高鳥 順作(たかとり じゅんさく、1868年5月5日(明治元… 高鳥 順作(たかとり じゅんさく、1868年5月5日(明治元年4月13日) - 1958年(昭和33年)2月8日)は、日本の政治家、実業家。位階は正四位。 新潟県能生谷村平(現糸魚川市平)の高鳥半五郎の長男として生まれる。実家は貧しい農家であり小学校卒業後も親の手伝いをしながら夜学に通う生活であった。農村の開田工事をしていたが24歳の時に登記所の整地工事を入札したのが土木請負いのはじまりで高鳥組をおこし、新潟県下の公共事業を請負っていくようになる。主だった工事として明治末期の加治川改修工事、直江津-富山間の鉄道(北陸本線。現在のえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン・あいの風とやま鉄道線)建設工事がある。
大橋 松二郎(おおはし まつじろう、明治元年4月13日(18… 大橋 松二郎(おおはし まつじろう、明治元年4月13日(1868年5月5日) - 大正9年(1920年)12月15日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 越前国吉田郡円山西村(現在の福井県福井市)出身。1890年(明治23年)に『若越自由新聞』を創刊し、1894年(明治27年)には『若越新聞』と改題。後に『若越新聞』を政友会福井支部の機関紙とした。また農業においては馬耕の奨励や稲種改良に尽力した。福井県会議員、同参事会員、同議長を歴任した。その他、吉田郡農会長、吉田郡教育会長などを務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。
井上 剛一(いのうえ ごういち、1868年5月4日(慶応4年… 井上 剛一(いのうえ ごういち、1868年5月4日(慶応4年4月12日) - 1946年(昭和21年)5月12日)は、日本の弁護士・政治家で憲政会→立憲民政党所属の衆議院議員。 紀伊国伊都郡学文路村(現・和歌山県橋本市)に、水木重左衛門の二男に生まれ、井上又左衛門の養子となった。和歌山県師範学校を卒業した後、1887年(明治20年)より英吉利法律学校(現・中央大学)で法学を学び、1889年(明治22年)に代言人試験に合格した。浜松代言人組合に所属し、後には静岡弁護士会長や日本弁護士協会名誉理事に選ばれた。 浜松市会議員、静岡県会議員を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
片山 太郎(かたやま たろう、1868年5月3日(明治元年4… 片山 太郎(かたやま たろう、1868年5月3日(明治元年4月11日)- 1940年(昭和15年)10月17日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、奈良県磯城郡川西村長。 大和国式下郡結崎村(奈良県式下郡川西村、磯城郡川西村を経て現川西町結崎)で、郡山藩大庄屋、同藩の金子御用達を務めた片山家当主・片山太平(太兵衛)の長男として生まれた。1883年(明治16年)家督を相続し農業を営む。1886年(明治19年)郡山中学校(現奈良県立郡山高等学校)を卒業した。 川西村会議員を務め、1905年(明治38年)川西村長に就任。その他、磯城郡会議員にも在任した。中山梅治郎の死去に伴い、1919年(大正8年)11月に実施された第13回衆議院議員総選挙奈良県郡部補欠選挙で当選し、衆議院議員に1期在任。
関 保之助(せき やすのすけ、1868年5月2日〈慶応4年4… 関 保之助(せき やすのすけ、1868年5月2日〈慶応4年4月10日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月25日)は、明治から昭和時代にかけての有職故実家。東京帝室博物館学芸委員、重要美術品等調査委員。有職故実、甲冑武器の考証家として著名だった。蒐集家としては東都において小堀鞆音に並ぶ存在として知られた。筆名に波爾和、号に花郷、加和羅廼舎、箙廼舎。 江戸小石川原町(現・文京区)に一橋徳川家臣・関守真の二男として生まれる。幼い頃より古武器を愛好し、歴史画家を志して、明治23年9月に東京美術学校に入学した。同期に横山大観・下村観山らがいた。日本画を学び、明治26年7月、同校の第1回卒業生として専修科絵画科を卒業した。
矢澤 米三郎(やざわ よねさぶろう、1868年(慶応4年/明… 矢澤 米三郎(やざわ よねさぶろう、1868年(慶応4年/明治元年)5月2日 - 1942年(昭和17年)3月31日)は日本の博物学者、教育者である。日本におけるライチョウ研究の先駆者として知られる。 信濃国諏訪郡上金子村(現・長野県諏訪市)の寺子屋師匠矢沢正雄の長男として生まれる。長野県尋常師範学校を経て、明治26年(1893年)東京高等師範学校博物科卒業。同31年(1898年)から2年間、高師研究科に学び、長野師範教諭となる。河野齢蔵と乗鞍、白馬、八ヶ岳等の高山学術研究に着手し、矢沢が昆虫、河野が植物の生態観察を行い、幾多の新種を発見している。羽田貞義らと明治35年(1902年)信濃博物学会を設立し、幹事長となる。
