佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年… 佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年1月31日(慶応元年12月15日)- 1929年(昭和4年)9月5日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・一瀬。 陸奥国会津郡若松城下(現福島県会津若松市)で、会津藩家老・一瀬要人の二男として生まれる。15歳で上京し山川浩の世話を受けて苦学し、1887年(明治20年)海軍医学校を卒業し海軍少軍医候補生となるが、2年ほどで退官した。その後帰郷して、河沼郡金上村の豪農・佐瀬家を継いだ。 1893年(明治26年)に再度上京し、同盟倶楽部の理事に就任し、また立憲革新党の運営に加わった。1894年(明治27年)大韓帝国に渡り、朴泳孝内務大臣の知遇を得て、同国の警務庁・監獄署医務、訓練隊衛生事務、裁判医事の顧問となった。
沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866… 沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866年1月31日) - 大正11年(1922年)3月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲政友会)。 宮城県栗原郡沢辺村(現在の宮城県栗原市)出身。自由民権運動に加わり、1881年(明治14年)に公愛会という政社を結成した。1894年(明治27年)、県下の自由党員を糾合して血誠義団を組織し、その会長となった。さらに雑誌「新東北」や仙台新聞を発刊して自由党の勢力拡大に貢献したが、1897年(明治30年)に河野広中が自由党を離党すると、それに従い、東北同盟会を組織した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
鵜飼 猛(うかい たけし、1866年1月29日(慶応元年12… 鵜飼 猛(うかい たけし、1866年1月29日(慶応元年12月13日) - 1948年(昭和23年)5月6日)は、日本の牧師。法学者の鵜飼信成や、アメリカ共産党員でアメリカOSS(戦略情報局)にも所属した鵜飼宣道(ジョー・コイデ)、銀座教会名誉牧師の鵜飼勇の実父でもある。 1866年1月29日(慶応元年12月13日)に松江に生まれる。1879年(明治12年)同郷の鵜飼渚の養子となる。 1885年(明治18年)東京府立第一中学校を中退して、美山貫一を頼ってサンフランシスコに行く。 1886年(明治19年) サンフランシスコの中国人伝道館で洗礼を受ける。その後、アイオワ州のシンプソン大学で学ぶ。 1894年(明治27年) アメリカ・メソジスト教会で按手礼を受けて牧師になる。
上原 鹿造(うえはら しかぞう、慶応元年12月13日(186… 上原 鹿造(うえはら しかぞう、慶応元年12月13日(1866年1月29日) - 昭和10年(1935年)10月4日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。弁護士。 府内藩士上原平馬の四男として大分に生まれる。1883年(明治16年)、大分師範学校に入学して4年間学び、小学校訓導・校長を務めた。1888年(明治21年)に上京し、国民英学会を経て、1892年(明治25年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業した。同年、弁護士試験に合格し、鳩山和夫事務所に勤務した。日本弁護士協会の結成に加わり、機関雑誌の編集主任を務め、理事となった。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日(慶応… 上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日(慶応元年12月11日) - 1939年(昭和14年)4月4日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。富山県高岡市長。富山市長。族籍は富山県平民。 越中国礪波郡上向田村(富山県西礪波郡西五位村、福岡町を経て現高岡市福岡町)出身。上埜次平の長男。家は農を業とし、蚕業を営んでいた。自由党に加入して、富山県内の党勢拡大に貢献した。養蚕業を営み、県下の大地主であり、1887年(明治20年)、初めて富山県会議員に当選、副議長、議長を歴任し、庄川改築工事や富直鉄道建設計画に尽力した。また北陸公論を創刊してその社長となり、さらに越中新報社、東洋漁業会社などの経営に当たった。
木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1… 木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1866年1月26日) - 大正14年(1925年)1月9日)は、戦前日本の官僚・政治家。
