青柳 一郎(あおやぎ いちろう、1900年(明治33年)7月… 青柳 一郎(あおやぎ いちろう、1900年(明治33年)7月29日 – 1983年(昭和58年)8月2日)は、日本の内務官僚、政治家。山口県知事(官選第28代)、衆議院議員(3期)。 山口県出身。早稲田大学教授・青柳篤恒の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1926年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し広島県属となる。 以後、熊本県警察部・福岡県警察部の各特別高等警察課長、上海領事、福島県書記官・警察部長、軍事保護院業務・軍事扶助・総務の各課長、厚生省大臣官房会計・総務の各課長、同省保険局長などを歴任。1946年1月、最後の官選山口県知事に就任し、1947年4月まで在任し退官。
奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1… 奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1988年12月13日)は、日本の俳人・俳画家。本名は奥田 哲良(おくだ てつろう)。 雀草の句碑は上の12基。この他、洲本市“文学の森” に蜷川虎三、夫人・奥田雅子の句にそれぞれ雀草が絵をつけた合同句碑2基がある。
児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7… 児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7月29日 - 1990年 <平成2年> 10月27日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。位階は従三位。広幡忠朝の三男として生まれ、兒玉秀雄の婿養子となった。 東京都出身。1922年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本郵船に入社。1947年1月に取締役に就任し、1952年12月に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1961年1月には社長に昇格。1965年11月に会長に就任し、1971年5月には相談役に就任。 1990年10月27日肺炎のために東京都新宿区の国立病院医療センターで死去。92歳没。墓所は多磨霊園(8-1-17-1)。
河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 19… 河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 1970年5月9日)は日本の牧師、伝道者、教育者。 1897年(明治30年)兵庫県生まれ。河辺貞吉の長男として淡路島・福良に生まれる。関西学院文学部卒業した後、1920年(大正9年)にアメリカ合衆国に留学しグリーンビル・カレッジに留学し、その後ドルー神学校で学んだ後、イギリスに渡りエディンバラ大学、オックスフォード大学で学ぶ。その後、エルサレムのアメリカ東洋研究所員になり、W・F・オルブライトの指導を受ける。1925年(大正14年)帰国。林順と結婚し、関西学院文学部教授に就任する。のち予科長、高校校長、宗教総主事をつとめる一方、自由メソヂスト教会教職として牧会にも従事する。
鈴木 傳六(すずき でんろく、1896年〈明治29年〉7月2… 鈴木 傳六(すずき でんろく、1896年〈明治29年〉7月29日 - 1984年〈昭和59年〉5月28日)は、山形市にある菓子製造メーカーでん六の創業者。山形市議会議員や山形県議会議員を務めた。 1896年(明治29年)7月29日に山形県山形市上町に誕生。山形市立第二小学校卒業、山形県立山形中学校を中退。兄が始めた焼き麩づくりを手伝った。 1915年(大正4年)に近衛歩兵第2連隊入隊、師団の銃剣術大会で優勝した。陸軍上等兵となる。 1922年頃の26歳の時に妊娠していた妻を実家に預け単身上京し、神田の菓子種屋で働いた。関東大震災に遭遇し帰郷。 1924年(大正13年)11月山形市香澄町吹張に分家、菓子種「おこし」の製造販売で独立した。
肝付 兼英(きもつき かねふさ、1893年(明治26年)7月… 肝付 兼英(きもつき かねふさ、1893年(明治26年)7月29日 - 1974年(昭和49年)11月22日)は、大正から昭和期の農林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・肝付兼行の長男として生まれる。父の死去に伴い、1922年(大正11年)2月10日、男爵を襲爵した。 1923年(大正12年)早稲田大学理工学部を卒業した。同年、農商務技手に就任。以後、商工技手、資源局技師などを務めた。 1929年(昭和4年)4月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。同年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。