相生 由太郎(あいおい よしたろう、慶応3年4月28日(18… 相生 由太郎(あいおい よしたろう、慶応3年4月28日(1867年5月31日) - 昭和5年(1930年)1月3日)は明治・大正・昭和にかけて満州で活躍した日本人実業家。 1867年福岡県福岡市の魚商相生久次の長男として生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1896年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本郵船、中学校教師などの勤務先を転々と変えた末、1904年三井物産入社、門司支店に勤務。炭坑人夫のストライキを収拾してその手腕を認められ、支店長犬塚信太郎の知遇を得る。 日露戦争後の1906年、上司の犬塚は新たに設立された南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事に抜擢されるが、当時混乱を極めていた大連埠頭の荷役問題を解決できる唯一の人材として相生を推挙し、それを受けて相生は満鉄入りする。
花村 覚三郎(はなむら かくさぶろう、1867年5月29日(… 花村 覚三郎(はなむら かくさぶろう、1867年5月29日(慶応3年4月26日) - 1952年(昭和27年)4月8日)は、明治から昭和時代の政治家。衆議院議員。 美濃国武儀郡、のちの岐阜県武儀郡東武芸村(武芸村、武芸川町を経て現関市)出身。普通学を修める。 農業を営み(注:戦後の「農業」ではなく、豪農・大地主による農地・山林経営である。特筆すべきは、その所有する山林の広大さであった)、岐阜県会議員、相続税審査委員、所得税調査委員を歴任した。 1908年(明治41年)5月の(満25歳以上で直接国税10円以上を納める男子のみが選挙権を有した)第10回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
藤野 亀之助(ふじの かめのすけ、1867年5月27日(慶応… 藤野 亀之助(ふじの かめのすけ、1867年5月27日(慶応3年4月24日) - 1920年(大正9年)1月7日)は、日本の実業家。大阪株式取引所理事長、大阪電気軌道取締役、電気化学工業監査役、王子製紙取締役、豊田紡織取締役、大日本セルロイド取締役などを歴任した。 埼玉県生まれ。商法講習所(現一橋大学)で外国語を学んだ。三井物産で、綿糸部主任、大阪支店次長、大阪支店長を歴任し、大阪商業会議所特別議員も務めた。また、豊田佐吉の豊田式織機事業を推進し、豊田式織機相談役を務めた。 1915年大阪株式取引所理事長、大阪電気軌道取締役、電気化学工業監査役。1917年王子製紙取締役。1918年豊田佐助の菊井紡織設立にあたり、児玉一造らとともに出資を行い、同年豊田紡織取締役。
武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈… 武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈慶応3年4月24日〉- 1932年〈昭和7年〉5月26日)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者、運動中の水分補給を禁止する風潮を創り上げた人物として知られる。 柳河藩士・武田道夫の二男として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、東京帝國大學法科大学法律学科(英法)を卒業。 1889年8月、法制局雇となる。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる。
池口 慶三(いけぐち けいぞう、1867年5月26日〈慶応3… 池口 慶三(いけぐち けいぞう、1867年5月26日〈慶応3年4月23日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月1日)は、日本の薬学者。薬学博士。正四位勲三等。日本薬局方調査会会長。日本薬剤師会顧問。東京薬学専門学校長。族籍は兵庫県平民。 但馬国七美郡(のち兵庫県美方郡村岡町、現香美町)出身。池口吉兵衛の三男。旧村岡藩士である。1885年、家督を相続する。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業し、薬学士の称号を得た。 警視庁技師、衛生試験所技師、内務技師、特許局技師同検査官等歴任。1907年11月、薬学博士の学位を授与された。内国製薬常務取締役兼技師長をへて1927年、東京薬専校長となった。著作に『日本薬局方通解』がある。
佐々木 藤太郎(ささき とうたろう、1867年5月25日(慶… 佐々木 藤太郎(ささき とうたろう、1867年5月25日(慶応3年4月22日)- 1948年(昭和23年)5月16日)は、日本の官僚、実業家。第2代朝鮮慶尚南道長官。 長門国厚狭郡のちの厚西村(現山口県山陽小野田市)で、佐々木磯右衛門の二男として生れる。1889年5月、山口県収税属に任用。その後、東京府収税属に転じた。 1894年3月、内閣属に転じ内閣恩給局に勤務。同年7月、明治法律学校(現・明治大学)を卒業。1896年12月、第3回文官高等試験行政科試験に合格し、1897年6月、大蔵省試補に任用され収税局に配属される。その後、松山税務監督局長、仙台税務監督局長などを歴任。 1908年4月、大韓帝国の招聘受けて渡韓、同年7月、統監府書記官に就任。
