大志をいだけ) との言葉を後世に残す上で大きな役割を果たした。甥に大島正徳。 1859年(安政6年)、相模国高座郡中新田村(現在の神奈川県海老名市)の名主、大島彦三郎正博・その妻 縫(縫子)の四男(実質次男)として生まれた。幼名は金太郎。兄(三男、実質長男)の頼三郎正義が温厚でおとなしかったのに対し、金太郎は活発な性格であったという。
藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年… 藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年4月4日) - 1903年6月6日)は、日本の宗教家・探検家。島崎藤村の「椰子の葉陰」主人公のモデルとなった人物である。 1859年、越後国三島郡本与板村(現新潟県長岡市与板町本与板)の光西寺に藤井宣界の次男として生まれた。旧制長岡中学を経て慶應義塾に学び、西本願寺からの内地留学生として初めて東京帝大哲学科に学んだ。 東大卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。当時における仏教学のエキスパートとされ、1891年には日本で初めての仏教通史となる「佛教小史」を著した。1892年に飯山の井上寂英の長女瑞枝と結婚。瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。
金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月1… 金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月15日〈1857年10月2日〉 - 昭和20年〈1945年〉3月4日)は、日本の牧師、伝道者、宗教家。別名はポール・カナモリ。明治初期の日本のプロテスタント派の3つの源流の1つである熊本バンドの中心メンバーの一人であった。晩年は湘南の嶺山に隠居し、原始的な洞窟生活をして「今仙人」といわれた。 第102代内閣総理大臣・石破茂の母方の曾祖父である。 肥後国玉名郡小天村(現・玉名市天水町小天)に郷士・金森繁蔵の次男として生まれた。その後、理由は分からないが一家は託麻郡本山村(現・熊本市中央区本山)に移り住んでいる。 明治4年(1871年)、日新堂に入塾。
篠田 時化雄(しのだ しげお、1857年1月9日〈安政3年1… 篠田 時化雄(しのだ しげお、1857年1月9日〈安政3年12月14日〉 - 1936年〈昭和11年〉4月27日)は、江戸時代後期から昭和初期にかけての国学者、神職、歌人であり、精華学園(後の京都精華学園中学校・高等学校)の設立者である。号は小笠乃屋・龍孫。
佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月… 佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月6日) - 1942年(昭和17年)6月20日)は、現在の広島県福山市出身の宗教家・教育者。 金光教祖の教えを教祖没後も世に遺すべく、教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進した。現在の金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者・初代校長。金光教の三直信の一人で、金光教内では佐藤宿老(さとう しゅくろう)と呼ばれる。 安政3年(1856年)8月6日(戸籍上は2月8日)、備後国安那郡神御領村(現在の広島県福山市神辺町上御領)佐藤吉五郎満貴の三男に生まれる。明治4年(1871年)、16歳の時大工職を目指し弟子入りした。
押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2… 押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2年12月5日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月10日)は、日本人のキリスト教宗教家、教育者。東北学院及び宮城学院の創立者。日韓同志組合代表者の一人。新島襄、本多庸一、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。長男は、冒険小説家の草分け押川春浪(本名、方存)。二男は、プロ野球の生みの親である押川清。 NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の登場人物・松浪毅のモデルである。 押川方義の生年に関しては諸説あったが、押川家の鎧櫃から「熊三郎 産髪包紙銘記 嘉永二年十二月五日出生 熊三郎産髪」 と記された和紙が発見され(実際に産髪が包装されていた)、嘉永2年生まれ(グレゴリオ暦への換算では1850年)であることがほぼ確実となった。
