粂原 圭太郎(くめはら けいたろう、1991年6月13日 -… 粂原 圭太郎(くめはら けいたろう、1991年6月13日 - )は日本の実業家、作家、教育家、競技かるた選手。群馬県安中市観光大使。 群馬県立中央中等教育学校卒業後、京都大学経済学部経済経営学科へ進学。専攻はマーケティング。2015年 大学卒業。京都大学大学院法学研究科法曹養成専攻(法科大学院)へ進学。大学在学中の2014年に日本テレビ系列「最強の頭脳 日本一決定戦! 頭脳王」に出演。以降3年連続で出演。 競技かるたを始めたのは小学校5年生の頃。きっかけは小学校3年生の頃に学校の宿題で自由勉強ノートなるものがあり、実家にあった「漫画百人一首」をまとめたこと。そのとき初めて百人一首に触れた。当時は野球(エースで4番)とテニスもやっており、テニスは関東大会に出場する程の腕前だったが、二つを差し置いて、かるたにのめり込むようになった。
葉一(はいち、1985年3月11日 - )は、日本の教育者、… 葉一(はいち、1985年3月11日 - )は、日本の教育者、YouTuber。YouTubeにおいて、小学3年生から高校生に向け授業動画を配信している。 教育系YouTuberとして活動しており、教員とも塾講師とも異なる、第三の場所の次世代の教育者として注目されている。 動画では、基本的にテロップや効果音を含む編集は行なっていない。また途中でミスをすれば最初から撮り直す方式で動画制作を行なっている。その撮影手法から、動画の時間は平均10分程度に対して、撮影から投稿までは短くても3時間、長いときは3日費やすこともある。なるべく疑問点を残さない授業を心がけており、内容としては繰り返し見ても飽きないように雑談をしないこと、仕組みなど概念よりも解法を教える、教える学年にあわせ話す速度と言葉遣いを大きく変える、内容に集中してもらうため地味な服装を心がけ結婚指輪も外す、塾講師時代に考案した男女両方に好まれる文字のフォントを用いる、ずれがないよう黒赤青の3色のペンを使って定規で一文字ずつ計りながら綺麗に板書することなどを意識している。
栗原 正峰(くりはら せいほう、本名:栗原 正博、1976年… 栗原 正峰(くりはら せいほう、本名:栗原 正博、1976年 - )は、日本の書家であり教育者である。群馬県伊勢崎市出身。現日会同人、書道グループ風草舎代表。 群馬県を中心に活動した祖父の雅号を継ぎ、2代目栗原正峰として活動している。日本、ヨーロッパ、アメリカを中心に活動。 書家であるが、教育者でもある。高校で教鞭を執っているが、芸術の教科ではない。中学、高校などで講演活動を行っている。
水落 芳明(みずおち よしあき、1964年(昭和39年)6月… 水落 芳明(みずおち よしあき、1964年(昭和39年)6月12日 - )は、日本の教育学者、教育者。上越教育大学教授。専門は臨床教科教育学・教育工学。 群馬県生まれ。群馬県立沼田高等学校を経て、1988年3月、都留文科大学文学部初等教育学科を卒業。2003年3月に上越教育大学大学院学校教育研究科を、2008年3月に兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科を修了。同年、博士(学校教育学)(兵庫教育大学)。 1988年から2008年までの20年間、群馬県と新潟県の小中学校で教鞭を執った後、2008年4月に上越教育大学教職大学院准教授となる。2013年4月に教授、2013年11月より学長補佐、2017年4月からは学長特別補佐をつとめている。
藤掛 正史(ふじかけ まさし、1964年3月17日 - )は… 藤掛 正史(ふじかけ まさし、1964年3月17日 - )は、日本の社会教育者。中央区ユネスコ協会初代会長。日本イノベーション融合学会第3代理事長、第2代会長。群馬県桐生市出身。雅号は藤懸庚汪(ふじかけ こうおう)。 1964年 群馬県桐生市生まれ。佐野日本大学高等学校(生徒会長・日本大学総長賞)、日本大学法学部法律学科を卒業後、シンガポール、マレーシア、タイにて工作機械販売会社に勤務。 1960年代初めに石川昭・青山学院大学名誉教授が提唱し、石原慎太郎や竹村健一が協力した「知のオリンピック」に共感。石川昭は髙梨智弘と共に「知のオリンピック」を柱にしたさまざまな経営学団体を創設したため、これらの団体に参加。
