阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年… 阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年1月16日〉- 1941年〈昭和16年〉11月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。父親は阪谷朗廬。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻である。 後月郡西江原村(現:岡山県井原市)、幕末に開国派として活躍した漢学者、阪谷朗廬の四男として生まれる。1873年(明治6年)に父の友人である箕作秋坪の三叉学舍に入り、1876年(明治9年)には東京英語学校に入学、1880年(明治13年)には東京大学予備門を卒業。 1884年(明治17年)、東京大学文学部政治学科(現:法学部第3類)を卒業後、大蔵省に入省する。
五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863… 五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863年3月3日) - 昭和19年(1944年)8月7日)は、日本の実業家、政治家。北海道多額納税者。北海造営(株)監査役。札幌電気軌道監査役。金融業。地主。北海道士族。衆議院議員。 越前国足羽郡、のちの福井県足羽郡和田村(現福井市)出身。福井県士族五十嵐佐次平の長男。明治31年(1898年)家督を相続する。金融業を営む。衆議院議員に挙げられる。 五十嵐農場(東中)の土地売却をめぐっては、当時急激に増加しつつあった小作争議との関わりで社会の注目を集めることになった。この農場は明治40年(1907年)に中島農場から所有権が移動したもので、実質的な所有者は札幌の金貸し業・五十嵐であった。
河村 九淵(かわむら ちかすえ、1863年3月2日(文久3年… 河村 九淵(かわむら ちかすえ、1863年3月2日(文久3年1月12日) - 1934年4月9日)は、日本の教育者、農学者。熊本農業学校(現・熊本県立熊本農業高等学校)初代校長、立教学校(現・立教大学)化学教授、奈良英和学校校長、香川県高松尋常中学校校長。熊本県近代文化功労者。 1863年(文久3年)、津山藩士・河村浩一の長男として江戸に生まれる。岡山県出身。1876年(明治9年)に開校した日本最初の高等農業教育機関である札幌農学校(現・北海道大学)で4期生として学ぶ。 農学校卒業後、山形で農学校教諭、香川県高松尋常中学校校長を歴任。 1890年(明治23年)10月、立教大学校(現・立教大学)が改組されて第2次立教学校が発足すると、化学の教授に就任し、動物学、植物学、生理学を講じる。
佐藤 琢治(さとう たくじ、文久3年1月13日(1863年3… 佐藤 琢治(さとう たくじ、文久3年1月13日(1863年3月2日) - 1902年(明治35年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。号・養花生、浩毅。 陸奥国登米郡登米(現在の宮城県登米市)で、仙台藩陪臣・佐藤弥右衛門の二男として生まれる。明治法律学校(現在の明治大学)で学ぶ。自由党に入党したため、保安条例で追放された。『新愛知』、『仙台自由新聞』、『民報』、『自由党党報』で記者を務めた。1892年(明治25年)、宮城県会議員に選出。 1898年(明治31年)、第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
鎌田 三之助(かまた さんのすけ、1863年3月2日(文久3… 鎌田 三之助(かまた さんのすけ、1863年3月2日(文久3年1月13日) - 1950年(昭和25年)5月3日)は、日本の公共事業家、政治家。衆議院議員、宮城県鹿島台村(現在の大崎市鹿島台地域)村長。品井沼干拓事業に打ち込み「わらじ村長」の名で知られた。 1863年(文久3年)陸奥国志田郡木間塚村竹谷(現在の宮城県大崎市古川、旧・古川市)に鎌田三治の次男として生まれる。生家の鎌田家は、仙台藩士の流れを汲む家で鳴瀬川に沿った大地主の家柄であり、祖父玄光、父三治とも地元の治水事業に生涯を傾けた。1878年(明治11年)政治家を志し上京し、漢学塾や明治法律学校で学ぶ。郷里に戻り農業に従事しながら木間塚に青年教育の場として大成館を設立し夜学で教える。
竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久… 竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久3年1月12日)- 1932年(昭和7年)4月16日)は、明治から昭和初期の大蔵官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・古瀬。 出羽国最上郡、のちの山形県最上郡新庄町(現新庄市)で、素封家、新庄藩士・古瀬鉄之助の第五子として生れ、同藩士・竹村勝行の養子となる。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 1888年11月24日、大蔵省試補に任官し出納局に配属。出納局配賦課事務取扱、大蔵主計官、預金局勤務、兼預金局収支課長、理財局国庫課長、青森県収税長、岡山県収税長、新潟税関長、司税官、新潟県税務管理局長、大蔵主計官などを歴任し、1898年(明治31年)10月27日に退官した。
