小林 正次(こばやし まさつぐ、1902年8月16日 - 1… 小林 正次(こばやし まさつぐ、1902年8月16日 - 1975年10月31日)は、日本の技術者、工学博士。元日本電気(NEC)専務取締役。元慶應義塾大学工学部教授。 岡山県久米郡加美村字亀甲(現・久米郡美咲町)生まれ。父親が広島で郡長、のち広島赤十字社主事等になったため広島県比婆郡庄原町(現庄原市)や府中市他で育つ。 1917年、福山中学校(現・福山誠之館高校)から広島高師附属中学(現・広島大学附属高校)に転入、第八高等学校を経て東京帝国大学工学部電気工学科卒業(1926年)。同年日本電気(NEC)入社。大学の先輩・丹羽保次郎が優秀な大学卒を採用するという方針で入社した第一期で、英才の誉れ高い小林が引っぱられたものであった。
中島 菜刀(なかじま さいとう、1902年8月16日 - 1… 中島 菜刀(なかじま さいとう、1902年8月16日 - 1955年7月19日)は、日本の画家。 中島菜刀は、明治35年(1902年)、鳥取県八頭郡賀茂村(現在の八頭町)にて村芝居の巡業一座の座長格の父と結髪担当の母の両親の元に生まれた。幼いころからの恵まれた画才から、郷里の人々の後援を得て京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)に学ぶ。苦学をしながらも卒業し、昭和4年(1929年)第16回日本美術院展に初入選を果たし、以降院展を主な舞台として活躍した。昭和16年(1941年)『樹海』が横山大観から激賞され、翌年『薫風梨園』が第29回院展で第三席(白寿賞・この年の絵画の部では最高位)を獲得し、その高い画力が認められる。
川井 章知(かわい あきとも、1902年(明治35年)8月1… 川井 章知(かわい あきとも、1902年(明治35年)8月16日 - 1987年(昭和62年)11月2日)は、日本の内務官僚、国会職員。最後の官選静岡県知事。位階は正四位。 神奈川県出身。川井立の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し、茨城県属となる。 1935年、山口県書記官・経済部長に就任。以後、千葉県労務部長、内務省計画局庶務課長、同省監査官、京都府内政部長、中国地方行政事務局次長などを歴任。 1947年3月、前任の小林武治が知事選に出馬のため辞任したことに伴い静岡県知事に就任。
孫 永寿(ソン・ヨンス、朝鮮語: 손영수/孫永壽、1902年… 孫 永寿(ソン・ヨンス、朝鮮語: 손영수/孫永壽、1902年8月12日または1905年 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家、実業家。初代河東郡郡守、第4代馬山市長、第4・5代釜山市長、第4代韓国国会議員を歴任した。 慶尚南道釜山出身、本籍地は密陽。東莱高等普通学校、京城法学専門学校、九州帝国大学(現・九州大学)法学部卒。1945年10月24日から1946年2月1日までは初代河東郡守、1947年11月5日から1949年6月20日までは第4代馬山市長、1952年5月8日から1954年7月9日までは第4・5代釜山市長を歴任した。特に4代目市長の在任中の1953年11月27日に発生した釜山大火災により同年12月11日に辞任したものの、その後はまた市長に選ばれ、12月17日より5代目市長となった。
岡田 宗司(おかだ そうじ、1902年〈明治35年〉8月12… 岡田 宗司(おかだ そうじ、1902年〈明治35年〉8月12日 - 1975年〈昭和50年〉7月8日)は日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。東京市神田区出身。 旧制開成中学、旧制松本高校文科乙類、東京帝国大学経済学部卒業。東京帝大在学中は「東大新人会」の主要メンバーとして活躍。戦前、労農の同人として参加し人民戦線事件で検挙。釈放後に南洋経済研究所に入り経済関係の著述を『科学主義工業』などに寄稿していた。 戦後、日本社会党結成に参加、1947年の第1回参院選に全国区から出馬し初当選する。1948年に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。一貫して左派に属し、社会党再統一後に党参議院議員会長・党国際局長を歴任。
和爾 俊二郎(わに しゅんじろう、1902年(明治35年)8… 和爾 俊二郎(わに しゅんじろう、1902年(明治35年)8月12日 - 1968年(昭和43年)7月12日)は、昭和期の地方公務員、政治家。衆議院議員、大阪市助役。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 愛媛県周桑郡小松町(現西条市小松町)で生まれる。1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部を卒業した。 大阪市役所に入り、大阪市書記、同理事、教育部長、民生局長などを歴任。この間に入隊して陸軍工兵曹長となった。1951年(昭和26年)大阪市助役に就任し3期在任した。第2室戸台風被害の救助活動に尽力し、大阪市会から感謝決議を受けた。 1963年(昭和38年)4月の大阪市長選挙に自由民主党推薦で出馬したが落選。
