福本 万一郎(ふくもと まんいちろう、1947年1月3日 -… 福本 万一郎(ふくもと まんいちろう、1947年1月3日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
福島県:66人
福本 万一郎(ふくもと まんいちろう、1947年1月3日 -… 福本 万一郎(ふくもと まんいちろう、1947年1月3日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
矢部 祐一(やべ ゆういち、1946年8月24日 - 201… 矢部 祐一(やべ ゆういち、1946年8月24日 - 2011年4月3日)は、福島県出身の元プロ野球選手(内野手)。 田村高校では投手で四番打者。1964年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東北大会準決勝に進出するが、加藤俊夫らがいた仙台育英に敗退。 高校卒業後はオール常磐(旧常磐炭鉱)に進み、バッティングを買われ三塁手に転向した。1966年の都市対抗で準々決勝に進出するが、日本石油の平松政次に抑えられ敗退。1968年の都市対抗では、富士鉄釜石に補強されて出場した。ノンプロでの通算成績は37試合、144打数48安打、打率.333、10本塁打。チームメートに阿部良男がいた。 1967年のドラフト会議で南海ホークスから7位指名を受けるが拒否。
石幡 信弘(いしはた のぶひろ、1944年7月29日 - )… 石幡 信弘(いしはた のぶひろ、1944年7月29日 - )は、福島県福島市出身の元プロ野球選手(投手)。 福島商業高を中退し、社会人野球の清峰伸銅へ入団。1964年から補強選手も含めて3回連続都市対抗野球大会に出場した。チーム解散に伴い、1966年に富士重工業へ移籍。4回目の出場となる1969年の都市対抗野球大会では、準決勝で大昭和製紙の三輪田勝利と投げ合い1対0で撃破。電電関東との決勝戦も6回まで1対0とリードするが、豪雨で再試合となる。再試合でも9回裏まで1対0と優勝寸前であったが、四球を発端にまさかの逆転負けを喫した。この大会で石幡は全試合に先発し、左腕からの大きなカーブを武器に好投、久慈賞を獲得して注目される。
近藤 重雄(こんどう しげお、1942年10月15日 - )… 近藤 重雄(こんどう しげお、1942年10月15日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 学校法人石川高等学校では、1960年夏の甲子園県予選で準決勝(東北大会代表決定戦)に進むが、双葉高に延長11回敗退。この予選では7試合64回を投げ、夏の地方大会記録となる110三振を奪った。 卒業後は日本コロムビアへ入社。1964年の第35回都市対抗野球大会では決勝まで進出し、日本通運の田中章と投げ合うが惜敗。準優勝に終わったが、大会での活躍ぶりが認められ久慈賞を受賞した。同年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された、社会人野球選抜と米国大学選抜との試合にも登板している。
荒川 巌(あらかわ いわお、1942年〈昭和17年〉4月30… 荒川 巌(あらかわ いわお、1942年〈昭和17年〉4月30日 - )は、福島県会津若松市出身の元プロ野球選手(投手)。 福島県立会津工業高等学校では投手として活躍。1959年秋季東北大会県予選では、耶麻野沢高を相手に1試合26奪三振を記録した。またこの試合で15連続奪三振を記録している。大会では県予選準決勝に進出するが田村高に惜敗。その後は清峰伸銅へ進んだ。 1962年に国鉄スワローズに入団。1年目から一軍出場を果たすが定着はできなかった。1963年は30試合に登板、7月からは先発としても起用される。10月4日には大洋を相手に先発、6回を1失点に抑え初勝利を記録する。しかしその後は一軍試合出場が数試合に留まり、1966年に読売ジャイアンツに移籍する。
田中 裕康(たなか ひろやす、1939年4月4日 - 201… 田中 裕康(たなか ひろやす、1939年4月4日 - 2017年8月3日)は、福島県出身のプロ野球選手。 磐城高校から中央大学を経て1962年に中日ドラゴンズへ入団。1965年に引退。
柳田 利夫(やなぎだ としお、1936年8月18日 - )は… 柳田 利夫(やなぎだ としお、1936年8月18日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。 内郷高校(現:いわき総合高校)から常磐炭鉱を経て、1958年に大毎オリオンズに入団。 1959年には一軍に定着、二塁手として14試合に先発出場した。 1960年は開幕直後に遊撃手の八田正が故障欠場、新監督の西本幸雄に抜擢され、一番打者、遊撃手として起用される。この年の5月下旬に打撃練習をしようとグラウンドを通っていると、気づかぬまま素振りを続けていた榎本喜八のバットが柳田の顎を直撃。柳田はその場に流血しながら倒れこみ、その姿を見た榎本は自身の責任を感じ試合数分前まで顔面蒼白だったという。
高橋 幸一(たかはし こういち、1935年6月14日 - )… 高橋 幸一(たかはし こういち、1935年6月14日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手。 原町高校から神奈川大学へ進学するも中退し、1955年に毎日オリオンズへ入団。同年退団。