大島 保彦(おおしま やすひこ、1955年6月15日 - )… 大島 保彦(おおしま やすひこ、1955年6月15日 - )は、日本の教育者、翻訳家。駿台予備学校英語科専任講師。東大進学塾エミール英語科講師。 群馬県立前橋高等学校卒業、東京大学文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学、修士論文は『宗教比較の可能性 - ニコラウス・クザーヌスの場合』。 千葉大学、東海大学などで哲学の非常勤講師も務める。 2006年6月には大学英語教育学会関東支部大会の全体シンポジウム「なぜ英語力は低下したのか?」に参加している。
本庄 豊(ほんじょう ゆたか、1954年 - )は、日本の教… 本庄 豊(ほんじょう ゆたか、1954年 - )は、日本の教育者、日本近現代社会運動史研究者、戦後社会史研究者である。色川大吉の民衆史的方法に学びつつ、ノンフィクション作家・佐野眞一に私淑し、歴史学の可能性について著作や雑誌論文で提唱している。 1954年(昭和29年)群馬県碓氷郡松井田町(現:安中市)に生まれる。群馬県立前橋高等学校、東京都立大学卒。国家公務員、地方公務員などを経て、京都府で公立中学校の教員となる。その後、立命館宇治中学校・高等学校教諭に転任。この間、教職員組合専従、歴史教育者協議会副委員長(2022~24年)など。現在、社会文学会理事、日中友好協会宇治支部長、宇治城陽久御山地区労働組合協議会顧問、宇治高齢者事業団監事、立命館大学授業担当講師。
入澤 孝一(いりさわ こういち、1949年〈昭和24年〉3月… 入澤 孝一(いりさわ こういち、1949年〈昭和24年〉3月8日 - )は、日本の教育者、スポーツ科学者、スピードスケート指導者である。元スケート日本代表ヘッドコーチ。冬季五輪メダリストの黒岩彰、黒岩敏幸、佐藤綾乃らを育て、日本スケート界の名伯楽として知られる。高崎健康福祉大学保健医療学部理学療法学科教授。専門は運動科学。群馬県スケート連盟副会長、群馬県スポーツ協会強化委員長。元群馬県スケート連盟理事長。 群馬県吾妻郡長野原町の生まれ。 群馬県立渋川高等学校普通科、中京大学体育学部に学ぶ。中京大から学士(体育学)を受ける。 大学を出た後教師になり、群馬県吾妻郡嬬恋村立西中学校、群馬県立嬬恋高等学校に赴任。
若林 宏宗(わかばやし ひろむね、1944年1月 - )は、… 若林 宏宗(わかばやし ひろむね、1944年1月 - )は、日本の教育者。公立高校校長、太田情報商科専門学校および太田自動車整備専門学校校長、駒澤大学非常勤講師を歴任。 群馬県太田市生まれ。群馬県立太田高等学校、駒澤大学文学部地理学科卒業。同大学大学院修士課程修了。同大学院博士課程中退。群馬県立高校教諭(地理担当)となり4校勤務を経て県教育委員会事務局課長補佐。教頭、校長、県総合教育センター部長を経て県立桐生高校校長。太田情報商科専門学校・太田自動車整備専門学校の校長、駒澤大学文学部地理学科非常勤講師などを務める。2016年11月に瑞宝双光章を受章。 著書に「どろよけ人生此処にあり」「南極大陸まで」がある。
宮下 久夫(みやした ひさお、1927年〈昭和2年〉 - 1… 宮下 久夫(みやした ひさお、1927年〈昭和2年〉 - 1997年〈平成9年〉1月)は日本の教育者(国語教師)。太郎次郎社のロングセラー『漢字がたのしくなる本』シリーズの共著者の一人として知られる。群馬県生まれ。 利根郡沼田町(現在の沼田市)坊新田に生まれる。旧制沼田中学校を卒業後、東京第三師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業。1949年(昭和24年)より群馬県内で小学校教諭としての道を歩み始める。のち、子どもの間違いからヒントを得た文部省の指導要領にはない独自の「漢字教科書」を使った授業が、次第に注目を集めるようになる。 宮下は子どもたちの「修学旅行のときの生き生きとした顔が、教室ではどうして死んでしまうのだろう。
桑原 三郎(くわばら さぶろう、1926年12月20日 - … 桑原 三郎(くわばら さぶろう、1926年12月20日 - 2009年1月21日)は日本の教育者、児童文学者、文学博士。日本児童文芸家協会顧問、慶應義塾福澤研究センター顧問。 人形劇『きかんしゃトーマス』の原作となった絵本『汽車のえほん』の翻訳者のひとり。 1926年、群馬県利根郡池田村大字奈良(現沼田市奈良町)に桑原武一郎、志げの3男として生まれる[要出典]。父は誕生4ヶ月前に腹膜炎で急死、母も生後8ヶ月足らずで脳溢血で死亡、祖母そめとともに乳母杉野そうのもとで育った[要出典]。12歳年上の兄真一郎を父親代わりに、5歳年上の姉富子が教育係になって幼少期を過ごした[要出典]。その姉も18歳の時、災害死して兄1人ともう1人の姉朝子が記憶に残る兄弟となったためか、兄弟愛は強かった[要出典]。