町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 19… 町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 1992年1月16日)は、三菱銀行常務取締役、三菱経済研究所長などを務めた、日本の銀行家。 長野県更級郡青木島村(後の長野市更北)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)から、第八高等学校 (旧制)へ進み、東京大学経済学部を卒業した。大学では研究者になることを目指して大内兵衛のゼミに参加していたが、実家が経営に関わっていた更埴銀行(1911年 - 1937年)の経営が困難に陥る状況などがあって研究者への道を断念し、1928年に三菱銀行に入行して、以降はもっぱら調査や貸付関係の業務に従事した。1936年ころには業務として欧米留学を経験し、その後、審査部長を経て常務取締役となり、後には、三菱経済研究所長に転じた。
千頭 暎臣(ちかみ てるおみ、1902年(明治35年)8月1… 千頭 暎臣(ちかみ てるおみ、1902年(明治35年)8月11日 - 1983年(昭和58年)2月27日)は、元三菱信託銀行社長、会長。
加藤 進(かとう すすむ、1902年8月10日 - 1993… 加藤 進(かとう すすむ、1902年8月10日 - 1993年11月10日)は、日本の昭和期の官僚。正三位勲一等瑞宝章。北海道札幌市出身。 札幌二中、一高を経て、1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、会計検査院に入る。1933年宮内省に移り、内匠寮主計課長・人事課長・総務局長などを歴任した後、1946年宮内次官、翌年宮内府次長。 1946年神奈川県を皮切りに始まった全国巡幸では、宮内大臣の松平慶民・侍従長の大金益次郎とともに企画・立案・実施の中心人物として活躍した。また、1945年12月に梨本宮守正王がA級戦犯に指名されたことから、GHQの対皇室政策に対して危機感を抱き、皇室・直宮家保全の立場から1947年の皇籍離脱を積極的に推し進めた。
木村 庄三郎(きむら しょうざぶろう、1902年8月10日 … 木村 庄三郎(きむら しょうざぶろう、1902年8月10日 - 1982年1月10日)は、日本の翻訳家。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部国文科卒業。同人誌『山繭』などに小説を書き、文学者として活動したのち、戦後はフランス文学の翻訳をおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
三和 精一(みわ せいいち、1902年(明治35年)8月10… 三和 精一(みわ せいいち、1902年(明治35年)8月10日 - 1964年(昭和39年)6月14日)は、昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員。 青森県北津軽郡相内村(市浦村を経て現五所川原市)で、三和松三郎、ユキの三男(5人兄弟の末子)として生まれる。生家は「相清」と呼ばれた旧家で、幼少時は西津軽郡十三村で水戸口役人を務めていた祖父のもとで成長し薫陶を受けた。1914年(大正3年)3月、金木明治高等小学校を卒業し、朝鮮在住のリンゴ業者の伯父のもとに寄寓した。開成夜学校を経て、中央大学専門部法科で学んだが1923年(大正12年)9月に中退した。 1927年(昭和2年)4月、東京民友新聞社に入社。
森 武臣(もり たけとみ、1902年8月9日 - 1971年… 森 武臣(もり たけとみ、1902年8月9日 - 1971年3月23日)は、日本の経営者。富国生命保険社長を務めた。 山梨県出身。1927年に東北帝国大学法文学部を卒業し、1936年8月に富国生命保険に入社。1947年10月に取締役に就任し、1951年4月に常務、1953年5月に専務を経て、同年9月には社長に就任した。 日本航空、富士急行各取締役、東武鉄道、後楽園スタジアム、昭和電工各監査役も歴任した。 1971年3月23日、腎臓炎のために死去。68歳没。
青木 理(あおき まさる、1902年〈明治35年〉8月9日 … 青木 理(あおき まさる、1902年〈明治35年〉8月9日 - 1967年〈昭和42年〉1月25日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。初代三重県公選知事(2期)。 三重県一志郡久居町西鷹跡町(久居市を経て現津市)で生まれた。1923年(大正12年)東京帝国大学法学部を卒業。理研特殊鋼総務部長、日本兵器車両取締役などを経て、1942年(昭和17年)拓務大臣・井野碩哉秘書官となる。翌年実業界に戻り、日本蚕糸近畿中国支社長などを歴任した。 戦後の1947年(昭和22年)の第1回三重県知事選挙に立候補して、官選知事の佐伯敏男や共産党の候補ら4人を破って当選し、初代公選知事となった。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 同年4月16日に就任した。
牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 … 牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 - 1996年(平成8年)8月30日)は、日本の海軍軍人、造船技師。東京帝国大学卒業。最終階級は海軍技術大佐。愛知県名古屋市出身。 1902年(明治35年)8月9日生まれ。愛知県名古屋市出身。東京府立第一中学校、第八高等学校を経て、1922年(大正11年)、東京帝国大学工学部船舶工学科に入学。大正11年7月、海軍造船学生。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学を卒業(工学士)。 大正14年5月、海軍造船中尉に任官、横須賀鎮守府付。1927年(昭和2年)12月に海軍造船大尉に進級し、1931年(昭和6年)12月から1934年(昭和9年)12月までフランスに駐在し(フランス国立造船大学〈シェルブール〉)、その間の1932年(昭和7年)12月に海軍造船少佐に進級。
岩井 文男(いわい ふみお、1902年〈明治35年〉8月9日… 岩井 文男(いわい ふみお、1902年〈明治35年〉8月9日 - 1983年〈昭和58年〉8月12日)は、日本基督教団牧師、教育者。 群馬県北甘楽郡高瀬村(現・富岡市高瀬)に生まれる。1918年(大正7年)16歳で、日本組合甘楽(基督)教会にて岡部太郎牧師より受洗。旧制富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)を経て、同志社大学法学部を卒業。三井銀行に入行したが2年で退職。大学の恩師で法学部教授・中島重に共鳴、日本労働者ミッション派遣員として京都府綴喜郡下草内村で伝道、のち、賀川豊彦の支援により岐阜県加茂郡富田村で農民福音運動やセツルメント活動に従事、兼松沢一らを指導した。 1934年(昭和9年)-1937年(昭和12年)、同志社大学文学部神学科に学んだ後、日本組合渋谷基督教会、日本組合永福町基督教会牧師を歴任。
佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 200… 佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 2000年3月31日)は、日本の植物学者。佐竹氏一門の佐竹南家第19代当主、男爵。湯沢市名誉市民。日本高山植物保護協会会長。 1902年、秋田県で佐竹南家の佐竹義雄の次男として生まれた。旧名は佐竹義宏。次男であったため、はじめ早川家の養子となったが、兄の義質の急死に伴い佐竹南家の当主となり、男爵位を継承した。 秋田県立橫手中学校(現、秋田県立横手高等学校)を経て、東京帝国大学(現、東京大学)理学部に進む。東京大学に学位論文「Boehmeria japonica (日本産やぶまを屬)」を提出して理学博士号を取得。大学卒業後は東京科学博物館 (現:国立科学博物館) の植物研究部長に就任した。
河野 正夫(こうの まさお、1902年(明治35年)8月8日… 河野 正夫(こうの まさお、1902年(明治35年)8月8日 - 1973年(昭和48年)6月7日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 千葉県君津郡上総町(現・君津市)出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。 1929年、姫路市の私立亀山高等女学校教諭に就任。その後、帝国女子専門学校、同附属日本高等女学校教諭に転じた。1940年(昭和15年)東京府立第八中学校教諭に就任し終戦を迎えた。 戦後、労働運動に加わり、東京都教職員組合協議会委員長、教員組合全国連盟委員長、教職員適格審査委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選(補欠、任期3年)し、1950年(昭和25年)6月の第2回通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬したが落選し、参議院議員に1期在任した。
島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月… 島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月7日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。殉職後は海軍大佐。 長野県東筑摩郡島内村(現松本市)出身。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、海軍兵学校卒(51期)。兵学校では高松宮宣仁親王の「学友」を命じられる。少尉候補生から海軍砲術学校、「古鷹」、「榛名」、横須賀鎮守府、「厳島」、「響」、「大鯨」、第二艦隊司令部などに配属された。 太平洋戦争開戦(1941年)時、連合艦隊旗艦「長門」司令部の真珠湾攻撃作戦指揮に気象担当として従事した。のちに(1943年7月、8月15日付以降との説もある)古賀峯一連合艦隊司令長官のもと、トラック泊地でも旗艦「武蔵」の連合艦隊司令部幕僚(参謀・気象長)として所属した。
胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)… 胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)8月6日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、日本の洋画家である。本名は源市。 長野県松本市の生まれ。矢野橋村が設立した大阪美術学校に入学し、在学中の1928年(昭和3年)に自身の作品が帝展に初入選される。1929年(昭和4年)に卒業後は、斎藤与里の門人となった。1935年(昭和10年)には東光会の会員となり、1941年(昭和16年)及び翌1942年(昭和17年)には2年連続で新文展に出品され特選となる。 その後は大阪美術学校の後輩だった日本画家の融紅鸞と結婚し、1964年(昭和39年)には浪速芸術大学(現在の大阪芸術大学)の教授となり、会員だった東光会の理事長や大阪市立美術研究所の講師も務めた。
金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日… 金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日 - 1973年(昭和48年)10月20日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 茨城県新治郡真鍋町(土浦市大字真鍋を経て、現在は土浦市真鍋)で生まれる。1919年(大正8年)、茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 日神酒造社長、ニッシン興業社長、湖南通運専務取締役、アサヒ産業社長、土浦商工会議所会頭などを務めた。 1947年(昭和22年)、茨城県議会議員に当選。民主党に所属して同党茨城県支部総務に就任。1948年(昭和23年)に県議を辞職し、1949年(昭和24年)1月に実施された第24回衆議院議員総選挙で茨城県第3区に民主党公認で出馬して当選し、その後改進党に所属して衆議院議員に1期在任した。
迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月… 迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 いわゆる「玉音放送」を起草した人物の一人として知られる。 内閣書記官長(第51代)、総合計画局長官、貴族院議員、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)、経済企画庁長官(第9・10代)、郵政大臣(第17代)、鹿児島工業短期大学学長(初代)などを歴任した。
原一郎(はら いちろう、1902年8月5日-1984年1月3… 原一郎(はら いちろう、1902年8月5日-1984年1月31日)は、日本の英文学者、神秘思想研究家。 東京出身。少年時代にキリスト教に関心をもち、ユニテリアン運動に関わる。1927年東京帝国大学文学部英文科卒。東亜同文書院、早稲田大学理工学部教授。1973年定年、名誉教授。ワーズワスが専門。ジョン・クーパー・ポウイスと親しく交わった。義兄(姉の夫)に遠山元一がいる。
閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治… 閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治35年〉8月3日 - 1988年〈昭和63年〉6月18日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人、居合道家、剣道家。閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子。閑院宮第7代当主にして最後の当主。軍人としての階級は陸軍少将。全日本居合道連盟第2代会長。栄典は大勲位・功四級。戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし、「閑院 春仁(かんいん はるひと)」と名乗った。のちに「純仁(すみひと)」と改名した。 1902年(明治35年)8月3日 、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子(第5子)として誕生。 学習院初等科を健康上の理由で長期休学し、その後神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、1924年(大正13年)7月陸軍士官学校(36期、兵科・騎兵)を卒業。
浅井 孝二(あさい こうじ、1902年8月3日 - 1992… 浅井 孝二(あさい こうじ、1902年8月3日 - 1992年2月20日)は、日本の実業家。住友銀行元頭取。石川県金沢市出身。 1921年に大阪明星高校、1925年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に住友銀行に入行。1947年に取締役、1952年に常務、1958年に専務、1963年に副頭取を経て、堀田庄三の後を継ぐ形で、1971年6月から1973年5月までに頭取を務めた。 その一方で、1974年から1981年までに大阪商工会議所副会頭を務め、1981年に大阪商工会議所会頭の座を巡り、関西財界を二分した「大商戦争」の際に、佐伯勇会頭の続投を支持しつつ、事態の収拾にも努めた。1972年に勲二等瑞宝章を受章した。
