大滝 重直(おおたき しげなお、1910年11月5日 - 1… 大滝 重直(おおたき しげなお、1910年11月5日 - 1990年7月4日)は、日本の小説家。 秋田県生まれ。1929年秋田県立本荘中学校卒。秋田魁新報記者を務めたのち、島木健作に師事。1937年から満洲に渡り現地農村を調査。1942年「解氷期」で大陸開拓文学賞受賞。1990年、前立腺癌のため死去。
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大滝 重直(おおたき しげなお、1910年11月5日 - 1… 大滝 重直(おおたき しげなお、1910年11月5日 - 1990年7月4日)は、日本の小説家。 秋田県生まれ。1929年秋田県立本荘中学校卒。秋田魁新報記者を務めたのち、島木健作に師事。1937年から満洲に渡り現地農村を調査。1942年「解氷期」で大陸開拓文学賞受賞。1990年、前立腺癌のため死去。
麻田 満洲野(あさだ ますの、1910年11月5日 - 没年… 麻田 満洲野(あさだ ますの、1910年11月5日 - 没年不明)は、東京都出身(北海道生まれ)の日本舞踊家、著述家。藤蔭流の名取で、芸名は藤蔭 満洲野(ふじかげ ますの)。 1910年(明治43年)、駒井徳三の次女として北海道に出生。三輪田高等女学校を経て、明治大学女子部法科を卒業。幼少時より舞踊に馴染み、初期は西洋舞踊を学んだが、途中より日本舞踊に傾倒し、舞踊界で重きをなした。また、舞踊関連などの著書を残している。
佐藤 謙三(さとう けんぞう、1910年11月5日 - 19… 佐藤 謙三(さとう けんぞう、1910年11月5日 - 1975年1月25日)は、国文学者。國學院大學元学長。 1910年、神奈川県横浜市で生まれた。横浜第二中学校在学時に、関東大震災が発生し、自宅で被災した。國學院大學予科を経て、國學院大學国文科で学んだ。1933年に卒業し、同大学国文研究室助手に採用された。1935年に予科講師、1945年に予科教授に昇格。 戦後、1946年に文学部教授となった。1961年、学位論文『平安時代文学の研究』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。1964年から文学部長を務め、1970年には國學院大學学長に就任した。1973年より病のため入院治療にあたったが、1975年、学長在職中に死去。
山田 克郎(やまだ かつろう、1910年11月5日 - 19… 山田 克郎(やまだ かつろう、1910年11月5日 - 1983年4月26日)は、日本の小説家。 朝鮮・釜山生まれ(石川県金沢市とするものもある)。本名・克朗。 旧制中学3年のときに父の故郷である香川県香川郡香西町(現・高松市香西南町)に移り、高松中学校に転入する。 1936年、早稲田大学商学部卒。 1937年、処女作「燈台視察船」を『オール讀物』に発表。 1941年、最初の単行本『翼の饗宴』を上梓、以後、旺盛な作家活動を戦中、戦後と続ける。 海洋もの作家として活躍し、戦後、1949年に「海の廃園」(『文藝読物』発表)で直木賞受賞。 日本テレビ放送網でテレビドラマ化された『快傑ハリマオ(原作名『魔の城』)』の原作者として知られる。
中村 喜四郎(なかむら きしろう、1910年〈明治43年〉1… 中村 喜四郎(なかむら きしろう、1910年〈明治43年〉11月5日 - 1971年〈昭和46年〉12月21日)は、日本の教育者、政治家。位階は正五位。勲等は勲三等。 参議院議員(2期)、茨城県議会議員(5期)。 1910年(明治43年)、茨城県生まれ。 茨城県師範学校、東京高等師範学校卒業。郷里の小学校訓導、島根県師範学校教諭を務める。 1940年(昭和15年)、東京文理科大学卒業。中国に渡り、北京日本中学校教諭、北京工業大学教授を務める。 1945年(昭和20年)、帰国。その後、茨城県立境高等学校教諭を務める。戦前戦後を通じ、教育一筋の道を歩んだ。 1947年(昭和22年)、茨城県議会議員選挙に当選。
大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11… 大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11月3日 - 1991年(平成3年)2月24日)はドイツ文学者、外交官。兵庫県西宮市の甲陽中学校出身(七回卒)。妻はヴァイオリニストの諏訪根自子。 1934年京都帝国大学文学部独文科卒。1937年からドイツのライプツィヒ大学に学ぶ。1939年に、帰国し外務省に入り、結婚するも、その後、外交官補としてベルリンに赴任。ドイツ留学中は朝永振一郎とも交流があった。 1945年、ドイツの敗戦とともに、アメリカ軍に捕らえられて、アメリカに拘留。この一連の出来事では、前田陽一、諏訪根自子が一緒だった。 帰国後、1949年、一高教授を経て、東京大学教養学部助教授、教授を1969年まで歴任した。
