安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)… 安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)4月7日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。 試験飛行中に搭乗機が墜落し他の乗員二人とともに殉職したが、安達らの殉職は海軍搭乗員の日本国内における殉職としては最初の事例となった。最終階級は海軍大尉。 医師安達玄杏の五男として現在の愛媛県内子町に生まれる。松山中学を経て海軍兵学校36期に進んだ。36期の入校試験は2649名の志願者に対し正規合格者は192名(他に補欠合格者8名)で、安達の席次は200名中39番、卒業時は191名中67番であった。1910年(明治43年)1月、少尉任官。 前年の8月には臨時軍用気球研究会が発足し、空の軍事利用について研究が始まった。
高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7… 高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医中将。 1887年(明治20年)、茨城県に生まれる。旧制水戸中学を経て、1912年(大正元年)9月、千葉医学専門学校に入る。在学中海軍軍医学生になる。1916年(大正5年)5月、卒業。海軍少軍医となり、海軍軍医学校で乙種学生として学ぶ。 横須賀工廠医務部員、大井、球磨の各軍医長となり、呉病院、呉工廠勤務、1937年(昭和12年)海軍軍医大佐に進み、海軍兵学校軍医長兼教官となる。翌年支那方面艦隊兼第三艦隊軍医長に就任。広工廠医務部長、1940年(昭和15年)には呉病院第二部長兼消毒部長兼教官となり、1942年(昭和17年)10月には第一部長も兼務した。
横田 清蔵(よこた せいぞう、1886年4月7日 - 196… 横田 清蔵(よこた せいぞう、1886年4月7日 - 1964年6月11日)は、日本の政治家。元衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1907年、千葉県師範学校卒業。千葉県会議員、同議長、飯岡町(現在の旭市)長、千葉県町村長会長、飯岡信用購買販売組合長、千葉県農業会監事、飯岡町農業会長、飯岡農業協同組合長を歴任した。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において千葉県から日本自由党公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。次の1947年の第23回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1964年死去。
榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月… 榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月7日 - 1935年〈昭和10年〉4月19日)は、日本の婦人運動家。大正デモクラシーの時期の京都で、市民的な女性運動が盛んになった際に、その中心となって諸運動の連携に尽力した人物である。山形県鶴岡出身、明治女学校専攻科卒業。従兄弟に聖書学者の黒崎幸吉がいる。 1886年(明治19年)に誕生した。東京の明治女学校卒業を経て、熊本女学校や東京女子商業学校など、日本各地の女学校に教員として勤めた。兄の仕事の関係で、満州でも教鞭をとった。 1919年(大正8年)7月、当時の京都大学教授の厨川白村の勧めで、厨川の妻や中外日報記者ら女性たちと共に、知的階級女性による文化団体「京都PL会」を結成した。
谷口 三郎(たにぐち さぶろう、1885年(明治18年)4月… 谷口 三郎(たにぐち さぶろう、1885年(明治18年)4月7日 - 1957年(昭和32年)8月13日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務技監。 広島県佐伯郡五日市村(現広島市佐伯区五日市町)に生まれた。1909年(明治42年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、北海道庁に入り、小樽、留萌の築港工事を担当する。1915年(大正4年)内務省に転じ、1918年(大正7年)大阪土木出張所勤務を発令され、10余年に渡り淀川改修工事に従事した。1934年(昭和9年)土木局第一技術課長、1936年(昭和11年)東京土木出張所長を経て、1939年(昭和14年)に内務技監となり、1942年(昭和17年)に退官した。
藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日… 藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日 - 1974年(昭和49年)3月17日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(3期)。 長崎県南高来郡神代村(国見町を経て現雲仙市)で藤野小三の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京高等農学校(現東京農業大学)を卒業した。 長崎県農林主事、同県産業組合連合会長、同県生活物資配給統制組合連合会長、同県農業会長、同県指導農業協同組合連合会長、全国農業会監事、家の光協会理事、全国指導農業協同組合連合会理事・監事、全国土地改良協会理事・監事、全国農業協同組合監事協議会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から無所属で出馬して当選。