中川 恒次郎(なかがわ つねじろう、1863年(文久3年)3… 中川 恒次郎(なかがわ つねじろう、1863年(文久3年)3月 - 1900年(明治33年)8月14日)は、明治時代の日本の外交官、経済学者。在タウンズビル日本帝国領事館や在シドニー日本帝国領事館の初代領事などを務めた。 1863年(文久3年)3月、江戸に生まれる。1884年(明治17年)、東京大学法理文学部政治学及理財学科を卒業し、文学士の学位を取得し、卒業後、大蔵省に入省した。 大蔵省勤務のかたわら、1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけて『経済實學講義』二巻を著し、同書はドイツ歴史学派を日本で紹介した最初の導入書とされる。1887年(明治20年)の国家学会創立時には雑誌委員を務めた。
武部 其文(たけべ きぶん、1862年3月27日(文久2年2… 武部 其文(たけべ きぶん、1862年3月27日(文久2年2月27日) - 1929年(昭和4年)4月12日)は、富山県出身の政治家、弁護士。 文久2年(1862年)2月に、旧加賀藩十村役で1883年(明治16年)に富山県会初代議長を務めた武部尚志(文政12年(1829年) - 明治44年(1911年))の二男として出生。その弟で富山県会議員であった武部堅の養子となった。 富山の岡田呉陽を経て、二松学舎(現・二松學舍大学)、明治法律学校(現・明治大学)に学び、1885年(明治18年)8月に金沢において代言免許を取得し、富山で代言活動を行った。 内務省による選挙干渉によって死者まで出したことで知られる1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙(富山第四区)では、北陸自由党から出馬し、立憲改進党の島田孝之を破って当選したが、その後1893年(明治26年)6月に当選無効訴訟が確定して失職。
坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(186… 坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(1862年3月26日) - 昭和24年(1949年)3月24日)は日本の出版人、編集者、政治家。号は水哉(すいさい)。 1862年、越後国南蒲原郡加茂(現・新潟県加茂市)に生まれる。東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科在学中、博文館に入社。編集局長を経て1918年取締役就任。1895年には雑誌『太陽』の創刊にあたり初代主筆、編集主幹としてこれに従事した。政治家としては1901年以来7期にわたって東京市会議員を務め、1907年開館の東京市立図書館(現・日比谷図書文化館)建設につくした。1917年、大橋図書館(現・三康図書館)館長。1918年、日本図書館協会会長。
由布 武三郎(ゆふ たけさぶろう、文久2年2月24日(186… 由布 武三郎(ゆふ たけさぶろう、文久2年2月24日(1862年3月24日) - 大正15年(1926年)2月22日)は、日本の判事・弁護士。錦鶏間祗候。 福岡県出身。熊本バンドのメンバー。1881年(明治14年)、東京大学法学部を卒業。始審裁判所判事、上等裁判所判事、重罪裁判所裁判官、控訴院評定官、地方裁判所所長を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、視学官、高等商業学校(現在の一橋大学)校長などを務めた。1897年(明治30年)、行政裁判所評定官に任じられ、1910年(明治43年)に退官した。退官後は弁護士を開業した。1918年(大正7年)12月16日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
神戸 挙一(かんべ きょういち、1862年3月21日(文久2… 神戸 挙一(かんべ きょういち、1862年3月21日(文久2年2月21日)-1926年(大正15年)11月25日)は日本の実業家。 東京電燈社長。甲州財閥の重鎮。 1862年3月21日(文久2年2月21日)、甲斐国都留郡東桂村に出まれる。生家の没落により、苦学して和仏法律学校(現法政大学)を卒業する(1888年(明治21年))。山梨県会書記となるが、若尾逸平に認められて東京馬車鉄道の支配人に抜擢される。その後、日本鉄道の専務取締役を経て、甲州財閥系の東洋モスリンの設立に参画し専務取締役に就任する。 1911年(明治44年)に東京電燈に入社し、翌年佐竹作太郎のあとを受けて社長に就任する。折から激化していた東京の電力供給の覇権を争った三電抗争で東京電燈を勝利に導き、東京電燈の黄金時代を築いた。
則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2… 則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2年2月21日〉 – 1931年〈昭和6年〉8月6日)は、日本の政治家、弁護士。勲等は勲三等。位階は従五位。 熊本市生まれ。明治法律学校(現・明治大学)中退。 長崎県で弁護士を開業し、1899年(明治32年)長崎市会議員となった。1901年(明治34年)3月11日から1908年(明治41年)1月14日までと、1909年(明治42年)1月21日から1910年(明治43年)4月8日までの2度に亘り、市会議長を務める。 また、国政にも進出し、1912年(明治45年)に衆議院議員となり、以後、立憲民政党などから計7回当選する。 1917年(大正6年)に長崎日日新聞社長に就任した。