中村 寅太(なかむら とらた、1902年8月3日 – 197… 中村 寅太(なかむら とらた、1902年8月3日 – 1978年2月14日)は、日本の政治家。位階は正三位。 運輸大臣、国家公安委員会委員長、行政管理庁長官を歴任。 現在の福岡県糸島市志摩の農家に生まれる。農業の傍ら、中野正剛の門下生となり、同志を集めて「糸島又新会」を結成、普選運動に挺身する。1933年糸島農学校を卒業後、福岡県産業組合(現在の農協の前身)に入り、1938年主事となる。1942年県農業会主事。終戦後農業会を辞職し、「農民青年連盟」を結成、書記長となる。 1947年第23回衆議院議員総選挙に同連盟から旧福岡1区から立候補し、45,889票を集めて2位で当選する(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘など)。
富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日… 富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日 - ? )は、日本の哲学者。松商学園短期大学第5代学長。「リベラルな思想家」と評された。 佐賀県佐賀市生まれ。第七高等学校から、東京帝国大学文学部に進み、哲学科を卒業した。東亜研究所に勤務したが、戦後にシベリア抑留を経験し、1950年に鹿児島商科短期大学(後の鹿児島経済大学〜鹿児島国際大学の前身)教授となり、1959年に松商学園短期大学教授に転じた。 1971年6月に、当時の学長であった長守善が死去した後、学長事務取扱となり、翌1972年3月1日から正式に第5代学長となった。4期8年の学長在任中に、松商学園高等学校と共有されていたキャンパスの分離移転に取り組み、新村地区(現在の松本大学の校地の一部)への短大の新築移転を実現した。
西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990… 西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990年4月3日)は、日本の政治家。鳥取県知事。 鳥取市出身。九州帝国大学法文学部卒。鳥取県経済部開拓第一課長を経て、1947年の第1回鳥取知事選に立候補して初当選。当時は課長から知事への「三段跳び知事」と話題になった。同年11月、鳥取県に昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。 1952年の鳥取大火の復興に力を尽くした。2期目の1953年に南米への大量移住を唱え、議会を反対を押し切って5ヶ月にわたる南米視察の外遊をめぐってリコール運動に発展し、任期途中で辞職。出直し知事選で3期目を目指したものの落選し、1963年の鳥取市長選にも出馬したがこちらも落選に終わっている。
五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 198… 五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 1982年5月27日)は、日本の歌人・万葉学者。末弟は万葉学者の五味智英。長野県下諏訪町出身。 旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、東京高等師範学校文科を経て、京都帝国大学国文科卒業。中学時代より叔母のアララギ派詩人・五味えい、同郷の島木赤彦の影響を受け、短歌の道を志した。1929年上京後、齋藤茂吉、土屋文明の指導を受けながら、アララギの中興や、歌誌「アララギ」の発行に携わり、特に戦後は、世田谷区奥沢の自宅を「アララギ」発行所として専念した。数多くの学校で教壇に立ち、東京第三師範学校や日本女子大学の教授も勤めた。1953年から1982年まで信濃毎日新聞歌壇撰者。
二出川 延明(にでがわ のぶあき、1901年8月31日 - … 二出川 延明(にでがわ のぶあき、1901年8月31日 - 1989年10月16日)は、日本のプロ野球選手(外野手)・審判員、野球解説者、実業家、京阪電気鉄道OB。兵庫県出身。
森田 優三(もりた ゆうぞう、1901年8月29日 - 19… 森田 優三(もりた ゆうぞう、1901年8月29日 - 1994年2月7日)は、日本の経済学者。一橋大学教授・内閣統計局長・日本統計学会会長を歴任。1974年勲一等瑞宝章受章。 指導学生に溝口敏行(一橋大学名誉教授)、宮川公男(一橋大学名誉教授)など。
紅澤 葉子(べにさわ ようこ、新字体:紅沢、1901年8月2… 紅澤 葉子(べにさわ ようこ、新字体:紅沢、1901年8月28日 - 1985年4月27日)は、日本の女優。本名は友野 はな(ともの はな)。 伊庭孝らの新星歌舞劇団を経て、大正活映に入り『蛇性の淫』などの映画に出演。その後牧野教育映画製作所、帝国キネマ、マキノ・プロダクション、日活、松竹などに移って脇役女優として活躍した。元夫は映画監督の古海卓二。 1901年(明治34年)8月28日、神奈川県横浜市に乾物商の父・要蔵と母・マサの1男4女の二女として生まれる。 横浜市立第一南吉田小学校を経て旧制・神奈川県立高等女学校(現在の神奈川県立横浜平沼高等学校)を卒業。在学中に高木徳子の歌舞劇協会に参加するが、1919年(大正8年)3月20日に高木が亡くなると伊庭孝らが結成した新星歌舞劇団に入る。