川合 清丸(かわい きよまる、嘉永元年11月21日(1848… 川合 清丸(かわい きよまる、嘉永元年11月21日(1848年12月16日) - 大正6年(1917年)6月24日)は、神道・禅・儒学の三道を融合して、「日本の国教」を確立しようとした思想家、宗教家。字は子徳、号は山陰道士、無々道人。 伯耆国箆津(現、鳥取県琴浦町)出身。父親が太一垣神社の神職であったので、幼少から神道を学び、太一垣神社の社掌となった。 明治6年(1873年)に大神山神社の権宮司となる。大神山神社と大山寺との関係から生じた神仏分離問題に関する庶務で東京に出た時に、神仏への信仰や道徳心の荒廃した風潮を目の当たりにしたという。これをきっかけに、神道のみならず儒教・仏教・キリスト教や西洋の学問を広く学ぶ必要を痛感し、遊学した。
金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年… 金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年12月21日)- 1923年(大正12年)1月16日)は、日本の政治家、神職、華族。貴族院男爵議員。有郷と表記される場合がある。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有久の二男として生まれる。元治元年7月7日(1864年8月8日)父の隠居に伴い家督を相続し第47代石見国造となる。1875年(明治8年)9月、華族に列せられ、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 明治4年(1871年)物部神社権宮司に就任し、権大講義、大教正、神道大社教副管長などを歴任。明治元年(1868年)から川合国漢塾を設け神道教育と共に国漢教育を行い、また、皇典講究所委員にも就任した。
到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈184… 到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈1845年11月17日〉 - 1901年〈明治34年〉6月22日)は、宇佐神宮大宮司などを務めた明治時代の神職、男爵、正四位。 宇佐氏の流れを汲んで代々宇佐神宮の宮司を務めていた世襲家である到津家に、当主であった到津公嘏(公蝦?)の息子として生まれる。母である到津言子は、熊本藩士の娘で、歌人でもあった。 安政2年(1855年)に初めて宇佐神宮大宮司となり、以降、長く神職を務めた。明治5年(1872年)に華族に列せられ、明治17年(1884年)に男爵となり、明治32年(1899年)には、正四位に叙された。この間、教導職では、明治5年(1872年)に権少教正に任じられ、明治12年(1879年)には少教正となり、明治17年(1884年)には職を解かれた。
千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日〈1845年9… 千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日〈1845年9月7日〉 - 大正7年〈1918年〉1月3日)は、日本の宗教家、政治家。80代出雲国造、出雲大社宮司。神道大社教(1946年出雲大社教に改称)創立者で初代管長、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事(第4代)、静岡県知事(第4代)、東京府知事(第17代)、司法大臣(第14代)、東京鉄道株式会社社長などを歴任した。位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。 出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれ、神道大社派を創始する。その後、神道大社教に改称し管長に就任するなど、教派神道たる出雲大社教の礎を築いた。元老院議官を経て、第1回貴族院男爵議員選挙にて貴族院議員に選出される。
宍野 半(ししの なかば、弘化元年9月9日〈1844年10月… 宍野 半(ししの なかば、弘化元年9月9日〈1844年10月20日〉 - 1884年〈明治17年〉5月13日)は、富士講諸派を結集した教派神道の一派である扶桑教の初代管長で、扶桑教の設立に尽くした日本の宗教家、国学者。 薩摩国隈之城(現鹿児島県薩摩川内市隈之城町)の薩摩藩の郷士の家に生まれた。25歳で平田鐵胤に国学を学ぶ。 教部省に勤める。後に大教院の大講義も務めた。駿河国富士郡(現・富士宮市)の浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)の官選初代宮司、山梨県北口の浅間神社(現在の北口本宮冨士浅間神社)の社司を兼務。富士講諸派を結集し扶桑教を設立。1879年(明治12年)には神道事務局会計課長。 皇典講究所創立にも尽力し、「皇典講究所創設告文」を連名で著した。