曽根 嘉年(そね よしとし、1910年11月3日 - 200… 曽根 嘉年(そね よしとし、1910年11月3日 - 2003年10月22日)は、日本の経営者、技術者。三菱自動車工業社長を務めた。 愛媛県出身。1933年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱航空機名古屋製作所に入社。堀越二郎率いる軍用機設計チームで堀越の補佐を務め、九六艦戦や零戦、烈風などの機体設計に従事した。 1967年5月に三菱重工業取締役に就任し、1970年5月には常務に就任。1974年1月に三菱自動車工業副社長に就任し、1979年6月に社長に昇格。1981年6月から相談役を務めた。三菱重工業相談役も務めた。 1977年4月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章。
三益 愛子(みます あいこ、1910年(明治43年)11月2… 三益 愛子(みます あいこ、1910年(明治43年)11月2日 - 1982年(昭和57年)1月18日)は、日本の女優。戦後、母物映画で一世を風靡し、「母物映画女優」と呼ばれた。 本名:川口 愛子(かわぐち あいこ)、旧姓:乾(いぬい)。大阪府大阪市南区南炭屋町(現・中央区)の生まれ。夫は直木賞作家の川口松太郎。川口との間には三男一女があり、俳優の川口浩は長男にあたる。宝塚歌劇団24期生の紀川瑠璃子は実妹にあたる。 1927年(昭和2年)に大阪府立阿倍野高等女学校を中退し、大阪の劇団『新潮劇』に加入。水町晴子の芸名で初舞台を踏んだ。曾我廼家五九郎一座などへの出演を経て1929年(昭和4年)に上京。
村田 恒(むらた ひさし 1910年11月2日 - 1998… 村田 恒(むらた ひさし 1910年11月2日 - 1998年11月14日)は、日本の通産官僚。元日本貿易振興会(ジェトロ)理事長。東京市(現 千代田区)出身。1984年 勲二等旭日重光章。 府立四中、一高を経て、1936年 東京帝国大学法学部を卒業し、同年 商工省入省、商務局属。入省同期に、小室恒夫(通商局長)、大堀弘、皆川良三、東澄夫(共に札幌通産局長)、秋山武夫(軽工業局長)など。戦後、経済安定本部部員、通商局通商政策課長などを経て、石炭局長(1957年6月15日 - 1958年8月1日)にて退官。同年 ジェトロ理事、木下産商経営企画部長、常務、専務を経て、1965年 三井物産取締役、1969年 常務、1973年 副社長。
秋 玲二(あき れいじ、1910年(明治43年)11月1日 … 秋 玲二(あき れいじ、1910年(明治43年)11月1日 - 2006年(平成18年)2月24日)は、日本の漫画家、画家。佐賀県唐津市出身。本名古川 善男(ふるかわ よしお)。 生涯、数多くの学習漫画を手がけた。主な作品に『よっちゃんの勉強漫画』『クラブくんの冒険』など。日本漫画家協会名誉会員。また、石川滋彦の弟子として洋画家としても知られる。 1910年、佐賀県唐津市にて生誕。 1930年、東京市教員講習所養成科を卒業し、1946年まで東京の小学校の教員を務めていた。 1933年頃から漫画を描き始め、1939年4月から『東日小学生新聞』にて『よっちゃんの勉強漫画』の連載を開始し2000年に終了するまで60年以上連載されていた。
阿部 憲一(あべ けんいち、1909年11月30日 - 19… 阿部 憲一(あべ けんいち、1909年11月30日 - 1989年3月28日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、公明党)、学校法人創価学園理事長を歴任。 長野県北佐久郡岩村田町(現・佐久市)出身。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)、旧制水戸高等学校を経て、1933年東京帝国大学経済学部卒。卒業後は海運会社に勤務し、1949年栗林商船取締役から1961年飯野海運取締役を経て、1965年渋沢海運社長に就任。また、創価学会理事を務める。 1967年の東京都知事選に無所属(公明党・推薦)で立候補したが、得票数3位で落選(当選者は美濃部亮吉)。 1968年の第8回参議院議員通常選挙に東京都選挙区(改選数4)から公明党公認で立候補して、第1位で初当選。
浅川 純直(あさかわ すみなお、1909年(明治42年)11… 浅川 純直(あさかわ すみなお、1909年(明治42年)11月29日 - 1991年(平成3年)3月9日)は、昭和時代の政治家。宮城県角田市長。奥州浅川氏の末裔。位階は正五位。 宮城県角田市生まれ。1942年(昭和7年)中央大学法学部卒。東京都職員を経て帰郷、角田市議会議長(4・5・6・7代)、角田市長(8・9代)を歴任。1990年(平成2年)市長を引退した。 角田市幡守会(角田石川藩家中の子孫の会)の会長を務めた。1991年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
松ノ里 直市(まつのさと なおいち、1909年11月29日 … 松ノ里 直市(まつのさと なおいち、1909年11月29日 - 1985年1月26日)は、青森県五所川原市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は工藤 直市。身長は177cm、 体重は113kg。最高位は西前頭3枚目(1942年5月場所)。得意手は右四つ、寄り。 1926年1月場所に初土俵を踏む。その後、1932年1月の春秋園事件で天竜、大ノ里らにつき協会を脱退、翌年設立の関西角力協会にも参加した。 関西角力協会では幕内で活躍した。関西角力協会の解散後に帰参し、1938年1月場所に三段目筆頭格から再出発。その場所で10勝2敗の好成績を挙げ、翌5月場所には幕下に復帰して優勝を果たした。1939年1月場所は十両に昇進して9勝4敗の成績を挙げて、翌5月場所で新入幕を果たし、12勝3敗の好成績を挙げた。