山田 修(やまだ おさむ、1921年〈大正10年〉5月8日 … 山田 修(やまだ おさむ、1921年〈大正10年〉5月8日 - 2017年[要出典])は、日本の教育者、教育評論家。 群馬県多野郡藤岡町(現:藤岡市)出身。農家の二男として生まれる。 美土里小学校尋常高等小学校卒業後、高津仲次郎の設立した多野実業公民学校に入学し農業や養蚕を学ぶも月謝が払えず2年で中退、月謝が不要な熊谷陸軍飛行学校に入り、1938年卒業後は教官を打診されていたが、中国戦線を志願し、41年まで北京の南苑飛行班に属した。整備班長はのちに東大野球部監督となる神田順治中尉だった。乗機は九七式軽爆撃機や九七式重爆撃機で、上海や南京とを行き来して内地から送られてきた機体の回送を任務としており、南寧作戦では物資輸送に従事したこともある。
石坂 富司(いしざか とみじ、1919年8月17日 - )は… 石坂 富司(いしざか とみじ、1919年8月17日 - )は、日本の教育者。東京都立八王子東高等学校初代校長。群馬県沼田市出身。勲四等瑞宝章。専門分野は歴史。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月2… 斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月20日 - 1981年〈昭和56年〉7月24日)は、日本の教育者。群馬県佐波郡芝根村(現・玉村町)生まれ。群馬師範学校(現・群馬大学共同教育学部)本科第一部卒業。小中学校の教師や群馬県教職員組合常任委員(文化部長)を経て、1952年、佐波郡島小学校長となり、11年間、「島小教育」の名で教育史に残る子どもたちの表現力を育てる実践を展開した。計8回開かれた公開研究会には、全国から延べ1万人近い教師、研究者らが参観に来た。 併行して民間教育研究運動にも積極的に携わり、自ら設立に関与した教育科学研究会(教科研)教授学部会や教授学研究の会で現職教員を指導した。
沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30… 沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30日 - 1988年〈昭和63年〉5月5日)は、日本の教育者、政治家。元高崎市長(4期)、群馬県立高崎商業高等学校校長、上武大学副学長。旧姓は反町。位階は従五位。 群馬県群馬郡京ヶ島村大字京目(現・高崎市京目町)に、反町延太郎・チウ夫妻の三男として生まれる。生家の反町家は庄屋の家柄で、父・延太郎は京ケ島村長・群馬県会議員などを務める傍ら実業補習学校を設置するなど教育面に熱心だった。祖父・反町覚哉は群馬県会議員、長兄・反町久弥も群馬県議会議員・京ヶ島村長・群南村長を務めた。 地元の京ヶ島小学校を経て、1926年(大正15年)旧制高崎商業学校を卒業。
金子 尚一(かねこ ひさかず、1900年〈明治33年〉12月… 金子 尚一(かねこ ひさかず、1900年〈明治33年〉12月12日 - 1997年〈平成9年〉)は、日本の英米文学者、教育者、立教大学名誉教授、立教大学文学部教授・予科教授・学生部長。立教大学オーケストラ部長を務めたほか、立教大学英語会(ESS)の支援も行うなど、学生らの活動にも深く携わった。 群馬県前橋市出身。1919年旧制前橋中学校卒。 1925年に立教大学文学部英文学科を卒業し、ただちに立教大学文学部助教授に就任。同年よりアメリカに留学してケニオン大学で文学修士(MA)を取得する。 1929年に立教大学予科教授に就任し、その後文学部教授も兼任し、予科では英作文と英訳を、文学部では英文学を講じた。
伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、19… 伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、1900年〈明治33年〉6月20日 - 1982年〈昭和57年〉4月26日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。柔道八段。 群馬県前橋市向町(現住吉町)で、食品製造業・伊藤勝次郎、かめの三男として生まれる。1915年(大正4年)前橋久留万高等小学校を卒業、同年関口孝五郎の弘道館に入門し柔道を習う。1920年(大正9年)群馬師範学校本科一部を卒業し、久留万高等小学校訓導に就任。その後、東京高等師範学校に入学し、1924年(大正13年)同校本科を卒業した。 1924年、神奈川県立湘南中学校(現神奈川県立湘南高等学校)教諭に就任し、横浜高等商業学校嘱託を務めた。