宮永 スエキク(みやなが スエキク、1884年〈明治17年〉… 宮永 スエキク(みやなが スエキク、1884年〈明治17年〉4月7日 - 1998年〈平成10年〉6月20日)は、長寿日本一だった鹿児島県曽於郡大隅町(現・曽於市)の女性。 1884年(明治17年)4月7日、鹿児島県曽於郡大隅町の農家に生まれる。1908年(明治41年)に24歳で愛右衛門と結婚し、四男七女をもうけた。趣味は三味線、太鼓、歌、踊りだった。 1954年(昭和29年)、70歳のときに愛右衛門と死別。冗談好きの明るい性格で、おはら節など歌や踊りが得意。107歳ごろまで三味線を弾いていた。そばが好きで、100歳を超えた後も自分でそばを打っていた。109歳までは一人で歩いていた。風邪をこじらせて寝たきりになり、1993年(平成5年)からは特別養護老人ホームで生活していた。
桑原 一郎(くわはら いちろう、1883年(明治16年)4月… 桑原 一郎(くわはら いちろう、1883年(明治16年)4月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 山口県吉敷郡宮野村出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格。佐賀県試補、長崎県理事官、山口県理事官、島根県警察部長、大分県警察部長、沖縄県警察部長を務めた。1923年(大正12年)、朝鮮総督府事務官に転じ、殖産局水産課長、咸鏡北道内務部長、咸鏡南道内務部長、釜山府尹、大邱府尹を歴任した。 退官後は宮野村長や防長新聞株式会社社長などを務めた。
西村 濤蔭(にしむら とういん、1883年4月7日 - 19… 西村 濤蔭(にしむら とういん、1883年4月7日 - 1945年5月25日)は、日本の小説家、文芸評論家、時事・政治評論家。 浅草の商人西村誠造の長男として生まれ、菊島家の養子となるが、1904年(明治37年)、養母と協議離縁し西村家に復籍した。その間の事情は小説「佛様」(『ホトトギス』明治40年4月)に描かれている。実家の家督は異母弟が相続していたが、濤蔭とは絶縁状態にあったようで、濤蔭は妹の梅とともに早稲田で借家暮らしをしていた。 1908年(明治41年)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。在学中の1907年(明治40年)4月から、『ホトトギス』誌上に「佛様」「京の月」等の小説を発表する。夏目漱石の高浜虚子宛書簡(明治40年8月4日)に、濤蔭が漱石のもとを訪れ、自作の批評と『ホトトギス』への掲載を乞うたことが記されている。
小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日… 小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日 - 1961年〈昭和36年〉5月11日)は、小説家・児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれ、浜田広介と坪田譲治と並んで「児童文学界の三種の神器」と評された。娘の岡上鈴江も児童文学者。 「未明」という雅号は小川の師である坪内逍遥が付けたもので、正しくは「びめい」と読む。 新潟県高田五分一町(現:上越市幸町)に生まれる。父、澄晴はかつては修験者であった。上杉謙信の熱烈な崇拝者でもあった澄晴は、春日山神社を創建するため奔走した。未明自身15歳頃から20歳頃まで春日山神社境内の住居に住んでいた。
岡田 宜法(おかだ ぎほう、1882年4月7日 - 1961… 岡田 宜法(おかだ ぎほう、1882年4月7日 - 1961年12月29日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。駒澤大学学長。 明治15年(1882年)4月7日、埼玉県北埼玉郡上会下村(鴻巣市)に生まれる。同村の雲祥寺にて出家。 明治39年(1906年)に曹洞宗大学林(駒澤大学)を卒業し、布教使となり各地を歴訪。世田谷中学(世田谷学園)教頭を経て、大正14年(1925年)に駒澤大学教授に就任。昭和19年(1944年)に『日本禅籍史論』で文学博士となる。 戦後は、昭和22年(1947年)から28年(1953年)まで駒澤大学長となる。 昭和36年(1961年)12月29日に遷化。
岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 … 岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 - 1942年〈昭和17年〉3月21日)は、日本の洋画家、版画家、口絵画家。従四位勲四等。 1880年(明治13年)東京の赤坂に生まれた。 白馬会洋画研究所で黒田清輝に学び、東京美術学校洋画科選科(現東京芸術大学)にて引き続き黒田の指導を受け1902年に卒業している。1908年に女子学習院で助教授として奉職のち教授となり、亡くなるまで34年間にわたって教鞭をとり続けた。 1912年、旧白馬会の主力メンバーであった、中沢弘光、岡野栄、山本森之助、三宅克己、小林鐘吉、跡見泰、杉浦非水の7名が発起人となり光風会を創立。 1912年6月の「第一回光風会展」では会員の他に黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、藤田嗣二ら旧白馬会の会員ら多くの人が出品した。