三輪 市太郎(みわ いちたろう、1867年5月21日(慶応3… 三輪 市太郎(みわ いちたろう、1867年5月21日(慶応3年4月18日)- 1930年(昭和5年)2月8日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、愛知県会議長。 尾張国海西郡、のちの愛知県海部郡八開村(現愛西市)で、三輪伊三郎の四男として生れ、1884年(明治17年)兄・伊兵衛の後を承けて家督を相続した。普通学、漢文学を修めた。農業を営む。 土木会社勤務を経て、独立して鉄道工事の土木請負業を営む。資金を工面するため必要最小限の財産以外の全てを売却した。次第に工事施工の内容に信用を獲得して事業を拡大した。その後、中央土木社長、愛知鉄道社長、海島銀行取締役、日光川倉庫銀行監査役、愛知開墾社長などを務めた。
岡田 菊次郎(おかだ きくじろう、1867年5月19日(慶応… 岡田 菊次郎(おかだ きくじろう、1867年5月19日(慶応3年4月16日) - 1962年(昭和37年)9月3日)は、三河碧海郡安城村戸崎(現・愛知県安城市安城町)出身の政治家。 安城村長、安城町長。安城村会議員、安城町会議員、碧海郡会議員、愛知県会議員。安城町に愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高校)や愛知県農事試験場などの施設を誘致し、町内の道路整備を進めた。明治用水などの水利事業にも関わり、「用水の神様」と呼ばれた。安城市名誉市民。 1867年(慶応3年)、三河国碧海郡安城村戸崎(現・愛知県安城市安城町)の米穀商である岡田覚兵衛の長男として生まれた。19歳の時に家業を弟に譲って百姓となり、約1町歩の田畑をもらって新家に出た。
南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〈慶応3… 南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〈慶応3年4月15日〉 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。 1929年には地元で、昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。 民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。 フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。
赤尾 彦作(あかお ひこさく 慶応3年4月15日(1867年… 赤尾 彦作(あかお ひこさく 慶応3年4月15日(1867年5月18日) - 昭和28年(1953年)11月26日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員、横浜弁護士会会長。 1867年(慶応3年)-甲斐国八代郡(のちの山梨県東八代郡英村、石和町を経て現笛吹市)に生まれる。 1889年(明治22年)-和仏法律学校(現在の法政大学)を卒業し、1893年(明治26年)に横浜市で弁護士を開業する。 1902年(明治35年)-横浜市会議員当選(以後1942.9まで連続10期当選)する。 1903年(明治36年)-横浜電気軌道株式会社取締役に就任し、1909年(明治42年)平沼銀行を創立に参画し、同年横浜取引所顧問に就任する。
槙山 栄次(まきやま えいじ、1867年5月17日(慶応3年… 槙山 栄次(まきやま えいじ、1867年5月17日(慶応3年4月14日) - 1933年(昭和8年)6月12日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、文部官僚。 出羽国米沢(現在の山形県米沢市)出身。山形県師範学校を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文学科を卒業。秋田尋常師範学校教諭、東京高等師範学校助教諭・書記、文部属、宮崎県尋常中学校教諭、山形尋常師範学校校長、北海道師範学校校長、東京女子高等師範学校教授を歴任。1905年(明治38年)、ドイツ・アメリカ合衆国に留学。帰国後、文部省視学官、東京女子高等師範学校教授、文部省督学官を務めた。1919年(大正8年)、奈良女子高等師範学校校長に就任した。
笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3… 笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3年4月11日) - 1960年(昭和35年)7月24日)は、日本の技術者、実業家。日本で先駆け的にディーゼル機関を開発し、新潟鐵工所社長や同社会長を務めた。 長州藩士の長男として萩町川島村(現山口県萩市大字川島)に生まれる。父が「士族の商法」で事業に失敗したため中学校に進学する資金がなく、公費で通える山口師範学校(現山口大学教育学部)を1885年に卒業し、船木小学校校長となった。その後叔父の援助などもあり、1892年に東京工業学校(現東京工業大学)機械科を卒業し、東京石川島造船所へ入社した。 銅ヶ丸鉱山機械課長を経て、1897年日本石油付属新潟鉄工所技師長に就任。