古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月2… 古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県三池郡大牟田町(現大牟田市有明町)で、古賀健蔵の息子として生まれる。1909年(明治42年)久留米市立商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)を卒業した。 1919年(大正8年)12月、円仏古賀商店取締役に就任。1932年(昭和7年)大牟田商工会議所議員、1934年(昭和9年)同副会頭に就任した。その他、大牟田信用組合(現大牟田柳川信用金庫)監事、福岡県陸上小運搬業組合大牟田支部長、旭セメント取締役、三池製氷取締役などを務めた。 1921年(大正10年)大牟田市会議員に選出され、同副議長、大牟田市所得調査委員などを務め、福岡県会議員にも在任した。
河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月2… 河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月29日 - 1949年(昭和24年)2月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 1888年(明治21年)に広島県福山市で生まれ、1890年(明治23)に福山誠之館を卒業。陸軍士官学校第23期卒業。1936年(昭和11年)8月に輜重兵第2連隊長(第2師団)に就任し、満州に駐屯した。1937年(昭和12年)8月に陸軍輜重兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)7月に自動車第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に輜重兵科教育を行う唯一の予備士官学校である久留米陸軍予備士官学校の初代校長に就任した。 1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級し、7月28日に北支那方面軍司令部附を経て、8月8日に第3野戦輸送司令官(南方軍・第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29… 重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29日 - 1957年〈昭和32年〉1月26日)は、日本の外交官・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。造船工学者の重光蔟は兄。外交官の重光晶は甥。 大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に旧杵築藩士で大野郡長を務める父・重光直愿と母・松子(重光立平景行の末娘)の次男として生まれた。父は速見郡八坂村の代官の家に生まれたが、10歳で藩に召し出され、維新後初代郡長として赴任し、養蚕の振興に努めた。しかし、母の実家である南安岐村山口の重光本家に子供がなかったため養子となり、重光本家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法科大学を卒業する。
萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月… 萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月29日 - 1957年(昭和32年)7月9日)は、日本の歌人、小説家、英文学者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県日置郡串木野町羽島(現在のいちき串木野市)の裕福な地主の家に生まれる。旧制川内中学から旧制第七高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。東京で与謝野鉄幹に師事し、「明星」、「スバル」に参加、堀口大學から「短編実作者の第一人者」と評された。また石川啄木、高村光太郎、北原白秋、森鷗外らと親交し、東大卒業後は愛媛県西条中学校などで教鞭をとった。 28歳の時、加世田の私有地を売った資金で「我等」を創刊するも下宿の火事により原稿が消失、廃刊。京都に移り住み、「街道」を発行して再起を図るも1944年、戦時統制による紙不足でまたも廃刊、戦後は農地改革により地主としての地位を失い、故郷に戻る願いも叶わず1957年、京都で70年の生涯を終えた。