田嶋 好文(たしま こうぶん、1909年〈明治42年〉11月… 田嶋 好文(たしま こうぶん、1909年〈明治42年〉11月28日 - 1963年〈昭和38年〉3月5日)は、昭和期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 高知県出身。1933年(昭和8年)中央大学法学部を卒業した。 弁護士として働く。神戸製鋼所名古屋工場法律顧問、林金属工業代表取締役、大同衛生材料常任監査役などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で愛知県第1区から諸派で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で旧愛知1区に国民協同党公認で出馬したが落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で民主自由党公認で出馬して初当選し、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
山本 和(やまもと かのう、1909年11月28日 - 19… 山本 和(やまもと かのう、1909年11月28日 - 1995年3月8日)は、日本基督教団牧師、神学者。日本の代表的なバルト主義者。 岡山県出身。東京帝国大学経済学科卒業、日本神学校卒業。関東学院大学教授を経て、玉川大学教授。日本基督教団松山教会にて牧会。『救済史の神学』で文学博士。 日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰の原案作成者である。彼はバルト神学を借用してこの使徒書簡を書いた。 大のバルト好きであった。バルトの肖像を飾り、その肖像にそっくりのパイプを買ってきてふかすほどだった。 日本キリスト教協議会編纂の『キリスト教大事典』の悪魔、救済史などを執筆。「悪魔」の項目で、キリスト教の教理としての伝統的な悪魔観を否定している。
石本 他家男(いしもと たけお、1909年(明治42年)11… 石本 他家男(いしもと たけお、1909年(明治42年)11月25日 - 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の実業家である。デサントの創業者であり社長、会長を務めた。 石川県石川郡鶴来町(現在の白山市)に生まれる。1923年(大正12年)に大阪で丁稚奉公となり、1935年(昭和10年)2月に独立し、現在のデサントのルーツとなったツルヤを創業した。第二次世界大戦中は兵士となるが、戦時中の1946年(昭和21年)に復員となり戦後にはグラブやミットの製造及び販売を始める。1957年(昭和32年)にはツルヤの独自ブランドである「デサント」を立ち上げ、翌1958年(昭和33年)にはスポーツウェアの製造販売を始めた事により「石本商店」に商号変更し株式会社化された。
柴本 重理(しばもと しげみち、1909年11月24日 - … 柴本 重理(しばもと しげみち、1909年11月24日 - 1992年6月21日)は、日本の経営者。ブリヂストンタイヤ社長を務めた。長野県下高井郡延徳村(現・中野市)出身。 旧制神奈川県立横浜第二中学を経て、1933年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1933年に内国貯金銀行に入行、1939年にブリヂストンタイヤに入社。1947年12月に取締役に就任し、1949年に常務、1958年に専務を経て、1963年3月に副社長に就任し、1973年5月に社長に昇格。1981年3月に会長、1982年3月に取締役相談役を経て、1983年3月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲二等旭日重光章を受章した。
春木 猛(はるき たけし、1909年11月24日 - 199… 春木 猛(はるき たけし、1909年11月24日 - 1994年1月31日)は、日本の法学者。法学博士(東北大学、1962年)。 専門は国際法、国際政治学。元青山学院大学教授、元学校法人青山学院常務理事。 国際法のほか英語教授法の権威としても知られたが、1973年に教え子の女子学生を強姦したとするスキャンダルにより失脚した。 朝鮮生まれ。青山学院専門部卒業。東北帝国大学博士課程修了。 1933年 - オクシデンタル大学(アメリカ)歴史政治科卒業。ブラウン大学修士課程修了。 1936年 - 南カリフォルニア大学大学院政治学科博士課程修了。 1939年 - 青山学院専門部講師、日本大学講師。1945年 - 日本大学予科講師。
間 端夫(あいだ まさお、1909年11月24日 - 199… 間 端夫(あいだ まさお、1909年11月24日 - 1994年5月29日)は、日本の経営者。福岡県出身。 1933年に九州帝国大学法学部法学科を卒業し、同年8月に八幡製鉄所に入社。1954年12月に参与に就任し、1961年2月に愛知製鋼専務を経て、1962年6¥2月に副社長に就任し、1964年2月から1969円12月までに社長を務めた。1972年5月から1976年9月までに日本特殊鋼社長を務めた。 1994年5月29日心不全のために死去。84歳没。