小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月… 小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月11日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、駿河国生まれの書家。名は鐧之助、字は間金、鵞堂は号。別号を斯華翁、斯華書屋主人という。斯華廼舎、二柳居の堂号もある。 明治、大正のかな書道界を代表する大家で、現代のかな書道の基礎を築いた一人である。平安期の草仮名を基底として独自の流麗なスタイルを案出し、その書風は鵞堂流と称され多くの門弟を得た。また「斯華会」を創設し、この組織をもって普及に努めたため、婦人たちで習字をするものはほとんど鵞堂流を習うという盛況を現出した。 文久2年(1862年)駿河国(静岡県)藤枝宿に、田中藩士の武道師範、小野清右衛門成命の長男として生まれる。
山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久… 山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久2年2月9日) - 1945年(昭和20年)3月4日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の物理学者、官僚。理学博士。 出雲国(現・島根県)松江に、松江藩士・山口軍兵衛礼行(知行は200石)の三男として生まれる。1884年、東京大学理学部物理学科を卒業。 東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。 その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。
宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年… 宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年2月8日〉 - 1928年〈昭和3年〉4月2日)は、日本の銀行家・会社役員、新潟県の大地主、篤農家、新潟県多額納税者。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)・宇尾野友太郞の長男。1887年、東京高等商業学校を卒業する。新潟商業学校長となる。1893年、家督を相続する。 新発田倉庫、新潟貯蓄銀行各監査役、第四銀行取締役・同専務取締役をつとめる。 宇尾野家は古着商で、平凡な一庶民階級であったが、藤八は極めて堅実な人で、よく産を為した。第四国立銀行創設当時、支配人の白勢彦次郎に知られ同行に入り、累進して専務取締役となった。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。
飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年… 飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年2月5日) - 1908年(明治41年)2月6日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 小松藩郷士・飯尾才右衛門、武川氏の長男として伊予国新居郡萩生村(中萩村、中萩町を経て現愛媛県新居浜市)に生まれる。尾埼山人について漢学を修めた。1888年(明治21年)新居郡会議員に当選したのを皮切りに、愛媛県会議員を務めた。1898年(明治31年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月8日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。 1888年(明治21年)5月、飯尾製糸場を設けて機械製糸を開始し、県内屈指の製糸工場となった。
宮川 久次郎(みやかわ きゅうじろう、文久2年2月3日(18… 宮川 久次郎(みやかわ きゅうじろう、文久2年2月3日(1862年3月3日) - 没年不詳)は、明治期日本の外交官、銀行家。在広東副領事、在香港副領事、在ニューヨーク一等総領などを歴任した。 東京府出身。高等商業学校(現一橋大学)卒業後、外務省入省。森有礼文部大臣による上申により、1888年に交際官試補と兼任して母校高等商業学校教諭に任じられ、統計を講じた。1889年広東副領事。同年汕頭副領事及び瓊州副領事を兼務。1890年香港副領事。1895年ニューヨーク一等領事。1897年に非職となり、のち横浜正金銀行副支配人などを務めた。1900年叙正六位。1908年の申酉事件では、成瀬隆蔵、図師民嘉、村瀬春雄、八十島親徳と大学問題実行委員に就任。
嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(18… 嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(1862年3月1日) - 昭和22年(1947年)10月26日)は、日本の小説家、翻訳家、評論家、詩人。 嵯峨の屋 お室、矢崎 嵯峨の舎(屋)(やざき さがのや)、北邙散子(ほくぼうさんし)、探美(たんび)などの筆名もある。 本名・矢崎 鎮四郎(しんしろう) 曾孫は、俳優・モデルの岡本竜汰。 後の東京市日本橋区(現・東京都中央区)日本橋箱崎にあった下総関宿藩邸生まれ。父親が脱藩し彰義隊(卍隊)に加わったため、貧苦の生活を送る。 1876年、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科の給費生となる。二葉亭四迷とは同級生だった。 卒業後統計院に勤めるが官制に伴って失職、二葉亭四迷の紹介で坪内逍遥の門下生となる。