山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1… 山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1866年1月26日(慶応元年12月10日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、仏教学者、漢文学者、中国史学者。石見国(現島根県)生まれ。 浄土真宗本願寺派勧学、旧制第三高等学校(現京都大学)教授。定年後は、旧制福岡県立女子専門学校(現福岡女子大学)専任講師、旧制九州帝国大学専任講師等を歴任。 旧制三高の学校誌である『第三高等学校 神陵史』に名前が挙げられている。九州帝国大学の仏教青年会、浄土真宗本願寺派安居本講でも活躍した。島根県大田市にある浄土真宗本願寺派明恩寺第12世住職。 在日本,也有许多不同的议论。开头,山内晋卿认为是真的,他根据的是明清人的说法;总之,常盘大定认为是假的
高見 松太郎(たかみ まつたろう、1866年1月23日(慶応… 高見 松太郎(たかみ まつたろう、1866年1月23日(慶応元年12月7日) - 1930年(昭和5年)1月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1910年、法政大学卒。長崎県会議員、長崎市会議員、同議長代理、所得税調査委員、長崎港湾改良調査会幹事、私立長崎盲啞学校(現・長崎県立盲学校)理事、長崎慈善学会幹事、日本海員掖済会地方委員、長崎麦粉会社、九州生命保険(株)各取締役、長崎米穀株式取引所、長崎勧業信託(株)各監査役、長崎電気瓦斯、長崎ラジウム鉱泉(株)各取締役となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において長崎市選挙区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。
日野 強(ひの つとむ、1866年1月23日(慶応元年12月… 日野 強(ひの つとむ、1866年1月23日(慶応元年12月7日)- 1920年(大正9年)12月23日)は、日本の探検家、大日本帝国陸軍の軍人である。幼名は熊吉。「強」の読み方は戸籍上は「つとむ」であるが、中国で活動していた時期には一般に「きょう」と読まれ、東京地学協会や出口王仁三郎は「つよし」と呼んでいた。日野本人は「きょう」という読み方を使い、「つとむ」の読み方を使っていたのは改まった場面だけだったという。 伊予小松町(現西条市)の常吉、ツヤ夫妻の家に生まれ、一家には強のほかに兄一人、弟二人、妹二人がいた。小学校卒業後に愛媛県師範学校に進み、教職に就くが、転勤先の堀江の小学校の環境に失望する。
川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年… 川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年1月23日) - 昭和24年(1949年)6月14日)は、日本の大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士川島良顕と、その妻・栄子の長男として生まれる。出生時には父親が長州征討のため大坂に出陣中であったため、「浪速」と命名された。明治8年(1875年)に一家で東京に移住。その後、東京外国語学校に入学し中国語を学ぶ。明治19年(1886年)に同校を退学、同年に上海に渡航し、中国各地を見聞する。明治22年(1889年)、病を得て帰国。 明治27年(1894年)、日清戦争が勃発すると、陸軍通訳官として従軍、中国大陸から台湾に転戦する。
岸本 能武太(きしもと のぶた、慶応元年12月16日(186… 岸本 能武太(きしもと のぶた、慶応元年12月16日(1866年1月22日) - 昭和3年(1928年)11月16日)は、日本の宗教学者。宗教学者の岸本英夫は次男である。 慶応元年12月16日(1866年1月22日)、岡山県岡山市花畑に岡山藩士である滝義夫の次男として生まれる。 1880年7月、岡山中学校を卒業し、同年9月、京都同志社英学校普通科に入学する。1882年2月5日、新島襄から洗礼を受ける。1884年6月、京都同志社英学校普通科を卒業する。 1885年4月、同志社英学校神学科に入学し、1887年6月、卒業する。 仙台の東華学校で教師を務めた後、1890年9月、ハーバード大学神学科に留学し、宗教哲学、比較宗教学、サンスクリット語、パーリ語を研究する。
畠山 勇子(はたけやま ゆうこ、慶応元年12月6日(1866… 畠山 勇子(はたけやま ゆうこ、慶応元年12月6日(1866年1月22日) - 明治24年(1891年)5月20日)は、1891年の大津事件で日露関係が緊張した際、被害者のロシア皇太子ニコライに謝罪の遺書を残して自殺した女性である。 1865年、安房国長狭郡横渚(よこすか)村(のち鴨川町の一部。現・千葉県鴨川市横渚)に畠山治兵衛の長女として生まれる。畠山家は横渚の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。5歳で父を失い、17歳で朝夷郡安馬谷村(のち千歳村。現・南房総市)の商家の若松吉蔵というものに嫁いだが、勇子は勝気で商業には不向きな性格であり、また『南総里見八犬伝』や『釈迦八相倭文庫』、政治小説や新聞『日本』などを読むことを好んでいたため、周囲との折り合いが悪かったようで、不縁になり1887年(明治20年)23歳で離婚した。
佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日(186… 佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日(1866年1月21日) - 昭和18年(1943年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。教育者。 信濃国佐久郡長土呂村(現在の長野県佐久市)出身。長野県師範学校を卒業。同級生に河野齢蔵や矢澤米三郎がいた。師範卒業後、北佐久郡で教職につき、他府県出身者の勢力を駆逐し、小諸小学校長時代には、学校を 一村教化の中心にすえることを主唱し、全校生徒の浅間山登山や職員による浅間山研究を行った。さらに郡長が会長の官製教育会のあり方を改め、みずから北佐久郡教育会長に当選するなど、後半の教育官僚・政治家としての地歩を築いた。 明治43年(1910年)に長野県視学に就任し、同理事官、同視学官、大正6年(1917年)同学務課長を歴任したが、「天下の公選によって学務の府に立った」と折にふれ称したという。
矢野 恒太(やの つねた、慶応元年12月2日(1866年1月… 矢野 恒太(やの つねた、慶応元年12月2日(1866年1月18日) - 昭和26年(1951年)9月23日)は、明治期から大正期に生命保険業界の基礎を築いた実業家。第一生命保険創業者。医師。日本アクチュアリー会初代代表。「相互会社の産みの親」と呼ばれ、「蒼梧」と号した。 備前国上道郡角山村(現・岡山県岡山市東区)で生まれる。播磨国赤穂郡砂野庄矢野(現・兵庫県相生市北部)を本貫とした清和源氏山県氏流矢野氏の末裔と称した。 1889年、第三高等中学校医学部(後の岡山医専、現・岡山大学)を卒業、日本生命に診査医として就職する。 しかし、1892年に経営陣との対立から退社し、安田生命(現・明治安田生命保険)の前身である共済生命保険の設立に関わり、その後、支配役となる。
木村 久寿弥太(きむら くすやた、1866年1月18日(慶応… 木村 久寿弥太(きむら くすやた、1866年1月18日(慶応元年12月2日) - 1935年(昭和10年)11月23日)は、日本の実業家。三菱財閥の総理大臣と言われた。 土佐国土佐郡石立村(現・高知県高知市内)の出身。土佐藩の下級武士である田岡亨一の二男に生まれる。もともとは農民の出だが、祖父の代に家老の家に出仕し、武士の身分を得た。藩校の致道館教授も務めた叔父の養子となり、木村家を継ぐ。16歳の時に叔父が大阪で役人になると大阪へ出て、のちに模範中学と改称された専門学校に通い、19歳の時に東京へ出て、大学予備門を経て、帝国大学法科大学政治科へ入学する。学生時代に桐島像一が監督していた岩崎弥之助の息子と一緒に熱海の別荘に避寒すると、豊川良平から岩崎小弥太の監督を頼まれ、卒業まで三菱の寄宿舎から大学へ通った。
近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元… 近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1944年(昭和19年)3月4日)は、日本の明治から昭和期における医学博士・外科医。東京帝国大学医学部教授・病院長。日本で最初に胃がんの手術を成功させた外科医である。。
松方 幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日(慶… 松方 幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1950年(昭和25年)6月24日)は、日本の実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)、美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。
本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応… 本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応2年11月29日〉 - 1925年〈大正14年〉11月25日)は、明治・大正期の英語教育者、イギリス文学者、ジャーナリスト、民間外交家。柔道3段。 美作国久米北条郡上打穴里村(現・岡山県久米郡美咲町打穴里)にて、農家の本田杢蔵・やゑの3男として生まれる。村の小学校(2006年3月廃校)を卒業後、医学を志し岡山県福渡の医師吉岡寛斎(吉岡弘毅の兄)のもとで2年修業した後、上京。 高木兼寛の紹介で、井上馨外務大臣の主治医などをしていた愛宕下田村町の医師松岡勇記の薬局生となる。高木らが設立した海軍軍医学校への進学を志し、試験に必要な英語を習得するため三田英語学校に通ったが、1883年より柔道を習えば無料で英語を学べることから神田神保町にあった嘉納治五郎の英語学校・弘文館に在籍し、講道館で柔道を学んだ。
渡辺 芳太郎(わたなべ よしたろう、慶応元年11月28日(1… 渡辺 芳太郎(わたなべ よしたろう、慶応元年11月28日(1866年1月14日) - 大正12年(1923年)9月23日)は、日本の冶金学者。 尾張国中島郡下祖父江村(現在の愛知県稲沢市)出身。1887年(明治20年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、大学院に進んだ。三菱社に入社し、吉岡鉱山技術係、同副支配人を務めた。1894年(明治27年)、採鉱冶金学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学んだ。1897年(明治30年)に帰国し、東京帝国大学工科大学教授となり、海軍機関学校教授や海軍大学校教授を兼ねた。1899年(明治32年)には工学博士の学位を得た。1906年(明治39年)、病のため退官。