神尾 茂(かみお しげる、1883年(明治16年)7月29日… 神尾 茂(かみお しげる、1883年(明治16年)7月29日 - 1946年(昭和21年)5月10日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 福島県石川郡川東村(現在の須賀川市)出身。1906年(明治39年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、1909年(明治42年)に東亜同文書院商務科を卒業した。大阪朝日新聞社南京通信員となり、上海特派員、北京特派員を歴任した。さらに大阪朝日新聞社の支那部長、東亜部長、編集局顧問、論説委員を務めた。また陸軍梅機関(影佐禎昭機関)に配属され、大使館嘱託も兼ねた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を得て福島2区(当時)から出馬し、当選を果たした。
近藤 銕次(こんどう てつじ、1882年(明治15年)7月2… 近藤 銕次(こんどう てつじ、1882年(明治15年)7月29日 - 1951年(昭和26年)7月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。電気化学工業(現デンカ)社長、貴族院勅選議員。 東京府本郷区本郷弓町二丁目21(現東京都文京区本郷)で、官僚・近藤鎮三の二男として生まれる。12歳で父を亡くし母の手で養育された。1904年(明治37年)台湾協会学校(現拓殖大学)を卒業。1905年(明治38年)2月、三井物産に入社し台北支店に配属され、支店長の藤原銀次郎と出会う。その後、本店営業部受渡主任に転じたが、上司との関係などにより、1916年(大正5年)2月に退社し、明正社常務取締役に就任し、また、度量衡器販売の藤沢商会を設立して店主となった。
大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1… 大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1920年1月20日)は、日本の俳人・俳論家。福島県相馬郡中村町(現在の相馬市)生まれ。本名・績(いさお)。 祖父は儒学者の神林復所で父は漢学者で漢詩人の大須賀筠軒。福島尋常中学校(現在の福島県立安積高等学校)、宮城県第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)から第二高等学校(現在の東北大学)を経て東京帝国大学文科大学国文科卒業。卒業後は教員として中学、高等女学校で教えたのち、若くして東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任した。東大卒で学者一族の家系という毛並みの良さと文才を評価され、早くから新傾向俳句の旗手として嘱望された。『海紅』の河東碧梧桐に師事、同じ旧制二高出身(ただし碧梧桐は中退)で才能も評価された乙字に対し碧梧桐の期待は高かったが、海紅堂事件に端を発する海紅同人同士の内部対立により1915年5月に離脱。
河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2… 河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2月11日)は、日本の女性教育者。元日本YWCA同盟総幹事、恵泉女学園の創立者。クリスチャン。世界恐慌から第二次世界大戦に到る中で平和主義を掲げ、戦後に昭和天皇への戦争犯罪訴追が回避された動きにも大きく関わった。三重県宇治山田市(現伊勢市)出身。
北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日… 北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日 - 昭和24年(1949年)12月21日)は、明治から昭和にかけて活動した洋画家。 岐阜県厚見郡北一色村(現在の岐阜市北一色)の香厳寺に、北淳心と房衛の次男として生まれる。幼少期には両親が読経を教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。1889年(明治22年)東京で女学校の教員をしていた姉を頼って上京、同郷の山本芳翠と合田清らによって設立された生巧館画塾に入る。蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り、蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者は単なる画塾の師弟にとどまらない深い関係にあったようだ。
福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年… 福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年6月21日)- 1924年(大正13年)4月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、奈良県北葛城郡高田町長。 大和国葛下郡疋田村(奈良県葛下郡新庄村、北葛城郡新庄村、新庄町大字疋田を経て現葛城市疋田)で生まれた。1879年(明治12年)新庄村立小学校を卒業。田中右章から漢籍を学び、さらに五十川三武郎の塾に入った。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)で法政学を1年間学んだ。 1894年(明治27年)新庄村会議員となる。1907年(明治40年)5月、高田町会議員に選出され4期在任。同年9月、奈良県会議員に当選し、同参事会員も務めた。