井尻 良造(いじり りょうぞう、1862年3月1日 - 19… 井尻 良造(いじり りょうぞう、1862年3月1日 - 1925年9月11日)は、京都府船井郡世木村殿田にいた政治家・実業家。京都府会議員の在任中、八木町と富本村をつなぐ桂川(大堰川)のわたしにはじめて木橋を架設した。 1862年(文久2年)3月1日、良造は丸山小三太の三男として丹波国多紀郡栃梨村(現・兵庫県丹波篠山市栃梨)に生まれた。丸山家は篠山藩譜代の藩士で、側用人をつとめた上士の家柄であった。良造は、多紀郡篠山在の某塾(のちに鳳鳴義塾、現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)で学んだ。 1878年(明治11年)11月、良造は16歳の時、船井郡殿田村(現・南丹市日吉町殿田)の井尻家に養嗣子として迎えられた。
林 元俊(はやし げんしゅん、1861年3月30日(万延2年… 林 元俊(はやし げんしゅん、1861年3月30日(万延2年2月20日)- 1904年(明治37年)10月31日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 琉球国薩摩藩領大島郡花徳村(鹿児島県大島郡花徳村、天城村、東天城村を経て現徳之島町花徳)で生まれた。今藤勇に師事し、漢学、数学を修めた。 経済界では、1896年(明治29年)1月、大阪第七十九国立銀行取締役に就任。以後、同行大島支店主任、鹿児島県農工銀行設立委員、大島興業社長を務めた。 政界では、1889年(明治22年)1月、大島郡第19学区学事委員に就任。同年7月、大島郡山村外五ヶ村戸長となる。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(鹿児島県第7区、無所属)で当選し、その後立憲政友会に所属して、衆議員議員に1期在任した。
都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年… 都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年2月17日〉- 1923年〈大正12年〉7月6日)は、日本の官僚、外交官、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、法学博士、男爵。位階は正二位、勲等は勲一等。都築と表記される場合がある。 上野国高崎藩稲荷台(現:群馬県高崎市)の名主・藤井安右衛門(のち安治)の二男として生まれる。満1歳を迎える前に西条藩士・都筑侗忠の養子となり、渋谷の藩邸で暮らすこととなった。幼少期から同藩士・阿曽沼正六綱義に素読の教えを受け、10歳のときからは芝新堀町の千村塾に通った。さらに横浜の修文館、カロザースの築地大学校で学ぶ。15歳のときに東京開成学校へ入学。1881年(明治14年)7月、旧東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業した。
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2… 内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。 万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる。慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。 明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎知藩事の大河内輝声は罷免された。
野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(186… 野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(1861年3月21日) - 大正12年(1923年)5月7日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、郡会議員、町会議員。中国貯蓄銀行頭取、米子銀行取締役。鳥取県平民。大地主。 元米子市長野坂寛治の父。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎四男。 地方村夫子に従い漢学句読習字算術等の教授を受く。小学校設立に及び入校し或は豫科学所に入り勤学す。 明治10年(1877年)1月分家して一家を創立す。明治15年(1882年)呉服商をはじめて営む。明治17年(1884年)米綿仲買商を兼業した。 明治31年(1898年)3月実施された第5回総選挙で第三区から衆議院議員に当選した。
大橋 頼摸(おおはし らいも、1861年3月19日(万延2年… 大橋 頼摸(おおはし らいも、1861年3月19日(万延2年2月9日) - 1912年(大正元年)11月5日)は、明治時代の政治家。実業家。新聞経営者。衆議院議員。静岡県磐田郡井通村長。 遠江国豊田郡小立野村(静岡県豊田郡井通村、磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。浜松師範を卒業し、西之島学校(現磐田市立豊田南小学校)教員となる。ついで郡書記を経て25歳にして川井村外11宿村戸長に就任し、1888年(明治21年)には静岡県会議員に当選した。15年に渡り県議を務め、さらに県常置委員、県参事会員、井通村長、中遠農会長、磐田郡米穀改良組合長、静岡県農会長などを歴任した。 その後、静岡新報を立ち上げ社長として経営に当たったほか、静岡印刷の社長も務めた。
磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延… 磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延2年2月7日) - 1931年(昭和6年)4月23日)は、国民英学会の創立者。磯部彌一郎とも。 熊本藩士磯辺謙叟の二男として豊後国大分郡鶴崎村(現・大分市鶴崎)に生まれる。漢学塾を経て1875年(明治8年)上京し鳴門塾へ入学したのち慶應義塾に学ぶ。一度ほかの私立学校に転じたのち、1877年(明治10年)慶應義塾に復学し、翌年応募した懸賞作文『酒と博打いずれがその害大なるや』で賞を受ける。 福沢諭吉の民権主義に感化され、1880年(明治13年)に退学して北海道の開拓会社「函館開拓社」へ入社、岩内社に移ったのち、同社の閉鎖に伴い岩内小学校の教員となる。