飯島 権蔵(いいじま ごんぞう、1889年6月3日 - 19… 飯島 権蔵(いいじま ごんぞう、1889年6月3日 - 1974年9月6日)は、日本の教育者。川崎市立女子商業学校(後の川崎市立幸高等学校の前身のひとつ)校長、松本商業学校校長、松商学園短期大学(後の松本大学松商短期大学部)初代学長などを歴任した。 群馬県に生まれ、前橋中学校に学ぶ。1912年に神戸高等商業学校専攻部を卒業し、1914年には東京高等商業学校(後の一橋大学の前身のひとつ)専攻部銀行科を卒業して、商社に勤務した。 後に、教育界に転じ、大阪市立西区商業学校などを経て、1944年に川崎市立女子商業学校校長となった。その後、東京高商の同窓であった糸魚川祐三郎の要請を受け、1947年に松本商業学校第5代校長となり、戦後の混乱期における学制改革への対処と経営の立て直しにあたった。
福田 啓作(ふくだ けいさく、1878年〈明治11年〉 - … 福田 啓作(ふくだ けいさく、1878年〈明治11年〉 - 1969年〈昭和44年〉12月27日)は、昭和期に活躍した教育者、郷土史家。邑楽館林地方の郷土史研究のため尽力した。群馬県邑楽郡富永村(現在の邑楽郡千代田町)出身。 1899年(明治32年)に群馬師範学校を卒業後、館林町、西谷田村(現板倉町)の小学校教師を歴任。1913年(大正2年)、多々良村の多々良尋常高等小学校(現館林市立第八小学校)校長となる。1916年(大正5年)には北甘楽郡視学となり、その後は佐波郡豊受村、邑楽郡小泉町、多々良村、館林町の尋常小学校長を歴任した後、1933年(昭和8年)3月に退職した。同年の12月には初代の館林町立図書館館長に就任し、1946年(昭和21年)3月まで同職を務めた。
角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月… 角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月28日 - 1964年〈昭和39年〉11月29日)は、群馬県出身の日本文化の研究者・教育者。コロンビア大学に日本文化研究所を設立し、日本研究コレクションのキュレーターを務めた。日本文学研究者ドナルド・キーンの師として知られる。 1877年(明治10年)1月28日、群馬県勢多郡津久田村(現・群馬県渋川市赤城町津久田)の農家に、父庄作、母ぎんの次男として生まれた。5歳の時父をコレラで失い、祖父の金造と母ぎんに育てられた。1890年4月、群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学したが、1893年10月に退学。 上京して東京専門学校(現・早稲田大学)文学科に入学し、坪内逍遙、アーサー・ロイドの教えを受けた。
遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10… 遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10月2日 - 1946年〈昭和21年〉2月5日)は、日本の思想家、社会学者、教育者。私立巣鴨学園の創設者である。 1874年(明治7年)前橋藩の下級士族・遠藤千次郎、はる夫妻の長男として現在の群馬県前橋市神明町で生まれた。父・千次郎は福澤諭吉の思想に共鳴していた。隆吉は桃井学校に学び、1892年(明治25年)群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業した。第一高等学校に進学し、1896年(明治29年)に卒業。東京帝国大学文科大学哲学科に進んで、1899年(明治32年)に卒業。同校学長の井上哲次郎、心理学教授・元良勇次郎、外国人教師・ケーベルから強く影響を受けた。
大藤 鋳三郎(だいとう ちゅうさぶろう、1874年8月 - … 大藤 鋳三郎(だいとう ちゅうさぶろう、1874年8月 - 1961年4月7日)は、日本の聖職者、神学者、教育者。日本聖公会司祭、立教女学院第7代理事長、聖路加国際病院理事、学校法人聖路加看護学園(現・聖路加国際大学)理事。 1895年(明治28年)6月25日、立教学校(立教大学の前身校の一つ)を卒業。この時の卒業式は第3回生卒業式と、第4回生卒業式が併せて行われ、第3回生の卒業生には、木村重治、須藤吉之祐らがおり、同期である第4回生の卒業生には、大藤鋳三郎のほか、濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛、ヤマサ醤油社長)、古河倍造、岩佐松太郎(島根出身)、曾根精(福井出身)、中村正路(熊本出身)、白井兵治(福井出身)、菅沼四郎(奈良出身)、鈴木一(千葉出身)らがいた。