若林 賚蔵(わかばやし らいぞう、1866年1月14日(慶応… 若林 賚蔵(わかばやし らいぞう、1866年1月14日(慶応元年11月28日)- 1941年(昭和16年)11月27日)は、明治から昭和前期の内務官僚、政治家。官選府県知事、貴族院議員。錦鶏間祗候。 村上藩士・若林安静の長男として越後国岩船郡三ノ町(現在・村上市村上)に生まれる。1893年(明治26年)に帝国大学法科大学を卒業。 1896年(明治29年)警視となり6月、警視庁小松川警察署長に就任、1897年4月、群馬県警察部長に就任。同年10月には沖縄県警察部長に転じ、その後警察監獄学校幹事、兼内務書記官、山形県・石川県の各書記官などを歴任。 1908年(明治41年)3月、島根県知事に就任するも、同年8月、招聘により大韓帝国警視総監となる。
作田 右手雄(さくた うたお、1866年1月12日 - 不明… 作田 右手雄(さくた うたお、1866年1月12日 - 不明)は、日本の裁判官。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐藤 友熊(さとう ともくま、1866年1月10日(慶応元年… 佐藤 友熊(さとう ともくま、1866年1月10日(慶応元年11月24日)- 1923年(大正12年)9月1日)は、明治から大正期の検察官、警察官僚。関東都督府警視総長、札幌区長。夏目漱石の友人。 薩摩国給黎郡喜入郷前之浜村(現鹿児島県鹿児島市喜入前之浜町)で、神官・佐藤彦松、比佐夫妻の長男として生まれる。1883年頃に上京し、東京大学予備門受験準備のため成立学舎に入り英語を学び、夏目漱石と交流。牛乳配達、新聞配達などをしながら学費を稼いだ。1884年9月、東京大学予備門予科に入学し、「成立学舎」の出身者らを中心に夏目漱石、中川小十郎、太田達人、中村是公、橋本左五郎らとともに「十人会」を組織した。
湯河 元臣(ゆかわ もとおみ、慶応元年11月24日(1866… 湯河 元臣(ゆかわ もとおみ、慶応元年11月24日(1866年1月10日) - 昭和7年(1932年)9月25日)は、日本の逓信官僚。 静岡県士族の後藤家に生まれ、湯河はまの養子となった。1884年(明治17年)に司法省法学校に入学し、1893年(明治26年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。逓信属となり、逓信事務官、高等海員審判所審判官、逓信書記官、逓信参事官、海事局長、高等海員審判所長、管船局長を歴任した。1914年(大正3年)、逓信次官に就任。 退任後は日本郵船株式会社取締役や近藤記念海事財団理事長などを務めた。
西山 安久作(西山 阿久作、にしやま あくさく、1866年1… 西山 安久作(西山 阿久作、にしやま あくさく、1866年1月10日〈慶應元年11月24日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主、会社役員。東京府北豊島郡西巣鴨町長。 東京市に西山家の長男として生まれる。1887年、家督を相続する。信用組合事務員、会社員になる。金融業を営む。 北豊島郡会議員、豊島信用組合長、氷川神社氏子総代、帝国種苗殖産監査役をつとめる。 また1915年4月23日に巣鴨村長に就職、1923年4月21日に西巣鴨町長を退職。 宗教は浄土宗。趣味は碁。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋(のち東京都豊島区池袋1丁目)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月… 森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月23日) - 1921年(大正10年)10月28日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系県知事、貴族院議員。 米沢藩下士・遠藤庄右衛門の二男として生まれ、秋田県書記官・森長義の養子となる。第一高等学校を経て、1893年7月、帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。司法官試補となる。同年11月、内務属となり警保局に配属された。 1894年6月、香川県参事官・第一課長兼第三課長に就任。以後、新潟県参事官、長野県・香川県・千葉県・和歌山・三重県・熊本県の各書記官、熊本県第一部長、静岡県第一部長などを歴任。 1907年10月、茨城県知事に就任。
石渡 坦豊(いしわた やすとよ、1866年1月6日(慶応元年… 石渡 坦豊(いしわた やすとよ、1866年1月6日(慶応元年11月20日) - 1937年(昭和12年)2月)は、明治後期から昭和時代初期の政治家。教育者。神奈川県横須賀市長、三浦郡豊島町長。 石渡養泰の二男として相模国三浦郡公郷村(神奈川県三浦郡豊島村、豊島町を経て現横須賀市)に生まれる。1886年(明治19年)神奈川県師範学校を卒業し、三浦郡不入斗学校の教員となる。三浦郡教育会設立の先頭に立ち、1888年(明治21年)実現させた。1892年(明治25年)豊島町長となり、1906年(明治39年)まで務め、尋常高等豊島小学校(現横須賀市立豊島小学校)や横須賀・豊島両町組合立横須賀実業補習学校(現横須賀市立工業高等学校)の設立に尽くした。