福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 19… 福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 1988年11月29日)は、福島県いわき市出身のプロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 磐城高校、常磐炭坑、専修大学を経て、1956年に南海ホークスへ投手として入団。3年目の1958年には外野手へ転向し、主に左腕対策として起用され、1960年には自己最多の6本塁打をマーク。1961年に27試合、1962年には10試合に先発出場を果たす。長打力と強肩が売りで、巨漢で怪力の福田は打撃練習こそ打球が凄まじく、タイヤを叩く打撃練習では軸のなる支柱を折ってしまったりするが、肝心の試合になると「扇風機」と仇名がつくほどカーブが全く打てなかった。
小野 正一(おの しょういち、1933年9月30日 - 20… 小野 正一(おの しょういち、1933年9月30日 - 2003年3月19日)は、福島県いわき市出身のプロ野球選手(投手)。 日本プロ野球 (NPB) で通算184勝155敗の成績を残し、NPB歴代13位(2021年終了時点)の通算2244奪三振を記録した、球史に名を残す速球投手。妻は元大映女優の仁木多鶴子。 実家が材木屋で、子どもの頃から30㎏から40㎏にもなる材木を担いでいたという。磐城高校では、1950年秋季東北大会県予選準決勝に進むが川俣高校に敗退。卒業後は社会人野球の常磐炭鉱(清峰伸銅)に入団。監督の谷口五郎から、背が高く的が大きいため内野手が投げやすいだろうと判断されて、当初は一塁手を務める。
鈴木 隆(すずき たかし、1933年9月22日 - 2024… 鈴木 隆(すずき たかし、1933年9月22日 - 2024年5月31日)は、福島県田村郡三春町出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 田村高卒業後は中央大学に進学し、伊藤芳明・穴吹義雄と同期になり、投手と外野手の2役をこなす。東都大学リーグでは1953年春季に優勝を飾り、同年の大学全日本選手権は決勝で立大に敗れて準優勝に終わる。 大学卒業後は川崎トキコに入社し、チームメイトに久保吾一(国鉄)がいた。社会人時代から評判の左腕で、1956年から日本コロムビアの補強選手として都市対抗に2年連続出場。 1957年秋にデトロイトで行われた第3回アマチュア世界野球大会に日本代表として参加し、4試合連続リリーフで優勝に導くと共に大会MVPを獲得すると、メジャー球団のスカウトからも注目を浴びる。
小野 拓(おの ひろし、1932年5月14日 - )は、福島… 小野 拓(おの ひろし、1932年5月14日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手。
宍戸 善次郎(ししど ぜんじろう、1925年1月10日 - … 宍戸 善次郎(ししど ぜんじろう、1925年1月10日 - 没年不明)は、福島県出身のプロ野球選手。 旧制福島中学、全福島日東紡、法政大学を経て1950年に創設された近鉄パールスへ入団。同年9月17日に大阪球場で初めて開催されたプロ野球公式戦(対阪急戦)で球場第1号となるホームランを打っている。 1951年は開幕戦(対南海戦)に9番ショートで先発出場した。同年に退団し、日石カルテックスでプレー。その後は日本石油仙台支店で総務部長を務めていた。 現役時代はメガネがトレードマークの選手だった。
阿部 八郎(あべ はちろう、1925年1月6日 - 没年不明… 阿部 八郎(あべ はちろう、1925年1月6日 - 没年不明)は、福島県出身のプロ野球選手(投手、左投左打)・解説者。 小学校出のプロ野球選手。福島県熱海小学校から社会人野球の全福島日東紡へ入団。在籍時に阪急ブレーブスなど複数球団のスカウトマンだった宇高勲にスカウトされ、1949年に阪急ブレーブスへ入団。 1949年は2勝に終わる。同年オフのセ・パ両リーグ分立に伴って、セ・リーグの新球団である西日本パイレーツの選手集めのため、宇高が阪急の選手の大量引き抜きを行う。ここで、個人的に仲が良かったセ・リーグの鈴木龍二から「(引き抜きに)用心しろ」と忠告を受けた阪急監督の浜崎真二は1日中阿部に付いて離れなかったため、阿部は引き抜きを受けず阪急に留まった。
稲川 東一郎(いながわ とういちろう、1905年〈明治38年… 稲川 東一郎(いながわ とういちろう、1905年〈明治38年〉10月25日 - 1967年〈昭和42年〉4月18日)は、福島県生まれの高校野球指導者。旧制群馬県立桐生中学校(現・群馬県立桐生高等学校)卒業。愛称は「桐生のとうちゃん」。 1905年(明治38年)、福島県棚倉町に生まれる。1915年(大正4年)に群馬県桐生市へ移り住む。父・藤吉は桐生市会議員、群馬県会議員、桐生中央信用金庫初代理事長などを務めた。 1921年(大正10年)、旧制桐生中学4年生の時に硬式野球部を創設した。1923年(大正12年)に卒業したのち、同校野球部の指導に当たる。自宅を野球道場に改築し、テニスボールによる打撃練習、先進的なウエイトトレーニングの導入、バント・盗塁を駆使する戦術を導入。
吉江 一行(よしえ かずゆき、生年不明 - 1945年10月… 吉江 一行(よしえ かずゆき、生年不明 - 1945年10月3日) は、日本の元アマチュア野球選手。早稲田大学野球部で外野手として活躍した人物である。福島県出身。 磐城中学(現・福島県立磐城高等学校)から1941年早稲田大学に入学、翌1942年より東京六大学リーグ戦に出場した。 1943年10月16日には出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦と呼ばれる試合)に5番・中堅手として出場し、10-1の勝利に貢献した。翌1944年に笠原和夫の後を受けて、第35代早稲田大学野球部主将に就任。既に戦争の激化のため野球の試合は行われなくなっていたが、元監督飛田穂洲は「戦争が終わると必ず野球は復活する」との信念の下、当時のマネージャーだった相田暢一に野球用具の管理を任せていた。