石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年… 石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年3月6日) - 1940年(昭和15年))は、日本の実業家・教育家・慈善家・社会事業家。台湾で活躍。台湾初となる私立の図書館「石坂文庫」を創設し、台北州議會議員、基隆夜學會の校長を務めた。「基隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれる。自著『臺灣古代文化の謎』では「圖南」(読みは「となん」であろう)と号した。 石坂荘作は、1870年(明治3年)に日本の群馬県吾妻郡原町(現東吾妻町)で生まれた。原町小学校を卒業後、同地や水戸で漢学を学ぶ。原町小学校教員、近衛工兵中隊隊員を経験する。1896年(明治29年)3月にフィリピンへ向かう途中に立ち寄った台湾で、創刊間もない『台湾日日新報』の記者になった。
鈴木 たま(すずき たま、明治3年〈1870年〉 - 195… 鈴木 たま(すずき たま、明治3年〈1870年〉 - 1958年〈昭和33年〉12月3日)は、日本の教育者。群馬県における女子教育の先駆者のひとり。明治裁縫学校創設者。名は多満子とも。 明治3年(1870年)、前橋に生まれる。 前橋藩士の家柄で、祖父は祐筆を勤めた。父・鈴木福次郎は西南戦争に抜刀隊として従軍して田原坂の戦いで戦功を挙げ、その後は東群馬・南勢多合同郡役所に勤務した。母の名はトワ。 13歳のときに父をチフスで亡くし、さらに母や弟も病死。15歳から前橋の仕立屋で修業ののち、川越に移り裁縫の技術を修練した。また前橋に仙台の松操女学校(現・仙台大学附属明成高等学校)分校ができたため同校で学ぶ。
富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869… 富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869年4月14日)/明治4年7月3日(1871年8月18日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の盲教育者。東京盲唖学校卒業後、日本で最初の病院マッサージ師として勤務し、さらに盲学校教師として鍼灸・按摩の指導に取り組んだ。 明治2年(1869年)3月3日/明治4年(1871年)7月3日、上野国利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)の農家・富岡作次郎、みつの三男(第4子)として生まれる。3・4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる。12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった。1880年(明治13年)3月に園原小学校下等科を卒業し、翌1881年(明治14年)に沼田市馬喰町の深代鷲五郎に入門し、按摩・鍼を習う。
石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 … 石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 - 1956年12月7日)は、日本の実業家、教育者。 1891年12月21日、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールで、体育担当教官ジェームス・ネイスミスによって考案された新スポーツのバスケットボールを初めてプレーした人物。1892年卒業の「一般事業担当主事養成科クラス」18人の学生のひとり。最初に実施されたゲームのスケッチを残している。 1866年(慶応2年)館林藩の藩士・石川喜四郎の三男として生まれる。字(あざな)は、定邦または定国(さだくに)。2歳の時、父が戊辰戦争で戦死。8歳時に母の実家である東京・富ヶ谷へ移り住む。