山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元… 山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元年1月28日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 陸奥仙台藩領登米郡、のちの登米町(現登米市)で、商家・山田東十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)11月、家督を相続した。1894年(明治27年)登米郡会議員に当選。1899年(明治32年)から宮城県会議員を4期務めた。ほか、登米町会議員、宮城県参事会員、登米汽船、登米製糸各社長、宮城貯蓄銀行取締役、宮城県繭糸同業組合長などを歴任した。仙北鉄道設立の発起人にも名を連ねた。 1909年(明治42年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月9日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
石母田 正輔(いしもだ しょうすけ/まさすけ、1861年3月… 石母田 正輔(いしもだ しょうすけ/まさすけ、1861年3月6日(文久元年1月25日) - 1941年(昭和16年)5月8日)は、宮城県石巻町長、初代石巻市長。二男に歴史学者・石母田正、五男に政治家・石母田達がいる。 石母田家は仙台藩の重臣で多くの勘定奉行を輩出し、3,000石の知行地を与えられていた。祖父石母田寛衆は筆頭勘定奉行を勤めており、その知行地である陸奥国宮城郡大沢村芋沢(現・宮城県仙台市青葉区)に生まれる。宮城師範学校を卒業し、卒業後は奥羽日日新聞に入り、記者となるが、低収入のため官界に入る。茨城県龍ヶ崎警察署長、茨城、島根両県の警察部勤務を経て、台湾台南県蕃薯藔弁務署長を務めた。その後、台湾時代に知り合った同郷の荒井泰治の誘いを受け、北海道に渡り、札幌の電灯会社の社長に就任した。
平井 万太郎(萬太郎、ひらい まんたろう、1861年3月1日… 平井 万太郎(萬太郎、ひらい まんたろう、1861年3月1日(文久元年1月20日)- 1929年(昭和4年)8月20日)は、明治から大正期の酒造家、政治家。衆議院議員、茨城県稲敷郡根本村長。 常陸国河内郡上根本村(新治県河内郡上根本村、茨城県河内郡上根本村、根本村、稲敷郡根本村、新利根村上根本、新利根町を経て現稲敷市上根本)で酒造家の家に生まれた。漢学、詩文、簿記を修め、酒造業を営む。 1886年(明治19年)大同団結運動に加わり、のち立憲改進党に入党して自由民権運動を推進。根本村会議員、郡徴兵参事員、根本村長に在任。1890年(明治23年)茨城県会議員に選出され1895年(明治28年)まで在任した。
5代上野 松次郎(うえの まつじろう、旧姓・鵜月、前名・豊次… 5代上野 松次郎(うえの まつじろう、旧姓・鵜月、前名・豊次郎、1860年3月31日〈万延元年3月10日〉 - 1939年〈昭和14年〉11月27日)は、日本の商人(油屋、肥料商)、栃木県多額納税者、資産家、実業家、政治家。衆議院議員(当選1回)。族籍は栃木県平民。 下総国銚子(現・千葉県銚子市)生まれ。鵜月庄蔵の二男。鵜月庄三郎の弟。1883年、栃木県宇都宮の上野家の4代目松次郎の長女タミと結婚し、養子となり、1889年、上野家の家督を相続した。 五代目松次郎として家業の肥料商を営み、また肥料問屋として業界で重きをなした。また銀行会社の重役だった。宇都宮商工会議所初代会頭、宇都宮銀行、下野中央銀行各頭取、下野製紙、宇都宮瓦斯、上野松次郎商店各代表取締役などをつとめた。
平岡 萬次郎(ひらおか まんじろう、1860年3月29日〈万… 平岡 萬次郎(ひらおか まんじろう、1860年3月29日〈万延元年3月8日〉 - 1923年〈大正12年〉12月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。兵庫県平民。 内務官僚・平岡定太郎の兄。定太郎の孫に作家・三島由紀夫、外交官・平岡千之がいる。 万延元年(1860年)、播磨国印南郡志方村上富木(現在の兵庫県加古川市)の農家に生まれた。父・太吉と、母・つるの長男。 15歳まで、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学ぶ。ここでは忠君愛国の講話が行われた。萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進んだ。 上京し、明治14年(1881年)明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、明治16年(1883年)卒業、更に専修学校(現在の専修大学)を卒業。
唐橋 左源次(からはし さげんじ、1860年3月26日(万延… 唐橋 左源次(からはし さげんじ、1860年3月26日(万延元年3月5日)- 1905年(明治38年)1月2日)は、明治期の林業家、政治家。衆議院議員。旧姓・五十嵐。 陸奥国耶麻郡早稲谷村(福島県耶麻郡山都町を経て現:喜多方市山都町早稲谷)の五十嵐家に生まれ、同郡朝倉村(現:喜多方市)、唐橋茂久の養子となる。漢学を修めた。 政界では、朝倉村会議員、山都村・相川村などの組合村長を務め、1894年(明治27年)、耶麻郡会議員、同議長に就任。1897年(明治30年)から福島県会議員に3期在任し、同参事会員も務めた。 産業界では、植林を奨励し、国有森林原野下戻しに尽力した。また岩越鉄道の敷設にも尽くした。