長山 六郎 (ながやま ろくろう、天保14年9月16日(18… 長山 六郎 (ながやま ろくろう、天保14年9月16日(1843年10月9日) - 明治41年(1908年)8月13日)は、日本の宗教家。 佐斐神村(現在の鳥取県境港市佐斐神町)に生まれる。農業を営み、地方の名族である。幼少の頃から学問を好み、黒住教を信仰する。 明治11年(1878年)11月、教導職に補し、試補より累進して遂に講師権中信教に至る。邸内に講社を設立し、又土地を提供し、教会所を建築してその所長となる。 その間、伯耆国の分局幹事、宗忠神社新築の世話係長、諮問会議員などをつとめる。 『長山氏世代記録(家伝)』によれば、長山家はもともと“足立(あだち)”姓だったが、元治2年(1865年)六郎右衛門が功績不詳ながら、藩主から“長山”姓を許されたため、長山を名乗った。
泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月2… 泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月21日〉 - 1929年〈昭和4年〉1月7日)は、北海道栗山町の前身である角田村の開祖。 1842年(天保13年4月21日)、陸奥国伊具郡角田にて、陸奥石川氏に仕える添田保の子として生まれる。幼名は拙之助。 成教堂で経史を修めた拙之助は、生徒たちに書物の読み方を教える「句読役」を命じられ、さらに仙台への遊学を経てからは、成教堂目付兼武頭役に就いた。 1864年(元治元年)8月1日、角田藩重役の泉靖七郎の養子となり、10月6日には藩主・石川義光から「麟太郎」の名を賜る。 1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、仙台藩一門の筆頭格たる石川家は、はじめ仙台の警備にあたっていた。
国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈18… 国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈1840年11月30日〉 - 1901年〈明治34年〉10月27日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・教育者・神職。官選富山県知事。通称・徳次郎、篤次郎。漢詩・書に堪能で、半山と号した。 長門国阿武郡萩土原(現山口県萩市)で、安芸武田氏の流れを汲む長州藩大組士・国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた。藩校・萩明倫館で学ぶとともに、吉田松陰からも山鹿流兵学を学んだ。文久元年(1861年)家督を継ぎ浜崎代官に就任。さらに、当島代官、大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役を歴任した。 維新鴻業で果たした役割として夙に知られる事跡は少ないものの、滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家では、第8代当主暹胤の後室由里の実兄で第9代当主七造の実父が国重正文であるとしており、西坊家に伝わる口伝として①京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である②明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた――等の秘話を伝えている。
中田 正朔(なかた まさもと、1840年 - 1913年)は… 中田 正朔(なかた まさもと、1840年 - 1913年)は、日本の神職。 伊勢国宇治(現在の三重県伊勢市)に生れる。漢学を鷹羽竜年に、書を養徳寺雪鷗に、国学を八羽光穂にそれぞれ学ぶ。和歌、書道に長じた。 1872年(明治5年)、宇治山田神社祠掌となり、宮崎郷学校幹事、度会県権少属、1876年、神宮主典を経て禰宜に進み、ついで造神宮頭となり、1887年(明治20年)4月より神宮皇學館(現在の皇學館大学の前身)館長を兼務(1890年8月まで)、1893年(明治26年)、兵庫の廣田神社宮司となり、ついで大阪・堺の大鳥神社宮司に転任、1903年(明治36年)に退職した。 神宮奉職中、神宮司庁と神宮教院分離問題に尽力、功があった。
滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年1… 滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年12月19日)- 1886年(明治19年)3月16日)は、江戸時代の幕末から明治時代の尊攘運動家、僧侶、神職。 越後国糸魚川寺町に生まれる。18歳のとき、糸魚川藩の祈願所である持明院の院主となった。院は近郷近在の修験院の頭で、天津神社の祭りにはこの院主が先導しなければ巡行ができないほどの格があった。同郷の田村弥平や小川長秋、銀林綱男などと親交を結び、国学を修め、勤皇の大義を論じた。1868年、戊辰戦争が起こると院を捨て、親兵隊の方義隊を組織して官軍のために斥侯を務めた。また京都で暗殺された大村益次郎の襲撃犯を隠匿したとして投獄された。維新後は神職となり、筑波山神社を最初に、天津神社祭祠、弥彦神社の宮司、皇典講究所などを歴任した。