吉田 増次郎(よしだ ますじろう、1867年7月29日 (慶… 吉田 増次郎(よしだ ますじろう、1867年7月29日 (慶応3年6月28日) - 1942年3月14日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日… 初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日(慶応2年6月18日) - 1931年(昭和6年)3月31日)は、明治から昭和時代戦前の実業家。政治家。貴族院多額納税者議員。田村駒創業者。 摂津国池田村槻木(現・池田市槻木町)の酒造業・笹部九兵衞(神田屋)の二男として生まれたが、家業はすでに傾いており、9歳で父親を亡くし、13歳で西田商店(現・呉春酒造)に奉公、徴兵逃れのため1883年に親戚の田村キクの養嫡子となった。翌年、モスリン友禅の開発に成功した大阪の洋反物商・岡島千代造の店員となり、鮮明な染色法等を完成、1891年に岡島合名会社の共同出資者となり、1894年に洋反物卸商として独立、実弟の平松徳三郎(伊丹平松家養子)とともに「神田屋田村駒商店」を創業。
舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月… 舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月29日(慶応元年6月7日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、明治から大正期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 山城国京都で少納言・舟橋康賢の二男として生まれる。父の死去に伴い1880年(明治13年)1月16日、家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1882年(明治15年)以降、京都宮殿勤番、殿掌などを務めた。1889年(明治22年)東京専門学校邦語政治科卒業。1890年(明治23年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。
田中 喜太郎(たなか きたろう、1859年7月29日(安政6… 田中 喜太郎(たなか きたろう、1859年7月29日(安政6年6月30日)- 1936年(昭和11年)5月31日)は、明治から昭和前期の日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、石川県石川郡一木村長、同粟崎村長、同松任町長。 加賀国石川郡宮丸村(石川県石川郡一木村字宮丸、松任町、松任市を経て現白山市宮丸町)の農家に生まれる。松本白華に師事した。その後、法律学、経済学を修めた。 1881年(明治14年)村井・宮丸連合村会議員、石川県町村連合会規則編纂委員に就任。自由民権運動に加わる。1887年(明治20年)石川県学事委員となり、1890年(明治23年)5月、石川郡旧義倉会議員、1895年(明治28年)石川県教育会員、石川県検疫委員に就任。
安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5… 安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5年6月19日〉 - 1938年〈昭和13年〉4月2日)は、日本の漢学者。名は朝康、号は朴堂(安井朴堂)。安井息軒の外孫。著作に『日本儒学史』など。 1858年、江戸出身。母親は安井息軒の長女の須磨子。父親は息軒の門人で攘夷志士の中村貞太郎(北有馬太郎)。 1862年、小太郎が幼少の頃、貞太郎が清河八郎をかくまった罪で逮捕され獄死する。貞太郎は逮捕前に家族に罪が及ぶのを避けて離婚したため、小太郎は息軒に引き取られて育つ。とくに9歳から14歳の間、息軒の故郷の日向国宮崎郡(現在の宮崎県)で暮らす。 1871年、宮崎から東京に出て息軒の三計塾に入る。
岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月2… 岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月29日〉 - 1903年〈明治36年〉9月30日、ローマ字表記: Oka Tokita)は、日本の政治家。群馬県勢多郡荒砥村(現・前橋市二之宮町)出身で、同村の初代村長を務めた。群馬県会議員、勢多郡会議員としても活動したほか、地域の寺子屋教育に関与した記録が残る。 安政元年(1854年)、上野国勢多郡二之宮村に、父・岡孝十郎、母・かくの長男として生まれる。 明治維新により大区小区制が施行されると、戸長に就任した。 1889年(明治22年)3月4日、町村制施行により荒砥村が発足し、初代村長に就任した。1901年(明治34年)まで在職。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に選出された。