浅沼 隆男(あさぬま たかお、1901年8月28日 - 19… 浅沼 隆男(あさぬま たかお、1901年8月28日 - 1992年2月14日)は、日本の経営者。明治乳業社長を務めた。岡山県出身。 旧制岡山一中(現:岡山県立岡山朝日高校)を経て、1924年に神戸高等商業学校経済学部(現:神戸大学)を卒業。明治製菓での勤務を経て、1964年11月に明治乳業副社長に就任し、1966年11月には社長に昇格。1972年5月から相談役を務めた。 1992年2月14日老衰のために死去。90歳没。
反町 茂雄(そりまち しげお、1901年(明治34年)8月2… 反町 茂雄(そりまち しげお、1901年(明治34年)8月28日 - 1991年(平成3年)9月4日)は、昭和期の日本の古書店主、古書鑑定家。 新潟県古志郡長岡町神田(現・長岡市神田二ノ町)にて、米の相場師として長岡で財を成した反町茂平の五男として生まれる。反町家は代々米穀問屋を営んでいたが、茂平の代に先物取引を始めて成功し、長岡町内では一番大きい、1700坪を有する邸宅を構えていた。明治43年、事業拡大のため日本橋蛎殻町に出店した父親に伴い11歳で上京する。父の店は繁盛し、明治末年ころには東京米穀商品取引所の売上高ランキングで常に5位以内に入るほどだった。 1914年、東京府立第一中学校の受験に失敗して日本大学附属中学校に進む。
青田 源太郎(あおた げんたろう、1901年〈明治34年〉8… 青田 源太郎(あおた げんたろう、1901年〈明治34年〉8月28日 - 1996年〈平成8年〉8月1日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員、兵庫県神崎郡船津村長。 兵庫県、のちの姫路市で生まれる。1917年(大正6年)帰一学館を卒業した。南満洲に渡り撫順南海火工品工廠に勤めた。1934年(昭和9年)に帰国。 元田商店取締役、神崎縫工取締役、船津消防団長、船津村長、神崎郡商工会長、青田鋳造所社長、岡製材所社長、船津農業協同組合長などを務めた。兵庫県議会議員に選出され2期在任した。 1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙に兵庫県地方区から自由民主党公認で出馬して初当選。
岡田 五郎(おかだ ごろう、1901年(明治34年)8月25… 岡田 五郎(おかだ ごろう、1901年(明治34年)8月25日 – 1965年(昭和40年)9月23日)は、日本の鉄道官僚、政治家。衆議院議員(3期)。 兵庫県加東郡小野町長尾で岡田常次の三男として生まれる。第六高等学校を経て、1925年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、鉄道省に入省し鉄道属に任官し札幌駅貨物係に配属された。 以後、鉄道局参事、鉄道大臣官房人事課長、同秘書課長、鉄道監、札幌鉄道局長、大阪鉄道局長などを歴任し、1947年に退官した。 1949年1月の第24回衆議院議員総選挙で兵庫県第三区に民主自由党から出馬し当選。以後、第26回総選挙まで連続して当選し、衆議院議員を連続三期務めた。
綾ノ浪 俊一郎(あやのなみ しゅんいちろう、1901年8月2… 綾ノ浪 俊一郎(あやのなみ しゅんいちろう、1901年8月25日 - 1984年7月1日)は、青森県南津軽郡田舎館村出身で湊川部屋、追手風部屋、再度湊川部屋に所属した力士。本名は鈴木 俊一郎(すずき しゅんいちろう)。身長170cm、体重94kg。最高位は東前頭7枚目。得意手は突っ張り、押し。 1921年1月場所に初土俵。この間親方が亡くなり、後継が決まるまでのあいだ追手風部屋に預けられ、1929年1月場所に十両昇進、新設された湊川部屋に戻って1930年5月場所に新入幕。春秋園事件に加担し、1932年1月場所に脱退(番付からは削除され、実質的最終場所は1931年10月場所)した。脱退後は青森市で酒屋を経営した後、再び上京して江東区深川で飲食店「角力屋」を経営した。
大須賀 喬(おおすが たかし、1901年8月24日 - 19… 大須賀 喬(おおすが たかし、1901年8月24日 - 1987年7月14日)は、日本の彫金家。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。日展評議員・理事・参事を歴任し、日本金工作家協会会長も務めた。 香川県高松市に生まれる。1919年に高松工芸学校金工科を卒業後、東京美術学校金工科に進み、1925年に卒業した。 1927年、北原千鹿を中心として信田洋、田村泰二、村越道守、山脇洋二らと工人社を創立し、同人となった 1929年、第10回帝展に「壁面花挿」が初入選し、1933年、第14回帝展で「彫金花瓶」により特選を受賞した。。1936年の改組帝展では「仙人掌香盆」が推奨となり、新文展でも「象嵌文壷」「蝶文香盆」などを出品した。