小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月… 小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月29日〈1833年4月18日〉 - 1903年〈明治36年〉7月21日)は、幕末から明治期の久保田藩士、国学者、神職、政治家。貴族院勅選議員。通称・鉄蔵。雅号・琴廼屋、烟水、九春軒。 出羽国秋田郡久保田城下亀ノ丁新町(現秋田県秋田市)で、久保田藩士、郡奉行・小野崎通孝の長男として生まれる。平田篤胤と親交があり神道家であった父通孝から神道を伝えられ、吉川忠行の惟神館で和魂洋才を学び、文久3年(1863年)同志と雷風義塾を設立して講師に就任。慶応4年1月(1868年)藩校明徳館教授兼砲術頭となる。戊辰戦争では吉川忠安らと勤皇を主張して藩論を導き、遊撃隊参謀として秋田戦争に従軍した。
松田 秀次郎(まつだ ひでじろう、1831年(天保2年)- … 松田 秀次郎(まつだ ひでじろう、1831年(天保2年)- 1896年(明治29年)8月30日)は、幕末の尊攘運動家、明治時代の神職。諱は義昌。号は胖仙、良知。 越後国南蒲原郡狭口村(現在の新潟県加茂市)の庄屋である笠原家に生まれた。親戚で安田興野村 (現在の見附市今町)の庄屋である笠原勘之助の養嗣子となった。兄の笠原新吾も活動に参加した。松田姓は笠原氏の遠祖の姓で、尊攘活動で家族に難が及がことを恐れ、この変名を名乗っている。 慶応3年(1867年)杉之村(現在の長岡市中之島町)の名主の高橋竹之助と共に京都に向かった。朝廷に参内し、北越の鎮定と御親兵の取り立てを建白した。松田は帰郷したが、高橋は京に止まり、北陸道鎮撫使の公家・高倉永祜から「同志を糾合し先鋒たるべし」との沙汰書を明治元年(1868年)1月18日に受け取り帰郷した。同年2月中旬、越後国三島郡坂谷村(現在の長岡市和島村)の池浦広太郎の宅に高橋をはじめ、新発田藩領中之島組安田興野村名主松田秀次郎、中之島村の医師・二階堂保則、糸魚川藩領魚沼郡並柳村(現在の魚沼市広神村)の大割元である関谷孫左衛門などが集まった。
新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829… 新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829年12月30日〉 - 1902年〈明治35年〉11月25日)は、幕末の志士、明治期の神道家で、神道修成派の教祖。 文政12年12月5日、阿波国美馬郡拝原村(現在の徳島県美馬市)の郷士竹澤平太と母・曾米(田村氏の女)の三男として生まれる。初名は寛三郎。幼少の頃より南朝の英雄・新田義貞の弟脇屋義助の末裔であるという、家に伝わる旧記を読み、勤王を自覚し文武の道に励んだため、7歳にして論語を暗記した。 弘化4年(1847年)、山陰、山陽諸国を巡遊。神道家として、嘉永元年(1848年)20歳の時、布教伝道の志を立てる。これを修成派では立教元年としている。
伊藤 六郎兵衛(いとう ろくろべえ、文政12年7月15日(1… 伊藤 六郎兵衛(いとう ろくろべえ、文政12年7月15日(1829年8月14日) - 明治27年(1894年)3月30日 )は、幕末・明治時代の宗教家で、丸山教の開祖である。 武蔵国橘樹郡登戸村(現 神奈川県川崎市)生まれで、幼名は清宮米吉(きよみや よねきち)。24歳のときに伊藤家の長女サノと結婚して婿養子となり伊藤六郎に改名、家督相続の際に家名の六郎兵衛を襲名した。 明治3年以降、富士の神の声を聞くようになり、断食行などの修業や病気治しなどを行って「生き神」として信仰を集めるようになった。しかし、教導職の資格を持っていなかったために国から弾圧を受け、明治8年、富士講の一つである富士一山講(後の扶桑教)に所属した。
堀 安道(ほり やすみち、1829年4月11日(文政12年3… 堀 安道(ほり やすみち、1829年4月11日(文政12年3月8日) - 1875年(明治8年)9月26日)は、備中国の宗教家である。同国賀陽郡八田部村(現岡山県総社市総社)にある備中国総社宮の神主。江戸から明治へ政治が大きく変わる時期に、総社の歴史をまとめ、総社宮や総社のために大きな功績を残した。 四番目の弟は画人であり、実業家でもある堀和平である。 備中国賀陽郡八田部村(現・岡山県総社市総社)西宮本町の「志保屋」の堀和助安忠(総社市門田・満谷常観の子)の長男に生まれる。氏は堀、幼名を岩太郎、長じて清一郎また和助と改め、六友居と称した。 堀家はその家譜によると、賀陽臣の出自で、国府の西堀の地に住んでいたため、堀を姓とした。