福田 善三郎(ふくだ ぜんざぶろう、1866年1月1日(慶応… 福田 善三郎(ふくだ ぜんざぶろう、1866年1月1日(慶応元年11月16日) - 1924年(大正13年)10月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岩手県出身。1890年、明治法律学校卒。農業と養蚕業を営む。紫波郡長岡村(現・紫波町)会議員、岩手県会議員となる。また、長岡村農会長、岩手県農会議員、大成信用組合長を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政本党公認で立候補したが次点で落選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙では立憲同志会公認で立候補したが落選した。
入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2… 入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2年1月5日) - 1938年(昭和13年)11月8日)は、明治から昭和期にかけての内科医。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、東京帝国大学附属医院長・同大学医学部長・宮内省侍医頭等を歴任、日本の内科学確立に貢献する。 入沢達吉は1865年1月31日(元治2年1月5日)に越後国新発田藩藩医入沢恭平の長男として、南蒲原郡今町(現新潟県見附市)に生まれた。1870年(明治3年)1月寺子屋にて手習いを覚え、1876年(明治9年)10月、叔父池田謙斎の勧めで上京し私塾に通う。1877年(明治10年)11月東京大学医学部予科に入学する。1883年(明治16年)東京大学医学部本科に進級、1889年(明治22年)1月31日東京帝国大学医科大学(学制変更により改名)を卒業し、ベルツ(Erwin von Bälz)に師事し内科無給助手となる。
河野 徹志(こうの てつし、元治2年1月4日(1865年1月… 河野 徹志(こうの てつし、元治2年1月4日(1865年1月30日) - 昭和15年(1940年)10月23日)は、日本の衆議院議員(正交倶楽部)。産婦人科医、小児科医。 薩摩国薩摩郡高江村(現在の鹿児島県薩摩川内市)出身。1885年(明治18年)、大阪医学校(現在の大阪大学医学部)を卒業し、東京慈恵医院において高木兼寛・実吉安純のもと実地経験を積んだ。1891年(明治24年)、渡米してペンシルベニア大学に入学し、卒業の後医学博士の学位を得た。その後、ジョンズ・ホプキンス大学で学び、さらにオーストリアのウィーン大学でも学んだ。帰国後は大阪医学校助教諭や吉田病院副院長を務めた。1899年(明治32年)に河野病院を開業し、1912年(大正元年)には大阪市医師会議長に就任した。
西沢 喜太郎(にしざわ きたろう、旧字体: 西澤 喜太郞、慶… 西沢 喜太郎(にしざわ きたろう、旧字体: 西澤 喜太郞、慶応元年12月13日〈1865年1月29日〉 - 1941年〈昭和16年〉2月25日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の銀行経営者である。長野県長野市の人物で、家業である書籍商を営みつつ長野市を拠点とする長野商業銀行・長野農工銀行・長野貯蓄銀行で頭取を務めた。「喜太郎」を襲名する前の名は喜三郎。 慶応元年12月13日(新暦:1865年1月29日)、堀内鍋作(士族)の次男として生まれる。出身地は信濃国埴科郡屋代町(現・長野県千曲市)。1882年(明治15年)勉学のため上京し、1885年(明治18年)陸軍教導団へ入隊。翌年一等軍曹に任ぜられたが、1888年(明治21年)病を得て除隊した。
巽 孝之丞(たつみ こうのじょう、元治元年12月29日(18… 巽 孝之丞(たつみ こうのじょう、元治元年12月29日(1865年1月26日) - 昭和6年(1931年)6月11日)は、戦前日本の財政家。横浜正金銀行ロンドン支店支配人、日仏銀行創立委員・取締役。中村啓次郎の実兄。小泉信三の祖父小泉文庫はいとこにあたる。息子に英文学者の巽豊彦、孫に米文学者でSF評論家の巽孝之がいる。 紀州藩士・吉川流砲術師範役であった吉川定之進の長男。幼名は豊吉。紀伊国那賀郡山崎村中野黒木十八番地に生まれる。 巽家を相続し、藩費留学生となり上京し慶應義塾に入学。同門に親戚の小泉信吉など。卒業後に小泉信吉の口利きで横浜正金銀行に入行する。以来、取締役、常務となるまで30年間、英国ロンドンで在任した。
神戸 寅次郎(かんべ とらじろう、元治元年12月27日(18… 神戸 寅次郎(かんべ とらじろう、元治元年12月27日(1865年1月24日) - 昭和14年(1939年)5月17日)は、日本の法学者。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。 静岡県庵原郡松野村出身。静岡県松野小学校、県立静岡中学校、静岡英学校を経て1887年慶應義塾正科に入学。1890年に新設された慶應義塾大学部法律科に入学し、ハーバード大学から派遣されたジョン・ヘンリー・ウィグモア教授のもとで学ぶ。同科を卒業した翌年の1892年に同教員となる。 慶應義塾第一回留学生に選ばれ、1899年8月から1902年12月にかけベルリン大学およびハレ大学で学ぶ。学位論文「日本の合名会社」にてハレ大学からドクトル・ユーリスの学位を授与される。