太刀川 平治(たちかわ へいじ、1877年〈明治10年〉4月… 太刀川 平治(たちかわ へいじ、1877年〈明治10年〉4月7日 - 1966年〈昭和41年〉2月15日)は、日本の電気技術者。工学博士。東京電燈研究所長・技師長・工務部長・常務取締役、東京電力顧問。電気学会名誉員。 新潟県古志郡長岡表五ノ町(現 長岡市表町4丁目)の薬種商・太刀川善蔵の四男として出生。 新潟県尋常中学校を経て、1899年(明治32年)7月に第一高等学校を卒業、1902年(明治35年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。 1902年(明治35年)7月に逓信省電気試験所に技手として入所、1903年(明治36年)12月に一年志願兵として陸軍歩兵第1連隊に入隊、日露戦争に応召、1905年(明治38年)6月に陸軍歩兵少尉に任官、戦後、逓信省を退官。
岩田 宙造(いわた ちゅうぞう、1875年(明治8年)4月7… 岩田 宙造(いわた ちゅうぞう、1875年(明治8年)4月7日 - 1966年(昭和41年)2月22日)は、明治から昭和期の弁護士、政治家(貴族院議員)。正三位、勲一等瑞宝章。法学博士。 1875年、山口県熊毛郡立野村(現・光市)に樋山彦七の二男として生まれ、松前藩の有力商人であった岩田金蔵の養子となる。樋山家は江戸時代、代々庄屋をつとめた家柄だった。1898年(明治31年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒。同期に、湯浅倉平などがいる。 1901年(明治34年)に東京日日新聞社入社。1902年(明治35年)弁護士開業、東京築地に岩田宙造法律事務所(現在の岩田合同法律事務所)を開設。後に、宮内省、日本銀行、日本郵船、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行の各顧問弁護士に就任。
鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)4月… 鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)4月7日 - 1943年(昭和18年)9月20日)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を用いて抗脚気因子を初めて抽出したことで有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員。文化勲章受章者。長岡半太郎、本多光太郎と共に理研の三太郎と称される。 静岡県榛原郡堀野新田村(現:牧之原市堀野新田)にて、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。 帝国大学農科大学(現:東京大学農学部)農芸化学科を卒業する。東京帝国大学教授を務めるとともに理化学研究所の設立者として名を連ねる。 鈴木は、糠に含まれる抗脚気因子を物理的に抽出することに成功した。 ヨーロッパ留学から帰った鈴木は、オランダの医学者クリスティアーン・エイクマンの追試を行い、ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気同様の症状が出て死ぬこと、糠と麦と玄米にはその症状を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏していることを認めた。
木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 195… 木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 1958年1月14日)は、日本の巡回伝道者、牧師。ナイアガラの滝を「自分のお父さんのものだ」と言ったことで話題になった。「キリストに虜われし清松」と呼ばれていた。伝記を書いた岩村清四郎は実弟。 1874年、新潟県五泉町(現:五泉市)に地酒の醸造業者の家に生まれる。1889年、村松高等小学校を卒業する。1890年、北越学館に入学する。1891年1月11日に堀貞一により日本基督教会新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)で洗礼を受ける。1892年、仙台の東北学院に入学する。 1894年6月に渡米する。1895年、アメリカで救世軍に入隊して、士官学校に入隊するが、神学上の問題で8ヶ月で辞める。
石田 孝吉(いしだ こうきち、明治5年2月30日(1872年… 石田 孝吉(いしだ こうきち、明治5年2月30日(1872年4月7日) - 1926年(大正15年)8月9日)は、日本の衆議院議員、勲四等旭日小綬章。 島根県邇摩郡波積本郷(波積村、江東村を経て現江津市)に生まれる。祖先は毛利公に仕えた家臣で石田量太郎の長男。1896年(明治29年)7月慶應義塾を卒業し島根県に帰郷。温泉津村(温泉津町を経て現大田市)に石見銀行を設立し頭取に就任した。 迩摩郡会議員、島根県会議員、島根県農会議員などを経て、1901年(明治34年)日本赤十字社特別社員に列せられ、1903年(明治36年)3月衆議院議員に当選。1904年(明治37年)帝国義勇艦隊建設の際の地方委員に嘱託。