藤岡 覚音(ふじおか がくおん、文政6年10月3日(1823… 藤岡 覚音(ふじおか がくおん、文政6年10月3日(1823年11月5日) - 明治40年(1907年)8月23日)は、日本の宗教家。幕末から明治時代の僧。 文政6年(1823年)10月3日、肥後国宇土郡網津村浄蓮寺(現・熊本県宇土市)生まれ。家は代々浄蓮寺の住職。7歳より6年間漢文を学び、13歳より10年間、上益城郡六嘉村(現・同上益城郡嘉島町)の司教門生師、及び筑前国西郷村の勧学玄雄師に宗学を学ぶ。嘉永6年(1853年)、熊本県宇城市小川町西海東の正覚寺(浄土真宗本願寺派)、第13世住職となる。 浄土真宗の宗学のかたわら、自坊に龍水学館と称する学寮を起こし、数多くの子弟を教えた。明治36年(1903年)勧学に。
浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月18日〈1819年1… 浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月18日〈1819年12月5日〉 - 1892年〈明治25年〉12月14日)は、江戸時代末期(幕末)の広島藩の筆頭家老、のちに神職。三原領主(3万石)三原浅野家第11代当主。第9代当主浅野忠順の子。諱は初め忠助、のちに忠厚。通称は遠江、主殿、大和、飛騨、仲之丞。号は榎蔭。 天保14年(1843年)9月、43歳にして老齢を理由に先代浅野忠敬が隠居し、忠敬の子浅野忠英は幼年だったため、家督を継いだ。嘉永6年(1853年)のペリー来航を期に、家老の上田主水、浅野豊後と連署した建白書を藩主浅野斉粛に提出し、辻将曹らとともに藩政改革を行おうとするが失敗した。そして安政2年(1855年)、藩主浅野長訓に執政更迭と改革派の登用を訴えたが、側近に阻まれ容れられず、翌安政3年(1856年)3月に病を理由として隠居を申し渡された。
鴻 雪爪(おおとり せっそう、1814年2月20日(文化11… 鴻 雪爪(おおとり せっそう、1814年2月20日(文化11年1月1日) - 1904年(明治37年)6月18日)は、幕末・明治期の宗教家である。備後国出身であり、曹洞宗の僧侶として全昌寺・孝顕寺・清凉寺住職を歴任した。明治期には仏教の改革運動に取り組み、仏僧の肉食妻帯を認めさせた。その後、還俗し神職となった。大教院長。御嶽教2代管長。禅僧としては鉄面清拙とも名乗り、ほかに江湖翁の号も用いた。 文化11年1月1日(1814年2月20日)、備後国因島に誕生。俗姓は宮地。父親は宮地長光(与三兵衛)、母親は木原氏の某。幼名は不明。雪爪は次男であり、兄に松之助、弟に与三兵衛秀明がいた。鴻が自ら記すところによれば、宮地氏は醍醐天皇の皇子である源高明に系譜を遡ることができる家柄であり、氏は保安年間に備中宮地荘を賜ったことに由来するという。
柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2… 柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2月21日〉- 1890年〈明治23年〉7月11日)は、幕末の武士、宗教家(神道家)。富士講一派の不二道の10代教主。教派神道である実行教の初代菅長。 文化6年(1809年)1月8日、佐賀藩支藩の小城藩藩士・柴田礼助の子として、肥前国小城郡桜岡東子路の鍋島大学邸に生まれる。6歳にして藩校興譲館 (小城藩) に入学し、元服後、藩主の命により西洋医学の伝習生として長崎に留学。シーボルトの高弟で、眼科医の高良斉に師事。その後、病を得て帰宅したためにシーボルト事件に巻き込まれることはなかったが、師の良斉の依頼で日本の動植物の模写をシーボルトに渡している。
新居 守村(あらい もりむら、文化5年8月15日〈1808年… 新居 守村(あらい もりむら、文化5年8月15日〈1808年10月4日〉 - 1893年〈明治26年〉4月19日)は、江戸時代後期から明治時代に活動した国学者、神道家。通称に又左衛門・又太郎。 文化5年(1808年)、上野国甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)に生まれる。新居家は小幡信真の感状を伝える旧家で、小幡藩御用達を勤める家柄だった。父は休兵衛秋住。 父の影響もあり文政5年(1822年)15歳の時に狂歌の社中に入った。浅草庵の黒川春村に教えを受ける。春村死後はその養子・真頼が上野国桐生出身だったこともあり彼と親しく交流した。 国学に志し賀茂真淵・本居宣長の著作を精読する。文政12年(1829年)に大和へ旅行した際、本居春庭(宣長の子)に教えを受けるため伊勢松阪を訪れるが、春庭は前年に死去しており果たせなかった。