前田 武四郎(まえだ たけしろう、1867年5月14日 - … 前田 武四郎(まえだ たけしろう、1867年5月14日 - 1931年1月21日)は、日本の電気技術者、実業家。日本電気の共同創業者として知られる。 慶応3年4月11日(グレゴリオ暦1867年5月14日)、前田武平の次男として越後国北蒲原郡堀越村大野地(現阿賀野市)で生まれた。実家は裕福な農家であったが前田は郷里で農業を続けることを望まず、1882年(明治15年)に親に無断で上京し、中村正直の同人社に入塾。親もやがて軟化して遊学を許し、前田は2年後に学業を終えて一度帰郷するが、給費付きの学校である電信修技学校のことを知り、1884年(明治17年)に再び上京、入学した。1887年(明治20年)2月に同校を卒業すると逓信省に入省した。
山下 亀三郎(やました かめさぶろう、1867年5月12日(… 山下 亀三郎(やました かめさぶろう、1867年5月12日(慶応3年4月9日) - 1944年(昭和19年)12月13日)は日本の実業家。勲一等。山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者。勝田銀次郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人。
財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月… 財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月10日) - 昭和24年(1949年)1月13日)は、日本の軍人、政治家。宮崎県都城市出身。階級は海軍大将。
森 正(もり ただし、1867年5月9日(慶應3年4月6日)… 森 正(もり ただし、1867年5月9日(慶應3年4月6日)- 1943年(昭和18年)1月14日)は、明治から昭和前期の実業家、銀行家、政治家。衆議院議員。 大和国式上郡、のちの奈良県式上郡三輪村(式上郡三輪町、磯城郡三輪町、大三輪町を経て現桜井市)で、森五郎の長男として生れた。1886年(明治19年)上京して政治経済学を学んだ。1892年(明治25年)4月、アメリカ合衆国に留学し商業学を学び、さらにイギリスに留学して1899年(明治32年)に帰国した。 帰国後、実業界に入り、中央商業銀行頭取、工商貯蓄銀行取締役、日本製糸取締役、大和電気取締役、三輪素麺同業組合長などを務めた。また、郷土の将来有望な青年の育成に尽力し援助を行った。
一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1… 一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1867年5月7日〈慶応3年4月4日〉- 1944年〈昭和19年〉12月17日)は、日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧名は岡田 丘平(おかだ きゅうへい)。号は梁舟。 公法学を専門とする法学者で、帝国大学の法科大学では教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。天皇機関説を提唱したことでも知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めたが、のちに天皇機関説事件において美濃部らとともに激しい批判に晒された。貴族院勅選議員に勅任されてからは、第1次桂内閣の法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣の文部大臣や内務大臣など要職を歴任した。
岡村 金太郎(おかむら きんたろう、慶応3年4月2日(186… 岡村 金太郎(おかむら きんたろう、慶応3年4月2日(1867年5月5日) - 昭和10年(1935年)8月21日)は、日本の海藻学者・水産学者。日本海藻学の開拓者として明治から昭和初期にかけて活躍し、養殖の基礎を築いた。また、日本で初めてプランクトンを定性的に研究した。発表した論文は約250編、海藻に関する著書が極めて多い。 慶応3年4月2日(1867年5月5日)に岡村清七、セイの長男として江戸芝新幸町(現在の東京都港区新橋1丁目)に生まれる。芝新銭座町の攻玉塾、東京大学予備門を経て明治18年(1885年)7月に東京大学理学部(後の帝国大学理科大学)へ入学した。明治22年(1889年)7月の帝国大学理科大学植物学科卒業後は同大学大学院に入学、矢田部良吉のもとで藻類学研究を開始した。
三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日(1867年… 三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日(1867年5月4日) - 1919年(大正8年)3月7日)は、日本の銀行家。子爵。三島通庸の長男であり、徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルでもある。