上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元… 上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元年12月26日〉- 1918年〈大正7年〉5月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会)。ジャーナリスト。号は笠山。義兄に検事総長の春木義彰。 大和国平群郡法隆寺村(現在の奈良県生駒郡斑鳩町)に中宮寺門跡家司で勤王家の上島掃部の子として生まれる。 1885年(明治18年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。裁判所書記、釧路十勝共同汽船会社社員、函館商業学校嘱託教員を経て、『函館新聞』記者となった。1895年(明治28年)、報知新聞社に入り、主筆を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(… 中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(元治元年12月24日) - 1936年(昭和11年)11月19日)は、明治から昭和時代の土木工学者、内務技師、逓信技師、東京帝国大学名誉教授。工学博士。 中山善之進の三男として、三河国額田郡奥殿村(現・愛知県岡崎市奥殿町)にて生まれる。1912年(大正元年)7月、兄の眞琴の跡を継ぐ。1888年(明治21年)帝国大学工科大学土木科を卒業し、関西鉄道会社技師として2年の実務経験を経て、1890年(明治23年)同大助教授。 1896年(明治29年)河海工学研究のため欧米へ留学し、帰国後、1898年(明治31年)同大教授。この間、帝国経済会議、学術研究会議、土木会議等会員を歴任。
大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年… 大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年12月20日〉 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従四位勲三等功四級 1865年1月17日(元治元年12月20日)長州藩大村久兵衛の次男として生まれる。父久兵衛はかつて、奇兵隊と常備軍の小郡付近での戦闘において常備軍側に加わり戦闘に参加した。明治の初め頃には少年を集めて郷勇隊を編成し、武術の鍛錬などを行っていた。
新井 石禅(あらい せきぜん、俗名:石井仙太郎、元治元年12… 新井 石禅(あらい せきぜん、俗名:石井仙太郎、元治元年12月19日(1865年1月16日) - 1927年(昭和2年)12月7日)は、日本の曹洞宗の僧侶。總持寺独住5世、第11代管長(大陽真鑑禅師)。号は穆英。 陸奥国伊達郡梁川村(現福島県伊達市)の石井家の三男に生まれ、12歳の時に出家、菩提寺の興国寺住職新井如禅の弟子となる。曹洞宗専門本校(現、駒澤大学)に学び、わずか3年で卒業。畔上楳仙、森田悟由らに参禅した。 善徳寺、浄春院、大栄寺、雲洞庵、護国院、最乗寺などに歴住し、曹洞宗大学林学監兼教授、教学部長、永平寺副監院となり、總持寺西堂を経て大正9年(1920年)に独住5世、曹洞宗第11代管長となる。
3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年1月15日(元… 3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年1月15日(元治元年12月18日) - 1946年(昭和21年)4月11日)は、明治期の実業家。磐城セメント(住友大阪セメント)を創業した。 下野国都賀郡藤岡村(現・栃木県栃木市藤岡町藤岡)で2代・清七の長男として生まれる。家は代々醤油醸造と米穀肥料商を生業とする。小学校卒業後、郷里の鴎村学舎で漢学を修め、1880年東京に出て岡千刃の塾で漢学を修める。この塾で片山潜と知り合い、生涯親交した。1882年より片山のいた攻玉社で数学を専修し、1883年9月慶應義塾に入学。1884年2月慶應義塾の斡旋で渡米し、1885年6月コーネル大学で政治経済を学ぶが性に合わず、ニューヨーク領事の高橋新吉から実業家に役に立つ法科を勧められ、1887年6月、イェール大学で法律学を専修し学位を得て1889年に帰朝する。
林 歌子(はやし うたこ〈戸籍名ウタ〉、1865年1月11日… 林 歌子(はやし うたこ〈戸籍名ウタ〉、1865年1月11日〈元治元年12月14日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月24日)は、日本の教育者、キリスト教の社会事業家。 越前国大野(現在の福井県大野市)に、大野藩士林長蔵の長女として生まれる。 1877年(明治10年)に石川県(現在の福井県)第三女子師範学校(後に石川県第三女子小学師範学校と改名)に第1期生として入学する。明治天皇の巡幸の折は名代として来校した大隈重信参議の前で日本外史の一節を講義し、金一封をもらう。1880年(明治13年)に卒業後、大野町の有終小学校で勤務する。 小学校教員時代に歌人布川正沖に和歌を学ぶ。当時あこがれの女性は下田歌子だった。