梅浦 精一(うめうら せいいち、嘉永5年6月13日(1852… 梅浦 精一(うめうら せいいち、嘉永5年6月13日(1852年7月29日) - 1912年(明治45年)3月17日)は明治時代の実業家。越後国長岡出身。大蔵省紙幣寮、新潟県立新潟学校教頭、内務省勧業寮を経て、東京商法会議所書記長、石川島造船所専務取締役。日本初の銀行簿記書『銀行簿記精法』訳者。 嘉永5年(1852年)6月13日越後国長岡の医家に生まれた。幼名は敬助。10歳で刈羽郡南鯖石村三余塾藍沢南城に漢学を学び、13歳で長岡藩医山田到処にオランダ語初歩を学んだ。 1868年(明治元年)江戸に遊学して石井謙道に西洋医学を学び、学資が不足すると学友原田豊、岡玄卿の助けで開業医溝部有山の助手兼家僕となったが、結局医学を断念した。
10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29… 10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29日(弘化4年6月18日)- 1904年(明治37年)10月20日)は、日本の実業家・慈善家。総合建設会社(ゼネコン)の佐藤工業株式会社創業者。富山県砺波郡柳瀬(現砺波市)生まれ。多くの橋の架設に私費を投じ、又、本願寺富山別院が焼失した際、2ヵ月後に「蓮如上人400回忌法要」という大行事を控えていた本願寺の為に結果的に無償で昼夜突貫で再建した。 1500年代の佐藤家の祖佐藤助左衛門から数えて9代目佐藤助九郎の子で、名は10代目貞次であるが、佐藤工業の創業者、初代助九郎と称している。 貞次は近郷に並ぶ者のない豪力と胆力の優れた父の資質を受け継ぎ、相撲・盤持ちなどを得意とし“力持ち貞次”といわれた。
松尾 与十郎(松尾 與十郎、まつお よじゅうろう、天保3年7… 松尾 与十郎(松尾 與十郎、まつお よじゅうろう、天保3年7月3日(1832年7月29日) — 1886年(明治19年)3月15日)は、日本の篤志家である。明治時代に五十嵐川の治水・築堤に尽力した。 越後国蒲原郡片口村の里正(庄屋)・松尾與右衛門の長男として出生した。松尾家には北越戦争の際、村山半牧を匿った。 明治5年8月1日(1872年9月3日)に、五十嵐川が氾濫し、片口村をはじめ五十嵐川左岸(嵐南)が浸水する八朔の洪水が発生した。与十郎はこの洪水被害を受けて、右岸(三条町側)より堤防が低い左岸にしっかりとした堤防の必要性を村々に訴え、新潟県令平松時厚の視察に際して陳情したが、左岸堤防の築堤は許可されなかった。
Waboku(わぼく、7月29日 - )は、日本の男性アニメ… Waboku(わぼく、7月29日 - )は、日本の男性アニメーション作家。退廃的な世界観を軸にイラストレーション、アニメーション分野で制作活動を行っている。2015年(平成27年)から活動している。 高校時代は民俗学者になることを夢見ていたが、高校3年生のときに偶然視聴した細田守の映画サマーウォーズに影響を受け、美術系を志すようになり、東京工芸大学芸術学部アニメーション学科に進学した。 19歳のときに、カット割りが速くさまざまなシーンやキャラクターが一挙に出てくる、情報量の多い「ミュージックビデオ」に魅力を感じ、初めてアニメーションMVを作り始めた。Wabokuは当時影響を受けた作品として、中澤一登や森本晃司、田中達之の作品を挙げている。
植木 伴子(うえき ともこ、7月29日 - )は、大分放送(… 植木 伴子(うえき ともこ、7月29日 - )は、大分放送(OBS)の元アナウンサー。愛称はバンバン。 大分県大分市出身。1973年(昭和48年)4月1日に大分放送に入社。同じくOBSアナウンサーの西村敏雄(愛称:ビンビン)とのビンビン・バンバンのコンビで出演したラジオ番組『ナウナウナウ大行進』等で人気を集めた。 大分放送を退社後、福岡県福岡市に在住し、フリーアナウンサーとして活動。RKB毎日放送の『今日感テレビ』等に出演した。 特記しないものは大分放送の番組。 Category:大分放送のアナウンサーを参照 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
石橋 英子(いしばし えいこ、7月29日 - )は、日本のシ… 石橋 英子(いしばし えいこ、7月29日 - )は、日本のシンガーソングライター、作曲家。フィールド・レコーディングを使った電子音楽のほか、フルート、パーカッションなど様々な楽器を自ら演奏する手法で知られる。千葉県茂原市出身。 2000年から2010年までの間、吉田肇率いるバンド、PANICSMILEにドラムで参加。ドラム以外にも、ピアノ、フルート、ヴィブラフォン等の楽器を演奏するマルチプレイヤーである。 灰野敬二、突然段ボール、山本精一、吉田達也、坂本慎太郎、七尾旅人、町田康、アチコ、ジム・オルーク、山本達久、前野健太、豊田道倫、星野源等といったミュージシャンと共演し、セッションもこなす。映画のサウンドトラック・ドラマの音楽担当、劇団「マームとジプシー」との関わりなど、多彩な活動をしている。