中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年… 中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年3月9日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月31日)は、日本の倫理学者、教育者。東洋大学6代・7代学長。文部省を相手に論争した哲学館事件で知られる。号に唯我堂。 上野国佐位郡今井村(現・群馬県伊勢崎市赤堀今井町)に、中島鯛三郎(のち泰三郎)・かよの子として生まれる。地元の今井小学校を優秀な成績で卒業して授業生(代用教員)として採用され、師範学校で講習を受け三級訓導補心得となった。その後群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。同年4月帝国大学予備門専修科に入り、校長・杉浦重剛の薫陶を受けた。
塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈186… 塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈1864年1月22日〉 - 大正7年〈1918年〉3月24日)は、日本の政治家、教育家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)。 上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身。父は塩谷真雄。群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後、郷里で教員となる。その後上京し1887年(明治20年)に慶應義塾を卒業。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選。1894年(明治27年)に再選され常置委員となる。
藤生 金六(ふじう きんろく、安政6年8月4日〈1859年8… 藤生 金六(ふじう きんろく、安政6年8月4日〈1859年8月31日〉 - 1907年〈明治40年〉7月13日)は、明治期の日本の教育者・牧師。横浜バンドのメンバーである。 上野国山田郡浅原村(現・群馬県みどり市大間々町浅原)に生まれる。1874年(明治7年)に神奈川県横浜市の英学校・修文館で学び、1875年(明治8年)より、東京語学校等で学ぶ。 1874年秋よりブラウン塾で学びはじめ、S・R・ブラウン、ヘンリー・ルーミス、エドワード・ローゼイ・ミラーより神学と哲学を学ぶ。1877年(明治10年)7月にブラウン塾を卒業して、東京一致神学校で学ぶ。 1879年(明治12年)5月から農商業に従事。1880年(明治13年)新井毫らと盡節社を結成して国会開設運動を展開した。
大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安… 大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安政元年11月28日) - 1909年(明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等。大河内子爵家の一族。 高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1872年(明治5年)3月〜11月東京の尺振八に就き英学修業。1873年(明治6年)1月〜翌年5月横浜在留米国人に就き英語学修業。1874年(明治7年)11月慶應義塾に入塾、1879年(明治12年)7月に学科卒業。
針塚 長太郎(はりづか ちょうたろう、明治4年11月30日?… 針塚 長太郎(はりづか ちょうたろう、明治4年11月30日?(1872年1月) - 1949年(昭和24年)9月21日)は戦前日本の蚕業教育者。群馬県渋川市出身。高等師範学校教授、文部省視学官、上田蚕糸専門学校(信州大学繊維学部)初代校長・名誉教授。 明治4年11月30日?(1872年1月)群馬県群馬郡豊秋村中村22番地の篤農家針塚喜惣治の長男として生まれた。 1878年(明治11年)4月中村小学校に入学、四明尋常高等小学校高等科を経て、1885年(明治18年)3月木檜中学校(群馬県立前橋中学校の前身校)に進学した。 父には農家の跡取りとして厳しく育てられ、母の説得で学校に通うことは許されたものの、家では朝から晩まで農作業に励み、近所では「早やの長さん」として知られた。