羽田野 敬雄(はだの/はたの たかお、1798年3月30日〈… 羽田野 敬雄(はだの/はたの たかお、1798年3月30日〈寛政10年2月14日〉 - 1882年〈明治15年〉6月1日)は、三河国宝飯郡西方村(現・愛知県豊川市御津町西方)出身の国学者・神職。旧姓は山本。通称として常陸(ひたち)や栄木(さかき)などがある。 平田篤胤門下の皇学者であり、なおかつ神職だった。明治政府の神仏分離令によって生じた廃仏毀釈運動の推進者であり、神職の地位向上に貢献した。近代的図書館活動の先駆者でもあり、自らの蔵書を元に設立した「羽田八幡宮文庫」を一般市民に広く公開した。 寛政10年(1798年)2月14日、三河国宝飯郡西方村(現・愛知県豊川市御津町西方)の上層農家の四男として生まれた。
大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日〈179… 大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日〈1793年1月11日〉 - 明治4年8月17日〈1871年10月1日〉)は、幕末・明治維新期の国学者、神道家。石見国津和野藩出身。 別姓は野之口。名に一造、匠作、仲衛など。諱は秀文、秀清、隆正。字は子蝶。号は葵園、佐紀乃屋。 津和野国学の泰斗として、国学史上の四大人観を確立し、「文武虚実論」に代表される学問論を残した。神道家としては石見国に於ける大国主信仰の復興にも貢献した。 津和野藩士今井秀馨の子として江戸桜田江戸藩邸に生まれた。 1805年(文化3年)に平田篤胤の門下となり国学を学ぶ。さらに昌平黌においても古賀精里に儒学を学ぶが、こちらは文化7年去っている。
トマス西六左衛門(トマス にし ろくざえもん、1590年 -… トマス西六左衛門(トマス にし ろくざえもん、1590年 - 1634年11月17日(寛永11年9月17日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教(カトリック)の司祭。1987年に「聖トマス西と15殉教者」の一人としてカトリック教会の聖人に列せられた。 1590年(天正18年)、ガスパル西の次男として肥前国松浦郡生月島(現在の長崎県平戸市)で誕生。母はウルスラ・トイ。両親は敬虔なキリシタンであり、自身もカトリックの幼児洗礼を受けた。幼少のころ有馬(現在の長崎県南島原市)のセミナリオで勉学に励み、同宿(教会や修道院で奉仕する人)になり、1620年にマニラに渡る。1624年、ドミニコ会に入り「ロザリオのトマス」の修道名を授かる。
ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ… ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ しげかつ)、1587年(天正15年) - 1639年7月4日(寛永16年6月4日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教(カトリック)の司祭。ペトロ・カスイ岐部とも呼ばれる。 司祭になるべくローマへ向かう途上、日本人として初めてエルサレムを訪問するなど、近世初頭の日本人の中で最も世界を渡り歩いたため「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。同時期に日本で殉教した187人の殉教者とともに、「ペトロ岐部と187殉教者」として2008年にカトリック教会の福者に列せられた。 1587年、豊後国国東郡の岐部(現・大分県国東市国見町岐部)で、父・ロマーノ岐部、母・マリア波多の元に生まれる。
セバスチャン木村(セバスチャンきむら、1566年(永禄9年)… セバスチャン木村(セバスチャンきむら、1566年(永禄9年)ごろ - 1622年9月10日(元和8年8月5日))はカトリック教会の日本人最初の司祭、また日本人最初の殉教司祭である。イエズス会士。元和の大殉教のときに長崎・西坂で殉教した55人の中の一人であり、教皇ピウス9世により1867年7月7日に列福された。記念日は9月10日。 1566年(永禄9年)ごろ、平戸のキリシタン一家に生まれる。祖父は、フランシスコ・ザビエルが1550年秋、鹿児島からミヤコに向かう途中の平戸で宿泊した屋敷の主人で、同地でのザビエルからの最初の受洗者であった。1580年(天正8年)に開設された有馬のセミナリオに最初の生徒20人の一人として入学した。
池田 大作 は、日本の宗教家、作家。創価学会名誉会長。
湯浅 竜起 は、日本の宗教家、歌人。
小林美登利(こばやし みどり 1891年(明治23年)- … 小林美登利(こばやし みどり 1891年(明治23年)- 1961年(昭和36年))は、日系ブラジル人の教育家、宗教家(プロテスタントの牧師)、剣道師範、音楽家、冒険家。考古学や探検にも携わった。大正年間にブラジルに移住し、同国を中心に活動した。
千家 国麿 は、日本の神職。出雲大社権宮司。