中西 巌(なかにし いわお、1867年(慶應3年)5月 - … 中西 巌(なかにし いわお、1867年(慶應3年)5月 - 1961年[要出典])は、日本の実業家、株式仲買人である。東京株式取引所一般取引員、丸中商店(中西巌商店)店主、丸九商店、中西証券社長。 慶應3年5月、和歌山縣那賀郡西貴志村鳥居(現紀の川市)の郷士の父:繁蔵の八男として生まれる。当家は古くより那賀郡に住し、庄屋役を務め名字帯刀を許されたる家柄であった。 1885年(明治18年)縣立和歌山師範学校を卒業して、小学校に教鞭を執り19歳で伊都郡五茂村小学校長に任命されるが、その後心機一転して逓信官吏を志し和歌山郵便局に奉職したのち、岐阜逓信局勤務を経て、名古屋郵便局逓信課長となり、1900年(明治33年)には東京逓信局に転任し逓信課長に任ぜられる。
古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶… 古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶応2年4月17日) - 1922年(大正11年)10月9日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・磯五郎。 筑前国上座郡古毛村(のち福岡県朝倉郡朝倉町、現:朝倉市)で、素封家・先代古林与六の長男として生まれる。中学校を卒業し農業を営む。 耕地整理に尽力し古毛耕地整理委員長を務めた。自由民権を唱え、朝倉村会議員、同村長、朝倉郡会議員、同参事会員、福岡県会議員などを歴任した。その他、福岡県醤油組合支部長、朝倉軌道取締役などを務めた。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第11区から立憲政友会所属で出馬して当選したが、在任中に死去した。
相沢 菊太郎(あいざわ きくたろう、1866年5月28日(慶… 相沢 菊太郎(あいざわ きくたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1962年(昭和37年)4月26日)は、明治から大正期の日本の政治家、神奈川県高座郡相原村村長。 神奈川県高座郡相原村(現:相模原市相原)に生まれる。1908年(明治41年)より地元相原村の村長となり、横浜鉄道(現:JR横浜線)の橋本駅開設や相模農蚕学校(現:神奈川県立相原高等学校)の誘致に尽力した。 菊太郎は1885年(明治18年)から死の直前までの78年間に渡り日々の生活を記録した日記を残した。昭和時代になり、子の相沢栄久の編集により、1965年4月に「相澤日記」として明治18年から明治25年の記述が刊行された。
宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日… 宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1940年(昭和15年)3月1日)は、日本の実業家、酪農家。北海道で初めて民間によるバターの製造を行ったほか、日本最初の酪農組合「札幌牛乳搾乳業組合」を組織し、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の土台を築いた。これらの業績から「北海道酪農の父」と称されている。 豊後の下毛郡大幡村(現在の大分県中津市)の養蚕家であった武原文平、母ヤスの二男として生まれる。生家に伝わる家系図によれば、当初は仙二郎と命名されたが、戸籍簿に誤って「仙太郎」と記入されてしまい、これが本名となった。後に母方の親戚・宇都宮武平の養嗣子となる。
熊谷 喜一郎(くまがい きいちろう、1866年5月26日(慶… 熊谷 喜一郎(くまがい きいちろう、1866年5月26日(慶應2年4月12日) - 1949年(昭和24年)10月9日)は、日本の内務官僚。樺太庁民政長官、官選県知事。 熊谷禎蔵の長男として江戸で生まれる。1892年、帝国大学法科大学を卒業。同年7月、内務省試補となり社寺局に配属された。 1893年11月、北海道庁参事官に就任。以後、内務書記官、拓殖務省書記官、農商務省・陸軍省・内務省の各参事官、兼台湾総督府事務官などを歴任。1905年8月、樺太民政署が設置されると民政長官に就任。1907年4月、樺太民政署が樺太庁に改編され、引き続き民政長官を務めた。 樺太庁では長官の楠瀬幸彦と不仲になり、第1次西園寺内閣の内務大臣である原敬は1908年4月24日に両名を更迭し、熊谷は同年6月12日付けで山梨県知事に就任した。
小池 国三(こいけ くにぞう、1866年5月24日(慶応2年… 小池 国三(こいけ くにぞう、1866年5月24日(慶応2年4月10日)- 1925年(大正14年)3月1日)は、日本の実業家、投資家である。旧姓、浅川。幼名は国五郎。 甲斐の甲府生まれ。小学校卒業後の1878年(明治11年)に12歳で若尾逸平の門に入り、株式取引を師事する。1890年(明治23年)に若尾が貴族院議員に就任したと同時に秘書を務めた。1895年(明治28年)には、若尾と共に生まれ故郷の甲府で綿や絹の商人として活動した。 1896年(明治29年)、小池銀行創立(組織としては株式会社だが、株式のほとんど全てを小池一族が所有しており、実質的には小池の個人銀行。国三没後の1930年に小池証券に改組し、1943年に山一證券と合併)。