五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年… 五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年1月11日〈元治元年12月14日〉 - 1910年〈明治43年〉9月10日)は、日本の歌舞伎役者。養父は十二代目守田勘彌。 元治元年12月14日(1865年1月11日)、三河国の東海道にある池鯉鮒宿の旅籠、巴屋こと林寅吉の次男として生まれた。本名は鉄三郎。母は碧海郡東境村の泉正寺の生まれである。 理由は定かでないが、母親とともに巴屋を出て旅役者となり、女優の中村仲吉に預けられた。10歳の時に東京に向かい、坂東喜知六を頼って坂東利喜松(りきまつ)と名乗った。新富座で踏んだ初舞台が認められて坂東喜知六の養子となった。 1889年(明治22年)に京都の祇園座がこけら落としを行った際、九代目市川團十郎一座に招かれて出演し、非凡な才能を見せつけた。
栗原 宣太郎(くりはら せんたろう/のりたろう、元治元年12… 栗原 宣太郎(くりはら せんたろう/のりたろう、元治元年12月12日〈1865年1月9日〉 - 1943年〈昭和18年〉12月8日)は、明治から昭和時代前期の政治家。神職。衆議院議員(2期)。指揮者のスマイリー小原は一族。 相模国大住郡今泉村(神奈川県大住郡南秦野村、中郡南秦野村、南秦野町を経て現秦野市)の村社・白笹稲荷神社祠職の家に生まれ、同社社掌となる。権田直助に国学を、小笠原東陽に漢学を学ぶ。のち日本大学に入り法学を修めた。1897年(明治30年)から翌年まで南秦野村長、1898年(明治31年)から1902年(明治35年)までの2期、神奈川県会議員、同議長を務めた。ほか、国文雑誌、政治雑誌の編集に従事した。
富田 愿之助(とみた げんのすけ、1865年1月1日(元治元… 富田 愿之助(とみた げんのすけ、1865年1月1日(元治元年12月4日) - 1927年(昭和2年)3月8日)は、衆議院議員(政友本党)、医師。 肥前国彼杵郡広田村(現在の長崎県佐世保市)出身。1888年(明治21年)、東京帝国大学医科大学別科を卒業。佐世保で医院を開業し、村会議員となり、市制施行後は市会議員、さらに市会議長として1914年(大正3年)までその職にあった。その後、県会議員、県参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、西部合同瓦斯株式会社・五島電灯株式会社・有川電灯株式会社取締役、壱岐電灯株式会社監査役を務めた。
小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久… 小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久3年12月20日) - 1950年(昭和25年)6月19日)は、日本の政治家、剣道家。 埼玉県会議員(4期)、衆議院議員(5期)を務め、剣道の中学校正科編入への請願運動に尽力した。流派は小野派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 武蔵国埼玉郡小針村(埼玉県北埼玉郡小針村、太田村を経て現行田市)で、小鹿原安次郎の弟、地主・田島竹之助の従兄弟として生まれ、桑崎村(岩瀬村を経て現羽生市)の素封家・小沢丈右衛門の養子となる。佐倉藩士・倉田幽谷から盈進義塾で漢学を学んだ。 1877年(明治10年)4月、14歳から忍町佐間(現行田市)の講武場道場で旧忍藩剣術指南役松田十五郎に小野派一刀流を学ぶ。
石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1… 石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1864年1月24日) - 昭和7年(1932年)2月5日)は、正教会の神学者。陸奥国仙台(現宮城県仙台市)出身。聖名はペートル(ペトル)。 生涯で活発に著述活動を行った。 1892年、日本ハリストス正教会の機関誌『正教新報』の編集人となる。亜使徒聖ニコライ大主教からセルギイ・チホミーロフ主教(肩書当時、のち府主教)に日本正教会の長が代わった際に『正教新報』は『正教時報』となるが、その編集人・発行人であり主筆であった。 1917年のロシア革命により母教会からの日本正教会への財政的援助が途絶え教会財政が逼迫する中、1923年の関東大震災により編集場所もなくなり、『正教時報』も縮小を余儀なくされ主筆の石川以外の人員が全て解雇され、石川の仮住居がそのまま正教時報社となるといった多大な困難にあって、石川は編集、発送、会計など全ての事務を担い続け『正教時報』発行継続に全力を尽くした。
田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(18… 田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(1864年1月23日) - 昭和8年(1933年)4月26日)は、日本の近江商人、実業家。大阪紡績取締役。東洋紡・日清紡ホールディングス・江商(現・兼松)の設立に関与した。また、綿糸相場師として活躍し『田附将軍』と呼ばれた。「売りの田附」として有名。ニュース・キャスターの国谷裕子の曾祖父。 文久3年(1864年)に近江国佐生村(後の滋賀県神崎郡五峰村佐生、神崎郡能登川町佐生を経て現・東近江市佐生町)に産まれる。船場八社の一つの田附商店を開業し、綿花取引や、綿業界をリードする存在であった。また、社会貢献として、京都大学に財団法人田附興風会、郷里の神崎郡五峰村に公益財団法人五峰興風会、帝塚山学院、大阪市に北野病院などを開設している。
塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈186… 塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈1864年1月22日〉 - 大正7年〈1918年〉3月24日)は、日本の政治家、教育家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)。 上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身。父は塩谷真雄。群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後、郷里で教員となる。その後上京し1887年(明治20年)に慶應義塾を卒業。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選。1894年(明治27年)に再選され常置委員となる。
坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864… 坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864年1月20日〉 - 昭和6年〈1931年〉8月12日)は、日本の銀行家。元山口合資会社理事長。 尾張国名古屋出身。1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業、三菱合資会社銀行部入行。三菱合資会社銀行部大阪支店長を経て、1910年に町田忠治の後任として山口銀行上席理事に就任。1914年日本生命保険監査役。1918年大阪貯蓄銀行取締役。山口銀行の近代化を進めた。1924年には山口銀行筆頭常務を退任し、以降山口合資会社理事に専念し、山口合資会社理事長も務めた。1929年共同火災海上保険取締役会長。 ファミリア創業者の坂野惇子は、七男通夫の妻。長女の芳子は、衆議院議員横井時雄四男柳瀨存の妻。
小山 作之助(こやま さくのすけ、文久3年12月11日(18… 小山 作之助(こやま さくのすけ、文久3年12月11日(1864年1月19日) - 昭和2年(1927年)6月27日)は、日本の教育者・作曲家。日本教育音楽協会初代会長。 文久3年12月11日(1864年1月19日)越後国頸城郡潟町村(現在の上越市大潟区潟町)に生まれる。16歳で小学校を卒業した後、石油事業をしていた父の仕事を手伝うため高田町(のちの高田市、現在の上越市)へ移り住み、夜は漢学塾に通う生活をしていた。 1880年(明治13年)家人に無断で上京、大学予備門を経て築地大学(現在の明治学院大学)へ入学する。英語と数学を学び1883年(明治16年)2月、文部省音楽取調所に入学し、伊沢修二に師事。
清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年1… 清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年12月8日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国盛岡(現岩手県盛岡市)生まれ。父親行三の関係で秋田で過ごし太平学校(旧制秋田中学校、現秋田県立秋田高等学校)を卒業。1882年(明治15年)から1894年(明治27年)まで岩手県庁に勤務。1894年から1901年(明治34年)まで盛岡市長を務めた。1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬して原敬に敗れる。その後、盛岡電気社長、巖手日報の主筆、同社長などの事業を手がけた。
柴田 忠次郎(しばた ちゅうじろう、1864年1月16日 -… 柴田 忠次郎(しばた ちゅうじろう、1864年1月16日 - 1909年9月27日)は、明治時代の貿易商。日本における活動写真(映画)の導入に貢献した人物である。 愛知県豊田市出身。父は挙母藩の郡奉行を務めた柴田順平。弟に柴田鏡三郎。 東京・京橋の貿易商、新居商会に勤め、興行師の櫛引弓人や新居三郎と関わりを持つ。1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に日本庭園を出品するため渡米。その後もアメリカ各地の催しに参加した。 1896年(明治29年)、友人の勧めで「ヴァイタスコープ」の上映を観賞。日本での上映を思い立ち、直ちに映写装置と16本のフィルムを3,500円で購入したが、代金が不足していたため、残額を日本で支払うこととなった。
盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年… 盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年12月7日) - 1937年(昭和12年)2月24日)は、日本の実業家。敷島製パンの創業者で初代社長。 尾張国知多郡小鈴谷村(現・愛知県常滑市)で造り酒屋を営んでいた盛田太助の五男で、敷島製パンの現社長盛田淳夫はひ孫。中埜酢店(現・ミツカン)の4代中埜又左衛門は叔父に当たる。 1864年1月15日(文久3年12月7日)、造り酒屋の五男として生まれた善平は家業を継ぐも酒税法の改正により廃業。当時ミツカンの創業家である中埜家の養子となっていた叔父の4代中埜又左衛門から「ビールづくりを手伝って欲しい」と頼まれたのを期に独学でビール造りを学び、1887年(明治20年)に又左衛門と共に丸三麦酒醸造所を創業する。