関根 正直(せきね まさなお、安政7年3月3日(1860年3… 関根 正直(せきね まさなお、安政7年3月3日(1860年3月24日) - 昭和7年(1932年)5月26日)は、日本の国文学者。 1869年、江戸日本橋茅場町に関根只誠の長男として生まれる。幼名を又三郎、直三郎。正直と名乗ったのは中村正直に倣ってのことである。 東京大学で小中村清矩、黒川真頼に国学を学ぶ。同級生に落合直文、池辺義象があった。1886年、大学卒業、1888年、華族女学校助教、ついで学習院教授、女子高等師範学校教授として教鞭をとった。1909年、文学博士を授けられ、1917年、宮内省御用掛、1926年、講書始に国書を進講する。1928年、帝国学士院会員。1932年、心臓病のため死去。
鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24… 鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24日(万延元年3月3日)- 1930年(昭和5年)2月26日)は、明治から昭和初期の医師、政治家、実業家。衆議院議員。愛国生命保険創立者。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町 (現須賀川市)で、医師、自由民権家・鈴木俊安の長男として生まれる。会津藩の儒者・橋爪信次郎に漢学を、二本松藩・堀江半峯に詩文を師事した。福島県師範学校予科を経て、1879年(明治12年)に上京し 岡鹿門から詩文を学んだ。訓蒙学舎や外国語学校でドイツ語を学び、さらに東亜医学校で医学を修め、1886年(明治19年)開業試験に合格し医師となった。その後、東京府神田区に神保病院を開設した。
林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月… 林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月23日) - 昭和14年(1939年)6月27日)は、明治・大正期の外交官・男爵。会津藩出身。林又三郎の子。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。位階・勲等は従一位勲一等。
小山 吉郎(こやま きちろう、1860年3月22日(安政7年… 小山 吉郎(こやま きちろう、1860年3月22日(安政7年3月1日) - 1929年(昭和4年)2月26日)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国海軍の造船技師。海軍造船総監を務め、最終階級は海軍造船少将。 兄は画家の小山正太郎。 越後長岡藩士・小山良運の二男に生まれる。長岡洋学校を経て、工部大学校造船学科を1883年(明治16年)に卒業した。1884年、小野浜造船所に入り、[要出典]1888年に海軍大技士となる。1890年、呉鎮守府造船部製造科主幹となる[要出典]。1891年に従七位に叙せられる。 1896年に造船監督官となり、ドイツ帝国に留学して造船学を学ぶ。 1898年に正六位に叙せられた。
穂積 八束(ほづみ やつか、1860年3月20日〈安政7年2… 穂積 八束(ほづみ やつか、1860年3月20日〈安政7年2月28日〉 - 1912年〈大正元年〉10月5日)は、日本の法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。 伊予宇和島藩士の穂積家に生まれる。鈴木(穂積)重樹の三男。長兄の穂積重頴は第二十国立銀行頭取。東京帝国大学法学部教授、民法起草者の一人である穂積陳重は次兄。正三位勲一等。前妻は伊達宗城家令・西園寺公成の長女さと(早世)、後妻は浅野総一郎(初代)(浅野財閥創始者)の長女まつ。 明治22年から始まった民法典論争に際し発表した論文「民法出テゝ忠孝亡フ」(法学新報第5号、明治25年8月25日)で非常に有名だが、本文中に登場する文言ではなく、穂積陳重によると題名は江木衷の発案。
竹内 明太郎(たけうち めいたろう、1860年3月20日(万… 竹内 明太郎(たけうち めいたろう、1860年3月20日(万延元年2月28日) - 1928年(昭和3年)3月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(高知県第五区選出、当選3回)。族籍は東京府士族。 現在の高知県宿毛市出身。竹内綱の長男。父に従い大阪、東京に赴き、同人社で英語、仏学塾でフランス語を学び、父と一緒に自由党に尽くし、『東京絵入自由新聞』の経営に従事したが、鉱山業、鉄工業に転じて、父の経営する佐賀県の芳谷炭鉱の主宰となる。1901年(明治34年)欧米を漫遊して鉱山業を視察し、新式の機械を購入して帰国。 1902年(明治35年)には遊泉寺銅山の開発に着手すると、1917年に遊泉寺銅山の附属施設として小松鉄工所(後の小松製作所)を設立した。
大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860… 大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。 安政7年(1860年)、会津若松の生まれ。父は会津藩の国家老・山川尚江重固(やまかわ なおえ しげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は父方の祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が親代わりとなった。重英は会津藩財政再建に貢献し、知行300石から1,000石に加増され、また種痘や新式銃にもいち早く理解を示した人物であった。