白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年11月24… 白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年11月24日 - 1961年6月15日)は、日本の経済学者。経済学史やマルクス経済学の研究者として知られる。 京都府与謝郡市場村(現・与謝野町)出身。1928年に京都師範学校(現・京都教育大学)本科第2部に入学し、翌年卒業。続けて京都帝国大学経済学部に入学(当初選科、1930年より本科)し、1931年に大学院に進学。石川興二に師事し、1934年に京都帝大経済学部講師に就任した。1940年に助教授に昇格するが、太平洋戦争終結後に経済学部で起きた「戦争責任の自己批判」論に伴い、1946年に京都帝大を退職する。1947年、彦根経済専門学校(1949年より滋賀大学経済学部)の教授となる。
長谷川 茂(はせがわ しげる、1909年11月24日 - 2… 長谷川 茂(はせがわ しげる、1909年11月24日 - 2001年7月4日)は、日本の実業家。 福岡市に生まれる。1929年、福岡県中学修猷館を経て、1934年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し大阪商船に入社。 1947年10月、関西汽船に転じ、1957年8月取締役となり、1958年6月常務、1959年8月東京支店長、1962年8月専務を経て、1966年8月社長に就任する。1973年8月相談役、1974年8月顧問となる。
佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年… 佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年不明)は、日本の数学者。信州大学名誉教授。専門は微分積分学。 長野県東筑摩郡塩尻町(現・塩尻市)出身。旧制松本第二中学(現・長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1932年(昭和7年)東北帝国大学卒業。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)教諭を経て1938年(昭和13年)京城高等工業学校教授。1944年海軍兵学校教官。1946年松本高等学校教授、1950年信州大学文理学部助教授、1966年理学部教授を務めた後、1970年(昭和45年)定年退官、名誉教授。 佐倉の名「直男」は「ただお」ではなく「なおお」と読む。彼の教え子の一人で、信州大学文理学部最後の入学生でもある猪岐(いのまた)英夫は、信州大学理学部同窓会報の中で佐倉の想い出をこう記している。
谷口 鉄雄(たにぐち てつお、1909年11月23日 - 1… 谷口 鉄雄(たにぐち てつお、1909年11月23日 - 1995年3月17日)は、日本の美術史学者。専門は東洋美術。 福岡県八幡市(現在の北九州市八幡西区)に生まれる。旧制福岡高等学校文科を経て、1933年に九州帝国大学法文学部哲学科を卒業。卒業後は、法文学部の副手に採用され、1935年助手、1948年九州大学文学部講師、1951年助教授を経て、1955年に教授に就任する。1966年 - 1968年に文学部長を務めた。1973年に定年退官し、名誉教授となる。 退官後は、九州産業大学教授に就任。学外では、1973年 - 1978年北九州市立美術館長、1982年 - 1988年石橋美術館(ブリヂストン美術館)長を兼任した。
梅澤 純夫(うめざわ すみお、1909年11月22日 - 2… 梅澤 純夫(うめざわ すみお、1909年11月22日 - 2000年3月30日)は、日本の有機合成化学者。専門は抗生物質。慶應義塾大学名誉教授。 東京都生まれ。旧制武蔵高等学校を経て、北海道帝国大学理学部卒業。北海道帝国大学助教授、藤原工業大学助教授を経て、1944年慶應義塾大学工学部(現理工学部)教授となる。 1944年「ペニシリン委員会」のメンバーとして、次弟の梅澤濱夫博士と共同で研究にあたり、日本初のペニシリン採取に成功。ペニシリン、ストレプトマイシン等の抗生物質の研究で世界的に知られる。また、梅澤濱夫らが発見した国産初の本格的抗生物質カナマイシンの化学構造の決定に寄与した。世界に先駆け、ストレプトマイシン(1974年)その他の数多くの抗生物質の全合成を達成し、日本の有機合成化学、抗生物質の研究をリードした。
村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月… 村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月22日 - 2006年(平成18年)3月31日)は日本の工学者、早稲田大学名誉教授、日本カナダ教育文化交流財団理事長。早稲田大学第10代総長、早稲田奉仕園第6代理事長、恵泉女学園大学初代学長。キリスト教プロテスタントである。次男村井吉敬は早稲田大学客員教授を務めた。旧姓日野西。 北海道茅部郡石倉村(現森町)濁川の広大な日野西牧場で農場を経営していた日野西長輝(日野西光善三男)の三男として生まれた。日野西家は京都の堂上華族。1916年に父親が日本統治下の朝鮮・慶尚南道の村井進永農場の農場長に就任したため翌年から一年間、現地の内地人用小学校に通う。