帆足 準三(ほあし じゅんぞう、1871年4月7日(明治4年… 帆足 準三(ほあし じゅんぞう、1871年4月7日(明治4年2月18日) – 1913年(大正2年)10月3日)は、戦前の日本の朝鮮総督府官僚。 長門国豊浦郡、後の山口県豊浦郡長府村(現下関市長府地区)出身。1890年7月、明治法律学校卒業。1895年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1896年1月、会計検査院に入院後、1899年6月、内務省に転じ試補となる。以後、大分県参事官、千葉県内務部長などを歴任。渡韓し、朝鮮総督府道事務官、1912年4月1日からは朝鮮総督府殖産局長を務めたのち、1913年2月14日、咸鏡北道長官に就任。同年10月3日、在任中に死去。
田村 守衛(たむら もりえ、1871年4月7日(明治4年2月… 田村 守衛(たむら もりえ、1871年4月7日(明治4年2月18日) - 1923年6月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東山梨郡相興村中尾(現:笛吹市一宮町)に宮司・田村義事の息子として生まれる。1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、騎兵少尉任官。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を首席で卒業。参謀本部編制班に配属された。 日露戦争に大本営参謀として出征し、さらに満州軍参謀に転じた。1914年(大正3年)1月、歩兵大佐に昇進し関東都督府高級参謀に就任。1917年(大正6年)4月、陸大幹事となり、1918年(大正7年)7月、陸軍少将に進級。
藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年… 藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年2月26日) - 1919年(大正8年)1月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 長門国大津郡、後の菱海村(現長門市)で山口県士族・藤津正憲の長男として生まれ、1870年(明治3年)5月に家督を相続する。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1897年(明治30年)陸軍大学校に入校し、1900年(明治33年)同校を第14期で卒業する。 近衛野砲兵連隊大隊長、下関要塞参謀を経て、1911年(明治44年)11月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第4連隊長に任官。
小浜 松次郎(こはま まつじろう、1868年4月7日〈慶応4… 小浜 松次郎(こはま まつじろう、1868年4月7日〈慶応4年3月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉9月24日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、小倉市長、初代函館市長。 薩摩国姶良郡加治木(現鹿児島県姶良市)で小浜有照の二男として生まれる。 第二高等学校を首席で卒業。1897年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し内務属となり警保局に配属。1898年1月、警視庁警部兼警視属に発令。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1901年7月、警視庁警視・小松川警察署長に就任。以後、検疫事務支署長、宮崎県警部長、宮崎県事務官・第四部長、石川県事務官・第四部長、警視庁警視・第二部長、同第一部長、同警務部長などを歴任。
美馬 儀一郎(みま / みうま ぎいちろう、1867年4月7… 美馬 儀一郎(みま / みうま ぎいちろう、1867年4月7日(慶応3年3月3日)- 1939年(昭和14年)8月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・神原、旧名・亀吉。 阿波国那賀郡富岡町(現徳島県阿南市富岡町)で、酒造業・神原五郎右衛門の二男として生まれた。少年時代は叔母の三木与吉郎家で奉公し東京支店で働いた。1885年2月、徳島佐古町918番屋敷の大地主・先代美馬儀一郎の養子となった。養父の死去により、1898年3月に家督を相続し儀一郎を襲名した。 家業の綿織物商に加えて、染織工場の設置、石炭販売業を開業するなど多角経営を計った。また、阿波染織同業組合長、阿波商業銀行頭取、徳島商業会議所会頭などを務め、徳島県立工業学校の設立、徳島高等工業学校の設備充実に尽力した。
阿部 宇之八(あべ うのはち、1861年4月7日〈文久元年2… 阿部 宇之八(あべ うのはち、1861年4月7日〈文久元年2月28日〉 - 1924年〈大正13年〉11月14日)は、大正期の札幌区長、ジャーナリスト。 阿波国板野郡木津村(現在の徳島県鳴門市)に、名主阿部猪蔵の次男(三男とも)滝本五郎の長男として生まれ、叔父阿部興人の養子となった。旧制徳島中学(現在の徳島県立城南高等学校)卒業後、1877年(明治10年)に東京に出て、三菱商業学校と慶應義塾で学んだ。1881年(明治14年)帰郷し、阿部興人の娘の恒と結婚する(いとこ婚)。 1882年(明治15年)、『大阪新報』の記者となり、のち『大阪毎朝新聞』に転じ、『大阪毎朝新聞』は『郵便報知新聞』に吸収された。