新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年… 新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年5月24日〉 - 1948年〈昭和23年〉5月2日)は、明治から昭和前期に活躍した南画家。本名は信吉。号は白雲、後に洞巌。養子は住友生命保険社長・会長を務めた新井正明。「洞厳」は誤記。 上野国吾妻郡原町須郷沢(現・群馬県吾妻郡東吾妻町)に、新井半重郎の次男として生まれた。6歳の時に母、13歳の時に兄、19歳の時に父を亡くし、継母は異母妹を連れて郷里へ帰ったため天涯孤独となる。 長井雲坪、四谷延陵、菅原白龍、高森砕巌に南画を、漢学を貫名海雲に学んだ。1896年(明治29年)から18年に渡って日本全国や中国の洞庭湖、台湾などを旅した。その絵は吉川英治や安岡正篤らに評価され、吉川からは「最後の南画人」と評された。
宮古 啓三郎(みやこ けいざぶろう、慶応2年4月8日(186… 宮古 啓三郎(みやこ けいざぶろう、慶応2年4月8日(1866年5月22日) - 昭和15年(1940年)4月9日)は、日本の衆議院議員(壬寅会→立憲政友会)、弁護士。 常陸国行方郡行方村(現在の茨城県行方市)出身。今泉源兵衛の二男で、縁戚の宮古氏の跡を継いだ。1884年(明治17年)に司法省法学校に入学するが、学制の改正により第一高等中学校に移り、1889年(明治22年)に卒業した。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1892年(明治25年)に卒業した。卒業後は弁護士を開業し、また日本法律学校(日本大学)の講師も務めた。 1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、9回の当選回数を数えた。
石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866… 石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866年5月22日) - 昭和15年(1940年)12月31日)は、日本の政治家、弁護士。栃木県宇都宮市長、衆議院議員などを歴任した。 肥後国託麻郡、のちの熊本県託麻郡大江村(飽託郡大江村を経て現熊本市)出身。明治法律学校を卒業し弁護士となる。1899年(明治32年)9月から1903年(明治36年)9月まで河内郡選出の栃木県会議員を務め、1899年11月からは県会副議長を務めた。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で栃木県郡部選挙区から立候補して当選。衆議院議員は連続3期務め当初は憲政本党に所属したが後に立憲国民党に参加している。
西村 正則(にしむら まさのり、1866年5月22日(慶応2… 西村 正則(にしむら まさのり、1866年5月22日(慶応2年4月8日)- 1924年(大正13年)4月30日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、石川県石川郡出城村長。 加賀国石川郡竹松村(石川県石川郡出城村竹松、松任町、松任市を経て現白山市竹松町)で、西村庄右衛門、りせ の長男として生まれる。1896年(明治29年)4月、家督を相続した。農業を営む。 1900年(明治33年)10月、立憲政友会石川県支部が設立されると幹事に就任。1901年(明治34年)12月、出城村長に就任し1903年(明治36年)8月まで在任。同年9月、石川県会議員に当選し、1911年(明治44年)8月まで2期在任し、同参事会員も務めた。
赤田 瑳一(あかた さいち、1866年5月20日〈慶応2年4… 赤田 瑳一(あかた さいち、1866年5月20日〈慶応2年4月6日〉 - 1935年〈昭和10年〉8月31日)は、日本の政治家、地家主。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。大阪市会議員。族籍は大阪府平民。 摂津国東成郡天王寺村(現・大阪府大阪市)で代々農業を営む家に生まれる。赤田太兵衛の長男。2歳で父を亡くし、母の手で育てられた。 その後、河内国高安郡(現・大阪府八尾市)の叔父の元に移り17歳まで過ごした。八尾町の田中祐篤の塾生となり国史・漢籍を学ぶ。のち塾を脱し伊予の松山に赴き同地の豫章館に入り、国史・漢籍を修める。病気となり帰阪して療養の傍ら家政を整理する。 天王寺村の戸長・橋本善右衛門が赤田を迎え、役場用掛とする。