遠山 喜一郎(とおやま きいちろう、1909年(明治42年)… 遠山 喜一郎(とおやま きいちろう、1909年(明治42年)11月22日 - 1999年(平成11年)9月15日)は、元体操選手。ラジオ体操を考案した人物のひとり。位階は正四位。 茨城県多賀郡日立村(現・日立市)出身。東京高等師範学校を卒業し、熊本師範学校教諭となる。教諭時代に1936年ベルリンオリンピックに出場。 1954年(昭和29年)世界選手権の日本代表団監督、1956年メルボルンオリンピック体操国際審判員などを歴任したのち千葉大学教授となり、1975年(昭和50年)に退官する。退官後は東京女子体育大学教授に転じ1982年(昭和57年)まで務めた。ほか、日本体操協会副会長なども務めた。1999年死去。
福岡 日出麿(ふくおか ひでまろ、1909年11月21日 -… 福岡 日出麿(ふくおか ひでまろ、1909年11月21日 - 1990年10月5日)は日本の政治家。参議院議員(2期)。旧姓は辻。東与賀村長の辻武一郎の子。祖父は佐賀の干拓の父と呼ばれた辻演年。兄は陸軍兵器学校の校長などを務めた陸軍中将の辻演武。 佐賀県佐賀郡出身。旧制佐賀県立佐賀中学校卒業後、上海の東亜同文書院大学に進むが中退。明治28年創業の蔵元「窓の月」を営む福岡家に養子に迎えられる。海外経営に熱心でハルビンや蘇州で酒造を手がけた。戦後、翼賛事務長などを理由に公職追放となり、1948年に生コン、酒類、建築資材などを販売する福岡商店を創業した。 追放解除後の1955年から佐賀県議会議員を5期務めた後、国政に進出。
細川 忠雄(ほそかわ ただお、1909年11月20日 - 1… 細川 忠雄(ほそかわ ただお、1909年11月20日 - 1969年11月29日)は、日本の新聞記者。 山梨県甲府市出身。東京外国語学校フランス語科卒。東京市役所勤務ののち、1939年読売新聞社に入社。ハノイ特派員、バンコク支局長などを経て、1946年論説委員となり、1955年から夕刊コラム「よみうり寸評」を担当した。日本エッセイスト・クラブ賞選考委員を務めた。
綾若 真生(あやわか まさお、1909年11月20日 - 1… 綾若 真生(あやわか まさお、1909年11月20日 - 1989年11月10日)は、青森県南津軽郡(現在の黒石市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は高橋 勝雄(たかはし かつお)。最高位は西前頭5枚目(1940年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重82kg。得意手は右四つ、下手投げ、捻り、足癖、とったり。 農家に生まれ、幼少時から力が強く米2俵を両手に担ぎ近在の評判になったという。同じ津軽出身の綾櫻を慕って上京、出羽海部屋に入門して1925年1月場所に綾櫻に因んだ「綾若」の四股名で初土俵を踏んだ。綾櫻や大ノ里らの指導を受け、入門から5年後の1930年5月場所で十両に昇進した。
加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1… 加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1986年1月3日)は、新潟県出身の俳人。本名チヨセ。旧姓・矢野。東頸城郡安塚(現上越市)生。1929年、加藤楸邨と結婚。1931年、句作をはじめ「若竹」「馬酔木」に投句。1940年、楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。1954年、池上不二子、柴田白葉女らと「女性俳句」を創刊、編集に携わる。句集に『冬萌』『朱鷺』『太麻由良』『夢たがへ』『飛燕草』『頬杖』がある。 1986年1月3日没、墓所は東京都世田谷区の九品仏浄真寺。
稲葉 修(旧字体: 稻葉 修、いなば おさむ、1909年〈明… 稲葉 修(旧字体: 稻葉 修、いなば おさむ、1909年〈明治42年〉11月19日 - 1992年〈平成4年〉8月15日)は、日本の政治家、文部大臣(第94代)、法務大臣(第34代)、衆議院議員(14期)。法学博士。 兄の稲葉圭亮も政治家で衆議院議員だった。長男は元衆議院議員の稲葉大和。 1909年11月19日、現在の新潟県村上市に生まれる。村上中学、旧制山形高校といずれの学校でもいわば武勇伝(中学では生徒会長として祭りの日に学校を休みにしろと同盟休校を主導したため、高校ではカンニングが発覚したため)での中途退学を経て、1936年中央大学法学部独法学科を卒業。1940年中央大学大学院を修了。1945年中央大学教授に就任。
山本 三郎(やまもと さぶろう、1909年(明治42年)11… 山本 三郎(やまもと さぶろう、1909年(明治42年)11月17日 - 1997年(平成9年)10月15日)は、日本の建設官僚、経営者。工学博士。建設事務次官などを歴任した。 山梨県に生まれる。1933年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同年に内務省土木局に就職。関東地方建設局内の各所長などを経て、1956年、建設省河川局長、1960年、建設省技監、1961年、建設事務次官を歴任。1963年に退官した。同年、土木学会会長( - 1964年)に就任。 1964年、三井港湾開発社長となる。1974年、水資源開発公団総裁に就任し、1982年まで在任した。1997年死去。享年87。 治水分野で活躍し、特定多目的ダム法や海岸法、地すべり等防止法、治山治水緊急措置法の制定や、1963年に新河川法が制定される際に中心的な役割を果たした。
牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年〈明治42年〉11月… 牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年〈明治42年〉11月16日 - 1984年〈昭和59年〉12月31日)は、日本の外交官。位階は従二位。 対外経済担当大臣(福田赳夫改造内閣)、在アメリカ合衆国日本国特命全権大使、外務事務次官、外務審議官、在カナダ日本国特命全権大使などを歴任した。世界和平連合会発足当時の理事。祖父は牛場卓蔵。兄に近衛文麿の秘書官を務めた牛場友彦がいる。弟は慶應義塾大学医学部教授で、国家公安委員会委員を務めた牛場大蔵。 1909年、兵庫県にて生まれる。東京府立一中、第一高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、外務省に入省。 入省後、第二次世界大戦敗戦まではドイツ畑を歩む。
栗山 良夫(くりやま よしお、1909年〈明治42年〉11月… 栗山 良夫(くりやま よしお、1909年〈明治42年〉11月16日 - 1988年〈昭和63年〉1月13日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(3期、日本社会党)。 岐阜県出身。1930年(昭和5年)浜松高等工業学校電気科卒業。東邦電力に入り、戦後、中部電力労働組合委員長、電産協議会議長に就任する(いずれも初代)。 1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙において愛知県地方区から日本社会党公認で立候補して初当選する(6位当選)。1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙から全国区に転じ、2回当選した。この間、参議院電力問題に関する特別委員長、同労働委員長を歴任、社会党内では中央執行委員、党統制委員、愛知県連会長などを務めた。
まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 20… まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 2014年〈平成26年〉2月28日)は、日本の詩人。作詞家。本名は石田 道雄(いしだ みちお)。25歳のときに北原白秋にその才能を認められた。詩作りは20代から始め、以来生涯にわたって詩を作り続けた。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。表現の前に存在があるという意味で「存在の詩人」とも称された。 山口県都濃郡徳山町(のちの徳山市、現在の周南市)の生まれ。幼い頃に父が仕事の都合で台湾へ渡り、さらにまどが5歳の時に母がまどの兄と妹を連れて同地に移住したため4年ほどの間、祖父と2人での生活を送っている。
マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月… マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月15日 - 昭和32年(1957年)12月9日)は、日本の映画プロデューサー。「日本映画の父」として知られる牧野省三の第六子(次男)であるが、母方の姓を継いだので本名は多田 光次郎(ただ みつじろう)である。子役時代の芸名は牧野 光次郎、別名として多田 満男、牧野 満男、マキノ 満男がある。父の没後のマキノ・プロダクション御室撮影所総務部長、日活京都撮影所製作部次長、同多摩川撮影所企画部長、満洲映画協会娯楽映画部長、東横映画撮影所長、東映東京撮影所長、同社専務取締役製作部長を歴任した。 1909年(明治42年)11月15日、京都市西陣に生まれる。
大島 里喜(おおしま りき、1909年11月15日 - 19… 大島 里喜(おおしま りき、1909年11月15日 - 1986年)は、日本の歌手(民謡歌手)。本名は大久保 里喜(おおくぼ りき)。 大島里喜は、東京都・伊豆大島・大島町の民謡「大島節」や「あんこ節」の歌い手、第一人者で、大島節を日本全国に広げ、伊豆大島の観光資源化に寄与貢献した。また、大島民謡という郷土芸能・郷土文化を、後世に口承・伝承する役目を担った。大島御神火太鼓を創始したのも大島里喜である。 1909年(明治42年)、11月15日、大島里喜(本名・大久保里喜)は、東京都伊豆大島・元村(現在の大島町・元町)に生まれる。父・大久保虎吉、母・柳瀬志げ(伊豆大島志考記載)。 1925年(大正14年)、唄の神様と言われた柳瀬シズに唄を勧められ、大島民謡を本格的に習い始める。