山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3… 山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3月3日〉- 1947年〈昭和22年〉11月12日)は、明治後期から戦前昭和期の日本の銀行家・政治家。43歳で第5代日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した。政界の長老的存在。 位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。号は竹渓。 豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれる。藩校学古館に学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。更に廃藩置県が追い討ちをかけることとなる。17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため慶應義塾で学んだ期間は短かった。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。
相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4… 相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4月7日〉 - 大正7年〈1918年〉6月22日)は、幕末期の庄内藩銃隊頭。明治期の地方官吏、郡長。通称は文八郎。 相良守峯(ドイツ文学者)、相良守次(心理学者)は孫に当たる。 天保8年3月(1837年4月)、庄内藩士相良文右衛門(守富)の3男として生れ、のちに兄八十吉(守均)の跡を継いだ。安政2年(1855年)選ばれて砲術修業のため江川太郎左衛門の塾に入門した。慶応4/明治元年(1868年)の戊辰戦争では、庄内軍の銃兵部隊を指揮する立場で転戦し、4月の清川口の戦いに銃兵指図役として従軍したのをはじめ、銃隊頭として長岡藩支援のため北越戦争にも参戦した。
粟谷 品三(あわや / あわたに しなぞう、1830年4月7… 粟谷 品三(あわや / あわたに しなぞう、1830年4月7日(天保元年3月15日)- 1895年(明治28年)11月10日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・桜木注兵衛。 阿波国板野郡五条村(徳島県板野郡五条村、一条村、一条町、吉野町を経て現阿波市吉野町五条)で、地主・桜木忠兵衛の息子として生まれた。10歳で父が死去したため伯父、藍玉商・桜木忠次の後見を受けて成長した。農業より商業を好み大阪で藍玉、砂糖の商いを数年行って、弟・延次郎に家督を譲り大坂に移った。 幕末に剣術を習い、諸藩の浪士と交わり国事に奔走した。明治維新後、名を粟谷品三と改め、幕末に往来した防長諸州の物産を扱う防長物産会社を有志と組織して社長に就任した。
清水 卯三郎(しみず うさぶろう、文政12年3月4日(182… 清水 卯三郎(しみず うさぶろう、文政12年3月4日(1829年4月7日) - 明治43年(1910年)1月20日)は、武蔵国埼玉郡羽生村(現在の羽生市)出身の実業家。母は根岸友山の妹。浅草の「瑞穂屋」として名を馳せたことから、瑞穂屋卯三郎とも呼ばれた。 酒造業を営む清水家の三男として生まれる。芳川波山に漢学を学んだ後、箕作秋坪に蘭学を学んだ。1854年(嘉永7年)には筒井政憲の供人として下田でロシア全権大使のプチャーチンに会い、臆することなく”ヒアリ・コウ”と声をかけ、返答をもらい、外国では身分の区別なく言葉を交わすことに感激した。今でいう、国際感覚の気性に富んだ人物であったことが窺われる。 1849年(嘉永2年)に江戸に出て、洋学の習得を目指し、佐倉の蘭方医、佐藤泰然のもとで蘭語のABCを教わる。
前田 案山子(まえだ かがし、文政11年2月23日(1828… 前田 案山子(まえだ かがし、文政11年2月23日(1828年4月7日) - 明治37年(1904年)7月20日)は、日本の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。 夏目漱石の『草枕』に登場する「志保田の隠居」のモデルである。 肥後国玉名郡小天村(現熊本県玉名市)の豪族・前田惟鑑の第三子として生まれる。 幼名を一角、長じて覚之助を名乗る。武術に優れ、槍の名手と言われ、25歳で肥後藩士となり、細川家の槍術指南を務める。 1877年(明治10年)富岡敬明県令から熊本県第七大区(玉名郡南半分)区長に任命。小天村の男子を集めて人民保護隊と名付け、西南戦争に際しては、中立党を設けた。1878年(明治11年)に小天の山麓に温泉を発見し、別荘を建設、犬養木堂、植木枝盛、中江兆民、頭山満など、多くの活動家が訪れた(のちに夏目漱石が投宿し、ここを舞台に小説『草枕』を執筆した)。
彩綾(さあや、4月7日 - )は、日本のモデル。本名、安藤 … 彩綾(さあや、4月7日 - )は、日本のモデル。本名、安藤 彩綾(あんどう さあや)。
平見 瞠(ひらみ みはる、4月7日 - )は、日本の脚本家。… 平見 瞠(ひらみ みはる、4月7日 - )は、日本の脚本家。 日本脚本家連盟会員。横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)のシナリオゼミに学んだ。 ※特記のない作品は脚本を担当。