森 宏一(もり こういち、1901年8月21日 - 1993… 森 宏一(もり こういち、1901年8月21日 - 1993年2月9日)は、日本の哲学者。本名は杉原圭三。 1901年、東京府生まれ。東京帝国大学を卒業。唯物論研究会の創立以来の会員として活動する。社会主義の立場から、実存主義、西田幾多郎・田辺元の哲学を批判した。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1… 北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1987年10月27日)は、日本の歯科医師、歯科教育者。松本歯科大学の初代学長を務めた。日本の歯科医療と教育の発展に尽力した。 宮城県に生まれる。1921年(大正10年)に旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、日本歯科大学に進学し、歯科医学を修めた。大学卒業後、歯科医療に従事しながら教育者としての道を歩み、日本歯科大学で教授として教鞭を執る。特に歯科補綴学の分野で指導を行った。その後、松本歯科大学の初代学長に就任し、大学の発展に寄与した。松本歯科大学では、歯科補綴学第二講座を開設し、補綴治療(入れ歯や被せ物などの治療)の教育と研究に尽力した。
野田 孝(のだ こう、1901年 <明治34年> 8月20日… 野田 孝(のだ こう、1901年 <明治34年> 8月20日 - 1984年 <昭和59年> 9月23日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。位階は従三位。 山梨県竜王町(現在の甲斐市)出身。1920年に甲府中学校を卒業後、旧制第一高等学校を目指して浪人していた。しかし、同年に同郷の小林一三に「(浪人してまで高校・大学に進学するより)早いとこ、実務についた方が良い」と勧められて、阪神急行電鉄に入社した。結婚まで小林一三の自宅に下宿し、結婚後も隣に自宅を構えていた。 1947年2月に京阪神急行電鉄(阪急電鉄)から分離した阪急百貨店の常務に就任し、専務を経て、1957年11月に社長に就任。
佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - … 佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - 1970年3月3日 )は、愛知県出身の日本の政治家、ジャーナリストである。衆議院議員8期(日本社会党所属)、中央公論編集長を務めた。愛称はサトカン。
鈴木 恭助(すずき きょうすけ、1901年8月18日 - 1… 鈴木 恭助(すずき きょうすけ、1901年8月18日 - 1998年4月30日)は、日本の経営者。青森銀行頭取、会長を務めた。岩手県出身。 盛岡中学を経て、1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1930年に日本勧業銀行に入行した。1955年4月に青森銀行常務に就任し、1960年12月に専務、1965年6月に副頭取を経て、1968年11月には頭取に就任した。1974年5月から会長を務めた。 1974年11月に勲四等旭日小綬章を受章した。 1998年4月30日急性気管支炎のために死去。96歳没。
園木 登(そのき のぼる、1901年(明治34年)8月16日… 園木 登(そのき のぼる、1901年(明治34年)8月16日 - 1962年(昭和37年)12月23日)は、大正から昭和期の官吏、農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(1期)。 熊本県鹿本郡山東村大字小野(植木町大字小野を経て現熊本市北区)で生まれる。1914年(大正3年)3月、山東小学校を卒業し、同年4月、熊本県立中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)に入学したが、1915年(大正4年)9月、肋膜炎となり同校を退学。その後回復して家業の農業に従事した。 1922年(大正11年)11月、朝鮮総督府官吏となり、1931年(昭和6年)6月まで在任。同年11月、満州国官吏に任官し新京警察署に赴任。1937年(昭和12年)10月、満州国官吏を辞任し、同年11月、北京の北支派遣軍嘱託となり特務部総務課に配属。
浅野 晃(あさの あきら、1901年8月15日 - 1990… 浅野 晃(あさの あきら、1901年8月15日 - 1990年1月29日)は、日本の詩人・国文学者。立正大学文学部教授を経て、立正大学名誉教授。滋賀県大津市出身。 広島市中心部にあった偕行社の済美小学校(原爆で廃校)、東京本村小、南山小、青山師範付属小卒業。1914年、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)入学。同級生に蔵原惟人、飯島正、富永太郎、河上徹太郎、足利惇氏、杉本栄一、森永太平らがいた。一年上に五島茂、池谷信三郎、一年下に小林秀雄、正岡忠三郎など。1919年9月、第三高等学校文丙入学。同級生には文丙の飯島正、島田叡、北川冬彦ら、文乙の大宅壮一、中谷孝雄、山口誓子、理科の梶井基次郎、岡潔らがいた。