坪川 信三(つぼかわ しんぞう、1909年(明治42年)11… 坪川 信三(つぼかわ しんぞう、1909年(明治42年)11月13日 - 1977年(昭和52年)11月20日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。 自由民主党衆議院議員(10期)、福井市長(1期)、建設大臣、総理府総務長官、沖縄開発庁長官を歴任した。福井県出身。 1909年11月13日、福井県足羽郡社村種池(現・福井市種池1丁目)に生まれる。 1924年3月社村江守尋常小学校高等科卒業。1929年3月福井師範学校(現・福井大学教育学部)卒業。 北京で日本居留民の教育に携わり,のち湯沢三千男内相の秘書官となる。 1946年4月、福井県全県区から第22回衆議院議員総選挙に立候補し初当選するも、炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問され、その後逮捕されたが起訴猶予処分となった。
芳武 茂介(よしたけ もすけ、1909年(明治42年)11月… 芳武 茂介(よしたけ もすけ、1909年(明治42年)11月12日 - 1993年(平成5年)8月3日)は、日本のクラフトデザイナー。現在の山形県南陽市出身。 1935年、東京美術学校(のちの東京芸術大学)を卒業後、商工省工芸指導所に勤務。1941年、第4回新文展に「飛鳥置物」を出品して特選を受賞。1945年には日本陸軍向けの囮飛行機の開発に参加した。 1956年、ガラス工芸の佐藤潤四郎らと日本デザイナークラフトマン協会を設立した。1961年、工業技術院産業工芸試験所意匠第二部長を退官、デザイン事務所東京クラフトを設立し、武蔵野美術大学教授に就任。1974年、国井喜太郎賞を受賞。1976年、鋳鉄による皿、鍋で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1980年、勲四等旭日小綬章を受勲。
小森 和子(こもり かずこ、1909年〈明治42年〉11月1… 小森 和子(こもり かずこ、1909年〈明治42年〉11月11日 - 2005年〈平成17年〉1月8日)は、日本の映画評論家、タレント。旧姓は安彦(あびこ)。愛称は「(小森の)おばちゃま」。 東京府東京市赤坂区(今の東京都港区赤坂)に生まれ育つ。実家は裕福であった。小学校は赤坂区内に通い、当時麻布区にあった東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)を卒業した、今風に言えば港区育ちである。高等女学校卒業後、『婦人公論』誌編集部で見習い記者を務める。 関係を持った菊池寛の運営する『映画時代』誌編集部へ移り、さらに京都で作家の川口松太郎の愛人生活を送るようになる。その後、神戸にあったイギリスの船舶会社『P&O』の日本支店で会社員生活を送る。
飯田 しづえ(いいだ しづえ、1909年11月10日 - 2… 飯田 しづえ(いいだ しづえ、1909年11月10日 - 2003年3月30日)は、日本の政治家、市民活動家。大阪府内初の女性市議会議員として、1955年から7期、無所属の豊中市議会議員を務めた。 大阪府大阪市出身。大阪市電の車輌課の技手だった父松田信八、母志なの長女として生まれる。母方の姓である「中村」を継いで祖父の養女となった。1922年、大阪府立梅田高等女学校(1923年に移転し大手前高等女学校と改称)に入学、当時は女子が小学校を卒業して女学校へ行くことは珍しかったが、勉強好きの母の「受けるだけ受けさせてみたら」の一言で受験がかなったという。 女学校在学中に、新教育運動の流れをくむ国語教師や英語教師の影響を受けて映画や芝居に興味を持ち、次第に社会主義思想にも関心を寄せるようになった。
榊原 金之助(さかきばら きんのすけ、1909年11月9日 … 榊原 金之助(さかきばら きんのすけ、1909年11月9日 - 1983年3月12日)は、日本の新聞記者、政治家。『東海新聞』(『東海愛知新聞』の前身)の創立者の一人。東海新聞社の社長を26年間務めた。また、愛知県議会議員を2期務めた。 愛知県額田郡常磐村大字大柳(現・岡崎市大柳町)に生まれる。祖父の事業の失敗から岡崎市の中心部に一家は移住。文選工見習いをしながら家計を助け、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業。 1915年(大正4年)春、竹内京治が社主を務めていた日刊紙『岡崎朝報』に入る。やや遅れて入社したのが太田光二であった。太田は戯作的色合いの強かった同僚記者とは一線を画し、「時事漫談」という硬派の文章を執筆していたという。
黒田 俊夫(くろだ としお、1909年11月8日 - 200… 黒田 俊夫(くろだ としお、1909年11月8日 - 2006年12月30日)は、日本の人口学者。厚生省人口問題研究所所長、日本大学人口研究所所長、日本人口学会会長などを歴任した。 兵庫県姫路市伊伝居生まれ。姫路市立姫路商業学校(現兵庫県立姫路商業高等学校)では同級生の柿坪正義(のちに特命全権大使)とともに東京商科大学(現一橋大学)を目指し、勉強し、1931年同大学商学専門部卒業、支那経済事情研究会入会。1933年東京商工会議所入所。1936年日本大学商経学部経済学科卒業。1939年上海中支那軍票交換用物資配給組合入所。1947年厚生省人口問題研究所入所。1953年東京商科大学専攻科修了。1961年資源調査会専門委員。