市島 謙吉(いちしま けんきち、1860年3月9日(安政7年… 市島 謙吉(いちしま けんきち、1860年3月9日(安政7年2月17日) - 1944年(昭和19年)4月21日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(3期)、文化事業家、随筆家、初代早稲田大学図書館長。号は春城。 安政7年(1860年)2月17日、越後国蒲原郡水原村(現在の新潟県阿賀野市)に角市市島家五代目直太郎の長男として生まれた。幼名は雄之助といい、これは病弱のため八幡宮より一時的に貰ったものである。のちに郷土の英雄・上杉謙信にあやかって謙吉と改名した。 市島家は丹波国発祥で、慶長3年(1598年)越後に移り、商業で財を成した豪農一族で、角市家は宗家三代目喜右衛門の二男次郎吉から始まる筆頭分家である。
友枝 梅次郎(ともえだ うめじろう、1860年3月9日(万延… 友枝 梅次郎(ともえだ うめじろう、1860年3月9日(万延元年2月17日) - 1920年(大正9年)11月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 豊前国上毛郡八屋村(福岡県築上郡八屋町、宇島市を経て現豊前市)で総庄屋の家に生まれた。漢学、英語、数学を学ぶ。村会議員、町村連合会議員、築城、上毛両郡連合会議員、筑豊鉱業組合会常議員を務め、また、鉱山を経営し、筑豊炭礦、小倉鉄道、宇島鉄道各(株)取締役、社団法人小倉競馬倶楽部理事となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において小倉市選挙区から立憲政友会公認で立候補して初当選。第13回総選挙でも当選した。衆議院議員を2期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
前川 槙造(槇造、まえかわ まきぞう、1860年3月7日(万… 前川 槙造(槇造、まえかわ まきぞう、1860年3月7日(万延元年2月15日)- 1902年(明治35年)7月12日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 但馬国朝来郡、のちの兵庫県朝来郡竹田村(竹田町、和田山町を経て現朝来市)で生まれた。郷里の習田雪峰に師事し漢学を修めた。1876年(明治9年)上京して官立外国語学校(のち東京外国語学校)に入学し仏語科で学んだが中退。1884年(明治17年)東京専門学校(現早稲田大学)に入り政治学、経済学を学んで1887年(明治20年)に卒業し帰郷した。 1888年(明治21年)2月、大阪府会議員に選出され、同常置委員、同副議長に在任。その他、南区徴兵参事員、府立大阪博物場協議員、地方衛生会員、市立大阪商業学校商議員、大阪市水道敷設委員、第4回内国勧業博覧会事業取調委員、大阪築港取調相談役なども務めた。
川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(… 川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(安政7年2月13日) - 1918年(大正7年)11月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 阿波国麻植郡(ごおり)鴨島字上下島(現在の徳島県吉野川市鴨島町上下島)出身。初名は国三郎。 麻植郡会議員、徳島県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員などを務める。阿波商業会議所会頭などを経て、1890年の第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以降、第2回、第7回から第13回総選挙で立憲政友会より9回当選を果たす。 また阿波国共同汽船専務、阿波藍社長、徳島鉄道社長、阿波藍同業組合組長などを歴任。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
矢島 浦太郎(やじま うらたろう、1860年3月4日(安政7… 矢島 浦太郎(やじま うらたろう、1860年3月4日(安政7年2月12日) - 1917年(大正6年)10月17日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(5期、立憲同志会)。 信濃国水内郡善光寺町字岩石町(現長野市)に生まれる。長野県師範学校を卒業し、東京法学校(現・法政大学)で法律学を修める。長野日日新聞記者を経て、弁護士の業務に従事し、長野町会議員、上水内郡会議員、長野市会議員、同参事会員、長野県議会議員を経て、1903年(明治36年)に第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。以後連続5期当選する。 また、湊鉄道・産業銀行・東京生命各取締役、茨城炭礦監査役などを歴任する。1917年(大正6年)に死去。
尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元… 尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元年2月12日〉 - 1937年9月17日)は、日本の実業家。姓の「澤」は「沢」の旧字体、名の「福」は「福」の旧字体、「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう)、尾澤 福太郎(おざわ ふくたろう)、尾沢 福太郎(おざわ ふくたろう)とも表記される。 尾澤組組長(第2代)、諏訪電気株式会社社長(第3代)、株式会社尾澤組社長(初代)、片倉製糸紡績株式会社常務取締役、朝鮮生糸株式会社社長、京浜電力株式会社取締役、片倉殖産株式会社取締役、第二京浜電力株式会社取締役、諏訪工材株式会社取締役、武州製糸株式会社取締役、片倉生命保険株式会社監査役、富国火災海上保険株式会社監査役、千曲電気株式会社代表取締役、日本相互電気株式会社取締役、岩手県是製糸株式会社取締役、尾澤組合名会社代表社員などを歴任した。