淡 徳三郎(だん とくさぶろう、1901年8月15日 - 1… 淡 徳三郎(だん とくさぶろう、1901年8月15日 - 1977年5月20日)は、日本の社会評論家。
24代 木村 庄之助(にじゅうよんだい きむら しょうのすけ… 24代 木村 庄之助(にじゅうよんだい きむら しょうのすけ、1901年8月15日 - 1973年9月19日)は、大相撲の立行司。本名:緑川 義。千葉県出身。通称は「総髪庄之助」、「山伏庄之助」、「緑川庄之助」など。「由井正雪」とも。 体が大きかったため力士を勧められるも8歳だったため行司として入門。1910年1月初土俵。1911年5月序ノ口に付き、最初阿武松部屋、のち出羽海部屋に所属した。行司名は木村芳松→式守義(義松とする資料も有)と変わったあと、1927年に式守伊三郎 (初代) と改名し、その後、1949年1月、式守代々の名跡式守鬼一郎 (5代) 、1960年1月、立行司20代式守伊之助、1963年1月、24代木村庄之助を襲名し、柏鵬時代の幕開けから1965年にスタートした部屋別総当たり制直後まで、数々の名勝負を裁いた。
瀧田 貞治(たきた ていじ、1901年8月14日 - 194… 瀧田 貞治(たきた ていじ、1901年8月14日 - 1946年1月26日)は、日本の国文学者。専門は近世文学、演劇史、俳諧史。 栃木県那須郡佐久山町(現・大田原市)出身。旧制大田原中学校から第四高等学校を経て1927年(昭和2年)、東京帝国大学文学部国文学科を卒業し、元禄歌舞伎研究のため大学院に進学したのち、1928年(昭和3年)に第六高等学校教授となる。1929年(昭和4年)より台北帝国大学助教授。1942年(昭和17年)には井原西鶴の研究団体である「西鶴学会」を組織し、年2回刊行の学術雑誌『西鶴研究』の編集に当たった。『西鶴研究』は1942年6月から1943年(昭和18年)12月まで4冊を刊行したが、第5冊の校正中、1945年(昭和20年)5月の台北大空襲によって原版が焼失し、発行不能となった。
高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月… 高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月13日 - 1980年〈昭和55年〉1月19日)は、毎日放送(MBS、現・MBSメディアホールディングス)元代表取締役社長・会長、東京12チャンネル(TX、現・テレビ東京)元取締役。東京都出身。民間放送の創始者の一人。 慶應義塾大学経済学部卒業後、1926年(大正15年)[元号要検証]に大阪時事新報社に入社、1928年(昭和3年)毎日新聞社に移り、副主筆などをつとめた後1950年(昭和25年)にMBSの前身である新日本放送(NJB)設立に参加し、常務取締役に就任した。 MBSの設立・開局の中心人物として知られる。同局は毎日新聞系とされているが、実際には毎日新聞を依願退職した高橋が個人のコネクションをフルに活用し尽力して開局に漕ぎ着けたものであり、毎日新聞自体は余り積極的に支援しなかった。
山岸 巳代蔵(やまぎし みよぞう、1901年〈明治34年〉8… 山岸 巳代蔵(やまぎし みよぞう、1901年〈明治34年〉8月12日 - 1961年〈昭和36年〉5月4日)は、昭和時代の農業家。幸福会ヤマギシ会の創始者。 滋賀県蒲生郡老蘇村大字東老蘇(現・近江八幡市)にて生まれ、1922年より養鶏を中心に農業を始める。1950年にジェーン台風が日本を襲った際、山岸の田地が無事だったことが注目され、以後講演活動を始める。 1952年、山岸会を創立する。これが、「幸福会ヤマギシ会」の始まりである。1954年、『山岸式養鶏法・農業養鶏編(前編)』を、名古屋の中禽社より出版する。1958年3月には、三重県阿山郡伊賀町(現・伊賀市)にて「ヤマギシズム生活実践場春日山実験地」が実現するが、1959年7月に山岸会は不法監禁容疑で警察の強制捜査を受け、山岸会幹部9名が逮捕され、代表の山岸にも逮捕状が出された。
小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 197… 小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 1979年8月20日)は、日本の生理学者、公衆衛生学者。 長野県岡谷市に生まれる。 長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1924年に満洲医科大学(現中国医科大学)を卒業後、同大学の生理学教室に入り、久野寧の発汗研究に従事する。 1929年、ロックフェラー財団のフェローシップをとり、北京協和医学院へ留学、林 可勝(ロバート・リム)(中国語版)の生理学教室へ入る。 1930年、林との協同研究により小腸由来の胃酸分泌抑制作用を発見し、作用を再現する物質をエンテロガストロンと命名する。その後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン へ留学し、Sir Charles Arthur Lovatt Evans、 アーチボルド・ヒルの指導を受け、インスリン放出や血糖利用等代謝に関する研究を行う。