久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 20… 久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 2004年1月1日)は、日本の化学者。理学博士。大阪市立大学名誉教授。有機化学の権威。日本化学会名誉会員。 鹿児島県鹿児島市出身。鷹師町で生まれて1914年に市内の上竜尾町に転居し、鹿児島市立大龍小学校を出る。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科甲類を1929年に卒業。東北帝国大学理学部化学科で真島利行に師事して1932年に卒業し、東北大の助手となって藤瀬新一郎の下で研究に従事。1936年に大阪帝国大学理学部小竹無二雄研究室の助手に転じて、1939年に大阪大学助教授。同年「白茶に含まれるフラパノール、アンペロプチンの構造研究」で理学博士。
近藤 豊(こんどう ゆたか、1909年(明治42年)11月8… 近藤 豊(こんどう ゆたか、1909年(明治42年)11月8日 - 1994年(平成6年)5月24日)は、日本の建築学者。京都市生まれ。 古建築の研究者で、古建築の細部の意匠や文様を分類した。 中学生の時より京都帝大教授の天沼俊一に師事し、天沼とともに日本・朝鮮の古建築の多数の写真を撮影した。 1940年に京都大学大学院を卒業。京都大学工学部建築学教室嘱託を経て、滋賀県立短期大学建築科教授、大阪教育大学家政学部教授、摂南大学工学部建築科主任教授などを歴任。 一心寺本堂(大阪府大阪市)、明王院多宝塔(岡山県浅口市)など多数の建築の再建における設計監督も務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 198… 野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 1987年4月30日)は、日本の国文学者。号は般庵。京都大学名誉教授。専門は近世日本文学で、井原西鶴研究の第一人者。 大阪府出身。旧制浪速高等学校を経て、1933年、京都帝国大学国文科卒業。藤井乙男に師事。1949年、京都大学助教授となり、1951年、教授に昇任した。 1973年、定年退官し名誉教授、皇學館大学教授を1983年まで務めた。1981年勲二等瑞宝章受章。1987年4月30日叙正四位。 1974年、藤本箕山の『色道大鏡』を刊行した。実証的な学風で知られ、井原西鶴や近松門左衛門や曲亭馬琴の研究においても成果を残している。終生、羽織はかま姿で教壇に立ち、文人の風格を漂わせる名物教授だった。
上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991… 上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991年11月23日)は、日本の俳優。戦前戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人である。本名は池端 清亮(いけはた きよあき)。
岩崎 信彦(いわさき のぶひこ、1909年11月7日 - 1… 岩崎 信彦(いわさき のぶひこ、1909年11月7日 - 1987年8月25日)は、日本の経営者。東京都出身。 1933年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に住友合資に入社。1948年に住友機械工業(のちの住友重機械工業)に転じ、1955年5月に取締役に就任し、1959年11月に常務、1964年5月に専務を経て、1969年6月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1976年6月には相談役に就任。 1987年8月25日心不全のために死去。77歳没。
井川 伊勢吉(いかわ いせきち、1909年〈明治42年〉11… 井川 伊勢吉(いかわ いせきち、1909年〈明治42年〉11月7日 - 1990年〈平成2年〉7月4日)は、日本の実業家。大王製紙創業者。幼名高助。大王製紙前会長井川意高の祖父。 1943年(昭和18年)大王製紙設立。1981年(昭和56年)県功労賞。1984年(昭和59年)伊予三島市名誉市民。1986年(昭和61年)愛媛放送賞受賞、同年勲二等瑞宝章。 井川伊勢吉は、幼名高助といった。チビだったため、低助のアダ名がついた。伊勢吉の経営者としてのスタートは、戦時下という特殊な事情もあって苦難の連続であったが、苦労を苦労としない不屈の精神力と決断力が今日を築いたといえる。 伊勢吉について、地元商店街の関係者によると「創業者の井川伊勢吉氏は、身長が百五十センチに満たない小柄な人でしたが、働き者でね。
浅村 廉(あさむら きよし 1909年11月6日 - 199… 浅村 廉(あさむら きよし 1909年11月6日 - 1994年7月6日)は、日本の経済企画官僚。 東京府立一中、第一高等学校文甲を経て、1935年、東京帝國大学法学部を卒業。台湾銀行入行。高等文官試験行政科合格を経て、朝鮮総督府入庁。財務局勤務などを経て、経済企画庁総合開発局長。その後、道路公団副総裁を経て、1968年4月から1977年9月まで住宅金融公庫に総裁としてその椅子にあった。1980年4月、勲二等旭日重光章を受章。