本城 安次郎(ほんじょう やすじろう、1860年3月4日(万… 本城 安次郎(ほんじょう やすじろう、1860年3月4日(万延元年2月12日)- 1901年(明治34年)11月5日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 石見国那賀郡、のちの島根県那賀郡周布村(現浜田市)で、建築業・本城新輔の息子として生まれた。大阪開明学校を卒業し、上京して攻玉塾で学び、1878年(明治11年)ころ工部大学校に入学したが、病のため1879年(明治12年)秋に退学した。 健康が回復すると神戸で紙類廃売店を開業し、また、貿易店を営み、日清戦争時には軍需物品を扱い、大阪に本城商会を設けて遼東、台湾へも事業を拡張した。その他、神戸樟脳取引所理事、大阪浪速商品取引所創立委員長、神戸商業会議所議員などを務めた。
砂川 雄峻(すながわ かつたか、1860年3月2日(安政7年… 砂川 雄峻(すながわ かつたか、1860年3月2日(安政7年2月10日) - 1933年(昭和8年)4月15日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 播磨国飾東郡姫路(現兵庫県姫路市)で、姫路藩士砂川貫一郎の二男として生まれる。1882年(明治15年)、東京大学を卒業した。同年の東京専門学校(後の早稲田大学)の創設にあたっては、創立委員として小野梓や高田早苗などと共に大隈重信を支え、最初は講師を務め、後には評議員・維持員を務めた。その後、大阪で弁護士として活動し、大阪弁護士会長も務めた。さらに関西法律学校(後の関西大学)の講師となり、後に監事、主席理事を歴任した。 また1887年(明治20年)より大阪府会議員を務め、議長にも選出された。
市瀬 禎太郎(いちのせ ていたろう、1860年3月2日(安政… 市瀬 禎太郎(いちのせ ていたろう、1860年3月2日(安政7年2月10日) - 1908年(明治41年)3月8日)は、明治時代の教育者。 丹波国篠山北新町(現在の兵庫県丹波篠山市)出身。7歳で藩学に入り漢学を学び、8歳で篠山藩諸公子相手職を務めた。1875年(明治8年)、旧篠山藩主・青山忠誠が旧藩子弟の優秀者を東京に招致した際に選ばれ、島田篁村の双桂精舎で学んだ。 1880年(明治13年)、多紀郡役所御用掛・学務委員となり、自邸に私塾を開いた。1882年(明治15年)、篠山中学校校長に就任。1884年(明治17年)に篠山中学校は廃止となるが、同年に鳳鳴義塾(現在の兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)が設立されると初代塾長となった。
織田 信福(おだ のぶよし/しんぷく、1860年3月1日(安… 織田 信福(おだ のぶよし/しんぷく、1860年3月1日(安政7年2月9日) - 1926年(大正15年)1月13日)は日本の民権運動家。高知県最初の歯科医でもある。 万延元/安政7年(1860年)2月9日、土佐国幡多郡宿毛(現・高知県宿毛市)にて誕生した。父は土佐藩士族の織田大八、母は安。初名は羽田馬三郎。慶応4/明治元年(1868年)には宿毛の伊賀家の家臣として仕えていた。1873年(明治6年)12月28日には、羽田信福が幡多郡宿毛村第208番小学下等小学第七級を卒業していたことが判明している。 1880年(明治13年)に高知に転居し、医師・山崎立生の「鼎立義塾」門下生となったが、翌年12月に立生は死没した。
岩切 門二(いわきり もんじ、万延元年(1860年)3月 -… 岩切 門二(いわきり もんじ、万延元年(1860年)3月 - 明治29年(1896年)11月24日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。川越進らと宮崎県再置運動で活躍した。 日向国宮崎郡柏原村(宮崎県宮崎郡生目村を経て現宮崎市大字柏原)出身。慶應義塾で法制を学ぶ。 1873年(明治6年)1月に誕生した宮崎県は、1876年(明治9年)8月に鹿児島県に合併されてしまう。この鹿児島県から分離しようという分県運動に門二は参加し、1883年(明治16年)5月の宮崎県再置に貢献した。 運動中には弾劾演説で、鹿児島県令渡辺千秋を罵倒して検挙されたこともあるという。分県の議決をした同年2月の鹿児島県通常県会では、議長である川越進のもと書記長となった。
大島 要三(おおしま ようぞう、1859年3月19日(安政6… 大島 要三(おおしま ようぞう、1859年3月19日(安政6年2月15日)- 1932年(昭和7年)3月23日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国埼玉郡、後の埼玉県北埼玉郡大桑村(現:加須市)で大島庄太郎の長男として生まれた。1881年(明治14年)に上京し東北線鉄道敷設工事の下請を担当し、元請の杉井組・杉井定吉の信用を得て支配人となる。1891年(明治24年)、白河町(現:白河市)から福島町(現:福島市)に転居した。 杉井の死後に独立して大島組を組織。1894年(明治24年)からの奥羽線福島 - 米沢間を担当したことにより信用を得た。福島電灯社長、福島民友新聞社長、白棚鉄道社長、東京信用銀行取締役、福島貯蓄銀行監査役、福島羽二重監査役、東京米穀商品取引所監査役など、多数の企業の役員などを務めた。