2代目川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、慶応2年4月5日… 2代目川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、慶応2年4月5日(1866年5月19日) - 昭和22年(1947年))は、日本の実業家。初代川崎八右衛門、世舞子夫妻の次男。金三郎とも名乗った。川崎守之助の父。妻、幸子(こうこ)は、郷純造の娘。東京川崎財閥第2代当主。男爵。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
佐川 玄彝(さがわ げんい、1866年5月18日(慶応2年4… 佐川 玄彝(さがわ げんい、1866年5月18日(慶応2年4月4日) - 1944年(昭和19年)5月13日)は、日本の僧侶。曹洞宗總持寺独住第15世貫首、永平寺第72世貫首。道号は訓山玄彝。 1866年(慶応2年)周防国大島郡(後の山口県大島郡蒲野村、現・周防大島町)生まれ。1882年3月3日屋代村の龍心寺大村玄英について得度。1891年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業(卒業証書授与は1892年春)。同年、曹洞宗管長より山形県米沢市の曹洞宗中学林の教授に任命される。1892年師匠の病気のため辞職し看病に務める。1893年2月、龍心寺住職。1894年山口県曹洞宗中学林の教授。1913年曹洞宗第四中学林の第3代学林長に就任。
安東 敏之(あんどう としゆき、1866年5月15日(慶応2… 安東 敏之(あんどう としゆき、1866年5月15日(慶応2年4月1日)- 1932年(昭和7年)2月9日)は、明治から昭和前期の弁護士、政治家。衆議院議員。旧姓・芦田、幼名・利作。 美作国勝北郡広戸村(岡山県勝田郡広戸村、勝北町を経て現津山市)で芦田藤平の五男として生まれ、1884年(明治17年)4月、同郡、のちの新野村(勝北町を経て現:津山市)の安東友七の養嗣子となる。有功学舎、勝北中学校、大阪泰西学舘、関西法律学校を経て、1891年(明治24年) 東京法学院(現中央大学)法科を卒業した。同年、代言人試験(弁護士試験)に合格し東京で開業した。 1893年(明治26年)名古屋市に転居して、1901年(明治34年)名古屋弁護士会長に就任。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月2… 丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月25日(1866年5月9日) - 昭和2年(1927年)7月9日)は、日本の詩人、小説家、実業家。 江戸青山生まれ。共立学校(現開成高等学校)、東京大学予備門を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中、尾崎紅葉らと硯友社創設に参画し、新体詩などを発表し、卒業後は文学を離れ、矢野二郎校長の勧めで教員となり、1892年からは県立神戸商業学校校長事務取扱を務めた。 のち、実業家に転じ、高田商会横浜支店長等を経て、独立し、イギリスのサン保険会社(英語版)の東京支店開設にあたり同支店支配人となり、同社の契約高や保険料収入を日本国内3位以内にまで育てた。
山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2… 山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2年3月21日) - 1940年(昭和15年)5月27日)は、日本の医師、政治家、衆議院議員(1期)、医学博士。兄は衆議院議員の山谷虎三。長男は俳人・日新書院取締役の山谷太郎で、その次男が脚本家・演出家の倉本聰である。 東京都出身。岡山県医学校を経て、東京帝国大学医学部で内科及び病理学を専攻する。1907年、ドイツに留学し、ギーセン大学とゲッチンゲン大学で学び、ドクトル・メジーネ(医学博士)を授けられる。帰国後は津山町(現・津山市)で病院を開業する。その後、大阪の病院の副院長、三共(資)理事、(株)日新医学社を創立、取締役社長となる。その他、医学雑誌や図書の出版に従事した。
石川 伍一(いしかわ ごいち、慶応2年(1866年)5月 -… 石川 伍一(いしかわ ごいち、慶応2年(1866年)5月 - 明治27年(1894年)9月19日)は、日清戦争期の海軍関連の民間人諜報活動家、大陸浪人の先覚者。清軍により29歳で銃殺された。甥は小説家の石川達三。 陸奥国鹿角郡毛馬内に生まれる。南部藩祐筆で毛馬内戸長の父・石川儀平に伴い9歳で盛岡に出て仁王小学校に学び、明治12年(1879年)に東京に出て攻玉社中学校・高等学校に入るも、転じて島田篁村について漢学を修め、次いで興亜会支那語学校に入って中国語を学ぶ。 明治17年(1884年)に上海に渡り、海軍大尉・曽根俊虎に従い清の情勢を研究。次いで、荒尾精らと共に漢口楽善堂の立ち上げに参加。北京、天津、四川方面までを幅広く調査にあたる。
平井 政遒(ひらい まさかつ / まさる、1865年5月31… 平井 政遒(ひらい まさかつ / まさる、1865年5月31日(慶応元年5月7日) - 1950年(昭和25年)9月25日)は、明治期から昭和期にかけての内科医。日本陸軍軍医、最終階級は陸軍軍医総監(中将相当)。日本赤十字社病院院長、宮内省御用掛。若狭国小浜藩出身。 1865年5月31日((旧暦)慶応元年5月7日)、小浜藩典医平井三琢の長男として福井の雲浜村に誕生する。1876年に東京外国語学校入学。1889年(明治22年)度東京帝国大学医科大学を首席で卒業、同期には山極勝三郎・田代義徳・入沢達吉等がいる。卒業後陸軍軍医となり、日清戦争に従軍した後、1896年(明治29年)12月『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員、陸軍薬局方(第二版)編纂委員、陸軍衛生会議委員等を歴任した。
井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29… 井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29日(慶応元年5月5日) - 1943年(昭和18年)3月18日)は、日本の弁護士、政治家・衆議院議員(憲政本党)、実業家。松山商工会議所会頭。早稲田大学評議員。松山高等商業学校理事。北予中学会理事。族籍は愛媛県士族。号は不去庵。伊予鉄道会社(現伊予鉄グループ)3代・5代社長。 伊予国喜多郡菅田村(現在の愛媛県大洲市)の庄屋の家に生まれた。有友平衛の長男。のちに井上家の養嗣子となる。地元の小・中学校を経て1882年(明治15年)に上京して丸山作楽塾、岡松甕谷塾で学び、翌年漢学者鈴村譲の海南書院(松山)で学ぶ。法学を独習して代言人(弁護士)試験に合格。
佐藤 雄能(さとう ゆうのう、慶応元年5月3日(1865年5… 佐藤 雄能(さとう ゆうのう、慶応元年5月3日(1865年5月27日) - 昭和14年(1939年)10月30日)は、山形県東田川郡(現・鶴岡市)出身の、日本の教育者。鉄道省事務官。幼名は雄之助。
松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年… 松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年5月2日) - 1926年(大正15年)5月15日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 駿河国、のちの静岡県富士郡須津村(吉原市を経て現富士市)出身。漢学を学ぶ。煙草製造業を営む傍ら、ツルチュック醸造監査役を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
青地 雄太郎(あおち ゆうたろう、1865年5月25日(慶応… 青地 雄太郎(あおち ゆうたろう、1865年5月25日(慶応元年5月1日) - 1926年(大正15年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(4期)。 青地半三郎の長男として駿河国志太郡前島村(静岡県志太郡青島村、青島町を経て現藤枝市)に生まれる。1884年(明治17年)11月、家督を相続した。静岡中学校に学ぶ。静岡の朝陽義塾、掛川の冀北学舎を経て東京専門学校に入学し、1886年(明治19年)同校政治経済科を卒業する。1889年(明治22年)青島村初代村長に就任し、現在の東海道本線藤枝駅の青島への誘致、役場や学校の建設、伝染病予防のための隔離病舎の建設などに尽くした。ほか、地方金融の整備のため青島実業銀行(のち頭取)を創立し、物流集散のため青島運送合資会社を立ち上げた。
浅田 栄次(あさだ えいじ、慶応元年4月28日(1865年5… 浅田 栄次(あさだ えいじ、慶応元年4月28日(1865年5月22日) - 大正3年(1914年)11月10日)は、日本の英語学者、エスペランティスト、聖書学者。 徳山藩の家に生まれ、京都中学校を1883年7月に同校を優等賞にて卒業。その後、上京し、東京英和学校(現:青山学院)を経て、1886年に工部大学校予科を優等賞にて卒業。学制改革に伴い、第一高等学校を経て、帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)へ進学。キリスト教に対する信仰心の高まりもあり、中退後に渡米しノースウェスタン大学にて神学と言語学を学ぶ。1893年、シカゴ大学にて第一号となる博士号を取得した(博士論文:旧約聖書ゼカリヤ書(第1章 - 第8章)の原典比較研究)。
浄法寺 五郎(じょうほうじ ごろう、1865年5月22日(慶… 浄法寺 五郎(じょうほうじ ごろう、1865年5月22日(慶応元年4月28日) - 1938年(昭和13年)1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階は従三位、勲等は勲二等、軍功は功三級。 下野国那須郡黒羽町(現栃木県)出身。浄法寺氏の末裔で、黒羽藩の城代家老を代々務めた浄法寺操の次男として生まれる。先祖に松尾芭蕉の門下であった浄法寺高勝がいる。父操は維新後、旧藩主大関子爵家の家扶を務めた。五郎は藩の重臣であった三田称平の家塾である地山堂で学んだ。 1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し歩兵少尉に任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校に入学するが、日清戦争開戦のため1894年(明治27年)7月に中退。